月読寺小屋 : つくよみてらこや
皆様からご質問/ご相談を受け付け、できるだけ真面目かつ簡潔に、ときどきふざけながらも、お答えして参ります。ご質問は、
質問フォームからどうぞ。なお過去の質問と回答100問をえらんで収録し小さな文庫本にまとめたものが『
悩みが空っぽになる人生相談』という書名にて発売されています。
Q:大学の第一志望がなかなか決められません。偏差値があまりよくない方なんですが、今からあきらめるのも早すぎですし、関大か甲南大か大手前で今迷ってるんです。
人間はどうして生きているのかということを考える学問に行きたいので心理か人間科学か哲学倫理方向というのは決めてるんですが。。。
A:回答までしばしお待ちくださいませ。
Q:ここを拝読しますと、とても清々しい気分になります。
子どもが2人おり、習い事をさせていますが、困ったことが起きました。
尊敬する先生が新興宗教を信仰されていて、勧誘されてしまったのです。最初は遠慮がちでしたが、私の態度が曖昧なせいか、だんだん具体的に、大胆に勧誘されるようになってます。それ以外は全く問題なく、お人柄も大変良い先生なので、やめさせたくはありません。
どのようにお断りしたらよいものでしょうか。教祖様のすばらしさについて熱弁を振るわれると、言いたい事を言えず思わず飲み込んでしまうのです。
よろしくお願いいたします。
A:回答までしばしお待ちくださいませ。
Q:若者が集まる繁華街で托鉢をなさっているお坊さまを時々見かけます。お布施したいと思いつつも、「どうも、うさんくさい(うそ臭い)なあ」と躊躇してしまいます。他の人達もそう思っているような気がして、そのうさんくさいお坊さまにお布施をしている自分を見られるのが「はずかし」く、お布施をする勇気がありません。
袈裟と傘?を身につけ鈴?を持ち、何やらお経を唱えて立っているお坊さまを見かけたら、本物だと思ってよいのでしょうか?「…臭い」でなく、本当に「うさんくさい」のでしたら善良人をだましている人にはお布施したくありません。
また、お賽銭や街頭募金などは箱にいれるものですので金額を気にせずにいれられますがお布施は小銭などはお坊さまに失礼ではないかと思ってしまいます。気分良くお布施がしたいのです。その心持をお坊さまの立場から教えてください。
A:回答までしばしお待ちくださいませ。
Q:嫌な人や嫌いなものがあってもどういう事でもあまり避けない方が良いでしょうか?
私は囲碁をやっています。それでテレビ棋戦などを見て、嫌な解説者が現れた時に怒怒怒怒…と念じて解消させた方が良いのか、「この対局はそこまで大切なものでもないし見なければ良いや」と思って見なければ良いのか分かりません。
仕事などで嫌な人が現れた場合は解消させる方が効果的な気がしますが、避けれる場合は避けた方が良いのでしょうか?
A:それは、時と場合によって判断したほうがよいことです。
嫌な解説者ていどのことなら、自分の心に生まれた怒りを見つめてサラっと流せるていどの平常心を保ちたいものですね。
他方、わざわざ自分から進んで、嫌な気分に陥りやすいものを見にいったり、聞きにいったり、食べたりするのは無意味な"苦行"になりかねず、危険なことです。
現在の心のレベルでは受け流せないようなことがらに対しても、「立ち向かわなきゃだめだ」と思ってしまうとすれば、「自分は何にでも立ち向かえる立派な存在じゃなきゃだめであーッる」という、慢の煩悩が背後から追い立ててきているのです。
自分のキャパシティをこえて「頑張りたく」なってしまったときは、背後に隠れたその自尊心を慢慢慢慢、と念じて静めると覚えておかれるとよろしいでしょう。
怒りが生まれてしまった後は仕様がないですからそれを見つめて静めつつも、見るものや聞くものを自覚的に選ぶことにより心が乱れる原因を避けられる場合は、避けることによって自らの心を成長させやすい環境を整えてあげることも重要でしょう。
Q:小池先生、初めまして。家族のことについて考える日々が続いています。
家族とは妹なのですが、同じ町の妻子ある人と2年間お付き合いをしていました。
彼は5年ほど別居しておりますが、狭い町なので二人の付き合いは徐々に周りの知るところとなり、噂が立ち始めた頃に妹は心を病み、仕事を辞めました。
彼と「いつか一緒になる」ことを目標に、病気と上手く付き合って行けたらいいなと見守っていたのですが、3ヶ月前に急に彼と別れてしまいました。
原因は妹に新しい恋人が出来たのです。病気のことを相談しているうちに結婚を約束する仲になったようです。
前の彼との別れを家族に報告するのと同時に「結婚したい人がいる」と打ち明けられました。
新しい恋人には奥さんがいましたが、妹と付き合う頃には離婚話が進んでいて、この報告のすぐ後に離婚しました。
妹は今、新しい彼との新生活に向け張り切っていますが、私はそのスピードについて行けないのです。
どんどん「家族」になろうとしていく二人、受け入れたいと思いながらも、前彼に今の彼、その奥さんに至るまで登場人物は全て友達や知り合い。その関係性の変化について行けないのか、世間体を気にしているのか、どうしても二人を受け入れられません。
週末には家に来て一緒に食事をしたり、家のことを色々と気遣ってくれる新しい彼ですが、私は上手く接することが出来ません。二人には「気持ちの整理がつかないから時間をくれ、付き合いを反対してるわけではない」と話しましたが、二人は「時間てどのくらいだ」と言っていたそうです。
自分でもどのくらいかわかりません・・・
妹の病状は快方に向かっているように見えます。でも私の態度で、また悪化するのでは、と思うと怖いのです。
私は結局自分のことを考えているのでしょうか。考えてはいけない、と「もう怒らない」を拝読してから努めているのですが。
A:うまくいかなくなり別れるとか、誰かを新しく好きになるとといったことは、みもふたもない申し方をすれば、他人の勝手です。
本来でしたらそれを「受け入れる」ですとか「受け入れない」ですとか、他人が決めるようなことではありません。
にも関わらず、諸行無常なるままに移ろってゆく他人の心変わりに抵抗したくなるのは、ある種の心の病が原因です。それは、苦しみという病。
変化を否定したくなる気持の原材料は、表面的な意識のうえでは「あまりにも心変わりが早すぎて、無節操な気がする」といった道徳的な非難が心を占めているかもしれませんが、実際にひっかかっているのは、そのような綺麗事ではないかもしれません。
うがった見方をいたしますと、もしかすると次のような心情がほんの少しは、心の中にまぎれこんでいるかもしれません、チェックしてみましょう。
自分自身がうまくいっておらず不幸せなときは、相手が不幸せで「同情」できるような存在でいてくれると、ホッとできます。
型どおり病気で、元気がない状態の相手に対して「頑張って」と同情することで、自分は可哀想な相手を同情してあげられる立派な人間だと思うことができますから。
そういった不幸の型にはまってくれていた相手が、急に幸せになれそうだったり、しかもその嬉しさのため病気も快方に向かいそうだと分かってしまうと、
相手が「変わらずに、可哀想な存在のまま、同情すべき対象のまま」でいてほしい、という欲望がちらつく可能性があり得ます。
ですから、表面的には「自分の態度で悪化するのではないかしらん。良くない、受け入れてあげないと」と良い子っぽくみえる綺麗なことを考えつつ、
深層では「私が受け入れないことで邪魔をしてあげれば、可哀想な状態にしておいてあげられる。変化をくいとめられる」と喜んでいる。
絶対にそうでないと言い切れるかどうか、よくよく心を見つめてみるとよろしいでしょう。
もしも、相手の不幸を願い、諸行無常の変化に抵抗しようとするような自らの煩悩を見つけ出してしまったなら、
「がーん、自分って相手の幸せを願うフリして実は不幸を願っている人間だったなんて」というショック療法で、心が変化してゆくことでしょう。
Q:胸の容姿が変で、その事を冗談で友人にネタとして男性の前でも言われるのですが、たまらなく嫌で恥ずかしいです。
小さいとか服の上からわかることなら言われてもよいのですが。あまりはっきり物を言えない性格です。
友人に嫌だ!ということを伝える際はどのようにどんなタイミングで言うべきでしょうか。
それとも自分の中で気にならないような心を作るべきなのでしょうか。友人はブラックジョーク好きで悪気はなさそうです。
A:もちろん「自分の中で気にならないような心を作るべき」というのは模範解答ではあるのですけれど、現時点でとうてい不可能なことを目標にしても自分をがんじがらめにして苦しめるだけなので、現実的な解決を狙って御友人に伝えましょう。
「嫌だ!」とビックリマークつきで記されるほどの感情を吐き出すのは、好ましい結果を招きませんから、丁寧に相談するようにするのがよいでしょう。
わざわざタイミングを待つまでもなく「改まって相談があるんだけれど」と、お茶や食事にでも相手を誘って相談してみては如何でしょうか。
まずは「自分は胸のことで強い劣等感を持っている」ということを、素直に告白するとよいでしょう。
そして「冗談で面白おかしく言っているだけで悪気はないんだろう、ということは分かっているのだけど、胸のことをジョークのネタにされるととても恥ずかしくてツライ」ということを伝えたうえで、
「胸のことを気にして傷ついているのを知られるのも恥ずかしいから、これまで傷ついていないフリをしてきたけれど、実はとてもツライので胸のことだけは言わないでおいて欲しいのです」といった具合に"頼む"と良いかもしれません。
そうすると、ご友人も自分が悪党になるほどの勇気もないでしょうから、むげに断ることもできず受け入れてくれることでしょう。
Q:初めまして。『恋愛の結婚の呪縛をとくお稽古帖』を拝見させて頂いて、とても感銘を受けました。
私は今28歳で、4年付き合った1つ年上の彼がいます。お互いの両親に挨拶し、結婚を前提にお付き合いしていますが、彼の浮気が途絶えません。
殆どがキャバクラ嬢なんですが、どんなに厳しく言っても、過ごし易い環境を作らなくては。と思って頑張ってみましたが…玄人だけでなく素人とも浮気があります。(結婚前の最後の遊びとか言っています)
何度も裏切られ信じる事が出来なくなり、昨年、母が急病で他界した事からも精神的に限界を感じています。
性格や女性関係以外の価値観は合うと感じるし、好きな部分も情もあり…。私が変わればいつか変わってくれると思っても、連絡が取れない時など不安になってしょうがないです。
言葉にはしませんが相手を疑って何度も電話してしまいます。
もう、こんな関係ですが、2人に起こっている事は2人に責任がある。と先生は本に書いてあったので…私が変われば彼は変わるのでしょうか? どの様に変われば良いのか?
もうここまでこじれたら、パートナーを変えたほうが互いの為なのか…。決断するのは自分と分かっているのですが、もう悩みすぎてまとまりません。
どうか先生のお答えを教えてください。乱文失礼致しました。
A:お言葉を拝見した限りですと、「浮気されるのは嫌だ」という感情そのものを乗り越える以外に手はなさそうだな、と感じます。
一見すると楽しそうに遊んでいるようにみえる彼の心には、ぽっかり空いた寂しさ(という渇愛のブラックホール)があって、決して満たされないそのブラックホールに手当たり次第に、他人の愛情をつめこもうとしてもがいています。
他人からの愛情が足りない、足りない、足りないよー、と、一人の愛情では足りず、「僕は、色々な人から愛されてる価値ある存在だもんね」と自分に言い聞かせなければ気が済まないのです。
キャバクラ嬢と遊びたいというのは、どう考えても心のどこかが寂しいからです。
彼女たちはお仕事として「相手の話を上手に聞くフリをする」ということを心得ていますから、彼はパートナーには聞いてもらえないような話を色々とすることができて、心地よくもあることでしょう。
しかしお金を払って遊んで、「愛情をもらえてる」と思い込もうとしても、彼が楽しいと錯覚している心の裏側では、寂しさのブラックホールは拡大していきます。
そしてその寂しさをごまかすために、さらに「愛情をもらえてる」と錯覚するために遊ばなければならなくなることでしょう。
その性癖は仏道修行でもしません限りは、そう簡単には治らないことでしょうから、彼の浮気性をも含めて「そんなに皆に愛されたいほど苦しいんだね。したければ、浮気してもいいよ」と受け入れてあげるくらいの度量がないと、もし結婚しても続かないと感じます。
浮気に対して怒ったり責めたりしますと、「浮気したおかげで、自分は相手に嫉妬してもらえて構ってもらえている。自分は求められている価値ある存在なんだ」と相手の慢の煩悩をさらに刺激することにもつながりかねません。
浮気をされても心を波立たせず「浮気くらい勝手にすれば?」というくらいの涼しい顔をしていられるくらいになれば、かえって彼も「あれ、おかしいな、嫉妬してくれないなんて」と不安になって、貴女のほうにもっと気持が向く可能性が、おおいにあります。
「浮気されたら嫌だ」と感じてしまうのもまた、「自分より他の女の人のほうが大事にされているみたいに思えて、自分の価値が下がる気がするよーッ、うえーん」という、慢の煩悩ゆえです。
その慢の煩悩を見つめて削り取っていき、浮気くらい別にどうってことないよね、という揺らぎない心になれましたら、結果として二人の関係は良好になることでしょう。
もしも残念ながらそれが無理そうなら、「浮気して寂しい自分の価値を高めたい男性」と「浮気されて自分の価値を低められたくない女性」という不幸な組み合わせを続けるよりは、きっぱりお別れしたほうが良いかもしれませんね。
Q:生きて行くことに疲れました。40歳男性です。独身です。
仕事で失態を犯してしまい、それが原因で、現在抑うつ状態で自宅療養をしておりますが、このまま生きていてもしょうがないので、いっそのこと死のうかと思いましたが、その前にどこか遠くへ出かけて自分自身を見つめなおしたいと思いますが、
生きるとか、この先考えると辛いです。
A:問題は、「生きて行くのに疲れた」と考えることは「怒」のエネルギーを燃やし、そのエネルギーが新たなる時限爆弾として、やがて必ず発火して自らに報いをもたらすということです。
「死のうか」と考えることも膨大な悪業のエネルギーを積むことになりますし、ましてや自殺してしまえば問題が消えるわけでもありませんから、思いとどまられたのは賢明なことです。
自殺の際に自らに向けられた「怒」の巨大な業をエネルギー源にして、さらに嫌な生まれ変わりと苦しみへの時限爆弾を用意するだけのことなのですから。
雪だるま式に業を増やしてしまう思考癖を、矯正するよりほかには、脱出口はありません。
仕事で失態を犯してしまったことをとってみましても、それ以前に作られた業が時限爆弾として心の歪みを炸裂させたからこそに、ほかなりません。
仕事での失態自体を悔やむよりも、それをしてしまうに至った精神状況や、そのような精神状況が徐々につくられていった自らの歴史にこそ、思いを馳せてみましょう。
自分自身の歪んだ思考が次々と時限爆弾として報いをもたらし続けてきた必然的な結果が、現在の状況なのです。
この報いを受けることは必然であって、「いやだ、俺様はこんな失態を犯すことなどない立派で素晴らしい人間なあはずなのにッ」と抵抗をしようものなら、その抵抗により心を更に歪ませて、更なる時限爆弾を用意してしまうだけのこと。
今回の失敗自体が問題なのではありません。
失敗に対して「今まで築き上げて来たものがなくなるなんて」「今から同じことをやり直すのは嫌だ、無理だ」
「この年齢で一からやり直すなんて恥ずかしい」といったネガティブな思考によって反応してしまうために、心が歪んで泥沼にはまってゆくのです。
これら一連の思考の背景にあるのは「俺様は本当はもっとすごいはずなのにぃぃぃーーーッ」という思考にほかなりません。
これまで実際に自らが積み上げてきた業を無視して、自分が得てきたものの都合のよい部分だけを認識し、執着してきた結果として。
そうやって偽物の「綺麗なイメージ」を作り上げてきたのを、そっと取り壊し、そうか自分なんてものはしょせん、こういった失態を犯してこのような事態になるような歴史を積み重ねてきた思考の集積にすぎないんだな、しょせんそんなものか。
と現実へ目を向け、それを受け入れてあげることです。そこからはじめて、再出発することも叶うことでしょう。
Q:最近結婚をしました。結婚したいと長年思いながらも、なかなか気に入った人との出会いがなかった。けれど、一緒にいてすごく心地のいい人と出会えて、付き合って9か月、35歳で結婚しました。
結婚して、ずっとこの人といれるという安定した気持ちで、すごく幸せです。一人暮らしのときは、自分がいるのかいないのかわからない感覚になることがあったけれど、相手の存在がいつも心の中にあり、心が安定するのを感じます。
でも、時々ふと思うのです。もし、相手が、いなくなってしまったら、交通事故とかで死んでしまったらと。この落差を想像すると怖くなります。もう立ち直れない気になります。
それは、大切な人ができたということなんだろうけれど・・・さびしいこと、恐怖に感じます。仏教としては、どのように考えるのでしょうか?教えてください。
A:一人暮らしのときは「自分がいるのかいないのかわからない感覚」に悩まされ、心に穴がポッカリあいたような風情だったこでしょう。渇愛、という名の穴が。
では大切な人ができたらその穴は消えてくれるのかと申せば、否。「相手がいなくなったらどうしよう、自分に飽きて好きでいてくれなくなったらどうしよう、死んでしまったらどうしよう」という苦痛に悩まされ、やはり心の穴はポッカリあいたままなのです。
「自分一人だと自分には何の価値もないし惨めで不安だよーう、寂しいよーう」という心の穴があいているほど、その穴を埋めてくれる(ように見える)ものに対して、強く執着してしまうことになります。
ただし、その穴は無限に開いたブラックホールのようなもので、何をどれだけ投げ込んでも、ちゃんと満たされることはありません。
いえ、一見すると彼と一緒にいて満たされたようでも、「いなくなったらどうしよう」などと空想してしまい、自分から不安の種をつくってしまうドライブがはたらいているのです。
なぜなら、これまで「一人で寂しいよーう」と苦しみを感じ続け、心に刺激を与え続けてきたのは強烈な業となってしまっているがゆえに、せっかく幸福になれそうなのに穴のあいた心は「不安の刺激がなくなってしまってつまらない」と勘違いして、刺激的な不安を自分から作り上げる刺激中毒症状。
足りているはず、なのに、心の裏では「これでは足りないのですわッ」「永遠に自分といてくれないとだめなのッ」と望んでしまい、そうでない現実に対して絶望して刺激を味わってしまう以上、せっかく幸せになれそうな相手と一緒にいても、穏やかな幸福感を味わっていることができません。
そういった渇愛にもとづく寂しさや恐怖を感じておいでになると、時として彼に対して優しくできなくなったり、時として彼を縛りつけて嫌がられたりしてしまうことも、起こり得るでしょう。
そうして自分たちの幸福感を足下から崩してしまいかねないブラックホールは、彼に消してもらおうと甘えるのではなく、面倒ですけれども自分自身で消すべくして取り組むべきものなのです。
ブラックホールの中にうごめく、これまで自らが作りつづけてきた感情の集積を見つめて変化させてゆく根気づよい作業が、貴女のためにもなり彼のためにもなることでしょう。
Q:初めまして、小池先生。
先日、踏み切りで電車の通過待ちをしていたところ、飛び込み自殺を一部始終見てしまいました。一歳半の子供は、抱っこ紐に入っていて後ろ向きだったので見ていないとおもいますが、もし見ていたらどうしようという心配と、自分が見てしまったその瞬間が目に焼きついて、夜電気を消すと怖くてブルブルしてしまいます。
いずれ、直っていくと思いますが、知り合いの霊能者に、話したところ、子供も私もトラウマになってるからレイキ伝授(18万円)を早めに受けるようにと言われました。
子供は、全然怖がったりしていませんと言うと、神様に頼んで忘れさしてもらったからと言われました。以前の、私だったら、すぐ受けてしまったと思うのですが、先生の著書を最近読み始めた今の私には、???です。よけい混乱して、恐怖が増した気がします。
なにか、アドバイス頂けたら幸いです。ちなみに、その霊能者の方には先祖供養(26万円)してもらいました。先祖供養についてもそのような高額な事をする必要があるのか、お教えください。
A:おや、まあ。「神様に頼んで忘れさせてもらった」なんて、その霊能者のかたも自分からボロを出すようで可愛らしいくらいですねえ。
そういった種類の迷信に依存してしまったり信じてしまったりしますと、心が変な方向に組み替えられてしまい混乱が強くなる業を積むはめになってしまいますので、注意しなければなりません。
人の死を目撃してしまって、その情報に衝撃を受けてしまったのは、あくまでも「怒」=「よくないものだッ、という感情」によって反応してしまったために、見た際の視覚映像が強く刷り込まれて、いつまでもその残像が残っている、
ということ以上のことではありません。
ただしその残像がいつまでも潜在的に心に残り続ける以上は、それにまつわる「怒」の業が常に心に悪影響を与え続けて、将来に良からぬ報いを結果としてもたらすのは確実なことです。
とは申しましても、もしそれをもって「トラウマ」と呼ぶとすれば、それはそのかたの自死シーンに限ったことではなく、日常のありとあらゆる「怒」とともに見たものがトラウマとして残像を残しているのです。(気づかないだけで。)
それこそが業の恐ろしさというものでありまして、それは他人におはらいをしてもらおうと、神様にお願いをしようと、消えてくれることはなく、必ず時限爆弾のように結果を引き起こすものです。
なお付言いたしますと、「あんな霊能力者にお金を払って損した」と苛立ったとしたら、その怒りもまた心に残響としてしみつき新たな時限爆弾になりますから、気をつけましょう。
他人や超越的力に頼るのではなく、自分で業を変化させないかぎりは、問題は絶対に解決しないのです。
ブルブル怖くなってしまったり、残像が見えてしまったりしたときは、「怒りの業の報いであることよな、怒りの業の報いであることよな、あのときは『怒』によって残像を刻んでしまったけれど、今はこれを手放そう」といった具合の心持ちを繰り返し保つようにして、感情をニュートラルに保てるようにつとめてみてください。
心を反応させずにニュートラルに保ちながら残像を堂々と見ていることができれば、その業は消滅していきます。
Q:はじめまして。最近よ〜くため息が出ます。
理由はわかっているんです。
私は敵を作りたくなく、怒られたり叱られたり疑われたりするのが無償に嫌で「いい人」をず〜っと演じています。
自分の地の性格については非常に情に厚い部分と,超ドライな部分があります。
人の不幸な出来事、怒り事を聞けば表情や言葉ではものすごく心配したり励ましたりするのですが所詮他人事なんです。
さて、いい人を演じ始めたのはいつからか記憶にありませんが、思えば幼いころから母親の機嫌を伺い顔色を伺いながら育ちました。
そのうち「怒られないように」「嫌なこと言われないように常に周りに気を使おう」「怒られたらどうしよう、そうなったらこう言おう」「どうすれば怒られずに済むか」とずっと上手い言い訳や妄想をして生きてきました。超のつく心配性でもあります。勝手にこの後の展開が頭に浮かぶんです(しかも100%悪いほうの予想をします)
周りには「いつも明るくて強いし裏表なくていいよね〜」「○○ちゃんにお願いしたらいつも期待以上に返してくれるから嬉しいよ!」とか言われていますが・・常に何かしら不安なわたしは頼まれごとに対しても過剰に頑張ってしまいます。
相手が怒らずお礼を言ってくれたらホッとするんです。
メールひとつにしても返信が来ないと「怒っているのかな・何かあるのかな?」と思ってしまうし、逆にメールの着信が鳴るとまず、悪い事を想像してしまいます。「どうせ断りのメールだろう」とか、苦手な人からのメールだと「今度は何を言って来るんだろう」とメールを開く瞬間は動機までします。これは気の小ささでしょうか・・。
来客があっても私は話がしたいのに「ごめん!時間なくて!」とさっさと帰られてしまうと「絶対誰かが私と関わらないようにと忠告しているんだ」と疑心暗鬼になります。
いい人になりたいからいい人ぶるのではなくて単に自分を守りたいから「ぶってる」んだと思うのです。
こんな私は32歳。結婚もしています。夫はとても心が広く人を疑ったり人に無理に好かれようと変な愛想や変な気遣いはしない人です。
私はいつも何かにつけておびえてビクビク、ドキドキして正々堂々と生きられないのは一体なぜなのでしょうか。。。
はぁ・・。私って一生こんな風にしか生きられないのでしょうか?
もうほんと疲れま〜〜〜〜す!!(泣)
A:いやはや、まさにそのように疲れるおかげで、その疲れる苦しみが強烈なエネルギーとして自分自身を突き動かす原動力になっているのです。
その苦しみのおかげで、「怒られないように怒られないように」と何が何やら分からないままに、無理矢理に頑張ることができているはずですから。
その苦しみのエネルギーによって、「ほーら、この苦しみを味わいたくなければ頑張りなさい」と命令されることによって、自分が頑張るための動力にしている以上は、実はエネルギーをつくるために自分からすすんで苦しみたがっている状態になってしまっているとも診断できます。
しかしながら、苦しみへの恐れ(=「怒」)ゆえに良い人を演じることで、短期的には「怒られずに済んでよかった」と助かったつもりでも、感じておられるように、演じることで心にかかる負荷により心が混乱して「無知」の業が強まり、長期的な苦しみだけが残ります。
苦しみ(たくないという逃げる力)を原動力として、必死で動き回っているつもりなのに、そのせいで更に心がゆがんで苦しみが増え、その苦しみが更にエネルギーとなって新たな妄想を生みだし、それが更に心を駆り立てて走り回らせるといった具合です。
また思考が暴走してしまい、心が現実を無視してデータ組み替えをおこなってしまう力(「迷=無知」の業)が強くなりすぎた結果として、心の中にストックされた情報たちが、自動的にぐちゃぐちゃっと結合して、ありもしない幻をつくりあげてしまうのです。
返信がこない---怒っているに違いない
着信音がする---何か悪い情報に違いない
来客がはやく帰る---自分を避けるように言われたに違いない
これらの情報同士は、本来なら必然的なつながりがあるわけではなく「つながるかもしれないけれど、つながらないかもしれない」ものにすぎません。
ところが、進んで不安になることによって強烈な刺激を発生させエネルギーをつくろうとする癖がついてしまっているうえに心の混乱たる「無知」が強すぎるために、「こうなるに違いない」と、つながらない情報同士を無理矢理くっつけてしまうのです。
こういった心内データの異常結合が生じた瞬間に「無知、無知、無知」と念じたり「不安になりたがってる、不安になりたがってる」とか「幻を見せられてる、幻を見せられてる、幻を見せられてる」とか「データが合成されてる、データが合成されてる」などと念じて心を取り押さえる練習を繰り返していただければ、やがて過剰な心配性はやがて消えていくことでしょう。
自分を苦しめる思考の暴走をまずは鎮めていけば、その苦しみに鞭打たれて「ほら、苦しみが嫌なら演じなさい」と命令される度合いが減るはずです。
そうして苦しみに駆られることから離れれば、演じる必要性もずっと少なくなることでしょう。
Q:サイトではたくさん勉強させていただいております。
お聞きしたいのは「愛情と煩悩の関係」についてです。その他の質問でも愛情に関する内容がいくつかあり、その回答の中で「愛されていないという『慢』の煩悩が出て…」といったような記述がありますが、幼少期に受ける愛情の多少で「慢」の煩悩の出やすさが異なる、という解釈は成り立ちますか?
またそういう意味から、瞑想で「慢」の煩悩を減らす、ということは「自分自身で自己に対して愛情を注ぐ」という風にも言えますか?または自己肯定感を高める、ということにもなっているのでしょうか?
当方は長らく自己否定感に悩まされており、このサイトと出会って瞑想を個人的に実践し始めてから、自己否定感がゆっくりですが解消してきているように感じています。
A:愛情と慢の関係はおおざっぱにそう申すこともできますが、ひとくくりに全部がそうだともいきません。
「一見すると愛情はたっぷりもらっているのに、本人の愛情に対する要求水準が異常に高いために不満ばかりで、屈折して自己否定にいたる」といった場合もあり得ます。
ですから、「条件つきでない愛情をもらえるかどうか」ということに加えて、「その愛情を実感して安心感を得ることができる心の素質が元々あるかどうか」という点も重要なことです。
瞑想を「自分で自分に愛情を注ぐ」というようにとらえられることは、今後続けてゆかれる中で弊害が出てくるかもしれません。
「自分を愛するように」という言い方がしばしばなされますが、それは自己への怒りを自己への欲望に反転させるだけで、問題の解決にはつながりません。
「自分はもっとすごい人間なはずなのに、もっと愛される人間なはずなのに」という自己への欲望、すなわち「慢」があるからこそ、
そのような高い要求水準に満たない現実の自分自身を否定したくなっているのです。
(なぜ高いプライドで自分をがんじがらめに縛りつける必要が出るかと申せば、「足りないよー」という欠落感」をプライドで埋め合わせようとするからですけれども。)
そう考えてみますと、ある意味では、「自分自身を愛しすぎて理想化しすぎているからこそ、現実の自分のことが受け入れられず嫌悪したくなる」のです。
ですから「自分を愛する」という方向で努力されますと、背景にひそんでいる自己愛の問題を悪化させる可能性がありえます。
「愛する」とまで思われずに、「自分をいじめない」とか「自分をゆがめない」といった程度の心持ちで穏やかに取り組まれるのがよろしいでしょう。
「自分を肯定したいッ」という新たなエネルギーを蓄えるのではなく、ただ単に、自分を否定しているエネルギーを減らしてゆくこと。
瞑想に取り組むなかで、「他人を否定する」とか「自分を否定する」といったことに使われる「怒」の業や、「自分」についてあれこれ考える慢の業が自然と減っていき、気づいたら問題は解消してゆくでしょう。
事実、瞑想によってすでに少しずつその萌芽がみられるようですから、それを大切に育てあげてゆくようにされるとよろしいでしょう。
Q:「自分」を浄化する坐禅入門を実践しておりますが、1つ、どう対処したら良いか分からない部分があります。
瞑想中に呼吸に意識を向けているときではなく、たとえば仕事中などにおいても、意識的かつ自覚的にしておりますと、何かが浮かんできたとき、呼吸を停止させる癖があることに気づきました。
書物には、「観察して味わって受け流せ」というご指示が書かれていましたが、呼吸を停止させている癖がある場合、苦しくなって「ふうー」と深呼吸するのは、「受け流している」ことには、ならないということですか?。
どうも良く自分の行動を観察していると、ぼんやりしている状態に刺激を加えて活性化したいときに、刺激剤として呼吸を停止する癖があることに気づきだしました。それに、なんらかのカルマがこびりついていると、カルマが浮かび上がってきたときに、同時に、呼吸も停止しているアンカーがわかりました。
こういう場合は、どのように浄化していけばよいのでしょうか?
お忙しいところ、申し訳ございません。宜しくお願い致します。
A:悪業が発露する瞬間に呼吸が異常状態になり、心身に「苦」という刺激が大量に供給されることにより私たちが暴れだす仕組みが、そこに浮き彫りになっているのがお分かりのことでしょう。
観察することがよりハッと「気づく」ということの重要さに出会いはじめておられる模様です。
「自分が息をしているか停止させているかなんて、分かっている」と思い込んでいたはずが、実はこれまでは、まったく気づいていなかったのです。
そして呼吸停止による「苦しさ」が心身に悪影響を与えていることに気づいていないからこそ、その悪影響にさらされたままで平気でいられてしまいます。
ところが、「はッ、呼吸が停止していて苦しいよう」と気づいてあげると、心が自動的に問題を理解して解決してくれることでしょう。
この場合ははっきりと認識してあげることによって、自然に呼吸が開始するということです。
この場合に「受け流す」つまり「力を加えずに智慧のはたらきに任せる」というのは、
心が高度な情報処理を通じて勝手に呼吸を開始してくれるのに任せるといったニュアンスでとらえてみられてください。
それが自然に深くて長い呼吸をつくってくれリラックスした感じになることもあるでしょうし、それならその変化を興味深く味わい、見守ってみてください。
あくまでも「まずい、苦しい、深呼吸せねば」といったように抵抗する強引な力を加えることのないように。
Q:こんにちは。過去に起こったことを後悔するのはよくないとご住職の本でも何度も読みましたが因果応報って存在しますか?
たとえば人を傷つけたり暴力的な人に子供ができたとき、その子供が今度はいじめられたり病気になって苦労してしまうとか。
親の因果が子に報いって言いますよね。こういうのって迷信なのか古くから伝えてきたからもしかしたら本当にあることなのか。だとしたら自分も過去に犯した罪で因果応報の目にあうとか、自分が子供を産んだらその子に?と思うととても怖いです。
だけど過去に犯した罪は消えませんよね?この場合どう罪滅ぼしをしていったらいいのでしょうか?また、罪滅ぼしをしても因果の報いを受けてしまうのでしょうか?
人の人生や心を歪ませるほどの罪を犯してしまったら。
A:おおざっぱに一言で申せば、心の因果関係としての業は、あくまでも私たち一人一人の心の中に「欲」・「怒」・「迷=無知」のエネルギーをつくってしまうと、そのエネルギーを燃やしやすいようなできごとを自分から吸い寄せてしまう、という形ではたらきます。
他人の人生や心をゆがませるほどの罪をおかすためには、自分の心に非常にゆがんだ欲や怒りや無知のエネルギーを使わなければ不可能です。
そしてその罪をおかす際に生じた欲・怒・無知の不快なエネルギーが心に刻みつけられることにより、無意識的にそのエネルギーを反復したくなります。つまり、不快感を反復したくなります。
その「不快感を反復したい」という無意識的衝動は、時限爆弾のようなもの。いちど伏線として敷かれますと、一定の時間を経てかならず爆発するのです。
その爆発のしかたが、たまたま「不幸になってほしくないと思っていた自分の子が不幸になることによって不快になる」というものである可能性はあることでしょう。
しかしながらそれは、親の悪業が子どもに伝染したというようなことではありません。
子どもの側からしてみれば、その子ども独自の業によってそのような親のもとに好きこのんで生まれ、そのような目にあうための時限爆弾を、過去に悪業をつむことによってつくってしまっているのです。
子どもの側が、悲惨な目にあうようなエネルギーをあらかじめ蓄えている場合に、そういう目にあってエネルギーを発散できる親のもとに生まれてくるということになります。
ですからそれも、「親の因果」というよりは、子ども自身の因果によって、自分自身の過去の報いを受けているだけなのです。
そのようにして、私たち一人一人はある意味では極めて孤独でありまして、誰しもその業は一人一人の内部で閉じつつ、しかし一見すると微妙に交錯しあっているようにみえる程度のことです。
それでは罪滅ぼしとは、どのようにして成り立つのかを考えてみましょう。一つはシンプルですが、善い心でいる時間をふやし、善い言葉を語り、善い行為を積み重ねることにより善業の比率をふやすことです。
もうひとつは、難しく感じられるかもしれませんけれども、業の報いに対して抵抗しようとしないことです。
自分が過去につくった悪業ゆえに必ず嫌な報いを受けるはめになりますけれども、その「報い」に対して怒ることなく、「ああ、過去の報いがこの程度で済んでよかった」といった心持で、受容することです。
「どうしてよりによって私が」などと反発するため、過去の業の報いを拒絶する、という新たな悪業を積んでしまい、それが更なる時限爆弾として将来に爆発する伏線になるのですから。
裏を返しますと、報いを受容してある意味「ちゃんと借金を払う」ことによって、過去の業は結果を出してやがて消えていきます。
Q:私は現在、結婚を前提としてお付き合いを始めた人と同棲中なのですが、暮らしてみるとみるほどに彼から愛想を尽かされ、彼にダメージを与え、そのダメージを自分が食らう、というパターンを繰り返しています。
このままだとセックスレスにもなりそうです。これを食い止める方法はないでしょうか。私は彼の理想に沿うように心がけ努力はしています。
彼の怒りというのは正当なのでしょうか。正当な怒りを正しく受け止めるというのは、どうすれば可能なのでしょうか?教えてください。
A:怒りというのはたいてい、「自分の理想のパートナーはこうあるべきなのに、君はそうじゃないから駄目」という我が侭に基づいています。
それを別の言葉で申せば、本人の「理想のパートナー」という脳内幻覚をもとに、現実の相手を否定し拒絶することなのです。
ですから怒りをぶつけられると、人格を否定された気分が生じるかもしれませんが、「理想にあわせたくなる」衝動も生まれることでしょう。
「自分のことをそれなりに好きでいてくれるからこそ、理想通りでいて欲しいと思ってくれているに違いない」と、はかない望みを持ってしまうかもしれません。
それがはかないのには理由があって、あくまでも相手が好きなのは現実の自分ではなくて「理想」という脳内幻覚のほうである以上、一緒にいると虚しくなって欠落感が増してゆくからです。
ですから、そのような歪みを生み出す原因になる「怒り」に、正当なものなど存在いたしません。
ただし、そのような「怒り」を彼の引き出しから引っぱりだしてしまう自分自身の心に問題があるのは、確実なことです。
ですから、彼から「怒り」という歪んだ感情を引っぱりだすきっかけになる、自分の心の歪みはいったい何なのかを見つけて特定し、それを刈り取ってゆくことがお互いのために役立つでしょう。
ところで文章を拝読していますと、いやはや、具体的な内容がよく分からないという印象を受けます。
たとえばいくつか、以下に挙げさせてもらいますと、彼は特にどのようなことで怒っているのでしょうか。また、彼の理想とはどのようなものなのでしょうか。それに対してどういう努力をしているのでしょうか。
あるいは、セックスレスにもなりそうとは、どういう流れで生じていることなのでしょうか。
「他人に自分の感情を分かりやすく説明する」というのは、自分のことを相手に分かって受容してもらう上で、時として重要です。
もしかすると、言葉足らずになってしまうせいで彼にも想いがうまく伝わらず、誤解を与えたりイライラさせているという可能性があるかもしれません。
もし彼に対して「適当な言葉でも相手は分かってくれるはず」という甘えがありますなら、それを捨てて、丁寧かつ素直に自分の気持を伝えられるようにすると良いでしょう。
Q:いろいろな悩みや迷いがあり自分も悩みっぱなし、まわりにも迷惑をかけてばかりです。
相談できたら嬉しいです。この相談サイトは有料ですよね?相談させていただけるしくみをさきに教えてもらえたら助かります。
A:いやはや。その仕組みは、送っていただいたのと同じフォームに、相談内容を記載して送信するという仕組みです。
金銭授受は一切発生しません。ただし、返答がすぐにできるとは限りませんし、しょせん文字で分かるていどの限られた情報をもとに、文字で答えるだけですので、悩みなどちっとも解決しない可能性も大いにあることをご了承くださいませ。
Q:はじめまして。家出空間に出会ってからハマッてます。
相談なのですが、いつも何かをしていないといけないような気がして、少し車で移動するときも本を読んだり、とにかく何か為になることをしていないと時間の無駄のようなきがして、待ち時間が少しでもできると時間を無駄にした!この時間に本が少しでも読み進められたのに、とイライラします。
この性格なのでゆっくり確認したり観察したりするように動作する修行?みたいなのは同じことをするのに何倍も時間を無駄にする気がしてできません。とにかくこの性格どうしたらいいでしょうか。お返事できればお願いします。
A:「時間がもったいない」という理由で、せかせかと行動することのデメリットをいくつか挙げてみましょう。
(1)心が散漫になる結果として、あわただしくせかせかした感じになるため、ストレスが増える。
(2)そのストレスをごまかすために、文字通り「無駄な」ストレス解消のための時間が浪費されることになる。(飲酒する、過食する、愚痴を言う、逃避旅行をする等々)
(3)個々の行いが雑になる結果として、それぞれの質がひどく低下する。ですから、せかせかしている割にはものごとがすぐに終わらないばかりか、「やり直し」をするはめになったりもして、まさに時間の無駄が多くなる。
これらにより生じる膨大な「時間の無駄」を省くためには、まず一度、面倒くさくても時間をつかって「自分」を点検しなおしてみるのも有益なことと申せましょう。
Q:ご住職が著書で書かれている「受け入れられたい」と「好かれることを演じること」との間の矛盾によって強烈なストレスを感じ精神的に不安定になっている思春期の男の子にご住職の著書は刺激が強すぎて受け入れられるでしょうか?
私としては、ご著書を読ませて、こころの持ちように変化が出ればと思っているのですが、刺激が強すぎて逆効果にならないか心配しています。
A:ええ、逆効果になる可能性も、大いにあります。
自分の心の葛藤をえぐり出すような内容の本を、「親から与えられて」読む、というのはガラスの心にとっては耐えがたいかもしれません。
「自分は、この本を読んで変わらなきゃいけない駄目な人間だと思われているに違いないッ」といった具合に、あたかも自分が「否定」されたかのように錯覚してしまうこともあり得ます。
そうするとほとんど無意識的に、内容を素直に受け取れなくなることでしょう。
拙著をご覧になって「これは役立ちそうだ」と感じてくださった部分があるなら、「これを他人に読ませて変化させよう」と考えるよりも、その内容を地道に実践されながら親子関係を築き上げてゆかれることをお勧めいたしましょう。
それは、子供に対して否定もせず過保護にもおちいらず、時間をかけてつかず離れず見守ってあげるということに尽きるように思われます。
Q:こんにちは。
嫌な事があった時に、発作的に全ての生活環境を一新してしまいたい気持ちになります。
相手や状況の嫌なことばかりに目がいってしまい、嫌で仕方がなくなるが、ここで力技に出ても今まで通り怒りに任せたやり方になってしまうから、なんとかやりすごし、落ち着くまで待つ、という感じで過ごしています。
嫌な事の内訳の多くは、恋人との事、ルームメイトとの事です。どちらの事も、今の自分にとってすこぶる身近な人で、過剰に反応してしまうのが現状です。
今まで、仕事にしろ、恋人関係にしろ、嫌になるとばっさり切るようにしてきました。
殆どの割合で嫌と判断できた場合はまだしも、この頃はどちらでもない事が多く、かえって苦しく感じます。
このような場合は、一度こうする、と決めて、どんなに嫌になってもやり続ける事をしてみる方が良いでしょうか?
A:「どちらでもない事が多い」と感じられるようになった理由は恐らく、瞑想への取り組みをつうじて以前よりも「怒」や「迷=無知」の総量が減って来ているからです。
「怒」によって「全部嫌ッ」と不快になったり、「無知」によって現実を改竄したりする度合いが減ってきて、現実が見えるようになってきた結果、いままでどおり「全部嫌ッ」で塗りつぶせない現実に、戸惑っておられるという具合でしょう。
それがかえって苦しく感じられるのは、「白黒はっきりつけたい、完璧でないのなら破壊したい」という、ある種の完璧主義がいまだに残っているからだと思われます。
白黒はっきり、完璧につけられた自分、という自己イメージに酔う、という慢の煩悩。
しかしながら「嫌になるとばっさり切る」という習慣を持ち続けるなら、人間関係や仕事の積み木を、積み上げては崩し、積み上げては崩し、を繰り返すだけの虚しい人生で終わってしまいますから、そのサイクルから脱出できかけていることに希望を見いだすことが大切でしょう。
ばっさり切り捨てたくなる完璧主義の快感とは、次のような「慢」にも由来しているのではないかな、と推察する次第です。
「自分が」決定権を握る、「自分が」もやもやした状況に終止符を打つ権利を持つ、ということを通じて、「自分」がキーパ―ソンとなり自尊心を満たすことができるということ。
しかし「どんなに嫌になっても」と機械的に決めつける(煩悩モードは「迷=無知」)必要も、ありません。現に今は「どちらでもないようこと」が多いのでしょう。
それがリアルな現実というもので、以前は本当は「嫌ではない部分」もあるはずなのに「嫌ッ」の怒によって無理矢理一色に塗りつぶすという改竄行為をおこなってしまっていたのです(その背景の煩悩モードは、「無知=迷」)。
「どんなに嫌になっても」といった過激な(!)宣言を心の中でおこなわずとも、「塗りつぶさずによく見ればどちらでもないような現実」と穏やかに付き合ってゆく練習をするのが賢明と申せましょう。
その努力をしても、もしのもし、本当に嫌になるようなことがあれば、そのときは仕様がないので切り捨てれば良いのです。
Q:冥想を深めるためには、日頃音楽や映画を遠ざけるべきでしょうか?
冥想中に音楽を思い出してしまうことがあります。覚えてしまっている曲を頭の中から消去する方法をご存じではないですか。
A:厳密には、「瞑想中に想い出してしまう」のではなく、普段からいつも無意識レベルで想い出しつづけて心をかき乱しているけれども自覚できていないものが、瞑想中には自覚できるようになったというだけのことです。
ええ、音楽や映画といった現代の娯楽は、強烈に目や耳を刺激して情報を刷り込みますから、知らず知らずのうちに心のメモリーを浸食され洗脳されてしまうはめになります。
瞑想を前進させたいのでしたら、ほどほどにして遠ざけるのが賢明でしょう。
また「音楽が瞑想の邪魔だな」と「怒」によって反応してしまいますと、「邪魔な音楽め」という具合に音楽のことを考えるせいで、さらにその音楽が強く刻み込まれて反復いたします。
(その「怒」にもハッと気づけるようにいたしましょう。)
ですから想い出してしまうときは、邪魔扱いせずに客観的に観察しつつ、どのような力によって自分がその音楽をつかんでいるのかに気づけるよう努めるとよいでしょう。
積んできた業を「はい消去」などというお手軽な方法はありませんので、丁寧に見つめることで整理整頓してゆくほかはありません。
想い出した瞬間に現行犯で逮捕するように、その音楽を見つめてください。
すると、その瞬間は現実を認識するかわりに心が「記憶の中の音楽こそが現実だ」と錯覚している、という無知=迷いのはたらきがみえてくることでしょう。
「想い出したくもないのに、心が勝手に想い出している」ということを自覚しながら、「無知の力によって、心が乗っ取られた」というようにハッと気づく習慣をつけるようにしてください。
音楽を見つめながら「あー、これが無知のエネルギーなのだな」と思い知らせてあげると、少しずつ消えてゆくでしょう。
(もしうまくいかなければ音が出るたびに「迷い迷い迷い迷い迷い」などと念じてみるのも一策です。)
Q:『もう、怒らない』を読ませて頂きました。
最初は『こんな事出来ないよ〜。』と思っていたのですが、今日、書いてある事を噛み締めるような出来事がありました。読み返して、少し心が落ち着きました。
でもやっぱりどこかで、悶々と考えてしまう自分がいます。自分の意見を押し付けではなく、相手にわかってもらえるように話すにはどうしたらいいのですか?
相手が昔の上司の場合、意見など言う事自体が間違っているのでしょうか?考えていたら、この言おうとしている自分の考えすら、正しいのかそれとも間違っているのか、これを言った事によって、相手に不快な思いをさせてしまうのか、とぐるぐる考えてしまい、誰かに何かを言う事自体が怖くなってきます。
でも心穏やかに過ごしたい、と思う反面、意見のぶつかり合いだったり、その上でわかり合える事もあるのではないのか、と思ったりして、なかなか本のような心境には至れず、またそうなりたいとも思っていない自分にも気づいてしまいます。
こうやって質問を書いていても、自分の書いていることの矛盾に情けなくなります。
するべき事がわかっていてもどこかでそうしたくないと思う心がある場合、どうしたらよいのですが?
A:ん・んー。これまであまりにも「怒」につられて言葉をつかうことが習慣化しすぎているため、そうでない言葉の用い方は想像もつかない、という状況なのではないかと思われます。
考え過ぎた結果として「誰かに何かを言う事自体が怖くなる」というのも、話すことが思うようにいかないことに対して心の中で新たに生まれた、「怒」です。
いままで積んできた「怒」の業にしばられているので、「それから脱出しよう」と思ってみても、「怒」によって得られる刺激欲しさに心が勝手に「怒」のほうへ戻っていってしまう、ということ。
つまり、「こうしよう」と意志で決めても、業ゆえに「そうしたくない」という方向へ勝手に足を引っぱられているのです。
「怒」の業を増やせば増やすほど、実はそれに勝手に足を引っぱられてさらに心が矛盾し、自由がきかなくなってゆく、ということ。
どうせ怖がるのでしたら、こうして不自由さが増してゆくことをこそ怖がっていただいて、脱出しようと決意するのが賢明と申せましょう。
さて、その状況に応じた適切な見解を述べることは、ときとして極めて重要です。
しかしながら述べるとしても常に垂れ流してしまわずに、言う前にチェックするというルールを課すことが肝要となります。そして「不快にさせてしまうかどうか」のチェック基準は、まず自分の中を調べることが重要です。
言う前に、いったん「これは言わなくても良いのではないかな」と、一息おいてみてください。
すると一息おこうとしても、「言いたくて言いたくてたまらないッ」という感じに心が興奮しているのが分かるかもしれません。
そういった興奮状態は「怒」や「見」といった煩悩によりつくりだされたストレス状態ですから、それにつられて言葉を発すると相手を不快にさせるだけでなく、自分にも瞬時にダメージが跳ね返って来ます。
そのようにストレスをまき散らしあっても、実は「本当に分かり合う」などということは決してできません。
ですから一息おいたうえで、まずは「言いたくて我慢できないよ―ッ」という興奮状態をなんとか見つめて静めるようにつとめてください。
そしてその興奮状態から脱したうえで、「それでもなおかつ、相手のためや自分のために、これは言ったほうが良いことかどうか」をチェックしてみてください。
単なる我執のためでなく本当に自分や相手のためになることであれば、興奮状態が静まったうえでも、「これは伝えよう」という感触が残るはずです。
(裏を返せば、単なる「怒」や「見」にすぎないものは、興奮状態をしずめてしまいさえすれば「こんなの言わなくて良かった」とあとから思える程度のものに過ぎないはずです。)
自らの心さえ静かになっていれば、相手を否定したり生意気だったりするような雰囲気なしに、相手にも聞き入れてもらいやすい調子で自然に伝えることができることでしょう。
Q:ご住職様
私は旅行が好きで、旅先で写真を撮ります。
食べ物や面白い看板や珍しい風景など、興味を引いた様々なものを撮ります。
これらの写真は家族などに見せたり、あとで自分でも見ます。
旅先で写真を撮り、あとでその写真を見るという行為は過去への執着となるのでしょうか。
海外では日本では見られないものばかりで、全てが珍しく思え、写真を沢山撮るのですが、途中で写真を撮ること自体に疲れてしまったりもします。
写真も撮りたいけど、実物を見てその瞬間も楽しみたくもあり、葛藤だか迷いだかもあります。
この場合はどうするのが良いのでしょうか。
ご住職は写真を撮られたりするのでしょうか。
お手数をおかけしますが、ご回答をよろしくお願いいたします。
A:うすうす実感されておられますように、「写真を撮って、後で見よう」ということに意識がいくぶんだけ、目の前のリアリティは骨抜きにされてしまってスカスカになります。
いわば、写真を撮る対象を前にしてすでに心は「後になってそれを想い出す自分」という未来のことへと向かって、「心、ココにあらず」の状態になってしまうのですから。
「後で見て楽しもう。後であの人たちに見せて反応してもらおう」あるいは「後でウェブ上の日記に載せよう。どれを載せれば皆がスゴイって思ってくれるかしらん」と。
そうして「今」を色あせさせながら未来に心をさまよわせつつ、後になって写真をみて振り返るときにも「今」はなく、そのかわりに「あれは素敵だったなー」という「過去」のイメージプレイのみが残ってしまいます。
常に、「今」が欠落してしまうのです、がっびーッん。
すると、「楽しんでいるはずなのに何だか疲れている、おかしいな」といった奇妙な疲労感に襲われるのも不思議なことではありません。
目の前のリアリティをありきたりな言葉で表現=概念化したくなったとき、目の前のリアリティは概念によって骨抜きにされるのと同様に、写真もまた一種の概念化と申せるでしょう。
といったようなマイナス面を踏まえたうえで、ほどほどに付き合えると理想的かもしれません。
私の場合、以前は運営するカフェの料理やお菓子などを掲載するために必要な写真を撮りましたが、今は写真の機械も携帯電話もないため、一切写真は撮らなくなりました。
Q:はじめまして。
仕事に悩みがあります。税金徴収の仕事で、毎日納税者からの怒りと対面し、心身ともに疲れております。
怒りにより、自分の怒りも増幅され、怒りが静まりません。上手な対処はありますか。お忙しいところすみません。
A:相手の「怒り」をうけて「怒り」で反応してしまうということのなかに、自らの自由はいっさい存在せず、そこには機械的なデータ入力と、機械的な反射反応としてのアウトプットがあるだけだということによく目を向けてみてください。
不愉快になりそうになるたびに、「怒りへの怒りの反射、怒りへの怒りの反射、怒りへの怒りの反射」と心の中で念じ唱えるようにして自己客観化する習慣をつけてみるとよいかもしれません。
「あ、怒りを浴びて怒りの機械的反射反応が生じてるだけなんだな、そんな感情に乗っ取られて自分を痛めつけるのは馬鹿馬鹿しい」と認識するようにもってゆくことです。
そうやって自分自身の怒りを徹底的に見つめてみることができないなら、せめて「怒っている他人」の発言や表情をよく調べながら、相手の心をよくよく分析するように努めてみてください。
「お金を少しでも失いたくないよーッ」「税金の使われ方が納得いかない。国が悪い、区が悪い。悪いのは私じゃないもんね」「その腹いせに目の前の役人に対して横柄に振る舞って、自尊心を満たしたい」
そういった、なんの役にも立たない感情に洗脳されてイライラと自らを損ない平静さを失っている有り様を、よく調べてみてください。
「お金を税として取られる」という情報を入力されたのに対して、機械的に不快感のビリビリとした刺激を与えられ、「ぎゃーーーッ、嫌だよーッ」と怒りの反射反応が生じているだけの、不自由な奴隷状態なのです。
そういった因果法則にもとづいて観察をするように努めますと、視野が俯瞰的になって怒りが静まることでしょう。
Q:仕事のことで質問させてください。
ご住職は、仕事を選ぶ際に、やりたいことではなく出来ることを探した方がよろしい。と以前からおっしゃられておられましたが、今まで自分はそれとは逆のことをしてきたように思います。
現在ついている仕事も、決める際に結局はできることではなく、やりたいことの方を選択しました。
そうすると、今まで関わってきた人達に会うのが申し訳なく感じてきて、なんとなく苦しい気持ちがあります。
今では、やはり出来ることをやっておけばよかったと後悔しています。
こういう場合、今行っていることを辞めて、元のできそうなことをもう一度行う方が良いのでしょうか?
それとも、今の状況を受け止めて今行っていることを続けるのが賢明なのでしょうか?
A:ん・んー。「今まで関わってきた人達に会うのが申し訳なく感じてきて、なんとなく苦しい」というだけでは、後悔の核心がどのあたりにあるかよく分からないように感じます。
今まで関わってきた人達を裏切って今の仕事を選んでしまった、という罪悪感のようなものが中心なのでしょうか。実際は、今おこなっている仕事について思い通りにいかないことが先行して迷いが生じ、その流れで「あの人たちに申し訳なかった、選択を間違ったんだ」というのを後付け的な言い訳として付け加えているのかも、しれません。
ともあれ具体的に今おこなっている仕事への取り組み方に問題が出ているかどうかや、それがどれくらい解決困難なことがらなのかによって、辞めて元のほうへ舵を取り直すかどうかを考えるのがよいでしょう。
今の仕事を一度選んだからには、ひとまずそれを目の前のやるべきこととして出来るところまでは取り組んでみるのが良いでしょう。すぐに迷って逃げてしまうことなく、「それがどこまで自分にとってできるものなのか」を、じゅうぶんに吟味し実験してみるのが大事のように思われます。
何故なら「やりたいこと」=「能力に相応しくなく、できないこと」という方向性に進んでしまう人ほど、欲望が強いのです。欲望の本質とは、実現しないものを空想して望むことにより、「ああ、実現しないよーッ」という苦の刺激により脳内麻薬を分泌させて興奮することに他なりません。
欲望に導かれて「やりたい仕事」に就いたとしたら、次に欲望が暴走する先は、こうです。「ああ、本当に自分にとって良いのは、これではなくて捨ててしまった元のもののほうだったのではないかしらんッ」と。常に「他のほうが良かったのでは」と考えて苦が発生し、その苦の電気ショックにより脳内麻薬を分泌しつつ欲望に病み付きになってゆく、という具合ですと、永久に安住の地は得られません。
ですから、まずは「いま立っているところ」でどこまでできるのかを実験してみて、もしも精一杯実験してもダメそうだと判明した時点ではじめて「では舵を切り直して元の人たちのところへ戻ろう」と決心したほうが良いでしょう。
Q:こんにちは、住職様いつも著書を参考にさせて頂いています。ご多忙中に大変申し訳ないのですが、相談をお願い致します。
私は、政治について特にうるさい方ではないのですが、例えば、最近では民主党のやっている政策について観ているうちに、不安になって苦しくなります。
(何年後かの自分が悲惨な生活することを想像してしまい、生きているのが嫌になってきます。)
TVのニュースで、失業問題や、ワーキングプア、介護問題、政治家の汚職、ホームレスの増加・・・などを観ているときにも、自分の人生にも絶望したくなるときがあります。
たまに本気で自殺したくなったりするぐらいのめり込んでしまいます・・・(笑)世の中の暗いニュースに振り回されないのにはどうしたら良いのでしょうか?
ちなみに、自分は近いうちに日本に大パニックが起きて、そのときには生き延びることが出来なくて自殺する違いないという根拠のない妄想にとり疲れて泣いてしまったりします。
27歳にもなって、愚かな自分が許せないのですが、よろしくお願い致します。
A:「ニュースを見たせいで思考が大暴走する」、「ニュースを見なければそうならない」と考えておられることでしょう。しかしながらそれは、錯覚です。普段から、思考がデタラメに走り回って、目の前の現実とリンクしない連想ゲームのようなことばかりに耽っておいでのはずです。
そのように思考の中に逃避する「無知」のエネルギーを普段から活性化させてしまっているせいで、新たに外界からインプットされてきたいろんな情報に対して、心がなかば自動的に「無知」のエネルギーによって反応します。
つまり、もともと思考が暴走しているがゆえに、TVの情報にふれたとたんにその情報をそのままにしておかず、情報を自分の中でしっちゃかめっちゃかにシャッフルしてかき回し、次々に思考が暴走して止まらないのです。
TVを見る前から無知の暴走エネルギーが走り出している以上、「TVを見たときだけ思考を暴走させるのを止めよう」と思ってみても、そう都合よくはいきません。TVを見ていないときにも、「思考が勝手に先走る」という習癖をしずめてゆくように、五感の現実感覚に密着して生活できるよう心がけることこそが、特効薬になるでしょう。
それがうまくいかないうちは、TVなど見なければ良いのです。しかし、仮にそう思ってみたところで、"ついつい"見たくなるかもしれません。「怖いもの見たさ」というものを考えてみますと、怒りの不快感を誘発してくれる対象に触れると脳内麻薬が分泌され激しい刺激の電気ショックが得られるため、怖いものを自分から大好きになってしまうのです。気をつけましょう。
最後に、「私は政治について特にうるさいほうではない」ですとか「愚かな自分が許せない」ですとか、たったこれだけの分量の文章の中に、「自分はこれこれこういう人間であーる」という表現を二度も入れてしまうことについて、自分自身を顧みることをおすすめいたしましょう。
Q:こんにちは。人生苦なり!楽は妄想と言われていますが、苦もなし、楽もなし状態が一番長いと感じるんですが。
80%程中庸10%程苦、10%程苦がけていくための楽妄想・・・そんな感じがします。いつも苦しむほどのエネルギーがありません。
瞑想時に脚が痺れると、痛み→苦ですが、なかなか痺れないと苦はなし。どうなんでしょう?痴のなせる感じ方ですか。宜しく御願いします。
A:文章を一見して分かるのは、エネルギーはたっぷり抱えておられるということで、それはお言葉のとおり痴=無知のエネルギーです。
実際は精神的な苦痛が細かいことで色々と生じつつ、心の中でブツブツと文句を言っているはずです。ところが自己認識のセンサーがずさんになっていて、実際は怒ったり欲望が出て来たりしている(そして実際は、それにまつわって様々な苦痛が発生している)のを自覚できていないのではないかと推察されます。
さまざまな問題点を認識せず麻痺させるために、「自分が背後で実は何を考えて何を感じているか」が真っ暗闇のような状況になってしまっているのです。
どのような瞑想をおこなっておられるのかは分かりませんが、妄想という言葉から予想すると腹部の収縮や緊張を観察しつつ、言語ラベリングを多用するタイプのものでしょうか。その手法では多くの人の場合、シャープな観察力が育つまでかなり時間がかかるため、自分の心が何を感じているかについての自己認識も甘くなる傾向があるように思われます。
そのような時点で「楽は妄想」といった大掛かりなことを問題にするのは、小学一年生が大学の数学を解こうとして悩むようなものです。強い集中力とシャープな気づきの観察力を成長させるような基礎的練習を虚心坦懐におこなわれるのがよろしいでしょう。
Q:坐禅を実践して、お坊様のおっしゃるような変化と、自分の欲望・怒り・迷いというのが、心のなかに雲の流れのように「おおざっぱ」につかむことができるようになりました。
また、それに支配されているということと、それを意識的につかんでいるという状態を認識できるようなりました。そうすると、自分の一日の
大半は、欲望・怒り・迷いに流されているのだということがわかり、すこしづつですが、意識的な領域を増やすように努めるようになれました。
私は、小さな頃からクラシックピアノを演奏していますし、クラシック音楽のファンですが、坐禅を始めるようになって、なんだかいままで愛好してきた芸術というものは、つまるところ、欲望・怒り・迷いを表現しているものに過ぎないんじゃないかと感じるようになり。
特に、刺激の強い音楽、たとえば、ショパンのような情緒や、ベートーベンのような苦悩は、なんだか西洋的な煩悩に過ぎないのではないか?。なんて考えたり、あるいは、なんだかピアノを演奏すること自体を、敬遠するようになってしまいました。
別にピアノで生計を立てているわけじゃないから、良いのですが、これって良い傾向なのでしょうか?
A:このことをご質問されているからには「前よりスッキリして心もクリアだし良い傾向のような気がする」、けれども「せっかく好きだったものが消えてゆくなんて勿体ないような気がするゥゥーーーッ」といった具合に、あたかも天使と悪魔が争うような具合になっておられることでしょう。
いままでは、無意識的な衝動に操られてある意味、現実を感じ取る意識のセンサーが「寝ぼけて」いたため、本当は余計なデータを心に植え付け心を混乱させて潜在的に苦痛を増すようなものについて「気持良い」と勘違いさせられていたのです。
それに対して、意識のセンサーを研ぎ澄ませようと精進努力を始められたことによって少しずつ「寝ぼけ」から覚め始めますと、さまざまなことに対して「ぎょぎょぎょ・・・ッ、実はこれ、よく見てみると心が鈍摩するではありませんか」と、気づくことができるようになってきます。
そのときこそ本当は、「好み」を改めて調律しなおすチャンスです。自分にとって本当は何が相応しく良い影響を与えてくれるもので、本当は何が自分にダメージを与えるものなのか、ということを、チェックし直すことが叶うのですから。
ところがここで誰しも、多かれ少なかれ麻薬に対する禁断症状とでも申すべきものに出会うのです。
「これで良いのかなー?」と、引き返したくなってしまう、という。
ポイントは、「これで良いんだろうか?」と躊躇する思考は、「過去にそれが好きだった」という記憶を心の中でこねくり回して作り上げられる、ヴァーチャルな虚像に過ぎない、ということ。
それに対して、それらへの好みを手放したことによって心がクリアになって充実感が増していたり判断力が向上していたりするのは、「明々白々たる、現在の現実」だということです。
ついついヴァーチャルなものに飲み込まれ「これで良いのかな・・・?」と考えそうになってしまうときごとに、「あ、これはヴァーチャルな考えごとにすぎない、現実は前よりこの点とこの点が良くなっているもの」と、実際に確認されると迷いが晴れることでしょう。
Q:ご住職の本を拝読しまして、自分の心と体の変化を観察してみて、疑問に思ったことです。
イライラしたり、ムカっとしたとき、体もそれに応じた変化があらわれていますよね。私の場合はとくに胃のあたりや肩にぎゅーっと力が入っています。
これに逆はあるのでしょうか?体がこういう状態だと、べつに怒ったりイライラしていなくても、些細なことで怒りやイラつきを感じてしまう、というような。
仕事用のスーツで一着〜二着、ウエストと肩まわりがきついものがあり、これを着ていると怒ったりイライラしたときと似た力の入り具合になります。同じようなシチュエーションでも、ゆったりめのスーツを着ている時より怒りやイライラを感じる頻度が多くなったり、強く感じたりするような気がします。
体が心に影響することもあるのでしょうか?もしそうなら少しサイズ調整してみようかと思うのですが。
A: ええ、誰しも、過去に嫌な感情をつくるたびに身体の一部が緊張したり痙攣したりしてきているものです。
その嫌な感情のデータは、それが生じた際の身体の不快感と結びつきながら記憶のデータベースに格納されています。
したがって、身体が特定の緊張状況に置かれると、無自覚的にそれと同じような緊張状態で感じた過去の「怒」などがうっすら感情に混ざりはじめ、知らず知らずのうちにイライラしはじめる、ということがあり得ます。
ですから腸をしめつけて緊張状態に置いたり、うっかりヘンテコなものを食べて胃腸を壊してしまったりして緊張状態においてしまいますと、
「あ、あのときの緊張状態に似ている」と心が錯覚することにより、過去の不快な感情を潜在的に呼び起こし、「怒」の悪業が活性化することになりやすいように思われます
ですから身体は甘やかすでもなく緊張させるでもなく、シャンと伸ばしつつも適度にリラックスできる状態を保つのが理想的でしょう。
なお厳密に申せば、「身体が心に影響する」というよりも「心が身体の状態を読み取り勝手に反応する」ということになるでしょう。
無意識的な情報処理速度と情報処理量は、非常に高速かつ大量です。
この場合は以下の(1)から(3)の流れが、無意識的に何度も何度も繰り返されながら、潜在的に「怒」の温床となっていると申せるでしょう。
(1)きつい服を着ることで「痛覚」を通じていくぶんかの刺激が発生します。
(2)その刺激を心が認識して、無自覚的に放っておくと、心は「怒」の反応をします。
(3)その「怒」が連鎖して、別のことについてもイライラしやすくなる。
つまり多少きつい服でもあれ、(2)のところで自己観察をして「怒」を静めてしまえば、身体の状態が心に影響するのは消えるというのも事実ではあります。
Q:はじめまして。小池さんの著書を読ませていただきました。
書中では、煩悩について取り上げられておられましたが、読み終わってから感じたことがあります。
それは煩悩が多かれ少なかれ、自分の中に存在している自分を読みながら確認しておりますが、煩悩が存在している自分も丸ごと自分なのだから認めており、そして好きだと感じることです。
このような状態は問題あり、なのでしょうか。
A:ん・んー。「問題あり」かどうかは、他人の私が判断するまでもなく、実際は御自身が無意識的に知っておられることです。
真の問題は、「自分って好きだなー」となんとなく考えごとをすることが常にできているわけではないでしょう、ということです。
本を読み終わった後に、比較的気分の調子が良いといったような特定の条件下でのみ、そういった印象は生じるのですから。
申し換えますと、心の条件が常に変化しつづけるのにあわせて、やがて「この煩悩を持っている自分って好き」などと考える「余裕」がなくなる時もあることでしょう。
たとえば煩悩のはたらきにより自己嫌悪感に陥ってしまう瞬間や、煩悩のはたらきにより仕事にやる気がなくなって倦怠感に襲われる瞬間に、「こういう煩悩を持ってる自分は好きだなー」などとは決して思えないはずです。
(つまり、そうした瞬間には「問題あり」と実は御自身で認識しているはずなのに、後になってその苦痛を忘却し続けている、ということにほかなりません。)
そういった心がうまく動いてくれないときに、しばしば私たちは「何とかして抜け出したいよーッ」とジタバタしがちですけれども、いくらジタバタしても、心はジタバタした通りに動いてくれません。
煩悩のエネルギーが尽きてくれるまで、いくらジタバタしても無駄で、「自分」では操縦できていない、ということ。
心は「自分」がジタバタしたとおりに動いてくれないので、やる気を出したいはずなのにやる気が出なかったり、笑顔をつくりたいはずなのに顔が引きつってしまったりするのです。
そう考えてみますと、煩悩とは自分が「こうしよう」と思ったのとは違う方向に心を勝手に連れていってしまうものであることが、お分かりいただけることでしょう。
この「煩悩も自分なのだから」というよりむしろ、煩悩とは「自分」(と私たちが思い込んでいるもの)を背後から、無意識的におびやかす性質を持っているのです。
以上のようなことを踏まえて、一般論ではなくて実際に煩悩に襲われた具体的な瞬間に、「その煩悩を大好きになれるかどうか」を考察してみられるとよろしいでしょう。
Q:こんにちは。2日前、定年退職をし10年が経つ父親に急に「100万円、用立ててくれないか?」と頼まれました。
理由を尋ねても、「今度、二人の時に・・・お母さんには言わないで欲しい。生活費だと思ってくれたら・・・お母さんは、お金を浪費する」と。父は10年前に心筋梗塞で倒れたため強いストレスを与えたくなかったので、翌日
仕事の合間を縫って父に100万円を渡しました。
母は我がままな性格で自分の気に入らない事があると周りに当り散らす人でした。確かに、お金の使い方が荒いと思う事はありますが退職金を使い果たす程の物を買っているとも思えません。
父は国家公務員だったので贅沢をしなければ食べていけるだろうという生活です。
私は、数年前に離婚し独立して生活しています。
収入も決して良いほうではなく、毎月 切り詰めてやっと自分の生活を維持していました。経済的にも精神的にも両親に心配をかけまいと生活してきたのに・・・
父親は優しくて誠実な人です。詳しい理由もいわず、大金を貸して欲しいということ。母には何も言わないという父の気持ちが分かりません。
「理由を話す」と言ったきり、自分からは連絡を取ってこない父親を信頼できなくなっています。
サラ金に手を出さずによかった。体調が悪くならなくてよかった。私に頼むのも苦しかったんだろうな・・・・と考えようとするのですが、また 別の感情が出てきてしまいます。
育ててもらったのだから、入用のお金は気持ちよく出すべきなのでしょうか?悩んでいます・・・・・どうか、気持ちの治まるアドバイスを宜しくお願いします。
A:「入用のお金」が相手にとって本当に必要なお金であるなら、仰せのとおり自分を育ててくれた相手なのですから気持ち良く渡してあげられるとよいでしょう。
それはもっとも有意義な、お金の使いかたの一つと申せましょう。
しかしながら、そのお金の目的がお父様にとってなにかしら後ろめたいものであったり、彼の心をおかしな方向に導くようなものである場合は、キッパリ断る必要があります。
彼が「詳しい理由も言わない」のに対して、細やかなコミュニケーションもなしに貸してしまったのは、こちら側のミスでしょう。
にも関わらず、「理由を話すと言ったからには相手から打ち明けてくるべきなのに」と頑固になってしまうことで、「信頼できない」「相手が悪い」と責めるせいで苦痛が増えてゆきます。
また「父親は優しくて誠実な人」と記しておられますが、そのようなイメージを妄信するあまりに、そのイメージに合致しない相手を責めたくなりがちです。
「彼には必ずしも優しくも誠実でもない部分もある」という現実を客観的に受け入れるように努めてみることです。
そのうえ、そうやって「心の中で相手を責める自分の姿」が醜くて嫌なので見たくないため、「サラ金に手を出さなくてよかった、貸してあげてよかった」等とムリヤリ言い聞かせて、相手への怒りを抑圧しようとするせいで、心が屈折してさらに苦しくなるのではないでしょうか。
そういった「慢」の煩悩にもとづいて延々と"考え"を続けても、"行動"に出ない限りは決して問題は解決しません。頑なに相手から言ってくるのを待つのは止めて、ともかくお父様と綿密なコミュニケーションを取れるように努めてみられることをお勧めいたします。
Q:こんにちは。寺子屋に相談したお返事は、いつか来るのでしょうか?それとも、質問のいくつかを選んで回答しているのみなのでしょうか?いつ回答があるのかと毎日見ていますが、ありません。2つ質問をしたのですが。。。
もし、一部を選んでということであれば、その旨、お知らせ下さい。すがる思いで相談させていただいているので、答えられないなら質問もありますと明記されていないので、いつかは来るかと待っているのですが。
A:以下のような内容を返信したのですけれども、届かずに戻ってきてしまうようでしたので、送信フォームのアドレス記入欄を誤記入されているのではないでしょうか。
同じアドレスからいただいた過去全ての御便りをソート検索してみたところ、仰せの相談にあたるものが存在いたしませんでした。
何らかの理由により御便りが届かないこともありますので、そのときのデータが残っていれば御再送くださいますでしょうか。
また、たくさんの相談が寄せられる中ですべてに答えるのは不可能にて、「皆が読んだら役に立ちそう」と思われるものや、比較的回答しやすいものを優先してお答えしております。
原則としてすべてのものに目をとおし、できるかぎり全てに答えるようにはしています。けれどもこの回答作業にかける時間はとても限られており、いつ回答できるともまったくお約束できませんので、「すがる」ような性質の場所ではないということもご承知おきください。
Q:「私とあなたは価値観が違うけれど、私の考えを受け入れて欲しい。私を認めて欲しい。私がかけた優しさと同じくらい私に優しくして欲しい」という見返りありきの優しさを押し付ける友人にうざんりしております。
結局、その友人は逆ギレして去っていきましたが、そのような方と仲良くする方法はあるのでしょうか。
こちらが相手の要望を聞き入れるばかりの関係に私も疲れ、過敏性調症候群になってしまいました。
A:いやはや、「仲良くする方法」について質問しておられますのに、相手のかたについての記述は「仲良く」どころか「怒り」に満ちているのは皮肉なことです。
実際はそういった怒りが背景にあるのに、無理をして「仲良くしなきゃ」と良い子ぶってしまうことこそが、病因だとも申せましょう。
「いやだいやだ」と怒りながら、表面を良い子ぶって取り繕うことによって、思考と現実が分裂して不協和音を発するのですから。
さて、「自分を認めて欲しいよーッ」という感情に支配されるとき私たちは、「この人ならカモにできそうだ」という相手を無意識的にかぎつけます。
そのように「カモにできそう」な相手とはまさに、「ついついその場を取り繕うために相手に合わせてしまう」ようなタイプの、体裁を取り繕って良い子ぶりたい慢の欲望に支配された人にほかなりません。
そういうわけですから、「仲良くしなきゃ」「私はこんな人とでも仲良くできる立派な人間」といった慢の煩悩ゆえに、「受け入れて欲しいよーッ」という別種の慢の煩悩をもった他人を惹き付けてしまうのです。
ある意味、似た者同士、ということ。
ですから「仲良くする方法はあるか」というよりも、「別に仲良くしなくてもいいよね」と気楽に構えることのほうをおすすめいたしましょう。
相手との関係が仕事相手だったり家族だったりすれば別ですけれども、そうでないなら「仲良くする方法」を探す必要もないのですから。
Q:はじめまして。「もう、怒らない」読ませていただきました。私は二児の母です。六年前に夫は他界しましたが、父がいないからと言わせないぞ!と気合で乗り切って参りました。
しかし、気づきました。娘に理想・期待を押し付け過ぎていたことに。愛情を履き違えた結果、今、娘がいじめに・・。
仕事を辞め、向き合おうとしていますが、周囲からマザコンと言われているらしく、自分でセーブしようとしています。痛々しく、見ていられず、どうしてよいかもわからず、相談のお手紙を書かせていただきました。
娘にも、もちろん、悪い点はあったと思います。
解決できず、長引いた結果、死ね、豚、などの悪質なメールがはいるようになってしまいました。
気にしてないと娘は言いますが、積み重なると陰な気が充満されてしまうだろう・・どのように、向き合っていけばよいのでしょうか?よい知恵をお授けくださいませ。私自身も陰な妄想ばかりしてしまうようになってしまいました(泣)
A:後悔することは無意味ですから、まずその子を安心させてあげてください。
親に対して「気にしてない」と言わなければならない理由は、親に対して「自分はちゃんとしてる、大丈夫」と虚勢をはり取り繕わねばならなくなっている、ということにほかなりません。(その煩悩モードは「慢」)
ですから彼女の「気にしてない」という言葉には、悲痛さが隠れていることを見つけてあげることです。
すなわち、「お母さんに弱音をさらけだして『だめな子ねえ』って思われたらどうしよう、愛してもらえなくなるんじゃないか、苦しいよーう」という気持ち。
いままで、「理想と期待」によって支配されてきたのが彼女にも染み付いてしまっていますから、無意識的・反射的に「理想の強くて素直な子」のような役割演技をしてしまうのでしょう。
そして我慢したぶん、一人でベッドの中でしくしく泣いていたりするかもしれません。
このままでは、お二人の「一方は支配することで依存し、他方は支配されようとして無理に順応しマザコン気味になってゆく」関係は今までと何ら変わりません。
大切なのは、彼女が「自分に求められている役割」を反射的に先読みして演じてしまい自分の苦しみを抑圧してしまっているのに対して、その演技の鎧を脱がせて差し上げることです。
貴女自身が格好をつけたり「心配してあげている立派な母親」といった「慢」の演技を武装解除して、話しかけてあげるとよいでしょう。
「こんなに辛くても私の前で『気にしてない』と元気そうにしなきゃいけないほど、今まで私があなたに『良い子』じゃなきゃダメという圧力をかけてしまってたんだね。
それにはわけがあって、母子家庭の負い目が私には苦しくて、理想の母と理想の娘じゃなきゃだめと思い込んで自分とあなたをがんじがらめにしてしまってたの。
そんな未熟な母親だけれど、これからは変わろうと思ってる。あなたが別にいじめられててもそれで泣いていても、あなたのことを大切に思っているから。これからもどうか、よろしくね」
たとえばこんな具合に、相手を「演じる役割」から解放してあげられるような素直な言葉をかけてあげることです。そのうえで彼女もまた心を開いてポツリポツリと思いの丈を語ってくれるなら、
それに静かに耳を傾けて差し上げるとよろしいでしょう。
いじめなどは(私も中学生のころひどいイジメにあいました)、別のところ、たとえば家の中に「ちゃんとした安心感」がある以上は大した問題ではないのですから。
そしてちゃんとした安心感があれば心の波が柔らかくなり、いじめなどにはあわなくなるでしょう。
Q:「彼女の無意味」の更新が楽しみです。
ちょっと質問ですが、ドメインを.ccで取得されていますがなぜですか? つい.ccってなんだとろうなと思って調べてみたらココス諸島とありました。
いつかは座禅セッションに参加したいと夢見ています。寒くなってまいりました。体調を崩されないようご自愛くださいませ。
A:「家出空間」を"iede cucan"と表記すると 、"cucan"に二つcがあることからccにしようと思い立ちました程度の理由です。
記されているとおり".cc"は「ココス諸島」のドメインらしいので、このウェブサイトはココス諸島に基点があるということになりましょうか。
Q:疑問に思うことがありまして、お忙しい中恐縮ですが、ご住職に質問させて頂きました。
座禅や立禅など、呼吸や今ある感覚に意識し始めると、体の左半分(特に腕)が痺れているような、重たい感じがし始めます。
それと、私のまぶたは奥二重なのですが、左だけ一重になっていたのですが、仏道を習った数ヵ月後から、気分が少々重い時は一重になったり、スッキリしている時は二重になったり。
昔から上半身、下半身共に左半分に違和感があり、それがずっと不思議でした。仏道をご僧侶の本で学んだとおり、今はこの違和感が出てきてもひたすら観察し続けていまして、最近になり、少しずつですが、左の麻痺みたいなのが薄まりつつあります。
しかし、何故左半分にこの様な感覚が発生しているのか、という事が不思議に思いまして、質問させて頂きました。
A:ん・んー。「何故このような感覚が発生しているのか」ということをあれこれ考えますと感情的になりますから「このような感覚」に対する特殊な好奇心(という名前の「欲望」)により心が執着します。
執着すればするほど、ありのままに客観視することができなくなる結果として、問題の解消が遠のきますから気をつけてください。
簡単にのみお答えいたしますので、「ふーん、そうか」くらいに留めておかれるとよいでしょう。
人は煩悩をつくるたびに、必ずエネルギー状態に淀みが生じて、その生体電気のエネルギーが特定部位に蓄積するように思われます。
その部分は意識できないままに硬直していき、無意識的な痛みを生みつづけることとなりつつ、周囲の筋肉を萎縮させる効果を生みます。
しかし元を正せば、それら筋肉の緊張の原因となったエネルギーの淀みの多くは、心を緊張させる煩悩の反射反応が原因で生じているものです。
ですから「何故か」と思いそうになられましたら、「過去につくった何かしらのネガティブな心の反射反応ゆえの業がそうさせている」くらいの認識で留め、淡々と観察するほうに努められるとよいでしょう。
Q:仕事をする以上、世の中のために役立ちたいと思うのですが、昨今、ますます自分たちさえ良ければいい、あるいは、嵐が自分に来ないようにじっとしていれば被害に遭わず生きながらえるという風潮が全体を覆っているような気がします。
わが国全体の「気」といいますか、衰えてきているような気がするのです。自分自身ではそんなことではまずいと思い、いろいろやってきているつもりですが、いかんせん個人の力では限界がありますし、そもそも組織の中では任期や人事があり、思うような立場で思うような期間、力を発揮することが出来ず、このまま自分もおとなしくそれなりに過ごしていくべきか、自分の運を信じて飛び出してみるべきか考えています。
こうした感情も、「迷い」ないし「怒り」に支配されているのでしょうか。自分なりの志を遂げようとすると、どうしても家族含めた生活との天秤にかけて、そこまで自分がすべきなのか考えてしまいます。
また、若い頃は突っ走る傾向がありましたが、今は自己の欲求に支配されていないか洞察してきているつもりです。「怒り」の中でも、「義憤」というべきものは多少他人とぶつかってでも、貫き通す大義があるといえるでしょうか。
幕末明治維新のときに若い志士達が、他人を切り捨ててでも、国を作り上げたエネルギーがありました。それがわが国の発展の端緒となったと思います。経済成長の分け前をみんなで分けられる戦後の高度成長はなくなり、むしろ今のままではマイナスサムになる世の中において、あえて正しい意味での「怒り」をぶつけていく役割を担った人間も求められているのかどうか、ご住職のお考えをお聞かせ下さい。
A:明治維新のおかげでできた近代国家での生活が、江戸時代とくらべてより良いかどうかはそもそも疑問が大いにあります。
戊辰戦争の中で大量の血を流し、そのうえ西郷隆盛らの身内をも大量殺戮する西南戦争まで起こしてまでつくった「近代国家」の成れの果てこそがまさに、貴方が嫌う「現代の我が国の姿」なのですから。
文章を読み直していただけると恐らく自覚できることでしょうけれども記されていることは(1)「社会全体が間違っているのであーッる」(2)「自分は高潔で素晴らしい人間であーッる」ということに二点に収斂してしまうところがあります。
いまの社会が歪みを抱えているのは事実です。
しかしそれに対して「義憤」という綺麗事を抱えてしまっている時点で(1)自分の心が興奮してダメージを受け(2)総合的判断力を失わせ(3)やみくもに戦うことによって自滅するうえに(4)敵方を警戒させて対策を打たれてしまうことにより、問題が悪化する可能性がある。
というマイナスの四点セットが襲いかかってくることでしょう。
そのような「義憤」という美名のついた「怒」の毒が、少なくとも一定の効果を得ることができたのは、社会システムが複雑化するより前の、前近代的で牧歌的な時代のことではないでしょうか。
現代の複雑な社会システムの中で突発的に「攻撃性」を持ち込んでみましても、一部にちょっとした動揺が走るだけのことで、システム全体は簡単にそれらを飲み込んで補正してしまうようなところがあります。
そう考えてみますと、「義憤」などという格好よさそうで大げさなものを持たずとも、単に客観的に「ここが間違っている」と認識しておきつつ、それを是正するための思考・行動を淡々とおこなってゆくことが重要です。
(なお私も自らの活動をそのように位置づけています。)
そのように律された思考・行動には「怒」がともなっていないため自らにもダメージを与えず、周囲にも良い影響を与えつつ結果として「問題状況」を変化させてゆくことができます。
「問題を変えるためには怒りをぶつけなければならない」という常識に洗脳されている状態を、まずは疑うところから始めてみるとよろしいでしょう。
Q:2歳8ヶ月の子供の夜泣きについて、ご相談します。
もう夜泣きする時期をすぎたはずなのに、ほどんど毎晩突然泣いて足をバタバタさせて暴れます。抱っこしても反り返ったり、5分ぐらい続いて、また寝てしまいます。ひどいときは、一晩に5回もあります。
子供はあめが好きですが、虫歯になるので、あまり食べさせてあげていません。時々夜泣きで、あめ頂戴と泣きます。あまりがまんさえてストレスになっているのでしょうか?
私の精神状態が影響しているとも思いますが、どうしたらいいかわかりません。出かけないといけないとに、いつもだらだらしていて、ついに怒ってしまって、一度玄関を閉めて外に出てしまいました。5秒ぐらいですぐに開けたのですが、パニックになってしまいました。それが影響しているからでしょうか?
また、自分は、潔白症で、いろいろ口うるさく言ってしまうところがあります。
直さなくてはと思っているのですが、なかなかうまくいきません。
昼間は、まったく問題はないように思いますが、のびのびとしています。
どうしても、急いでいるとき、だらだらごはん食べていると(2時間とか)、ついつい早くしてって言ってしまったり、いらいらしてしまいます。
子供とうまく付き合うには、どうしたらいいでしょうか?アドバイスいただければ、幸いです。
A:その子は「アメが欲しいのにアメをもらえない」のが辛いのではありません。
根源的なレベルでは、「アメを欲しがらなければならないような心にならざるをえない」のが辛いのです。
では何故、アメが大好きになるか考えてみましょう。
すでに自分が愛情をじゅうぶんに受けていると実感できていて安心している子は、「それ以外の何かが欲しくてたまらないよォォーッ」という渇愛がわいてくることは少なくなります。
貴女が「早くして」と言いたくなる理由は何でしょうか。
おそらく、自分の尊敬している他人と食事をしていてその相手がのろのろしていても「早くして」とは言えないでしょう。
自分の子に対してはそれを言えてしまう理由は、相手を「敬意を払わねばならない他人」としてではなく、自分の「操り人形」のような感覚でとらえてしまっているからです。
ところが「子供は自分の思い通りに動くべきだ」と思い込んでしまう度合いが強くなるほど、思い通りにいかないことについて苦痛の刺激が発生して「怒」が生まれます。
そしてあいにく、無意識的に「操り人形」すなわち「所有物」のように扱う心持ちがある以上、子供の側は「自分のことを愛してくれてるんじゃなくて好き勝手に操れる人形にしたいだけなんだな」
という印象を強く刷り込まれてしまうことでしょう。
その結果として、貴女からの愛情を求めても得られないと感じる苦痛が心を刺激しますから、それによって「何かこの心の渇きを癒してくれるものが欲しいよーーう」という渇愛の衝動が植え付けられてしまうのです。
では何故「子供は思い通りに動くべきだ」と無意識的に思ってしまうかと申せば、それは貴女の御子と何一つ変わりません。
貴女自身が日々苦しみに支配され「足りない、足りない、足りない」という渇愛に絡めとられていて、ある種の「アメ」を求めているのです。
ですからアメを求めて泣いているのはその子だけではなく、貴女自身の姿もまったく同じなのだと見つめてみられることをお勧めいたしましょう。
「アメばっかり欲しがって泣いてダメな子ねえ」と思いそうになったときは「アメが欲しいという渇愛の苦しみに逃避しなければならないほど、私のせいでつらいのねえ。可哀想に、よしよし」と智慧と慈悲にもとづいた認識へと修正することです。
そういう穏やかな心持ちで胸に抱っこして差し上げましたら、泣き止むはずです。ふだんは「この馬鹿な子め・・・ッ、どうして泣くんですかもうッ。ほらほら、抱っこしてやるからとっとと泣き止むがいい、泣きたいのはこっちだよまったく」
というような「怒」の煩悩で抱っこしているはずで、それでは逆効果なのです。
そのようなわけですから、自分自身の「操り人形欲望」という渇愛がでてきて苦しくなるたびに「はッ」と気づいて取り除いてゆく。
その地道で根気づよい作業が何よりも先決と申せましょう。
Q:恋愛の相談です。常に不安感がつきまといます。
付き合う前も付き合ってからも、相手と連絡が取れないなど、ちょっとしたことがあると「振られるのではないか」という不安に突如さいなまれ不安で頭がいっぱいになり、「振られる」ストーリーが完成してしまうほどです。
呼吸も浅くなり、胸が苦しく、食欲も無くなります。自分の想像力ならぬ妄想力に自分でも驚いてしまうほどです。
これまでの恋愛の上手くいかなかったことと現時点での出来事がダブってしまい苦しさが倍増してしるのではないかとも思います。
何があっても受け入れるぞ、と調子の良いときには思うことが出来るのですが、実際に不安が巻き起こるとおびえた捨て犬のようになってしまいます。
ご住職さまの著書を二冊読ませていただいていますが、心が苦しい状況だと内容を咀嚼することが出来ず、ますます苦しくなる始末です。
何があってもしなやかに受け止められる心を持てるアドバイスを頂けませんでしょうか。よろしくお願いいたします。
A:ん・んー、少々、情報不足のようです。「単に連絡がつかない」という場合だけでなく、相手のどういった振る舞いや言葉がきっかけで妄想が連鎖してしまうかを記していただけましたら、具体的に分析することができるのですけれども。
妄想という側面から申しますと、たとえば次のような練習をしてみては如何でしょうか。
瞑想中の心の観察法を、簡単に取り組めるようアレンジしてみました。
まず「妄想ウォッチングノート」を一冊用意します。
「迷い=無知」の煩悩により妄想のスイッチが入りそうになる都度に、そのノートを開いて「何時何分、妄想のスイッチが入った」と記してください。
そして、妄想スイッチが入ったきっかけは何だったかも、忘れてしまう前に素早くメモを取ります。
たとえば「<時間>8:51 / 妄想が始まる。 / <情報>彼の電話での声がよそよそしかったのを聞いて、<記憶>前に冷たくされたことを想い出し、<反射反応>情報処理した結果悲しさ(煩悩:「怒」)が生じた」
というように、<1>これこれこういう情報にふれたのがきっかけで <2>(もし意識できれば)どのような記憶が刺激され <3>自分が勝手に情報処理して反射反応した、という具合に客観化して記します。
これをひたすら繰り返しているうちに、心がデータを自分勝手に改造することの弊害に気づき始めて自動的に妄想が弱まってゆくことでしょう。
さて、問題をまた別の側面からみてみますと、そのような打たれ弱い妄想にふけりがちなかたは、えてして相手の自尊心をくすぐってお互い悪影響を与え合うということも問題です。
と申しますのは、「相手を捨てられた子犬のようにしておく」状態は、一般的に人の優越感=慢の煩悩を強く刺激するからです。
したがって、そうやって寂しくなって追いすがりますと相手は「き、キモチ良い」と感じて無意識的に「もっと苦しめてもっと寂しくさせてやれ」という気持ちになってしまいがちなものです。
つまり、妄想により自分自身を追いつめることが相手の優越感や嗜虐心をくすぐることにもつながると知っていただいて、心の手綱をきゅっと引き締めようとされるのが賢明でしょう。
Q:ご住職様こんにちは。
考え事が止まらなくなり苦しくなって、これはまずい!と考え事と1時間ほど追いかけっこをした時にあったことで質問です。
その時は、今こう考えた!今はこう考えた!と浮かんでくる考え事を次々紙に書くということをしていました。
その後は、心のしんどさが薄まって落ち着き、うまくいったような感じになったのですが、その日の夜寝た時に怖い夢を見ました。
表面上の考え事が薄まったので、もっと奥にたまっていた訳のわからないものが浮かんできたのかな。とも思うのですが、以前にもそのようなことがあったので、考え事をみつめる方法がまずくてその悪影響だったらどうしよう!と思い質問したいと思いました。
特に気にしなくてよいものか、考え事を見つめる際に何か気をつけるべきことがあるのか、どうぞよろしくお願いします。
A:心は、膨大な量の情報を処理しているわけですけれども、それらのうちには「できれば見ないで済ませたいもの」が大量に含まれています。
ですから言ってしまえば、膨大な量の考え事を見ないですませようとして細切れにして、隠そうとしているのです。
ところが「今こう考えた」「今はこう考えた」と徹底的に追跡いたしますと、意識が半ば瞑想的状態に入って、「普段は隠そうとしている闇の領域の情報」が可視化されてきます。
それにしたがって意識がシャッキーンと明晰になり、心の中の認識可能な範囲が広がります。
そしてまさにそれゆえに、見ないことにしてきた大量の情報ゴミのスクラップのようなものも少しずつ認識できるようになるのです。
すごく嫌なので抑圧していたようなヘドロのような情報群が溜まっていて、それが私たちの心に悪影響を与えているものの正体(のほんの一部)と考えてよろしいでしょう。
この場合の夢で見えているのはそれらの情報群ですから、特に気にすることはありませんが、その内容に影響を受けないように努めましょう。
夢から覚めてすぐに、その夢の怖い感じの後味を観察して、よくよく意識化しておくとよいでしょう。
それら闇の情報に光をあてることによって、ある程度なりとも心が混沌とした情報を整理整頓し直してくれるからです。
Q:はじめまして。当方は高校の教員をしておりました。
先日、勤務先から突然解雇通告があり、明日から出勤するなと言われました。
原因は二つあり、全て当方の責任です。一つは、えん罪のために無期停学となった生徒を救うべくした行為が、学校側への背信と誤解されたこと。もう一つは、ある生徒に口頭で指導しているにもかかわらず、当方に攻撃するようになり、思わず鉄製の指し棒でその生徒の頭をたたき、コブを作ってしまったことです。
全ては当方の慢心からくることは承知しております。残された生徒たちや、最後まで当方をかばってくださった先生方のことを思うと申し訳なく、やりきれません。
もう二度と同じ過ちは繰り返さないと心に誓ったものの、今後どのように生きればよいかが整理できず、目の前が真っ暗です。
そんなときにご住職の文庫本とサイトに出逢いました。勝手ながら、ご住職とのご縁を感じ、ご相談申し上げた次第です。
ご多忙のところ恐縮ですが、何とぞお取りはからいのほど宜しくお願い申し上げます。
A:あいにく心に誓うだけで、人は変われるわけではありません。
別の申し方をすれば、業が書き換わるほど強く決意することができていれば、すでに心が前向きになっているはずで「目の前が真っ暗」というはずはありません。
なぜなら、自分が受けた報いを素直に受け入れた瞬間に、心が成長してシャキーン、とするからです。
ところが、「全て自分の責任」と記されながらも実はそこに嘘が混ざっています。
心のどこかでは「これは不当なことであーッる、自分がこんな目にあうなんてオカシイ、許せない」と考えておられるでしょう。
だからこそ心が業の報いを拒絶して抵抗しており、否定的な「怒」に染まりきっているせいで現実を消化吸収できずにいるのです。
問題は、現実を拒絶して「こんなことはおかしい」と考えているにも関わらず自分で自分を騙して「全て自分が悪かった」と反省したふりをして良い子ぶってしまっていることです。
そのように自己認識しておられる以上、現実を拒絶している自分を見つめて変化させてゆくこともできないのですから。
まずは「自分は本当は悪くないのに」と思っている部分も心の中に巣食っているのを見定め、そうして現実に対して「イヤイヤ!」をしている自らの心をよく意識化してみてください。
できれば静かに目を瞑って、静かな呼吸とともに。
別に職場を追放されたことくらい大したことではありません。
厳密には、大したことでなくすることができます。
そのための条件は「怒」をしずめたうえで心を成長させ、新たな居所を見いだすことです。
歪んだ心を抱えたままにごまかしごまかしやっているよりも、ショックを受けて自分を変えようと思えるチャンスが得られてよかったくらいのものです。
「同じ過ちを繰り返さない」というためには、一時的に心の中で誓うだけで終わらないことです。相手が生徒や同僚に限らず、誰に対しても同じことを繰り返さずに済むためには、
具体的に心を成長させる努力を始めないかぎり、興奮状態でおこなった誓いなど、何の役にも立ちませんから。
「『自分が正しく相手が間違っている』と考えれば激しい怒りに駆られて攻撃してしまう」という心が温存されている以上、別の相手にも繰り返し発露してしまうはずです。
その心に巣食ったプログラムを乗り越えようと日々精進努力することを、自分なりの罪滅ぼしと考えられるとよろしいでしょう。
Q:ペットのことでご相談します。
幼い頃より猫を中心としたペットを飼い、癒されてきました。現在4月からウサギを飼っているのですが、いつも噛まれておりエサをあげるのもびくびくです。
以前飼っていたウサギは抱っこして散歩、旅行にも連れて行きました。
動物の気性(個性)としてこれは仕方ないのでしょうか。なつかない動物は初めてです。上手く付き合っていける方法はありますでしょうか。
A:その動物の個性、と考えるのは「問題は相手にのみある」という思考法を強めてしまいますから気をつけましょう。
実際のところ、問題は「個性」というよりもお互いの「相性」=関係性という側面があります。
「あれ? この子は誰にもなつかずにいつも暴れているのに、この人にはなぜかなつくねえ」などということが、時としてあることをご存知のことでしょう。
さてそのうえで、「癒されたい」という気持ちで動物を飼うのは、あまりお勧めできないことです。
人間との間では言葉が通じ、へたにネガティブな気持ちが伝達できてしまうがゆえに、ストレスが発生しがちです。
ところが動物は、こちらの感情を害するような言葉を発さないうえに、一見すると「お互いが純粋な愛情を与え合っている」かのごとき、錯覚が生じがちです。
そうしますと愛情を注いでいるつもりが、実際は「人間とちがって、自分に逆らったり文句を言ってきたりせず支配できる相手」に対して良い気分を味わっている、という要素のほうが強くなってしまいます。
人間関係でストレスを感じている人ほど、動物に愛情を注いだつもりになって癒されたという錯覚を感じたくなるものです。
そうであるからこそ、動物がいったん自分の思い通りに支配できなくなると、とたんに悲しくなったり不愉快になったりして、癒しからはほど遠いことになってしまうことでしょう。
人間の子供を育てるときも、あるいは友人関係を育くむときも、相手が自分の思い通りに支配できなくても受け入れてゆく、という柔軟性がなければ、うまくゆきません。
すなわち、相手がなつくとは限りません。そして「なつかなければダメだ」というわけでもありません。
なつかないならなつかないなりに、「自分の思い通りにならない存在」を相手にしても、丁寧にお付き合いしてゆく練習と思われて、「噛まれても別にいいや」という感じで接していてあげては如何でしょうか。
案外、そういう心持ちになって相手を受け入れていてあげれるようになりますと、結果としてなつくものなのですけれども。
と申しますのは、その兎は「怒」の業により極端に何かを恐れていて、こちら側のちょっとした煩悩の緊張ですら敏感に読み取って、反応しているからです。
兎を心の芯から安心させてあげられれば、おびえて噛み付くこともなくなるでしょう。
Q:仏道を実践するうえで恋愛はどのように扱われているのでしょうか?
恋は欲ですか?好き嫌いの概念がないということは、恋する気持ちは生まれないということですか?「よりより…好ましい」が最高潮になったとき、恋に似た気持ちが生まれるのかな?と想像してます。いかがでしょうか?
A:ん・んー、恋をどのような意味と考えるかによって、答えはかわるように思われます。
一般的にイメージされがちな、「好きで好きでドキドキする」という感じを恋愛だとすれば、それは仰せのとおり、「欲望」にもとづいて生じるものでしょう。
お釈迦様は、特に恋愛関係については述べていないので、私の考えを述べてみましょう。
恋愛のドキドキ感の主成分は、「もしかしたら相手は、自分のことをそれほど好きじゃないかもしれない」
「もしかしたら、片思いかもしれない」「もしかしたら、そのうち別れちゃうかもしれない」といった、失う可能性と背中合わせです。
あのドキドキ感について身もふたもない分析をしてみますと、「自分がすごく欲しいものが、もし手に入らなかったらどうしよう」という、欲望ゆえに心が不安に怒りはじめ、その苦しみによって心身が興奮しているのだと申せるでしょう。
不快物質により身体が興奮する結果として、鼓動が高まり血流が速くなります、よね。
このような不快感が生じているのに対して、心が「ああ、刺激的な状況なのですこぶる気持ち良いぃぃぃぃーッ」と誤解するのが、ドキドキ感の内訳なのではないでしょうか。
そのように「不安定な」ドキドキ感が欲しい、と私たちは思い込んでしまいますから、恋愛相手との関係が安定してくると、「つまらない」と勘違いしてしまいがちだったりします。
実際は、安定してきて苦しみが取り除かれた状態のほうが好ましいに決まっていますのに、「つまらない」からといって、わざわざお互いの関係を波立たせて新たな刺激を得ようとしてしまいがちです。
「大好き!」という興奮したドキドキ感が恋愛だとすれば、安定した男女関係のために恋愛は必要ないことも、分かるような気がします。
もう少し厳密に申してみますと、最初は恋愛のドキドキ感から関係が始まってもよいのですけれども、関係を続けるうちにそういった「ドキドキ感」抜きで、お互いを思い遣り合える関係へと安定させてゆく必要があると思われます。
ですから理想的な恋愛というのは、「恋ッ」というものが消えていきながらやがて唯一無二の大切な友人同士になってゆけるようなもののように思われます。
やがて、お互いがお互いの欲・怒・迷を減らしてあげられる良い影響関係になれる、仏道の言葉で申せば「善友」になれるなら、最良のことです。
人生を歩んでゆくうえで、そっと淡い優しさを向け合える伴侶がいるということは、とてもかけがえのないことですから。
Q:毎日を機嫌よく暮らしていきたいと、思っている者です。あまり、ストレスのない生活をしています。
小池先生の本は、たまたま「偽善入門」を書店で手にとってから、すっかりはまって、ほとんど読ませていただいています。修行者や僧侶になるわけではないのですから、在野で出来る範囲で我や怒りを薄くしていくことを目指そうと思っています。
物欲もあまりなく(欲しいものは手に入るだけの経済的な余裕がある)、腹の立つことも少なく、基本的に機嫌よくしていられますが、唯一の弱点は、夫です。私のストレスは、ほとんどが夫関連です。ごく親しい友人と話していて、気がゆるむと、夫の愚痴をしゃべってしまいます。
今は子供達は成人して自立し、夫と2人で暮らしています。子供達は、思春期は荒れて大変でしたが、今はそれぞれ落ち着いて、一人前になったと思います。
私の満ち足りた生活の基盤を支えてくれているのは夫の収入で、私を自由にさせてくれていることはわかっているのですが、これまでの長い年月(30年を超えます)に、自分が良い顔(善人面)をするために、妻を矢面に立たせて悪者にし、癇癪をぶつけて、守ってくれるどころか傷つけてきた自分の夫が許せずに、妻を守る夫、妻をいたわる夫を持っている人の話を聞くと(けして自慢ではない、単なる事実に過ぎなくても)、その場では、平静にしていますが、一人になると、その人への嫉妬と、夫への怒りがこみ上げてきます。
夫は基本的に家では(私に対しては)不機嫌で、それは、外で過剰に良い顔をしているためだと、今ではわかっています。
先生の仰るように、不機嫌は伝染するので、できるだけ機嫌よく対応するように努力していますが、そういう夫の人柄が残念で、そういう人物と暮らしている自分がかわいそうになります。
ちなみに、結婚前には、良い顔(そとづら)だけ見ていたので、うちづらがこんなに違うことは、結婚してから知りました。人を見る目がなかったと言うべきです。
今また、怒りがこみ上げてきている状態です。
といっても、夫に当たることなく、丁寧に機嫌よく対応することはできます。経済的な恩恵に対しての、せめてもの代償のつもりでいます。
娘に言わすと、どっちもどっちで、「お父さんは、ずいぶんと我慢強い」ということですので、私も悪いところはあるのでしょう。自覚は薄いですが。
愚痴ばかり言わずに済む様になるには、何に気がつけばよいのでしょうか。よろしくお願いします。
A:あいにく「腹の立つことも少なく、基本的に機嫌よくしていられます」というのは恐らくは自己認識の錯覚で、実はこまごまとしたことで、
苛立ったり、傷ついたりされておられるはずです。
たとえば、他の夫婦が幸せそうなのを見るにつけて「自分って可哀想」と心が波立つのでしたら、日常のいろんなものを見たり聞いたりするのをきっかけに、心が怒っているはずなのですから。
自己認識の甘さは、御子に言わせると「どっちもどっち」となることにもよく表れています。
本当は、お互いがお互いに対してかたくなになり要求してばかりであるがゆえに、負の業を増幅しあっているのです。
ところが、貴女の側からみると「こんなひどい夫といて、ないがしろにされる被害者の自分がかわいそう」という視線の歪みが生じます。
そして御主人の側からみると「こんなふうに『自分はかわいそう』という被害者気分の、イヤな妻と一緒にいなければならない、気詰まりな自分がかわいそう」という視線の歪みが生じるのです。
ポイントは、仰せになっている「機嫌よく対応することができます」というのは、心の中で怒っているにもかかわらず、表面上だけ役割として取り繕っているだけだということです。
そのような良い子ぶった「そとづら」の裏側で、実際はまさに「うちづら」がイラッコイラッコしていますから、なんとなく暗ーい感じが相手に伝わってしまいます。
そう、伝わるのは次のような裏メッセージです。
「イライラ、こんなに頑張ってて私ってかわいそうでしょ、分かりますこと? こんなにちゃんとしている私のことを大事に扱えないなんて、汝は最低の人間であーッる」
表面に出る不機嫌さ以前に、心の中に巣食っている大量の不機嫌さについて、もう少し緻密な視線で「はッ」と気づけるようになることが第一歩となることでしょう。
Q:住職さま、はじめまして。こんにちは。
私はちょうど一年前に姑のお母さん、大姑さんを亡くしました。そのときの49日だったかいつだったかお坊さんがいらしていました。
お経をあげてくださった後、おもむろに私たち夫婦に向かって話し出されました。
「ある夫婦がいてね、その二人は高学歴で旦那さんはこんな仕事をしていて奥さんはアナウンサーでうんたらかんたら・・・・
しかし先祖の供養をしていないから子供がいない。子供以外は何もかも持っているのに・・うんたらかんたら・・・・」
そして、おもに私に向かって
・先祖に自殺した人がいる。
・古いものばかり集めているから良くない念がどうたらこうたらして精神病になる。
・供養をおろそかにしているからあなたたちには子供ができない。
私たち夫婦は確かに結婚してその当時で4年でしたが子供はいませんでした。しかし作ろうとしてできなかったわけでも悩んでいたわけでもなく突然言われてしまって驚きでした。
古いものの蒐集もよく知ってるなぁと思ったけどそのときにはすっかりやめてしまった後でした。それにご先祖様は沢山いますから自殺した人も中にはいるでしょう。
しかし私が疑問だったのは、たぶんその坊主さまは沢山子を作って跡をついで我々宗教を信仰せよみたいなことを言いたかったのだと思います。
だけどその坊主さまは人の嫌がることをちくちく言うことが多い人だったそうです。
どうしてそのお坊様はわざわざ人の反発心を煽るようなことをおっしゃったのでしょうか?
信仰する人を増やしたいならもっとうまくやればいいのに・・と思ってしまいました。
まさかお坊様の話を真に受けて「先祖を供養していないから私たち夫婦には子供ができないのねっ!?いや〜〜!」となる人がいるとでもお思いなのでしょうか、この坊主様は。
次に会うのが少し憂鬱です。
A:仰せのことは「正しそう」ですし確かにおおむね「そのとおり」ではあることでしょう。
しかし、そのような「正しそう」なことを心の中に刻み込むことによって心が憂鬱になり、怒りの悪業を積むことになるのでしたら、それは広い視野でみると「間違っている」のです。
さて、どうしてそのお坊様がわざわざ反発心をまねくことを口にしたのか、についてもう少し突っ込んで分析してみましょう。
誰にだって、支配欲があります。怖がらせたり威圧することによって自分の言うとおりに相手を操りたい、あるいは自分に頼らせたり、依存させたりしたい、という。
そしてそれは、お坊様もあくまでふつうの人間なのですから、例外ではありません。それどころか宗教者には、しばしば人の上に立ちたい、という欲求をねじ曲がった形で抱えているかたが多かれ少なかれ存在します。
そういうわけですから、リストアップされたような出鱈目を言いたくなったりもするのでしょう。
そのお坊様にとっての問題は、そのような迷信を言うことによって無知の悪業を積み、相手を支配して「自分ってすごい」と思おうとしたことにより「慢」の欲についての悪業を積み、そのカルマの報いをやがて受けるであろうということです。
話を自らのことへと、戻しましょう。第一にわかるのは、そのかたも、そのような支配欲や無知を、万人に対して向けているわけではないということ。
こちらの業が、相手の業と引き合って、支配欲や無知を刺激してしまっているのです。
つまり、業の観点からすると自分は決して一方的な「被害者」ではなく、相手にはたらきかけて「自分に対して無知と支配欲を引き出している」とも申せるのです。
第二に、仮に相手がそのように無知な発言をしたとしても、それをサラっと受け流せる心の人もいれば、無条件にムカっとして、反応してしまう人もいる、ということ。
「わざわざ人の反発心を煽るようなこと」と記されておられますけれども、それはあたかも、「誰でも必ず反発して当然である、いや、誰もが反発すべきであーッる」と強く思い込んでおられるように思われます。
そうやって反発心=「怒」の業によって反応してしまったまさにそのせいで、実は相手に巻き込まれてしまっているのです。
無知と、慢による支配欲の業は、あくまでもお坊様自身の悪業です。こちらはそれに巻き込まれないように自分の心をガードしていることです。
「ああ、無知と慢によってがんじがらめになってわけのわからないことを言ってるせいで悪業を積んで可哀想なことさなあ」といった心持で、涼しく眺めていられるように努められることをお勧めいたしましょう。
Q:初めまして。わくわくするような気持ちでご本を読みました。
平安な心境で日々を送りたいと憧れながらも、実際はジェットコースターのような感情の波にさらわれながら暮らしていることに気づきます。そして、自分の中にためらいが存在していることにも。
そのためらいとは、欲や煩悩が無くなったらどうなってしまうのだろうという不安です。
心が揺さぶられることが生きているという証拠であり、その苦悩の中から何か美しいものも生まれるのだろうと考えてきた私は、お釈迦様のような静かな心境にたどり着くこと=死ぬことなのではないか、、、などと考えてしまうのです。
それでも、「今この瞬間を十分に生きている!」と実感できたことがない私は、その心境にとても憧れていることも本当です。
そこには、どんな景色が広がっているのでしょう?流す涙はどんな色ですか?
A:ん・んー。それは典型的なご質問で、実際に試してみないで「きっとこうに違いない」と決めつけてしまう、食べず嫌いにも似ています。
そしておまけに申し上げれば「自分は実践すればお釈迦様くらいの境地にいけてしまうのかも」という、うっすらとした思い上がりが混ざり込んでいます。(な、なにぃぃぃーッ。)
しかしながら他方では、心が揺さぶられているせいで「生きている実感が抜け落ちている」ということにも、気づいておられるのでしょう。
それに気づいているのは、実感なくゾンビのように生きている現状から脱出するためのチャンスです。
だからこそ、心のプログラムが「脱出されては困る」とばかりに焦って、ネガティブなイメージをこしらえて私たちを怖じけづかせるようにできているのです。
「考え事の妄想をはなれてしっかり実感する生き方をしたら、死んだようなものなのでは」と。
それにしましても、心の静けさの中で感覚をしっかり実感する生き方が死んだようなもの、とは奇妙だと思われませんか。
荒れ狂う煩悩の脳内刺激だけに取り囲まれてリアルな実感が欠落していることのほうこそ、死んだようなものなのですから。
煩悩とは、シンプルに申せば、目に見えるものや耳に聞こえる音を、欲や怒のエネルギーによって、自分勝手に変形してしまう働きのことです。
実際に目の前にいる人の表情をしっかり見るかわりに、頭の中で欲や怒の脳内刺激に置き換わる。
実際に口にしている料理をしっかり味わうかわりに、頭の中で欲や怒の脳内刺激にデータ変換されてしまう。
つまり煩悩が多すぎるせいで、現実のリアリティが消滅して、脳内データに置き換わってしまいますから、実感が次々に手のひらからこぼれ落ちてしまいます。
ですから煩悩に洗脳されてスカスカのリアリティで生きていますと、10年を過ごしても、後からそれがたった1日で過ぎ去ったように振り返る羽目になることでしょう。
目の前に映る風景は、一瞬、一瞬、あたかも生まれて初めて目にしたようにフレッシュで、けれどもそれに大げさな感動をすることもなく、ただフレッシュさを味わっているという具合。
あるいは人の肌に触れるときの、一瞬で生じて一瞬で滅してゆく鮮明な感覚。あるいは舌に触れる味が圧倒的な速度で変化しながら目の前で展開する細やかさ。
これらのリアリティの前には涙の色も、色あせてしまうことでしょう。
Q:マンションの上階の音に悩んでいます。
子供の飛び跳ねる音、ドスンドスン歩く音、ドーンと物を置く音等…
上の住人に言っても、生活音だから仕方ないし子供に注意ばかりも出来ないとの返事。私が気にしすぎじゃないかと言われました。
以前の住人はお年寄りだったので、あまり気になりませんでした。
マンションの管理組合も当人同士で、話し合いなさいと言って間には入ってくれません。
上が引っ越しして来て、半年になりますが全然慣れずノイローゼ気味です。よろしくお願いいたします。
A:いやはや、私がかつて「怒」まみれだったころ、隣家に「うるさいので静かにしてください」と苦情を言いにいく常習犯だったので、その苦痛はよく分かります。
すなわちノイローゼ気味になるほどまでに苦しむ原因は、上階の音そのものではなく、自分自身の業にあるという点に注目いたしましょう。
「下にいる私が苦しんでいるのを伝えたのだから、もう少しくらい配慮してくれても良いのに。隣人に気を遣って子供のしつけくらいちゃんとすべきなのにしてくれないなんて、私を馬鹿にしやがってぇぇぇーッ」。
その自己愛=慢の煩悩が強すぎるがゆえに、激しい「怒」がわいてきて自らを破壊するということ。
「間に入ってくれません」という記し方にも、「入ってくれるくらいの面倒はみてくれてもいいのに、それもしてくれないなんて」という感情がみられます。
結局のところ、「自分がないがしろにされている」という「慢」の煩悩モードを経由して、「怒」の煩悩にスイッチが入ってしまっているのです。
したがって、「どすーん」というような音が聞こえてきたとき、単に「うるさいな」と感じているのではありません。
その音が聞こえるたびに、「あれだけ言ったのに、聞いてくれないなんて」と瞬時に記憶が刺激されて、「怒」が生まれるのです。
ですから相手の言う、「神経質なだけ」というのは、ある意味では当たっているとも申せてしまうのです。
こういった場合はその「神経質」という言葉を逆手に取って、改めて相談しにゆくとよいでしょう。
「私はあなたがおっしゃるように神経質なようで、上階からの音が耐えられず、ノイローゼ気味になっていてこのままでは病気になってしまうかもしれません。
私のほうでもできるだけ耐えられるように努力はしてみますので、もう少し音が響かないようにしていただけると有り難く思います」
このように、こちらにも非があることを認めつつ歩み寄る姿勢をみせれば、相手も意固地に拒絶することもできなくなることでしょう。
ともあれ最良なのは、瞑想に取り組んでいただき、「音」を単なる「音」として受け止められる練習をすることです。
音が聞こえたとたんに「自分がないがしろにされている」という情報処理へと連想ゲームを広げてしまわないように。
Q:住職様、こんにちは。一人で考えていると際限なく混乱してしまうので、相談させてください。
「自分」というのは、記憶の集合体が作り出した幻想のようなものなのですよね。
では、性同一性障害って何だと思われますか?単なる性別へのコンプレックスだけではないと思うのです。
小さいころから自分の未来がとても怖かったし、周囲の女の方とはどうしても感覚がずれるし、女の子として扱われることに(別に侮辱的な扱いではなくても)得体のしれない恐怖感や激しい「怒り」を感じてしまいます。
でも、女の子ぶって服装や話を合わせることにも、「自分は違うんだもの」と慢の壁を張って怒りに振り回されることにも、つかれきってしまいました。
「性自認」といわれているものも、「自分」みたいに実体のない幻想の一種なんでしょうか? それとも、自我の意識とは別の、もっと根本的なところにあるものなのでしょうか?
くるくると考えるのはやめようと思っていても、何かの拍子に再開してしまいます。
A:多くの生き物のごくごく自然な性質として、生殖行動に結びつきながら雄/雌という厳然たる区別があるのは事実です、よね。
ところが人間の場合は一般の生き物よりも情報処理が複雑化しすぎているため、雄とか雌といったことすら、(現実をねじまげる無知の業によって)妄想のイメージを通じて撹乱するのが大得意、といった具合のように思われます。
さて、雄と雌の差があるのは明らかな事実なのですけれども、その 事 実 そのものと「ああ、自分は雄であーッる」「あ、自分は雌なのですわ」と繰り返して 考 え る こととの間には、決定的な差がありそうです。なぜなら、そのように考えることで、自我にまつわる幻想が強化されて「男なんだから○○しなくては」「女なんだから○○しなくては」というように、徐々に思い込みが激しくなっていきますから。
たとえばこの社会に不平等があるのは事実ですけれども、「社会とはそもそも不平等なのであーッる」と繰り返して考えたり言ったりすることで、「不平等なのは当たり前なのだから不平等さを強めても良いのだーッ」という意見が強まるという弊害にも似ています。
「ああ、自分は雄であーッる」「あ、自分は雌なのですわ」といったような幻想のイメージに支配されると、その幻想を強めるために、「男らしい/女らしい」とされる服飾・話し方・仕草・音楽・映画・スポーツなどなどをグッズとしてかき集めなさい、という虚しい命令に操られるはめになります。
なお現代では男性が「女性っぽい」ものを好んだり女性が「男性っぽい」ものを好んだりしますけれども、それは決してアイデンティティの幻想から脱出できているわけではありません。「男らしい/女らしい」という単純な幻想では満足できないので、「フェミニンな男性」とか「マスキュリンな女性」といったような、更に複雑で「特別感のありそうな」アイデンティティの幻想に執着しているだけのことなのです。
それを踏まえてお答えいたしますと、ん・んー、惜しいです。「自分」というのが記憶により合成される幻想だとすれば、たしかに「自分は男であーッる」とマッチョぶるのも幻想で、「自分はお姫様なのですわッ」と可愛子ぶるのも幻想。
ただしそこからもう一歩進めますと、「私は生物学的に雄に生まれたけれども自分を男と思えねぇぇぇーッ」というのも特定の業により心が執着した結果つくられた幻想で、「私は雌に生まれたけれども自分を女として感じられないみたい」というのも本人特有の執着にもとづいた幻想なのです。
そしてマッチョぶる幻想や可愛子ぶる幻想は、おもに自己イメージへの素朴な欲望から生まれます。
その欲望も、すでに事実を拡大解釈して自分勝手にねじ曲げているぶん、多少は心をはおかしな方向へ導くことでしょう。
それに対して、自らの性別を拒絶する心の働きの場合は、マッチョ幻想や可愛子幻想よりもはるかに強烈に、現実をねじ曲げます。
自分の属する性別を「受け入れたくない」と「怒」によって拒絶することによって、フツウとはちょっと違った、屈折した自己イメージを形成することができる、という次第です。
ですから、仰せのように問題は単なる性別へのコンプレックスというよりも、もっと根の深い「怒」の業にまつわっているのではないかと推察されます。現実を受け入れたくないという「怒」の業が根深い場合に、それが自分の性別をも受け入れたくないという衝動として、しばしば出てくるのです。
生物学的に与えられた性別を拒絶することは、自分が生まれてきたことに対する拒絶感覚にも結びつくように思われます。
しかしながら、そうやって「怒」により屈折した自己イメージは、自分自身の心に大きな歪みをつくりますから、苦しいことでしょう。
その苦しみによって、自分で自分をめった打ちにしていたぶってしまっておられる、というのが、つらい現状のようです。
ここから抜け出すためには、自分で自分をめった打ちにしている現状にハッとしていただいて、せめて素朴な「欲」で楽しめるようにと、改めて努力してみることが役に立つことでしょう。
たとえば「女の子らしい」「女性的」とされるものに、あえて手を出して楽しもうとしてみること。
その際、それを拒絶しようとする心のはたらきが出てくるつどに、「あ、いま、怒った」と見つめるのを繰り返してみましょう。
繰り返すうちに、心の無意識的な反応としての拒絶感が抜け落ちていって、少しずつ素直に楽しめるようになってくるかもしれません。
そうなってみますと、「自分の性は○○だ」と自認したがったり「○○ではない」と否認したがったりする「カンガエゴト」が薄まって、ずっと幸せになっていることでしょう。
またもしも抜本的な解決をはかりたいのであれば、それとともにはるか過去から膨大に溜まっている自らの「怒」を見つめ直す辛抱強い作業が必要ということも、申し添えておきましょう。
Q:仏教の経典の多分、相応部経典六処編第八聚落主相応だと思うのですが、お釈迦様が芸人に、「芸人は芸を通して、人々の欲や怒りや無知を刺激する。ゆえに地獄行きだ」みたいなエピソードを知り、人を怒らせることに対してますます恐怖心を募らせるようになりました。
そこで質問なのですが、映画などに限らず、世の中のマスコミなど、人の欲や怒りを刺激する可能性の高い職業、または営業の訪問販売など、人に喜ばれる可能性もあれば、人に嫌がられる可能性もある職業について、どのように考えればいいでしょうか?
また、怒りや欲の分類について、良く判らないところがあるのですが、例えば、幼い子供が逆境の中で頑張っている姿を見て、どうなるか心配しながらも、幸せになって欲しいと思うのは、怒りでしょうか?慈しみなどの感情でしょうか?
それと、スポーツや格闘技などを見て、自分も頑張って成功したいと思ったら欲で、頑張って人の役に立ちたいなどと思ったら意欲なのでしょうか?
お忙しいところ、長々と申し訳ありませんが、ご住職の教えをまた聞かせて貰えたら幸いです。
A:それは芸人がお釈迦様にしつこく自分の死後について聞くけれども、お釈迦様は答えたらショックを受けるだろうからなかなか答えようとしない、というエピソードです。
「芸人は一般に皆」というよりは、「その芸人の場合」という個人の例であることに留意されるとよろしいでしょう。
とは申しましてもそういった職業はすべからく、多かれ少なかれ悪業を積むハメになるのが事実です。
ですけれども「芸人だからコレコレであーッる」と一概に決めつけることもできません。
その負の業に負けないように、善い心を少しでも作れるようにと心がけていれば、多少の防御はできるでしょう。
たとえば同じ芸人でも、より露悪的で他人を馬鹿にすることによって笑いを取るような人がいますが、その行為自体が本人のまず「怒」と現実逃避=「無知」の業を増幅します。
そして他人の「怒」を刺激し、くわえて笑いによる現実逃避=「無知」の業を刺激し、その影響が本人にフィードバックして心に溜まります。
誰を傷つけるわけでもなく、なんだか不条理なギャグを言うだけの人もいるでしょう。
そういったかたは上記のかたよりずっとましです。
けれども、「おかしな不条理なもの」をわざと心の中につくりあげることにより心内情報の連結がおかしくなっていき、「無知」の業ゆえに現実認識がおかしくなっていきます。
そして観る側の「つらい現実を笑いでごまかして逃避したい」という衝動を刺激する点で、結局のところお互いに悪業を増幅し合うことになります。
上記のような、「怒」や「無知」=不条理の激しい感情に酔っぱらわせるような芸だけでなく、心が温まってにっこりできるようなエピソードも語れるのであれば、それによって少しは悪業が減り、より「まし」になるでしょう。
それに加えて、日常生活において自らの感情を律することや他人への布施ができていれば、さらに「まし」になるでしょう。
重要なのは、自分のできる精一杯の範囲で、少しでもより「まし」になり続けれるように目指すこと、です。
ご質問として挙げておられる例について「これは『怒』だから意味がない、やめたほうがいい」とか「これは『慈しみ』だからまったく問題ない、素晴らしい」と機械的に白黒つけることはできません。
一回一回、本人の業のフォーメーションの変化に応じて、より「怒」が多くなったり「慈しみ」が多くなったりと、毎回、異なるからです。
心配でハラハラしている瞬間は「怒」っていますし、そこから気持ちが変化して幸せになって欲しいと思っていたら「慈み」の感情が少し混ざりはじめます。
ただし、「自分の子だから」というニュアンスはどうしても混ざってしまう以上、数%の「欲」+「慢」が混入することでしょう。
重要なのは、「自分は慈しんでる素晴らしい親であーッる」という都合の良いイメージの裏に混入しがちな「怒」「欲」「慢」といった毒素を、注意深く観察しては薄めるよう努めることです。
スポーツや格闘技は基本的に「競争」「勝負」といったものを煽る性質があり、「人に楽しんでもらえるために」といった綺麗ごとを思ったところで、本人の心に良い影響を与えるものではありません。
とは申しましても御言葉のとおり、「自分が成功して注目を集めたい」と考えて慢の欲を増幅させるよりは、「人の役に立ちたい」と思っているほうが、いくらかましではあります。
なおもう一ひねりだけ付け加えますと、もともとは「成功して注目を集めたい」ということがきっかけだったのに、そういう気持ちで自分がおこなっているのを意識すると自己イメージが傷つくので「自分は人のためにやってる」と思い込もうとする、ということもしばしば生じます。
こういった無意識的な自己洗脳にひっかかりますと、偽善的に心のねじれを強めるはめになりますから、気をつけたいものです。
Q:3歳の娘がいます。その娘のあられもない姿の写真を、義妹がネットで掲載していました。
普段はよく可愛がってくれるのですが、何故あんなことをしたんだろうかと、不快感を拭い去ることができません。
第三者から何か言われてその写真は消したようですが、母親である自分が、彼女に消してくれと言えなかったことにも腹を立てています。
娘には申し訳ないことをしたと思います。でもやはり一番大きいのは彼女に対する怒りです。
A:「普段はよく可愛がっている」というのは、義妹のかたは良い自分を演じようとして無理をしている可能性があります。
性格が悪い人でも、子犬や子猫がいると「かわいい、かわいい」と可愛がるフリをします。
その際に演出しようとしているのは「自分は小動物を可愛がってあげられる、優しい人間だもの」という幻のイメージです。
それにも似て、小さな子供の前に立たされると、多くの人は「自分は優しい人間」と錯覚しつつ、必要以上にはしゃいだり可愛がったりしてしまいます。
ただしそれは、義妹のかたにとっては心地よいことではないかもしれません。
「可愛がる」という無意識的な演技のために無理をした反動が噴き出して、そのような悪意に走りたくなるのかもしれません。
ですから相手に怒る前に、自分自身が彼女に「この人の前では無理をして良い人を演じなきゃ」と思わせるような圧迫感を与えていないかどうかを、振り返ってみることです。
また、「怒」によって自らの心にダメージを与えるのみで、臆病風にふかれて直接は何も言えない、現実的には再犯防止に向けて何の対策も打てない、というのは最悪と申さねばなりません。
少なくとも「今回のことはこちらにバレている」ということを相手に知らせなければ、彼女は再犯におよぶ可能性もあります。
演技をしたり取り繕う人は、「バレなければ何をやっても大丈夫」という傾向が強いからです。
ですから、自らの悪業を無意味にふやす「怒」の火を少しでも早く見つめて消し止めるように努め、そのかわりに相手に伝えることです。
たとえば、次のような風合いに。
「人から知らされて、このことを知ってしまい非常に嫌な気分になってしまいました。
『そのデータを消してくれ』とそのときに直接言えなかったことも、自分自身で後味が悪く感じています。二度と、繰り返さないでください。
でもよく考えてみたら、こんなことをしようと思ってしまったのは、貴女も私たちと一緒にいて何かツライことがあるのかもしれませんね。
自分も知らず知らずの間に、貴女にイヤな思いをさせているのかもしれない。
自分たちのほうでも変えれることがあれば変えるように努めますから、何かあれば率直に言ってくださいね。」
このように相手を攻撃せずに、「怒」の心を離れた揺らがず動じぬ平常心をもって、冷静に釘を刺すことが重要なのです。
Q:今年の4月に入籍したばかりの新婚です。
彼とは2年半ほど付き合い、婚約をしましたが、結婚する1年ほど前からが遠距離でした。
6月に11年間勤めた会社を辞め、彼のいる土地へ越してきました。
一緒に暮らし始めてまだ2週間なのですが・・・
彼への浮気が晴れずにモヤモヤな毎日を送っています。
浮気は今年の1月くらいから始まったようです。
6月、新居探しのため彼の部屋に泊まりに行った時、彼女からのバースデーカードとラブラブ(チューしてる)なプリクラを見つけてしまいました。
その日に話し合いをしました。
浮気はあっさり認め、なぜ自分が浮気をしたかと思うか。と聞かれました。「私にない魅力を持ってる人なんでしょう・・・」としか答えられませんでした。
支えてほしかったから結婚したいと思ったのに、支えてくれなかった。今は浮気相手の彼女がかなり支えになってくれているんだ。と。
私は彼と付き合っていた2年半の中で、成長していないと、嫌な部分が変わってないと逆に怒られました。
どうせすぐに離婚届けにハンコを押してくれないんだろ。結婚生活始めるにあたっての条件がある。と、?親からの現金援助を絶対にもらわないこと。?結婚式はやらない。キャンセルしておいて。と2つの条件を言われました。
親からの援助は、結婚するときに計200万円私がもらったことが気にかかっているみたいでした。
(結婚式資金50万とずっと家にいれていた生活費の積立なのですが・・・)
彼の家ではそういった大きなお金の援助がなく、嫌だったようです。。。格差を感じたと言われました。
私は、幸せになってね。と送り出してくれた親を悲しませたくない。という気持ちが強く、離婚は考えられず・・・彼に言われたことをずっと考え・・・
私は自意識過剰で調子にのっていて、付き合っている間の喧嘩の要因もすべてそこにあるということがわかりました。
今はつらいけど、自分を変えていくチャンスを彼にもらったと思い、乗り越えようと考えました。
その後、新居も決まり、不動産契約にまた彼の部屋に泊まり行った時のこと、夫婦茶碗・小さめの歯ブラシ・彼女の下着が洗濯機にはいっているのを見てしまいました。
半同棲生活してるのかな・・・。とまたモヤモヤモヤモヤ・・・・・うつうつうつうつ・・・・・
「人はそんなに簡単に別れられるもんじゃなーい!!!私だって彼と離婚できないじゃないか!!」と考え、彼より2日早く、引っ越しに突入しました。一緒に暮らし始めて2週間・・・
夫婦の営み、チューもなし。
彼に連休が取れ、予定のない旅を3泊4日で一緒に行ってきました。帰ってきた次の日、もともと一人旅が好きな彼は、再び旅立ちました。明日の夜中か明後日の朝帰ってくる。と。
行き先は秘密と。
先ほど帰ってきました。朝6時。彼女と行ったのか・・・私がはずしてほしいとお願いし、はずしてもらった京都の縁結びのキーホルダーが鞄に復活しています。
私は・・・この人となら・・・と自分が選んだ人なので、2人の可能性を信じ、また仲良く2人笑って過ごせる日がくると信じたいです。
付き合い始めからずっと・・彼はものすごく愛してくれていたし、私との結婚のために辛い転職をしてくれました。
私は今までそんな彼の愛情に甘え、何もしてあげていなかったと思っています。
だから、これは今までの怠慢に対するお仕置きで、試練を与えられているんだと考え、彼にとって何がいいのか、何ができるかを考えいるのですが、家をきれいに、きちんとご飯をつくることぐらいしか思いつきません。家政婦さん。。。
また、離婚することが一番いいのか・・・
このモヤモヤな気持ちどうしたらいいんでしょうか。
いつまで続くんでしょうか・・・
A:
「支えてほしかったから結婚した」という発言からわかりますことは、彼は子供のように甘えたがっています。
これまで貴女に対して愛情を注いで、苦労してきたお返しとして「自分を甘えさせて、自分に完璧に尽くしなさい」と、代金を請求しているようなものなのです。
「支える」という口当たりのよい言葉でごまかしつつ彼が本当に望んでいるのは、なんでも自分のわがままを聞いて言いなりになってくれるお人形がほしい、ということに他なりません。
相手を自分の言いなりにして支配できると、自尊心が満たされて「この人が尽くして支えてくれてる」と感じることができるからです。
ですから彼は、どれだけ貴女が自分の思い通りの操り人形になってくれるかをテストしています。
そのテストの一環として、貴女の嫌な部分にケチをつけて自分好みにつくりかえさせようとする。
その嫌な部分とは「自分に尽くして自分をちやほや甘えさせてくれず、反対に愛されたがり甘えたがっていること」と申せましょう。
また、彼の中では、「自分を愛して甘やかしてくれる浮気相手もいるし、配偶者は嫉妬して自分のことを欲しがっているし、こんなに皆から求められている自分って素晴らしいのじゃよー」という幻覚が発生しています。
ですから彼は、貴女を嫉妬させるのに嗜虐的な喜びを感じています。一つは自分が求められているということを感じて自分の価値を吊りあげたいためで、
もう一つは貴女よりも優位に立つことが気持ちよいからです。(どちらも煩悩モードは、「慢」。)
ゆえに彼は浮気を隠そうともしませんし、自分からすすんで浮気をほのめかしたりさえすることでしょう。
行先を「秘密」などと言う背景には、「秘密にすれば色々と想像して不安になって、その不安を解消するために自分にもっと献身的に尽くしてくれるだろう」という思惑です。
嫉妬させることによって貴女を「負け」させれば、自分好みに支配できると思い込んでいるのです。けれども、それは「愛されたい」と思っている貴女をストレスに追い込んで、貴女から余裕を奪い彼を縛りたくさせてしまうため、結果として彼は貴女といても落ち着かなくなることでしょう、皮肉なことに。
問題は、こうやって「愛が欲しい、甘えたい男性」と付き合えるのは、浮気されても大らかに帰ってくるのを待って見守ってあげられるくらいの余裕がある女性でないと難しいということ。
貴女のように「愛が欲しい、甘えたい女性」と組み合わさった場合に、お互いが愛情を奪おうとしあって、激しく苦しみます。
お互いが「自分を甘やかしてもらいたい」という慢の煩悩モードである以上は、組み合わせを間違えたと思って、諦めてお別れするほうが賢明かもしれません。
さもなければ、慢という病気にかかった相手を看病してあげるくらいの心持ちで、彼の甘えを徹底的に受け容れるくらいの覚悟を持つことであります。
Q:こんにちは、小池龍之介さん。先日は、座禅セッションに参加させて頂きまして、大変有意義な時間が過せました。
本当にありがとうございました。
今回ちょっとした相談があって投稿させて頂きました。
わたしは、あまり嘘をつかないのですが、仕事でたくさんの嘘をつくことをつかなくてはいけなくて不安になります。
具体的にいうとIT関係のとても小さな会社に勤めているので、企業の面接に行って仕事をするのですが、営業に強く言われて、経験年数や、実績を全く偽っています。
完全に素人な分野をベテランだと嘘をついて仕事を得るので、仕事が出来ないことと、後でいろいろ方に迷惑を掛けるのとを考えてしまいおそろしいです・・・。
転職を考えても、不景気でそうそうやめれそうにないですし、とりあえずの対処法として、嘘をつくときには軽く首を横に振ることにして、相手に嘘を気づいてもらいたいのですがこの対処法はどう思われますか?
ちなみに、今勤めている会社の寿命はそう長くはないように思われます。
A:嘘をつくことで「とりあえずのその場しのぎをすることのメリット」と、その報いとして「長期的には心と記憶が混乱していきストレスに溺れるようになっていくことのデメリット」とを、天秤にかけてみられることです。
どんどん「無知=混乱」と「怒=おびえ」の業がふえて制御不能になってゆく、ということ。
ありていに申せば、嘘をつくことで得られるメリットなど割にあわないくらいに、後から嫌な気分を味わうはめになります。それは報いとして、必ず起こる道理なのです。
ところが心には、「その瞬間が楽ならいいや」と短期的なメリット・デメリットしか認識しないという習癖がありますから、総合的には自分にとって損な選択肢を選んでしまいがちです。
冷静に考え直してみましょう。
寿命も長くなさそうな会社で嘘をつき続けることで、自分の誠実さや認識力が劣化していきつつ、仕事相手には信頼してもらえなくなり不安感も高まります。
そのようにして精神的能力が劣化させているからには、いざ会社が潰れたときに、よい再就職先が見つかる可能性はさらに低くなるでしょう。
「嘘をつかなくてはならない」のはあくまでも営業側が言っていることであって、絶対に貴方がその言うとおりにしなければならない理由はありません。
まずは試練だと思われて、嘘をつかずに一生懸命仕事ができるよう頑張りなおしてみることをお薦めいたします。
そしてそれができなさそうなら、そのような会社は勇気をもって辞めたほうが身のためだと申し上げておきましょう。
Q:住職様
最晩年の日々を過ごしている者です。
どのような心構えで毎日を過ごせばよろしいか、何かお言葉をいただければ幸いです。
A:いつでも死を迎えられるようにと、凛として自らの心を研ぎ澄ませておくことであります。死の瞬間に何を考えていたかが、その後に大きな影響を与えますから。
いざ死に直面するとき、絶対にネガティブな煩悩にもとづいたことを考えないようにと、確実に心の手綱を引き締めておきましょう。
・・・あまり気軽に悲しんだり、気軽に空想にひたったりすることなく、一瞬一瞬を意識的に、念入りに生きることです。
ただし問題は、しばしば年を取れば取るほど煩悩が蓄積するうえに「これまでの自分の人生は正しかった」と思い込みたくなるために、「我」が肥大しがちだということ。
その「我」が思い通りにいかないたびに、ちょっとした縁ですぐに悲しくなったり不愉快になったりしやすいということです。
たとえば、人生を通じて得て来た知識や経験という名の思い込み、仕事をこなしてきたというプライド等々が邪魔をして、穏やかな心でいられません。
自らの長年の思い込みやプライドに反する現象にたいして繰り返し、憤ったり悲しくなったり(その煩悩は「怒」)のネガティブな感情が出て来やすくなりがちのように思われます。
これまでの想い出や成功や名声や知識や技術や子育てに費やした労力などなど、それらに執着することで自己肯定がしたくてたまらなくなること。
(その煩悩は、「慢」)
自らの執着に反している「今の社会」や「今の若い人たち」について否定的な気分が湧いてくるようなら、その「怒」により自らを破壊します。
あるいは自らの執着に反している家族に対して否定的気分がわいてくるなら、家族のなかにいて常に居心地の悪い思いをし続けるはめになります。
それら積み重ねて来たものは、自分の支えになってくれるようにみえて、実際は自らを尊大にして自らを損なうのです。
それら全てを捨て去るくらいの虚心坦懐さをもって、「決して不快にならない」というくらいの意気込みで一秒一秒を過ごされるとよろしいでしょう。
なぜなら、次の一秒が最後かもしれないのですから。
Q:小池さん、月読寺回答のなかで、「ん・んー」という言葉をときどき目にしますが、どういう意味なのでしょうか?
1.(指を立てて)「ノン、ノン(ちがうよ)」のイメージ。
2.(口をへの字にして)「う〜ん、えーと、そうだなぁ(どう説明したらいいのだろう)」のイメージ。
ん、んー。
なんともかわいらしい響きがどういうわけか気になって、小池さんが「ん、んー」と言っているところを想像しては、にんまりしています。分からないながらも気づくと後者の意味で自分も使っているときがあります。「ん、んー」の正しい使い方、ご教示ください。
A:改めて考えてみますと、場合によって比較的「1」に近い場合と「2」に近い場合があるようです。
「1」寄りの場合は、次のような感じで使っています。
「ちょっとばかり見当違いなんじゃないかなー、改めて胸に手をあててよく考えてみましょう。けれど、あなたを否定したいわけでも攻撃したいわけでもないから、安心してください、ね」
「2」寄りの場合では「どう説明すればよいかなあ、誤解を招きそうだしなあ、んー」という感じです。
「1」にせよ「2」にせよ文字で記している場合の意図は、「私もこれはなかなか微妙な問題だと思っているので、誤解しないよう注意深く読んでもらえると幸いです」といったニュアンスが伴うように思われます。
日常生活の話し言葉として用いる際は、指を立てるのでも口をへの字にするでもなく、うっすらと笑って相手に投げかけている感じで用いることが多いです。
心持ちが相手を受け容れて柔らかであると、仕草とごく自然に柔らかいものとなることでしょう。
Q:5月に座禅のお稽古に参加させて頂いたものです。ここ3日ほど座禅中にひどく体が動きストレッチをしているのか座禅なのか分からないほどです。
首や肩、背中の筋肉を伸ばしながら動きまわり止りません。頭もぐるぐると回ります座禅を終えても吐く呼吸を意識しただけで首が横に向いたり肩が回ったりしています。
このまま体の動きに従うのか 背骨に力を入れ筋肉の強張りを感じるべきか、直接ご指導を受けに行った方が良いのか悩んでいます。最近溜まっていた怒りに直面し感情が強く怒りに飲み込まれてきているようにも思えています。
A:瞑想指導の経験上から申しますと、その現象は「怒」の業が大量に蓄積されつつ、なおかつ「怒」を抑圧しているタイプのかたに典型的にみられる現象です。
(その煩悩モードは、「怒」+「怒に対する無知=迷」。)
「怒」の業は筋肉をこわばらせ、身体のあちらこちらに痛みとともに多数のしこりを形成いたします。
坐禅瞑想により「怒」の抑圧をやめ解き放ってゆく過程で、身体的にも「しこり」が解き放たれるようにして、筋肉が伸びてリラックスできる方向に自動的に動き始める、と、解釈できます。
今まで抑圧して見て見ぬフリをしつづけ溜め続けてきた「怒」のエネルギーが浮かびあがってきますから、うまくその「怒」を客観化できないときは、
日常生活でもイライラしたり怒りやすくなる可能性もあります。
しかしながら、それが自分自身の姿なのですから、それと向き合わないことには、前進できません。
ムリに「怒」を抑圧して「良い自分」を演じながら心身を緊張させいたぶることから脱出するチャンスと考えましょう。
そうして浮かび上がってくる「怒」をひとつひとつ丁寧に見つめ、流しさってゆくことです。それと平行して、坐禅では身体内部の緊張や歪みがますます解きほぐされてゆき、楽になってゆくことでしょう。
そのプロセスがいわゆる「ストレッチ」のように感じられるかもしれませんけれども、そういった解釈によって先入観をつくることなく、単に身体の動きをよくよく観察していてください。
ぼんやりと動きを見るというよりも、身体を動かしている震源地になっている部位を感じ取り、そこに意識を集中するようにしましょう。
そのように具体的かつ現実的な感覚をフックにして意識をつなぎとめておきますと、感情のブレや解釈に巻き込まれることなく取り組めるでしょう。
そのようにしばらく身体を観察されましたら、身体の観察に執着してしまうことのないように、やがてまた呼吸に戻って、また動きが気になったときは動きに意識を移して、と、柔軟に意識を移動させながら取り組まれてください。
そうやって平常心を保ちながら取り組んでいるうちに、押さえ込まれていた「怒」も身体的緊張感も、滅してゆくことでしょう。
ただし、浮かび上がって来た身体的反応や「怒」が、自分ではどうにも対処もできず客観化することもできないほど強大なものであるときは、指導を受けにいらすようにされてください。
Q:小池さん、はじめまして。小池さんのかわいい本を読みながら、できることからプチ修行するつもりで試行錯誤していますが、婚約者とケンカばかりで悲しんでいます。
彼は外国人なので、文化や言葉の違いもありますし、思ったことをそのまま口に出しているだけのようですが、「聞こえにくかったら返事しなくていい」のように言われると、とても傷つきます。
私は、聞こえたとおりに返事しただけですし、生まれつき感受性が強く、忙しいなどの理由で八つ当たりのような感情にはとても傷つきます。
子どものころ、両親の仲が悪く、それを私のせいにされ、「お前なんか産まなきゃよかった」「お前のせいだ」と言われて育ったことも影響していると思います。30歳のころ、母が謝罪してくれて、やっと「自分の好きなように生きなさい」と言われ、自分のために生きることを手に入れるのに30年の月日がかかってしまいました。
日頃は優しい彼ですし、やっと手に入れた自分の家庭ですから、大事にしたいのですが、苦しくて投げ出したくなることがよくあります。
どうしたら、やっと手に入れた幸せを彼と分かち合うことができるでしょうか。よろしくお願いします。
A:ん・んー、問題のひとつは、貴女の文章が解読にやや苦労する性質を持つところに見いだされるように感じられます。
考えごとが入り乱れていて、何をどのように伝えたらよいのかが、まとまらなくなっているのではないでしょうか。
ゆっくり記すことのできる書き言葉ですらそうなのですから、ましてや、すぐに返事を求められる会話では、相手の話をそらすようなことを言ったり、的外れなことを言う傾向をお持ちかもしれません。
それは別に相手が外国人でなくても、文化や言語以前に、思考の問題です。相手の言うことをよく理解せず誤解してしまったり、相手の話を最後まで聞けずについつい自分の話をしたくなってしまう、という癖をお持ちなのではないでしょうか。
心の中では「私は・・・」「私に・・・」「私の・・・」「私を・・・」といった甘えた思考が荒れくるっていて、それが優先的に言葉になって口をついて出てしまうため、相手を受け容れて差し上げる余裕がないのです。
彼にしても誰にしても、疲れてイライラしているときほど、甘えて相手に感情をぶつけ、それを受け容れて欲しいと欲望しがちなものです。
そのとき貴女のほうも甘えたいという気持ちでおられますと、彼を甘えさせてあげる余裕はない、ゆえにお互いが反発するはめになります。(煩悩モードは「慢」ゆえに生じる「怒」)
彼がイライラしてつらそうなとき、愚痴を言い出したりしたとき。
普段は彼が甘えさせてくれているのでしょうから、その時くらいは反対に「甘えさせてあげる役割をつとめてみる」くらい心持ちで、余計なコメントはせずに耳を傾けてあげ、「そっか、しんどいんだね」と頷いて差し上げることです。
すると彼はイライラを貴女にぶつけるどころか、苦楽を一緒にできるパートナーがいることの有り難さを噛み締めることになるでしょう。
親から否定されてきて苦しかったぶんを取り戻すかのように反動として、彼からは完璧に優しくしてもらいたいという欲望が強大化してしまうのは、ごくごく自然なことではあります。
しかしながら、その「自然さ」の中に漬かっていることは簡単ですけれども、それは不幸への道でしかありません。親のせいにするのも文化や言語のせいにするのからも離れ、自分自身の歪みを見つめて変えてゆく勇気を持たれること、です。
Q:先日、仏道の立場からの「友」について有意義なお話を伺いました。今回は、仏道の立場からの「親と子」について質問します。
年に数回の帰省時に夫の母は必ず金銭的な話をします。具体的には、
「息子(夫)には学校を卒業するまでかなりのお金がかかった。」
「年金が少ないので服やテレビの買い替えができない。」
「某占い師がお墓は息子が建てるべきと言っていたので、息子達の名前で建てかえます。」
「○○(夫の他の兄弟)から時おり金銭的な援助を受けている。」
などです。私には、「〜なので、必要なときは金銭的な援助をよろしくね〜。」と言われているようで、お会いすることが億劫(怒が生じます)になっておりました。
しかし、小池様の著書を読み、もっとお稽古に励み、自分の心をコントロールし冷静にご両親と接していけるようにしたいと思っています。
夫のご両親は金銭的に豊かではないにしろ、少ない年金でも身の丈にあった生活をしていれば食べることには困らない生活と感じておりますので、毎年、帰省時に純粋に夫を育ててくれた感謝の気持ちだけを込めて、わずかばかりですがお金を渡しております。
私としましては、夫と仲良く、ご両親に心配をかけないように暮らすことが一番のご恩返しと思っておりますが、夫のご両親からは(金銭的な)ご恩返しをして欲しいというような気持ちをビシビシ感じております。
仏道の立場からの「親と子」について教えていただければ幸いです。
A:このケースでは「親と子」というよりは、「対等な人と人」ということでお答え申し上げましょう。
まずは、その御義母さまが何故、金銭的に本当の本当に困っているといういほどでもないのに、そんなにも金銭をせびるようなことをしたくなるのかを分析してみることです。
お金の価値を妄信しているひとは、自分がお金(という最高の価値あるもの)をもらえるほど大事な存在として扱われている、という幻覚にひたりたくなるものです。
この精神性は、俗にいう「ヒモ」に似ています。そしてこのケースでの「ヒモ」的な精神性とは、私のみるところ、次のようなカラクリに操られています。
「自分のこれまでの惨めな人生」=「色々がまんしつつ子育てにかけた膨大な時間と労力とお金」ですから、それが周囲からどれだけの価値として評価されるかによって、彼女の惨めな人生の価値も決まるようなものなのです。
つまり「これまでの人生」=「子育ての膨大な時間と労力」=「子や、子の嫁が自分のためにお金を払う気になってくれる金額」となり、
これが自分の人生の意味すべてを左右するので、必死になってお金をせびろうとするがめつい精神性を形成するのです。
ポイントは、「金をくれ」と言って相手にお金を出させても、自発的ではないため「自分のためにしてもらえた感」が薄まりますから、
しつこいくらいに間接的かつ曖昧でネチネチした言い方をするはめになるということ。
それは結局、子供が親の前で「お金が足りないから行きたいとこに行けないなー」と言ってみせたり、ヒモの人が彼女の前で「必要な服があるんだけど10万円もするし、今月は余裕がないから買えなくてどうしよう」とうそぶくのと、何ら変わりはありません。
「行きたいところがあるからお金をちょうだい」とか「服が必要だからお金をちょうだい」ではなくて、自分は困っているというポーズを取ってみせて相手に同情してもらい、
そして"相手の側から積極的に"お金を使ってあげよう、と思ってもらいたい、ということに行き着くのです。
このような思考の泥沼の中にはまりつつ、どんどん性格が醜くなっていっているのが、彼女の現状。
とお考えいただきましたら、「なーんだ、そんなカラクリか」と腹も立たなくなりましょう。
そうして「怒」を離れていただきましたら、怒らず穏やかな気持ちで、彼女たちのすさんだ心をケアしてあげられるような会話によって接して差し上げると良いでしょう。
Q:以前質問して、慈悲の瞑想によって慢の煩悩から自由になれるよ、とアドバイスして頂いた者です。
やってみようと思ったのですが、慢の煩悩が取り除かれた状態、というのがイメージできずうまくいきません。
私の自己イメージは恥ずかしいながらも今こんな感じです。
私は学校ではみんなの人気者だし、明るくて前向きでおしゃれで、後輩が憧れつつもおそれるようなカッコイイ先輩だし、親の言う事も素直に聞く、まじめな本当によい子。ただ、今は体調が悪くて用事もたまっているから、調子が悪くてそうできないだけ。
そうじゃない私なんて見たくないし、まして向き合って克服するなんて辛くてやってられない!
こんな風に考えてしまって苦しいのは、全部慢の煩悩のせいですか?慢の煩悩がなくなったら、私はどうなってしまうんでしょうか?
それに、こんなに苦しい私にどうして誰も同情したり手を差し伸べてくれないんでしょうか。
A:「みんなの人気者」とか「憧れられつつ恐れられる」とか「良い子」とか、そんなものが、本当の本当に自分自身が欲しいものなのかどうか、目をつむって洞察してみてください。
それは、学校の人々や親からモテたい、ということ。結局は、みんなから受け入れて欲しいのでしょう。
しかしながら、貴女はみんなから受け入れてもらおうとして、いつも無理して背伸びをしていらっしゃいます。
そうやって無理をしてモテてみんなから愛されても、嬉しい反面で心の中には薄暗い虚しさが残るはずです。
「背伸びをしなければ私なんて、誰からも愛されなくなるのではないかしらん」と。
ですから一見するとみんなからモテて受け入れられているようでも、実際は「みんな背伸びをしている自分のことしか見てくれてない」という傷が裏でうずき、苦しみが増大してゆきます。
こうして「慢」の罠は、一見ものごとがうまくいっているようにみえても、心を背後から狂わせてゆくのです。
「こんなに苦しいのにどうして誰も手を差し伸べてくれないのか」とは翻訳しますと、「誰か、背伸びしないで無防備なままの私を助けて抱きしめてよーう、えーん」という意味になりましょう。
本当に望んでいるのは、親であれ、友達であれ、誰かひとりでも背伸びをしていない貴女を、甘えさせてくれることなのではないでしょうか。
ですから、現実の自分の姿をごまかしつつ「良い子のフリ」を取り繕い続けるのは、貴女が本当に望んでいることと正反対のほうへ突っ走りながら、心をどんどん狂わせることにしかなっていないのです。
そのうえ、このような「慢」の煩悩ゆえに苦しんでいるにもかかわらず、「慢」のおかげで自分が幸せになれるという催眠術にかけられているので、抜け出すのも怖いのでしょう。
それゆえ幸せのダミーをつかまされつつ不幸になってしまうのですから、この仕組みを腑に落とされましたら、あとは前へ進み始めましょう。
Q:ひとりの時間が寂しくてたまりません。胸がざわついて、お腹に暗く重たいものがたまっていく感じがします。
誰からもメールや電話がないことや、家に帰っても誰もいないことも寂しく感じます。
人に会うのも億劫です。スポーツでもしてみようかと思ったりしますが、腰痛があり、体を動かすのも抵抗があります。
休日が虚しく、休まらないので、仕事もうまくいっていないように感じます。すごく頑張っているつもりなのですが、思うように周りに評価されず虚しいです。
はあ。どうしたらいいでしょうか。いつも他の方のQ& Aを見ては励まされ、こちらのサイトを支えにしています。
A:いやはや、独りでいるのが寂しくてイヤ、人に会うのも億劫でイヤ、となりますと「ケーキを食べるのもイヤだし食べないのもイヤ」、と言っているようなもので困ってしまいますねえ。
何もかもイヤ、という「怒」の煩悩に操られてしまうとき、私たちはこのようにあまりにも甘えん坊になってしまうのです。
そのような甘えん坊に陥りつつ、メイルや交際を通じて他人が自分を承認してくれることを待っているだけでは、自分を寂しさ=物欲しさという苦しみの中に引きずりこんでしまうはめになります。
それでも、たまたま承認が得られるときは良いかもしれませんけれども、「慢」という名の承認中毒になってしまいますと、メイルや交際がちょっと途絶えただけのことで、あたかも麻薬を断たれた中毒患者のように禁断症状が出てしまうのです。
ですからまずは他人が自分をどう扱っているかとは無関係に、独りでも心地よく過ごせるようになる練習をすることです。
独りでも心地よくすごせる柔らかい心があってはじめて、他人から承認を奪おう(「欲」)ともならず、欲が実現しないことで他人と会うのが億劫(「怒」)ともならず、心地よく交際ができることでしょう。
独りを楽しむためには、「考え事」は禁物。「考え事」を止めることも兼ねて、独りのときでなければできないような、ちょっとした作業に没頭してみましょう。
お菓子づくりに没頭してみる、整理整頓や掃除の作業に没頭してみる、などなど。身体をてきぱき動かせる作業であることが好ましいです。そちらに心が集中してくるにしたがって思考の暴走がしずまり、苦痛が沈静しているはずです。
Q:私は22年間嫁として妻として母として農業者として走り続けてきました。
辛い時は「負けるもんか!負けるもんか!」と心の中で叫び続けて・・・・
今思うんです、私はいったい何に、誰に負けたくなかったのか?と。
・・・姑でも無いと思うし主人でも無いような気がします。
誰に聞いたらいいのかわからずここに流れ着いてきました・・・答はあるのですか?
A:その「負けるもんか」は単に「自分は本当はもっと偉い人間なのだーッ、だから頑張れるはず」と自分に言い聞かせる呪文に過ぎません。
具体的に何か特定の対象や人が相手というよりは、自分自身の肥大したプライドを相手に独り相撲を取るはめになっているようです。
「自分はもっと素晴らしい人間なはずなのに」という期待とくらべて、現実の自分が「負けている」ということです。
そして「負けている」という現実から目をそらすために、「負けるもんか」と言いたくなるのです。
最初の「---として、---として」という記し方は、貴女が結局のところ、自分の惨めなプライドの肥やしになりそうな役割をプレイしてきただけだった、ということを物語っています。
「妻として」とか「母として」という演技をして、「ちゃんと役割をこなしている自分は立派であーッる」という幻覚を見ること。
そのような虚しいやりかたでプライドを満たそうとすることはひそかに心をすさませますから、残念ながら自分自身の心を満たしてはくれないでしょう。
それに加えて、そのような「慢」の煩悩という名の自慰的な幻覚剤にどっぷり浸ってしまいますと、当然ながら配偶者も子供も、
「プライドを満たすために『良い妻』『良い母』を演じて親切の押し売りをしてきつつ、評価して欲しがっているなんて不愉快なることよ」という気分を抱くことになるものです。
ですから残念ながら、おそらく貴女が求めておられるであろう「こんなに頑張ってるんだからあなたたちも少しは認めて評価してよーう」という気持ちが裏切られるのは、必然的なことと申せます。
「夫によくしてあげている(つもりの)こんなに素晴らしい自分」とか「子供によくしてあげている(つもりの)こんなに素晴らしい自分」といった幻覚を解毒して、もっと素直に彼らに接せられるように方向転換をはからないかぎり、お互いが不幸なままになりましょう。
Q:迷路メイロめいろと迷走しながら、早20年・・・とほほです。
少しかじっては放置し、いつも忘れ物をしている感じでいます。今日本屋さんで「本」と出会い、静かな気持ちで触れました。
迷路を一つひとつ解明していかなきゃ。ただただ、その確実な方法をしっかり身につけたいデス*
A:迷路の仕組みを知りつくして乗り越えるには、自分の心という難解な「本」を読みこなせるようになることこそが大切なことです。
方法を身につけたい、という実践的な希望があるかぎり、前に進むことができましょう。
手にされた静かな気持ちを種にして育てていってくださいますように。
Q:初めて質問をさせていただきます。『偽善入門』を読み興味から空観中観仮観をもっと知りたいと思っています。
特に中観を知りたいのですが、何かオススメの書物などあれば教えてください。
A:中観についての本をかつて読んだことはありますが印象に残っておらず、お勧めできるものはありません。
そして中観というものは仏道本来のものではなく、ナーガールジュナ(龍樹)という後世の仏教哲学者がつくりあげたものです。
そのような非常に難解な、こしらえられた哲学を学ぶことによって、「果たして自らの性格が良い方向に成長するか」「果たして他人に対して今よりも優しくなれるだろうか」
と考察されてみることをお勧めいたします。
あるいはさらに進んで「なぜ自分はこのような哲学を学びたくなっちゃっているのかしらん」と。
Q:
夫30才、私35才、息子3才の家庭です。まだまだ子供な夫に困っています。
赴任先に夜、電話してもゲームに夢中で出てくれないことがあったり、家に帰ってきてもムスっとして口をきいてくれなかったり、ちょっと愚痴を言うと頑固なのはお互い様だといって、取合ってくれなかったりします。
外では自己表現が苦手のようで、やったりとったりの会話が出来ないようです。
その分?家では我侭放題の夫に困っています。穏やかな関係を作ろうという気がないようです。
関係修復の方法を教えてください。
A:こういったとき、たとえば次のような形で説得しようとするのは無意味です。
「ムスっとするのは気分が悪くなるからやめてくれない?」ですとか「ゲームに夢中になって私を無視するとか子供すぎるから、もう少し大人になろうよ」ですとか。
相手は子供のように我がままをすることで安っぽい自尊心を満たしたいのに、偉そうにたしなめられると「うわーん、否定されたよー」と心が波立ち、かたくなになってしまうからです。
どんな嫌なことを相手がしていたとしても、相手には相手なりの必然性があります。
激しいストレスという苦痛が彼を背後から操っており、いつも自分をごまかしてプライドが傷ついているぶん、自分の安いプライドをなんとか維持するために「家では我がままになりなさい、王様のように振る舞いなさい」
と心に命令されているのです。
そのうえ貴女が彼をへたに説得しようとしても、彼のプライドを追いつめてしまうせいで反撃されてしまうのみで、問題はこじれます。
相手に変わってほしいと思われますなら、まずはその自分の心にメスを入れてみてください。
ゲームに夢中で無視されたりムスッとされると、自分が大切にされていないという気分がして、自分の存在が葬り去られるような気がするのでしょう。
その煩悩モードは、自分の価値と申しますか株価ばかりを気にする、慢。
ポイントは、貴女のほうも「うえーん、私よりゲームのほうがいいんでしょッ」とばかりに心が泣き叫ぶ、子供だということです。
そのような自分の裏舞台を素直に相手に見せ、はらを割って告白してみると、相手も無下に突っぱねることができなくなります。
「自分が大事にされてないと感じてしまうと、『私よりゲームのほうがいいんでしょッ』と悲しくなってしまう、子供のように打たれ弱い自分がいるのです。
そしてこれ以上この状態が続くと、もう持ちこたえられなくなりそうな気がする、だから、もう少し私を大事にしてくれないかしらん」
こうして正直にさらけ出して差し上げさえすれば、その素直さの波は相手にも波紋しますから、相手も自然に武装解除せざるえをえなくなるでしょう。
Q:くだらない質問で恐縮ですが宜しくお願いします。
マイケルジャクソン氏が亡くなってから、食事も喉を通らないほど落ち込んでいます。彼はこの10年不遇でした。悪意のあるマスコミ情報や金銭目的の裁判等、自分ではどうしようもないことに引き回され、どんどん悪い方に転がっていっていたように思います。
そのような彼を思うと、かわいそうで涙が止まりません。そしてマスコミの言うことを鵜呑みにした愚かな自分にも苛立ちます。
彼を不幸と思って、私の胸が痛むのは、良いことなのでしょうか。
個人的は早く立ち直りたいのですが、彼の曲を耳にするたびに、苦しくて涙が出てきます。
A:残念ながら端的におこたえいたしますと胸が痛むのも涙を流すのも、現実には自分にダメージを与えつつ「自分は優しい良い人だ」と錯覚する悪行為です。
そこに生じているのは、死を受け止めずに悲しんでしまう心(煩悩モードは「怒」)と、「でもそんな自分は優しい良い人間だ」と錯覚する心(煩悩モードは「慢」)と、マスメディアに対する攻撃性(これも「怒」)であります。
「早く立ち直りたい」という気持ちと「いつまでも悲しんで(怒って)いたい」という気持ちがぶつかりつつ、「怒」の力のほうがまさっているあいだは、立ち直れないことでしょう。
また、マスメディアは常に虚飾や拡大解釈に満ちていますながらも、マイナスの報道をされてしまうからには、される側にも落ち度があるのです。
そしてその音楽スターなどよりも可哀想な人は世界中にたくさんいるにも関わらず、よりによってそのスターの可哀想さのことばかり考えてしまう理由は、まさに貴方が嫌っているはずのマスメディアの報道をご覧になって、その影響を受けているからにほかなりません。
自分自身の溜めて来た「怒」の業が、たまたま音楽スターについての情報がきっかけで噴き出しているに過ぎません。
ですから、音楽スターが仮に幸せな人生をおくっていたとしても、貴方に「怒」の業がある以上は、なにか別のことがきっかけで涙に暮れたり立ち直れなくなったりすることでしょう。
御相談の御便りをいただいてからすでに二ヶ月は経過していますから、もう音楽スターに対する感情は風化しているかもしれません。
そうだとしたら、自分にダメージを与えるだけ与えて流れ去ってゆく、その程度の感情にすぎないのです。
しかしそうしたらそうしたで、また何か別のことについて「嫌だなあ」という気分が生まれているのではないでしょうか。
ですから問題は音楽スターやマスメディアではなくて、貴方の心が「嫌だなあ」と思ったり悲しみたくて仕様がなくなっているということなのです。
それを背後から操っている「怒」を減らすことが最善の道と申せましょう。
Q:不殺生。
家に出たゴキブリくんはどうしたらよろしいのでしょうか・・・血を吸っている蚊を自分の体に見つけたとき、どうすればよいのでしょう。
蚊とゴキブリ以外の虫は放っておくか生け捕りにして外に逃がすなどするのですが、このお二方については悩みます。
というか、この夏もだいぶ殺生してしまいました。アドバイス、お願いいたします。
A:まず、名前がよくありません。ゴキブリと呼ぶので、「汚くて気持ち悪いものだ」という「文化的」な先入観を強める気がします。
よく見てみるとツヤがあり高貴な姿をしているので、「男爵」とでも呼んでみては如何でしょうか、いくぶん友好的な気分になるかもしれません。
それにしても男爵が出るということは、男爵が好む生活環境を自分が台所周りにつくっているということです。
身もふたもない申し方をしますなら自分で呼び寄せておきながら嫌だ、と殺しているようなものでありまして、なんだかおかしいなあ、と思っていただければ変化が生じるのではないでしょうか。
(実際のところ、ありとあらゆる現象がこの業の法則にもとづいていて、あらゆる失敗はこの「嫌だ」の中から生じるのですけれども。)
蚊につきましては、コップなどでポンっと閉じ込めてしまい、コップの口に手を当てながら外に連れてゆき、逃がしてみては如何でしょうか。
これは慣れると、そんなに難しいことではありませんし、殺さずにすんだぶんだけ心持ちが軽くなるのが実感できることでしょう。
Q:こんにちは。小池さん。ご相談したいことがあるのですが、私は人を受け入れることや、人から愛されることがどうも自然にできないらしく、それはトラウマなんかも関係しているかもしれませんが、生まれつきこういう性格なのかもしれません。
しかしいつまでもこのままでいると愛に恵まれてもそれを台無しにして生きていく人生になりかねません。
愛してくれている人に対して素直に愛を受け入れこちらからも愛して幸せになるには、どうしたらいいんでしょう。
A:その心の症状を考えてみますに、相手の愛情について無意識的にテストしたくなってしまっているのではないかと拝察されます。
素直に受け入れられずに「ついつい」嫌な態度を取ってしまったり、「ついつい」拒絶してしまいたくなることでしょう。
嫌な態度を取ったり拒絶しても、それでもなおかつ相手がちゃんと自分に愛情を注いでくれるかどうかを、「ついつい」確かめたくなってしまうのです。
煩悩に支配されて心の自由がきかなくなってしまっているため、この「ついつい」が、繰り返し顔を出してしまうことでしょう。
自分がちゃんと承認されて受け入れられているという感覚が小さな頃から得られなかった結果として、「こんどこそ本当の愛情が欲しいよーッ、全面的に受け入れられたいよーッ」という「慢」の煩悩モードが猛威をふるってしまっています。
その結果として皮肉なことに誰から愛情をもらっても疑いが湧いてくる・・・ッ。「これは本当の愛情ではないのではないかしらん?」「私の顔が可愛いから愛してくれてるだけではないかしらん?」
「私が優しくしてあげてるから愛してくれてるだけではないかしらん?」と。
結果として、相手の愛情がどれくらい強いかをテストするかのように、わざと自分から愛情を壊すようなことをしたうえで、「それでも相手が自分を受け入れてくれるかどうか」調べたくなる。
すなわち「受け入れられたい」が強くなりすぎる結果として「相手を受け入れる」ということが全然できなくなってしまうのです。
たとえば子供のころを想い出してみますと、親におねだりしたものが買ってもらえないとき、すねて「もういらないッ」と言い出すことでしょう。
親が「仕方ないね、買ってあげるよ」と言ってくれても、しばらくの間は「いらないって言ってるでしょ!」と言いながら心の底では「うわーん、買ってほしいのに意地になっちゃって欲しいって言えなくなっちゃったよー」と混乱状態に陥っている、という状況。
ここで「意地」と申しましたのが、「いらない」と言ってもなおかつ相手が「だいじょうぶ、それでも買ってあげる」と自分を甘やかしてくれるかどうかテストしたい、という、無意識的なる慢の煩悩モードに他なりません。
自分自身がこのような餓鬼じみた煩悩に支配されているという現実を、その煩悩が出てくるたびに見つめてくることです。
「餓鬼、餓鬼、餓鬼」とか「慢、慢、慢」などと念じながら、自らの心を眺める習慣をつけることをお勧め申し上げましょう。
Q:インコと暮らしていました時、その時の気分で放っておいたり、いじめてしまいました。
私が寿命を縮めたのかもしれません。あの子は私に心の支えになっていてくれました。悔やむだけでなく、今の私がするべき事があればお教え下さい。
A:有り体に申しますと、「自分が相手を完全に支配している」という影響力を楽しんでしまわれたのです。
意地悪をしたり、放置したりすることによって、相手が困窮してゆくのを眺めますと、「この子は自分の影響下にある」と実感できるでしょう。
その結果として、自分自身の無力感すなわち惨めさから目をそらして「自分は影響力のある大事な存在であーッる」という気分にひたることができてしまうのです。
その煩悩モードは、「慢」。
心の支えと仰せになる要素の中には、そうして支配欲を満たすのが心の支えになっていた、という歪んだ部分があったことも認めざるを得ないでしょう。
いま、為すべきことがあるとしましたら、そのインコの寿命を縮める悪業の背景にあった、自分自身の煩悩を見つめ、それを削り落としてゆくことではないでしょうか。
そうして自分の濁りを減らして良い方向に変化されることが、亡くしたインコへのせめてもの弔いとなりましょう。
Q:先日の4コマ「
クマッコ我慢」を読んで、今までの生き方に疑問を持ちました。
何かを購入するときは、今まで「予算」を一番に重視して来ました。例えば家賃などもう少し高ければ希望が叶うけど、毎月の収入に適した予算で我慢しよう、という感じで納得していました。
そうして予算内で納得していた頃に比べて、今まで我慢できていた事も出来なくなり、やたら悩むようになりました。「欲と迷の苦受」と唱えても体が重くなり、迷路に入ったみたいです。
今まで節約で押さえていた物欲怪獣が暴れだして、抑制が利かなくなってるのかも…全くアホなことですが、とても苦しく辛いです。節約癖も、物欲怪獣も克服したいのです。
次へ進むための助言を頂けたらと思います。
A:お金が減ることに対する恐怖感(=ケチの「怒」)によって、物欲をムリヤリ抑圧する。とは申しましても、ケチの背景にあるのも、「お金が減ることが不安で仕様がないよーッ」とばかりにお金という「物」を所有しておきたくてたまらない、という別種の物欲にほかなりません。
お金をたくさん持っておきたい理由は、お金によって「いつでも自分のものにできる物」の領域を拡大したいから、ということと考えてみますと、ケチとは、この世界の中で自分の支配下に置ける領域を減らしたくない、という煩悩と申せましょう。
お金を所有しておきたいという物欲によって、他の物にたいする物欲を抑圧している、とでも申しましょうか。
ですからケチとは、お金によって世界に触手を伸ばせる領土を拡張することにより安心を得たい、という気持ちに結びついています。
しかしながら皮肉なことに、これまで経験してこられましたように、それにより安心が得られるどころか、実際はケチの煩悩ゆえに心身が緊張して不安感が増大するのみならず、抑圧された物欲がより激しいものへとリバウンドすることでしょう。
では抑圧されていた物欲がリバウンドしてきたとき、なぜ酷く苦しい思いをするかを考えてみましょう。
それは、物欲に乗っ取られつつも、心の背景では「やっぱり使いたくない、お金を減らしたくないよーッ」というケチの煩悩がノイズを鳴らしているからです。
ケチが優勢になったら物欲が抑圧されてチクチク苦しみ、物欲が優勢になったらケチが抑圧されてチクチク苦しむ、という構図です。
心がこのように分裂していて、時と場合によってケチが優勢になったり物欲が優勢になったりし続ける以上、どちらにしても決して幸福になることは叶いません。
そうした欲望の罠から脱出するためには(1)物を手に入れたときには心を見つめて、物を手に入れても心のノイズが増えるだけで幸せにならないことを観察すること(2)頭を刺激する「欲」「欲しい」というものから離れて「必要なもの」のみを優先的に購入すること
(3)普段あまり使わない、すなわち「必要」ではないのに「欲望」ゆえに所有している物を処分して減らしてみると心のノイズが減って心地よいことを試してみること、などを実践してみることをお勧め申し上げましょう。
Q:ご相談が御座います。
娯楽としてスポーツ観戦をしておりますが、仏道的には映画や音楽の刺激への欲求と同じ事となりますでしょうか。淡々と観る事が出来ず、勝ち負けに熱くなってしまいます。
出来れば観ずに避けるべきでしょうか。
勝敗の関係するスポーツは欲と欲、怒りと怒りのぶつかり合いとして良くないものでしょうか。
仏道に近付く事が出来た時には「スポーツ観戦はつまらないもの」となるのでしょうか。
もう一つ、小学生の息子がサッカー選手を目指しております。親の私が勝敗のあるスポーツに関して疑問を持ち始めているのに、息子を応援(支援)する事に矛盾を感じております。
応援する気持ちに、親の見栄が混ざっております。
試合の勝敗への拘りがあり、息子のプレイについて「ダメだし」をしてしまいます。
ダメ出しの最中にも見栄の要素が多分に含まれております。
「負けず嫌い」の子が良いとされ必要とされていますが、おかしな事だと矛盾も感じております。
それに気付いてからは暫く優しく接する事が出来るのですが、暫くして息子の不甲斐ないプレイを見ると、またダメだし心が湧き出してきます。
自分自身の見栄、感情で息子に辛く接するのは良くないと感じております。
こう考えていると、子供の教育と言いながら殆ど自分の欲望を押し付けているのかと思いどの様にすれば良いのか分からなくなって行きます・・・。
ご住職、どの様にして行けば良いのでしょうか。
A:なぜスポーツで応援する相手に勝ってほしくなるかを考えてみましょう。
相手の中に「自分」を感情移入した結果、その人が勝つことで「自分」が拡張できるような錯覚が生じるからです。
「自分」を感情移入するためには、相手が自分の親戚だとか同じ国出身だとか同じ地方出身だとか、その人の信念に共感できるとか、顔が好きだとか、何かしら感情のフックがはたらいています。
自分の欲望を刺激してくれるそれらのフックを利用して、応援する相手を自分の領土拡張ごっこの道具にしているのです。
そして、応援する相手の勝ち負けを通じて「自分」の領土が拡張したり縮小したりするドキドキ感により、自我を波立たせる電気ショックを生じさせる。
その電気ショックは心身を苦しめるにもかかわらず、心が「気持ち良い」と勘違いしてしまうのであります。
そう考えてみますと、スポーツ観戦というのは虚しいことではないでしょうか。
その領土の拡張欲求に、自分自身の子供を巻き込んでしまうとお互いが不幸になります。
「自分の子供は上手にプレイできなければダメだ・・・ッ、それでは自分が情けない思いをするもん」という慢の煩悩。
それに操られた親が「それではダメ」と言ってしまうことを通じて、子供は自分の存在そのものを否定されたように感じるものです。
そして「ダメと言って否定されないように頑張らねば」と思うように条件づけられてしまいますと、やがて他人から否定されないように否定されないようにと、他人の評価や視線ばかりを気にする性格へと育ってしまいます。
親がダメと言ったり、褒めたり、そういった気楽な言葉を通じて子供の心は刺激を受け、「評価されたい」とがんじがらめに条件づけられ「洗脳」されてゆくことについて、じゅうぶん自覚的に戒めていられることをお勧めいたしましょう。
ですから「自分の感情に気づいてからしばらくは優しくできる」という時間を、今よりも長引かせることです。
すなわち、「自分の感情は今どうなっているのか」ということに気づいている時間を少しでも延長するように、心を見つめていること。
「欲望だらけだ」というのを自覚して気づいているのは何となく嫌な気がされるかもしれませんけれども、それに気づいている間だけは、その欲望が大人しくしていてくれることでしょう。
それを忘れて失念した瞬間に、煩悩が完全に心を乗っ取ってしまうのですから。
Q:こんにちは。このページとご著書をいつも楽しみにかつ指針にしております。
私は、人と意見が対立したときに、自分の主張を激しくしてしまうクセがあるようです。
自分では正当な範囲で反論しているつもりなのですが、相手や第三者からあとでそのことについて非難されることが、なんどか続きました。
たぶんよくないことをしているんだろうと思います。とはいえ、なんでもかんでも相手の言うなりになることもできないのでは、とも思います。
そんなときにうまく判断する方法、そして抑えないといけないときにうまく自分を抑えるにはどうしたらいいですか?
A:意見が対立すると主張が激しくなる、というのは、程度の差はあれ誰もがやっていることです。
なぜなら「これが自分の大切な意見ッ」と激しく執着していて、その主張が否定されることで自分が否定されるような気がするからにほかなりません。
そのせいで、たとえクダラナイ問題についての議論ですら、もともとはさほど本気で主張していなかったことに相手が反論してくると、むやみにヒートアップして熱弁を振るってしまったりもするものなのであります。
すなわち、本当に大切なことを無視して、勝負所を間違えてしまう。
「我が見解は完璧に正当であーッる」と思い込む「見」の煩悩が激しい御方ほど、別に主張しなくても良いようなところで闇雲に主張をしてしまいがち、となります。
さて、「闇雲に反論しないこと」イコール「相手の言いなりになること」と考えられておられますのは、大きな誤解です。
むやみに激しく主張せずとも、単に穏やかに「そうかなあ、うーん、どうなんだろ」「それはできません」「自分はこうします」「ふむー」などと、自分が納得していないことだけを伝えれば良いのです。
表面上だけ取り繕った穏やかさではなく、心の中が穏やかであることがポイントであります。
そのためにはまず「見」煩悩により自分がいきりたってしまうのを見つめる習慣をつけること。「見」煩悩が傷つけられそうなとき、すぐに「怒」が出てくるのも見つめ、手放すこと。
手放したうえで語れば、どのような内容であれ、自然に穏やかな語り口になり相手に不快感を与えません。
いつもは闇雲に反論してしまうせいで常に周囲の反感を買い、結果として自分自身の主張は誰からも聞き入れてもらえないのではないでしょうか。
本当に自説を通したいのであれば、その自説に執着せずに必要最低限の情報を的確に相手に伝える冷静さを保つことが重要と申せましょう。
Q:初めまして私はもうすぐ40(女)になります。
結婚願望が薄く、この年まで独身できました。
過去に1人、結婚したいと思う人がいましたが、その思い叶わず別れました。
親を安心させるためと、一度ぐらいは結婚した方がよいかな?と思ってます。
結婚したほうがいいんでしょうか?
A:ん・んー、いやはや、結婚したほうがいいんでしょうかと聞かれましても。
結婚することで親が安心したり、「結婚していないのはどうなんだろう?」と自分が不安になる負の要因を取り除けるのでしたら、結婚したほうが良いでしょう。
「親を心配させているのではないか」「自分は人並みの幸福が得られていないのでは」といった風合いに不安になるつどに、「怒」の煩悩による悪業が増幅してゆくのですから。
ただし、焦ることなく「パートナーとして良い人が見つかったら」くらいの心持ちでいるのがよろしいでしょう。
結婚して一緒に生きてゆこう、と思える相手がいない状況で「結婚しよう」という気持ちを先行させても、良い相手とは巡りあいませんから。
Q:いつもこちらのHPを楽しみにしております。
食事のことが書かれた文章を拝読しましたが、そのような少食でだるくなったりふらふらされたりということはありませんか?
ぶしつけな質問ですが、私自身、少食療法をからだのためにおこなっておりますが、カロリーとしては小池さまと同じくらいだと思います。・・・がなかなかこのだるさなどからぬけられないため、なにがちがうのかとメールいたしました。
なにかご教示くださいましたら、まことにうれしいです。
A:仰せの症状は軽度の「低血糖症」状態のように思われます。が、そもそもの問題は「健康になるために○○食事法をおこないたい」という発想法にあると申さねばなりません。
世の中にはさまざまな食事法がありますけれども、それらは「健康になりたいッ」という身体への(病的な)執着に縛られています。
そうである以上は心に緊張を生み臓器をも緊張させ消化吸収をさまたげる結果、何を食べても中途半端なエネルギーとしてしか吸収されなくなります。
たとえば私はかつてマクロビオティックという食事法を実践しており、それにより一定程度の健康効果があがったのは事実でありますけれども、それへの執着による弊害が目立ちましたので止めました。
そして止めたあと「健康」にこだわらなくなったあとのほうが、はるかに健康的に過ごしています。
「からだのために」「健康のために」「この食材はあの食材と組み合わせて食べなければ」というのは忘れて、食事はほどほどてきとうにして執着をはなれ、瞑想をしていれば、心身の状態は最適化され問題は生じません。
重要なポイントは、心に執着の力を加えなくすることにより、身体にも執着の力を加えなくすることと申せましょう。
Q:ものを持っていてはいけない、少しでも減らさないといけない、という強迫観念のようなものがあります。
5年で9回引っ越しして、荷物はもう段ボール箱3つだけで、欲しいものもほとんどありません。
食欲もなく、不眠気味で、いつも緊張し、虚しく、悲しい気分です。もう少し楽になりたいと思うのですが、どうしたらいいのでしょうか。
A:実はそれは、ものに激しく執着している状態です。
欲望により執着するかわりに「減らさなくてはッ、やっつけなければッ」と、「怒」によって執着してしまっているのであります。
不眠も緊張も悲しさも、すべて「怒」の煩悩に典型的な精神状況。
決して欲望がないわけではなくて、欲望よりも激しい「怒」によってフタをして、欲望を心の底に沈めてしまっているからこそ、心がこんがらがっています。
きっと、かつて、何度も繰り返して何かを「欲しい」「実現したい」という気持ちをムリヤリ押し込めようとしてこられたことでしょう。
実現したいけれどもうまくいかないから「最初っからそんなものはイラナイもんッ」と思い込もうとした経験が重なりますと、欲望が機能不全に陥ります。
「相手から好かれたい」という欲望だけならまだ健全なのですけれども、フラれた結果として、「もう傷つきたくないから、最初から好かれなくていい」という思考にはまってしまいますなら、危険なのと同じであります。
あるいは別の例をあげますと、就きたかった職種に就けなかったときに「ま、もともとこういう職業には向いてなかったんだろう(=こんな職業に就かなくってもいいもんッ)」などと自分をごまかすことの危険性も、同じことです。
まずはこれまでの過去を振り返ってみて、まずは自分が「欲しかったけど諦めた(フリをした)もの」「実現したかったけど諦めた(フリをした)こと」などを思い起こしてみられることです。
そして「あー、実は自分ってば、やっぱり諦められなくてあれが欲しかったんだなー」と虚心坦懐に認めてあげることからはじめましたら、少しずつ「怒」のフタがはずれて素直な「欲望」が出てくることでしょう。
そうやって復活してくる欲望は欲望で問題なのですけれども、「怒」と強がりの「慢」によってフタをした屈折状態よりも、はるかに元気で明るく生きられるようになることでしょう。
Q:ご住職の著作を多数拝読させていただいております。
今までの下手な生き方を改めようとしている最中でございますが、先日12年寄り添った愛犬を亡くしまして、その時の動揺が激しくて悲しみ、苦しみ、表現のしようのない不快感にいまだ包まれたまま何も出来ない状態です。
現在私は妊娠しており、胎児の為にも早く立ち直りたいのですが、どのようにすれば少しでも落ち着く事ができるのでしょうか。どうかご意見をお聞かせください。
A:少々、きついことを申してみましょうか。
亡くなった愛犬について嘆き悲しみますと、その悲しさを操っているのは「いやだ、受け入れたくない」という「怒」の煩悩モードであります。
その「怒」の業の報いとして、まず第一に貴女の心身が損なわれるのみならず、ご心配のように胎児に悪影響がおよびます。
そして「怒」の心の波が亡くなった愛犬に向けられますから、死後に輪廻したあとの(かつては愛犬だった)生命にも悪影響がおよびます。
そのように考えてみますと、自分の感情ゆえに自らを害し、さらに生まれ来らんとする赤子を害し、亡き愛犬をも害するのは、自分勝手と申せませんでしょうか。
心の中で何を考えるのかということは、常に自分と他者に影響を与えるのですから、気楽に選んで良いものではないのであります。
「悲しい、どうして死んでしまったのだろう、私は何かしてあげられたかもしれないのに」と自分勝手に酔っぱらって「怒」の業を増やすことから、足を洗いましょう。
そのためには、自分の都合で「私がッ、私はッ」と悲しむかわりに「亡き愛犬が生まれ変わったあとに、安穏であるように」と祈ってみましょう。
目をつむって「安穏たらんことを、安穏たらんことを、安穏たらんことを」とひたすら念じておりますと、ネガティブなことを考える余裕がなくなり心が静まります。
そしてその穏やかな心の波が相手にも胎児にも良い影響を与えるのです。
Q:いつも楽しみにサイト訪問させていただいております。
人と食事をしたり、一緒にいたりすると緊張します。追い立てられるように話かけたり、食事の量が大量になります。
一人になったあとに、どっと疲れ、具合が悪くなるので人と食事をするのが怖くなっています。
ゆったりとした気持ちで、人と食事ができる方法は、ありますでしょうか?おそらく、一人でおられるときの食事作法や食事量が
ぐちゃぐちゃだったりするのではないでしょうか。
誰かと食べるときは、「最低限のマナー」を守らねばなりません、よね。
本当はデタラメに乱れた食べ方をしたいというよく欲望の煩悩がありますのに、この人たちによく思われたいという「慢」の煩悩によって、「乱れた食べ方をしたいッ」という欲望を抑圧するはめになります。
その結果として「本当は嫌だよーッ」という「怒」の煩悩が瞬速であらわれ、無意識的に強度のストレスを残すのであります。
食べることに限らず、貴方の場合、心の中身と、他人の前での振る舞いの間におおきなギャップを作るクセをお持ちのことでしょう。
心の中は嫌なノイズで満ちているのに、相手の話にあわせたフリをする、ですとか、緊張した作り笑いをして楽しいフリをする、ですとか、相手の話に対してやけに張り切って相槌をうつ、ですとか。
そして心の中では「あなたの言うことには納得できぬことよ」「あーあ、こんな作り笑いは疲れにけり」と、怒りのセリフがぶつぶつ呟かれていたりします。
そしてこの「怒」の業こそが自らを内部から毒で焼き、それをやりすぎると具合も悪くなってしまいます。
ですから重要なことは、相手といるときだけ相手の前で「よい子のフリ」をしなくてもすむようにすること。
食事であれば、一人でいるときもちゃんと、丁寧に美しく食べるように心がけられましたら、他人と食べるときに取り繕う必要がなくなり、
落差が生じなくなります。
そしてもっと根本的には、イライラした「自分ッ」を隠しつつ相手に合わせたフリをしなくてすむように、日常から「怒」の業を減らし穏やかな心を作ろうと決意されることでしょう。
心の中で残響しつづけている「怒」のノイズが減りましたら、「自分ッ」が薄まります。いやーな「自分ッ」が薄まれば、それを自然に外に出したところで周囲と調和が取れますから、無理をして合わせる必要はまったくなくなります。
なぜなら、当然ながら「よい子のフリ」をせねばならないのは、心の中が「よい子ではない嫌な子」である間だけのことだからでありますゆえに。
それができないうちは、せめて「よい子のフリ」を演じたくなる「慢」の煩悩が出てくるつどに、「慢の刺激、慢の刺激、慢の刺激」とか「よい子のフリ、よい子のフリ、よい子のフリ」などと念じて客観化し、手放すこと。
それを手放して、「自分はこんな悪い子だけどゴメンネ、えへッ」という具合に開き直るほうが、素直に心を屈折させ苦しませることもないぶん、ずっとマシと申せましょう。
Q:ご住職著書の「煩悩リセット稽古帖」を拝読させて戴きました。今までにない角度から、これまでの行為や性癖を垣間見ることができ、とても清々しい気持ちになれました。
そこで質問なのですが、私は妻帯者でありながら別の女性と6年近くも交際していた経験があります。私の欲望と妻に対する不満(怒り)からこの様な行為に及んだのですが、彼女とは欲望の赴くままお互いを求め合いました。
その結果、己の欲望に互いが雁字搦めになり、苦しめられ、徐々に「俺は何をしてるんだろうか?こんなこといつまで続けるんだろうか?」と考えるようになりました。そんな日々を送り、いつも心の何処かに自己嫌悪を抱いておりましたので、当然、私を取り巻く環境は悪い方向へと向かい、更に、欲望へと逃げ込む…といった悪循環を繰り返しておりました。
そんなある日、約1年半ほど前に出会ったある書物をきっかけに、自分というものを見つめなおす機会に恵まれ、半年ほど前に、お互い不思議なほどスンナリと別れることが出来ました。
今まで、異性に関する欲望に流されやすい私でありましたが、今回の一件で目が覚めたというか、そのような行為の無意味さと有害性を痛感し、今では自分でも嘘のように、その方面に関する欲望が剥げ落ちたような清々しさを感じています。
さて、その女性との交際中、私が負担すべきお金を彼女が負担してくれたりと金銭面で借りがありましたので、その分を毎月、彼女の口座に少しずつ振り込んでいます。これは彼女からではなく、私の申し出で行っているのです。
ご住職の著書を読み進めていくうちに、「彼女に損をさせる訳にはいかない」という思いとこの行為は、実は、「私と交際して損をしたと思われたくない」ではないかと疑問を感じるようになりました。
まだ暫く返済には時間がかかるのですが、当然、この事は妻へは話せません。この返済を続けていくべきか、また、いつかは妻に本当の事を告白すべきか悩んでいます。ご住職のご見解をお聞かせ頂けないでしょうか?
A:「損をさせない」というよりも、「自分は相手にいろいろと負担させて奪ったひどい人間だったのかも」ということを自覚するのが嫌なので、「ちゃんとその分を返しているのだから、自分はそんなにひどくないのであーッる」というイメージ操作をしているのではないでしょうか。
すなわち、「相手にひどい人間だと思われたくない」うえに、それより深い次元では「自分で自分をひどい人間だと自覚したくない」ので、良い子のフリをしておられるのです。
その煩悩モードは、自分の値段を不当に吊り上げたくなる「慢」。
そして、少なくとも彼女が金銭的負担をしてくれていたのは、貴方に対しての欲望があったから、もう少しソフトに申せば愛着があったからでしょう。
彼女にとって過去の愛着の証拠とでも申すべき金銭を返済されるのは、過去の感情を否定されるような気分に陥るかもしれません。
そしてその金銭のことを見るたびに思い出して、苦しくなるかもしれません。
しかしながら、すでにいちど返済を始めてしまわれたからには、途中でやめるようなブレは余計に相手を苛立たせます。
返済する/返済を続ける/返済をやめる、ということについてお相手がどう感じているのかを確かめて判断することが肝要と申せましょう。
また、奥方に伝えられないことがある、ということは常に罪悪感(その煩悩モードは「後悔」+「怒」)にチクチク苛まれて業をふやし続けることに他なりません。
そのことが心の中で疼くたびに、負のエネルギーが増殖してゆくのですから。
それは第一に貴方の心に少しずつ歪みをつくり、第二にそうして歪んだぶんだけ、二人の関係が不自然なものとなってしまいましょう。
機会を見つけて、奥方を傷つけぬよう細心の注意で言葉を選びながら、ことの経緯を素直に打ち明けることをお勧めいたします。
Q:小池住職こんにちは!
以前好きな小説や映画や漫画などに自分を登場させる空想をして楽しんでいるという方のご相談がありましたが、私はもっとひどい空想癖を持っています。
小さい頃母に眠たくないのに無理に昼寝をさせられていた時に退屈をまぎらわす方法として好きなアニメの中に自分で作ったキャラクター(おそらく自分がモデル)を登場させていろいろ空想して楽しむということをしていたのがはじまりだったのですが、20代後半になった今では常に頭の中で2、3篇の長編小説が進行中という状況になってしまっています。
そして小池住職が以前相談した方の回答の所に書いていらしたように、私はものすごい天然ぼけでうっかりミスが多いのです・・・
以前はこの妄想癖も小説を書くなどして趣味に昇華できればと思っていましたが、あまりにも長編なので気力も体力もない私には無理でした。単なる空想と創作はまったく違いますね!
小池住職のご本を読み妄想の害悪について知ってからはこういった妄想壁は良くないものだと改めて思い、ちょっとさびしいけれど長編小説の登場人物達とはきっぱりお別れしたいと思っています。
最近は頭の中でストーリーが進行し始めたのに気がついたら「妄想!妄想!」と心の中でつぶやいてストップさせるようにしているのですが、ちょっと気を緩めていると1時間以上どっぷり浸っていたということがたびたびあります。
何とかしたいのですが、本当に小さな頃からの筋金入りの妄想癖です。治るものでしょうか?私は残念ながら小池住職のように1日3時間も座禅する時間はとてもとれません・・・・
A:地道な努力さえ続ければ治ります、なぜならしょせん、誰しもが頭の中で自分勝手な妄想を続けていて、程度の差があるだけでありますゆえに。
業を変化させてその「程度」を少なくすれば、綺麗さっぱり治っていることでしょう。
日常生活において、一挙手一投足をできるだけボンヤリとではなくて、意識的に丁寧におこなうようにすること。
それによって現実の身体感覚に心を結びつけておき、心を頭の中の考え事の中に逃げ込ませないようにすることに努められましたら、良い薬になってくれることでしょう。
そしてまた、「あ、また妄想が出て来たッ」と気づいて「妄想してる、妄想してる、妄想してる」と自覚する習慣を、もっとはっきりと確立されることをお勧めいたしましょう。
あるいは、つぶやかなくとも心の中で「無知、無知、無知、迷、迷、迷」などと念じて客観化し、手放すことを繰り返すことであります。
馴染みの登場人物たちに別れを告げるのは寂しいかもしれませんけれども、空想上ではなく現実で幸福になるためサヨナラ、の努力を進めるのが賢明でありありましょう。
「ダイアナ」という現実の友達をつくることができた「赤毛のアン」が、鏡の中の空想上の友人に「寂しいけれどサヨナラ」をしたように。
以下は余談。単なる空想と創作との違いは、前者は自分自身の煩悩を刺激するだけで他人には影響しないようなものだったりするのですけれども、
後者のほうはしばしば、他人の煩悩をも激しく刺激して自分の妄想の中に巻き込むものだ、ということかもしれません。にっこり。
頭の中でのストーリーが自動進行すること。その刺激への中毒がさらに強くなってしまいますと、同じものが心の中で繰り返し上演されることによって、力を増してゆきます。
その力が上限をこえて高まってしまいますと、やがてそれは発言や行動に影響を与えはじめます。
極端なところに行ってしまいますと、本人も気づかないうちにブツブツと独り言を言う人になってしまいますから、要注意、であります。
Q:はじめまして。身近に相談できる人がなく心細く思っている女性です。
お付き合いして10年になる人がいます。その人とのことでお話ししてもいいでしょうか。
この男性とおつきあいする前、両親とも友人ともよい関係であったと思うのですが、この男性と付き合いを始めたころから、両親や友人と会ったりすることをとても嫌がられました。自分は二人だけいればいいんだ、と言われその時は付き合いも最初なので仕方ないのかな、とも思っていました。
ですが、友人から電話がかかってきてもいやな顔をされ、あなたの友人は非常識だと言われ、こわくなったので電話をしたりしないでと私から友人に頼んだりもしました。しばらくして、友人と話をすることもなくなり、とても寂しくなってしまいました。さみしくて、彼になぜダメなのか、と訴えたこともありました。すると、そんなこともわからないなら、あなたとつきあっていくのは無理だね。
そんな自分勝手な人では、自分には合わない。と言われました。
そう言われてなぜか、もうそんなことはいわないので考え直してほしい、と言ってしまったんです。そうすると、では自分の言葉でどうするのが良いと思うのか言えというんです。
友人とのつきあいよりもあなたのことが大事だ。だから他の人とつきあいたくない。と言いました。それは自分で思っているから言ってるんだよね、俺が言わせたわけではないよね。そこは誤解するなよ。と念押しされました。
そして何年もそうしてなんとなく生きていくことになっていったようです。二人だけでいるので、話題を作ろうと思うのですが、日常のつまらない話であっても、必ず、私の話を否定するんです。どんなことでも、そうだね。とはいわれないんです。否定されるのがつらくて、否定されないようなどうでもいいことばかりを話してきました。
つねにおまえはばかだ。親のしつけがなっていない。などと言われ続け、彼の顔色ばかりをうかがうようになりました。自分で考えることがどんどんできなくなっていったようです。何か気にいらないことをすれば、私ばかりでなく親までもがばかにされる。そう思うと悲しくて、彼がどうすれば気にいるようになるのかばかりを考えるようになりました。
自分の考えでこうしようと思う、といったことははっきりと否定されるか、自分でやりたいことなんだったらやればいいよ、うまくいかなくなると思うけど。と言われ、自分からやめてしまうんです。そういうとき、必ず俺はそうしろとは言っていないよな。というんです。
返事が遅れると、どんどん声の調子をきつく、俺は言ってないよね。そこは確認しておきたいんだけど、と言われます。
もう自分でも何のために生きているのかわかりません。どうしたらいいのか自分で考えられません。
A:彼は、貴女から「誰よりも大切にされたい、自分のネガティブなところも含めて完全に受け入れてもらいたい」という、ないものねだり、の欲望に取り憑かれています。
ないものねだり、と申しましたのは、「完全に受け入れる」などということは、人間にはできないことでありますから。
誰よりも大切にされているのを究極にまで赤ん坊的に求める場合、他の関係をすべて断ち切ってでも自分を愛してもらいたい、という感じになるものです。
「誰よりも大切にされたい」という気持ちゆえに、ほんの少しでも貴女の関心が友達や家族に向こうものなら、「自分が大切にしてもらえてないのでは」と不安になって怒るのです。
反対に、友人や家族を捨てさせてでも自分のほうだけ見てもらえるときに「わーい、自分は彼らよりも商品価値が高いもんねッ」という幻覚にひたることができますゆえに。
実質的には「自分のことだけ見てて欲しいから、友達や家族とは連絡を取らないでね」ということなのですけれども、
そのようなことを自覚するのは恥ずかしくて自覚したくないですから「連絡を取らないでくれと俺が頼んでいるわけではなくて、あくまでもあなたの意志で決めたこと」という体裁にしておきたいのでしょう。
貴女の発言をことごとく否定して踏みにじろうとするのもまた、彼が「自分が大切にされたいよーッ」と必死になっているがゆえのこと。
貴女が「たとえ否定されようとも別れたくない」とついてきてくれますと、自分が絶対的に受け入れられているッ、と錯覚できましょう。
彼はそのことを、ムキになってテストしているのであります。
そうして貴女を自分の思い通りに操れるお人形や奴隷のように扱うことで、全能の神になったような気分を味わうことへと、中毒症状を呈しているのです。
さらに「自分が相手を人形や奴隷にしている」という現実を直視すると罪悪感が生まれるはめになりますゆえに、「俺はそうしろとは言ってないよね」と自分および貴女に言い聞かせて誤摩化しているのだと申せましょう。
彼の心にはポッカリと大きな欠乏感が開いていて、貴女を虐げて従属させればその欠乏感が癒されるとカンチガイしています。
「足りない足りない、こうさせたい、ああさせたい」と心に電気ショックの刺激を走らせています。
けれども残念なことに、彼の思い通りに行けば行くほどに、さらに彼の欠乏感は増してゆきます。
「これでも満たされないなら、じゃあもっと激しくしてみようッ」とばかりに、より激しい刺激を求めて貴女への態度を酷いものにしてゆくに違いありません。
そのような現実を踏まえて、冷静な判断をされることをお勧め申し上げましょう。
Q:こんばんは、小池さん。いつも楽しくこちらや御本を拝見しております。
私は生理前二週間程、ひどく忘れっぽく、怒りっぽく、傷つきやすくなります。
慢も怒りも迷いも普段よりとてもとてもひどく手に負えなく感じます。アドバイスはありますか。
A:生理とともに老廃物や有害物質を一ヶ所へ集めて体外へ排出しようとする結果、有害なものを貯えている人ほど生理は重くなります。
したがって、健康的な食事をしていた昔の日本人女性は、生理はすこぶる軽かったようです。
肉・魚・砂糖・添加物などを減らして食事を改善すれば、生理は今よりずっと軽くなるでしょう。
それはともかく、生理前の女性は生理が重いほど、生理にまつわる身体活動をおこなうことに心のエネルギーが奪われてしまうため、意識がボーッとした感じになってしまうように思われます。
それは、「無知」=「迷」の煩悩モードが活性化するということ。
その「迷」のため、けだるくなったり眠くなったりすることでしょう。
この「迷」をベースにして意識のコントロール力がおとろえるため、普段であれば無意識的に「これは出しちゃだめだ」「傷つきたくない」とばかりに抑圧していた「欲」や「怒」の本性が、剥き出しになりがちです。
つまり、そうやって怒りっぽかったり傷つきやすかったりするのは隠しているだけで、それこそが剥き出しの自分自身にほかなりません。
その剥き出しの自分が出て来てしまう間は、どうしても「欲」のモードにて我がままになったり「怒」のモードにて傷つきやすくなったりしてしまいがちでありますゆえ、人間関係をこじらせかねません。
信頼できる相手には「自分はこの期間はこういう事情で心が不安定になりやすいので、取扱い注意に協力してくれると嬉しうございます」と伝えて協力してもらいましょう。
また、その期間はできるだけ独りで過ごす時間を増やして、心波立つ環境から身を退いておられるのがよろしいでしょう。
そして、もしも余裕があるなら「わー、これが自分の本性だったのか」といった風合いに観察日記をつけるようにして研究してみられることで、意識の明晰さを育むようにされることであります。
Q:職業的に学問を志す者ですが、よく、学者は24時間学者たれ、すなわち何をしているときにでも潜在意識で問題を解いているような、、とよく言われます。
でもこのHPを読んでいるとお風呂にはいるときはお風呂、ご飯を食べているときはご飯、のほうが良いようです。
しかしながら学者として仕事の時間だけ問題を考えているのでは少ないような気がします。
机に座ってじっとしている時間には限度がありますので散歩をしながらとか他のことをしているときにも考えておかないと足りないように思います。
いかが思われますか。
A:学者であられるのでしたら、「一つ一つにことにメリハリをつけて集中する」のと「いつも仕事のことだけ考えてウワノソラで生きる」のと、どちらも試してみたうえで、
実際にどちらが研究生活にとって効率がよいかをデータにもとづいて「研究」してみるのが賢明と申せましょう。
考え事ばかりをして、心を脳内情報処理の中にばかり引きこもらせてしまうことによって、皮肉なことに心が疲弊いたしますゆえ情報処理能力そのものが衰えてゆきます。
私の知り合いで学者や研究者をしている人のほとんどが、考え事のしすぎでが心を病んでいるのは偶然ではないでしょう。
そのうえ同じことばかり考えていますと、心が潜在的にその情報に飽きてきて「これはもうつまんないよ―ッ」という反応を示すようになります。
潜在的に腰が引けた状態になりますから心は疲れ、逃げようとし始めますから、「研究対象のことを考えている」つもりで、実際は関係のない雑念に逃げ込むことを繰り返すことでしょう。
裏を返しますと、ものごとにメリハリをつけることで心が新たに興味を持ち直してくれ、一つ一つのことにクリアな集中力をもって向かうことが叶います。
対象を違うものに変えることにより、心が受ける刺激=「受」の種類が変化いたしますから、この刺激の変化に対して心が興味を持つのであります。
(これは、心は刺激の変化増減にしか興味がないという荒涼たる事実にほかなりません。)
また、アイデア的に新しいブレイクスルーを呼ぶような閃きが訪れる瞬間のことを考えてみます。
神経質かつ執着して同じことばかり考えていましても、良いアイデアというものは一向に生まれない、というのは万人が感じているところでしょう。
執着状態では心が混乱していて、心の中で大量の情報同士がごちゃごちゃに行き来している状態。ゆえに情報が多すぎて、どの情報とどの情報とがつながっているのかも、よく見えなくなるのであります。
反対に、一見すると問題そのものに関係ないようなことに集中してみますと、まずは思考のゴチャゴチャが一掃されて、クリアな状態になります。
そしてこの集中状態から、集中が崩れて最初に雑念が出て来た瞬間が、閃きが生じる瞬間のように思われます。
それは瞑想のクリアな集中状態にあらわれる雑念が、非常にクリエイティブなものである確率が高いことからも明らかと申せましょう。
集中したクリアな意識状態で、最初に出て来た雑念同士がパシッと連結する、つまり一見つながらなさそうにみえた情報Aと情報Bがパシッっとつながったとき、目の覚めるような閃きが生じるのです。
Q:はじめまして。たまたま立ち寄った本屋で「偽善入門」を見つけまして、偽善だなんてイジワルで面白そうな本だ、と思って手に取りましたが、イジワルだなんてとんでもない内容で驚きました。
以来、「座禅入門」も参考に、私も周りの方々も、おだやかに幸せに暮らして行けるようにと心がけて過ごしています。
貴著やこちらのホームページに、いつも大変お世話になっております。どうしても気にかかる事があるので質問させて下さい。
先日新聞の一面に「便所飯」の記事がありました。私もたびたび大学のトイレでご飯をこっそり食べる事があるのでその記事が印象的でした。
母に「便所飯をする人が増えてるみたいだよ」と話を振った所、「信じられない、何それ気持ち悪い」という反応が返って来ました。
「でも私も去年たまにトイレでお弁当食べたよ」と言うと、また「ええ?気持ち悪いよ。どうしてそんな事するの」と、「理解に苦しむ」というような態度でした。
その時なんとなく、便所飯をする私の心配をしてほしい、という期待があったので、少し残念な気分になってしまいました。
私としては、「友達をとにかく早く作らなければ」という焦った気持ちはなく、クラスの子と話す機会も多くありますし、だんだん親しくなれればとのんびり思っています。
ただ人と連絡をとりあって都合をあわせ、一緒に昼ご飯を食べたりすることが難しく感じられるので、今のところ学校では一人でご飯を食べています。
あとは「親しい友達がいないことを隠したい」だとか、そういう欲さえ捨てれば便所飯なんてする必要がないのですが・・・まあ、だんだん何とかなるだろうと思っています。
どちらかというと、母に私の事を心配してもらえなかった事が残念なのです。
自分で相談を書いていても思いますが、私は混乱していますね。「何とかなるだろう」と言いながら「心配して欲しい」と思っていたり、自分を誤魔化している気がします。
本当は何が問題なのでしょう。そして、こんな風に「なんだか自分を誤魔化しているんじゃないか?」と思ったときは、そんな自分にどう対処したらいいでしょうか。アドバイスを頂けないでしょうか。
A:おやまあ、お手洗いの中に隠れてランチタイムというのは、初めて知りました、が、煩悩に苦しめられる現代人にはごく普通に起こり得ることでしょう。
実はすべての問題が同じ一つの「慢」=自己イメージの煩悩モードゆえに生じていることのように思われます。
自己イメージに空虚な風穴が空いていて、何とかしてそれを埋めたい、という。
「親しい友人がいない自分」と思われてしまうと、自分がつまらない、価値のない存在であるようなイメージが生じてしまう。
すなわち、自分の商品価値をイメージ操作するために、皆から離れて食べる苦しみを味わうはめになってしまいます。
また、御母様に心配してもらえなかったら、心配してもらえるほどの愛される価値はない自分なのではないか、と思わされる。
ゆえに、心配してもらえないことで自分の商品価値が下落したような気分がして、哀しくなってしまうのであります。
そして更には、現在がうまくいっていないのを気にしているのは格好悪くて、自分の価値が下がるように思われる。
ゆえに「何とかなるだろう」と、気にしていないフリで誤摩化したくなります。
自分の心に誤摩化しをやめさせますには、自分の価値をつり上げたいという煩悩を見つめて手放すことが重要と申せましょう。
これら全ては、「自分にはまったく価値がないのではないかしらん」という、心にポッカリ開いた風穴を埋めようと、自分の商品価値をつり上げようという必死の空回りなのであります。
皮肉なことに、このブラックホールに何を投げ込んでも、決して埋まらないのですけれども。
この心持ちがあります以上は、御母様の愛情をテストにかけるようなことを、したくなってしまうことでしょう。
「確かにワタクシに愛情をかけてくれている素振りをみせてくれてはいるけれども、果たしてそれは本当の愛情なのかしらん。
信じられませんことよッ。では、心配をかけてみて、ちゃんと思い通りにいたわってくれるかどうかテストしてみますことですわ」と。
何故に試験官のごとくテストしたくなるのかと申せば、自分には価値がないような気がする欠落感を、自分にとって大切な人からの「本物の」愛情によって埋めたくなりますゆえに。
「あー、ワタクシはちゃんと心配されて愛されているから存在価値があるみたい。安心ですことよ」という刺激を、その場しのぎに味わいたくなるのです。
もしもテストをやめて素直になれましたら、物語は変化いたします。
「あのねあのね、お手洗いでお弁当を食べてる私のことを心配して欲しかったのだけれども、心配してもらえなかったからちょっと哀しかったのですわ。えへッ」
こんな風合いに素直に打ち明けてみたら「もう、この子ったら可愛いんだから。分かってあげられない愚かなる母を、許しておくれ」と、ちょっとばかり憂いを込めてにっこり微笑んでくれるかもしれません。
残念ながら、「慢」の煩悩モードにはまってしまいますと、このようにお互いの理解を深めることはできなくなります。
なぜなら、こちらが詳しく言わなくても御母様のほうから事情を察して手を差し伸べてほしい、とお感じのことでしょう。
自分から御願いして心配してもらうのでは、「自分は心配してもらえる価値がある」と感じにくいですから。
まさにこうして、御自身を「慢」によりがんじがらめにしてしまうことこそが、自分をいじめ続けることにほかなりません。
まずは自分自身を「よしよし、『慢』でがんじがらめになってて可哀想に」と、そっと「心配」して、いたわってあげてくださいますように。そして、それを手放して素直になれましたら、自由。
Q:座禅での初歩の初歩のところに取り組んでいるのですが、集中があまり出来ません。
どうしても足の痺れや、背中の痛みに意識が向いてしまって、呼吸からどんどん意識が離れていってしまいます。
そのときに血が引くような、昇るようなおかしな感覚があり、身体的に不快感(特に気持ち悪さや多量の汗)を覚えます。
以前月読寺でのセッションに参加させて頂いたときも同じような状態になり、その後吐き気を覚えてまったく集中できませんでした。
そのあたりから苦手意識みたいなものがついてしまって、家で行っているとき今度予約したセッションでまた吐き気を覚えたら、もしセッション中に戻してしまったら‥‥と考えてしまい自宅でもセッション中でも集中が阻害されてしまいます。
これから座禅を行う際気をつけるべきポイント、直すべきところなどがありましたらご指導頂けませんでしょうか。
また、呼吸についてなのですが、以前伺ったお話の中に長い呼吸をわざと作ることによって穏やかな心を作る教え方のものがあるとおっしゃっられてましたが、自分がパニック状態に陥ったり、不安なことが離れないときなど、どうしてもざわついて集中できないときはそのように呼吸をコントロールしても良いものなのでしょうか。
A:気持ち悪さや多量の汗。それは別に珍しいことではありません。平常心を保ちながら、「あー、汗が流れてることよなー」と距離を取って眺め、出てくるに任せてください。それは、人生を通してさんざん溜め込んできた負のエネルギーを排出する、灰汁すくい作業にも似ています。
それらは概ね、過去に溜めて来てフタをしていた「怒」に意識が届くようになり、フタが外れて業が表面化してきているものです。
過去につんだ業に意識の力によりせっかく解消してゆくプロセスでありますのに、それに反発いたしますと、問題がこじれます。
すなわち過去の「怒」が身体的にあらわれてきましたときに「こんなのが出てきたら嫌だよーう、うわーん」と心を「怒」に染め反発してしまわれますと、「怒」に対して新たな「怒」を注ぎますゆえ、
相手のエネルギーを増やしてしまうことになりましょう。
それゆえ問題が悪化し、吐き気などにもつながってしまうのです。
拝見していて感じる最大の問題は、「集中しなくっちゃッ」と、集中に執着しすぎていることです。
それゆえに「シビレや汗や気持ち悪さといった現実の現象は集中するのに邪魔になるから嫌だよーう」と怒りたくなってしまうことでしょう。
そしてまさにそのように怒るからこそ、さらに集中が阻害されて脱線してゆくのです。
もっとも重要なのは、単に集中しようとすることではありません。
心や身体に強烈な反応が浮かび上がって来たときは、意識を呼吸から離れさせて、強烈な反応そのものを観察するモードに切り替えること。
シビレが気になったときは、瞬発力をもって呼吸から離れ、そのシビレを見つめます。「シビレ、シビレ、シビレ」と念じたり「苦、苦、苦」などと念じて見つめ、見つめる自分の心と「苦」を切り離します。
気持ち悪くなったときは瞬時に心の反応をストップして、意識をすかさず不快感そのものへと向けて念を撃ち込みます。
「不快感、不快感、不快感」「苦、苦、苦」などと繰り返し念じながら、その反応を客観的に見つめていること。
それを通じて心が問題点を深く理解してくれましたら、後は「こんなにまずいことになっているのなら全力をあげて治さねばッ」とばかりに、問題解決が早まります。
ただし「苦」に対して念を撃ち込もうとしても「あー、前みたいになったらどうしよう」と恐れたり「早く消えてくれないかなー」と怒っていたりしましたら、その雑念ゆえに「念」がはたらきません。
そのときはまず恐れている自分や早く消えてほしいと怒っている自分を見つめ「怒、怒、怒」と念じて心を見つめ、まずは平静さを取り戻しましょう。
そのうえで根気づよく、穏やかな心によって再び不快感そのものへと観察の力を向けられましたら、徐々に問題は解消してゆくでしょう。
Q:ご住職は数珠をお持ちですか?それはどのようなものですか?そもそも数珠は何のためにあるのでしょうか。
A:数珠は、黄色い半透明な石でできたものを一ついただいて持っていますが、まったく使っていません。
正式な(?)数珠は108個の玉からなり「煩悩の数をあらわしてそれを消してゆくことを意識するためであーッる」などとも言われていますけれども、それは「後付け」の言い訳のように思われます。
ブッダの時代からしばらくの間、数珠などというものは存在しませんでした。
実際は、ある時代以降に仏教が呪術化してゆくなかで、まじない的グッズとして呪術的な他宗教から取り入れたもののようです。
なお仏道における八斎戒の七つ目に「装飾をして格好をつけない」というものがありますけれども、実質的に数珠は「いかにも宗教」な、いかめしい格好を付ける装飾具として機能しており、その使用は破戒に当たる気もしなくはありません。
Q:こちらにも何度か質問させて頂いたものです。
その時の住職様のアドバイスで、慈悲の瞑想を勧めて頂きました。
そのことで質問なのですが、どう頑張っても、嫌いな人の幸せを願うフレーズになると、心が反発してしまうのです。
これでは逆にカルマを積んでいるのではないのでしょうか??
A:がっびーッん、残念ながらまさに仰せのとおり、それは悪業をさらに増やし心に植え付けることにほかなりません。
苦手な人や嫌いな人に対して、「慈悲の瞑想」をしておられるつもりで、実際はイライラして「怒の瞑想」になってしまっております模様、あいやー。
これでは、わざわざ瞑想時間をつかって「怒」のカルマを焼き増しすることにしかなりません。
そうなってしまわぬために、次のような「順番」を踏まえるよう注意いたしましょう。
(0)先に、呼吸を用いた坐禅瞑想を少しおこなってから精神統一を高めておく。
(1)自分自身を、強い集中力をともなった慈悲の念でじゅうぶんに満たして心持ちが平静かつ穏やかになること。
それができない間は、次に進まない。
(2)自分にとって好ましい人々や生き物に対して慈悲の念を広げたうえで、彼らに慈悲の念を送ることに専念し、心から「欲」や「怒」が一掃されていること。
それができない間は、次に進まない。
(3)そうしてはじめて、(1)(2)で形成した揺るぎない強力な慈悲の念を土台にして、苦手な人々や嫌いな人々に向かって拡大すること。
現状ですと、自分に対してすらまともに慈悲の念が形成されていませんために、心が「怒」に染まってしまっています。
ついつい嫌いな人への「怒」にとらわれてしまいますのは、「その『怒』によって自分自身を害さないようにいたわりませう」という、自らに対する慈悲が不充分ゆえのことでありますから。
そうでありますうちは、慈悲の範囲を広げるのはやめていただいて、自らに対してのみ慈悲の念を向けるよう専心されてくださいますように。
まずは自己という足下を整えてまいりましょう。
Q:
例えばですが、好きな人の彼女が自分の嫌いな人で、その事実を認めたくない場合、そのいやさを慣れさせるために、ツーショット写真(彼女達の)をながめたりして、自分のいやな感情を事実としてとらえるというのはまちがっていますか?
事実をむりむり自分につきつけて、刺激に慣れさせる方法は良くないでしょうか。それとももう逃げて逃げて逃げまくった方がいいのでしょうか。
無理せずに静かにいやだな〜という気持ちをみつめたほうがいいのでしょうか。いやなものにしっかりむきあって平気になりたいという思いなのですが。
A:おやまあ、新しい修行法のようなものを考察されました、ね。それが「良い」か「悪い」かは、一概には申せませんが、おそらくは罠にはまっておいでのように感じられます。
それをむりやり自分につきつける際、心をどう操縦しているか次第で、結果はまったく異なったものとなります。
つきつけられて視覚から嫌な刺激を受け取るたびに、認めたくないという「怒」にもとづく嫉妬の煩悩モードが発現することでしょう。
ここまでは完全にオートマティックな反応のように起きるはずです。
記しておられますように、もしその刺激に反応する感情を冷静に眺めて、感情と自分の心を切り離すように観察していられるなら、それにより執着がときほぐされてゆきます。
しかしながら特に強い感情の場合、切り離して冷静に見つめるためには、ある程度の瞑想技術がないとなかなか難しいものです。
実際は、冷静に見つめるどころか、嫉妬の煩悩による強い刺激にぴったり飲み込まれて一体化してしまい、慣れるどころか嫉妬が増幅することもおおいにあり得るでしょう。
そうして刺激が増えてゆくのを心が「快楽」と勘違いしてしまいますゆえ、「写真をみて慣れてみませーう」という口実のもと、実際は更に強い刺激のトリコになりたがっているだけ、かもしれません。注意、であります。
そうでありますなら、「むりやり」な修行のようなことは避けて、自然体に過ごすなかで嫉妬心を見つめるお稽古を地道にしたほうが有効と申せましょう。
あくまでも観察を試みようとされるのでしたら、出てくる嫉妬心に一体化してしまわぬよう心を切り離して、そのネガティブ反応のもたらす結果を冷静に点検することです。
単に感情を見るだけでなく、その感情とともに、胸がギューっと締め付けられるように苦しくなったりお腹がウーっ、と気持ち悪くなるとかの身体反応をも、冷静に見渡してみましょう。
「あー、可哀想に、私ときたら嫉妬の刺激でこんなに心身をズタズタに痛めつけちゃって」そのように洞察しながら、自らをいたわって差し上げることであります。
Q:はじめまして、先日ご住職の著書「煩悩リセット稽古帖」読ませて頂きました。今まで22年間触れた事のない考え方に触れ、凄く感動しました。
それで相談なのですが、単刀直入に申しますと、私はどうしても性欲を抑えることができません。
半年ほど前からなのですが、自分が堕落した生活を送っていることに気づき欲求に流されない生活をしようと意識するようになりました。
食欲や睡眠欲などは以前に比べれば、比較的我慢できるようになったのですが、どうしても性欲だけは我慢することができません。
自分の今までの人生を振り返ると、性への執着がやたらに強く、女性との性行為や自慰行為のしすぎが他の活動に悪影響を及ぼした回数はかなりの数になると思います。
それを後悔し反省もしているのですが、恥ずかしながら今のところ改善される気配が全くありません。
煩悩リセット稽古帖に書いてある方法も幾つか試しているのですが、それでも良い結果が出せません。
何か良い方法はないでしょうか?よろしくお願いします。
A:参考までに、
こちらの質問への回答をお目通しいただき腑に落としていただきましたら、過剰な性欲を鎮静できるはずです。
そのうえで、性欲という刺激の奴隷になるのでなく、性交渉をあくまでも相手との愛情を深めるための道具として用いる自由を勝ち取ってまいりましょう。
さて、ん・んー、残念。実践のされようを拝見しておりますにあいにく、「我慢する」というのも「後悔し反省する」というのも、仏道の方法に反しています。
「あー性への過剰な執着のせいで失敗したーーーッ」と後悔するたびに、その失敗のイメージが反復されながら心に刺激が走ります。
ゆえに、克服したいはずなのに裏面では執着がさらに強まる、という循環が生じます。
また、むりやり我慢して抑圧することにより、心に刺激が走り、結果として我慢した対象は強烈に心に焼き付きます。
それゆえ、一回我慢ができたとしても、条件がそろえば後になってから、更に激しく求めたくなるでしょう。
その条件とは、端的に申しますとストレス状況に置かれることであります。
ストレスの刺激を心がたくさん浴びますと、心はそのストレス刺激を感じずにすませたくなります。
ストレス刺激を忘れるためにこそ、それよりも強烈な刺激をインプットすることによって、フタをしたくなるのです。
そして、脳内妄想により最大級の刺激を与えてくれるものと申せば、過剰に増幅された異常な性欲ほど「都合の良い」ものはありませんでしょう。
ゆえに貴方の場合、「ストレスがちょっとでも発生したら、すぐに性欲の強烈な刺激をあたえてごまかせばいいや」という精神回路が形成されしまっているのです。
ですからストレスを増やさないために、性欲そのものは放っておいて、日常において「欲」や「怒」にもとづくストレス刺激を減らすよう心がけましょう。
「何かが欲しい」「こうなりたい、ああなりたいよーう、うぇーん」という欲望に駆られると、「今はまだ実現していない」という刺激が生じ、そのストレスをごまかすために性欲がふくれあがります。
「あれが嫌だよーう」「あの人の声が嫌だよー、うわーん」「なんだかつまんないよーう」との怒りに駆られても刺激が生じ・・・ッ、以下同文。
Q:子供のころからなのですが、誰かといる時に突然(一人でいる時になったことはない)うまく言い表せないのですが、胸がざわざわし、自分がそこにいることへの不快感で一杯になり、ただその感覚から早く逃げ出したいという気持ちになることがあります。
楽しく話している時にも急にそのなんとも言い難い嫌な気持ちになります。いつも、その気持ちが消えるまで、じっとしているだけです。どうしてこんな気持ちになるのか理由は分かりませんが、なってしまった時にどう対処すればいいでしょうか。
A:独りぼっち・・・ッ、他の人と一緒にいてどんなに楽しくしているつもりでも、心は他人と無関係に勝手に動いてしまうでしょう。
それは、その場にいる外部の現実とは無関係に、心の中で閉じた情報処理がおこなわれてしまうがゆえのことです。
意識できないほどのスピードで、心の中で「怒」に関わる、記憶の映像や音などがチラチラ混ざって繰り返しリピートしている模様です。
そのリピートが一定程度ほど繰り返された時点で、だんだん意識できるレベルにまで不快感が上がってきて突然「とにかく嫌ッ」という気分になることでしょう。
たとえ仲の良い相手と楽しくしていましても、少しくらいは相手に合わさなければならない側面がありますので、「合わすのは疲れますことよ」という薄っすらとした「怒」は、誰しも持ってしまいがちなものです。
この薄っすらとした「怒」が心の中にたまった「怒」へと飛び火する形で、過去のありとあらゆる「怒」が心の中にチラチラと混ざりやすい状況がつくられるのであります。
「過去にためた『怒』の業が今ごろになって報いをもたらしているのだなー、今後はこういった業をつまないようにしよう」
といった心持ちで、なんとも言いがたい「怒」のざわつきを見つめる習慣をつけましょう。「ああ、過去に作った不快感の報いなのだなあ」と理解しながら見つめますと、いつもより早く不快感から回復することでしょう。
私も高校生から大学生くらいにかけて不安定な性格で、似たような症状に悩まされましたからよくわかります。
直前までとても楽しかったのに、突如として「ここにいてはいけない」ような気分になり、私の場合は不機嫌そうに「さよなら」などと一人で帰ってしまう、ということがありました。
その苦い経験を踏まえて申しますと、「いたくない」「帰りたい」「一人になりたい」という衝動に身を任せますと後で後悔するうえに、その刺激が心に焼き付いて、さらに癖になってしまいますから気をつけましょう。
大切なのは「怒」の業による嵐が心を占領している間にできるだけ、その嵐と一体化せずに、嵐と心を切り離せるようにして過ぎ去るのを待つこと。
この状況下で行動に出たり言葉を話したりしましたら混乱が増すだけですから、記されている「その気持ちが消えるまでじっとしているだけ」というのは、適切な対処法と申せます。
Q:書籍・HPなど、いつも楽しく拝見させていただいております。
自分が抱えてきた「生きにくさ」の正体が、自分自身の生んだものであることを理解できたことで少しずつ、楽になってきました。ありがとうございます。
教えていただいたことにつきましてはまだまだ、頭で分かる・理解するという部分の方が大きいのでもっと、生活の中で身につけていければと思います。
最近、自分の中で整理が付かず困っていることがあると気づいて、教えていただきたく、こちらに送らせていただきました。
困っているのは「褒められると、舞い上がってしまうこと」です。
……もう、本当に恥ずかしい話なのですが、社交辞令だと分かっていても、有頂天で大喜びです。
「褒められ慣れていないせい」と思っていたのですがどうも違うのではないかと思いはじめています。
私のなかに、たくさんの「慢」があるのにも関わらず、普段は他者から認められないため鬱積しておりたまたま「褒められた」ことをきっかけにして爆発しているんでしょうか?
そして、他者が褒めてくれるのは、私の「慢」が相手から透けて見えていてくすぐればいいや!と思われているんでしょうか……?(は…恥ずかしすぎる!)
華麗に、さらっと受け流すにはどういう心持ちでいればよいのでしょうか?
A:あっは、「慢」が透けていてくすぐればいいやと思われているのでは、というご推察は言い得て妙、にっこりいたしました。
実際のところ、「慢」ほど他人が無意識的にかぎつけやすい煩悩は他にないように思われます。
褒め言葉を厳密に考えてみましょう。
1)触:音波=「声」が聴覚神経をとおして「聞こえる」という現象が発生し、それ自体は身体に負担をかける神経信号にすぎません。
2)受:ところが仰せのとおり「自分は認めてもらえてない、認めてよーッ」という気持ちが鬱積しておりますゆえに心が「自信のなさを埋めてくれる素晴らしい言葉であーッる」と認識してしまい、苦の信号を「快楽」へと書き直してしまいます。
3)渇愛:そのように書き直された刺激に対して、心が激しい「欲望」+「慢」の煩悩モードで反応し、心身ともにドキドキして混乱状態に。
褒められた瞬間に、こうやって自分自身の心のプロセスを観察する習慣をつけられるとよろしいでしょう。
あ、音波が耳を刺激していて、その情報が心の中でデータ改ざんされて「快楽」と思い込んでいるのだなあ、と見つめますこと。
データがインプットされたところから、やがてデータが改ざんされていって「快楽」という錯覚が発生するところまでのプロセス全体を客観視いたしますと、その感情のブレは終息いたします。
そのうえで「おや、ありがとう」とニッコリ肩すかしをくわして差し上げることであります。
また重要でありますのは、褒められて「慢」がうずきます場合、(頭の中が快楽の錯覚を感じているのは別として)本当は誰もが苦しみを感じています。
ところが、その「慢」がほどほどのものだった場合は、苦しみがうっすらとしたものですから心は「快楽」として勘違いしやすいように思われます。
慢の心が強烈すぎてあまりにも舞い上がってしまった場合は、あからさまに苦しくなりますので、「快楽」として勘違いしにくくなります。
それを実感できますたびに、「あー、これは明らかに苦しみであることよな」と心に言い聞かせておくのも、心がデータ改ざんをしにくくなりますゆえ、有効でありましょう。
Q:「煩悩フリーの働き方。」を拝読しました。「今」に集中し、思考を空回りさせない、というアドバイスに関して質問させてください。
私は通勤時間中などに、好きな小説や漫画、映画などのストーリーの中に自分がいるかのような空想を繰り返し、しています。たとえば自分はヒロインで、美青年ヒーローと一緒に活躍するとか・・。またキャラクターたちを勝手に動かして、ストーリーを作ることもあります。
こうした一見無害な空想も、欲の煩悩を増やし、害になる思考の空回りなのでしょうか?
A:唐突ですけれども赤毛のアンが空想にふけるのが大好きだったのは、彼女があまりに不幸すぎた少女時代のこと。
大人になり幸せになって、不幸な現実を空想でごまかす必要がなくなった彼女は、空想から卒業したのでありました。
では、そういった空想に「えへー」とひたりたくなる心の仕組みを考えてみましょう。
目の前の「ごく普通の現実」を楽しめずつまらなくてイライラしてしまうので、その現実を消去して「脳内の楽しくて刺激的な情報」に置き換えたくなるのであります。
それを繰り返しますと、「とても楽しく刺激的なこと」に対しては集中できるけれども、そうではない「普通の現実的なこと」に対してはまったく集中できなくなっていき、
現実認知能力や判断力や記憶力などが衰えます。
すなわち、「えへー」と空想の中に引きこもりますのは欲の煩悩も増やしますけれども、それよりもこの場合に致命的なのは「無知」=「迷い」=「混乱」の煩悩を増やすことと申せましょう。
僭越ながら推察いたしますに、忘れ物が多かったり、他人様との会話中に話が脈絡なく飛んでしまいがちだったり、されるのではありませんでしょうか。
かつて空想癖があったころの私は、忘れ物が異常なほど多く、話に脈絡がなくあちこちに飛びがちでありましたことが、懐かしく想い出されることであります。
Q:幸せとはどういうモノだと考えますか。
幸福論(椎名林檎)で頭に浮かんできました。
A:幸せとは、心が雑念のノイズによりざわついていない、クリアな心地よさと考えます。
反対に、アレコレと雑念が浮かんできて余計なことを考えなければならないとき、心はストレスを受けます。
このストレスの刺激を心が「き、気持ち良いィィィー、幸福であーッる」と改ざんしてしまうのが、くせ者なのですけれども。
ストレスの刺激を幸福と勘違いさせてしまう、心の改ざん作用。
この作用をストップするにつれ、自分にとって本当にハッピーなのは何で、本当にストレスなのは何かが自分で判断できるようになってきます。
男女の仲であれば、お互いが雑念のノイズから自由であるときの幸福感は、とても分かりやすいでしょう。
一緒に寝転がっていて、なんだか思考も言葉も必要なく、小声で一言・二言を交わすだけで充分、とか。
もしくは無言でいながらも、お互いの存在をただ感じていて、充足している、とか。
雑念の「考える」モードから離れられて、「感じる」モードに入っていられるとき、そのつど幸福は生成するものと申せましょう。
Q:私は物が捨てられません。
「何か」を持っているということは、以前に必要があってのことです。また将来必要になることもしばしばあります。
こう考えると、「今必要がない」から捨てることをためらってしまいます。しかし物が多いことで心が乱れている感じもします。
小池様の御住まいには物が少ないかと思いますが、物を持たない、減らすコツがあれば教えてください。
A:まず、その「何か」を持っている理由という、前提から疑ってみましょう。
その「何か」を持っている理由は、本当にそれが以前必要だったからでしょうか。
かならずしも必要ではないのに、何となく広告やイメージに頭をビリビリッと刺激されて購入してしまったものかもしれません。
だからこそ、手に入れはしたものの、その後は使うこともなかったりするでしょう。
にもかかわらず「いつか使うかもしれない」と考えることで、無意味な物質に執着するケチの煩悩が心に刻み込まれてしまいます。
ケチの煩悩モードに操られ「将来必要かもしれないもの」を持っておくせいで、持ち物は際限なく増えてゆくことでしょう。
考えようによっては、どんなものも「もしかしたら将来必要かもしれない」のですから。
対策は「いま必要ではない、使わないもの、とりわけ頭をビリビリ刺激するだけのもの」をリストアップして、片っ端から処分してしまうこと。
「もったいない」というもっともらしい言い訳に騙されることなく、容赦なく売ったり捨てたりするとスッキリいたします。
おそらく、それらの大部分は将来も必要なものにならないはずです。
しかしながら、たくさん処分してスッキリしたうち、一つか二つくらいはもしかすると後ほど改めて必要になる可能性は、低いですが確かにゼロではないでしょう。
とは申しましても、もしも本当に必要になったときがやってきましたら、改めて手に入ればよいのであります。
確かにその際にコストが生じますけれども、「それまで持っておかずにスッキリできていたぶんの代金」と思えば、安いものと申せましょう。
Q:こんにちわ。ご住職の本を何冊か読ませていただき、大変、参考にさせていただいています。
先日、このサイトの過去の質問コーナーを読んでいて疑問に思ったのですが、仏道的には映画や本は基本的にはあまり良いものではないのでしょうか?
こんな風に考えるのは考えすぎかもしれませんが、そのコーナーでは「泣ける話や感動する話が、必ずしも心にとって良い栄養になるわけではない」とか書かれていて、その理由が私の勝手な解釈かもしれませんが、ピンチや危機におちいった登場人物に感情移入することによって、怒りの煩悩を燃やすのが悪いのかな、と思ったりしました・・。
ただ、登場人物が何かしらピンチや危機におちいらない作品はほとんどなく、そこで感情移入せず「まあ、しょせん作り物だから・・」と、冷めた目で見たら全く面白くなく、また、スポーツ観戦をして応援しているチームがピンチや危機になったら、やっぱり多少ハラハラドキドキして見ますし、応援している選手がミスをしたら、若干イラッとすることもあるのですが、そこで「まあ、しょせん人事だから・・」と思ったらやっぱり面白くなく、かといって怒りのカルマを作ってもいいやと開き直って見たとしても、何かしら気になるところがあり、正直、少し困っています。
つまり、ご住職が「ボコボコに殴られた後で看病してもらって喜んでいるようなもの」とおっしゃったとおり、映画やスポーツ観戦にせよ、何かしら(苦)や(怒り)がないと、うまくいった時に嬉しい(喜び)という気持ちになりにくいという人間心理は確かにあると思います。
ここで私が一番聞きたいのはプラス(喜び)がマイナス(苦)や(怒り)をカバーできるのかという事です。
私は映画やスポーツ観戦が好きで良く見るのでちょっと気になったのですが、映画や小説でよく言われるカタルシス(抑圧からの解放)というものはただの勘違いで、面白い映画や試合を見てスッキリした気分になっても、やはりその作品を見て感じた怒りのカルマは残ったままなのでしょうか?
また、受験勉強や仕事でも、苦しまずに、楽しみながら成功できればそれが理想ですけれど、現実的にはイライラしたり、苦しんだりすることも多いと思います。そんな場合、最後になんとか成功して「やった、頑張ってよかった」と、喜んだとしても、それまでの怒りのカルマは解消されておらず、やがて悪影響を及ぼす事もあるのでしょうか?
A:いやはや、真理にしても良い薬にしても、口に苦いものだからこそ、心を抜本的に改善してくれるショッキングな威力を持っているのであります。
「カタルシス」と古代ギリシャで呼ばれていた感動は、冷静に分析すれば「殴ってケガをさせて、治療して感謝させて医療費を取る」ようなもの。
それは心に悪影響を与えるように思われます。
夫が婦人をボコボコに殴った後で「ごめんなさい、もう二度としません、本当は君が大切なんだ。愛してるからこそ、ついつい抑制がきかなくなって殴ってしまうんだ。でも、もうしないよ」と土下座をして謝るというシーンを想像してみましょう。
直前まで悲しみと絶望のどん底に突き落とされていた婦人は、「実は自分はすごく愛されている」と錯覚して感動する、これがカタルシスの本質であります。
こういった関係は殴る側と殴られる側が依存しあって、なかなか改善できません。
そのうえ、そのときどんなに感動したとしても、「殴られた」ということへの反発や傷は心の中に深く刻み込まれて「怒」の業になりますから、それがいつまでも心の底でリピートされて悪影響を与え続けます。
「カタルシス」と呼ばれる感動錯覚を喜ぶクセがつくほど、娯楽に限らず、「わざと苦しみの刺激を浴びてからカタルシスを得たくなる」というパターンを反復しやすくなります。
先日、相談を受けた例をあげて説明いたしましょう。
いままで仕事のスケジュール管理が上手にできなかったのが、仏道の坐禅瞑想により心を制御するよう努力した結果、仕事がすんなり行くようになったそうです。
しかしながら、あんまり仕事がうまく行きすぎるようになりますと、カタルシスの感動を求める心にとっては不都合。
「うわー、この仕事ができなかったらどうしようッ」などと困ることがなくなり、「怒」の刺激が少なくなりますから、カタルシスもなくなります。
そうすると、せっかくうまく行っておりますのに、心は「カタルシス」が得たいばかりに刺激をもとめて、わざわざ自分を苦しめたくなります。
それゆえ、ついついダラダラしはじめてサボってしまい締め切り直前まで自分を追いつめ、再び刺激を得たくなりもいたしましょう。
締め切り直前になってハラハラドキドキしてから、ものすごく苦しんで仕上げましたら、その苦しみが消えた分の落差を「あー、気持ちいいぃぃぃーーーーッ」と錯覚する、というカタルシス。
ですからたとえば、「怒」を刺激する娯楽を好めば好むほど、潜在的に「締め切りに追われてイライラしながらものごとに取り組むのが好き」という性格をも形成いたします。それは、とても疲れることでありますのに。
受験勉強の例で申せば、全然勉強せずにあっさり受かった人よりも、無茶苦茶苦しんでイライラしながら勉強して受かった人のほうが、苦しみが一挙に消滅するギャップゆえに当然ながら喜び(という錯覚)は大きいでしょう。
しかしながら、両者のうちどちらが性格がねじ曲がるかというのは、わざわざ申すまでもないことでしょう。
結論。芸術にせよ、勉強にせよ、仕事にせよ、イライラする瞬間があった以上は、確実に「怒」の業がたまり、それは帳消しになどならず、確実に性格を変化させ、後に影響を与えます。
Q:もし仏道的に、良い芸術作品があるとしたら、どのようなものでしょうか?
A:その作品を見、聞き、味わい、触れ、考えることによって、欲・怒・迷の濃度が薄まり、麗しくなるものでありましょう。
Q:ご住職の本を含め、仏道(仏教系)の本はとても面白く、最近よく読んでいるのですが、怒りのカルマを作ることは必ずしも悪い事なのでしょうか?
後悔したり、不安をもったり、人に憎しみを持ったりするのは悪い事だとは理解できますが、戦争に対して嫌だなと感じたり、理不尽に虐げられている人に対してかわいそうだと思う事は、いいことだとは思わないのですが、それはそれである程度必要じゃないかと思ったりもします。その事に関しても、ご住職のお考えをお聞かせ下されば、嬉しく思います。
A:戦争について怒ったりしている暇があるなら、怒らずに「戦争は世界の苦しみを増すから、なくしていったほうがよい」と客観的に判断し、戦争がなくなる方向に向けて何らかの努力をするほうが有効でしょう。
また、戦争について怒っている人が持論を展開するのは、聞いている側にとって良い気持ちのするものではありません。
なぜなら、本当に戦争をなくしたいのではなくて、単に「戦争に反対して怒ることによって自我を刺激し、立派な自分は正しいのであーッる」と酔っぱらっているだけ、という要素があまりにも強いからです。
「理不尽に虐げられててかわいそう」というのも、「怒」の気分になって感情的になり泣いたりしている場合は「かわいそうと思っている立派な自分」に酔っぱらっているだけで、その「慢」の酔いゆえに自分にも他人にも悪影響を与えます。
それは、仏道でいう「慈悲」とは、ほど遠いものなのであります。
慈悲とは、そういった場当たり的な感情的なものではなくて、自分の心を非常に穏やかで柔らかな状態に保ちながら、相手の苦しみが取り除かれるようにと願ったり、実際にそのための行動に出たりすることを申します。
「かわいそう」という言葉そのものが悪いわけではないのですけれども、この言葉は、世間的にはたいてい「欲」や「怒」に汚染されているのが実状であります。
「かわいそう」という言葉をこの汚染から救出するためには、心をよくよく観察して「欲」や「怒」が混ざっているのを取り除く必要があると申せましょう。
Q:ご住職にも、(食べ物の)好き嫌いはありますか? もし好き嫌いがあるなら、差し支えなければ好きなものと嫌いなものを教えていただけますか。
A:特に好き嫌いはなく、なんでも美味しくいただきます。あえて好きなものを挙げますなら栗、南瓜、苺、さくらんぼ、林檎など。
苦手なものは、白砂糖の入った市販のお菓子です。
嫌いというわけではないのですが、白砂糖をとると身体に異変が生じるので避けるようにしています。
Q:毎日「自分を浄化する座禅入門」のCDを聴きながら瞑想をしていますが、頭が左右に激しく振れる状態がかなりの時間続きます。
これは、業の解消だと思っていますが、自然に任せておけばよろしいですか。よろしくお願いします。
A:ええ、業により緊張している筋肉がときほぐされていくプロセスですから、揺れるのに任せながら「揺れてる、揺れてる、揺れてる」と観察しておられればよろしいでしょう。
Q:「五戒」にあります「不邪淫」又は「八斎戒」の「不淫」は‘手淫‘についてどの様にとらえているのですか。私は習慣化していて止めたいと思っても止められません。
A:自慰が「不邪淫」を破る浮気行為になるかどうか、というのはグレイゾーンのような気がいたします。
しかしながら、まず「自慰行為をしている」というのは一般的にみて、おつきあいをしている恋人に良い印象を与えないでしょう。
とりわけ、男性がアダルトビデオなどにより自慰行為をしているというのを恋人が知った場合、「私よりもビデオのほうが良いのね、がびーッん」というショックを与えてしまいかねません。
それによりしばしば、小さな浮気をされたという印象を、相手に与えることになるのです。
そして、修行時に守るべき八斎戒の観点からいたしますと、自慰は性エネルギーの無駄遣いとして「不淫」戒を破ることになります。
自慰行為の問題点は、次のようなことのように思われます。
誰もが自慰をおこなうときは、性器を刺激しながらエロティックなことを想像するか、自分で想像しないときはビデオや書籍などのイメージを使うでしょう。
単に、性器に刺激を与えるだけでしたら、それは痛みの刺激にすぎませんから、気持ち良くも何ともないはずです。
その痛みの刺激を「快楽」として転換しなおすためには、一定のファンタジーが必要になりましょう、刺激的な、ファンタジーが。
生身の男女のむつみごとであれば、現実的な相手への好意や一体感や興味などといったささいなファンタジーが、痛みの刺激を快楽へと変換するためのブースターになります。
それゆえ、行為のまっさいちゅうに、何かのきっかけで興ざめしたりお互いの心がすれ違って一体感が失われたりいたしますと、一気にファンタジーがとけて突然、「キモチよくなくてただ痛いだけ」になったりします、よね。
ともあれ、この程度のファンタジーにより痛みを快楽に変換するくらいなら、さほど害はありません。
しかしながら、自慰のときは、目の前に存在しないあからさまなファンタジーが作られましょう。
男性にしろ女性にしろ、自慰をおこなうときはたいてい、普通だったら実現できないような性的妄想を脳内で繰り広げることとなります。
その妄想を肩代わりしてくれるアダルトビデオや書籍などが、いかに非現実的で残酷な内容に満ちているかを考えれば、すぐに分かることでしょう。
そしてその過剰なる妄想こそが、現実逃避=現実否認=無知=迷いの業を激しく増加させて、現実に向き合う能力を低下させてしまうのであります。
そのうえ、あまり過剰に性産業の妄想にひたってしまいますと、現実の異性との「フツーの」性行為に満足できなくなる、というデメリットも生じましょう。
なぜなら、「頭をむやみに刺激する」という意味では、現実の恋人と行為をするよりも脳内妄想やアダルトビデオの妄想のほうが、遥かに刺激的でせーう。
現実の異性には、恥ずかしかったり背徳的すぎたりで要求できない、妄想的欲望も満たせるのですから。
そうして、目の前の現実の異性と愛情を確かめあうために性行為をする、という能力を確実に失ってゆきます。現実の異性に対して、飽きっぽくなりもいたしましょう。
あるいは妄想がエスカレートすると、ビデオで見たとおりのことを現実の性行為で実行しようとして、女の子をうんざりさせる、というような話はよく耳にすることでしょう。
これらの効果を持つことを納得いただけましたら、自慰をしたいという気持ちもガクンと薄まるのではないでしょうか。
Q:こんにちは。ちょうど一ヶ月前、月読寺にて坐禅のご指導をうけ、10日ほど前から早朝の坐禅を日課としています。うまくできませんが、飽きません。
質問は非常に汚い話なのですが、坐禅中に鼻水が出てきた場合、どうすればいいかということです。おそらく、鼻水が流れるままにするべきなのでしょう。今日
それをやってみました。鼻水が顔を伝う、ある意味非常に新鮮な感覚に集中しました。それはとても興味深い体験で、とても禅的な感じがしました。
しかし、もし誰かにみられたらどう思われるかな、というような雑念も入ります。
少なくとも、「麗しさ」はないですよね。皆様花粉症の時期などどうされているのでしょうか。
A:ん・んー、残念・・・ッ、外れ、です。それでは自己客観化をするかわりに、「禅的なことができてる自分ッ」という脳内物語りに溺れてしまっていると申せましょう。
「とても禅的な感じがする」という印象は、あくまでも思考の情報処理ですから、その思考から身をひきはがすべく、「念」を打ち込みましょう。
思考がわいていれば、「禅的な感じがするという思考が回転している、禅的な感じがするという思考が回転している、禅的な感じがするという思考が回転している」といった具合に念じて思考を客観化し、手放してください。
その思考の煩悩モードは「禅的なことができている自分ッ」という慢モードですから、「欲・慢、欲・慢、欲・慢」といった言葉で念じるのもよろしいでしょう。
「興味深い」という気分が生じているときは、「欲、欲、欲」と。瞑想中はいかなるささやかな思考の動きをも、見逃さずに即座にとらえるのが重要なことであります。
あるいは、鼻水がたれているのを気にする感情がわいてきていますなら、その気にしているのは、自己イメージに関わる苦しみです。
そのときは、その感情から距離を取りながら「慢ゆえの苦、慢ゆえの苦、慢ゆえの苦」などと念じ客観化いたしますこと。
鼻水のことが気になるようでしたら、無理して「禅的には・・・」という慢の煩悩にとらわれることなく、丁寧に鼻を拭きにかかるとよろしいでしょう。
鼻を拭きにかかる身体の動きに意識を集中しながら、ゆっくりとゆっくりと、均一な速度にて手を動かします。
「手がいまここにある、手がいまここまでやってきた、手がいま鼻に触れた、いまこの瞬間に、鼻水の不快感が取り除かれた、そのことで気分が楽になっている、楽になっている、楽になっている」
このような風合いで、常に「今この瞬間自分が何をしているのか」を念によって追跡できていましたら、坐禅瞑想中に身体を動かしても問題はありません。
すなわち、念をこめて丁寧かつ「麗しく」、鼻を拭われるとよろしいでしょう。
Q:最近、小池ご住職のお話を見聞きするうちになんだか分からなくなってしまってることがあります。
嬉しい!という気持ちが湧いたらそれに執着することなく手放し、怒りの感情が湧いたらそれもしがみつくことなく手放し、....淡々と、淡々と生きていく、ということ。
そこには執着がない分、心の中は穏やかなのかも知れませんが、「そこに生き甲斐を感じられるのか。無気力を生み出しはしないか。」と考えるようになりました。どうやって生きていけばいいのか、分からなくなってしまっています。機会があれば、お話下されば幸いです。
A:ん・んー。それは仏道についてもっとも頻繁に耳にする、典型的な誤解・・・ッ。
私自身がほとんど休みなく、淡々と、そして精力的に活動して回っていることをお考えいただけますなら、それが誤解であることがお分かりいただけましょう。
大切なのは、実際に実践することによって「正しいのかどうか」を検証することであります。
瞑想に挑戦してみることもなく、生活を通して実験して検証してみることもなく、単に頭で想像して「刺激がなくなり無気力になるのではないか」と考えること自体が、無気力とは思し召されませんでしょうか。
あれはやりたくない、あれは嫌だ、あー嬉しいなー、楽しくなるといいなー、と頭の中でブツブツ言葉を回転させながら、現実にはダラダラしているのこそが、無気力と申せましょう。
「あれは嫌だ」「こうはなりたくない」「ああなりたい」「認められて嬉しいなー」「楽しいなー」などと考え続けるのは刺激的でしょうけれども、それがまさに執着をつくります。
「自分が楽しいと思うこと以外はやりたくないッ」と執着いたしますから、さまざまなことに挑戦する気力を失わせるのであります。
想像いたしますに、そういったネガティブな思考の刺激がクセになってしまっておられるがゆえに、それを離れると刺激が得られなくなりそうなのを心が恐れているのでしょう。
「ネガティブな刺激がたくさんインプットされるのは刺激的」=「刺激がたっぷりということは、なんだか気力がありそうであーッる」という錯覚にもとづいて、現実的には無気力になっていくのが、残酷な心のプログラム。
脳内の雑念をクリーニングしてありのままの現実を認識できたときは一瞬、一瞬、目の前にあるものがフレッシュ。
執着や雑念によるノイズがありませんから、あらゆるものがすこぶる鮮明でフレッシュに感じられます。
目に見えるものや舌で味わうものや耳に聞こえるものが、一つ一つすこぶるリアルで味わい深く、展開するようになります。
「嬉しいなー」と「考える」ことよりも、その「嬉しい」という思考を手放して、単にそこにある感覚をしっかり集中して「感じ取る」ことのほうが、実際ははるかに心地よいものだということ。
それは、実践してみれば分かるはずです。
苦や楽を否定したり捨てるのではありません。苦と楽をその場その場でありのままに味わいつくして、執着しない、ということ。
苦しいものにも、楽しいものにも、どちらにも執着せずそのリアルな感覚をその場で味わいつくして、サッと手放してしまうからこそ、常に新鮮な感覚を感じて充実していられるのであります。
Q:ご住職は月読寺のご住職であるとともに、正現寺の副住職でもあられるわけですが、ご自身のお考えと正現寺の教えとの違いをどのように乗り越えていらっしゃるのでしょうか。
私自身は夫が最近他界したのですが、そのせいで自分にとってはなじめない宗派に従わざるをえない(嫁という立場で)点に、つい反発したくなってしまいます。
なにしろその寺の住職を全く尊敬できないのです。
A:従うか従わないかは、自分自身の利害にもとづいて決めていることでしょう。
「嫁という立場ゆえに従わざるをえない」と仰せになられましても、その「立場」に立ちたいと選び取っているのは貴女であります以上、実際は自分の意志で判断していることであります。
すなわち、「他人のせいで従わされている」という言い方は、成り立ちません。そして「従う」と決めている以上は、それに矛盾する感情を持つことにより心を混乱の煩悩モードへ陥ってしまいますのは、悪と申せましょう。
相手を「仏教のお寺」とか「仏教のお坊さん」と考えておられるがゆえにこそ、本来の仏教からかけ離れたそれらに、「怒」がわいてくることでしょう。
しかしながら、そこでおこなわれているのは仏教という名前がついているだけで、実際は先祖崇拝にもとづいた単なる日本の伝統的習俗です。
「仏教のお坊さん」ではなく「日本教という宗教の呪術師」と、家単位でお付き合いしている、というくらいに理解しておかれるとよろしいでしょう。
すなわち、もともとそれらは仏教ではないのですから、「仏教なはずなのに、仏教的じゃないし尊敬できないからおかしいッ」と憤慨される必要はありません。
「ああ、これは仏教というラベルがついてるけど実際は、日本教という伝統儀礼なんだな。日本教というヘンテコな伝統習俗に付き合ってあげるか」くらいの心の余裕をもって接してあげるとよろしいでしょう。
なお正現寺に関して申せば、父住職もまた原始仏教の実践者であり、私の最初の師でありますから、あまり矛盾は感じずに済んでいます。
共に、寺院のありかたを変えていこうと、楽しい悪戦苦闘をしながら試行錯誤をしている最中です。
Q:「自分」を浄化する座禅入門拝読させていただきました。その中の慈悲の瞑想について質問です。
「安穏たらんことを」
「苦悩なからんことを」
と唱えますが、引き寄せの法則等の潜在意識活用という観点では願望形・否定語ではなく現在形がいいと言われてますがいかがでしょうか。
安穏たらんことを→願望とはそうなってない状態のため安穏でない状態を潜在意識は解釈
苦悩なからんことを→否定後の否定ではなく否定後の苦悩そのものを潜在意識は解釈
慈悲の瞑想で願望形や否定後を使わず、「安らかです。」、「幸せです。」とか唱えるのはどうでしょうか。
A:ん・んー。「自己啓発書」と呼ばれる書物には、そのようなことが書かれているらしいですね。
しかしながら、瞑想等を通じて心の法則を体験しているわけでもない人々が、なんとなく頭で考え推測して好き勝手なことを記しているのが、その手の本でありましょう。
否定形や願望形の言語がよくないというのは、ときとして当たっている場合もあろうかとは思われます。
が、そのような表面的・文法的なものにすぎない形にこだわるのは、乱暴すぎる分類であります。
実際は、否定形が使われていようと願望形が使われていようと、そのときの心が実際どうなっているか、という内実が重要なのですから。
否定形は「怒」と重なったときに、激しい刺激をもたらします。たとえば「あの人が愚痴っぽいのはよくない」と否定するとき、心は否定する対象に関して、強い刺激を受けます。
したがって、「愚痴っぽい」という情報が刺激とともに心に刻まれ業となり、否定したつもりが、実際は自分自身が「愚痴っぽい」性格へと近づきます。
願望形は「欲」と重なったときに、激しい刺激をもたらします。たとえば「あーあ、何だかつまんないな、幸せになりたいよーッ」と漠然と考えたとしましたら、「今は幸せではない」という現状に関して、欲による強い刺激が走ります。
したがって、「幸せでない」という情報が心に刻まれ、実際に不幸せになっていきます。
しかしながら、単に言葉の字面上で「否定している」とか「願っている」とかいうことは、皮相的なことにすぎません。
それらは単なる言葉にすぎず、重要なのは実際に心が「怒」や「欲」の刺激を受けているのか、受けていないのか、ということです。
「否定の言葉が入っていたらよくない」と先入観により決めつけることなく、実際に実験してみて、データを取ってみるのが仏道のやりかたです。
「慈悲」の感情をつくろうとするとき、そのとき心が「欲」や「怒」の刺激が発生しているのか発生していないのかを、調べてみてください。
それが他者への「慈」=「優しさ」や「悲」=「同情心」にもとづいて正しく実践されていれば、実践中に心が穏やかになり「欲」や「怒」の刺激が消滅してゆくのが分かることでしょう。
そして、「欲」や「怒」の刺激が発生しない時間を長引かせるほど、それらの感情が刻み込まれる度合いが弱まり、削り落とされていくのです。
反対に現状が安らかでないのに「安らかです」と唱えますのは、「字面上、否定の言葉を使うのは嫌だ」といったような「怒」の業がはたらいます。
のみならず、現実が安らかでないのに「安らかです」と自分に嘘をつくせいで、心が現実を自分勝手に書き換えてしまう性格を強めることになります。
それは申し換えますと「無知」=「迷」の業を増やすことになり、結果として現実認知能力や目の前の現実に立ち向かう能力、判断力や記憶力が衰えることにもつながることでしょう。
これでは「慈悲の瞑想」ではなく「怒迷の瞑想」になってしまうことでしょう、がびーん。
Q:友人がカルト(真如苑という、仏教と言いながら教祖信仰へ仕向けたり、霊能者がお告げしたりするところです。)にマインドコントロールされ、人格が変わってしまいました。
私ができることは、おそらく無いと思って距離を置いています。
とても悲しいことなのですが、「本人の問題」としてそっとして置こう、と思うのですが、イマイチすっきりしません。
気持ちを整理する為に、以下のことをしています。
(1)マインドコントロールの手口、信者の特徴などをよく把握して、知り合いに注意を呼びかける
(2)お釈迦様がどんな教えを残したのか勉強して、教団の矛盾を確認する
気の持ちようで何かご指摘が有りましたらお願いいたします。
(2)の行動を取っているときに、小池さんの著書に出会いました。入門書としてわかりやすく、非常に参考になりました。
A:それは、「距離を取っている」ようにみえて、実は興味津々に首をつっこんでしまっておられる模様であります。
「その教団が矛盾している、間違っている」というのを知る都度に、気持ち良くなるでしょう。
正しいのは自分で、おかしなカルト(ならびに友人)は間違っている。という気持ち良さの幻覚にひたるたびに、心がさらにその「カルト」や「友人」のことに執着してしまい、疲れてしまうことでしょう。
そのつど、自らの傲慢さや、相手への攻撃性が増していってしまいます。
仏道の智慧は、ありていに申せば完全無欠の真理です。
しかしながらその智慧を半端にかじって、他人の間違いを指摘するための道具にしてしまった時点で、もはや真理でも何でもなくなります。
それは単に、「怒」の業を積むことにすぎないからであります。
したがって、繰り返してカルト教団の欠点を意識しながら、「自分は正しいッ」という妄想におちいってゆくのはお勧めできません。
そのような教団の矛盾は、少し調べればすぐに分かることでしょう。それ以上さらに調べて時間を浪費したくなるような自分自身の、心の問題点を見つめるのが優先と申せましょう。
そして、「ひそかに首をつっこんでしまいたくなる」衝動を手放したうえで、本当の意味で距離を取ることであります。
Q:こんにちは。車の運転についてです。先日、大きな交差点で長い信号待ちをしている時に、急にドキドキしてきて息苦しい感じになりました。
「あ、緊張してる、これ、緊張してるんだ」と思ったら、今度は血の気がひいていく感じに困惑し、この状況でどうにかなったら周りに大迷惑を起こすのでは、と運転することがとても怖くなりました。
症状自体は短時間でおさまったのですが、その時の恐怖感がいつまでも残っています。信号待ちをしてただけなのに、何故突然気分が悪くなるほど緊張してしまったのか全くわからず、もしもまた同じようなことになったら、その場で自分にどう言い聞かせればいいのか、と悩んでしまっています。
よろしくお願いします。
A:車に乗っているとき、誰もがほとんど無意識的に緊張しています。
「事故にあうのではないだろうか」「前の車がいきなり飛び込んできたらどうしよう」
といったようなことを、無意識的に想定していますから、すごくイライラしているのであります。
その緊張の正体は、イヤダヨー、という「怒」の業です。その証拠に、車の運転をしている人を観察しておりますと、ほとんど誰もが、普段のとき以上に怒りっぽくなってしまうのを発見できてしまいます。
他の車のマナー違反や渋滞などに対して、「ちッ」と舌打ちをしたり、ブツブツ文句を言ったり、声をあらげて悪口を言うといったことを、とても多くの男女がおこなっているでしょう。
そしてもちろん、ふだんから「怒」の業をたくさんつんでいる人ほど、車の中で無意識的な怒りや恐怖や緊張感による責め苦を受けることになるのであります。
仰せの症状が出ました折に「あー、緊張してる、どうしようッ」と焦ってしまったことによって、心には激しい刺激が生じました。
その刺激とともに、恐怖感は心に強烈に刻み込まれて、心の中で繰り返しリフレインしている状況と申せましょう。
そのような事態になりましたら即座に「あ、自分は怒っている、怒ってる、怒、怒、怒・・・」と、焦らずに客観的に見つめてください。
ただし客観的になれずにそれに失敗してしまいましたときは、緊張という「怒」に対して、「あー、また緊張してしまってる、やだな、どうしよう」という更なる「怒」が連鎖することでしょう。
そのときは、緊張という「怒」に対してそれを否定する「怒」が出て来ている、ということを見つめて念じましょう。
「怒りへの怒り、怒りへの怒り、怒りへの怒り、怒りへの怒り」などと、無心になって繰り返し念じながら自らを見つめていただけましたら、しずまるはずです。
ともあれ、そうやってあからさまな症状になってしまう前に、「怒」を制御しようとしていれば良いのですけれども。
多くの人はそれをしないどころか、さらに症状による「警告」が出ていてもなおかつ、「怒」を増やすことを止めようとしません。
自らの心が悲鳴をあげているSOS信号なのだととらえていただきまして、御自身の心をいたわり修繕するきっかけとされるとよろしいでしょう。
すなわち、今後はネガティブな思考を気軽に心の中にリフレインさせぬよう決意されることをお勧め申し上げます。
Q:例えば、お付き合いをしてる人が居て、その人の事を愛するのに疲れて、お別れしたいと思ったとします。
そういう場合に、罪悪感を感じるとき、それは「悪」になりますでしょうか?
お忙しいとは思いますが、お答えいただければ幸いです。
A:罪悪感というものは、「やっぱり別れたくない。傷つけたくないし、私はそんな悪い子じゃないもんッ」というような感情ゆえに生じるものでありましょう。「お別れしたい」という怒ゆえの感情と、「でもやっぱり」という欲ゆえの未練が混ざり合っているのです。
これは、心を引き裂いて、欲のせいでものごとをウヤムヤにしてしまうという意味では、「悪」と申せましょう。
へたに罪悪感を感じながら未練がちにお別れを告げても、ちゃんとケジメをつける伝え方ができませんから、相手のほうは相手のほうで、吹っ切れにくくなってしまいます。
ある感情の善悪を判断するさいに重要と思われますことは、次のよなリアリスティックな基準であります。「その感情のせいで、長期的にみて自分の苦が増えるか減るか」そして「その感情のせいで、長期的にみて相手の苦が増えるか減るか」、この二つだけをリトマス試験紙にしましたら、自分を騙すことなく判断することが叶いましょう。
お互いがじわじわと苦しむ羽目になってしまわぬように。お別れするなら、「お互いの組み合わせが良くなかった。別れることが自分の、もしくはお互いの、前進のため」ときっぱり理解しておくのが賢明でしょう。
Q:はじめまして。煩悩リセット稽古帖を拝読しまして、こちらにやってきました。
私には3歳の息子がおりまして、そのママ友付き合いに関する悩みです。
私が仲良くさせてもらっているグループで、遊園地に行く話が出てきました。その施設では、3歳以下は入場が無料なのですが、子どもを2歳ということにして、入場料を浮かせちゃおう!という話が出てきました。
私はちゃんと入場料を払って入園するつもりなのですが、他のママの気分を害してしまうんじゃないかと思って、少し心配です。
今後、こういう方と付き合っていく為に、それとなくやんわりと、そういう行為を断るような方法はないでしょうか?
A:「気分を害してしまうのでは」とビクビクしていると、実際にそのビクビクが周囲にも伝わって、溝ができてしまいますから要注意。
(ビクビクの煩悩モードは、「怒」。)
「私は小心者だから、なんだか払わなきゃドキドキしちゃってダメみたい」といったとぼけたニュアンスで、やんわりと断って自分だけ正々堂々と支払われるとよろしいでしょう。
「どうしてわざわざ払うの?」などと聞かれたら、「私、変に真面目すぎて。融通がきかなくてごめんね」くらいに、かわしておくことであります。
ポイントは、相手を非難したり正義を主張するようなニュアンスが出ぬように、「私が真面目すぎるのはおかしいよね、えへッ」というくらいに留めることでしょう。
それにしましても、そのような行為に出る人々と一緒に、無理をしてお付き合いをしても、楽しくないのではありませんでしょうか。
分かりやすい話ですけれども、彼女たちの煩悩モードは「ケチ」。「お金が少しでも減ったら嫌だよーう、うわーん」と、若くして「おばさん」になったかのごとく、「怒」の業を燃やしているのであります。
無理にそのかたたちと付き合って、こちらの心まで悪影響を受けながら過ごすくらいなら、もっと他の雅やかなお友達と時間を共有したほうが良いかもしれません。
Q:数冊の著書を興味深く読ませていただきました。
今までの悩みは、自らが頭の中で膨らませ作ってしまった煩悩によって、今に全く集中できていないことが原因だったということがよくわかりました。
これからは、思いあがらず慎ましく、今に集中して生活しようと感じられるようになりました。
そうすると、今まで自分が過去に築き上げてきたと思っていた人間関係が、何となく自分に無理をして作ってきたもの、または煩わしいもののように感じられてしまい、少しずつ遠ざかっていこうかと思っています。
今は故郷を離れ転勤中でもありますので、新しい土地での知り合もまったくおりませんが、毎日今に集中して生活することのみを考え、後は自然に任せようと思っています。
とはいえ、自分の過去を振りかえって、自分に無理をせず正直に付きあう人間関係は可能なのか、可能としてもとても狭い人間関係になってしまわないかとも思ってしまいます。
また、過去の人間関係から遠ざかろうという自分の考えも、ただ逃避したいだけのものではないかとも思われてしまいます。
家事の合間、著書を参考に座禅に取り組んでいます。集中することはまだ難しいですが、焦らず取り組んでいくつもりです。
小池様のお考えをお聞かせいただければ嬉しく思います。よろしくお願いいたします。
A:「一緒に成長できる相手がそばにいるなら、その人と一緒に行く。いなければ、周りは放っておいて独りでも行くこと」。
厳しいようですけれどもこれが、「友」についての仏道の立場であります。
人は、そのときどきの心に応じて、似たような精神的レベルの人々と引かれ合い、交友関係をむすびます。
もう少し具体的に申しますと、似たような種類の煩悩を刺激しあう者同士が、その「刺激」を求めて交遊をしているのが、実状であります。
したがって冷酷な申しように聞こえるかもしれませんけれども、心が大きく成長しようとしている場合に、その妨げとなる古い交友関係は、切り捨ててしまうのが賢明です。
今、知り合いのいない土地で過ごさねばならないのでしたら、それを好機とばかりに、「独り」でいる自分自身と向き合うきっかけとされますように。
冷静に考えてみますと、たくさんの友達がいなければならない理由は存在いたしません。
大多数の人間は「自分は、誰にも相手をしてもらえないツマラナイ人間じゃなくって、こんなにたくさん友達がいるんだゾッ」と思いたいために、イメージ操作のために交遊しているのです。
そのような人達とは、お互い「友達」のフリをし合っているだけで、実に虚しいことと申せましょう。
彼らから離れてしまうことによって、いかに心が整うかを実験してみるだけの価値はあります。
むろん、仰せのとおり「過去から逃避したい」という「怒」の衝動がいくぶんかは混ざっているのも事実でしょう。
その「怒」にはまってしまわぬよう、古い人間関係を暴力的に切り離すのではなく、穏やかに距離を置くようにしてゆきましたら、心が古巣に戻らずに成長してゆくことが叶うでしょう。
しかしながら、交友関係が狭くなりすぎてしまうのでは、と心配することはありません。
新たな、澄んだ精神状態において、また新たな人々と引かれ合って、自然に新しい交友関係が始まります。
そういったなかから、「フリ」をせずにすむ、よき友達が生まれてくることでしょう。
今のひとびとは自らの利益のために他人と親しくし、また他人の手助けをする。こんにち、打算的でない真の友を得ることは、むずかしい。
自分勝手な都合に満ち満ちた人々は、きたならしい。犀の角のように、ただ独り歩むこと。
(『スッタニパータ(経集)』75番)
Q:こんにちわ。いつも楽しく読ませていただいてます。最近、疑問に思うことがあるので質問させてください。
自分の心を観察していると、「私はがんばっている、人より困難な状況にいるのだ!」という思いや、「もう少しほめてくれてもいいのに・・・」など、自分を認めてほしい!という気持ちが強いことに気づいたので、「慢、慢、慢」と念じているのですが・・・。
観察を続けていくうちに「ん?もしかして慢よりも欲がつよいから、しんどい思いをしてるのかな?」とか「いやいや、怒りもかなりたまってるし、それを消していくのがさきかな?」と、すっかり迷いにとりつかれてしまっています。
どう進めていくのがよいでしょうか?
A:「迷いの苦ッ、迷いの苦ッ、迷いの苦ッ」。一言で答えますと、このように自分の陥っている混乱思考クルクル状態を見つめ念じて、手放してしまうことであります。
「ん? もしかして欲なのかなー? いや、怒なのかなー?」というのは、「観察」ではなくて「思案」、もっと申しますなら「混乱」なのであります。
その煩悩モードはお気づきのように、もちろん「迷」。
「・・・なのかなー?」と考えたくなるときは、どのような状況かを考えてみましょう。
必ず、「よく分からないッ」という状況に陥っていて、分からないからこそ「分かりたい」という気持ちになっていることでしょう。
しかしながら現在の認識力ではただでさえ「分からない」状況ですのに、「これはどうなのかなー?」と考えはじめますと思考のせいで心がさらに混乱し、よけいに「分からなく」なります。
したがって、その混乱状態ゆえに生じている苦しみの刺激をこそ、観察することであります。心が、「これはどうなのかなー?」と答えの見えないことにアレコレ迷うことで、刺激を得ようとしているに過ぎないのだなー、と見つめて、手放しましょう。
そのとき、「いま、目の前にはない裏の感情」を、探そうとしないことです。
それは探そうとしなくても、坐禅により集中力(定力)や観察力(念力)が高まってまいりますと、自動的に見えるようになってきます。見えないうちは、探せば探すほど、見えなくなる道理なのであります。
つねに「いま、ここ、目の前にある最新の感情」を観察いたしますこと。
すなわち「慢」があるときは「慢、慢、慢」と見つめ、しかし「この慢の裏には何があるんだろう? 欲かな、怒かなー」と考えはじめているときは、その考えはじめてしまう「迷」にむかって「迷い、迷い、迷い」と見つめます。
それができずにいると心はすぐに反応し、たとえば「すっかり迷いに取りつかれてしまっています」とがっかりすることでしょう。
そうやって否定的な心持ちになりますのは、「怒」の心。「怒、怒、怒」と念じて見つめます。
常に、「いま、この瞬間の心がどのような色に染まっているか」という最新情報をすっぱ抜くようにいたしましょう。
すると湧き上がってくる感情を次々とアクすくいをするゲームをしているうちに、少しずつ心の奥の奥まで透けるように見えるようになってまいります。
Q:はじめまして。御本がきっかけで、このサイトを知りました。
とても興味深く読ませていただいています。
質問コーナーの過去ログを読んでいて、疑問に思った点があったので質問いたします。
「周りの人間のいじめたいという煩悩を刺激する性質」というのはどのような性質なのでしょうか?
私自身の、若干いじめられていた子供時代を思い返すと、自分にまったく自信が持てず、びくびく、おどおどしていました。そういう「自信の無さ」が関係しているのでしょうか?
A:まず、いじめる側が、いじめたくなるのは何故かを考えてみましょう。
私は子供時代、いじめる側にまわってしまったことも、いじめられる側にまわったこともあるのでよくわかるのですけれども、他の子をいじめると、次のような脳内錯覚が生じます。
「自分はこの惨めな相手よりも優れている、存在価値のある人間であーッる」という脳内錯覚が。
それは「自分は存在価値があると思いたい、自分で自分を高く評価したくてたまらないよーッ」ということにほかなりません。
裏返しますと、自分の存在価値はないのではないかと自信がなく、惨めで惨めでしようがないですから、他人を犠牲にしてでも「自分には生きてる価値があるもんッ」と言い張りたいのです。
そこにはたらいている煩悩モードは、自分のことばかり気にする「慢」の欲、それに加えて、他人への攻撃性に転化する「怒」であります。
こういった「慢」+「怒」のあわさったタイプの波動=オーラを持っている人間を刺激してしまうのは、やはり「慢」+「怒」のタイプを持った人間です。
いじめる側の「慢」は、「自分ッ」を立派に見せかけて高く評価したいよーッ、であり、「怒」は、他者を攻撃しても良いのであーッる、です。
反対に、いじめられる場合の「慢」は、おどおどと内にこもって「自分ッ」を低く評価する方向にむかい、「怒」は、自分自身を責めてクヨクヨするか、
実際に他人を攻撃する勇気はないので心の中で他人をやっかんだり憎悪したりいたします。もちろんこういった憎しみの波動が、激しく他人を刺激するのですけれども。
「慢」+「怒」の心の波動を発散している人は、他人にその煩悩の波動を浴びせかけますゆえ、他人の「慢」+「怒」を強く刺激いたします。
うちにこもった「慢」+「怒」で自分のことばかり気にしている性格の人が発散する波動が、「慢」+「怒」の性格が暴力的に外部に発露するパターンの人を刺激して、いじめられてしまうのです。
両者は一見すると正反対なのですけれども、煩悩のエネルギーとしてはまったく同じエネルギーを発散しあう者同士が、吸い寄せられ合っていると申してもよろしいでしょう。
Q:真面目すぎる性格のせいで、調子が悪い時は、疲れたり自分を責めてしまったりします。真面目な性格になってしまったのにも、過去のカルマが関係あるのでしょうか。
A:私がこれまで相談を受けてきた経験から判断いたしますに、真面目すぎる性格の背景には、複雑にこんがらがった「怒」と「慢」の煩悩が、固い岩盤のように隠されています。
真面目すぎて疲れてしまうのは、明らかに「これは絶対にこうじゃなきゃダメェェェーッ」という神経質な「怒」によって心に過剰な緊張を与えているからであります。
ルールに反している他人様に対して過剰に腹が立ったり、自らが少しでも「自分で決めた通り」や「ルール通り」に行動できなかっただけで、過剰に落ち込んだり自分を責めたりしてしまうでしょう。このどれも、背景に隠されている「怒」ゆえのことです。
「怒」の業が潜在意識にたくさん溜まっていて、あまりにも心がグラグラ不安定であるがゆえにこそ、その不安定さを見ずにごまかすために、何か「安定した見かけのもの」にすがる必要がでてきましょう。自分は安定している、という錯覚を得るために、必要以上に「真面目」にならねばならなかったということに他なりません。
しかしながらすがる対象である「真面目なルール」どおりに行かぬときは本来の不安定さが露出・・・ッ、隠していた「怒」が前景化するから自然に落ち込んでしまうといった次第です。
では、なぜ安定した真面目なルールにすがりたくって仕様がない、という精神性が形成されるのかをごく簡単に考えてみましょう。
過去、たとえば幼少時にすごく欲しいもの(それはたいてい親の愛情)を手に入れることができずに、心がビリビリと「苦」の刺激を得ることでしょう。しかしながら「欲しいのに手に入らない」という欲のモードが続いていますと、あまりに苦しいのであります。
「自分は与えてもらえない」と認めるのはあまりにも苦しいですから我劣慢=劣等感の煩悩モードをひどく刺激されたあげくに「こんなの初めっから欲しくないもんッ」と「怒」の煩悩モードによって欲を抑えこんでしまうということが、しばしば生じるように思われます。
すると自分の自然な「欲」が何なのか分からなくなり、あたかも我がままな「欲」などないかのように、抑圧してしまうことでしょう。欲を抑圧しながら、大人に言われたとおりに振る舞うようになりますと大人たちからは「良い子」と褒められますから、そのたびに「自分はこうやって真面目に生きてれば認めてもらえる、自分は生きている価値がある」という慢の煩悩モードによる刺激を受けて、条件付けられていきます。
とにかく親や先生に従順、ルールは完璧に守る、という育ち方をするかもしれません。表面上はすべてがうまく行っているようにみえますけれども、それこそが罠・・・ッ、心の裏は「欲」を抑圧する「怒」で煮えくり返っていますから、「怒」が前景化するたびに心はガタガタに崩れるということを繰り返しますでしょう。
「いらないもんッ」という「怒」と、「ちゃんと真面目にやることで認められたいよーッ」という「慢」を取り除くことができて初めて、真面目すぎる罠から脱出することが叶いましょう。
Q:こんにちは。いつも楽しみに拝読しています。
仏道的におすすめできる余暇の「趣味」がありましたら教えてください。
他の質問者さまが書かれていたように、あまり恐ろしい小説のたぐいはふさわしくないように思いますが、たとえば、植物を育てたり、料理をしたり、ジョギングをしたりなどは、あまり差し障りがないようにも思います。
こんな風に日々を過ごしていけばいいよ、というアドバイスを頂戴できましたら幸いです。
A:できるだけ「頭をクルクル空回りさせる」ような内容のことではなくて、実際に身体を動かしておこなうことが、お勧めできましょう。
なおかつ、注意深い観察や集中を喚起するような作業をともなっていれば、さらに理想的であります。
私がふだん、余暇といった風合いに過ごす場合のことを思い起こしながら列挙いたしますなら、たとえば以下のようなものが思いつきます。
友人とお茶会、お菓子作り、料理、ピクニック、散歩、山登り、川遊び、お風呂、公園でのんびり、カフェで手紙書き、他人様の観察、などなど。
こういった淡い刺激の「趣味」でしたら、メリハリをつける気分転換に有用なのではないでしょうか。
むろんドギツイ刺激が入ってきても、それに飲み込まれぬように意識を操作できるようになれば問題ないのですけれども、そこまで意識が操作できるようになった時点で、
もはやドギツイ刺激は欲しくなくなっていることでしょう。
Q:恋愛の悩みです。あまり上品な話でなくすみません。
飲み会の帰りに気になっていた人から誘いを受け、その日のうちに身体を許してしまいました。
特に付き合おうなどという話も出ず、お互い酔った勢いであったのは分かっています。
その後もメールのやりとりぐらいはありましたが、デートに誘われるでもなくいつもと変わらない関係が続いたので、自分としては「無かった事にしたいんだろうな」と思い、特に何も言わずに接していました。
ただ、もうこういうことはもう無いだろうと思っていたら、次の飲み会でも同じようなシチュエーションになり、その時は今後も続いてしまうかも・・・と怖くなり断りました。
問題は、その後自分でも多少動揺するほど後悔しているということです。
単に軽薄な男ならこれで良かった様にも思いますが、最初に書いたように気になっていた相手なので、正直2度目のお誘いを受けた時も心の中では喜んでいる自分がいました。
気まずそうな相手を見て、ますますかわいそうな事をしてしまったな、とも思っています。
こういった場合、よく「あなたが好きでも、相手は身体目的だからきっぱり断った方が良い」と恋愛相談などでは見ますが、自分が相手に好意を持っている場合はどうなのでしょうか?
付き合いたいという自分の欲を捨てて相手が喜ぶ事をした方が仏道に適っているという見方もあるのでしょうか。
正直、自分から告白しても身体だけの関係になってしまうかも・・・と思う反面、事なかれでこのまま気まずいままいるのも嫌だな、とどっちつかずの状態です。
A:貴女には、二つの欲があります。「恋人としてきちんとお付き合いしたい」という素直な欲と、「つきあえなくても良いし身体目的でもいいから一緒にいたい」という複雑化した欲、です。
すなわち「欲を捨てて相手が喜ぶことをする」と仰せですけれども、それは御自身を騙してしまう綺麗ごとにすぎません。
相手の要求に身を投げ出してしまいたい、という選択肢のほうが、さらに激しい欲に支配されているということを見落としておられます。
それは「お付き合いしたい」という素直な欲とくらべて、自分の心をかき乱して苦しませるような、とても刺激的な欲、なのであります。
そのような選択肢を取られますと、「やっぱりちゃんとお付き合いしたいのにぃぃぃぃいいーーーーーッ」という欲望が常に心を刺激し続けて、苦しみ続けるはめになります。
欲望とは、実現しなさそうなものほど、強烈な刺激を与えてくれます。そして「実現しなさそう」なものは、当然ながらいつまでも実現しません。
しかしながら、この「実現しなくって苦しいぃぃぃぃぃいいーーーッ」という状態は、心にとってとても刺激的なので病み付きになってしまう、という罠。
そのような複雑な罠に引っかかるくらいなら素直に、玉砕覚悟で告白してしまったほうが遥かに良いことでしょう。
「身体の関係が先になってしまって、言い出す時機を見失ってしまっていたのですけれど、最初から好きでしたの。付き合ってくださいませんこと?」などと可愛らしく。
結局のところ、「相手から先に告白してきてほしい」ですとか「こちらから告白して断られたら恥ずかしい」ですとかといった慢の煩悩モードを乗り越えることこそ、ハッピーになる早道と申せましょう。
Q:去年の12月にご住職が東京大学仏教青年会でご講演された「思考病ワクチン」の中で、「本ばかり読むこと、映画ばかり見ることにより現実逃避をする無知の業が蓄積すること」について触れていらっしゃいました。
私はよく自己啓発本の類を読みます。そういった本もご住職のおっしゃる「本」に含まれているのでしょうか。
A:いやはや、なぜか自己啓発の本について意見を求められることが頻繁にあるのですけれども、そういった本は読んだことがないので、よくわかりません。
そのうえで申しますと、おそらくは、内容次第で役立つものもあれば有害なものもあることでしょう。
ただし耳にしてきた限りで推測いたしますと、そういった本のたいていのものは、現実をごまかして「自分はこのままで大丈夫なんだ」という気休めを与えるだけのものなのではないか、というイメージが否めません。
特に「自分はできる人間なんだッ」と暗示にかけて思い込ませようとしたりするような内容は、危険でしょう。
現実のみじめな感情を抑圧して、「自分は大丈夫」という脳内幻覚へと現実逃避する特徴を持っていますでしょうから、無知=迷いの業を強烈に増幅してしまいます、要注意・・・ッ。
Q:こんにちは。嫌な事があったり、落ち込んだ時ここへ来て、皆さんやご住職のお言葉で、気持ちを落着かせています。
「人の振り見て、我が振り直せ」よく自分に言い聞かせているのですが、あまりに自分勝手な態度をとられると、腹立たしく思います。
最近プライベートでは、お手本になる様な素敵な方に恵まれていますが、避けられない場所が多々あります。いちいち気にする自分が小さくて情けなくもあります。
自分が未熟だから、低いから、そんな態度をとられてしまうのでしょうか?
A:ええ、その通りです。
いやはや回答がこの一行で終わりますと、みもふたもありませんでしょうか。
「未熟」「低い」といった曖昧な言葉をはなれて、具体的に自分のどのような心に問題があるのかを、観察してみることが肝要と申せましょう。
とりわけ「慢」=プライドの煩悩が強くてなおかつ「怒」を蓄積している人の場合、他人を無意識的に「そのプライドをへし折りたいのじゃよー」という気分にさせてしまいがちなものですから、嫌な目にあいやすくなるように思われます。
そして嫌な目にあったときに「この私に対して、ぶ・・・、無礼なぁぁぁあああーーーッ」という気分で不快になりますと、「慢」と「怒」の業が、さらに増えることでしょう。
ゆえにその業がのちほど熟しましたら、やがて新たに「無礼なッ」と傷つけられるような出来事を招き寄せる羽目になります。
ですから腹を立てたり傷ついたりするかわりに、「自分勝手な態度を取れないようにするには、どうしてやろうかしらん」という観点から具体的な工夫するのが、智慧ある対応と申せましょう。
Q:下らない質問で申し訳ありませんが、お尋ねいたします。
私、失礼な態度で道を聞かれたり、列に割り込まれたり、酔っぱらいにからまれたり、セクハラ発言をされたりしやすい外見であるようなのです。
する方の人達にとっては何気ない行為なのでしょうが、そういう態度を繰り返し受けている私にとっては、「またか…!」という怒りが積み重なっていて、外出中はイライラしっぱなしという日もございます。
どうすれば、そういう思いをせずに過ごせる人間になれるでしょうか。自分の心の持ちようでしょうか?ぜひ御教示ください。
A:そういった被害には、かつて私も日々遭遇していたことですから、とてもよく分かります。
おそらく貴女は、いろいろなことに対して不機嫌になりやすい、「怒」タイプの業を積み重ねておられることでしょう。
さまざまなものに対して否定的な気持になる「怒」の業があまりにもたくさん蓄積しておりますと、周囲に「怒」の波動を無差別テロのように放つこととなりますでしょう。
それにより、同じタイプの「怒」の業をたくわえている人々の心を強烈に刺激してしまいますゆえ、本人たちも半ば無意識のうちに、攻撃的な気分にさせてしまうのであります。
また思い起こされますことには、私の知人で、こういう御方がいます。
一緒に道を歩いていると必ずと言ってよいほど、後ろから自転車でぶつかられたり、誰かから足を踏まれたり。
しかも加害者の側が「ちぇッ」と舌打ちをしたり、「気をつけてくださいよッ」と文句を言ったり、という有り様なのです。
そういう目にあうたびに、「もー」と悲しくなってしまうようことで、さらに「怒」の業が増えてしまいますゆえ、皮肉なことにさらにそういう目にあいやすくなってしまいます、あいやー。
ですから、日頃から「多少のことでは不機嫌にならないぞッ」と心の中のルールを決めて、「怒」の業をつくらないように生きようと決意してみることです。
たったこのルール一つ守るそれだけでも、気持がシャンとして、継続できれば人生が激変いたします。
「怒」のエネルギーが少なくなることにより「そういう目にあっても平気」という心持ちになると、不思議なほど、「そういう目」にあわなくなります、よ。
「失礼な態度を取られたくないよー、割り込まれたら腹がたつよー、うわーんッ」という「怒」こそが、問題を引き寄せるのだとお考えになるとよろしいでしょう。
Q:貴著「自分を浄化する坐禅入門」、大変興味深く拝読させてもらいました。
非常に失礼な質問かと思いますが、1つお聞かせ下さい。小池様は、自己を忘じるなり、なんらかの見性体験をされ、自己の介在しない世界に立脚されているのでしょうか。
大変失礼な質問とは存じますが、よろしければお聞かせ下さい。
A:それは、私の言葉や振る舞いなどから、ご自身でご判断いただければと思います。
ところで貴方の仰せになる「自己を忘じる」というのは、瞑想による集中力を高めていくと、必然的に生じる現象にすぎません。
呼吸に完全に意識が集中したときに、呼吸以外の現象がすべて消滅し、思考も一切はたらかなくなるからです。
そのとき「自分」という意識は消滅します。
この境地は、実はさほど特別なものでもなく、原始仏教の修行法をシステマティックに実践していれば、誰でも到達できるものです。
自分と周囲との境界線が消滅して、天地自然や宇宙と一体化したような感覚が生じることも、たびたびあります。
しかしながらこの状態のことを、インドのヒンドゥー教は「梵我一如」と呼び、中国の道教は天地自然と一体化した「無我の悟り」と呼び、中国や日本の禅宗は「無我」と呼び、最高の到達点としています。(本来、仏道における「無我」とは「自分を忘れて宇宙と一体化したような状態」という漠然とした意味ではありませんので、日本に入ってきた仏教は「道教化」していると申せましょう。)
原始仏教の修行では、この段階はゴールではなく、心や現象の観察をはじめる前の準備段階に過ぎません。
重要なのは「一時的に自分を忘れる」ということではなく、「自分が消えた、すなわち思考が消えた状態」の集中力によって自分自身の心を見つめ、無常・苦・無我の法則を把握することだからであります。
Q:こんにちは。
私は子供の頃より怪奇なお話、残酷なお話が大好きで未だにホラー映画を観たり、ゾンビをばんばん撃ち殺すようなゲームが好きなのですがやはりこういうものを好むのは、よろしくないのでしょうか?
自分では、何となく良くないこと?とは思うのです。
このような刺激は「悪」で、「泣ける映画、感動するお話」は「良」なのでしょうか?
小池さんがいつも食しているお料理をみて、心にも良い栄養を与えた方が良いのかな?と考えているのですが、ついつい食事も映画・本なども味の濃いものを好んでしまいます。
A:残酷なものを見るとその映像が視神経に触れた刺激に対して、「うわーッ」と反発する「怒」の反応が生じます。
すると心がビリビリビリッと、さらに強い刺激を受けることになります。
そこに生じているのは「怒」である以上は、心に負荷がかかっているはずなのですけれども、脳は「刺激がたくさん入ってきたから気持良い」と勘違いをしてしまうのです。
この勘違いゆえに、水面下で「怒」が蓄積してゆき、やがて悪影響をおよぼしはじめるということを知っておかれるのが賢明でしょう。
また、「泣ける話や感動する話」が、必ずしも心にとって良い栄養となるわけではありません。
「なんてカワイソウなんでせーう」と心を波立たせて「怒」の煩悩を燃やすのは心を汚染いたします。
そして物語に感動するためには、大げさに危機的な状況を演出してみせたうえで、絶対に解決しなさそうにみえた問題が奇跡的に解消する、といった流れが有効でしょう。
まずは危機感によって徐々に「怒」による「苦」をかき立てておいて、後になってから、その「苦」の原因になっていた問題を一気に消すことにより、「あー、楽になりにけり、感動ッ」と思わせる印象操作をしているだけのことであります。
つまり、作品の受け手は、まず最初に苦しみを与えられたうえで、後で苦しみを取りさってもらうことによって、「あー苦しみが消えてよかった」という幻覚を味わっていることになります。
ボコボコに殴られた後で看病してもらって喜んでいるようなものとすら、申せましょう。な・・・、なにぃぃぃーーーッ。
そして何よりも、そういった大げさな刺激によってしか心が喜べなくなってゆくことを通じて、現実に起きるささいな「物語」がつまらなく感じられるようになります。
芸術のつくる幻覚の世界へ逃げてしまい、現実を楽しむ能力を失ってゆきかねない、ということを心の片隅に置いたうえで、芸術を楽しまれるとよろしいでしょう。
Q:こんにちは。私は、一緒にいる相手や同僚、などなど相手の気持ちに左右されてしまうことがあることを発見しました。
たとえば、彼が会ったら落ち込んでいて何も話さなく、雰囲気が暗い状態の時、同じように暗くなったり、黙られている状態が耐えられなくなって、悲しくなってしまったり、自分はもともと元気で楽しみにしていても、このような結果。
盛り上げてあげることや相手の気持ちを汲んであげることが出来ないようです。
また、同僚が全く私に対してとかではなく、イライラしていたりして、私に対しての態度がきつかったりすると、ずっとすごくダメージを受けて考えてしまいます。それに、レジの仕事のときは、お客さんがつっけんどうだったりすると、こちらもイライラしてしまったり、とにかく相手に左右されて、自分というものがないと、彼にも言われてしまいました。
周りに左右されることなく、自分を保つにはどうしたら一番よいのでしょうか?
A:心は常に波を発しており、その精神状況に応じて周囲の生き物に、大きな影響を与えていることを知っておかれるのが賢明なことであります。
相手が「暗く落ち込んでいる」にせよ、あからさまに怒っているにせよ、悲しんでいるにせよ、それらどの感情も、「怒」の煩悩が持つ波を放射いたします。
そして「怒」にもとづく波を浴びせかけられますと、心を防御していませんかぎりはほぼ確実に、こちらも「怒」の業を刺激されることでしょう。
ただし、このように無意識的に反応するとき、心は入ってくる情報をきわめて大雑把にしか認識いたしません。
相手が「落ち込んでいる/怒っている/悲しんでいる」といったような違いや「その感情が誰に向かっているのか」という事情は抜きにして、「とにかく『怒』の波がやってきた、これは危険なることよッ」と反応してしまいます。
その結果、すぐに影響を受けてこちらの持っている「怒」の業が活性化し、それが原因でイライラしてきたり暗く落ち込んだり、ということが生じましょう。
ですから対策は、周囲から「怒」の波が飛んできたときに、それに引火して燃え上がってしまう「怒」の燃料を自分の中から掃除して減らすように、常日頃から「怒」を減らすように心がけておくことです。
また、次のような気持があるがゆえに、「怒」を受けて暗くなってしまいやすいのではないかと、推察されます。
「せっかく私と一緒にいるのだから、本当は落ち込みかけていても、私のために頑張って明るく振る舞って、楽しい時間を過ごさせてほしいのであーッる」
「自分は大切に大切に扱ってもらえて当然であーッる」という「慢」の煩悩ゆえに、それが実感できぬときに心がグラついて沈み込んでしまうのであります。
すなわち皮肉にも、過剰に「自分」を持ちすぎているがゆえに、自分がグラグラと揺れることになってしまうのだと申せましょう。
このような「慢」や「怒」を自己観察する能力を鍛えていただけることができますなら、心の反応パターンは変わります。
Q:嫌な人との縁とは何でしょうか?この人とは関わりあいたくないと思っているのに、学生ならクラス替え時に又同じクラスになったり、席替え時に隣の席になったり、社会人になると人事異動で同じ部署で一緒に仕事をするはめになるのは、たまたまだとは思えません。
自分の心が自然と引き寄せてしまっているのでしょうか?こういった煩悩についてのアドバイスをお願いいたします。
A:嫌な人がいるから腹が立つのではなくて、こちらがすでに潜在意識で腹を立てていますゆえ、その「怒」の心の波が、ターゲットとして腹を立てたくなるような現象や人物を自分から呼び寄せる、という順番であります。
それは、過去につんできた「怒」の業の報いを受けているということにほかなりません。
そのうえ「関わりたくない、こんな人は嫌だよー」と怒りを発生させている以上、怒りの刺激が心に植え付けられ、業がさらに蓄積します。
ゆえに、もしも「関わりたくない特定の人」から逃れられたといたしましても、「怒」の業が残っている以上は、似たような業タイプの人にたびたび遭遇しては、悩まされることになるでしょう。
どのようなタイプの人とは出会いやすくて、どのようなタイプの人とはかすりもしないか、ということは、お互いがそれぞれ溜め込んできた業の組み合わせによって決まるように思われます。
見渡してみますと、お互いがお互いの「怒」の業を刺激しながら、煩悩を増幅しあえるような人間関係はたくさんあります。
したがって逆説的なことですけれども、「怒」の業を薄めて「このタイプの人は別に苦手じゃないや」という心持ちになった時点で、そういったタイプの人と縁が消滅することになるのであります。
Q:小池住職の教えの「ジブン濃度を薄めること」と、他の自己啓発の本やサイトによく書いてある「自己をしっかり確立すること」って、両立可能ですか?
小池住職の御本の「ジブン濃度を薄める」という教えは、今まで読んだことがある自己啓発本や心理学本とは全然違うのでびっくりしたんです。
他の本だと、自分を大切にすることや、自己をしっかり確立することが大切なことのように書いてありました。
私が見て「スゴイ」「人間的魅力がある」と思える人は皆、自己をしっかりもっているように見えるので、その考えは正しいと思ってました。
私は逆に、すぐに他人の意見に左右されたり、知識で頭でっかちになったり、暗い考えに囚われてたりするので、自分というものをしっかりもっていないように思うのです。
ところが、心に醜い感情が浮かんできた時に、試しに小池住職の教えのように「怒り、怒り、怒り」「欲、欲、欲」などと心の中で唱えるのをやってみた所、本当に醜い感情が減るので、「今まで読んだことがある考え方と全然違うけど、この方法ってすごく効果があるんだ!」と思うようになりました。
ジブン濃度を薄めつつ、物事に動じない強い心、強い自分を持てるようになりたいです。
A:物事に動じるのも、周りに流されてしまうのも、すべて「欲」によるへつらいや焦りや「怒」による恐怖や動揺ゆえのこと、すなわち「自分ッ」への執着ゆえであります。
本当に自己がブレずに確立していることとは、その場かぎりに衝動的に襲ってくる煩悩に振り回されずに、揺らがぬことです。
欲望(むさぼり、焦り、こだわり、自慢など)や怒り(立腹、寂しさ、虚しさ、悲しみ、憎悪、嫉妬、後悔など)や無知(迷い、意識散漫、優柔不断など)といった衝動がやってくるたびに、少しずつ削り落とすこと。
それができましたら、その時その時の感情に振り回されずに、冷静で客観的な決断をくだすことが叶います。
それは、「自分ッ」というものをむき出しにすることから離れている点をとってみれば「自分濃度が薄い」とも申せましょう。
そして感情に振り回されずブレずにいられます点をとってみれば「自己が確立している」とも申せましょう。
「自分濃度を薄める」とか「自己を確立する」といったような字面に惑わされることなく、「感情が醜い/綺麗」「苦痛が発生する/発生しない」といったような具体的な基準で判断されることをお勧め申し上げます。
また一般的に言われる「自分を大切にすること」というのは、あまりにも中途半端すぎて話になりません。
本当の意味で自分を大切にしようとするなら、自分自身を害する思考を、心の中に浮かび上がらせぬようにすべきなのです。
にも関わらず、一般的には「自分を大切にする」=「自分の欲望を我慢せずに出して、腹が立ったときは我慢せずに怒りを発散しませーう」といったニュアンスで考えられているのではないでしょうか。
それが結局は自分自身を醜くするのみならず、苦しみを増すことも知らずに、であります。
そのような生き方をしていても、たまたま一時的に、社会的に「成功」をおさめていられる間は、そのことによる「自信」のシークレットブーツを履いて、偉そうに振る舞うことはできるでしょう。
しかしながら結局のところそれは、上げ底をしているだけのことで、「いざッ」という局面に立たされたときにお里が知れてしまうのがオチ、と申せましょう。
Q:こんにちは。毎回楽しく拝見しております。今日は一つご相談させて下さい。
ある決まった人から度々自慢話を聞かされるのですが、それに対して私はどのような反応を示すのがいいのでしょうか。
嬉しそうに聞けばよいのか、それとも素っ気なく聞けばよいのか。
出来れば、自慢回数を今後減らしてもらえれば私としても気持ちがよいのですが。 アドバイスが頂ければ幸いです。どうかよろしく
お願いします。
A:残念、どちらの選択肢も的外れであります。
心の中の反応を変えませんかぎり、本質的な解決はあり得ません。何故なら、「素っ気なく聞いた」というフリをしてみましても、心の中が「聞きたくないよー」と怒っていましたら、その怒りの心が相手を変に刺激してしまいますゆえに。
心の中で起こっていることを単純にみてみましょう。相手の「慢」煩悩を放射能のように浴びるのに連鎖して、こちらの「怒」煩悩が刺激されている、という状況であります。
「怒」の反応が相手へと無意識的に伝わり、相手の心に放射能のように浴びせかけられます。
すると相手の心には、無意識的に強い刺激が生じます。
ゆえに相手の潜在意識に残る印象は「わーい、自慢したら相手からたっぷり刺激が得られますことよ」というものとなりましょう。
刺激に酔っぱらっている心は、更なる刺激を得るために、同じことを繰り返すべく条件づけられるのです。
素朴に申しますと「あッ、この人は私の話にしっかり反応してくれてる」という印象が刻み込まれるのです。
心の中で「いやだよー」と思って「怒」の煩悩をつくり続けるかぎり、事態は解決しないことを学ばねばなりません。
「慢への怒り、慢への怒り、慢への怒り、慢への怒り」などと心の中でとなえ、自分自身の感情のブレそのものを客観化して静めることが先決と申せましょう。
そうして極力、こだわらない穏やかな感情を形成してから、本当に素っ気なく「ふーん、そうですか」と涼しく受け流してください。
相手は肩すかしをくらいやがて刺激が得られなくなって、自慢ができなくなります。
Q:こんにちは。どうもわからないです。教えて下さい。
この世には色々な宗教が御座いますが、全ての宗教の教えが、どれも同じに思えるのですが…
要するに「解脱」を目指しなさいっ!と。慈愛を持って「行動」しなさいっ!と。
それでいいじゃないですかっ。なのにどうして、あんな作法こんな作法があるのでしょうか?
御作法をして解脱できるとは思えませんが…チンチンしてナムナムして、十字を切ってアーメン。意味がわからないです。
ブッダさんやイエスさんがいろんな宗派を作ってあんなこんな作法をしなさいと言ったのでしょうか?
競うように金銀宝石の立派な寺院を造って祈りなさいと言ったのでしょうか?祈るといっても自分のことしか祈らなければ自我まる出しで、解脱には程遠いと思われますし、そんな手間暇金があったら人助けがたくさんできるのにー。。
少々誇張し過ぎて怒りが込み上げてしまいましたが、お坊様、どうかこの凡人の悩みを解いて下さい。
A:本来の仏道には、「シーラッバダン(戒禁取)」という言葉があります。
それは、宗教儀式や特定の作法にこだわることを意味し、それは執着として心を縛りますから、避けるように説かれています。
そうすると日本の仏教諸宗派は、宗教儀式と不可思議な信仰に陥り、ほとんどすべて「戒禁取」をおかしている異教だということになりそうです。(にっこり)
しかしながら、それらに対して「ナムナム言いなさいなんて、ブッダはそんなこと言ってないでしょーッ」と怒っても、自分自身の苦しみが増え、心が醜くなるだけと申さねばなりません。
しかも、そういった他人の過失を頭の中で想像してクールクルと妄想することにより、無知=迷いの業まで増えるのですから、大損でしょう。
ところで、イエスキリストはカリスマ的能力があったのは確かでしょうけれども、神(ヤハウェ)や天国への信仰をとく宗教者です。
ブッダは、一切の信仰をやめて「自分自身で生きるすべを身につけよ」と説きます。
したがって彼は自らの心を制御するための技術を教える、知の教師と申せましょう。そういう意味で、そもそも両者はまったく別物と申さねばなりません。
見解や意見を作るから、それが宗教や儀式(貴方の仰せになる「お作法」)を形成し、さらにお互いに「自分が正しい」という争いが生じる、と説かれています。
(『スッタニパータ(経集)』の第十二経と第十三経をお読みになると良いでしょう。)
では、争いのもととなる勝手な意見や妄想は、どうやって生じるのでしょうか。
目や耳から入ってきた情報を頭によって勝手に情報処理をし、作り替えることによって、です。
つまり入ってきた情報を作り替える、情報処理作用をストップすると、勝手な妄想がすべて消滅いたします。
情報処理プロセスをストップすることにより、ものごとをあるがままに認識するというのが仏道の本義なのであります。
すると、宗教儀式ですとか不可思議な存在への信仰は、そこに入り込む余地がありませんでしょう。
Q:HP楽しく拝見させていただいています。
人の不幸をネタにして楽しんだり、喜んだりする感情は、どういった心の動きから発生するのでしょうか?
私自身、知らず知らずのうちに、そのような感情を持っていることに気づき、はっとしたりします。
よろしくお願いします。
A:誰もが、多かれ少なかれ、他人の好ましい点について嫉妬をしています。
自分では「あの人が成功したのは好ましきこととぞ思ふ」と、喜んであげているつもりだったりするものですけれども。
あいにくたいていは、喜んであげているつもりになることで、「自分は良い人ですものッ」という自己イメージを偽造しようとしているだけ、というのがほとんどの場合と申せましょう(「慢」の煩悩)。
嫉妬とは「他人の持っている好ましいものを、素直に受け入れたくない、拒絶したい」という種類の煩悩。それは、「嫌だよーッ」という「怒」の派生形でありますから、潜在的には誰もが他人の美点に対して怒っているのであります。
そういった潜在的な嫉妬が常にありますから、実際に他人が「好ましいものを失った」という不幸に見舞われたとき、喜ばしい気持になるのであります。
潜在的にエコーがかかるように「嫌だよーッ、嫌だよーッ、嫌だよーッ」と思い続けていた対象が、消えてなくなりますゆえに。
しかしながら、その喜ばしさの背景にあるのは嫉妬であり、嫉妬の背景にあるのは「怒」であります以上、その暗い喜びは自らの身体に神経毒物質を発生させるような有害な感情に過ぎません。
自らの身体を有害物質でダメージを与えながら、頭の中では喜ぶ、というおそろしくチグハグなことを行ってしまっているのであります。
また「嫉妬」とは別のケースとして、不幸を快楽に転換するプログラムもあるように思われます。
遠方で災害があったとか誰かが殺されたとか、そういった報道を、多くの人は「悲しんで同情している」フリをしつつ、実際は娯楽として楽しんで享受しています。
「うわー、なんてひどい状況なんでせう」と無責任に悲しんでみせるとき、心には強烈な(「怒」の)刺激が発生し、その刺激に酔っぱらっていられるのであります。
強い刺激が得られれば何だってかまわない、という心の仕組みにもとづいて、ショッキングなニュースは娯楽の一種として快楽を提供しているように思われます。
Q:お忙しいところ恐縮ですが、「感覚」について、おうかがいいたしたく、お願い申し上げます。
初期仏教では、全ての感覚は「苦」であり、一般的に私たちが苦から逃れようとする手段は、ある「苦」を別の「苦」で置きかえているにすぎないと学びました。
そういたしますと、「自分を浄化する座禅入門」の苦楽を知るお稽古で、「楽」は「苦」の感覚が消滅した瞬間のみ感じられると書かれていらっしゃいますが、「楽」というのも、結局は「苦」であると解釈してよろしいのでしょうか。
この一瞬感じられる「楽」は、一般的に「ああ、(苦しかったのが)楽になった」という表現における「楽」であり、仏道からみると、その「楽」も「苦」であるということなのでしょうか。
つまり、本当に楽になったのではなく、別の「苦」に置き換えて、前の「苦」が無くなったために、「楽」だという錯覚が生じているということでしょうか。
苦/楽/不苦不楽という感覚の種類と、一切皆苦ということを繋げられず困っております。大変初歩的な質問で恐縮ですが、何卒ご教授いただきたく、お願い申し上げます。
A:この事柄が心の底から納得できたときに、「ぱっかーん」と心の次元が変わるほど凄まじい真理なのでありまして、「初歩的な質問」というのは、大いなる勘違いであると申さねばなりません(にっこり)。
苦しかない、と言うよりも、「苦の量が常に増減している」と表現するほうが的確なように思われます。
実際に、意識を細分化していき感覚を徹底的に瞑想対象にいたしましたら、私たちの神経が伝達できる情報はピリピリ、ピコーンピコーンといった感じの苦の信号しか存在しないのが分かります。
そのように伝達される苦が増えたときに私たちは「苦」と感じ、苦が減ったときに「楽」と感じるのであります。
そういう意味で「楽」は、人間の情報処理プロセスの中にあると申せば、あるのです。苦が減ったときにのみ発生する蜃気楼のような現象として、それは確かに実感されます。
観察するときは、「あー、苦が減ったことによって、楽という蜃気楼を頭が作り出しているのだな」と距離をとりながら味わっていれば、その楽にしがみつかずに済むでしょう。
あいにく、ほとんどの人は、苦の信号を意識的に感じ取ることなく、頭の中で情報を改造しなおしてしまいます。
たとえば怒っているときに現実的には苦の信号がインプットされてストレスが増大していますのに「ああ刺激的であり気持ちよい」と頭が勘違いをしたり、うるさい音楽で聴覚から苦を大量に取り込んでいるにも関わらず「素敵な音楽だ」と編集したりしてしまうせいで、悪業が溜まるのであります。
これは、怒る直前に、人に何か嫌なことを言われたりして生じた苦を、怒ることの苦によって置き換えているだけなのに、楽と錯覚し執着しているのであります。
あるいは、音楽を聴く前にそわそわして「たいくつだなー」という苦を感じていましたのを、音楽刺激の苦によって置き換えている。
実際は苦の信号が増減したり別の苦に置き換わっているだけでありますのに、あたかも「楽」の神経信号などというものが実在するように、錯覚してしまっているとでも申せましょう。
そして、「怒ることにより楽の信号を発生させにけり」「ヘヴィメタルの音楽により楽の信号を発生させつるなり」と、頭が錯覚してしまい、「では繰り返して同じことをおこなおう」と条件付けられてしまいます。
思うに重要なのは、苦/楽をよくよく観察していません場合に人間は、苦の信号が増えることを喜ぶ傾向があります。
苦が増えているのにそれを「刺激が増えてるから楽しい」と編集しなおしつつ、より刺激的な喧嘩・批判・音楽・映画・漫画などにおぼれてゆく、という傾向。
反対に、苦/楽を厳密に感じ取ることを習慣づけますと、「あ、いま苦の信号が増量したッ」と認識したとたんに、それを手放せるようになります。
なぜなら、頭がかってな解釈をして信号を編集しなおしてしまう前に、「ああ、確かに苦だよーッ」と感じてあげることによって、自然に「こんなのやってられない」とならざるを得ませんゆえに。
すると、「苦の変化(増量であれ減量であれどっちでも!)→楽」というおぞましい変換がなくなり、「苦の減量→楽」というまっとうな認識系統が確立いたします。
これにより初めて私たちは「自分にとって本当は何が良くて心地よいものであり、何が悪くて苦しみを増すものなのか」を自分で判断できるようになるのであります。
それは、自らの感覚をリトマス試験紙にしながら、「苦を減らしてゆく道のり」とでも申せましょうか。そして「苦を減らす」たびに、「楽」という現象がたえず発生しつづけます。
こうして苦を常に削り落としながら、それを楽(という一時的現象)へとたえず転換してゆく道のりが、仏道の本義と申せましょう。
なおそれがもっとも強烈にあらわれますのは瞑想中に「苦」に念を向け観察し消滅させることができたとき、強烈な喜悦感や安楽感が生じるときであります。
それは、新たな苦が発生して置き換わっているわけでは、ありません。
単に、もともと存在していた「苦の信号」の量が減ったぶん、それをとても心地よい、「楽な現象である」だと認知しているのであります。
最後に「一切皆苦」の原語は、"サッベー・サンカーラ・ドゥッカ"であり、厳密には「すべての(サッベー)衝動的・盲目的エネルギーは(サンカーラ)、苦である(ドゥッカ)」という意味です。
ゆえに「すべての事・物が苦」という意味ではありません。
私たちを突き動かしている衝動的エネルギーは、精密に観察してみると欲であろうと怒りであろうと、苦しみにもとづいて発生し、しかもそれが発生することにより苦が増える、ということ。
裏をかえしましたら、業の衝動的エネルギーを滅してゆくたびごとに、苦が減少して楽が生じるという原理でもあると申せましょう。
Q:こんにちは。本を読ませて頂きました。
色々な行きずまっていることのヒントになりました。ありがとうございます。大変ですが心掛けてみます☆
相談は、以前別れたひとと会うことについてです。お互いに今は別の方とお付き合い、または結婚しています。お友達、として二人で会うことはお互いの相手の方に苦を与えてしまうのでしょうか?
また、お友達としてといっても、今でも好きという感情はあり、どきどきすることも正直あります。私の中に、欲がはらんでいることは否めません。
相手の方に少し心配なことがあり、話をきこうかなと最近思っています。電話やメールでは…と相手の方が言われたので。やや、言い訳めいてますね。
相手の方のことは今でも好きですし、幸せになって欲しいと思っています。友達として会うこと、友達になりたいという感情はやはり欲でしょうか?
A:胸の感覚を調べて、後ろ暗い気持があるかどうかを、チェックしてみましょう。(おそらく、「ある」から御相談されていることでしょうけれども。)
何となく後ろ暗いときの煩悩モードは、「怒」。「相手に知られたら嫌だな」と、実は心が怒っているのであります。
隠れて会いにいくというのは、自分自身の心にとって負担にもなることであり、のちのちストレス源になります。
そしてなぜ後ろ暗いかと申せば、相手が知ったときに「苦」を受けることになることを、自らすでにご存知だからでしょう。
会いにゆかれるのでしたら、事前に自らのパートナーに伝えておくということもあり得ることでしょう。
それは多かれ少なかれ相手に怒+嫉妬の「苦」を抱かせてしまうかもしれません。しかしながら、こういった突っ込んだことがらをも話し合える関係にしておくことは、今後の二人がお互いのことを知り隠し事なく、清々しい関係を築いてゆくためには重要とも申せます。
隠していて、後から知られてしまいますと「隠していたからには絶対何かあるに違いない」という致命的な「苦」を与えてしまいも、いたしますゆえに。
好きという感情が少しは残っているけれども、裏切るようなことは絶対にないようにする、と伝えておくのです。
そのように事前に話し合っておけば、「こそこそ隠れる」という苦しいモードから脱して、「彼を裏切らぬようにしませう」という気持も強く持っておくことができるでしょう。
「こそこそ隠れる」という「怒」には、ドキドキ感を演出する効果もあるように思われ、無闇に恋愛感情をあおりたててしまい有害なのであります。
なお、別に貴女がわざわざ相談に乗って差し上げたからといって、元恋人の悩みがズバっと解決するようなことは、通常はあり得ません。
うまく行かず別れてしまったのが残念、という印象の残っている相手に、「助けてあげる」という立場で「かつての残念さを取り戻した感」を味わいたいという「慢」の煩悩がくすぶっているかもしれぬことにも、注意を向けておきましょう。
Q:坐禅セッション朝のお経の中で「少食を心掛け、寝るときは何とかで、心のことに身を捧げ」みたいな文句がありましたが正確には何と言うのですか。
A:『ダンマパダ(法句経)』183番〜185番の経文です、意訳したものを以下に載せておきましょう。
挫けそうなときに唱えると、勇気が出ます。
一切の悪(すなわち欲・怒・迷)をおかさぬこと。善(すなわち無欲・無怒・無迷)にいたること。
煩悩を削り落として心を清めること。これが悟りし者たちの教えである。
耐えること、堪忍することはもっとも素敵な修行である。
心が完全に澄み静まった状態は、もっとも素晴らしいものであると、悟りし者たちは説く。
他人にダメージを与える人は、修行者ではない。
他人を悩ませる人は「道を歩む者」とは言えない。
他人を非難しないこと。他人にダメージを与えないこと。
自己ルールを課すことにより、自らを制御すること。
そして食事については適量を知り小食にして、独り静かに寝起きして、心を清めることに努力精進すること。
これが悟りし者たちの教えである。
Q:『「自分」を浄化する坐禅入門』にてお稽古中の者です。
さて、坐禅中に 髪の毛ふさふさになる〜! 目がよくなる〜! たばこがやめれる〜!ってイメージしてはやはりまずいですよね。
A:「イメージしてはまずいのではないか」というのも、「イメージしている自分」に対する怒りであって心にゆがみをもたらします。肝要なポイントは、イメージしたい欲望があるなら、その欲望を見つめて念じること。
そして「イメージしてはまずい」と抑圧しようとする感情があるなら、その感情を見つめて念じること、であります。
すなわち記されているような思考イメージが坐禅中にわきあがってきましたら、「欲、欲、欲、欲」と念じてその欲望を客観化してください。
「ああいけない、そのようなイメージをしてはまずい」という思考がわきあがっていましたら、「まずいと思っている、まずいと思っている、まずいと思っている」と念じて、心の揺れを観察してください。
また上記のようにその場合、心のベクトルは「イメージしている自分」を拒絶して抑圧しようとする流れではたらいていますから、煩悩モードは「怒」です。
「怒り、怒り、怒り、怒り」と念じてみるのもよろしいでしょう。
Q:気になってしかたないので質問させてください。
住職の血液型は何型ですか?誕生日は12月の何日でしょうか?さしつかえなければ教えてください。
A:A型です。誕生日は12月15日であります。
Q:約1年前から友人の誘いでお酒を飲みに行くようになり、次第にその回数も量も増え最近酒に飲まれている自分がいやになっていた時に「煩悩リセット稽古帖」を読んで自分を取り戻すことが出来たと思っています。
今では毎日欠かさなかった家での晩酌もやめることが出来ました。ありがとうございます。
今回、19歳になる娘の事でご相談したいことがあります。
最近年上の男性と付き合いだした様子で、その男性と二人で旅行しようとしていたので父親として反対し中止させました。
まだ大学2年で今は学業に専念することが大事と話しました。娘は納得しておらず正直に話したことを後悔している様子でした。
また親に対して何でも反対されると思っています。
このままだと嘘をついてでもしたい事をするように思います。どのように考えるのがよろしいでしょうか?
A:ええ、「この人に話しても頭ごなしに否定されるだけ」という印象を与えたが最後、おそらく嘘をついてでもしたい事をするようになるでしょう。
ところで「学業に専念することが大事だから旅行はダメ」という小綺麗なリクツを本当に、心の底からお思いでいらっしゃいますか。
慢の煩悩により取り繕って本心でないタテマエによって彼女を押さえつけようとしても、心は通じ合いませんし、何の説得力も出ないものであります。
まずは「なぜ、恋人と一緒に旅行に行ってはならないと否定したくてたまらないのか」、と自分自身の心を観察されてくださいますように。
そしてその理由は、彼女に対して言いにくいものであったり恥ずかしいい内容であるかもしれません。
言いにくいものであるならなおさら、正直にそれを彼女に伝えることによって、はじめて「この人は自分とちゃんと話し合おうとしてくれている」と感じてもらえも、いたしましょう。
それは、相手にこちら側の手のうちを見せてあげるということでもあるのです。
そうしてはじめて、彼女も率直に手のうちを見せてくれることでしょうし、親子の信頼関係というものが回復することでしょう。
そういったやり取りの中で、貴方のほうは「それなら○○という条件つきでなら、恋人と旅行に行ってもいいよ」と言える気持になるかもしれませんし、
彼女のほうも「お父さんも可哀想だからちょっとは言うことを聞いてあげようかな」という気になるかもしれません。
Q:結婚って何なんでしょう・・・。結婚したいと思い、先日お見合いをしまいた。
第一印象は可も無く不可もなくといった感じで終わりました。相手の方が、連絡先を教えて欲しいと言っているけどどうする?と紹介して下さった方から連絡がもあり、第一印象で決めてしまわず、もう少しどんな方なのか見てみようと、連絡先を交換し、又来週会う約束はしました。
ただ、一ヶ月前に、半年の間ですが、ほぼ週末は彼の家で一緒に過ごしていた人と、お互いの求めているものが違うからと別れました。別れをきちんと受け入れて前に進もうと思いお見合いの話を受けたのに、前に踏み切れず、前の彼に会いたくなります・・・。会ってもどうなるものでも無いのに。
自分の中途半端さがとても嫌です。
A:「結婚」とは(本当は一言では無理ながらあえて)一言で申しますと、相手と「家族」になってお互いに支えあう互助関係を作ること、ではないでしょうか。
それは、一生続けて一緒に生きてゆこう、という決意を伴うようにも思われます。もちろん、離婚の可能性はあるにいたしましても。
たとえ恋愛感情がさめた後であっても、相手を「一緒に生き抜いてゆく家族」として大切にできそうかどうか、といった辺りが重要なポイントのような気がいたします。
あるいは、もともと恋愛感情以外の理由から結婚している場合は、なおさらに、であります。
「恋愛感情がさめたり、相手が自分に与えてくれるメリットがなくなっても、それでもこの人と一緒にいたいって思えるかなー」と自分に問いかけてみられると、判断基準になるように思われます。
そういう観点から申しますと、失恋の感情から逃れようとして「誰かと結婚しちゃおっかなー」というのは、お勧めできません。
第一に、「現在の状況をごまかすため」に結婚いたしましても、「相手に自分の苦痛を忘れさせて欲しい」という気持ばかりが優先して、相手のことをずっと大切にするということは非常に困難なことでしょう。
第二に、失恋を引きずった状態ですと心が「怒」の煩悩により波だっていますから、正常な判断をすることが叶いません。
現実を見ぬようにしようという、「迷」=「無知」の煩悩も強く発生している状況では、おそらく自分にとって好ましくない結論をくだしてしまうでしょう。
第三に、そのような状況下で失恋とお見合い相手をごちゃ混ぜにしてしまいますのは、失恋した相手への想いを汚すことでもであり、結婚相手への敬意も欠くことになりましょう。
ですから困難なように思われましても、まずは「失恋」の苦しみから、自分自身で抜け出そうとする勇気を持つことが肝要なのであります。その後で、改めて結婚のことを考え直してみられては如何でしょうか。
Q:新しい仕事につき、仕事のこと不安なことばかり考えてしまいます。
だから目の前のことが、子供のときのようにははっきり現実的に見えず、頭の中で生きてばかりいて、疲れます。
頭の中で考えてばかりしまう私は、結婚なんて今の自分にとんでもない気がします。
人と居る時も頭のなかにいる気がします。ただ、家族の家ではくつろげるのですが。
友達と旅行なんて疲れてしまいます。やはり今していることに集中することがいいのでしょうか。
A:「今に集中しなきゃ」というのが単なる強迫観念になってしまっては、なんの意味もありません。
一つ申せますことは、思考を空回りさせずにくつろげる環境が、一つでもありますならそれは小さな幸福でありましょう。
時としてそこを避難場所にしながらも、「思考」を制御する力を身につけられるように心を育まれてくださいますように。
さて、「考えてばかりの自分には、結婚なんてとんでもない気がする」というのも、頭の中の考えごとです(その煩悩は、迷+怒)。
「頭のなかにいる気がする、疲れるなあ、嫌だなあ」というのも、頭の中の煩悩です(やはり、迷+怒)。
むろん、一つ一つのことに集中して取り組むのは大切なことですけれども、自分の思考を客観化するように努めるほうが先決のようにも思われます。
そういったややこしい思考がわきあがってくるたびに、「頭の回転、頭の回転、頭の回転、頭の回転」もしくは「無知、無知、無知」「迷、迷、迷」などと、心の中の言葉で念じてみては如何でしょうか。
「頭が回転している、よくないなー」「頭が回転しているのはどうしてかしらん」などと考えて評価することなく、ただひたすら「頭が回転している」という事実を客観視いたしますこと。
それを数日間繰り返していましたら、徐々に「あ、また頭が空回りしている」という事態を客観視できるようになることでしょう。
それにつれて、頭の中に閉じこもりそうになるパターンが抜け落ちてゆきます。
Q:浄土宗と浄土真宗の違いを教えて下さい。
法然上人は、阿弥陀仏の來迎を説きます。
親鸞聖人の教えでは、阿弥陀仏の來迎は無いですよね。もう救われてるのでしょう?
それに気がつく事が大切であり、救われていることに感謝する立場が真宗の立場ですか?
A:どちらも、仏教を数パーセントだけ取り入れて鎌倉時代に新しくつくられた「新興宗教」であるという点では、大差ありません。
阿弥陀仏という実証不可能な超越的存在に救済してもらおうという発想は、仏教というよりもキリスト教のような一神教に近いように思われます。
仰せになられている違いは、一応、その通りでしょう。その結果として出てくる違いとして修行を「する」か「しない」か、という違いがあります。
浄土宗の場合は「南無阿弥陀仏」という呪文をひたすらとなえる、ですとか、阿弥陀仏のイメージを想い描いてそれに一体化する、といったような修行法が一応存在いたします。
浄土真宗の場合は、阿弥陀仏が万人を自動的に救済してくれる(仰せのように「すでに誰もが救われている」としばしば言われます)のだから修行は必要なく、「ありがとう」と感謝しましょう、といった雰囲気です。
Q:1つ、絵についてのご相談があってメールしました。
小池さんの本、数冊読ませていただきました。とってもかわいいイラストですよね。
こんなかわいくて脱力系の絵でも親しみがもてるし、逆にいいよなぁって思えました。
私はホームページやブログを持っています。でも完ぺき主義なところがあったので、キレイな絵ではないと受け容れられないんじゃないかと思っていて、全然絵を描いていなかったんです。
でも、小池さんの本を読んで、こういう絵でもいいなら、私にもかけそうだなって勇気をもらえました。ありがとうございます。
ご相談というのは、絵をホームページに掲載する過程についてです。
小池さんは絵をクーピーで描かれているそうですが、手書きで書いて、スキャナで取り込んだら、あんなに背景がきれいな白になるものなのでしょうか?
何か、ソフトを使って加工しているのでしょうか。
プリンタでスキャナも取り込めるものがありますが、そういうのではなくて、ちゃんとしたスキャナを使っているのでしょうか。
それでしたらどんなスキャナを使っているのか知りたいです。どういうふうに取り込んで、どんなソフトで加工されているのでしょうか。過程が知りたいです。
いきなりで大変ご迷惑で、お手数をおかけしてしまいますが、私も絵を描いて、いろんな人に、自分に自信を持ってもらったり、幸せに生きてもらいたいと願っています。どうぞよろしくお願いします。
A:いやはや、絵を描くことで他人が幸せになったりすることに、あまり期待しすぎますと、そういった「力み」が自分をがんじがらめにすることを自覚しておかれるとよろしいでしょう。
ともあれご質問に回答いたしますとcanonの「canoscan lide」という、古くて解像度の低いスキャナを使用して画像を取り込み、基本的にはなんの加工もせずにそのまま掲載しています。
取り込む際に使っているソフトは、canonのスキャナに付属していた"scan gear"というものです。
取り込むときの設定として「低コントラストな色を目立たなくする」といった選択をしておくと、背景に色がうっすら入ることを防ぐことができるでしょう。
なお、photoshopなどの加工ソフトは背景の色を「対象」として一括指定し、その色を「削除」するといったこともできます。
Q:座禅を終えた後にふと「あれ、私は幻なのかもしれない?」という考えが出てきました。
そのあと、「座禅して確認しなくちゃいけないな。」と何度も思考が出てきました。でもどう確認したら良いのかわからないので、少し気持ち悪い宙づり状態がうっすらと続いています。どのように対処したら良いのでしょうか?
私って思っている私は実はないような、言葉にできないんだけど、しかも明確な何をもってそう感じたかも言えないレベルだけれど、確かめたいと思うのです、その方法があれば教えて下さい。
A:「私は幻かもしれない」という印象を研ぎ澄ませてゆくことができましたら、心の次元に決定的な変化がもたらされます。ここが、精進のしどころと、心して取り組んでくださいますように。
「幻かも」という印象をもたらす元になった現象を、できるだけ仔細に観察するよう努めてください。つまり、それを「何となく」のものに終わらせることなく、証拠を探すこと。(これは合宿の最終日におこなった、無我の観察瞑想となります)
一つ一つの現象について、「これも私ではない」「これも私のものではない」と、一回一回、注意深くチェックし続けること。判断基準は、「この現象は、私の意志によって自覚的に作ったものか、それとも自動的に発生しているものか、どちらであろうか」ということ。観察力が高まるほどに、それが「自分」などとはまったく無関係に、自動的に発生しては消えてゆくだけのものであることが、見えるはずです。
そしてそれをチェックするポイントは、以下の四つとなります。
(以下の四つについて、その瞬間に鮮明に別々のものとして認識できるまでに、集中力と瞬発的な念力を高めるのも重要なことであります。)
- 1)意識が対象をキャッチした瞬間=識
- 2)キャッチした対象から記憶の連想ゲームが働いた瞬間=想
- 3)快/苦/中性 の感覚が生まれた瞬間=受
- 4)欲/怒/迷 の思考・煩悩が生まれた瞬間=識
「私がいる」という感覚は、ちゃんと観察していないときに限って「私の認識」「私の記憶」「私の快楽、苦痛」「私の思考」「私の意見」という錯覚から発生する、幻覚です。注意深く観察すると、それらのどれも「私の」ではなく、過去の情報が組み合わさって機械的に湧き上がって来ているだけであることが、明らかになってくることでしょう。
私たちが「私」を実感して執着している根拠は、上記の四つのポイントしか存在いたしません。そしてその四つのポイントを別々に観察し続けますなら、そのどのポイントをとっても実は「私」でも「私のもの」でもないことが明らかになるのです。
なんとなく「幻かも」と「考える」のではなく、一瞬一瞬のデータにもとづいて厳密に「自分でもなく、自分のものでもない」という証拠を、自我に突きつけ続けることが肝要なことであります。それにより「がっびーん、明らかに私というのは幻であーッる」と、ショックとともに思い知ること。
これを腹の底まで思い知ったとき、智慧のはたらきによって、「私」=「自我」という幻が心の底から砕け散ります。すると、これまで幻覚によってつくりあげられてきた心のプログラムが根底から変化して、全てがサラサラと流れるようになります。
Q:ご住職さま、ポッポさま、皆さま、お今日は。サイトいつも楽しく拝見させていただいております、またご著書も繰り返し読み戻しては進み…ゆっくりページを繰っては我が身を振り返っています。
昔から我が強いとは思ってはいたものの、こんなに毎日を毒毒毒と過ごしているとは…「まぁぁぁ!」という感じでございます。
あの、質問なのですが…自分を薄める方法として自分をよく知る、観察する。…というのは、例えば…
先日お風呂で転びまして「びっくりしたぁ」時に「転んだ時に瞬間手がまず出るって素早いような…でも感情のスピードってもっと速いのかしら??
そもそも『今』に集中していないから転ぶのかしら?…頭でしか分かっていないってこういう事かしら?
…また『今』から飛んでいるかしら…」ぐるぐる、
という風になってしまうのですが、それでも少しづつ前に進めているのでしょうか?それともクルクルしているだけでしょうか?
集中するというのは、切っ先になったように行動をするようで怖くはないですか?
A:ん・んー、残念ながら、それは「観察」=「念」になっていません。それどころか、迷い=無知の煩悩を増やすはめになっています。
たとえば「今に集中していないから転ぶのかしら」というのは「解釈」や「考察」であって、その考察をもとに「自己評価」が生じ、それにより更に心が波立ちます。
「今に集中していないせいかしらん」と解釈をいたしますと「今に集中していないのは、よくない」と自分の失敗を拒絶する怒りの煩悩が生じ、心が波立ち混乱いたしますでしょう。
転んでいるときにびっくりしていましたら、「びっくりしている、びっくりしている」と、自分の感情を単にそのまま客観化するのが、観察であります。
さらに申しますなら、びっくりするのは、倒れたことを嫌がる「怒」の煩悩ですから「怒り、怒り、怒り」と客観化するほうがさらに適切でしょう。
何かを解釈していたり、考えていたりする自分がいるとするなら、その考えに一体化せずに、以下のように念じて客観化し、切り離すことであります。
「手の動きは早いな、と考えている、考えている」(迷)
「感情のスピードってもっと早いのかしらと、心がさまよっている、さまよっている」(迷)
「頭でしか分かっていないってこういうことかしら、と、解釈している、解釈している」(迷)
これは、「今この瞬間、いったい自分の心は何をしているのか」というのを絶えず追跡し客観化してゆく作業と、なりましょう。
それによってもまた、「今」をとらえることが叶うのであります。
さて、人間の基本的プログラムは、煩悩の反応パターンに操られながら「今」から逃げ、それによりたくさんの(「欲」「怒」「迷」の)刺激を得ようというものであります。
したがって、「今に集中する」ことによって反応パターンを断ち切ることは、人間の「我」という基本プログラムを改造することとなります。
それに対して、従来の「我」が、「自分が消えて死んでしまうのではないか」と恐怖感を感じるのは、自然なことと申せましょう。
そして、恐怖感すら感じさせるほどのものに敢然と挑戦してはじめて、歪んだプログラムを抜本的に改良するという成果も得られるのであります。
Q:食べる事が頭から離れず、困っています。
暇さえあれば、何食べようかな… と考えたり、何か食べたり。それでいて、ダイエットしたいんですけど……(汗)
家で暇なときにするような趣味でもあればいいですけど、めんどくさがりで。。。どうしたものでしょうか?
A:心が、煩悩刺激中毒になってしまっている・・・ッ。
暇なときは、心の刺激が急激に少なくなってしまいますゆえ、「何食べようかな」と考えることで、心に強烈な刺激を与えようとしています。
と申しますのは、ダイエットをしたい人にとって、「食べると苦しみの刺激がわく」ということは、自明のことです。
「また食べてしまったーッ」という、激しい後悔がわき、その刺激を心は大歓迎してしまうのであります。その煩悩モードは、「怒り」による後悔。
「怒り」による強い刺激が与えられることによって心は、次のような負の学習をしてしまいます。
「怒りによってたっぷり刺激を得ることができて良ろしうございました。なるほど、食べ物を食べて苦しめてやれば、この人は怒りの刺激をたっぷり出してくれる人らしい。
じゃあ、これからも刺激が少なくなってきたら食べ物のことを考えることによって刺激を引き出すことにしませーう」
「食べたい」「何食べようかな」という思考をするだけでも、それによって刺激が得られるということを心が学習して繰り返してしまう、これがカルマの仕組みに他なりません。
反対に「食べたい」という思考がわきあがってきましても、それに対して刺激を与えぬようにすれば、「食べたい」と思考しても刺激が得られないから無駄だ、と心が学習してくれます。
刺激を与えぬようにいたしますには、感情に飲み込まれず、感情に反応しない、という技術が必要となります。
そのために有用な技術が、自己感情を客観化することです。
「いま、『何食べようかな』と考えている」「いま、『でも、ダイエットしたいし』と考えている」
「いま、『趣味でもあれば良いのにな』と考えている」「いま、『でもメンドクサイ』と考えている」
たとえばこのように、襲いかかってくる感情を一つ一つ、心の中で言葉にしてとなえ、客観化してみてください。
そういたしますと、その感情によって生じるはずだった刺激が、客観化されることによって消滅します。
すると「この感情を作っても刺激は得られないらしいから、もう作るのはやめよう」と心が学習してくれ、カルマによる反応パターンが抜落ちてゆくことでしょう。
ですから面倒くさく思われても、その瞬間・その瞬間の感情の動きを観察いたしますこと。繰り返しとりくみましたら、確実に結果が出ることを保証申し上げます。
Q:はじめまして。
書き貯めた写経はどうすれば良いのですか? お墓って必要なんですか?
A:書き溜めたノートと比べて、写経を特別扱いする理由はありません。つまり、差別する理由はないのであります。
焚き火などができる河原やキャンプ場などに持って行って燃やすと、気分もスッキリして良いのではないでしょうか。
お墓は「骨」や「石」という物質に執着して諸行無常に逆らう行為ですから、本来の仏道に反した習俗であります。
ですからそれは必要ではありません。
ただし自分は不必要だと思っていても、親戚が「墓は大切だ」と思っている場合は、伝統的習俗に合わせてあげるという精神的度量も必要でありましょう。
Q:ご住職こんばんわ。私は大学3年で就職活動中なのですが、人に気に入られようと一生懸命になる自分に疲れ、絶望に近いものを感じています。本分である、学業もかなり疎かになっている状態です。
本当は就職活動をするよりも、学業や部活動に全力を注ぎ、素晴らしい卒業論文を書きたいと思っております。
また、近い将来は仏道に関わることをしたい(悩める方の手助けなど)と思っているのですが、「在家で尚且つ女には難しい」と、僧侶の方々に言われてしまっています。尼になりたいという気持ちもありますが、「止めたほうがよい」と多くの方に言われます。
食べていくために就職しなければならないのは理解しています。ですが、将来の不安解消やお金のために生きることに納得していない自分がいます。
私は我侭なだけなのでしょうか?これ以上、怒りのスパイラルの中にいることに堪えられません。
漠然とした相談ですが、アドバイスをお願い致します。
A:いやはや、思考が、クールクル、と自動回転してしまっている模様。
「人に気に入られよう」「気に入られようと疲れて絶望的」「素晴らしい卒業論文」「仏道により悩める方の手助けをしたい」「お金のために就職するのは納得できない」
心がこれら複数の情報の間を、入り乱れながら乱雑に行ったり来たりする、混乱状態に陥っておいでであります。
すなわち、怒りの業も強いのですけれども、無知=迷いの業のほうが遥かに強大という印象を受けます。
それぞれ矛盾しあった情報の間を行ったり来たりしながら、結局のところどの問題も解決しないまま放ったらかしにしてしまいかねません。
アレコレとたくさんのことを同時に気にしすぎるのは完璧主義ゆえのことですけれども、その結果、何一つとしてまともな成果が残らなくなってしまうのであります。
人に気に入られたければ、「気に入られたい」と脳内で欲の思考を回転させるかわりに、それについて適切かつ具体的な努力を開始するとよろしいでしょう。
自分の思考(とそれにより発せられる波動)を律し、言葉を律し、行動を律することで、他人に与える影響が格段に変化いたします。
「素晴らしい」卒業論文を仕上げるには、他の思考はストップして、論文に専念する必要があります。
ただし「素晴らしい論文じゃなきゃだめッ」と自分にプレッシャーをかけますと強いストレスが生じ、かえって論文から逃避したくなることでしょう。
そして、「人助けをしたい」といった思考は、目の前の嫌な現実(=論文)から逃避するための道具になりやすいことを、心に留めておかれますように。
悩める方の手助けをされたければ、まず自分の悩みや思考の混乱を乗り越えてからでなければ、「悩める方」と共倒れになるのがオチであります。
「仏道に携わりたい」という漠然とした願望に逃げてしまう前に、まずは具体的に坐禅瞑想をはじめてみるべきでしょう。
そして自分自身が能力としてそれに適しているのが分かってはじめて、「では仏道に携わろう」と判断すると間違いが生じません。
また「社会人として就職する」=「お金のために生きる」というのは、事実誤認をされておられます。
本人の心次第で、「お金のために働く」ことにもなれば、「自分の向上や社会のために働く」ことにもなるのですから。
まず、「思考に心をさまよわせる」のを減らして「今できること」を一つ一つ集中して取り組んでゆく具体的な努力を、始めてみましょう。
道というものは、具体的な努力を続けてゆく人にのみ、開けてくるものなのであります。
Q:こんにちは。ご住職の著書、まだ2冊ですが読ませていただき、いろいろ自分の間違った心の在り方を自覚させられました。ところでぜひご住職の意見をうかがいたいことがあります。
最近、勝間和代さんの『断る力』を読んで非常にすっきりした気分になりました。というのも自分は複数の人のアシスタントをかけもちでしており、最近担当者の人数が多くなったこともあり、全ての仕事をほいほい引き受けていたのでは帰宅が遅くなることに悩んでいました(小学生の娘が一人で留守番してるので7時すぎには帰宅したいです)。
しかも私とは別に専属のアシスタントがいる方からも仕事(誰にでもできる作業です)を頼まれることがあり、「なぜ私に?」と苛立つことがしばしばあり、そんな時に『断る力』は救世主のように思えました。「仕事って断っていいんんだ!?」と目からウロコです。
この本の内容は端的に言うと『「断る力」を持ち、得意でない仕事は断ることにより、自分の力を自分の得意分野に集中的に配分し、著しく効率化に貢献する』というものです。
私は「得意でない仕事」を断るというのは、私のアシスタントという身分ではやってはいけないと思うのですが「自分のアシスタントに頼むべきでしょ?」とか「他の手の空いているアシスタントでもできるでしょ?」とかいうたぐいの仕事を断っていこうと思うのですが、ご住職はこういう態度、どう思われますか?
A:一般論として、断るべきタイミングで断ることは重要ですし、得意でないものは断って得意な人に任せる必要があります。ただし、断る動機として自らの心の中でどのような思考をするかについて、気をつけるとよろしいでしょう。
「断る動機」として「誰にでもできる仕事を与えてくるなんて」と、心をイライラさせますなら、その負の感情が心に植え付けられ、のちのち悪影響が生じますゆえに。
御言葉を翻訳いたしますと「こんな誰にでもできる仕事は、この才能あふるるワタクシには相応しくないのであーッる」という感情が背景に働いています。
その煩悩モードは、自分を特別扱いして個性を活かせる仕事を回してもらいたい、という「慢」の欲であります。そしてそれが満たされぬことについて、怒りの煩悩モードまで活性化しているのであります。
「自分には、自分の持ち味をいかせる特別な仕事が与えられてしかるべき」という感情をベースにして断りますとき、その負の感情がカルマとして心に植え付けられ、そのぶん「慢」の煩悩が大きくなります。
そういった一回一回の感情がつみかさなり、やがて自らをひどく傲慢な性格にしてしまうということに、気をつけられますように。
「慢」の波動を強く放つようになりますと周囲からは嫌われますから、やがて良い仕事(得意な仕事)をまわしてもらえない、という報いを受けるはめになるでしょう。
同じ断るにしても、断る背景でどのような思考をしているかによって、相手に与える印象も異なったものとなるのであります。
ですから、「断る基準」について、注意深くありますこと。
「本当に得意でない、上手にできない」ものは断る、これは基準として適切です。
しかし御言葉にあるものは「上手にできない」のではなくて「できるけれども、やりたくない」ものでありますから、それは断る基準とせぬほうが賢明でしょう。
あるいは、あくまでも参考までの一例として、健全に「断る」方向性を挙げておきましょう。
「複数のアシスタントをかけもちすることで子供と過ごす時間が取れなくなるから、かけもちをいくつか『お断り』して、力を集約しませう」といった思考であれば、自らの心に悪業を植え付けることにはならないのであります。
Q:小池僧侶は、どんな調味料を所有していますか。精進キッチンのおいしそうなお料理を見ていてふと思いました。
A:思い当たる限りで全て挙げますと、以下のような内訳となります。
- 基本調味料:玄米味噌、麦味噌、豆味噌、醤油、海塩
- 甘味料:黒砂糖、メイプルシロップ。
- 油:胡麻油、菜種油、オリーブ油
- 香辛料:シナモン、ターメリック、唐辛子、山椒
Q:いつも楽しく拝見させていただいてます。ひとつ疑問に思ってることがあるのですが、仏壇に供えるお線香の本数に意味があるのですか?家庭によって、一本や三本などあるのですが、通常どんなものなのでしょうか??
A:一本でも三本でも、特に違いはありません。本数に意味付けをする人たちもいるかもしれませんけれども、それは本来の仏道とは何の関係もない迷信にすぎません。
そういった作法の型に執着する(「戒禁取」と呼ばれます)と心が汚染されるので離れたほうがよい、とブッダが説いていることを、覚えておかれるとよろしいでしょう。
Q:先日、組織や集団からいじめられる人というのも、因果応報「カルマ」のせいということになるのでしょうかという質問をしたものです。
住職のご回答は、いじめられているのであれば、これからはいじめられなくなるよう、いじめに対して平然と対処して切り抜けてゆける技術をトレーニングするが肝要とのお答えでした。
その「いじめに平然と対処して切り抜ける能力」というのがどういうものなのか、具体的によくわからないのです。
例えば、私は、よく職場で、「不器用だ。」と言われ、怒られたり、馬鹿にされたりします。
裏でいろいろ悪口を言われたり、無視されたり、失敗を公の場で公表されたり、大切な引き継ぎをしてもらえないこともあります。
私が不器用だということはその通りだと思います。直したいと思います。しかし、能力的なこともあり、なかなか器用になりません。
「不器用な自分を直したい!器用になりたい。なんでもできるようになりたい。」というのは「欲」ですし、「なんで、そんなことをいうのか。」と反発するのは「怒」です。
とすると、どうすることが、いじめに対して平然と対処して切り抜けてゆける技術なのかが、分からないのです。
「私が不器用なのは、能力が足りないのです。以後気をつけます。」と、「欲」も「怒」も「迷い」もない状態で、日々のするべきことを粛々と行えばよいのでしょうか?
具体的にどうすれば良いのでしょうか?方法を間違うと、嫌がらせやいじめ、無視などがエスカレートしないでしょうか?
適切な行為をすれば、自分のカルマが浄化され、本当にいじめがなくなるものでしょうか?答えが見つけられないのです。
A:平然と切り抜けてゆける技術とは、「技術」とは申しましても、心の操作法のことを申しております。
まず、「いじめられた」という事実に対して不愉快にならない能力であります。
次に、もしも不愉快になってしまった場合は、その不愉快さに「念」を向け観察して解消する、精神コントロール技術。
そしてまた、基礎的な事実を、思い起こしましょう。単に「不器用」ということは、決していじめられる原因にはならない、ということを。
同じように「不器用」でも、周囲に助けてもらいながら、結果として周囲に好かれている人というのは、世の中にたくさん存在するでしょう。
単に「できない」という事実は、本人の性格次第で、案外かわいらしいものだったり、まわりをホンワカと和ませるようなものにもなるのですから。
今のように「自分自身の性格が問題だ」と考えずに「不器用なせいで非難されている」と考えますと、自分自身の性格(=業の集積体)を変えずに済みます。
しかしながら、そのように問題をすり替えて「今の自分」を守ってしまいますと、このまま一生、苦しみ続けるはめになります。
ゆえに、心の反応パターンを組み替えることこそが最重要課題と申せましょう。
自分が「できること/できないこと」をしっかり踏まえたうえで、できないことは上手に他人に手伝ってもらうのが大切なことです。
それが上手でない人は、プライドに閉じこもって手伝ってもらうのを頼むことすらできないかもしれません。
あるいは手伝いを頼みながらも「こんなことを頼むなんて恥ずかしい」とプライドの煩悩をうずかせ負の波動を発しますので、その緊張感が相手にも伝わり不愉快にさせるのであります。
自己卑下にせよプライドにせよ、こういった「慢」の煩悩というものが一番、他人をイライラさせて「いじめたい」という怒りの煩悩を刺激するもの、と知っておかれるとよろしいでしょう。
(わかりやすい言葉で申しますと、自らの意志に関わらず周囲に「ナマイキ」という印象を与えてしまっていることでしょう。)
反対に、心の持ちようさえ汚れていなければ、手伝いを求めることは、決して他人を不快にさせません。
斜に構えた申し方をいたしますなら「他人のことを助けてやってる素晴らしいワタクシッ」という妄想にふけるのは、多くの人が好むのですから。
Q:私は今年30歳になる女です。自分がこれからどうすればよいのか分からず、途方に暮れています。
大学卒業後、就職できずに実家に戻りアルバイトや工場内での作業員として派遣の仕事を転々としてきました。3月で契約は終了し、現在有給休暇中です。
仕事を探すために職安に行ったのですが、何の知識も技術も経験ももたず、とりあえず面接を受けたところで何になるのだろう、今までの繰り返しになるだろうと思い、茫然としました。
今では、大卒がコンプレックスになっています。大学に行った事が、ただのお金の無駄遣いにしか思えず後悔してばかりです。工場内での仕事のときなど学歴を聞かれるのが嫌で、適当に嘘を言ってごまかしていました。
思えば私は、小さい頃から自分がどう見られるかを気にしてばかりいて、人の視線が怖いです。
持病(顔面のこわばり、斜視など)があり、顔の表情にでるので、人の目も合わせるのが苦手で会話も得意ではないです。
小学校高学年頃からは、特に男の子からからかわれ続け、その時の嫌な感情は今でも思い出しますし、男の人は苦手です。
地元を離れれば自分は変われると思い大学に行ったわけですが、結果は違いました。
気がつくと、私には自立して生きていける力、何も身に付けていませんでした。
何の文句も言わずに食べさせてくれる家族は、ずっとそばに居るわけではありません。
知識も技術も仕事もなく、打ち込める趣味があるわけでもなく、人間関係も築いていけなかった事、今私にあるのは後悔と迷いです。
私は何をするべきでしょうか?一日一日何を心得ればよいのでしょうか?ご住職様、どうかご助言をお願い致します。喝を入れてください。
A:過去の記憶という幻影に呪縛されてしまっている状態から、自らを解放してあげることが何よりも先決と申せましょう。
知識や技術がないのも、人間関係を築いてこなかったのも、全てこれまでのこと、過去のことです。
小さなころに無責任な男の子にからかわれたことによる棘は、痛々しく悪影響を与え続けるのは事実ですけれども、それも過去のことです。
「過去のこと」とはすなわち、記憶の中でいろいろと添加物をつけられ大げさに編集しなおされている、幻影のようなものであります。つまりそれは、リアルな現実ではありません。
顔面のこわばりも斜視も、精神的理由によって生じるものでありますから、今から心を変化させればなおります。
もしも顔面のこわばり等がすぐに治らなかったといたしましても、実際は貴女が恐れているほど、顔面のこわばりについて他人は注目していないはずです。
その恐れは、貴女の中でだけ過剰に誇張され自らを縛りつけている、幻影なのであります。過去にからかわれた記憶の棘ゆえの。
ですからその「恐れ」=怒りの煩悩エネルギーを瞑想により見つめて消し去ることさえできれば、コミュニケーションは今よりもずっとしやすくなるでしょう。
「大学に行ったことがお金と時間の無駄遣いであるなんて許せない」という思考の背景には「大学に行ったからには絶対に元を取らなくてはならぬッ」という思考が隠れています。
結局のところ「大学に行ったのだから」ということでプライド=慢の煩悩が増殖しただけのことです。
「大学に行ったのだからそれを活かせる仕事をしたい」という思考を心に植え付けてしまいますと、そのプライドゆえに選択肢が狭くなります。
具体的には「大卒に相応しくないように思える仕事」には就きたくなくなりますし、もしも就いたとしても常に不満が刺激され、辞めたくなってしまうでしょう。
さらにそのプライドが屈折して「大卒」ということを隠したくすら、なっておられましょう。
「大卒なのにそれを活かせていない自分」を他人から知られるかと思うと、プライドの傷がうずきますゆえに。
ギャンブルが大好きな御方が、「これまでギャンブルに数百万円つぎこんだのだから、元を取るまでギャンブルを続けるのであーッる」という思考にしばしば陥っているでしょう。
実はこれとまったく同じ、プライド=慢の煩悩が問題と申せましょう。
か・・・、喝ぁぁぁーーーッ、ギャンブル狂的プライドに呪われている・・・ッ。このような呪縛にとらわれている自分自身を注意深く見つめ、そっと手放しますこと。
そして、「今、自分にできる仕事」「今、自分がつきあえる人間関係」があれば、まずは何でも良いから始めてみることです。
始められましたら、続けてみることです。深い人間関係にせよ、真に役立つ仕事上の技術にせよ、続けることによって始めて形成されるものなのですから。
Q:はじめまして。御本を読んでメールさせていただきました。
座禅を行い、日常的に自分の行いを観察するよう努めているのですが、不安をコントロール出来ず増幅してしまうようなことや、心をどうもっていいのかわからなくなってしまうことがあります。
元々心が不安定な状態からはじめた座禅だからでしょうか。ひとりで座禅を行わない方がよいのかと思い、暫くお休みしようか悩んでおります。
A:普段は見てみぬふりをしている心の動きを観察しはじめるわけですから、当然ながら「嫌な自分」と直面するはめになります。
たとえば、「いつも以上に不安になってしまう自分」といったものに出会うことでしょう。
それが、これまで作り上げてきてしまった、自分自身の姿なのであります。
もともと「自分は心が不安定」というつもりでおられましても、実際は、自分が思っているよりもはるかに不安定だからです。
(人は必ず、自分のことについて、実際よりも「ましな」イメージを作って現実をごまかすものでありますゆえに。)
そのような強烈な不安さが出て来ましたら、それを拒まずに「ああこれが、自分自身の姿であることよなー」と、受け入れてください。
「コントロールしよう」と思うと、「コントロールしたいよーッ」という緊張感ゆえに心がブレて、集中力がそがれ、よけいに不安になってしまいます。
不安な気分(怒りの煩悩エネルギー)が出てきたのに対処できず、さらに不安になってしまっているとしたら、「自分の怒りに対して、怒りが発生している」という状態と申せましょう。
そんなときは、次のように念じて自らの状態をとらえてください。
「怒りへの怒り、怒りへの怒り、怒りへの怒り・・・」といった感じであります。
あるいは、もしも「あー、心をどうもっていってよいか分からない」と感じはじめましたら、その感情を客観化して「無知、混乱、無知、混乱」などと念じて客観化いたします。
決してどのような感情がわきあがってきましても、それに飲み込まれぬように、敢然と向かいあい、明晰な意識によって客観化いたしますこと。
過去の自分自身がつみあげてきた負のエネルギーと、敢然と向かい合う勇気を持つことではじめて、一歩先へ進めるのです。
ただし、一人で歩めぬときは、師を探すのもまた重要なことと付言しておきましょう。
Q:心の動きの区分についての確認質問です。
「欲」は「引き寄せたいもの」、「怒」は「避けたい、起きてほしくないものもの」でわかりやすいですが、「迷」が腑に落ちないところがあります。
次のような例はどうでしょうか?
(1)瞑想中の雑念は、「迷」かと思いますが、つかむものが当面ないのでその辺のものをつかむ⇒「欲」とも考えられます。
(2)日常的なことで選択に迷う場合は、「迷」でしょうか?判断を避けたい、片方捨てることを避けたい。⇒「怒」とも考えられます。
A:「欲」や「怒」とくらべて「迷」=「無知」のエネルギーは極めて捕捉しにくいものですから、瞑想がずいぶん進まなければつかまえることができません。
瞑想中に「欲」や「怒」が出る一瞬前に、心がクラっと失念して、集中していたのが破壊されますでしょう。
失念する際に明晰な意識がブラックアウトするエネルギーが、「迷」=「無知」の業です。
「対象を認識しない」という働きと申してもよろしいでしょう。
たとえば一緒にいる人が香水をしていると、最初はその香りを認識いたしますけれども、
その刺激に慣れてくると興味をうしなって、まったく認識しなくなります。このように「刺激はそこに存在するのに、その現実から逃げようとする」というドライブが、「迷」=「無知」であります。
純粋な「迷」=「無知」のみが強烈に機能する場合、意識がぼんやりしたり、眠りに落ちたり、妄想がはじまったり、混乱状態に陥ったりいたします。
ところがたいていの場合、その「迷」=「無知」の勢いをベースにして、意識は何か自分に刺激を与えてくれる対象をキャッチしにいきます。
それが快楽の刺激を欲してしがみつこうとするドライブであれば「欲」となり、不快な刺激に執着してしがみつこうとするドライブであれば「怒」となるのです。
したがって、ご質問の事例の心理ベクトルは以下のようになりましょう。
(1)快楽でも不快でもないような夢のようにシュールな雑念=「迷」、快く感じられるかもしくは関心をひかれる雑念=「迷」+「欲」、不愉快な怒りを喚起する雑念=「迷」+「怒」。
(2)あれか、これか、と迷い出すときは、「迷」=「無知」が強力にはたらき心の中の情報に統制が取れなくなり、複数の情報があい争うのが最初です。
その「無知」の混乱状態をベースに、「あれがいいな」「でもあっちも捨てがたい」と欲望の刺激同士が、無意味に行ったり来たりしはじめるのであります。
そして、そのように欲望に翻弄されると疲れてきますので、そうして初めて「ああ、欲望の刺激に駆られて迷っているのは疲れる、嫌だよーッ、どちらか片方に決めてしまいたいものであーッる」と、「怒」がわきあがってくる。
この「怒」により、さらにストレスが高まる。
まとめると「迷」→「欲」→「怒」→さらなる無知、迷の増大、という流れと申せましょう。
「この状態にはこの煩悩」と固定的に暗記しておくのは無意味です。
瞬間瞬間のフェイズに応じて、「迷」が主役だったり「欲」が主役だったり「怒」が主役だったりと変化いたしますのを、しっかり見極めましょう。
Q:私は3姉妹の次女なのですが、長女と三女の容姿がとても良く(モデルの仕事をしています)次女の私だけ普通の容姿であることで人と比べられ、昔から傷つく事を言われ、辛い思いをしてきました。
私としては自分の魅力を引き出すために努力をしているのですが、やはり、たとえば肌荒れや、多汗症など、努力してるのにどうしようもない体質の違いが明らかにわかるので、二人を見るたび、今でもたまにショックを受けます。
このように思うたびに、自分の良いところを探したりするのですが、毎日会いますので、心が弱ってる時などは、どうしようもなく悲しくなってしまうのです。このような感情をコントロールするためにはどうしたらよいでしょうか?
アドバイスをお願いいたします。
A:心のどこか奥底で「努力することで、外見上の魅力において彼女たち二人に追いつけるはず、追いつけないにしても近づけるはず」と思い込んでおられるのではないでしょうか。
そのように思い込んでいるからこそ、二人の姿を目にするたびに「ショック」を受けるのです。
「がっびーん、努力しているから追いつけているべきなのに、やっぱり追いつけてませんわッ」と。
ショックというのは、「ひそかな期待」と「現実の体験」との間に落差があるときにのみ、発生するものでありますゆえに。
そして現実の体験とは、彼女たちの容姿が視神経を通じてインプットされることにより得られる刺激です。
その刺激に対して反発する、怒りの煩悩エネルギーが発生しており、これが嫉妬の本質であります。
(それをコントロールいたしますには、嫉妬がわきあがってきた瞬間に、その経路を意識化いたしましょう。
「視神経の刺激」→「昔から比べられてきた記憶や、傷ついてきた記憶がうずく」→「苦」→「怒り、嫉妬」→「苦が増える」→「さらに連想がふくらむ」→「苦が増える」、ふむふむ、このようにして自分で苦しみを増やしているんだなー、と。)
そして彼女たちに対する嫉妬は同時に、自分自身を否定し、攻撃いたしますでしょう。
「容姿が普通」な自分を「こんな自分はイヤイヤッ」と攻撃し続けている、つらい状態です。
その嫉妬の状態自体が、美しいものではありません。それゆえに自分自身を苦しめて表情を歪ませもし、外見上にもマイナスの結果が出ることでしょう。
したがって、「魅力を引き出すために努力している」と仰せの、その努力は貴女にとってかえって害をもたらしており、ピントが外れてしまっているように思われます。
容姿のような、「基本的には大幅に魅力を増すことは不可能」なものに無駄な努力を費やしすぎているために、他の努力がおろそかになっているのではないでしょうか。
魅力を引き出すと仰せになられるのでしたら、実際に磨くことが可能なものを選んで努力するほうが賢明であります。
そして自分自身の性格こそ、磨くに値するものです。自らの性格的な向上をさせる努力をされるほうが、ずっと貴女を魅力的にしてくれるでしょう。
(たとえば、嫉妬してしまう性格を改善できましたら、そのぶんだけ暗さが消えて魅力的になります。)
ちなみに「自分はよい性格なのに人に愛されないのは、しょせん誰もが外見上の容姿しか見てないからに違いない」というひがみを時々、耳にいたします。
しかしながら実際は、「自分はよい性格なのにッ」と考える、ひがんだ性格(=うちにこもった怒りの煩悩エネルギー)ゆえに魅力がないことに気づいていないのです。
Q:土曜日初めて参禅させて頂き、人生初座禅を体験したのですが、1つのことだけに集中することがとても難しく、気がつくと心がひゅんひゅんあちこちに飛んで行き、一瞬たりとも出来た気がしませんでした。
そして、あの・・・・実は、大変お恥ずかしい話なのですが、あろうことか座禅中に眠りにおちてしまいましたっ!
さらに座禅の後だというのに、凛っとするどころか豪徳寺からの帰りの電車でも寝てしまい、滅多に無いのですが一駅乗り過ごすということまでやってのけてしまいました。。。
普段から眠ることは好きなのですが、寝てはいけないときでさえ、睡魔に抗えないことがあります。放っておくと、いくらでも眠れてしまうのです。たまに病気なのかと思ってしまいます。
考え事をしているときでも気付けば眠っていて、結局結論が出ずうやむやになるというのがパターンになっている一方、不安で心がいっぱいのときは考え事も出来ず、布団に入ってもあれやこれやと考えたくないことばかり浮かんできて眠れなくなったりもします。
これはやはり定力の無さが原因なのでしょうか?具体的にどう対処すればよろしいのでしょうか?ご住職の喝&アドバイス宜しくお願い致します。
A:なぜ生命としての必要以上に眠りたくなるかを申しましょう。端的に申しますと、現実を認識していたくないからです。
眠ると、嫌な目の前の現実を、いったん忘れることができますゆえに。
すなわち「現実になんか興味がないもんねッ」という迷妄=無知の業を大量に積んできたお方ほど、坐禅中に意識が散漫になるだけでなく睡眠におちいるというのは、典型的なパターンです。対象を認識したくない、という無知のエネルギーは、強烈になった場合は意識そのものをシャットダウンする睡眠へと移行するのであります。
「あれこれ考えすぎて眠れない」のも、目の前の現実から離れて頭の中の考え事へと逃避する無知の業ゆえのことですから、実は「ときとして異常に眠たくなる」のと、同じ業の裏表です。
その業をとらえて解消いたしますには、異様な睡眠が出てきそうなときにしろ、考え事が空回りしてしまいそうなときにせよ「無知、無知、無知」ないし「迷い、迷い、迷い」などと念じて意識化いたしますこと。
坐禅中に眠たくなるのでしたら、「迷い」でもかまいませんし、もっと具体的に「ねむけ、ねむけ、ねむけ」とタイミングよく念じて意識化するとよろしいでしょう。
ともあれ、眠気をたくさん引っ張りださせては消耗させればやがて無知のエネルギーも消耗してゆきますから、心配されることはありません。
あくまでも、これがこれまで自らが積みあげてきた自分自身の姿なのだと客観的に受け止めながら、起こってくる現象(この場合は眠気)をありのままに、そのつどそのつど観察してゆきますのが、変化を起こすための根本と申せましょう。
Q:素朴な疑問なのですが、カルマについて質問させていただきます。カルマは今世だけでなく過去世からの因縁により連鎖していると説明されていると思います。では、前世前世とたどっていくとどこに行き着くのでしょうか?
解脱が終わりとすると始まりはどこなのでしょうか?
A:一つだけ申すことができますのは、そのような抽象的な問題を考えることに時間を使うよりも、そのようなことを考えたくなってしまう自分自身の心の衝動を自己観察するほうが有用であろう、ということであります。
「カルマの最初はどこなんだろう?」という思考は、かぎりなく「今、ここ、この瞬間、目の前」から目をそらすのに役立ってしまうのですから。
今の時点で私は、過去生にまでさかのぼったカルマについては、断片的記憶をもとに非常におぼろげに推測することがかなうのみです。
つまり、ご質問のことがらについては、私は自分自身で確かめることができませんから、お答えすることはできません。
Q:縁とはどんなものですか。
生まれてから、22年独り身と答えると、恋をしたらといわれます。人に言われているからだけではなくて、自分でも縁があるといいなと思います。むしろ強く望んでいる気がします。ただ何をしたらいいのかわかりません。
近頃、人生に感謝しているし、幸せを感じることができます。
A:縁とはシンプルに因果関係ということです。私たちの心には過去からの因果関係(により積み上げられたエネルギー)があるがゆえに、お互いのエネルギーの組み合わせによって誰かと引かれあったり、反発しあったりしています。
ですから厳密には、誰かのことを「好き」になるのも「嫌い」になるのも縁ゆえと申せます。
そして頭の中で「自分ッ」のことを考えすぎる自意識過剰な性質がなくなりますと、人との縁というのがおぼろげながら見えてくるはずです。
あんまり心の中で「自分ッ」のことにこだわって、自意識過剰になっている間は、他人のことを見る余裕がありません。
会話をしているときも、「自分はどう思われているだろう」「自分はうまく話せているだろうか」といったようなことにとらわれて、相手の中身をみる余裕がないのです。
ましてや、「縁」を直観する余裕など、まったくありません。
ありていに申しまして、人が恋をできないとき、その主な原因の一つは、「自分ッ」にしか興味がないからのように思われます。
そういったとき、たとえ縁のある人と出会っても、それに気づくことすらなくすれ違ってしまうことでしょう。
恋は、「さあこれから恋しよっかな」と思ってするようなものではありません。
しかしながら、恋ができるようにしておく前準備として大切なことは、あります。
「自分ッ」の牢獄から脱出して、他人のことを見て、聞いて、感じようとする心の体操をしておくこと、です。
狭い意味での恋愛対象に限らず、他人一般に興味を持っていろいろなことを感じ取ろうとしてゆく中で、たまたま本気で好きになれる人もあらわれるかもしれません。
そういった中で、縁というものを直観的に感じ取ることのできる感性も磨かれるのではないでしょうか。
Q:こんばんは。
HPの文章を拝見して、とてもしりたかった事が説明されていて、このタイミングで読む事ができてほんとありがたかったです!どうしてそんなに賢いんですか!
私は今世界遺産をみてまわりたくて、しかたがありません。このご時世、働ける場があるだけ幸せ。長期休暇は難しいですよね。何をしている人でも。
ならばと、東武ワールドスクエアに行ってみたら、さらに夢膨らんでしまいました!
今経験してみたい事を、老後にまわす事はよい事ですか?どうやってこの欲望をおさめたらいいのかわかりません。ぜひ考えをお貸しください!よろしくお願いします!
A:「老後まで生きているかどうかは分からない」という厳然たる事実を、まずは申し上げましょう。
あくまでも可能性の問題ですけれども、日本が戦争に巻き込まれて死ぬかもしれませんし、あるいはまさに世界遺産を見にいく最中に交通事故にあって命を失うかもしれません。
そして「やりたいやりたいッ、行きたい行きたいッ」と思い続けてくすぶり続け、心の中で業を積み続けるくらいでしたら、次のような裏技的な対処法が有効と思われます。
いっそのこと、休暇を取って、欲望が張り付いている対象を徹底的に実行してみるのです。すると、おそらくはやがて、「なーんだ、ま、こんなものか」という気分になってきて、飽きます。
欲望の虚しさを体験することが叶うでしょう。
ところで水を差すようですけれども私見を申しますと、世界遺産というのは、誰か他人が「ここは素晴らしいですよ」という概念的お墨付きを与えたところに過ぎません。
わざわざそういうお墨付きの場所に高い金銭を費やして、しかも身体を疲れさせながら行くのは、脳を刺激してバーチャルな「快楽」を感じさせるためにリアルな「苦」を増す行為のようにも思われます。
欲望によって脳を刺激しても幸せにはなれぬことを、もしも現実の経験から思い知ることができましたら、そのとき、人生がピシッと方向転換することでしょう。
Q:こんにちは。突然ですが、私は1年間タイでホームステイをしていました。
日本に帰るとき、お世話になったタイの友人・知人から「仏陀」の像や「僧」の写真入りフォトフレーム、ガネーシャの像、弁天像、国王のメダルなど、様々な宗教的グッズをいただきました。
今まで部屋に飾っていたのですが、今度ワンルームに引っ越すため、飾るスペースがありません。
この際、一番小さな仏陀のペンダントを残して、感謝と共に供養したいのですが、どのようにしたらよいでしょうか。
お知恵をいただければ幸いです。よろしくおねがいします。
A:宗教的グッズは、「なんとなく」処分に困ることでしょう。
それゆえ、「物をお寺で燃やしてもらって供養する」という習慣も世の中には存在いたします。
しかし、それは人の心の弱点ならびに僧侶の欲望に根ざした、迷信的習慣と申さねばなりません。(煩悩モードは、迷)
仏道的立場から申しますなら、たとえ仏陀の像であろうと宗教的グッズはあくまでも物体にすぎません。
他の「物」とくらべて特別扱いされぬことをお勧めいたしましょう。
どのような「物」であれ、それを処分するにあたってじゅうぶん大切に使いこんだあとに、処分することが好ましいでしょう。
宗教的グッズとはいえ、それと同様に、普通に燃えるゴミや燃えないゴミとして処分してしまえば良いのです。
心の中に、それらのグッズに対する「ありがとう、さよなら」といった丁寧な気持ちさえあれば、それは悪い業にはなりません。
反対に、「邪魔だな、どうでもいい」とばかりに祖末に扱うと業になります(煩悩モードは迷+怒)。
あるいは「捨てたら、もしかして祟りがあるのではないか」という不安が心をよぎりますなら、それが業になります(煩悩モードは迷+怒)。
なお、仏陀の像につきましては処分せずに月読寺にお持ちくださいましたら、今置いている仏陀像のとなりに仲間入りさせていただくこともかなうことを、付言しておきましょう。
Q:こんにちは。いつも楽しく拝見させていただいております。
さて、ご相談なのですが、私はカウンセラーの勉強をしたいと大分前から考えておりました。何故かというと、暗い情報等が多く、世の中や会社、自分、何か社会が良い方向へ向かうようにするにはどうしたらよいのだろうかと考えることが多くなったからです。
そして、自分自身も、何か人の役にたつことをしたいという気持ちが強いです。しかし、いざやってみようとすると迷いが消えません。
「自分から自由になる沈黙入門」を読んで、自分を見つめてみると怒り、迷い、さらには他人からどうみられているのかを非常に気にしている自分がいました。
こんな私が人のためにそのような勉強をして良いのか、今の仕事からの逃げなのではないか、勉強することによってさらに頭でっかちになり、今そのような選択をするときではないのではないかと迷っています。
A:判断のためのリトマス紙として役に立ちますのは、
「こうしたいよーッ」のという頭の中で情報処理される希望のほうではなくて、「でも何となくイガイガして肌に合わない」という生理的な感覚のほうです。
とりわけ、「これをしたいよーッ」という欲望の中に「人のため」といった口ざわりのよい口実が入っている場合は、簡単に自分で自分を騙せてしまえますから、要注意と申せましょう。
私が観察してきた限りですと、心理カウンセラーを志す人の多くが、きわめて不安定な精神(特に「怒り」の煩悩)を抱えています。
そして、「自分は他人を救済できている」という感覚ほど、不安定な精神を安心あせてくれるものはありません。
ゆえにカウンセラーに限らず、精神が不安定な人はしばしば、自分の現実に目隠しをしながら過剰に「人助け」や「善意」といったものに没頭する傾向があるように思われます。
そして残念ながら、まさにそれゆえに、そういった人々の「カウンセリング」というものは、どこか本質にまでは届かないのです。
ごく一例を挙げますと、「本当は自分の話をしたくてたまらなく他人の話なんて聞きたくない」という煩悩を抱えたまま、「カウンセリングではひたすら相手の話に耳を傾けて聞くことに徹しましょう」とお勉強し、無理をして相手の話を聞き続ける。
そうやって心を抑圧し続けた結果、カウンセラー本人が心が病んでしまう、などという話はよく耳にすることでありまして、カウンセラーや精神科医が鬱病になるといったことは、珍しいことではありません。
・・・自らの心が、どうあるか。人の役に立つためには、まずはそれが最重要なことなのであります。
すでに予感なさっておられますように、人を助けられるような人になるためには、理論や小手先のカウンセリング技術はさほど役に立ちません。
まずは、今いる場所から逃げ出すことなく、自分自身の心を育てあげ周囲の「人々のために」なれる自分を陶冶することが肝要なのではないでしょうか。
Q:はじめまして。小池様の著書を読ませて頂いてこちらへも来るようになりました。大変お忙しいとは思いますが、質問させて頂ければと思います。
もともと、自分を表現することが苦手な方です。ただ無口と言う訳ではないので日常の会話では、こちらから質問して話をして、話が途切れてもこちらから質問を投げかけて会話は普通に続いていることが多いです。
「自分が聞き手に回る」こともそれ程苦痛は感じていません。
ただ、時々「少し自分の事も話したい」と感じるのですが、自分のことを話すときは「相手は興味が無いかも」とか「自慢しているみたいだな」と感じてしまい少し躊躇してしまいます。
いざ話すと案の定、話も盛り上がらず言わなくても良かったかなと感じることもあります。
このように「自分の話も聞いてもらいたい」と感じることも「欲望」のひとつとして抑えるように心がける方が良いのでしょうか。今まで、このことは自分の中で改善すべき点だと考えていたもので・・・。どのように考えるのが良いか、お聞かせ頂きたいと考えております。
次の著書も楽しみにしております。よろしくお願い致します。
A:拝読していて、「頑張って質問することで会話を途絶えさせないように努めている」という感じが友人関係を続けていくうえで楽しくなさそうだな、という印象を受けます。
それを苦痛とまでは感じておられぬにせよ、あんまり、楽しくないのではないでしょうか。
その楽しくなさゆえにこそ、時として「自分ッ」の話をしたくもなるかもしれません。
「自分のことを分かってもらいたい」「受け入れてもらいたい」という欲望は、誰しもが持ち合わせています。
それを時として出したくなってしまうのは仕様のないことでもあります。
しかしながら、どうしても自分の話をしたいときは、せめて単なる「自分語り」にならぬよう、役に立つ要素を付け加えるよう配慮してみては如何でしょうか。
「この話には、相手が知りたい新情報が含まれているかどうか」「この話はユーモアがあるかどうか」「この話は自慢によって、間接的に相手のプライドを傷つけないかどうか」
こういったことを心の中でチェックして、他人にとってプラスになる話をするのが賢明でありましょう。
貴方が自ら観察されておられますように、単なる「自分ッ」の話はつまらないうえに、欲の波動ゆえに時として気分をよどんだものにするのですから。
心の中に「話したいッ」と衝動的に浮かび上がってきたことをチェックして、それがためにもならず、ユーモアもないようなら、自分も相手も苦しくなってしまうだけですから、話さなければ良いのであります。
そのとき、「自分の欲の衝動に打ち勝って、話さずにすみにけり」という清涼感を味わうことが叶うでしょう。
ただし、それを心がけようとしても、ときとして失敗し、ユーモアもないうえに、間接的に自慢話になるような話をうっかりしてしまうこともあるでしょう。
それによって会話がはずまなくなることもあるでしょう。
そういった際の失敗もまた、体験学習のチャンスとするとよろしいでしょう。「ああそうか、こういう話をすると周囲も自分も疲れることであることよ。次から止めておきませーう」と。
Q:はじめまして。突然で申し訳ありませんが、相談させてください。
私は24歳の女性、社会人2年目です。自業自得です。
入社してすぐ、同期ではありますが妻子ある男性を好きになり、結果としてお互い傷付きました。私の方が傷付いているとは言いません。でも、彼には帰る場所がありました。
辛くてどうしようもなくて、別れさせ屋とコンタクトを取りました。今考えると、どうしてそんなことをしてしまったのかわかりません。確実に言えることは、誰かに助けてほしかった。死にたくて、でも死ねなかった。ここから抜け出したかった。
誰もに想像がつく話ですが、私は騙されました。別れさせ屋に180万支払うため、恐喝され、ローンを組まされました。消費生活相談センターにも警視庁にも相談に行きましたが、事が複雑すぎてどうにもなりませんでした。弁護士にも相談しましたが、どうにもなりませんでした。
それから、私は私を許せなくなりました。なにもかもを失った気がしています。最初は、恐喝されたこと、約200万ほどのお金を失ったことのショックでした。
それから、今も波は広がり続けています。いつか、なにかのタイミングでローンを組んでいたことがバレないか、またいつかあの人たちが私を脅しに来ないか、家族に手を出したりしないか、そもそも、どうして好きになってしまったのか、どうしてあんな契約をしてしまったのか。それから、苦しみつづけました。自分が犯したことの重さ、周りの人間を裏切り続けることの重圧に、これ以上耐えられる自信がありません。私は、最低な人間です。
もう誰かを愛する資格はない、誰かに愛される資格もない、私には、幸せになる資格がありません。そんな過ちを犯したことを隠し続け、この先私に許されることは何ひとつありません。
私を産み育ててくれた両親、そんなことを知らずに私に接してくる友人すべての人を、私は裏切り続けています。
それから、あらゆる道を探しています。仏道に入れば、いつか許される時がくるのでしょうか。このまま生きていていいのか分かりません。私が死ねば、家族が悲しみます。死ぬことによって、過去が暴かれる可能性もあります。
そう思うと、両親が亡くなるまでは私は死ねません。両親の前では、幸せな娘であり続けたい。でも、そう思う時点で、やはり私は裏切り続けているのです。
私には、生きる価値がありません。自分を許すことなどできません。家族を殺して自分も死のうか考えました。でもそんなこと、できませんでした。
どうしてあんなことをしてしまったのか。なにをどう償えばいいのか。金銭的な問題もあり、今の仕事を辞め、出家することはできません。今の生活のまま仏道に入ることは可能なのでしょうか。
こんな汚れた人間が、許されたいがために仏道にはりたいなんて、やはり邪道ですね。出家して、救われる日は来るのでしょうか。私は、許されることを求めてもいいのでしょうか。死を待ちながら生きる日々が続いています。これでも助けを求めるなんておこがましいですね。
A:残念ながら、それは、気のせいです。
「最低」のどん底に行き着くためには、そこまで堕ちるには、もっともっと、苦労しなければなりません。
貴女くらいの行為では、まだまだ最低にはなれていないのであります。
しかしながら、今のまま自分を否定し(=つまり自らに対して怒りの業を向け)続けられましたら、今よりもさらに心が汚染されてゆき、やがては本当に「最低」にまで到達できてしまうかもしれません。
「自分は最低」と悲しみ続けますのは、心に悪業を積んでさらに悲惨な出来事を呼びよせることになるにも関わらず、脳内では「あー、悲しいッ」という大きな刺激が得られますから、その刺激欲しさに、ついついはまりこんでしまいます。
ですから、気をつけてください。心の中で何を思うかについて、気楽にネガティブな思考を回転させて悪業を増やさぬようにされるのが賢明なことです。
(そもそも、妻子ある御方とおつきあいするのも刺激的であり、別れさせ屋に依頼してドキドキするのも刺激的だったからこそ、業に操られて手を出してしまったのでありましょう。)
200万円という数字は、客観的にみれば返済しきれない金額ではありません。
にも関わらず、脳内で生産される煩悩思考に目がくもらされてしまい、あたかも「もうダメだよーッ」という状況であるかのように錯覚してしまうこともありましょう。
それは、「騙されてしまった自分は情けない、格好悪い」「しかも不正なことをしようとした愚かな自分ッ」という感情に流されて、慢=プライドの煩悩が傷つき、さらに後悔の煩悩により怒りの業が増幅されているがゆえのことです。
自業自得という言葉を本当に身にしみて感じておられませんからこそ、「こんな借金ができてしまって嫌だ、払いたくないよーッ」と、慢と後悔の煩悩が増幅し続けているように思われます。
「自業自得」をかみしめて成長されますためには、自らの犯した過ちそのものと対決して克服しなければなりません。
過去の罪を償うと思われて、自らの心を美しいものへと成長させるよう努めながら、その200万円の借金を着々と返済されてゆかれるとよろしいでしょう。
心がいくぶんか成長し、また借金を返済し終えたとき、晴れやかな達成感が得られるはずです。
そしてそれが達成される前から、過去を償うため心を研ぎ澄ませてゆこう、と固く決意した時点で、もはや心は半ば晴れやかになっており、幸せになるための再スタートが切れることでしょう。
ゆえに「今の生活から逃げて仏道に入る」などとは、まったくお勧めできません。むしろ、今の苦境を軽やかに切り抜けるためにこそ、仏道を利用してくださることを望みます。
そのために瞑想の技術を身につける心意気をもたれますなら、月読寺へとおいでくださるとよろしいでしょう。
Q:初めまして。家出空間歴2週間と短いですが、少しづつ分って来ている所です。
特に煩悩リセット稽古帖は分り易いです。
さてさて、質問ですが、公共の場、例えば電車で隣に座った人が携帯で普通に話をしている場合、私の場合まずイラッとします、次にその人に注意するかしないか迷い、結局出来ず、睨みつけて嫌な気持ちになって終わります。
この場合注して逆になにを言われるか分らないとか、周りの注目を浴びてしまうとか様々な思いが巡り言えません。でも結果自分の眉間にしわがよってしまっています。
こういう事は公共の場に行けば多々あり、でもそれは自分の物差しで判断してイライラしているのか?などなど、どう対処して行くべきでしょうか?どうぞよろしくお願いいたします。
A:まずは例を、電車内での事例に限って考えてみましょう。
無論、電車の中で携帯電話を用いて通話することは周囲への配慮を欠いた下品なことであり、好ましいことではありません。
しかしながら、現実的に考えてみますと、電車の中で通話されたからといって、どういった実害があるのでしょうか。
リアルな現象といたしましては、その人の話し声が、音波として耳に聞こえてきているに過ぎません。
単なる音波に過ぎぬものが、なぜにそんなに不愉快なものとして脳内で編集しなおされてしまうのかを考察してみましょう。
車内で、友人同士で会話をしているのはさほど気にならないでしょう。
それと携帯電話で話している場合との違いは、「良俗・ルールに反しているか否か」の差に過ぎません。
つまり、イライラっと眉間にしわがよってしまうとき、潜在的には次のような思考がはたらいていると申せましょう。
「電車の中で話すのはマナー違反であって、マナーに反した人間は裁かれて地獄に堕ちるべきであーッる」と。
怒りの煩悩が刺激されるとき、背景には「私は正しい、正義なのであーッる」という思考がはたらいています。
頭=脳内だけはそのように「正義」の快楽を味わっているつもりでも、現実には眉間にしわがよって刻み込まれ表情がこわばってゆくのに加えて、その背景では肝臓が緊張してダメージを受けているのです。
脳内正義の幻覚に騙されて不幸を積み重ねぬようにするためには、次のような業の因果法則を理解しようと努める必要がありましょう。
「携帯電話を使っている人がいるから怒りが生まれる」のではなくて「潜在的に怒りの業が心の中でチラチラと活性化しており攻撃対象を探しているから、携帯電話をつかっている人に出会ってしまう」という、厳然たる因果関係を。
・・・そして、まずは晴れて「怒り」にとらわれることがなくなってから、下品な迷惑行為をしている人たちに対して穏やかにかつ毅然とした態度で、「やめましょう」と伝えられるようになって欲しいものであります。
Q:[一つ下の回答についてのご意見]
小池僧侶は「親への嫌悪や憎しみをどうすれば消すことができるかというご相談」に対し、状況分析を加えているように思われます。しかしながら、実際、具体的にどう考えて、どう振舞えばいいかというお答えがより適切なのではないでしょうか。正直、どうすればいいのかが気になります。
A:表面的な振る舞いではなく、心をどう制御するかが本質的なことなのです。
心が苛立っていましたら、表面的にだけ取り繕っても意味がありませんし、心さえ制御されていれば自然と適切な振る舞いができますから。
ともあれ、まずは相手への嫌悪感をのりこえてから、たとえば以下のような手順で行動にうつるとよろしいでしょう。
(1)「相手のほうが、苦しみの量が多い」という現実をまず認識する。
「自分は相手に苦しみを与えられている」と苦しみを認識できている人のほうが、認識できていない人よりも少しは知性が働いているぶん、幸福。
(2)しかも相手が、無知の業ゆえにその「苦」を頭の中で情報処理して「快楽」に変換してしまう悲惨な状況にはまっていることを知る。
(3)相手の悲惨な状況を助けて差し上げる(=相手の「苦」を軽減して差し上げる)ことが、相手のためにもなり、ひるがえって自分も楽になると知る。
「自分の嫌いな人間が不幸になればいい」という発想が愚かな理由、それは、相手が不幸になると相手の「無知」と「怒り」が増大し、さらにこちらへの加害が増すことによります。
(4)そして彼にとって、家族の一員から「嫌われている」のが、自覚的ではないにせよ相当な「苦」の原因にもなっています。
その「苦」も含めて軽減して差し上げるには、まずは相手と時間を共有する状況をつくらざるを得ません。
対面するとき、相手が訳の分からないことを言っていても、心を制御してしばらくの間、聞いて差し上げる。
もしも余裕があれば、相手がアレコレと怒っていることについて「どうしてそう思うの?」と質問し、その答えに耳をかたむける。
その答えもきっと支離滅裂でしょうけれども、それに反発することなく受け流す。
「相手を(心の中ですら)拒否しないで話す」という対応ができたとき、彼には「聞いてもらえている/受け入れられている」という(彼にとって普段は決して得られない)感覚が生じるでしょう。
そういったところから、彼の心の分厚い氷がとけはじめるだけでなく、こちらの心の中の分厚い氷もとけはじめるのであります。
親に対して「大嫌いッ」という怒りの業がしみついているのは、何よりも本人の心が無茶苦茶に汚染された不幸状態ですから、その氷がとけはじめることは、自分自身にとって最良の薬ともなりましょう。
(5)もしも話すきっかけがなければまずは、ときどき、簡単な頼みごとをすれば、短い会話のきっかけが得られるでしょう。
それにより「頼られている」という嬉しさを与えて差し上げつつ、ほんの微量ずつであれ基礎的な信頼感を形成することもできるのです。
Q:親への嫌悪や憎しみをどうすれば消すことができるかというご相談です。私は40代の会社員女性ですが、子供時代からの父への強い嫌悪がどうしても消せません。
いくつもの経験が重なってそうなったのですが、たとえば子供のころ、理由もなく突然怒鳴られ、私は恐怖で泣き叫ぶということがありました。そんな光景がフラッシュバックし、今も苦しくなったり、悔しくなったりします。
父は、母の外出の費用をけちり、社会生活を十分に経験させなかったため、母は今も駅の券売機で切符を買うことができませんし、自分で交通機関の路線を確認して、目的地に行くこともできません。ATMでキャッシュカードを使うこともできません。父は母にカード類を持つことは悪であると教えています。母は経済力が持つ機会を奪われてきたため、そんな父の女中のような生活をするしかありません。母がかわいそうで、父への憎しみが募ります。
父は、私の長男に先天性の心臓病があるとわかった時は、「ふん」と言ったきりで、思いやりのある行為は見せてくれませんでした。それなのに、最近自分が体調が悪いため、「夜、苦しくなった時などに助けが必要」ということで、私と子供2人が住む3LDKのマンションに越してこようとしています。一緒にいるのは苦しくて嫌ですし、単純にマンションにはスペースがありません。
家事や食事作りなどをしない父が、上げ膳下げ禅でただ黙って座っているその同じ部屋に、私もいなければなりません。怒りのカルマを捨てなければ、不可能なことだと思いますが、どうすればそうできるでしょうか?
A:お父様が貴女にはたらいた無法の数々によって、彼には苦痛の原因が増え続け、心の中は混乱の度合いを強め、完全に不幸な状況です。
他人に優しくできない頑な精神状態は、怒りの煩悩過剰によるものですけれども、それは本人を過剰なストレスに追い込み、リラックスした幸福感など一瞬たりとも味わえぬのであります。
貴女は心のどこかで、彼が理不尽な振る舞いをすることによって快楽を得ている、得をしているのではないか、と感じているからこそ憎み、怒りの業を増やしていらっしゃるでしょう。
しかしながら、彼の表面的意識では「俺様ッ」という心地よさを味わっているつもりでいましても、潜在意識と身体レベルでは、常に苦痛、すなわち不幸を味わっているのです。
本当は自分と相手にとって何が心地よく、本当は両者にとって何が苦しみなのかを、厳密に見分ける直感力が育たないかぎり、積もりに積もった憎しみからは脱出はできないでしょう。
(それは瞑想を通じて育つ能力であり、言葉で説明してもほとんど無意味なのですけれども。)
と申しますのは、現実には苦しみが生じていますのに、その苦しみの信号を頭で受け取るさいに、情報を編集しなおしてしまうからです。
「刺激情報がたくさんやってきて気持ちいいッ」と。これを、お父様も、貴女も、まったく同じように、おこなっているのです。
「あの人は何てよくない人間なんだろう、間違っている、間違っている、間違っているッ」と考え続ける否定的な怒りの刺激エネルギーに、中毒状態になっている状況と申せましょう。
脳内で編集しなおされた刺激情報を見るのではなく、現実を、直視いたしますこと。自分自身が破壊されてゆきます。相手も悪影響を受けてさらに歪んでゆきます。
そしてその悪影響の連鎖こそが、まさに不幸と呼ぶに相応しいでしょう。
脳内編集をやめてしまえば、彼が味わっているのは、怒りの業による「苦」。彼はその「苦」を脳内で「快」に編集しなおしつつ、周囲に「苦」をまき散らしている。
そしてその「苦」を受け取って怒りの業が刺激され、貴女が味わっているのも「苦」。そしてその「苦」を脳内で「快」に編集しなおしつつ、苦しみを増やすことに執着している。
これが、厳然たる事実のプロセスなのであります。
Q:私はいつの頃からか、自分が幸せだと感じたり、思いのほか、事がスムーズに進んだりだとかきれいな景色を見たりだとか・・などなど、自分が幸福感に満たされると同時に、それと同じくらいの罪悪感?というか不安感というか?得体のしれない居心地の悪さを感じてしまいます。
この相反する感情の正体は一体どんなものなのでしょうか??
A:心の中に欲望があるとき、ストレスがあります。「実現したいのに、まだ実現できていない」という緊張感です。
欲望の原動力とは、「このストレスを消したいよーッ」という衝動にほかなりません。
ところが、実現できますとそのストレス=苦しみが一瞬だけ減少します。このように、苦しみの量が減ったのを心が、「ああシアワセであることよ」と情報処理するのが、幸福感の正体です。
では、どうしてそれと同時に不安感や居心地の悪さが生じるのかを分析いたしましょう。
心は基本的に、強烈な刺激=業を新たに増やして負のエネルギーを増やすことによって、生きています。
したがって、ストレス=苦しみが増えて「ああ欲しい、ツライよーッ」という刺激を頭に送り続けることを、快楽と感じるのです。
苦しみの刺激が脳内で「快楽」として書き換えられる、脳内編集作業がおこなわれるのであります。
ゆえに、「欲しいよー、ツライよー」という状態が維持されていないと、心にとっては都合の悪いこととなります。
欲望が実現してストレスが減少し、幸福感を感じるとそのとき、欲望が消滅いたします。
すると「欲望がなくなって刺激が得られなくなっては大変だッ」と心があわてて、新たなストレスをつくり出し、
そのストレスにしたがって新たな欲望が生まれ・・・といった、原始的なプログラムが発動するのです。
この「欲望が消えたらどうしよう」という心のストレスこそが、不安の正体と申せましょう。
それは心の仕掛けた罠なので、騙されぬようにするのが賢明であります。
Q:はじめまして☆23才の自営業をやっているものです。
住職の“煩悩リセット稽古帖”を読まさせて頂きました。
自分はなんて欲にまみれていたんだろうと恥ずかしくなりました。
近頃、知人から『あなたはハングリーすぎる』と言われたり、『自分が自分がってなりすぎてる』と言われたりすることがとても多くありました。それにたいして私は全く自分を客観的に見れず、考えて考えすぎて頭でっかちになり、ついには自分で自分を攻撃してしまっているようで、生きる気力を失い気味です。
文中の“脳内自慰”という言葉が強く突き刺さります。
心についてもっと勉強しなくてはと強く思いました。
同時に自分は日本人らしくなかったから受け入れられなかったんだと理解しました。西洋とは文化が全く違いますものね。
もう一つ私は常日頃、欲しいものを手に入れましても結局飽きてしまう、そして人のものをうらやましく感じる。という無意味なサイクルに悩んでおりました。
これじゃあ結局何を手に入れても結果は同じじゃないか。結局ないものねだりをしてしまい、満足を知りませんでした。
恥ずかしいです。モノに対する感謝がないですね。モノは使うために誰かが作ってくれたのに私は手に入れることばかりに気をとられてました。大事に扱います。
これから私の教科書にしてさらに理解を深めて行きたいです。座禅も是非参加いたします。
A:仰せの御志、殊勝なことですけれども、一つだけ付け加えておきましょう。
仏道は、西洋以上に論理的な国「インド」で産まれました。
それを生活に応用することと、日本人らしさとは無関係です。
日本人らしさとは「欲しくてたまらないけれども無理に我慢する」とか「自分を爆発させたいけれども恥ずかしいから我慢する」といった、表面を取り繕う性質を持つものでありまして、心の中は抑圧と不満でドロドロしたものではないでしょうか。
それもまた、他人の目を過剰に気にする「慢」という煩悩の一つです。
表面上だけ取り繕ってみられましても、心の中がドロドロしている以上は、やはり周りの人々からは敬遠されがちとなることは知っておかれるのが賢明でしょう。
仏道とは、「我慢する」のではなくて、そもそも心の中にそういった煩悩が出てこないようにする方法論でありますゆえに。
心の中に過剰な欲や怒りがわきあがってくる業のメカニズムを解剖して、それそのものを削り落としてしまいましょう。
Q:はじめまして。いつも楽しく御本やサイトを拝見させて頂いております。早速ながら仕事についてのご相談です。
私はデザイン関係の仕事をしています。
しかし、自分が思い描いてたようなクリエイティブな仕事は(ブックデザインがやりたかったのですが)実力不足もあり、なかなか手が届かず、オペレーション的な型にはまった仕事も多いです。
このままオペレーション的な仕事に従事するのはいかがなものかと思いつつ、慢心を出さずに打ち込んだ方が身のためかとも思われます。
(仕事でクリエイティブなものを作れなくてもいっそ趣味として何かを作る道もあるので…。)
自分では答えの出ない仕事でのもやもやを、住職様にすっぱりと解体をお願いしたくご相談させて頂きました。
お忙しいところ長々と申し訳ありませんが、ご返事頂けますと幸いです。
A:「実力不足」であるという現実を認めず「本当はもっとクリエイティブなことがしたいのに」ともがき続けます以上、永久に実力不足のままになることでしょう。
今、目の前にある仕事が、実力相応でもあり、そしてその「目の前」をひとっ飛ばしにしていきなり三歩先にジャンプするのは、通らぬ道理と申さねばなりません。
まずは、一見「つまらない」と思える今の仕事そのものをクリエイティブにこなしてしまえるほどの気概を持って、取り組んでみられては如何でしょうか。
真剣に工夫をしながら取り組むことを通じて、さまざまな能力が向上するのは確実なことです。
そして有り体に申せば、デザイン関係の仕事をする「実力」には、単にデザインそのものの能力にくわえて、人間関係の能力も強いウェイトを占めているように思われます。
(どう考えてもデザイン能力が低いように思われるのに、仕事として成り立っている人々もいるのですから。)
今の仕事に真剣に取り組まれますなら、デザイン関係の人々との知り合いも増え、いわゆる「人脈」も形成されてゆくでしょう。
「実力不足」という厳しい現実がある以上、まずはそういった基礎的な修練をコツコツと続けてゆかれるのが賢明と申せましょう。
Q:小池住職の著書を読ませていただき、「今、この瞬間ッ」を少しでも捉えられるように日々励んでいるところです。
そして新たな疑問(試練?)が私のところにやってきました・・・。
最近、合コンなるものに参加し、一人の男性と意気投合、メールアドレスと電話番号を交換いたしました。
翌日「また会いたい!」気持ちが募り、メールしようと思いました。が、これは「もっと一緒にいたい!」という「欲」では?という疑問が湧いたので、「昨日は楽しかったですね。」という内容のメールにとどめた次第です。
ちなみに男性からのお返事はというと「そうだね、楽しかったね。」というお返事で、「再会しよう」という内容ではありませんでした。
今は、「会いたい」とメールしよう!→「欲」、「欲」、「欲」と念じてメールしたい気持ちをシューティングしています。
「会いたい。」という刺激を欲している脳内ストーリーと「会えなくても仕方がないか。」という執着しない心の反復横跳び状態になっています。
恋愛において自分から「会いたい」とは言えないのでしょうか?執着なく「会いたい」と伝えることはできるのでしょうか?
A:いやはや、結論から申しますと、素直に「会いたい」と伝えれば良いのではないでしょうか。「会いたい」という程度の欲は可愛いものでありまして、たいしたものではありません。
それよりも有害な欲や怒りが心の中にはたくさんあって、それらをなんとかするほうが先決なのであります。
すなわち、「会いたい」といった程度の細かな「欲」を気にしすぎますとき、その裏では、それよりももっと本質的で大きな煩悩から目をそらすことが起こっています。
ここで見てみぬふりをされていますのは、「自分から会いたいと伝えるのは負けてるみたいで嫌だから、相手から会いたいと言ってきてほしい」という煩悩です。
「楽しかったですね」と伝えたことへの返事として、たとえば「楽しかったね、また会いたいです。今度カフェになどご一緒しませんか」などと返ってくることを、期待されていたのではないでしょうか。
のみならず、「会いたい」という欲望を抑圧しようとする怒りの煩悩まで生まれています。ですから、念じるべき対象は「欲」よりも、「慢=プライド」や「怒り」です。
「自分が会いたい」と思っているのではなくて「相手が会いたい」と思ってくれている。それにより「自分が求められているッ」と実感して「自分ってすばらしい」という感覚を満たしたい。
心の中にこのような、自らを苦しめてしまう衝動が含まれていないかどうか、チェックしてみましょう。
もしもその衝動を見つけることができましたら、それは、慢=自己欲の煩悩です。「慢・欲の苦、慢・欲の苦、慢・欲の苦・・・」といった具合に客観かして、鎮めるようにいたしましょう。
そうやってプライドの煩悩を乗り越えたうえで素直に、気持ちを伝えてみられると、結果がどうあれ爽やかな心地を味わうことが叶うことでしょう。
Q:「誇りを持て」「誇り高くあれ」という言葉を贈られてることがあります。
とても美しくりっぱなことだと思う一方で、欲のカルマから生まれた掛け声なのでは、という疑問も感じます。和尚様はどう思われますか? 誇りを持って生きることは良いことなのでしょうか?
A:世間における言葉の使用法は、その場その場で曖昧に都合よく使われる性質を持っていることに、注意いたしましょう。
とりわけ「誇り」などという口当たりの良い言葉ほど、でたらめな使い方をされるものなのです。
「誇り」とは申しましても、他人から評価されたり承認されたりしてプライドを満たすことにより得られる「誇り」であれば、結局は自らが醜くなるだけのことであります。
それは他人に張り合おうとし、勝負しようとし、いつも勝ち負けを気にする澱んだ状態ですから、そのように「誇り高き」人は、鼻持ちならぬ嫌な人になってしまうのです。
ご明察のとおり、それは欲の業から出た「慢」の煩悩エネルギーを増やし、苦しみの材料を増やすだけのことと申せましょう。
反対に、そのような汚れた煩悩を離れようと努力する中で、その努力がうまくいっていることに対して「この調子で頑張りませーう」と自らを励ます「誇り」であれば、自らが美しくなることでしょう。
そういうわけですから、そもそも抽象的に「誇りを持とう」などと考えても、具体的な努力が生じるわけでもありません。
「誇り」という抽象的な言葉に惑わされず、現実的に一回一回、心で考える内容、発する言葉、おこなう行動の一つ一つを自らが美しくなるか醜くなるか、という具体的判断基準でチェックしながら進むことが肝要と申せましょう。
その結果として、いつの間にか、良い意味での「誇り」が得られていることでしょうから。
Q:先日、東京造形大学での座禅セッションに一般参加させていただきました。
私は曹洞宗のお寺に生まれたこともあり、幼い頃から座禅をする機会がありました。
何人かのお坊さんや尼さんに教わりましたが、「ただ呼吸に集中し、呼吸の数を数えなさい」とか「心に浮かんでくるものをただ見るように」と言われるだけでした。「どのように集中し、どう心を見るのか」というプロセスがわからず、私にとって座禅は「呼吸を数えるつまらない時間」になり、「寒いよー、何でこんなことやるのかなー、早く終わりたいよー」と普段以上に雑念が飛び交う苦痛な時間となったのでした。
今回初めて具体的な方法論を教わり、以後、毎日座禅を続けています。自分の怒りや欲の多さに気持ち悪くなってしまい、向き合うのが嫌になったりしますが、怒りや欲が以前より減ったように思います。ご指導いただきましてありがとうございました。
前置きが長くなりましたが、私の相談は、僧侶が妻と子どもを持つことについてどう考えればよいのかと言うことです。
僧侶の子どもとして生まれて、「お坊さんが結婚するなんて」とか、他の宗教の方から「お坊さんに子どもがいるなんて汚らわしい」と言われたことは数知れません。いろんな宗教の方がいるので、なるべく他の人に親の職業を明かさないようにしていますが、職場の中にも出自を知っている人がいて、上のようなことを言ってきます。その度に自分の存在を否定されたようで悲しい気持ちになります。
「今の日本の仏教はこうなんだ」と開き直るのも一つの手かもしれません。しかし、私の育ったお寺もそうでしたが、妻帯によってお寺が生活そして財産形成の場となり、本来の目的を失っていること。そして住職の教えでなく、往々にしてその地位と財産が子どもに引き継がれるのが、大部分のお寺であることを考えると、そうもいえません。
僧侶の子として生まれたことに人がどう言おうと惑わされずに善く生きて行こうと思っていますが、時に「自分はいてはいけない存在なのでは」とぐらついてしまいます。
僧侶が家族を持つことについて、同じく僧侶の子どもである小池住職はどのようにお考えになっていますか?ご教示いただければ幸いです。
A:ブッダの説いた「戒」は、あくまで自分自身の業をコントロールして向上するためのものであったことを、思い起こされるとよろしいでしょう。
すなわち、他人に対して「私は戒を守っていて、立派でせーう」と見せびらかすためのものでもなく、反対に「守れていない自分はダメでスミマセン」と他人に対し卑屈になるためのものでもありません。
その意味では、貴女の仰せのように「自分は自分として自らの業を律して善く生きること」こそが重要なのです。
それは、お寺の子として生まれたのであろうと、なかろうと万人に共通のことであります。なにせ、お寺の子であろうとなかろうと、誰もが男性と女性の性行為から産まれた、ただそれだけのことなのですから。
ただし、僧侶が結婚し家庭を持つことによって、堕落して俗まみれの生活になるきっかけを多くいたしますのは、事実でしょう。
結婚して家庭を持ちつつ、五戒すら守ることなく、極めて俗っぽい生活を送っている僧侶が多い嘆かわしい現状は、ご存知の通りです。
しかしながら形として結婚していたとしても、努力さえいたしますなら、そのような状態に陥らずに済みます。
「結婚しているのがいけない」と決めつけることなく「結婚したうえで、何をしているのか」の質によって判断するのが妥当でしょう。
家庭を持ちつつも、お寺を俗っぽい雰囲気にしてしまうことなく、あくまでも修練と学習の場として凛とした雰囲気を保つように努力することもできるのです。
私の父住職は、最初はそれができていなかったように思われますけれども、ある時期から瞑想に打ち込むようになり、非常に尊敬に値する人物となりました。
そのように成長した父の姿に感銘を受け、私もまた、自分も瞑想を突き詰めてみよう、という気持ちになったのでした。
余談ながら、お寺内部に凛とした雰囲気を保持するために役立ちそうなことがらを、思いつく範囲内で以下に箇条書きしてみましょう。
- 少なくとも五戒は守るよう決意したうえで、二百二十七戒のうち、自分で採用しても良さそうと思えるものをできるだけ守るようにする。
- 家族の了解と協力を得て、年に最低でも何度かは、10日間から1ヶ月程度にわたってすべての戒を守って瞑想修行に専念するようにする。
- したがって、自分なりに瞑想の技術を極めているようにする。そうすれば、お寺で一般の人に瞑想を教えることができるようになる。
- 財産は、なるべく家族のプライベートな目的に使わず、本来の仏道を一般に広めるための公共目的に用いる。お寺の本堂はできるだけ、瞑想会など本来の仏道を伝えるために用いる。
- 所有物を極力少なくする。
たとえば以上のようなことが実践できていれば、たとえいくつかの戒を破っていましても、仏弟子としての最低限の誇りを守ることが叶いましょう。
Q:いつも楽しく拝見させていただいております。
ご住職に相談させていただきます。
私は脳の病気でもう三年ほど引きこもっているのですが、いまだに病気であることを受け入れられていないようなのです。
病気であることは知っているのですが、認められないようです。
「沈黙入門」を拝読して以降、ようやく自分の混乱っぷりが解りました。
社会復帰に向けてリハビリテーション中ではございますが、同じ障害を持つ仲間と自分が同じ状態であるとも認めにくいのです。慢や怒りが満載です。プライドが高すぎると自分でも思います。
私がどういう状態か、病気とどう向きあえばいいのかご住職に教授たまわりたいと存じます。
A:御言葉のなかにある「混乱」という言葉が、端的に現在の状況をもっとも的確にあらわしています。
混乱=無知=迷いの業があまりにも強く、事実を認識せずに自動的に「自分独自のストーリー」を心の中でつむぎ続ける状態になってしまっているように拝察されます。
その混乱=無知=迷いの業を土台にして、怒りと慢の業が暴れくるっているのであります。
心の病にとって最大の原因は混乱=無知=迷いの業、と申しても過言ではありません。
自らが「混乱」に飲み込まれていることを、うっすらなりとも自覚されましたのは、大切な第一歩であります。
しかしながら、その瞬間に心のトリックがはたらいて「自覚できたから自分はそのぶん立派だし大丈夫」などと、先へ進むのを妨害する煩悩が出てくるのに、気をつけましょう。
問題は、混乱していることや、自分の中に無知や慢や怒りがあることを分かっているつもりでいても、充分な深さや精度をもって認識できていないことです。
単純に申しますなら、自らの心の状況を客観的に把握するための集中力ならびに観察力が足りていないのです。
今まで見ないことにしてきた、自分自身の中の闇部をえぐり出すのは、大きな勇気のいることです。
しかしながら、心の底に隠れていた事実をはっきりと明晰に認識することは、精神の疾患に対する最高の治療薬となります。
何故ならそれにより、心の中の無明=闇=無知のエネルギーが意識化されて、消滅してゆくからです。
Q:いつもこのサイトを楽しみに拝見しております。
ところで、お坊様は本をたくさん出されていますが「集中力」に特化した本を出す予定などございますでしょうか。(もしくは既刊書で出されておられますでしょうか?)
お坊様の書き込みを読むにつけ「集中力」がキーワードになっていると感じています。
なかなか長期の坐禅セッションに参加することがむずかしい身の私にとりまして、書籍という形で集中力を身につける修業ができれば本当にうれしいことです。いかがでしょうか。
A:既刊書ですと『「自分」を浄化する坐禅入門』は集中力の実践的トレーニング本としての要素を充分持っているはずです。
また4コマ漫画を出版した版元から、脳科学者と連携して集中力についての単行本を出す計画があります。ご興味がありましたらそちらをお待ちくださいませ。
Q:十数年来の知人と定期的に集まりを持っていました。
もともと、波長が合わない感じではありましたが、ここ最近その仲間に入ることが大変苦痛になって参りました。
理由は集まれば自らの抱えているストレスの吐き出し合いに終始するからです。聞き役としてはげんなりします。
私以外の数名の結束は堅く、別に私が入らずとも楽しくやれる方たちです。もうご遠慮して次第にフェイドアウトしようと、二回に一回はお断りをしてきました。
しかし、ありもしない理由をつけて断ることにも疲れてもう誘っていただきたくないとこちらからお願いしたいのですが、あっさりと傷つけることなく納得していただける言い方はないものかと考えあぐねています。
それとも、きっぱり切り捨ててしまうのでなく、このまま誘われなくなるまで毎回根気よく断り続けるほうが良いのでしょうか?お知恵をお貸し下さい。
A:「ありもしない理由をつけてお断りする」という、悪業を積んで心を混乱させる手法を取ってしまうがゆえにこそ、疲れてしまわれるのでしょう。
断る際にはついつい「理由」をつけて言い訳をしたくなるかもしれませんけれども、理由など向こうから聞かれない限りは仰せにならずとも良いものです。
ただ単に「うーん、遠慮させていただきます」と理由抜きに断ったほうがむしろ、しっかり断る雰囲気がつくられもいたします。
それを何度か繰り返していれば誘われなくなることでしょう。
悪影響を与えあってばかりの人間関係を捨てる勇気は、時として必要なものであります。
Q:はじめまして。偶然本屋さんで煩悩リセット稽古帖が目に留まり、手にとったところ、おぉまさに私が日々悩まされていた自分の醜い感情を消すお稽古の本ではないかと、運命の出会いを感じています。ありがとうございます。
そこでさっそく、自分の心の中の3つの業を意識しながら生活してみると、とても風通しの良い物になる事を感じています。すぐには難しいですが、少しずつ自分なりの「悟り」のようなものに近づけるといいと思っています。
しかし、ひとつ気になるのが、私が寛大になる事で、夫が調子に乗らないかということです。ちくっ・・と釘をさしたり夫の行動に口を出したりする事で夫も調子に乗りすぎずに済んでるところもあるのかなと思うのですが、夫が何をしていようと私が「いいんじゃない?」みたいな気持ちになりつつあり、ちょっとコワイです・・。(冷めているのとは違うのです。)
その辺のバランスは、業の気持ちを使ってでもとったほうがよいのでしょうか・・。ヘンな質問ですみません・・。
A:「自分が寛大になることで相手が調子に乗るのではッ」という気持ちは、「ケチ」でありまして、その背景に働いている業は「怒り」です。
「相手だけが得をして自分が損をすること」を頭の中でイメージしたうえで、それに対して怒りの煩悩エネルギーを燃やしている状態と分析できましょう。
この悩み=怒りは、過去に私も修行の途上で何度も感じたことがあります。
私が穏やかになることによって友人や恋人や家族が、調子に乗るのではないか、と。
しかしながら現実的には、そのようなことが発生するどころか、とりわけ険悪だった父母との家族仲が魔法のごとく改善いたしました。
その実体験からいたしましても、心配は無用と申し上げましょう。
ポイントは「相手が調子にのるのでは・・・」と脳内でケチな思考を回転させること自体が苦痛だ、ということです。
そのような脳内幻覚を手放していたほうが風通しもよくハッピーでもある、というリアルな現実を体感することが肝要と申せましょう。
ケチな気持ちを感じ始めたらすかさず、その感情の動きや、それによって発生しているリアルな苦痛に意識のターゲットを向けましょう。
そして「ケチ、ケチ、怒り、怒り、怒り・・・」と念じて解消してゆくことであります。
そして「怒り」が解消した後の、リアルな心地よさもまた、「楽受、楽受、楽受」などと念じて肚に落とし込んでおくとなおよろしいでしょう。
ただし、どう見ても相手が良くない方向に向かっているのが分かるときは、釘を刺す必要があるのも事実です。
そのときは直情的に「怒り」に操られぬようワンステップ置きましょう。まずは相手に対する「怒り」が心を支配しているのを観察して「怒り、怒り、怒り」と念じ滅したうえで、サラっと釘を刺しますこと。
それは相手を傷つけぬだけでなく、自分の悪業を積まぬためにも役立つでしょう。
Q:沈黙入門,偽善入門くりかえし読ませていただいています.
質問させてください.私は40歳男性です.
父が余命数ヶ月と診断されました.
数年前から闘病生活を送っており,身体は徐々に弱ってきています.
十分がんばったのだからできる限りのことをして逝かせてあげたいと思いますが,親が死ぬという事実に気持ちがふさぐ毎日です.
今の状況また死後どのような心構えでどのように生きればいいのでしょうか.ご教示いただけたら幸いです.
A:心のどこかで、お父様に対して「嘆いたり苦しんだりすることは良いことだ」と考えてしまっているのです。
「親のことを心配して嘆き悲しむ、親孝行な息子」といった幻覚に惑わされては、いないでしょうか。
しかしながら現実的に生じている感情は、「父の死」という厳然たる事実が受け入れられず反発する、怒りのエネルギーに他なりません。
そのエネルギーは、貴方自身を苦しめるだけでなく、お父様に対しても有害なものであると知らなければなりません。
亡くなった後にも嘆き悲しみ続けていましたら、その「怒り」のエネルギーが相手に送られ続けますから、非常に有害なのです。
これは、親しい人の死に際して、誰もが陥ってしまう心の罠、なのですけれども。
自分が「慈悲深い良い息子」であるつもりで、現実的には「怒っている」だけだという事実を直視いたしましょう。
そのうえで、「そうか、自分は怒っていたんだ」と自らの心の動きをみつめてみつめますこと。
心の罠を見破って客観化できました時点で、その偽装された怒りを手放すことが叶うことでしょう。
また、「怒り」を滅して、お父様への純粋な慈愛の心情に転換するには「慈悲の瞑想」をおこなうことをお勧め申し上げます。
存命中であれ亡くなられた後であれ、彼のことを想い出すことがきっかけで「怒り」の業が増えるなんて、とても残念なことです。
反対にそのつど、お父様に対して「安穏たらんことを、苦悩なからんことを」と念じて優しい心持ちを作るようにいたしますと、
お父様を想い出すたびに穏やかになれることでしょう。そうやって良質なエネルギーを作りもし、送りもできますことこそ、相手の死を無駄にしない、ということと申せましょう。
最後に『スッタニパータ』という原始仏教の経典から、厳然たる事実についてのブッダの言葉を引用しておきましょう。
『経集』584番ー587番
泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。みずから自己をそこないながら、身はやせて醜くなる。
そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。
人が悲しむのを止めないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみにとらわれてしまったのだ。
見よ。他の人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で震えおののいている。
Q:初めまして、いつもホンワカする漫画を楽しく拝見してます。私の小さい頃から感じている疑問や違和感について教えていただければ嬉しいです。
私は小さい頃からずっと、世間的に高い地位と権威があり自分を良識があると信じて疑わず説教臭い人々に疑問がありました。
教師、開業医、弁護士、などの人々は恵まれた環境に育った人が多く狭い世界しか知らず、良識を鵜呑みにして喋り、自分がしている都合の悪い部分は気づかないか消去した前提で話し、裁く傾向にあるので説得力に欠けて馬鹿馬鹿しく聞こえてしまうことが多々あるのです。 私はこういう人々が多い環境に育ちながら、父が親のすねをかじりながらギャンブルに狂っていたため、周りから白い目で見られているのを感じながら育ちました。
また、大学時代にクラブでホステスとしてバイトをしていた時、沢山の人と会話する機会があったのですが、一般的に悪いと認識されるヤクザの組員や会長、表向きは良いとされる優良企業経営者や役員などの裏の顔や本心、政治家、そしてホステスたち、皆似たよう人々だと感じました。
一つだけ違うのはヤクザやホステスなどは差別されて育った人たちが多く、こういう道を選ばざるを得ない人も多かったという点です。人によっては凄く広い視野と理解力と忍耐力をもった素晴しい人も存在します。
私は上記前者のような口先だけの人々より、後者の人々のほうが普通に働く人より実は社会に多くのお金を循環させている点、綺麗事だけでは皆が生活したり経済をまわしていけないと認識している点、また差別や批判を受け止めている点でもずっと成熟しているのではないかと思う時がありました。
会社の利益追隼とは、認識の違いや深さはありますが、多少の不正や悪につながっているので、働くこと自体が悪に繋がっているとも言えると思います。
同じように悪い事をしているのに、どうして生まれながらに環境の違いと、差別があるのでしょうか?差別を当然と考えている人々は本当に徳の高い魂ですか?
現代ではいったいどのような仕事をすればよいのでしょう?
A:仰せになられていることは、一見すると具体的なように見えて、実は理屈になってしまっています。
頭の中の理屈によって他人を「裁き」、他人に何かを期待しておられます。まずは他人に多くを期待しすぎぬことが、何よりも肝要なことと申し上げましょう。
「世間的に高い地位と権威があるけれども綺麗事を言うだけのインチキな人々」も、「世間的に低い評価を受け悪事をはたらきもするけれども、実務をこなす能力はあり綺麗事でごまかさない人々」も、
どちらにしても、さほど素晴らしい人ではありません。
「綺麗事を言うだけの人」か「ごまかしのない人」か、というだけのポイントで比べるのは、無理があるからです。
私も個人的には後者のほうが好きですけれども。
貴女が後者の人々を高く評価したくなる理由は、前者のインチキな人々に対する「怒り」の業があまりにも強いためでありましょう。
その反動で、反対の層にいる人々に好感を抱く条件づけが生じているに過ぎません。
残念ながら、この世の中には「この自分ッ」も含めて、ろくな人間は存在しないのであります。
冷静な目で分析いたしますなら、いかに誰もが「欲望」と「怒り」と「迷い」に操られ、自分のことしか考えていないかが見えてまいります。
その当たり前の事実に対して「どうしてあなたたちはそんなに汚れているんですかッ」と憤慨いたしますのは、「あなたたちはもっと美しい心になってくださいッ」とすがりついているようなものと申せましょう。 その憤慨によって、他ならぬ自分の心が「怒り」によって醜くなることを恥じましょう。
精神的に他人にすがりつく習慣をやめて、きっぱりと自分自身の心を向上させようと方向転換いたしますのが、何よりも先決と申せましょう。
どんな仕事をすれば良いかの基準は、単純明快です。他人や他の生命に迷惑をかける度合いが少なく、自分の心が醜くならないものを選びますこと。
そして教師や弁護士とは申しましても、心の制御しだいでインチキにもなれば真摯なものにもなりましょう。
ヤクザのように必ずや他人に害を与えることを前提としたものと比べて、努力次第で他人に害を与えずにすむわけですから、初期条件としてはこれらのほうが「まし」とは申せましょう。
Q:睡眠前に座禅をしています。呼吸に意識を集中してしばらくすると、目が痙攣して頻繁に瞬きをした後、顔が引きつってきます。所謂「イーッ」とした顔になります。声はなかなか出ず、ウゥーッとうめき声のようなものにしかなりません。
大学生の頃まで、母との関係がうまくいっていませんでした。反抗するとかえってひどい状態になることから、自室にこもりその悔しさと憎しみの気持ちで顔を引きつらせて枕に当てて聞こえないように「馬鹿野郎、死ね、畜生」といった罵詈雑言を言い放っていました。座禅中に出てくる表情はそのときの表情そっくりなのです。
これは、当時溜めていた気持ちが出ているのでしょうか。この表情が出ていることに反発せずそのままにしていると元に戻りますが、再びこの表情になってきます。
毎日出てくるので自分で意図的にしているのか?とも思ってしまいます。
また、どの時点で終了すればよいのでしょうか。今は、こうした状況がある程度落ち着いたという自分の感覚で終了(約30分)しています。
それからもう一つ。毎朝ウォーキングを30分しています。この時間を歩行禅に充てたいと思っています。教えていただければ幸いです。(新刊の『「自分」を浄化する 坐禅入門』にそのことが掲載されていれば、購入予定なのでご回答いただかなくて構いません。)
A:ええ、ご明察のとおりです。いままで「フタ」をして見ないことにしていた負の緊張感やエネルギーが、潜在意識に業となって刻み込まれていたのであります。
座禅により集中力と観察力が高まりますと、どうしても「フタ」をしていたものが見えてまいります。
お母様に対する負の感情に限らず、過去につくったありとあらゆる負の感情は、顔や身体中の筋肉の緊張としても刻み込まれているように思われます。
ともあれ、それらの「フタ」が開いて出て来ましたときには、その不快な緊張感に意識を集中してジーッと観察していれば大丈夫です。
根気づよく繰り返しているうちにほんの少しずつ解きほぐされ、やがて消滅することでしょう。
「自分で意図的にしているのだろうか?」という疑いにつきましては、御自身で心のブレをチェックいたしましょう。
もしもそれが意図的であるならば「今回も同じ表情が出てくるに違いないッ」といったような期待によって心がブレているはずです。
その場合は「欲、欲、欲」と念じましてその期待を客観化し、心のブレを消滅させましょう。
ともあれ「これは意図的にしているのだろうか?」と考えてしまうこと自体が、心がさまよっている証左。
そのようにさまよってしまう心自体を観察し、「迷い、迷い、迷い」と、念を打ち込み解消してしまいましたら、観察力がさらに冴えわたることでしょう。
終了するタイミングは、「いつやめれば良いのでせーう?」という迷いを生まずにすむよう、あらかじめタイマーなどを仕掛けて決めておいたものに従うのも一案であります。
歩行禅につきましては、基礎的なことを新刊に記載しておりますから割愛いたしましょう。
Q:私は就寝のために布団に入ってから、その日1日の、嫌だと思った出来事やこれから先の心配事などを延々と考えながら、眠りにつくという習慣を繰り返していました。これは仏道的に見て、カルマを増幅させる行為でしょうか?
何かの本で、眠りに就く前は潜在意識にアクセスしているのでとても大事な時間だと書いてあり、今までの自分の習慣が悔やまれてしまいます。
眠る前に瞑想するとしたら、具体的にどうすればいいのでしょうか?
もしくはどういった精神状態にもっていけばベストなのでしょうか? アドバイス、よろしくお願いします。
A:そのようなネガティブな思考によって心の中を満たしますことは、眠る前であれお昼休みであれ食事中であれ、同じように悪業をつむことになります。
(嫌だったことの想起も心配も、煩悩モードは「怒」。)
私が観察する限りでは、特に潜在意識にアクセスしやすいのは、眠る直前のほんの数秒の間と、夢を見ている最中であります。
ですから「眠る前だから」ということを特別扱いするほどのことはありません。
ただし、とりわけ眠る前に、布団に就いてから多くの人が思考をグルグル巡らせてしまうのには理由があります。
起きている間に煩悩を燃やし過ぎたために心が興奮していて休めず、新たな刺激を求めているのです。
にも関わらず、布団の中ではすることが何もなく刺激が得られませんから、ネガティブな「思考」をすることで刺激を得ようとしているに過ぎません。
繰り返してネガティブなことがらを考えて心に刺激を与えますほどに、それは潜在意識に深く焼き付き、逃れられなくなります。
集中力でそういった思考をストップするか、それが難しければ慈悲の穏やかな心情に入れ替えるかといったことを試みるとよろしいでしょう。
そのために役立つ、眠る前に簡単にできそうな瞑想法といたしましては、「横になっての呼吸瞑想」「身体の観察」「慈悲の瞑想」などをお勧めいたしますけれども、ここでその詳細を記すのはご容赦くださいませ。
Q:夫の浮気から8年、やりなおして一見うまくいっているのですが、何かのおりに裏切られたことがフラッシュバックしてとてもつらくなります。
プライドごっこの賜だと思っても、突然苦しみがくるのでつらく、8年も痛みが風化せずにこのままです。どうしたら良いのでしょうか。
A:「自分は愛されるに値する素晴らしく魅力的な人間であーッる」と思い込むプライドによって自分自身を苦しめている、という事実を、「腑に落ちる」ところまで体感することが肝要なことであります。
貴女が「自分はプライドごっこに陥っている」と思ってみるのは、実際「今まさに」リアルタイムで苦しみが襲ってきたときではないことと推察いたします。つまり「あのとき、裏切られたッ」と苦しくなってしまう瞬間には、「これはプライドごっこに陥っているだけのこと」と客観化せずにどっぷり感情に流されていることでしょう。
リアルタイムではなく後になってから「あー、あれはプライドごっこだったな」と想い出しても、それは単なる頭での理解でしかなく、役に立ちません。
重要なのは、苦しくなった瞬間、リアルタイムに迎え撃つかのごとく「あ、これはプライドごっこに過ぎない、プライドごっこに過ぎない、プライドごっこに過ぎない」と心に言い聞かせ認識させることであります。
「相手が浮気をした」という現実は、貴女の脳内に植え付けられた「私は愛されるに値する人間だもんッ」という幻覚との間で、不協和音を立てることでしょう。「相手が浮気をした」ことによって、「現在の自分には、実はさほどの魅力はない」という事実を突きつけられているわけですから。
これは「相手が浮気をした」という現実によって、脳内の幻覚を補正して成長するチャンスでもあると申せましょう。あいにく貴女の場合は、現実によって脳内の幻覚を補正するどころか、脳内の幻覚によって現実を裁こうとしてしまっているのです。それを続ける以上、「裁く」モードによって自らを醜くしてしまうことはあっても、相手にとって魅力的な性格にはなりえません。
相手が浮気をしたことを長年にわたって「裏切り」と捉えておられることそのものが、自らを縛りつけているようにも思われます。愛情とは「契約関係」ではありませんのに、「契約を裏切られたッ」とばかりに傷ついてしまうのは、やはり上記の幻覚ゆえのことでしょう。
浮気とは、「される」ものでもあると同時に「させる」ものでもあります。当時の自分自身の心や言動や振る舞いの中に、彼の心を離れさせるような要素がなかったかどうか検討してみるとよろしいでしょう。
当時、お互いの信頼関係や、愛情関係を形成できなかった「二人」こそが問題だったと分かることが大切なことです。そういたしましたら、過去の失敗はあくまでも教訓=研究材料として、「いかに今からは二人の信頼関係や愛情関係を育んでいけばよいか」という建設的な思考ができるようにもなりましょう。
Q:以前、二度ほど質問をさせて頂きました。ご丁寧な回答を頂き、ありがとうございます。仕事に関して解決したい事があり。ご相談申し上げます。
私は予備校に勤めておりますが、受験本番の時期になり、とても苛立っている生徒が中におります。何かというと成績が上がらないことを教科書や、他の職員の責任にして怒りをあらわにしてしまい、今一番取れる最善の道をアドバイスしようとするのですが、聞く耳を持ってくれません。
かといって自分で解決しようという素振りもなく、こちらのアドバイスを求めながらも全て否定するという状態が続いております。御本を読んで思いますに、彼の心が怒りでいっぱいになっているように見受けられるのですが、一方で話をする私自身に面倒だとか、そんな彼を否定したい気持ちが混ざっていてそうさせてしまっているのかとも思う瞬間があります。
彼に対して慈悲の心を精一杯持って対峙しているつもりですが、まだ足りてないのでしょうか。この状態を改善できるような考え方や対処法がありましたら、是非ともご教示ください。お願いいたします。
A:問題は主に、二点ありましょう。
一つは、仰せになられますように指導する側に「お前は間違っているッ」という否定的な感情が混ざりがちということです。
相手が自分の価値観に反した行動をしている以上、反射的に怒りの煩悩モードのスイッチが入ってしまうものですから。
「自分は相手のために、慈悲でやっているもんねッ」と思い込むことはできることでしょう。
しかしながら、ちょっと努力したくらいのことで、いきなり本気で相手のことを思い遣れるようになりますほどには、人の心とは純粋にはできていません。
一回一回、「今回はどれくらい怒りが混じっていて、どれくらい慈しみの感情が混じっていただろうか」と自己観察・自己分析しながら、少しずつ成長してゆくべきものなのです。
二つめは、仮にアドバイスが正しい内容だといたしましても「今の自分は間違っている」ということを指摘されていることにはかわりない、ということであります。
その結果、本人の慢=プライドの煩悩を刺激してしまいますでしょう。
またプライドが高い人間ほど失敗を他人や環境のせいにして、プライドを守ろうといたします。
そういった生徒のプライドをさらに刺激するような方向性で発言しても、うまく行きませんのは自然のなりゆきと申せましょう。
「こうしたほうが良い、ああしたほうが良い」というアドバイスを先行させる前に、まずは生徒が抱えている問題点を、自分で発見できるよう導いて差し上げるのがよろしいでしょう。
そのためには、行き詰まっていることに関係して話しやすそうな話題を選び、問いかけてみることをお勧めいたします。
そして返ってきた答えに対して、さらに質問を重ねますこと。それを繰り返すうちに、生徒本人にとって自分の問題点が分かってくることでしょう。
Q:いつも人に嫌われるような気がします。本心は人が嫌いで人のいやな面ばかりしか見えません。
離婚後一人で息子を私立学校にやっているのに息子も私が嫌いだそうです。
サークルで私は誘われません。私の方が実力と経験があり、私が面倒を見て教えてあげた人の方が先輩に誘われたのです。お返しもしない人ですのに。能天気な人でまた誘われちゃった、これもみんなあなたのお陰といいます。
お金に渋い人が人気があり、気を使って負担増の私がないがしろにされるのなぜでしょうか?
職場でも怠け者と能力の劣る人とずるい人とずうずうしい人は仲良しで、会社のものを内緒で時間内に自宅に持ち帰ったりしますが私にはそのような内緒の分配品の話はこないのです。
陰では支障をきたす仕事ぶりで困るといいつつ、表面では誰も注意をしません。私が遅れた仕事を白日に晒し、こんな管理は担当者がやるべきなのに、それで更に嫌われていると思います。
経営者に在庫品の持ち帰りなどのことをいいましたら、皆と仲良くうまくやりなさいといいます。
どうしたら周りの人たちと仲良くできるのでしょうか?私に足りないところは何なのでしょうか?家に一人で本を読んでいることがほっとする、なんか悲しい気持ちがどんどんし、怒りの気持ちも沢山抱えています。教えてください。
A:全体を通じて「自分は○○をしてあげているのに・・・」という文調が目立つことに、お気づきでしょうか。
そのように「感謝しなさーッい、私を高く評価して尊敬しなさーッい」といった感じの雰囲気を全開にしながら親切にされて、感謝したり尊敬するのは不可能なのです。
背景にうごめいております煩悩モードは、欲望+慢=プライドでありまして、相手から精神的見返りを奪おうとするモードと申せましょう。
人は、こちらが親切にしたことにより認めて欲しがっているのを敏感に気づきますし、それは嫌われる原因となります。
「露骨に褒めてほしいのが見え見えな人に親切にされるくらいなら、放っておいてくれたほうがマシ」といった具合に。
そして、欲望+慢の煩悩が満たされぬことに対して、他人を攻撃する怒りの煩悩が手当たり次第に噴出している状況と分析できましょう。
そのような私怨が潜んでおります以上、職場での問題点を指摘してみせましたところで、大局的で合理的な判断とは見なされず受け入れられないのも当然のことと思われます。
それよりもポイントは、御自身の意志が、背後にうごめく「欲望+慢」→「怒」という反応パターンに、支配されてしまっていることです。
すなわち、相手が誰であっても貴女が同じ種類の煩悩モードで動いてしまいますため、何処にいても、誰といても、決して幸せにはなれぬことでしょう。
欲望の煩悩モードで他者からの見返りを奪おうとするのを止めるには、慈悲のうち「慈しみ」の感情を成長させれば解決いたします。
この場では奪おうという心のドライブを鎮めて「慈しみ」に転換してゆくことを、ヒントとして述べるのに留めましょう。
Q:パワハラやセクハラにあい退職をした者です。精神的なショックのため、心身の体調を崩し、病院通いをしました。
労災の申請をするかどうか迷っています。何をするにも疲れます。再就職に恐怖も感じています。人が怖くなりかけています。(対人恐怖?)
煩悩リセット稽古帖を読み、少し楽になりかけています。何か良いアドバイスをいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。
A:労災申請をするかどうか「迷う」のを続けますと迷いの刺激により心が更に負の業をつみ疲弊しますから、考え続けるくらいなら早急に申請してキッパリ忘れたほうがよろしいでしょう。
もしも心の底から立ち直りたくお思いになられるのでしたら、他人を怖がり他人のことに意識を向けるという方向を転換し、
自分自身の中身をチェックし始めますことが、その第一歩となりましょう。
他人のことや自分の外のことに意識を向ける度合いが強くなりますほどに、心は外のことに夢中になって、自らの内部がメチャクチャになっているのを治そうとする機能もはたらかなくなりますゆえに。
「あの人のパワハラ・セクハラのせいで人生が台無しッ」といった具合に意識が外のことに向きそうになったとたんに、
その意識を方向転換するようにつとめましょう。たとえばこの場合「人生が台無しッ」と考える内側には、怒りの業がはたらいています。
その自らの内側へと意識を向けて「怒り、怒り、怒り、怒り」と唱えましょう。それにより、心内の事実を客観化して観察するモードへと切り替えるとよろしいでしょう。
あるいは「再就職なんかうまくいくかなあ」と、漠然と意識が外に向きはじめていましたら、これもまた「再就職」のイメージを脳内で想像して恐れ拒絶するという、
怒りの業によって支配されています。そのときも瞬時に意識を内側に向けて心の中身を客観化し、「怒り、怒り、怒り、怒り」と念じますこと。
ダメージを受けたことによって刻み込まれた「怒り」の業が出て来ようとするたびに、丁寧かつ緻密に自己内観察をして解き放ってゆかれましたら、
やがてショックや恐怖におちいるための原材料が枯渇して、再び平安な状態が戻ってくることでしょう。
Q:初めまして。私は今年40歳になる主婦です。お恥ずかしい話ですが、長年同じ悩みを抱えて生きてまいりました。
人付き合いがまるでダメで長続き出来ないのです。仲良しグループができても気付けば浮いている気がして…。過去の些細な小さな事に心が囚われて不安が増大し、未来の自分に鬱のような暗示をかけてしまう癖があるようなんです。「ダメだ!そんな事考えるな」と考えないようにしても気付けば考えに没頭している始末。
しかし、お坊様の御本『煩悩リセット稽古帳』を読んで震え上がりました。ある程度は大袈裟に書いてあるのでしょうが、あれはそのまま正に私の姿でした。
恐ろしかったと同時に自分を客観的に見て、魔法の鏡を見せられたようで恥ずかしくなり人に会うのが怖くなりました。こんな私でも今からでもやり直せるのでしょうか?この先どんな顔をして人に会ったら良いのか…とはいえ恥と感じるのも煩悩なんでしょうけれど…。
A:「自分を客観的に見て」と記されおられますものの、文面を拝見しておりますと「客観的」ということを、少々甘く考えておられるように見受けられます。
自分自身を見ることを通じて「恥ずかしくなる」(煩悩モードは慢)のも「人に会うのが怖くなる」(煩悩モードは怒り)のも、どちらも「自分自身」のデータを頭にインプットした後で、
そのインプットに対して「ビクッ」と反応してしまうからこそ、生じています。
その「ビクッ」は、現実世界に存在するリアルなものではなく、貴女の脳内での情報処理に過ぎない幻覚です。
つまり、それは事実を客観的に認識しているのではなく、きわめて主観的なものとなってしまっていると申せましょう。
その主観的な反応こそは、貴女が過去に溜めてきた「怒り」の業によって支配されているのであります。「自分だけ浮いているのではないか」「人に会いたくない」などと、負の感情が、貴女の意志とは無関係に業の領域から湧き上がって参りますゆえに。
客観的とは、目の前にある情報をそのまま受け入れること。裏を返しますと、情報を脳内で処理しないこと、情報に対してリアクションを起こさないこと、です。
自らを見つめた際に出てきたものを、ただそのまま観察してリアクションせぬように心がけられますと、やがて煩悩の反応パターンが抜け落ちてゆきます。
常に心の中の「事実」を客観視できるようにいたしますには、「怒り」を見つけたら「怒り、怒り、怒り、怒り」と念じ、「慢」を見つけたら「慢、慢、慢、慢」と唱えて余計な思考を排除することが役立つことでしょう。
Q:生きていれば具体的な問題は諸々あるわけですが、最近、そういうこととは別に心がぽっかり穴があくように空しく落ち込みます。
何が問題なのかわかりません。そもそも人生は空しいものといえばそれまでですが、望んだものは何一つ手に入らない。かといって悟りの境地も遠い。これでいい瞑想が出来ている実感があればまた別ですが、遅々として進まない。何の希望もなくふらっと死んでしまいたい。そんな感じです。
欲や怒りもなく、エネルギー自体がない。風船がしぼむようなものです。「その心を見つめたら」という過去のこのコーナーの指摘で楽になりましたが、またしばしば落ち込みそうです。
子供の頃からこういう心境にはなりましたが、今はそれ以上です。大人になるにしたがって、いろいろなもの(体力、能力、地位、人間関係とか)を得たつもりだったわけですが、そういうものも最終的にはつかめるものではないです。
それらを今後、老化により喪失していき、死により放棄するわけですが、手放していくことに心が耐えられないのかもしれません。かなわぬ望みと理性ではわかっていても心の本音は手放したくないでしょうか?何かアドバイスがありましたらお願いします。
A:心の法則性を体験していないがゆえに、そういった状態を「欲や怒りがなくエネルギー自体がない」と誤解している人はたくさんいます。
しかしながら実際は、「虚しくて何もやる気がしない」という感情自体が、強力な負のエネルギーなのであります。
(欲や怒りによって心がブレなければ、ものすごくクリアな集中力がみなぎった状態になるのですから。)
では、どのようなエネルギーゆえに「虚しく」なってしまうのかと申しますなら、現状を受け入れたくなく拒絶しようとする、怒りの煩悩エネルギーであります。
過去から長い間にわたってたくさん溜め込んでいらした怒りのエネルギーが、具体的な対象をつかまえますときは「あれが嫌だ、これが苦しい」といった反応としてあらわれます。
しかしながら、そういった怒りの業の持つエネルギーだけが活性化し、具体的な対象をつかまえませんとき、その「否定」や「拒絶」は、自分自身の存在に向かいもいたします。
その結果、「何がなんだか分からないけれどとにかく不安だよーッ」「生きていても意味がないのではあるまいか・・・、虚しい・・・ッ」
といった形で、さらなる怒りの思考が連鎖してしまっているのが現状と申せましょう。
これは、過去に「嫌だ」「ふざけるな」「腹が立つ」「許せない」などと思考することにより潜在意識に刻み込み続けた怒りの業が、今になって結果を出している、というように理解するとよろしいでしょう。
怒りの業の「報い」が出てくるたびに「ああ、欲も怒りもない状態であることよ」と理解し続けますと、事実から目を逸らす無知=迷いのドライブが強まってしまうことにも、ご留意ください。
大切なのは、心に訪れてきている「報い」に対して、正面から対峙いたしますこと。
虚しくなったり不安になったりするたびに以下のように念じながら心を見つめていましたら、やがてその原因たる怒りの業も少しずつ薄まってゆくことでしょう。
「過去の怒りの業が結果を出していて、ああそうか、自分は怒っているんだなー、そうかー、怒りかー、怒り、怒り、怒り、怒り・・・」と。
また、これまで得てきたものをいつか手放さねばならぬことを想像して虚しくなるといたしますなら、「今、ここ」に存在しないはずの未来へと心をさまよわせて、脳内の幻覚をつくっているのです。
その背景にある感情を分析してみましょう。
得たものによって「自分ってこんなに立派なんだぞッ」と思いたくなる理由は、実際の自らの心があまりにも「立派ではない」ゆえのことであります。
裏を返しますと、心じたいを澄み切ったものに変化させて揺らがず動じぬ自信を身につけましたら、「失いたくないよーッ」という執着も薄まりゆくことでしょう。
心をトレーニングして「自分はもしも全てを失っても、この鍛えられた心こそが財産として残るさッ」と思えるほどの自信を得ることが、重要なことであります。
Q:こんにちは!このHPに出会ってから、毎日パソコンに向かうのが、日課のようになりました。
またまた、心の中に煩悩の塊ができて、悶々とする時間が出来てしまい、解決したく、お便りさせていただきます。
それはパートの同僚達についてです。私は30代の主婦なのですが、それよりも年配のおばさまたちのことです。
欠席裁判は日常茶飯事・・、異常なまでに人の家庭のことに興味をしめすなど。お付き合いしていて、精神的にきついものがあります。
心の中では、そんなことどうでもええやんけ!!と悪態をつきながら、いつも同調してしまいます。どのような態度で接するのが、私にとって一番いいでしょうか?
A:「どうでもいいやんけ!」という思考と、「そうですよねー」という同調の言葉や態度は、完全に分裂しています。
心と言葉を分裂させてしまいますと、それにより少しずつ心が混濁していきます。
それを続けてゆくと記憶力や自己統御力が衰えてゆきますから気をつけましょう。
残念ながら貴女の脳内ストーリーでは「どうでもいいやんけ!」と怒りの幻覚が発生することでも、彼女たちの脳内ストーリーでは他人の噂話を「すこぶる興味深いこと」として感じる幻覚が発生しているのであります。
では、何故に彼女たちが、その場にいない人のことを攻撃することにより快楽の幻覚を得たくなってしまうのか、を考察してみましょう。
彼女たちが日々ストレスだらけで不幸せだからこそ、「自らの惨めな現実」から目を逸らしたいのです。
他人を非難している間だけは、「惨めで間違っているのはあの人であって、自分はそれを指摘できる素晴らしい人間なのであーッる」と思い込むことができますゆえに。
そしてそれにより「自分の現実」が認識ができなくなり、ますます業の脳内幻覚にどっぷりはまってゆくのでありますけれども。
では、どうして貴女はそれに怒りの煩悩を燃やしつつも同調してしまうのでしょうか。
知らず知らずのうちに「この人たちに受け入れられたいよーッ」「自分がいないときに悪口言われたら嫌だからへつらいたいよーッ」
といったような欲望の煩悩が前面に出てくることで、怒りの煩悩にフタをしているような状態であります。
この、怒りと欲望を注意深く見つめることにより手放すことが肝要と申せましょう。
先述の「分裂」を避けるためには少なくとも、へつらって同調するのはやめましょう。
「まあ、まあ」と微笑むとか、「あはは」と苦笑いしつつかわすとか、肯定も否定もせずお茶を濁す態度を取れば自らの心を汚染せずにすみます。
心の中の思考も「どうでもいいやんけ!」などという暴力的なものよりも、せめて「この人たちは脳内幻覚にどっぷり漬かっててしようがないなー(にっこり)」くらいにしては如何でしょうか。
すると思考:行動が分裂する触れ幅が、以下のように比較的穏やかになり心が休まることでしょう。
before>> どうでもいいやんけ!(強力な怒):同調(強烈な欲)
after>> しようがないなー(にこり):肯定も否定もせず(平常心)
Q:組織や集団からいじめられる人というのも、因果応報「カルマ」のせいということになるのでしょうか。
世間では、「いじめられる側にも責任がある。」などともいいますが・・・。そういうことなのでしょうか。でも、自分の子供がいじめられていたら、そうも言ってはいられませんよね。
大人でも、子供でも、集団でいじめられることで、自殺にまで追い込まれてしまうこともあります。
そのようなことは悲劇だと思うのですが・・・。
住職はどうお考えですか。
A:ええ、それもまた、因果応報ゆえのことであります。何の原因もないのに起きることがらは、この世には存在いたしません。
なぜよりによってその人がいじめられているかと申しますなら、必ずや、周りの人間の「いじめたい」という煩悩を刺激する性質を持っているからです。
その人の持っている煩悩が、他人の煩悩を刺激してしまっているのであります。
「この子は悪くないのに、ひどい人たちにやられているッ」と憤慨してみせたところで、事態は何ひとつ解決いたしません。
もちろん、いじめる側が最悪の業に操られているのは事実なのですけれども、そういった人々を引き寄せてしまうのは、引き寄せる側の業ゆえなのですから。
もしも私の場合において自分の子がいじめられているのであれば、これからはいじめられなくなるよう、いじめに対して平然と対処して切り抜けてゆける技術をトレーニングすることでしょう。
自殺に追い込まれてしまうのは、もちろん好ましいことではありません。しかしながら、それを「悲劇」として大げさに脚色して反応するのは無意味なことです。
いじめに対して憤慨してみせたところで、自殺した人が生き返るわけでもなく、憤慨した人が怒りの業をつんで不幸になるだけの話でありますゆえに。
いじめた側はいじめた側で、非常にネガティブな怒りの業をつむことになります。それが元になって、やがて必ず精神的な苦痛を味わったり具体的な不幸を呼び込むこととなります。
もしも他人を自殺に追い込んだなら、仮にそのことをを忘れたつもりでいましても、「自殺に追い込んだ」という記憶が潜在意識に深く刻み込まれて、ずーっとチクチク心の底をかき乱しますから、もはや一生、穏やかな幸福感など味わえなくもなります。
このように全てのことは、すべての生命にとって平等かつ公正に結果をもたらしています。それについて不平を述べるのではなく、自らが向上しつつ周囲にも善い影響を与えることが、もっとも重要なことと申せましょう。
Q:小学6年生と4年生の女子を持つ母子家庭です。
最近、ネットに夢中の長女について悩んでおります。
有害サイトのアクセス禁止について、私は見てはいけませんと禁ずる事だけで悪い大人になってしまうとは思えずにいます。
パソコンクラブに入って、ネットを頻繁にし始めた長女に「学校なんかで有害サイト見るなとか言われてるかもしれんけど、お母さんは思春期の子が興味あるサイトみるぐらいなら、ええんちゃう?と思うねん。だから、バンバン見ても構いません。でも、学校裏サイト見ても、お友達の悪口書き込んだり、2ちゃんねる見ても書き込みはしないで。アダルトサイト見ても、ピカピカ光ってる有料って書いてるボタン押さんといてね。後、このパソコンからメールを送受信しないで。それでももし、悪いオッチャンからいくらいくらお金払って下さい的な画像とかメールとか受け取ってしまったら、お母さんが責任もってお金払わんでもええように戦うから内緒にせんと絶対お話ししてな、それってお約束できるかな?」と母親として無責任な約束を勝手にさせてネット見放題を解禁したのでした。
「お母さん、私そんなん見ぃひんし、信用ないな」という娘の言葉を自分の都合に良い解釈をして勝手に安心していました。
最近、週末一晩中起きて早朝までネットにかじりついて何やら一生懸命パソコンとにらめっこしている娘をちょっと異常に思い、ちょっと覗くと画面を切り替えられてファンシーなかわいらしいサイトに変えられてしまい、寝付いた後すぐに履歴を見てびっくりしました。ユーチューブのアダルト動画がびっしりあり、何件か見てみたのですが、ヒガンデルのかもしれませんが、なんだか気持ち悪いなぁと思うものが多く、残念ながら春を終えた私には興奮できませんでした。
こんな動画のような動作が良い恋愛のお作法だとか長女が勘違いしてしまうんじゃないかしら、と不安になりました。そして、私は自分のエゴで娘を悪い大人に向かわせているかもしれない。しかし、一旦解禁したものを正当な理由なく禁止するのも格好悪いなぁ、私は娘をこのまま見守るべきなのか、男性との恋愛観などなんとなく事情聴取して軌道修正の必要の有無を確認したほうが良いのだろうか?
普段息をヒソメルようにして人付き合い自体当たらず障らずの私は担任の先生に相談して、勝手な判断して親のくせになんて事させたんや!と怒られるのが怖く御挨拶しかできません。ちょっとヤバイ?まだイケル?とハラハラしながら娘を疑う目で見てしまうのです。長女はごくごく普通の小学6年生です。どうする事が娘の為に良いか、今更ながら悩んでおります。ご住職様、何か良いお知恵がありましたら是非、教えて下さい。
A:残念ながら、御子に言って聞かせる資格を失ってしまうような、致命的なミスをいくつか犯していらっしゃるように思われます。
「内緒でこっそり履歴を覗く」とか、「いまさら格好悪いから禁止できない」と体裁を気にしていらっしゃること、など。
そういった精神的な不具合をベースにしていますなら、どんな立派な綺麗ごとを口にしても、「人の履歴を内緒で見ておきなあら何を言っているのでしょう、この人は」といった反応をされてしまうことでしょう。
インターネットのアダルトサイトの閲覧を続けるていどのことは、さほど大きな問題ではないようにも思われますけれども、それを貴女が「どうしても嫌だ」と思われるのでしたら、その点を彼女に伝えるのがよろしいでしょう。
それには、相手を一人の大人とみなして話し合うことが好ましいでしょう。
御子が約束を破ったことを指摘したり、非難してはなりません。非難されると「お母さんだって勝手に人の履歴を見たくせにッ」と腹が立つだけで、話し合いにならないからです。
まず、履歴を勝手に見てしまったことを告白して謝ったうえで、悩んでおられることを率直に伝えてみては如何でしょうか。
「私は、あなたがアダルトサイトを見ているのが耐えられない。
あなたが未熟なうちこういったものを見るのに夢中になると下品になってしまうしれないと心配してしまう一方で、よくよく考えてみるに、自分勝手な思いもあって悩んでいるのかもしれません。
もう自分は年をとって性的なことに興味が持てなくなっているのに、娘のあなたが性的なことに楽しみを見いだしているのを知って、嫉妬しているだけなのかもしれない。
いずれにしても、あなたがインターネットに夢中になることが原因で私の悩みが増えて、お母さんはいっぱいいっぱいなのです。
お母さんはあまりにも苦しいので、インターネットは○○歳になるまで禁止にしたく思っています。私を助けると思って、言うことを、聞いてくれますか。」
たとえば、このような具合であります。しかしながら、一度「楽しいッ」という条件づけが生じてしまいますと、「禁止」などしましても、友人宅やネットカフェなどでいくらでも抜け道はできてしまうことくらいは、覚悟しておきましょう。
Q:カルマには、良い、悪いがあるのですか?どうしたら、良いカルマが積めるのですか?
ちょっと自分勝手な思惑で、良いカルマを積むつもりですが、これは、邪な気持ちで、よいカルマは積めないようにも思います。
もう、どうでもいいや、今のままでいいのではないか、なんて思ってしまうんです。
良いカルマをつんでご利益につなげようというのは、どうでしょうか?
A:ええ、もちろん悪い業だけでなく、善い業もあります。
欲、怒り、迷いの毒素が心の中にありますなら、そのとき頭の中で考えることは悪いエネルギーとなり、そのとき話す言葉も、おこなう行動も、すべて悪いエネルギーとして心の中に蓄積されます。
これが、悪業の正体であります。
裏を返しますと、考えたり話したり行動したりする際に、「欲、怒り、迷い」のトリオを発生させずにすむことができましたら、そのことを、善い業と定義いたします。
欲、怒り、迷いが発生しないときは、心は乱れておらず注意深く集中していますから、非常に清々しい状態になっています。
比喩的に申しますなら、心のこの清々しさのことこそ、善い業の本質であります。仏道における善とは「人に対して善行をしましょーう」といったような、漠然としたものではなく、厳密な心理分析にもとづいたものなのです。
したがって、「善い業をつんで自分だけ利益を得たいよーッ」という気持ちで善行をしても、そこには欲の緊張感がはたらきますから、そもそもさほど、善い業になりません。
だからといって、その善行が無意味なわけでもありません。たとえて申しますなら、善行をするとどうしても欲や怒りが薄まることによって善い業が3ポイント増えるのですけれども、「ご利益が欲しいよーッ」という欲のぶんだけ、悪業を2ポイント増やすことになります。
そこには邪な心も混ざってはいるのですけれども、総合的にみると1ポイント分だけ心が綺麗になるといった寸法であります。
ですから、まずはあまり考えすぎることのないよう、欲まみれでも構いませんから善いおこないを始めてみてください。
最初は欲まみれで始めていましても、やがて業が変化いたしますうちに、その欲そのものが薄まってゆくことでしょうから。
Q:小池住職の本を読み自分を洞察していきました。
そして、自分にとって好ましい人、強い人や権威ある人には「よく思われたい」、嫌な人や弱い人には「一緒にいたくない、イライラする」という結果になっていました。
そして、私が人とコミュニケーションを取る場合、「欲」と「怒り」しか存在せずそれ以外の状態がないことに気づきました。
今は、「欲」と「怒り」以外のコミュニケーションを取った経験がないのでその「欲」「怒り」の状況を味わいながらもそこから脱却できずにいます。強い人との会話では、「あ、今相手に迎合している欲が出ている」わかりながらも「欲」が出た対応をして、その結果相手にかえって反発心を呼び寄せる結果に陥ります。
弱い人との会話では、「あ、怒りが出ている。」とわかっていながら、冷たい態度を取り、後で嫌なエネルギーを自分で抱える結果になります。
涼やかな小池住職のようなコミュニケーションを取るには今後どうしたらよいでしょうか?
A:実はすでに、決定的な変容のためにきわめて重要な一歩を踏み出されています。
「がーん・・・ッ、自分は欲と怒りの煩悩反応パターンに絡めとられているらしいッ」ということを、一回一回、チェックし始めておられる、という第一歩を、です。
そのチェックを、地道に続けられることをお勧め申し上げます。
「あ・・・ッ、今ついつい、欲でへつらってしまった・・・ッ。そしたら自分がイヤな気分になっているうえに、相手にも悪影響を与えたっぽい・・・ッ」
こういったことを、実地にもとづきながら繰り返しチェックいたしますと、少しずつ心が学習してくれます。
「どう考えても欲や怒りで反応すると自らと周囲を痛めつけることにしかならないから、やめておこうかしらん」と。
ですから、うんざりしてしまいそうになっても、自らの反応パターンを淡々と観察いたしましょう。
「あー、今の自分の心は、こういう刺激を与えられるとこういう反応をするようにできちゃってるんだなー」と、淡々と自らを研究されてみてください。
それによって、少しずつ、少しずつ変化は現れます。
このような体験学習のポイントは、次のようなことです。
- 想像上や空想上ではなく、実際のコミュニケーションの場で自らの心の動きと、それが引き起こした結果を観察し、味わいますこと。
- その際に、強い集中力と観察力によって自らの心の動きを見逃しませんこと。
- 煩悩により引き起こした結果について「あーあ」と後悔する(煩悩モードは怒り)のではなく、単に「今回は心の条件づけに翻弄されうまくいかなかった」と事実認識にとどめますこと。
Q:保険の外交員の迷惑な年配の女性がいて、たまたまうちの地区をまわってらっしゃるのか、一度顔をあわせてから話がはじまり、しつこく仕事を一緒にやりましょうよ、とか、誘われていましたが、何度もお断りしているのですがしつこく来たり電話が来たり、迷惑しています。
こちらもきっぱりした態度できちんとお断りしているつもりですが、よいアドバイスをいただけたらありがたいです!生活のことや家計のことなどを、こうしなさいッああしなさいッ!と偉そうに言われてから、ほんとに嫌になりました。
カルマ炸裂してますよね・・・喝をいれていただきたいですッ!!
A:いやはや。か・・・ッ、喝ぁぁぁぁーーーーつッ! その不平不満は、順番がまったくもって反対・・・ッ! こちら側が煩悩だらけかつ隙だらけにて気品を失っているからこそ、相手につけ込まれる・・・ッ!
すなわち「ああしなさいッ、こうしなさいッ」と言われなくなるような、気品のある人間になるのが先決と申せましょう。
とりもなおさず気品ある人間とは、もしも「ああしなさいッ、こうしなさいッ」と口出しされましても「おやまあ、なんだか一生懸命この人は声を発射しているけれど、本人はとてもしんどそうであることよ」と涼しくしていられる人間であります。
そもそもそういう人は、あまり他人から余計な口出しはされないものなのですけれども。
相手への敵意(もちろん、煩悩モードは怒り)を静めたうえで、きわめて冷静に来てほしくない気持ちを伝えるとよろしいでしょう。
たとえば「正直なところ、私とあなたとは波長が合わないらしく、あなたと一緒にいるとひどくストレスを感じて病気になりそうなので、もう来ないでいただけますか」
などと冗談めかして。
Q:こんにちは。いつも楽しくイエデさせて頂いてます。
「偽善入門」に出て来る『法句経』について詳しく知りたいので、教えてください。
また、お薦めの本等ありますでしょうか?(ご住職の本は、家族にも読んで貰えるよう我が家の「イエデコーナー」を計画中です。)
A:あいにく訳文があまりよくありませんけれども、岩波文庫から『
ブッダの真理のことば』というタイトルにて現代語訳が出ています。
また最近、その『偽善入門』の版元から、「法句経(ダンマパダ)」について解説した新刊本を頂戴いたしました。
読みやすい内容でしたから、お勧めできるかもしれません。
『
いきなりはじめるダンマパダ』
Q:はじめまして。簡単に自己紹介いたします。46歳主婦、夫と娘の三人家族です。書店で貴方様の御本「煩悩リセット稽古帖」にたまたま目が留まり、このところ愛読しています。
当時15歳になったばかりだった長男が自殺いたしましてから間もなく三年と四ヶ月です。心の優しい、明るい子でした。母である私に無条件の信頼と愛情を寄せてくれました。
にもかかわらず私は彼が自ら縊って命を絶つまで、その行為にいたる悩みも苦しみも悲しみも何も気づいてはあげられませんでした。リポート用紙に鉛筆書きの遺書がありました。
「誰のせいでもありません。唯疲れてしまいました。お母さんありがとう。お姉ちゃんありがとう。お父さんありがとう。」と「ありがとう」ばかり書かれていました。
今更自分自身を責めたところで長男が帰ってくる訳ではありません。私にできることは、今ある三人家族を大切にすることだと言い聞かせてはいますが、時にコントロール不可能な悲しみに襲われます。
精神安定剤に頼って日々を過ごしていますが、薬に頼らずとも心の平穏を保って暮らせる日がくるのでしょうか?
「命を大切にしなさい。まして自分の命を粗末にするなどもってのほか」だという意味の文章や言葉を様々なメディアで目にしたり聞いたりしますと悲しくなります。長男はたった一人死を選んだのです。そして私達家族は深く深く悲しみながら生きています。
貴方の御本を読んで「声は音だと思えばいいのか・・」と少し気持ちが楽になりました。長男は私の子供に生まれて幸せであったと思いたいのです。15歳と二ヶ月余、それが長男の寿命だったと思いたいのです。この考えは間違っているのでしょうか?
A:精神安定剤などという毒物を飲まずとも、心を制御して整えなおしさえいたしますなら日々は再び幸せに送れましょうし、亡き御子に対しての供養になる生き方をも始めることは、かないます。
嘆き続けることは「怒り」の煩悩波動を発することでしかありませんので、供養になるどころか悪業を積むことにしかならぬことを、肝に銘じていただきたく存じます。
御言葉を拝見しておりますと、「自分を責めることは無意味と知りつつ自分を責めてしまう」ということと「自分を許して楽になりたい」という気持ちの間で揺れておられるように思われます。
しかしながら、その二つの極は、どちらも間違っています。
仰せのとおり、自分自身を責める(その煩悩モードは怒り+後悔)ことで御子が生き返るわけでもありませんし、幸せになるわけでもありません。
それどころか、怒りと後悔の煩悩によって御自身が負の業を積むようなことになるわけですから、実はそれによって御子に対してマイナスの心をつくることになっているのです。
また、御子が自死を選ばざるをえない状況へ追い込まれてしまいましたのには、きわめて様々な要因が積み重なってのことであります。
たとえ親とは申しましても、その要因の(確かに、比較的大きなものであるにはせよ)たった一つに過ぎません。
人が人にしてあげられることというのは、さほど多くはないのです。「自分さえ何とかしていれば」というのは、自惚れとすら申せてしまいましょう。
反対に「寿命だったと思いたい、幸せだったと思いたい」というのもまた、事実に立脚しない言い逃れです(その煩悩モードは、迷い=無知+欲)。
彼が死に追い込まれるまで苦しかったのは、事実なのですから。
御自身を責めてしまう心があるがゆえに、その苦しさから逃れたくて、都合の良い物語を作ってしまっているように見受けられます。
あくまでも、いくつもの要因のうち一つとして、貴女が彼に「してあげられなかったこと」や「してしまったこと」が何かしらの作用をしていることは、事実として認識しなければなりません。
以上の二つの極は、どちらも事実から逃避する二つのモードですから、それによって心が混乱し、不安定さを増大させてしまいます。
それらの、事実を無視した二つの極に行ってしまいそうになるたびに、注意深く「事実」を想い出して、真ん中の穏やかなところへ戻るよう心がけられるとよろしいでしょう。
そうして、仰せのように、「御主人や娘さんと過ごしている、今、ここ」を大切にされてくださいますように。
その中から少しずつ幸福感を紡ぎ出せるようにして「悲しみ」(煩悩モードは怒り+後悔)から離れることができるようになってはじめて、綺麗な心を亡き御子にも届けることができましょう。
悲しみとは、相手のことを思い遣っているようにみえて実際は、自らの悲しみに酔っぱらっているだけの状態にすぎません。
それにより怒りの波動が送られますから、相手にとって何の良い影響もないのです。
もしも悲しみにとらわれてしまいそうなときは、「苦悩なからんことを」と唱えて、「慈悲」の心を亡き御子に送るようにされてください。
慈悲の優しい心持ちが勝りましたら、悲しみは和らいでゆくことでしょう。
Q:これで4回目の相談になります。いつも、丁寧にお答えてくださりありがとうございます。
また、仕事においての悩みなのですが・・・。自分の全く未経験の分野に人事異動されるかもしれません。
その部署は、今の私にとって、体力的にも能力的にも勤まるとは思えないのです。
その部署に配属されることで、自分の能力の低さが他の人に露呈することや、自分自身で自覚するのが怖いのかもしれません。
また、組織や他の人達に迷惑をかけてしまい、結果的に周囲の人から浮いてしまって、誰も相手にしてもらえなくなったらどうしよう・・・などと思い悩んでいます。
煩悩ゆえの悩みであるとは思うのですが、アドバイスいただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします。
A:もし仮に能力が低いといたしましても、そのこと自体は周囲に不快感を与えるとはかぎりません。
人の評価というものは、単純に「仕事ができる/できない」ということ以上の要因によっても、左右されるからであります。
周囲が不快に感じる主要原因はただ一つ。
「自分の能力が低い」ことについてあれこれと思い悩み、ネガティブな煩悩を発していることです。
たとえば能力が低いにも関わらずそれを誤摩化そうとしていたり、仕事がうまくいかないことについて卑屈になっていたり、分からないことがあるのにプライドゆえに素直に質問できずにいたり、ということ。
(これらの煩悩モードは、欲+劣慢)
こういったプライドの煩悩により緊張している心は、周りの人々をも緊張させますから不快感を与えてしまうのであります。
ですから、勤まりませんなら勤まりませんなりに「これは私にはうまくできないみたいです、手伝ってくださいませッ」と明るく伝えることのできるような心持ちになっていることが肝要と申せましょう。
やり始める前から、プライドの煩悩に巻き込まれてしまわれませんように。
「もし勤まらなかったらどうしよう、プライドが傷つきますわッ」となってしまっている心を見つめ、解きほぐしてから臨まれてくださいましたら、と存じます。
Q:慈悲の瞑想についての確認の質問です。
(1)念じる対象を「私」でそろえて「私は安穏たらんことを」から始めて、「私」に対して慈・悲・喜・捨の順におこなってから、親しい人、生きとし生けるもの、と広げていく。
(2)「私は安穏たらんことを」から「親しい人が安穏たらんことを」「生きとし生けるものが安穏たらんことを」と全ての生命に「慈」を向けてから、悲・喜・捨に進む。
(1)と(2)では、どちらが良いですか? それとも、そういう心になるのが重要で順番は特に気にしなくてもいいでしょうか?
A:仰せのとおり、穏やかな心持ちを形成することこそが重要ですから順番はさほど気にする必要はありません。
しかしながら、あえてどちらが良いかと申しましたら、(2)のほうをお勧め申し上げます。
また、本格的な集中力育成と深いレベルでの感情変化を望まれる場合は、慈・悲・喜・捨をまとめて念じるのはお勧めできません。
本当は、それらは一つ一つ、独立した瞑想法でありまして、同じ文言だけをひたすら繰り返すことにより心に刻み込まれることが重要です。
次々に念じる言葉や念じる対象を変えてしまっていては、強い集中力が形成されません。
ですから目的によっては、慈・悲・喜・捨のうち一つだけを選んで、それだけを徹底的におこなうのが良いでしょう。
Q:去年の春から10数年飲んでたくすりを止めて、様子を見ていたのですが離脱症状というか、うまく止めることができなくて症状がひどくなっていました。
なので思い切って今年に入って、またくすりを飲み始めました。そうしたら精神的にも身体的にも楽になりました。本来ならクリニックの先生に相談することなのかもしれませんが…自らの治癒力と努力によってくすりを我慢していたのですが(ほんとはくすりは飲みたくないのです)どうしても無理なようです。
くすりとは…縁が切れないのでしょうか。それは私がくすりに頼りたいという気持ちがあるからでしょうか。子供を産みたいと思っているのでくすりは飲みたくないのですが、叶わないのでしょうか。
精神的なものからくる不調なので、自分次第だと思うのですが(色々病院に行き身体的要因はないと確認しました)それは…無理なのでしょうか。それともほんとはくすりを飲みたいのでしょうか。ご住職はくすりが手離せない私をどのように捉えますか。
どうぞ、よろしくお願いします。
A:心は、甘えきって慣れきった状態から大きな変化をすることを嫌いますから、元通りの刺激が得られなくなりますと、ひどくストレスを感じる時期があるものです。
その嵐の時期を乗り切ることこそが、大切。
その嵐の最中に、「もしかしたらこの症状がずっと続くのでは・・・ッ、こわいから薬を飲もう」という気持ちに負けてしまいますと、せっかくの脱出チャンスを台無しにしてしまうことになりましょう。
嵐に見舞われている間は、とかく気持ちが沈んで(煩悩モードは怒り)判断力が鈍りますから、間違った決断をくだしてしまいがちなものであります。
それは「この嵐も耐え忍べばやがて終わる」ということを忘れてしまったがゆえの、失敗と申せましょう。
御子を健康体で出産されたいのでしたら、決然たる意志をもって再挑戦されることをお勧めいたします。
さて「本当は、飲みたいのかなー、飲みたくないのかなー」ということを、頭の中であれこれ考えますのは、あいにく、的外れであります。
「飲みたい」という依存心も、身体のためや出産のためを考えて「飲みたくない」という気持ちも、どちらも心の中にあるのです。
ですからそれらのうちの、どちらかだけが本当の気持ちというわけではありません。
心の中の反応パターンにしたがって、「飲みたいッ」というほうが優勢になったり「飲みたくないッ」というほうが優勢になったり、日々コロコロと入れ替わっていることでしょう。
そのリアルな感情の入れ替わりをこそ、客観視するのが大切なことであります。
また、「自分はずっと薬を手放せないのでは・・・」という暗い気分(その煩悩モードも怒り)になってしまいますと、「自分は薬が手放せない」という暗示をかけることになりますから、気をつけましょう。
「手放せないのでは・・・」というネガティブな思考が回転しそうになるたびに「怒り、怒り、怒り、怒り、自分は怒っている」と念じて思考をストップする習慣をつけてみては如何でしょうか。
Q:初めておたよりします。『煩悩リセット稽古帖』を読ませていただきいままで、自分がこんがらがってわからなかったことがほどけていくようで何回も読ませていただいています。
私は、ココロがさみしいとか、介護や、仕事、さまざまなストレス、それにココロの電池切れのときに、買い物依存症になってしまいます。しかも、ダイヤモンドです!!
いくらお金をつかったかしれません。でも、この本を読んでココロのからくりがすこしずつわかってきて、なんで、こんなにダイヤモンドに執着するのか気がついてきました。
これからは、執着からはなれていけたらいいなとおもいます。アドバイスがいただけだら幸いです。
A:ダイヤモンドを買いたいという気分になるとき、頭は「これが私の本当に欲しいもの。これを手に入れたら幸せになれるはずッ」と思い込んでおられることでしょう。
しかしながら実際は、単にストレスが溜まっていますのを、「散財する」という強烈な刺激(それもストレスなのですけれども)を与えることによって、ごまかそうとしているだけなのです。
それゆえ、ダイヤモンドが欲しくなりそうなたびに「苦から欲望がわいてるだけ、苦から欲望がわいてるだけ、苦から欲望がわいてるだけ・・・」などと心の中で念じ、そこに発生している欲望の煩悩を客観化することをお勧めいたしましょう。
元気な平常時に拙著を読んで「なるほど」と納得していただきますことよりも重要なのは、実際に元気がなくなってストレスにより欲望がわいてきそうな時にこそ、その欲望を現行犯で観察して自分自身を乗り越えることでありましょう。
またダイヤモンドは一応、多くの人が欲しがるからこそ高価です。
そしてそれを手に入れることは、「皆が欲しがる貴重なものを手に入れることのできる、この貴重な自分ッ」という錯覚を作ることができるでしょう。
なぜこのような錯覚が欲しくなるかと申しますなら、実際の自分自身が惨めで、まったく自分のことを「貴重」だとは思えないからであります。
このカラクリを見抜いていただいて、まずはストレスの元凶を減らし幸福感ある日々を送ろうと決意されることが賢明と申せましょう。
そして、ストレスの最大の元凶は、「怒り」の煩悩です。それを、日々溜め込んでおられるようですけれども、介護にせよ仕事にせよ、反発の煩悩モードでストレスを感じながらではなく、いっそ楽しんでしまえるように工夫をしてみることをお勧めいたします。
Q:はじめまして。「偽善入門」を拝読して、こちらに伺いました。
早速なのですが、嫌だなあと思うことはだめなことでしょうか?
私は結婚して3年めの主婦です。夫の家族と同居しています。
その家族がとても大きな喧嘩をするのです。
私の実家では小さな兄弟げんかはありましたが、数少ないもので、本当にめったにないことでしたので、大声で本気でどなりあう大人を初めて見て、鳥肌がたちそうなほど恐ろしいと思いました。
どなりあった家族たち(夫や義母)は喧嘩の後はけろっとしてすっきりした顔で笑っていますが、あんなにひどい罵りの言葉を叫んでいたのに、と、私はそれが私にもいつか及ぶのではないかと、こわくて仕方ないのです。
喧嘩の原因も本当にささいなことで、たまたま疲れていて、というタイミングで引き起こされるので、ガス抜きと当人たちは解釈しているようですが、でも私には理解できません。
喧嘩はよくないと諭すような立場ではないと思いますし、無理だと思っています。ただ、家族のことを、こわい、いやだと思わないようにするというのは、ひどい喧嘩を認めることになるのではないかと、納得いかないのです。コミュニケーションにしてはひどい、と、思う有り様なのです。
どういった心持ちで家族に接していけばよいのでしょうか。ご教示願えれば幸いです。
A:貴女は、周囲の人たちが「怒り」の業に操られているのに対して、「嫌だなあ」という怒りの業によってリアクションしてしまっている模様であります。
そしてそれが「だめ」かと問われますのに対してシンプルにお答え申し上げますと、「だめ」なことではありません。
神様や他人が「だめ」といって禁止してくれれば楽なのですけれども、あいにく、心の法則はそのようにはできていません。
すなわち「嫌だなあ」と感じるようにするか、あるいは心を律してそういったネガティブな感情に流されないようにするかは、完全に本人の自由なのであります。
ただし、「嫌だなあ」と思うことによって(その煩悩モードは怒り)貴女自身の苦しみが増えることは、知っておくとよろしいでしょう。
そうやって、「嫌だなあ」と心の中でリアクションすることで怒りの業を増やしていってしまいますと、その怒りの業ゆえに相手を刺激して、本当に罵りや攻撃のターゲットにされてしまうことにもなりかねません。
また、ご家族が暴力的な言葉を吐いた瞬間にスッキリした表情になれているのは、気のせいです。
心の表面はスッキリしたようでいて、潜在意識には相手を否定する怒りのエネルギーが染み付きます。
そのエネルギーゆえに、さらに不快になりやすい性格になり、いつもイライラとした日々を過ごすはめになっているのです。
そのような背景をかんがみられますなら、「嫌だなあ」という誰の役にも立たぬ感情を抱え込むよりも、ずっと好ましい感情が湧いて来はいたしませんでしょうか。
すなわち、「おやまあ、なんて可哀想な姿なのでしょう、よしよし」という、慰めてあげたくなるような、感情。
「慈悲」のうち、「悲」の感情にあたるこの感情を育んでみられては如何でしょう。
彼らが怒りの業ゆえにいつも苦痛を味わっている状況に思いを馳せながら、目をつむって繰り返し唱えてみることをお勧めいたします。
「苦悩なからんことを、苦悩なからんことを、苦悩なからんことを・・・」と。
ひたすら繰り返し唱えているうちに、「苦悩がなくなるように」という優しい言葉以外のことを考える余裕がなくなります。
その同情心によって「嫌だようッ」という怒りの業を解きほぐしましたら、ご親族にも不自然でない、優しい言葉をかけて差し上げられるでしょう。
それが、彼らの凍り付いた心を少しなりとも溶かす方向に役立ちもすることが、慈悲の心を育みますための励みともなりましょう。
Q:いつもHPを楽しく読ませてもらっています。つい最近、『自分から自由になる 沈黙入門』を拝見し、とってもためになりました。小池さん独特の文章が面白くて大好きです。
唐突ですが、相談させていただきます。
わたしは大学生です。最近、朝起きれなくて困っています。
7時前には目が覚めるのですが、つい二度寝してしまいます。
そしてまた9時頃、目が覚めるのですが、「あぁ、また早起きできなかった・・・」と、自分にがっかりしてふて寝してしまいます。
そしていつのまにか11時頃になってしまい、そうなると「私はなんてダメ人間なんだろう」と起きるのが嫌になってしまいます。結局起きるのは12時前です。アホか!ってかんじです。
別にベッドが居心地いいわけではなく、本当はさっさと起きたいのに、意志が弱くて起きれません。
ベッドから出ると寒いし。。。でもベッドにいつまでもいると暑いし。。。頭がぼーっとしてくるし。早起きしたほうが、ぜったいに身も心も爽やかになれるのに。。。
と、思いつつ、早起きできません。こんなだらしない質問をして呆れられるかもしれませんが、もしお時間があれば、お答えしていただきたいです。
A:いやはや久しぶりに、相談メイルを拝見していてアッハと愉快に笑わせていただきました。
ベッドから脱出するためには、その場で意識が混濁してしまいそうになりますのを、「シャッキーッン」とばかりに明晰にすることが秘訣となります。
(眠りの煩悩モードは、「迷い」)
具体的方法としては「いま自分の心が何を考えているか」をチェックいたしますと、心の状態が客観化されることによって、頭が冴えてきます。
そのためには心の状態を言葉に表現して、念じ唱えるとよろしいでしょう。
「もっと眠っていたい」と思っているのに気づいたらすかさず「もっと眠っていたいと思っている、もっと眠っていたいと思っている、もっと眠っていたいと思っている」
あるいは「欲、欲、欲」と、心の中で唱えてみましょう。
「でも寒いのが嫌だな」と思っているの気づいたらすかさず「寒いのが嫌だと思っている、寒いのが嫌だと思っている、寒いのが嫌だと思っている」ないし「怒り、怒り、怒り」と念じますこと。
「あー、二度寝しちゃう私なんて最低ッ」とプライドが傷ついているのに気づいたらすかさず「プライドが傷ついてる、プライドが傷ついてる、プライドが傷ついてる」ないし「慢、慢、慢」と念じますこと。
居合い切りのようにすかさず、感情がわいてきました瞬間にズバッと念じることができましたら、意識が非常に明晰になってスッと目が覚めることでしょう。
Q:相談させて下さい。
私は、うつ病がある程度回復して、ドクターからお薬をやめてみようと言われました。あとは、自分の力で回復に向けてやっていくという事なのです。
ですが、夜型の生活リズムに変わってしまったり、何もしたくなくなったり、継続力がない事、何かをしたあと休まないでいられない事など…。しんどいと感じます。社会で生きていくために、できなくちゃいけない事ができません。
薬をやめることによって、これまで薬に頼ってごまかしてきた問題に直面せざるを得なくなりますのは、仕方のないことであります。
それどころか薬を常用することによって、神経系統の機能がダメージを受けているはずですから、そのダメージゆえの問題も出てくることでしょう。
しかしながら仰せのような問題は、永久に続くものではありません。
薬を止めたことにより出てくる一時的な問題のひとつひとつに、過剰に反応しないようにされるのが重要なことです。
その問題に「ああ生活リズムが変わってしまって・・・ッ、困ったよーッ」(煩悩モードは、怒り)とリアクションしてしまいますと、それにより心がこんがらがり、更に次の問題を引き起こすのですから。
大事なのは「これまで薬を飲んでたのだから、薬をやめたらこういう症状が出てくるのも当たり前」と、大したことのない当然の現象として症状を受け入れますこと。
そして「そしてこの苦痛もやがて、また過ぎ去る」ということを意識しながら一つ一つの問題に向かい合っていきますなら、少しずつ解決に向かうことでしょう。
Q:現在付き合っている人と、どうにも会話が、弾まないのですが、それは二人の相性がよくないということなのでしょうか。お互いに無関心だからなのでしょうか。
沈黙が心地の良いものであればよいのですが、私自身は、彼との沈黙のなかで安らぐことができません。寧ろ、苛々してきてしまいます。会話で通じ合えない相手と仲を深めるには、どうしたらよいのでしょうか・・・。
何か良い考え方がありましたら、教えていただきたいです。
A:いやはや、会話が弾まないうえに、黙って時間空間を共有して過ごしていてもイライラしてきてしまうようでしたら、「相性が悪いッ」ということの証拠としてあまりあるように思われます。
話しても疲れ、黙っていても疲れ、というのが現状なのですから。無意識的に、お互いのネガティブな煩悩が衝突しあって悪影響を与えあっている模様であります。
私たちは四六時中ぺらぺらと喋り続けていたら疲れてしまいますから、一緒に過ごす相手とは、「沈黙」を共有することの心地よさを感じられませんかぎりは長続きしないことでしょう。
たとえば朝起きたときや、夜眠るときなどに、話しはしないのだけれども側にいて、お互いが安らぐような。
ともあれ、「あれやこれやと会話をせずとも二人で一緒に取り組めること」を積極的に取り入れてゆくと良いのではないでしょうか。
発想が貧困で恐縮ですけれどもたとえば、スキーに行くとか川に泳ぎに行くとか山登りに行くとか映画に行くとか、そういったことであります。
「話すこと」ではなくって、「一緒に何かをすること」を繰り返して連帯感を生み出してゆくのがポイントかもしれません。
Q:先日は、お返事ありがとうございました。
おかげさまで、前よりも集中することができるようになってきました。見えないものがみえたりしてきました。
集中することを楽しくやっていたのですが、やってることをずーーーっと追っていたら、頭が混乱してきました。過剰にやりすぎているのでしょうか。
でも最初はつらいけど集中を続けていたら、たくさんの今まで見えなかったこと、ものが見えてきそうなので、がんばろうとおもいます。
A:今までずっと意識散漫なままに心の中で空想をし、心に刺激を与え続けることをしてこられましたことでしょう。
そうであるからには急にその刺激を断って「今ッ、ここッ、この瞬間ッ」に集中しようといたしますと、ある種の「禁断症状」のようなものが生じるかもしれません。
すなわち、心が今まで通り「ウワノソラになる」という刺激の麻薬を得られなくなりますため、イライラしはじめるかもしれません。
しかしながら、その不快感は現実にもとづいたものではなく、単に頭の中だけで「今までどおりが良いんだもんッ」という情報処理がおこなわれているだけのことです。
集中している状態のリアルな爽快感や充実感をしっかり感じとっておきますなら、「本当は集中していたほうがずっと心地よいッ」ということを心が覚えてくれますから、
やがて一時的な「禁断症状」も克服されることでしょう。
Q:引き続き恋愛の質問です。
前回のご回答や、他の方へのご回答を参考にしましたら、自身があまりにも不安定で、不幸せである事がありありと分かって参りました。かなり、がっびーーーーんっ!でした。
プライドごっこに陥っている自分を観察していて気付いたのですが、嫌な気持ちになった時、いつも彼のせいにしている自分がいます。メールの返事をくれないので悲しい気持ちにさせられている、丸一日連絡がないので不安にさせられてる、このわたくしがこんなに苦しいのはすべて彼のせいであーーーる!と。
慢の苦、と念じていても効き目がなかったのは、観察が充分でなかったからなのでしょうか?
この質問を書いて、具体的にどのように慢の業を燃やしていたのか明確になりましたら、幾分か楽になりました。ああ、そうそう、こう思っていたのですよ、と認識しますと、嘘みたいに楽になりました。
こんなやり方でよろしいのでしょうか?そして、次のステップはどのようなものになりますか?
A:ええ、「慢の苦」と言葉を唱えましても、そのとき心をありのままに観察したうえで実感がともなっていなければ、効果はありません。
裏を返しますと、言葉を唱えずとも業の仕組みを観察して、そこに発生している「苦」を「ガッビーッン」と実感できましたら、それだけで解きほぐされるのであります。
一度うまくいったからといって、「次のステップ」へ急ぐ必要はありません。「慢」の問題が一回だけ解決して楽になりましても、燃料がたくさん埋蔵されています以上は、
問題は繰り返し繰り返し発生するからです。
プライドを気にするがゆえに苦しむ煩悩が湧き上がってまいりますたびに、同様の手法で観察し撃ち落とす地道な作業の中にとどまっておられるとよろしいでしょう。
それを続けるうちに、自らの反応パターンが面白いほどよく分かるようになって参りますうえに、その反応パターンが徐々に組み変わってゆきますから。
Q:こんにちは。先日、犯罪被害にあった知人の相談を受け、やるせない気持ちになりました。
そこでふと疑問に思ったのですが、仏教では、犯罪の被害に遭うことについて、どうとらえているのでしょうか。無差別殺傷事件など、凄惨な事件もニュースで報じられますが、そういった犯罪の被害者も、「因果応報」なんでしょうか。ご返答よろしくお願いします。
A:ひとことで「因果応報」と申してしまいますとあまりにも不条理に聞こえてしまうでしょうけれども、ありとあらゆることは、自らの業が引き起こしていることです。
何の原因もありませんのに、天から降ってわいたようにして起こる現象は、なにひとつとして存在いたしません。
もしも無差別殺傷事件があったといたしましても、その被害にあった人たちが、どうしてそのとき、その場所に行こうと思ったのかを考えてみましょう。そこに「行きたい」「行かなければならない」と思う意志の原因は、過去の感情の積み重ねによって準備されています。そしてそのような意志の「準備」は、普通の認識レベルではまったく理解できない遥か昔からの業が積み重なり作られているのです。
自分自身が嫌な目にあったとき、この真理に逆らって「犯人のせいだ、許せないッ」と怒りの業を積みますと、それによって自らがさらに苦しくなり、更にいつか未来において不幸にあう原因を増やします。これが世俗的な感情の反応パターンです。
しかしながら、「自らが過去から積み上げてきた業の結果だから仕方ない、これでその報いを受けてマイナス分を支払ったうえで、これからは業をよくしていきませーう」と明るい心持ちを持ちましたら、犯罪にあったことにクヨクヨ悩まなくて済みますから、風通しよく生きてゆくことがかないます。
ただし因果応報の法則性は瞑想をしないかぎり体験できませんから、体験していない人に対して「因果応報ですから」と言っても、実感もわきませんし、意味のないことです。犯罪被害にあった人の相談にのらねばなりませんときには、「因果応報」などという言葉は忘れて、相手の話に耳を傾けて差し上げるのが一番のことと申せましょう。
Q:朝起きるのが苦手です。特に月曜の朝は苦手です。休みの日は早起きできるんですけど、仕事のある日の朝は起きるのに一苦労です。
やっぱり会社が嫌だってことなんでしょうか...朝気持ちよく起きられる方法を教えてください。よろしくお願いします。
A:ご明察のとおり、会社や仕事について「嫌ッ」という怒りの煩悩が日々刺激されているため、朝起きることができぬ状況のように拝察されます。これについては、仕事についての怒りの煩悩を解消しませんかぎりは、なかなかどうにもならぬことでしょう。
肝臓・腎臓などの解毒系の内蔵が疲弊しているほど、睡眠時間が長くなり朝起きられなくなるものです。内蔵に負担をかけぬよう就寝三時間(できれば四時間)以内には、水も含めて何も飲食しないようにされると、ある程度起きやすくなるでしょう。
Q:お答えを読ませて頂くと仏教の奥深さに触れられ、自分の欲深さを痛感させられます。
男性の悩まされる欲で、性欲があります。私も男性であるゆえ、性欲の快楽の面に負け、妻がいるのに、他の女性と関係を求めたいという欲望に負けてしまうことがあります。
性欲とは男性にとって悪なのでしょうか? それを抑えるにはどのような方法があるのでしょうか。お教えください。
A:確かに、制御するのは難しいものです。しかしながらそこで得られる「快楽」とは、厳密に観察すると存在しないのだということを知っておくと、いくぶん性欲を相対化できることでしょう。実際は、摩擦される皮膚部分を通じて痛みの神経パルスが脳へと向かって送られており、その痛みの神経パルスを脳が「快楽」として解釈しているだけのことなのです。
ともあれ、性欲そのものが悪というよりは、それをどのように使うかということが重要となることでしょう。
複数人数に対する場当たり的な性欲は、自らの心を混乱させるうえに人間関係を破壊しますから「悪」となりますけれども、一人の相手に対する性欲には問題がありません。かえって、互いの愛情を深めることにも用いることができるのですから。
性行為を「自身の性欲を満たすもの」という観点から離れて「相手を気持ちよくさせるついでに、自らも気持ちよくなるもの」という観点からとらえなおしてみてはいかがでしょうか。そのような心持ちによって奥方に接せられますなら、これまで見落としていた彼女の別の魅力も見いだすことができるようになるはずです。
また、私がこれまで観察する範囲におきまして性欲が必要以上に高まるのは、ストレス状況下にあるときです。その意味では、普段の生活を「イライラッ」と怒りの業をつくることなく充実して過ごせるように心がけますことが、過剰な性欲を抑制することにつながることでしょう。
Q:先日、中学生の娘が遺伝性の心臓疾患の疑いありとの診断を受けました。
家族にこのような病気になった経験者はおらず、今後どのように支えてあげればいいのかよいのか迷っております。先々運動制限や進路・結婚にも影響がありそうです。
「この子にはあの未来はないのかもしれない。」とか、「せいぜい貯金だけでもしてやなねば」など、気を抜くと、色んな考えで頭の中が一杯になります。
元々おっとりした子なので、以前と変わらず元気にいたしておりますが、何かの拍子に不安な素振りを見せます。
このような場合における、本人を支える上での周りのもの心得がございましたらアドバイスいただきたくよろしくお願いいたします。
A:親が心配して緊張している状態が、子供にも無意識的に緊張感や不安感を伝染させますから、まずはそれを取り除くよう心がけられるとよろしいでしょう。
貴女の頭の中では「心配してあげたほうが良いこと。だって可哀想だものッ」という前提で思考が回転しているのだと拝察いたします。その「可哀想」は相手に対する思いやりと申しますよりも、緊張に満ちた執着(業のモードは怒り)になってしまっているかもしれません。
それが執着にもとづいていますなら、その感情によって御自身がつらく苦しくなっているはずです。実際に生じているのは「つらく苦しく相手にも不安を与える」ことでありますのに、頭はそのネガティブな刺激を「良いこと」と解釈してしまうのです。ですから、頭に騙されてしまいませんように。
「身体の一部の機能がおかしくなるくらいのことは、生き物である以上当たり前に起こることに過ぎないよね」と、まずは御子の病状を受け入れてあげますこと。それを受け入れたうえで、心を波立たせずにただ優しく接して差し上げますことが、親族にできる一番のことと申せましょう。
Q:私は、大切な仕事や行事などが近付くと、「体調が悪くなるのではないか。」と心配になってしまいます。
そして、受験や、出張など、大切な行事の数日前から本当に体調が悪くなってしまうのです。
「沈黙入門」を読ませていただき、それが、「体調を整えて、大切な行事をうまくこなしたい。」という欲望のためであることや、「体調が悪くなるのではないか」という不安から来る「迷い」が原因であることが分かったのですが・・・。原因が分かっただけでは、なかなか改善することができず、うまくいきません。
そのような問題を解決するために、坐禅をしてみたくご指導を仰ぎたいのですが、なにぶんそちらから遠方に住んでいるため、指導を受けることができません。
アドバイスいただけたら、幸いです。
A:頭で分かっただけでは改善できないと仰せでありますのは賢明な洞察です。「いざ大切なとき」には、30分程度なりとも坐禅をして煩悩を静めてから臨みますなら問題は解消できましょう。
それでは回答として素っ気なさすぎましょうから、平素の心構えを申し上げましょう。
なぜそういう思考を止めたいはずなのに止められないのかと申しますと、常日頃から欲や怒りによって心を締め付ける習慣ができてしまっているからです。
と申しますのは、ふだんから、さまざまな欲や怒りの煩悩をつくっておりますと、欲や怒りが心の表面で習慣化し、回転し続ける状態が作られてしまいます。
その状態で「いざ大切なとき」に直面いたしますと、もともと活性化していた欲や怒りのエネルギーが、「うまくしなきゃ」という緊張感(カルマ;欲)や、「体調が悪くなったらどうしよう」という不安(カルマ:怒)という形を取って現れるのです。
その状態で、いざ大切なときだけ「よーし、煩悩の回転を止めてみませーう」と思ってみましたところで、簡単には止まりません。
ふだんから習慣になって勢いをつけてしまっている以上は、止めにくいのです。
ゆえに大切なのは、「いざ大切なとき」に心が欲や怒りにブレてしまわぬためにも、普段のなにげない一瞬一瞬を、煩悩に巻き込まれずに丁寧に過ごしていることと申せましょう。
Q:こんにちは。ご著書を読ませていただきとても勉強になりました。ありがとうございます。
相談ごとなのですが、私は飲み会などに参加しようかどうかでいつも迷いしんどくなってしまいます。
職場の人や友達との集まりに参加しても楽しくないのです。
私自身に原因があるのかもしれないと思い、克服するために参加しようかと悩みます。友達を大切にしたいという気持ちや、仕事をスムーズに進めるために職場の人たちと仲良くしたいと思って迷います。
どのような心の状態なのでしょうか。よろしくお願いいたします。
A:本当は「楽しくないッ、他人にあわせたくないッ! なんで私が汝らにあわせねばならぬのだー・・・ッ」と拒絶したい怒りの煩悩が心を占領しているのです。
しかしながら時として、その怒りの煩悩と入れ替わるようにして「仲良くせねばッ、良い自分を演じて仕事をスムーズにせねばッ」という欲の煩悩が顔を出しているため、二つの間で混乱している状態と申せましょう。
怒りと欲の間で、心の裏表がせわしなくクルクルと入れ替わっていますから、さぞかし疲れることでしょう。
また「仲良くしなければならないッ」というような欲望の緊張感がありますと、その煩悩の持つ波動がまわりに伝わり、周りにもいくぶんかの緊張を強いることとなります。
それによって他の人々がリラックスできなくなり貴方に対して楽しそうに振る舞わなくなりますから、それを見て貴方が「楽しくない」と感じている、というのが実状ではないでしょうか。
以上を前提にいたしまして、二つのことを申しましょう。一つは、「友達を大切にする」ためにはわざわざ飲み会などという場に参加しなくとも、ふだん一人一人と丁寧に接していれば大切にできるということです。
裏を返しますと、世間ではふだん友人関係を大切にしていないからこそ、飲み会などといういい加減な場で酔っぱらって「仲の良いフリ」を演出するハメにもなっているように思われます。
もう一つは、飲み会に参加するなら参加するで「仕事をスムーズにせねばッ」というような緊張感をときほぐすようにいたしますこと。
そこに欲望の煩悩があることを見つめながら「欲、欲、欲、欲・・・」と念じていましたら、ときほぐれてゆくことでしょう。
Q:人が怖くてたまりません。一緒にいるだけで緊張で頭が真っ白になるし、頭の芯が痺れてどもらないようにするので精一杯で、もう、中年にさしかかる年というのに、旧友以外とはまともな交流ができません。。。
多分、幼少期のいじめ(親族、親などから)が原因なのでは・・・と思っているのですが、出来事ををまったく実感として覚えていないのです。
幼稚園の頃、なんで生まれてきちゃったんだろう・・・と心の底から思ったことと、何か(多分記憶?)を箱に入れてしっかり埋めたイメージは覚えています。
それを思い出して、多分大量に詰まっている悲しみや怒り、を実感できれば、治るのでは、と思っていて、それが禅で可能なのでは・・・と考えているのです。
もしくは、もう、過去のこととして意識を向けないほうが良いのか、、、禅の捉え方がヨコシマすぎるのか・・・
座禅をするようになってから、会話に集中!するように心がけるようになり、以前よりも逃げ出したい!ような恐怖は薄れてきたように思います。
ですが、手付かずの、ものすごい量の怒りがあるような気がして、これに集中していった方がいいのか・・・と迷っています。アドバイスを頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。
A:まずは、「会話に集中!」を通じて恐怖感が薄れてきているという現実のほうにこそ、目を向けることがよろしいでしょう。
怒りを見つめて対処いたしますのは、怒りが「今、ここ、この瞬間」において自らの心のなかに湧き上がってくる時のみに、とどめなければなりません。
心に溜め込まれました怒りの業は、こちらから探しに出かけたら見つかるような性質のものではないからです。
申し換えますと、「探さなきゃッ」と力みますと、その力みのために、集中力も観察力も失われてしまい心の観察ができなくなってしまいます。
「潜在意識の中にたくさん怒りの業があるにちがいないッ」と探しに出かけますのは、「今、目の前」に現れてきていないものについて考えを堂々巡りさせることになってしまうことでしょう。
瞑想を深め集中力と観察力を高めていきましたらやがてあるとき、こちらからわざわざ探さなくとも、心の奥底に隠されて見えなくなっていたものは、見えてまいります。
そうしてはじめて、一つ一つ、過去の結び目をときほぐしてゆくことも叶うことでしょう。
Q:私の母親の相談なのですが昨年母親の母親、私にとったら祖母が他界し今現在母の家に遺骨を置いてあるのですが祖母は2男1女、産んでいて私の母は末っ子の長女で兄2人は祖母が亡くなる前に他界していまして、祖母が入る予定のお墓には次男が先に入っていて長男はお嫁さんが勝手に違うお墓を建て、そちらに1人入っていて、しかも宗派が違うのです。
長男は全く墓守りする気がなく次男のお嫁さんも自分の旦那が入ってる墓にもかかわらず自分が生きてる間はみるが自分が亡くなったら(子が女1人いてる)娘にまで墓守りしろとは言えないと言うのです。
私の母親は嫁いでる身なので今の状況を嘆いています。毎日怒りが治まらないみたいで夜、早く目が覚めて(夜中3時)の生活をずっと続けています。それと、もう親戚とは付き合わないと言っています。でも親戚を集めて話し合いをするべきでしょうか?本来なら長男が見るべきですよね。
A:誰がお墓をみるべきかは、私にはわかりません。墓を守りたい人がいないなら、「守るべき」と思っている人がみるとよいのではないでしょうか。
「あの人がお墓をみるべきなのにッ」と思って心の中でいつまでも、怒りの業という名の悪を積みつづけますくらいなら、自らすすんで守るほうがよっぽど健全と申せましょう。
ちなみに墓を守るというのは、本来の仏道とはなんの関係もありません。お墓を放置したからといって何の業にもなりませんから、もしも気にせずにすむなら気にしなくても良いものなのです。
もともとは、墓とか骨を大切にする習慣は儒教のものでありまして、仏道が宗教化するなかで、それを取り入れてしまったのです。
仏道の立場からいたしますと、墓というのはただの石材です。
その中に入っている骨も、ただの物体です。それを大事に保存しようとするのは迷信や執着にすぎませんけれども、世の中にそれを墓や骨を大切にしている人がいるなら、それはそれで尊重して放っておいてあげましょう、というくらいが仏道のスタンスであります。
Q:自分濃度の濃い俗世でも穏やかに暮らす精神力を鍛えるにはどうしたらよいでしょうか。小池さんのご著作を勉強するにしても、禅の思想を広める本を読むにしても、結局、実践の中では不合理のなかで心をいためてしまいま。
小さな子供を連れて、出家して禅寺に入り修行するということは仏門界ではできませんでしょうか?
それとも、やはりこの環境こそ天の与えたもうたる試練と、日々をなんとか暮らしていくしかないのでしょうか。
愚かな質問、失礼とは存じますが、どうかお教えをいただきたく存じます。
A:ご質問の二者択一は、あいにくどちらも正解とは申せせん。
一つには、いま自ら身をおいている環境から逃げるために修行することは、お勧めできません。
二つには、いま現在の状況は、「天の与えた」運命ではありません。
現在の状況を招いたのは、自らが過去に「心で考えたこと、言葉で話したこと、行動したこと」によって積み重ねられたエネルギー(カルマ)なのですから。
そして自分自身の心に溜めこんできたものの報いを受けるにあたって、それを拒絶しようとすればするほど、新たな負のエネルギーを溜めこみ自らが醜くなることを、恐れ恥じるとよろしいでしょう。
また、仏道の本だけ「お勉強」されて頭で理解したつもりになりましても、たいして役に立ちません。
心を向上させるお稽古たる瞑想は、なにも出家しなくとも、できるものです。嫌な人と同居していても、うるさい音楽がかかっていても、子供が泣いていても、どこでも、いつでもできるものなのですから。
ですから、自らの業の招いたものから逃げ出すことなく、「いまいる、この場所」で瞑想に挑戦されてみてはいかがでしょうか。
Q:今に集中とあまりにも、思っていると、煩悩を使っているような気分になるのですが。。。
今に集中という言葉に集中してしまいます。これも続けていけば、今に集中できるのでしょうか。
それとも、スケッチでもして、目の前のものに煩悩を使わずできることから始めたほうが、今を生きるということができるようになる
のでしょうか。
A:「今に集中しなければ」と頭の中で考えること自体が雑念ですから、それによって「今やっていること」から心が離れ、おろそかになる道理です。
以下のことを気をつけて生活してみてください、「今この瞬間」に集中しやすくなり一日の充実度が変わってくることでしょう。
一つ一つの動作を乱雑におこなわず、丁寧におこないますこと。そしてその一つ一つをおこなう際に、心の中で「今、何をしているのか」を念じますこと。
歩いているときは心の中で「歩いている、歩いている、歩いている、歩いている・・・」と絶えず唱えながら歩く。
人の話を聴いていて意識がそれそうになったら心の中で「聴いている、聴いている、聴いている、聴いている・・・」と唱えて、聴くことに集中しなおす。
料理をしているときは考えごとに逃げてしまわぬよう、包丁で切る際には「切る、切る、切る、切る・・・」、食材を洗うときは「洗う、洗う、洗う、洗う・・・」等ととなえる。
焦っているときは「焦っている、焦っている、焦っている、焦っている」と唱える。
最初は難しく感じられるかもしれませんけれども、繰り返し挑戦していましたら、やがて言葉を唱えてなくても集中できるようになるでしょう。
Q:最近別れました。恋愛をこの先するにあたって、自分を見失いたくないです。
恋愛となると、友達のように楽しくできません。
不安になったり、求めたくなります。腹7分目で付き合うことが大事なのでしょうか?
A:なぜ友達とは楽しくできるかと申しますなら、友達に対しては過剰な欲望によって求めるということをしないから、です。
では、なぜ恋人に対しては欲望によって過剰にもたれかかりたくなってしまうのかを考えてみましょう。
答えはシンプルなことで、御自身の心が不安定かつ、不幸せだからです。
その不安定さや不幸せを「恋人から愛してもらって埋めたいよーう・・・ッ」とう衝動に支配されてしまいがちです。
つまり、今がハッピーではありませんから、恋愛をすることでハッピーになろうとする欲望が生じます。
しかしながら恐らくはご経験されましたように、そのような衝動で恋愛をすると自分自身が求めてばかりで惨めなばかりでなく、相手にも負担をかけて共倒れになることでしょう。
ですから、まともな恋愛をするためにはまず、自分自身が穏やかに安定した心持ちを作っていなければなりません。
申し換えますと、「恋愛によってハッピーになろう」とする姿勢は重苦しく、失敗しがちです。
反対に、あらかじめ自分自身が穏やか、つまりハッピーになったうえで恋愛をすると、相手にしがみつくことがありませんからお互いを思い遣りやすくもなります。
今回、別れてしまわれ一人になったこの間こそ、御自身の心を穏やかで安定したものへとトレーニングして心の基礎体力をつくる期間とされるとよろしいでしょう。
Q:こんにちは!相談させてください。
7ヶ月の子供がアトピーと診断され、外出先で赤ちゃんを見るたび、肌を比較しては羨ましいと思ってしまいます。
人に肌のことをどう思われているか心配で、指摘されないか緊張しています。
妊娠中、私自身も体中にできた湿疹で大変な思いをしたことや、薬を使うことへの不安、アトピーに関するさまざまな情報などで、心が緊張しています。不安・苛立ちや怒り、プライドといった感情が強いと思います。負けず嫌いな性格も、人と比較する原因だと思います。
(今こうやって文章を書いていて気がつきましたが、子供の心配ではなく、自分のことばかりですね・・・!)
心を観察し、瞑想にも取り組もうと思っているのですが、こんなときは、どんな風に念じたらよいでしょうか。レシピを教えてください。是非、お願いします!!
A:御自身で「子供の心配ではなく、自分のことばかり」と気づかれましたのは、たいへん賢明なことです。
子供の心配をされているのではなく、実は「自分の」子供がキレイでないことが嫌ッ! となってしまっているだけなのです。
申し換えますと、自分の所有物が、他人の所有物とくらべて好ましくない状態を恥ずかしく思われている、ということ。
そのような感情にとらわれて御子に接しておられますと、必ずや御子も「あ・・・、この人は愛情がないんだな」ということを敏感に感じ取ってしまいますから、何一つ、良いことはありません。
他の人と比較して自己イメージにこだわる結果として、御自身を緊張させて苦しめ、それによって御子にも負の影響を与えてしまっておられる、この状況。
それを念じますためのレシピは、以下のようになりましょう。
御自身をストレスフルな緊張へと追いやっている原因は、プライド=慢の煩悩。ゆえに「慢の苦、慢の苦、慢の苦、慢の苦・・・」このように繰り返して念じながら見つめてみますこと。
また、子供の皮膚病の原因の大部分は、母体が出産にいたるまでの食生活で蓄積された有害物質が羊水に濃縮された結果、子供に受け渡されることによって生じるものです。
御自身のこれまでの生活ゆえに御子を皮膚病にしてしまったことを省みましたら、せめてもの罪滅ぼしに慈しの感情で接してあげよう、といった明るい心持ちになれるのではないでしょうか。
Q:兄弟からローンの保証人になるように頼まれました。私は引き受けたくありませんが、金銭の損得に執着して、人助けをしないのは、悪いことでしょうか?
A:「良い」「悪い」という漠然とした言葉を離れて、心の法則にのっとって考えてみましょう。
「兄弟がローンをちゃんと返さずに、自分に借金がまわってきたら・・・」と頭の中でイメージしたうえで、そのイメージを拒否する、という拒絶反応が生じているのです。
そのことを考えますたびに、拒否反応によって排除しようとする怒りのカルマが心の中で増えてゆくことでしょう。
仏道では、「ケチ」という煩悩を、このように怒りのカルマによって自らの心を破壊するものとして厳密に定義しているのです。
それにより心に汚染されたエネルギーが蓄積されますから、後になってから必ず報いを受けるはめになります。
ただし、保証人になって差し上げたからといって「やっぱり保証人にならなければよかった」と思い続けるようでしたら、それも怒りカルマを増やす思考に他なりません。
「ケチ」の煩悩におちいるにせよ「後悔」の煩悩におちいるにせよ、どちらにせよ怒りの思考パターンを増幅させてしまいます。
そういう観点からいたしますと、保証人になって差し上げるにせよお断りになるにせよ、心の中がビクビクしたりイライラしたりしていないようにしていることこそが、最重要なことのように思われます。
Q:恋愛について、具体的な質問です。
今の彼と出会った時は、彼には恋人がいたので、浮気の形でお付き合いをしていました。が、続けられずに何とか清算をしまして、2年後に恋人と別れて改めて告白され付き合う事となりました。
ところが、浮気期間の記憶が強く残っているので、不信感が消えません。今は、元恋人に未練があるんじゃないか?と、不信感が募ります。この頃は特にです。大分、頻繁に会うようになり、馴れ合ってきた頃です。
当然の報い、でしょうか。
どのように向き合い、まだ私が気付けていない煩悩がありましたらご指摘ください。
今のところ、彼といる中で、元恋人のなごりを見つけ、胸が苦しくなる度に「これは当然の報いだ」と考えたり、なるべく今現在一緒にいる事へ意識を持っていくようにはしています。しかし、かなり綱渡りのように、いつネガティブなループへ足を滑らせてもおかしくない感じです。
A:煩悩のタイプで申しますなら、プライドごっこの煩悩に引っかかってしまっているのです。
「汝は『ワタクシの彼氏」という名の所有物なのだから、心の底からワタクシだけを見ているべきであーッる。
にもかかわらず、前の彼女に未練を残しているなんてプライドが許しませんわ・・・ッ、キィィーッ」
このような風合いに、自己イメージが傷ついているのではないでしょうか。
結局のところ、こういった思考回路に陥ってしまいますと、相手のことを好きなのではなくて、ただ単に自分のプライドのことが好きなだけ、ということになってしまいます。
それが相手にも伝われば、嫌な感じの圧迫感を与えることにもなりましょう。
そういうわけですから、彼への気持ちを大切にされたいのでありましたら、未練くらい持たせておいてあげてはいかがでしょうか。
彼の未練や元恋人の存在そのものも、恋愛の調味料として楽しんでしまうくらいの余裕を持てますなら、とても楽になるはずです。
そのためには、「プライドごっこ」に陥っている御自身の心を観察して、解きほぐしますこと。
そうすればまた、彼も貴女からの圧迫感を感じずにすみますから、お互いが今よりもハッピーに過ごせるようになることでしょう。
Q:現在、結婚7年目、幼児1人、赤ちゃん1人の40代の父親です。
一昨年の夏に侵した重大な罪に悩んでおります。
それは元の彼女と姦淫してしまったことです。10年前、元の彼女が他の男の子供妊娠して別れたのです。そのためか心のどこかに元の彼女への思いが残っていて、ついつい連絡を取ってしまい、再会して肉欲負けてしまいました。
その後もメールのやり取りが続いて、今でも彼女への思いが断ち切れません。しかし、元の彼女は私の思いが重荷になると同時に自分の家庭、特に子供への思いが、私と一線を置きたいと決心しております。
でも私はどうしても彼女の事が諦められません。どうすれば気持ちを彼女から解放せるのでしょうか?自分が愚かで醜いと思ってるのですが、自分にけじめがつけられません。
A:今の御自身およびご家族を不幸せにしてしまうと分かっていながらも、なぜに昔の彼女へと心がへばりついてしまうのかを洞察しなければなりません。心に、貴方の意志とは無関係に煩悩エネルギーの呪縛がはたらいていて、不幸になる刺激を追い求めさせているのです。
その煩悩エネルギーを、ごく簡単にのみ分析してみましょう。欲望の煩悩とはどのようなときにもっとも刺激されるかと申しますなら「手に入れたかったのに手に入らなかったよーッ、悔しいィィィィイィィーッ」というときです。
とりわけ貴方の場合、彼女が別の男性との間に御子を授かることによって別れたというショッキングな出来事をきっかけとしているだけに、プライドが傷つく度合いと、「手に入らなかった・・・、だからこそ欲しいッ!」という欲望が刷り込まれる度合いが、強かっただけなのです。
いくぶん滑稽なたとえを持ち出しましょう。私たち男性が、高校生男子だったときに女の子たちとうまくつきあえなかった場合、実は似たことが起こります。その頃の「欲しいのに手に入らないッ」という悔しさゆえに、強烈な執着が生み出されてしまいますと大人になってからも高校生に魅力を感じるようになったり、場合によってはそのころの女子が着ていた制服が好きになったりもいたします。
このような、昔の悔しさを挽回したいだけの、プライド煩悩に汚染されてしまっているだけだというのは、貴方御自身が薄々ながらも、お分かりなのではないでしょうか。御自身の心の中をのぞきこんで、この欲望とプライド=慢の煩悩を注意深く観察くださいますなら、やがて抑制できぬ煩悩がしずまってゆくことでしょう。
そうしてはじめて、彼女のためにもご家族のためにも好ましい、クールな意志制御ができるようになるはずです。
Q:ご相談は、このごろ新たにシューティングの対象として浮上している私の「結婚」のことなのですが・・・。
2009年に29歳になります。ずっと前から29歳までには結婚したいと、強く思ってきました。29というのは、身体的に子どもを20代で産みたいというのと、なんとなく急かされている感じと両方あります。
6年もお付き合いしている人がありますが、ずっと同棲しているためなあなあになっている、わたしの中にこの人でいいのか・・・?という迷いがこのごろある、相手に望まれて決めたいという欲がある、出産・子育てについて経済的不安がある、思いつくものはどれもあるように思います。(相手の方はわたしが29までに結婚したいということは何年も前から承知です。)
29歳で結婚しなければならないっという強い思いに対して、いまのお付き合いについて、いったいどのように見つめたらよいのでしょうか?また、この場合もひとつひとつ見つめることが最良の道行なのでしょうか?
恋愛に関するご本は2009年初旬発売予定、と「家出書店」で目にいたしました。2009年じゃ、29歳になっちゃうっ、この本を待っていたら間に合わないっ、などとあせっております。
A:仰せになられているポイントを、順番に解析してみることといたしましょう。
「29歳までに結婚したいっ」
実はそこには、相手が欠けています。「29歳までに○○と結婚する」という穴が開いていて、その「○○」のところに相手を埋め込むといったニュアンスが伴ってしまいますから、相手は嬉しい気持ちにはならないでしょう。
「僕自身を見てくれてないじゃないかッ」とひそかに相手のプライド煩悩を刺激して、不愉快にさせる要素にもなりえるのです。
「なあなあになっている」
お互いのことに慣れてしまいなあなあになっているというのは、申し替えますなら相手への興味を失う無知の煩悩によって、飽きてしまっているということです。
それは、集中力と注意深さにより改まった心持ちになりさえいたしますなら、いつでも突破することができます。
新鮮な気持ちで改まった場を設け、結婚について語らってみられてはいかがでしょうか。
「この人でいいのかという迷い」
迷っている以上は、永久にハッピーにはなれません。そのようにして自らが迷いに迷っている有り様を直視しつつ、やがてどちらかに決断を下すのがよろしいでしょう。
「相手から望まれて結婚に踏み切りたい」
これは、貴女のプライドの問題に過ぎません。
恋愛のパワー・バランスとして、相手のほうがこちらを大事にしてくれていることを実感して、自らのプライドを満たしたいだけのことで、無益なことです。
プライドを満たしたいばかりに小さな駆け引きなどを続けていますと、疲れるだけでなくチャンスを逃すことにもなりましょう。
「出産・子育てについて経済的不安がある」
結婚されたいにも関わらず細かな不安要因をいろいろ考えてしまいますのは、迷いに取りつかれていているがゆえのことでしょう。
経済的不安要因くらいのことは、覚悟したうえで取り掛かれば、なんとでもなることです。
ともあれ何一つ問題のない相手など、絶対に見つかりません。そもそも自分だって、相手に対して問題だらけのはずなのですから。
「結婚したい」という気持ちが本当にあるのならば、少々の問題には目をつむって決断をくだしませんかぎり、いつまでも「条件」という霧に目の前を阻まれることになります。
問題は、結婚してから改めて解決してゆけばよいのではないでしょうか。
Q:私の彼が尾崎豊ファンで、大音量で、部屋の中、聴いているのですが、私は、尾崎豊のファンではなく、聞き飽きたせいもあって、尾崎豊の音楽が流れているだけで非常に苛々します。
付け加えると、私の目指している方向と尾崎豊の世界観が一致しないのも理由の一つです。この趣味の違いをどう食い止めたらいいのでしょう。
音楽を止めてほしいとお願いしたら、俺の自由がどうだとか言われそうです。
尾崎豊を否定すると彼を否定しているように、思われそうですし、尊重をしたいのは山々なのですが、心が、もう、いい加減にしてと、拒絶反応を示し、心のなかで葛藤をしてしまいます。
無意識にも刻み込まれて、ふとしたとき、意識下に流れています。お互いに不快にならず、快適に過ごす方法があれば教えてください。
A:もちろん尾崎豊の音楽自体もお嫌いなのでしょうけれども、実はそれよりも、彼が貴女に気を遣ってくれず、そのような音楽を大音量でかけ続ける無神経さにこそ腹が立っておられるのでは、ないでしょうか。
男性の側からしてみれば「自分の好きな音楽を彼女にも聴かせて二人で同じ世界を共有したい」といったような子どもっぽい発想にも陥りがちであることは、理解して差し上げるとよろしいでしょう。
そうだからこそ「尾崎豊は嫌い」といったような否定的なことを口にいたしますと、確かにいたく傷つけたり怒らせてしまうかもしれません。
貴女の文章を拝見していると、文章の調子だけからすらも、怒りの業が発散されているのが感じられます。
このような精神状態で、「その音楽やめてッ」と伝えましたら、必ず相手には汚れた怒りの波動が届いて怒りが連鎖反応する定めです。
そのような怒りをしずめたうえで、冷静に、こちらが困っていることを伝えることをお勧め申し上げましょう。
「その嫌な音楽をやめるべきであーッる」と、こちらの自由を主張してはなりません。
そうではなくて、こちらが困っているのを伝えるのが重要なことです。
ふざけた感じやユーモラスな感じに、伝えてみると、相手も怒れなくなることでしょう。たとえば、ごく一例を示します。
「あのね・・・あなたが大好きな尾崎豊、私も好きになれたらいいなと努力してきたんだけどさ・・・ずっと、ずっと努力してきたんだけどね。でも・・・ッ、駄目だったの・・・ッ!
歌詞カードも何度も読んで、内容に共感しようと頑張ったんだけど、私には無理だったのですわッ。好きなものを共有できなくて残念だけど、どうしても好きになれなくて聴いてるだけでツライから、どうか私のためを思ってその音楽はヘッドフォンで聴いてくださいませんこと」
Q:とある状況になったときの、心・思考の持ち方をお教え頂きたくて。
職場の女性新人達が職場でも遊び気分が抜けず、先輩女性達もそれに対して不快を感じていました。ただ、男性陣は若い子達を可愛がる一方で、彼女達は改まらない。
我慢できずに彼女達に物申したところ、それ以降私がくると黙り込んだりの無視をされています。辛いのは、それよりも一緒に彼女達を非難していた同僚が、実は表面は彼女達と友好的にしており、実質私一人が悪者扱いになってしまったようです。
私と私の同期女性が一緒にいる場で、あからさまに私だけに返事をしない、とか事あるごとに〜相当年下の子達にやられているように見える状態なのが情けない・・どうやら、他の先輩達はみな味方であるとの認識から、強気にでてきてるみたいです。
今ではご住職の本を読み、彼女達の振る舞いにも関わらない方がよかったと分かるのですが、あの時はまだ、読んでいなかった・・。
彼女達よりも、彼女達を可愛がっている他の人達にも私の陰口を広めだしているらしく今まで普通に接していた人に、よそよそしくなった人も現れてきました。
カルマを刈り取っている最中なんだな、と思うにしても、対峙する相手が彼女達だけでなく、不特定で増加中?にもみえる感があり、そのことにやや凹み気味で疲れてきました。
前おきが長くなって申し訳ありません。このような状況下で、どのように気持ちを持ってゆけば穏やかさを取り戻せるでしょうか。
A:ここでメゲて不快そうにイライラしたり暗い表情になったりしてしまいますと、それこそ相手の思うつぼになってしまいます。
「ほら、何だか嫌な人ですよね」といった具合のレッテルが、余計に貼付けられやすくなってしまうからです。
このようなときこそ、淡々と、仕事を積極的に成し遂げてゆくようにいっそう努めると良いでしょう。
明るく誇りを持てる、そのような一点を定めなければなりません。そうすれば、多少非難されたり仲間はずれにされたといたしましても、「自分は道を踏み外さず少しずつ向上しているッ」という自信が自らを守ってくれます。
たとえば行動の誇りとして「仕事はしっかりと完成し遂げる」、言葉の誇りとして「愚痴らない、嘆かない」、そして心の誇りとして「怒らない、不快にならない」
といったようなことをしっかり守るようにすれば、ブレない足場が手に入ることでしょう。
怒るでもなく文句を言うでもなく、やるべきことを美しく成し遂げてゆくことを続けてゆけば、必ずそれを評価してくれる味方が出てくるものです。
それができず悲しくなりそうになったり腹が立ちそうになっても、「これは聴覚に届く音波にすぎない」「これは眼に映る映像にすぎない」と一つ一つ自覚しながら、悪意をかわしてまいりましょう。
Q:恋愛についての質問です。
著書を読んだり、説法を聞いてますと、一貫しているのは、苦も楽も平等に味わい尽くしましょうという事だと思うのですが、どうしてもこと恋愛に関しますと、そのルールを守れなくなります。
来年初旬に出版予定の恋愛に関するご住職の本を拝読するまでの間、出来うる限り楽しい恋愛関係を保つにはどんな注意が必要か、お教え下さいませ。
しかしながら、お陰さまで、ご住職の消化に良い仏道の教えにより、今まででしたら確実にドギツイ刺激を自身と相手に起こしてしまうような出来事を経ても、何とか持ちこたえておりますのは事実です。本当に、ありがとうございます。
A:むむむ、残念ッ。ご質問をもう少し具体的にしていただきませんと、答えようがありません。
一つだけ申しますなら、恋愛という魔術フィールドにおいては頭の中でつくり出される感情が、よくもわるくも強い力をふるいます。刺激的な感情が。
しかしながら、頭の中でつくり出されるいかなる刺激的な感情も、もとを正せば眼で見た情報や耳で聴いた情報を原材料にして加工されたものにすぎません。
恋人との間にわき起こって来ている刺激的な感情が、もとを正せばどういう現実的な原材料によって成り立っているのかという現実に、自覚的でありますこと。
「いま自分が気にしてるのは、彼の表情が目に映っている視覚映像だな」「彼の声が音波として耳に入っているんだな」
といった具合にクールでドライな認識を保つ時間を増やせますなら、必要以上に刺激に振り回されることがなくなることでしょう。
Q:集中力についての相談です。
演奏の本番が今週末にあるのに、演奏に集中できず、再びスランプに陥ってしまいました(/_;)。
前回の演奏会は約30分の演奏で曲も多かったのに、集中力も保って、すごく気持ち良く弾けたのに、今はピアノの鍵盤に手が触れる感覚や弾いている曲に集中しようとしてもなかなか上手くいかなくなってしまったのです(;_;)。
「このパッセージ難しいトコ!!」と自分を煽ったり、「あれ?今何調だっけ?」などと楽譜がふと分からなくなってしまったりします。
また、情けない事に「今日のご飯〜」などと、全く関係ない事がふと頭をよぎったりもします。
そして、たった10分の演奏なのに、弾き終わるとドッと疲れが出てしまいます。
トチるのは、大抵最初(最初は心ここにあらず状態で、段々持ち直してくるパターン)か、最後(集中力が保たずに悲劇的になるパターン)のどちらかです。そして、止まってしまうところは毎日違う箇所で、取り出して部分的に練習しても、そのような時は、特に問題がありません。
おそらく、技術的な事より、集中力や精神が問題ではないのかと思います。どのように心を持てば、10分集中力が持てるようになるか、アドバイスをいただきたいです。
A:ピアノを引き始める前に、坐禅をおこなって散らかった心を精神統一してくださいましたら問題は完全に解決するでしょう。・・・という回答で終わってしまっては、素っ気なさすぎますでしょうか。
ピアノを弾くときの心構え以前に、それ以外の時間をいかに過ごしているかが重要なこととなりましょう。普段は心をあちこちにさまよわせて、迷いのカルマをたくさん溜めていますのに「ピアノを弾くときだけは集中したいッ」という都合のよいことは、成り立たぬことも、あるのです。
その日いちにちの、一挙手一投足を、意識を散漫にすることなくどれほど丁寧におこなっていられたか。やや大げさな申し方をいたしますなら、いざというときに力を出せるか出せないかは、カルマの報いとして決まってくるのです。
また、ピアノを引き始める前に「ピアノを弾く、ピアノを弾く、ピアノを弾く、ピアノを弾く・・・」と呪文のように心の中で繰り返し念じることで、心に「今はピアノを弾く時間であって他のことを考える時間ではないのだーッ」ということを言い聞かせるのが役に立つかもしれません。
Q:私は、二人の娘を持つ主婦で、家計の足しに仕事も少々しております。
私の長年の悩みにアドバイスいただければと思いメールいたしました。私は、美術大学卒業後すぐに母となり、元々絵描きになりたかったのですが諦め、今の仕事を始めました。地味な仕事ですが、安定した収入を得ることができ、家族仲良く暮らしていくことが出来ています。
5年ほど前に体調を崩し、太極拳や気功を習い始め、今では5年前よりも身体能力ものび、指導者レベルにまで上達してしまいました。人のために何かができるということはうれしいもので、ボランティアではありますが人に教える事もしております。
その生徒さんの中に、絵を描くことをお仕事にされている方がいらしゃるのですが、彼女を前にすると平常心が保てなくなり困っております。個展のお知らせをもらってはイライラし、彼女に聞かれても恥ずかしくて自分の経歴すら言えず本当に情けないです。
どうしたら、このモヤモヤから自由になれますか?正直もう一度、絵描きを目指せるものなら目指してみたいです。でも、今からそんなことに時間をかけたって誰のためにもなりはしません。
こんなことは自分のお腹の中にぐっとしまいこんでしまうべきです。でも、何か刺激を受けるとイライラし、仕事にもボランティアにも身が入らなくなります。アドバイスよろしくお願いいたします。
A:「絵が好き」というのと「絵描きになりたい」というのは、必ずしも同じことではないということを、知らなければなりません。
絵描きになることとは、必ずしも、自分の描きたいものを、描きたいときに好きに描けるということではありません。場合によってはさほど描きたくもないものを、仕事として描かねばならぬこともしばしば起こりえるのです。
すなわち、「絵描きになりたい」という気持ちはしばしば、純粋に描きたいのではなくて、「自分の描いた絵が他人から評価されるようになりたい」というプライドの欲望と裏で結託しているのです。そのプライドが満たされない場合、他人への嫉妬にすらつながるのは、分かりやすいことです。
そういうわけですから「絵描きになりたい」という欲望は時として、「単に絵が好き」という気持ちを裏切るものにすらなることでしょう。貴女の場合は、「絵が好き」という気持ちを不満や嫉妬によって汚染してしまっているのです。
本当に絵がお好きであるのなら、別に絵描きなど目指さなくてもごくごく自然に絵を描いて楽しめているはずです。それができないからこその不満でもあり、嫉妬なのです。
Q:転職を迷っていましたが、迷いが止まりました。いまは、あれこれと心のなかで考えていたほかの人生の選択や転換をはかろうとするのではなく、自分の心の中に浮かび上がる思考を観察する、ということを始めました。
自分の思考を観察したところ、不安や怒りの言葉でうめつくされていて荒れ狂っていることに、とてもとても驚きました。そのことに今までまったく気がついていませんでした。この状態で何年も過ごしてきたんだ、正常な判断ができない状態だということも見えてきました。
そのことに気がついたとはいえ、すぐに心が軽くなるわけではなく、怒りが繰り返し沸いてきてまたカルマを溜めこんでいます。一緒に会社を起し、3年前に辞めた元恋人が、新しい彼女ができて次の目標をかなえていっていることに対しても、どうしたらいいかわからない感情が沸いて来ます。
我ながら「内面は荒れ狂って真っ黒でどうしようもなく汚い」と思います。観察し続けることに萎えそうです。あらためて喝を入れていただけないでしょうか。どうぞお願いいたします。
A:観察することで新しく見えてくるのは、今まで見て来なかった自分の一部です。そこに、素敵なものが出てくるなんて少しでも期待したら大間違い・・・ッ! 何故に今まで見て来なかったかと申しますなら、それが自分にとって都合の悪いものだったからです。そういった都合の悪いものを観察するにあたり、素敵なものが出てくるはずがない・・・ッ、いやーなものに出会って当然と腹をくくらねばならぬ・・・ッ! 喝ぁぁぁあーーーッつ!
心には、自動的な習性があります。自らつくりあげた都合のよい自己イメージを守るために、そのイメージに合わぬものは認識せずに闇に葬ってしまうのです。そして皮肉なことに、その闇に葬ったつもりの感情に、裏から操られてしまうこととなります。あたかも、操り人形のように。
その、裏ではたらいている暗い心を観察するのは、今までこしらえてきた自己イメージを壊してゆくことにつながりますから、最初はつらいことです。しかしながらそのぶん、確実に今までの自分を操っていたカラクリ人形の糸を断ち切ることができているのです。
都合のよい自己イメージゆえに、結局はネガティヴなものに操られてしまうのか。自己イメージの銅像を破棄するかわりに、新たな道を切り開いてゆくのか。きっとどちらの道行きのほうが貴女にとって好ましいものか、ご判断いただけることでしょう。
昔の恋人の成功を喜べず不愉快になってしまう、汚れた嫉妬に飲み込まれているご自身をていねいに見つめながら「嫉妬、嫉妬、ああ、自分は嫉妬してるんだなー」と念じ、しっかりご自身の汚れと付き合ってあげてください。
その「嫉妬、嫉妬」と見つめる念の一撃一撃が、都合のよい自己イメージを破壊して自己浄化をすすめる弾丸なのです。
Q:高校2年生の娘のことで相談です。教室で汗かいたのがきっかけで、自分の体が汗かきで汗をかくのが恐怖になっています。他人から臭いと言われたことが何回かあり、いつどこで汗が出るかわからないので、今は休学中で外出もしません。
実際は体質が湿潤タイプですがニオイはありません。完全主義で気にしすぎな性格もあります。こだわりから解き離すこと、母親としてどう対応したらいいんでしょうか?
A:残念ながら、親子とは申しましても、本人が決意して変わろうとしませんかぎりは、他人がして差し上げられることは少ないように思われます。こちらが過剰に心配しますと「心配させてしまっている」という緊張感で、さらに問題が深まってしまうものです。
過剰な心配の煩悩が相手にも伝染して、余計に苦しい気分にさせてしまう、といった風合いのからくりです。
推測いたしますに、このことに限らず、御子に対してずいぶんとかまってしまいがちなのでは、ありませんでしょうか。何かをとても気にしてしまっている人に対して、そのこだわりを解きほぐして刺差し上げますためには、周囲の人々が必要以上に気にすることなく、かまわずにいることが重要となります。
あまり気にせずに、ごくごく淡々と親と子として接して差し上げるのが一番のことなのです。
Q:以前、ご回答頂きました者です。
自身の病気と、お付き合いしていた方への接し方についてご教示頂きましたが、ご住職が仰った通りお別れすることになり、今となっては自分の欲の気持ちが起こった事全ての根底にあったことを実感いたしました。
その事に気づけただけでもまずは良かったと思っております。ありがとうございました。
このことがきっかけで、普段の生活でも仕事でも、自分の心を注意深く観察し、欲や怒りの心を増やさないようにしようと心がけ始めたのですが、特に仕事中忙しくなってしまう瞬間に怒りの感情を持ってしまったり、仕事が終わってプライベートの時間になった時につい怠惰になってしまったりして、怒りと欲がでてしまって「今」に集中できていないような気がします。
坐禅を毎日ちゃんと続けたり、仕事とプライベートの区別をできる限りせずに過ごすことを心がけたら徐々に改善されていくでしょうか?御本を繰り返し拝見して、そのように対処すべきかと思うのですが、自分の至らない点の多さを実感する反面、至らない自分を弁護して、妥協したい気持ちも出てきて中々抑えられません。何卒ご教示ください。
A:今までまったく観察せずにいた心を真剣に観察し始めますと、ほとんど誰もが、「ぎょぎょぎょーッ、自分ってこんなにヒドイ人間だったなんてッ」という気分になります。
今まで「自分ってけっこう素敵な人間だもんッ」と心にシークレットブーツを履かせていましたのを脱ぐわけですから、誰しも気分の良いものではないのです。
その、ごくごく当然なことに対して、過剰に反応してしまってはなりません。
これまで貯めてきた膨大な量の欲や怒りや迷いの煩悩エネルギーなのですから、いきなり完全解決するはずがありません。
きっかけさえあれば、すぐに以前の反応パターンがよみがえってくることでしょうけれども、そのたびごとに落胆することなく、「ま、こういうものかな」と、受け入れますこと。
いきなり完璧になれるつもりでおられるとしたら、それはある意味、思い上がりというものなのです。
「自分がこれまで作ってきた欲や怒りのエネルギーがたっぷり渦巻いてるんだなー、おやまあ」といった風合いに事実をただ受け止めつつ、欲や怒りが出てくるたびに、冷静に受け流すことを心がけてください。・・・平常心。
それに加えて、無論、座禅によって集中力や自己観察力を高めることができましたら、鬼に金棒と申せましょう。
Q:こんばんは。はじめまして。友人の勧めで、「自分から自由になる沈黙入門」と「偽善入門」を拝読いたしました。新しい発見もあり、自分自身の経験が整理できた部分もあり、以前よりも気持ちがすっきりさらさらしてきたような気がします。このような良い本に巡り合えた事を感謝いたします。ありがとうございます。
さて、これも何かのご縁かと思い、ご意見をうかがってみたいのですが・・・。
私の性格のひとつに「とても心配性」というのがあります。幼少のころは「知らない人に誘拐されたらどうしよう」、思春期は貧血気味で内出血が非常に多かったことから「これは、なにかの病気では・・」、現在は「あの仕事、失敗したらどうしよう」(どんなに念入りに進めていても、です)としょうもない心配ばかりしています。仕事では、心配性が危機管理につながったこともあったのですが、年中気苦労が多くて疲れます。
このような心配は、どこから湧き上がるのでしょうか。こればかりは、原因がいまひとつ分からないのです。
よろしくお願い致します。
A:一言でお答えいたしますと、強烈な迷いのカルマがはたらいていて、それに連鎖するかたちで怒りのカルマが暴れ狂っている状態と診断できましょう。
何かが見えたり、何かが聞こえたり、といったリアルな刺激がインプットされた瞬間に、1をもとにして100の情報処理が自動的に心の中で回転してしまう状況です。
このような「考えすぎ」の性質は迷いのカルマによるものなのですけれども、それに加えて、同じ考えすぎるにしましてもその内容が決まってネガティヴなものになりがちなのは、
そこに自分から進んで嫌な、ネガティヴなものに心がへばりついてしまう怒りのカルマが猛威をふるっているのです。
それらを克服してゆくには、日常では一つ一つの行為をしっかり実感しながら集中して、丁寧におこないますこと。
ベッドメイキングにせよ、食事の際に食器を扱う所作にせよ、食器を洗うのにせよ、歯磨きにせよ、他人に見られていませんときは、おそらく荒っぽくなってしまっているのでは、ありませんか。
面倒で、イヤッ!という気分になっても、一人のときも、他人といるときも、丁寧に、丁寧に、ひとつひとつの動作に心をこめて集中してみてください。
めげずに続けていただけましたなら、解決しているはずです。
Q:ご住職の本を何冊か読ませていただいております。
今にできる限り、集中していくことにトライしておりますが、やはりすぐに別のことを考えてしまい、これではいけないと思考をストップさせるよう努力しております。
中でも、私はいつも何かに迷っているように思います。ほんとに小さなこと(AとBどっちにしょうとか、するかしないかどうしょうとか)ですぐに考えてしまい決められなくて、ストレスを溜め込んでしまっていると思います。スパッと決断していけるようになるにはどうしていけばよいかアドバイスをいただけたらと思います。
A:「小さなことで迷ってる」と理解できておられますなら、もう一歩踏み出してください。次のような案配です。
「こんな小さなことなら、AとBのどちらを選んでも大差はないよね・・・ということは、別にドッチデモ良イってことらしい。やばい・・・ッ、大損・・・ッ! ドッチデモ良イことに迷っていたら、さらに業が増えて迷い深い性格が染み付いてしまい大損・・・ッ! 心がおかしくなって大損をするまえに、どちらかに早く決めてしまいましょーう」
微妙な差しかない選択にすぎませんのに「より良いものを選びたいよーッ」という気持ちになりますよりも、「自らをさらに悪化させぬように」という観点から、「とにかく決断したほうが長い目で見れば自分にとって好ましい」と考えますこと。
そうやって一度どちらかに決断いたしましたら、「迷わずにすんだこと」の爽快感が心身を満たしてくれているはずです。その爽快感が出てくるたびに一回一回、ぞんぶんに味わっておくようにいたしますと、心が「迷わず決めること」の良さを学習してくれます。そうして初めて、優柔不断な性格は克服されることでしょう。
Q:雑談が苦手です。特に4人以上になると会話に入ることができません。
やりとりされる軽快な会話のリズムに全く乗れずに黙り込んでしまうというパターンです。
一人でだんまりしてると場の雰囲気を悪くするのではないかと気になってしまいますが、話に加わろうとしても喉のところに何かがつまったようになり、何とか喋ったとしても声が変なトーンになるため益々話せなくなる感じです。
1対1でじっくり話すのは好きなのですが、グループになると話せなくなるのは自意識が強すぎるせいでしょうか?
A:昔の私を思い起こすに身に覚えがありますけれども、「これを言うとどう思われるだろう」ということについて自意識過剰になりますぎますと、何も話せなくなってゆきます。
相手が一人ですと、一人にどう思われるかを考えるだけですみますながら、相手が三人もいるとなると、一気に先読みが複雑化いたしますでしょう。「三人全員に好かれなくては・・・ッ」と緊張いたしますと、三人の思考パターンを全部予想したうえで、その最小公約数しか話せなくなりかねないのです。
そのような流れになってしまいますと、「自分の話したいことを諦めて他人にあわせなければならない」という思いも強くなることでしょうから、ストレスも強くなろうというものです。一対一なら、自分を薄めずに伝えられるのに対して、相手が複数だと全員に伝わるよう薄めなければならないのに抵抗を感じもするかもしれません。
相手の思考を先読みしすぎたり、好感を持ってもらいたくて仕様がないあまり緊張していたり。それらの元凶は、思考が必要以上に空回りしてしまっていることです。思考の空回りを抑える練習をしていただけましなら、克服できることでしょう。
Q:先日、子供の躾のことで相談させて頂いた者です。
ご住職にアドバイスして頂いたように、「怒る」のではなく、「そんなことしたら、こんなことになってしまうよ、お母さんはそれはいやだよ」というように、注意するようにしてきました。
自分自身でも、「怒り」を流せていると思っていました。
しかし、つい最近、兄妹ゲンカの末に妹が泣き止まず、その泣き声を聞いているうちに、「うるさい!だまれ!」と気がついたら怒鳴っていました。
その自分の声にハッとして、怯えている長男の表情を見て、強い後悔と驚きとショックで落ち込んでしまいました。
流せてもいない「怒り」を流せていると思い、いい気になっていた自分が恥ずかしく、とても嫌いになってしまいました。
しかし、「怒鳴る母親」が続いていいわけはありません。
未熟ながらも、「子供」という、ままならない存在に向き合っていくには、どのような心持でいると、穏やかにいられるでしょうか?再び、アドバイスを頂ければ幸いです。
A:怒りをある程度なりとも手なずけていただけましたのは、たいへん殊勝なことでした。しかしながら、あいにく「子どもに怒らない素晴らしいジブンッ」という、慢心の煩悩エネルギーを燃やしてしまわれたがゆえに、そのしっぺ返しとして、報いを受けてしまったのです。
問題は、貴女のプライドが過剰に高すぎることです。怒りのエネルギーは、誰しもが一生を通じて大量に潜在意識の中に溜め込んでいるものですから、そんなに簡単に、完璧な制御をすることができるはずがありません。そうでありますのに「子どもに怒らない素晴らしいジブンは偉いッ」と良い気分にひたってしまいますと、ついつい怒ってしまったときに、「子どもに怒るジブンはぜんぜん駄目・・・ッ、最低な人間・・・ッ」といった自己否定の感情に陥るはめになります。
自己肯定と自己否定は、同じコインの裏表ですから、自分を肯定し