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寺子屋コーナー、イラストは原則的に消滅など、簡素化して復活ですよ。月読寺でのリアル寺子屋の問答も、テープ起こしされたものを掲載しております。

月読寺子屋 : つくよみてらこや

皆様からご質問/ご相談を受け付け、できるだけ真面目かつ簡潔に、以下のようなお答えをして参ります。--->>送り先

Q:なんとなく思ったことで、質問半分感想半分ですけど、坐禅って動かないことだと思っていたんですけど、

A:ほー、そうかね。

Q:「動」であることに対して、身体ごと「静」になることだと思っていたんですけど、

A:うーん、それは大いなる錯覚だったと気づきましたか?

Q:運動してるのかな、とちょっと思ったんですけど、

A:ある意味ね、そうですね。

Q:坐禅ってもしかして、運動の一種かもしれないと思ったのは、筋肉と思考が直結しているというか、すごく身体の筋肉とか繊維とかの感じが、かなり思考に‥

A:お、いいじゃないですか。分かってきましたか。(中略)
ところで、Tさんは小声で何を仰ってましたか?何か付け加えたいことがあれば仰ってください。

T:思考していると、身体が緊張します。考えていることに伴って、身体のどこかが緊張します。

A:うん。あるいは、肩が。あるいは、首が。あるいは、胸が。あるいは、腰が。あるいは、人差し指の先が。あるいは、足の小指の先が。あるいは、足の裏の一点が。あるいは、ふくらはぎが。‥全文を読む>>


Q:瞑想をするようになって、余計な欲がなくなってきて、非常に生きやすくなっている、という点では良くなってきているのですが、

A:うん、「ですが」というのが必ず来るはずです。

Q:はい。心配事なんかがあると、それは勝手に起きてきたものだから、一旦流せても、それはまた繰り返し何回も来る。

A:はい。

Q:それが、解決しない‥んですが、

A:うんうん。

Q:例えば、今日の修行なんかは、そういう集中するのではなくて、広げるような感じなので、

A:そうですそうです。

Q:そういうことで、解決するようになっているのかもしれないけど、そこがよく分からないんです。

A:はい。お答えしましょう。解決するふうになっているのですが、あなたは解決したいと思っていて、解決したいと思っているのは、解決する対象に対して、親和的か敵対的か、どちらだと思いますか?‥全文を読む>>


Q:今日や以前からお話を伺っていて、自分と重ね合わせて気になることがあります。小池さんが仰っていた体系的に理解したい欲だとか、

A:はい。

Q:複雑な理論をついつい考えてしまう、

A:うん。

Q:というのはまさに自分のことだな、と思って今日の話を聞いていました。というのは‥

A:ちなみに今日の話はあなたのことを指摘しようとしていたわけではないですから安心してくださいね。

Q:はい‥。私は昔から、とにかく本を読むのが好きで、

A:うん。

Q:なかでも、理論的な本というか、いわゆる思想書、人文書、小説もそうなんですけど、非常によく読むんですね。

A:うん。

Q:何でもかんでも言語で、理論立てて考えたりとか、体系的に理解したりする癖があって‥

A:はい。で、その理解されていない領域があるのが嫌で、しらみつぶしに言葉ですべての領域を覆いつくしたいという‥

Q:仰る通りです。ですから、哲学に向いているところがあると思うんですけど、

A:はい。

Q:大学でも哲学を勉強していたりもしていて、でも、その道に行かなかったのは、難解な本が理解できたりとか、それによって人と話したりすることで、ある種の満たされる感じはあるんですが、

A:ええ。

Q:一方で、とても苦しいというか閉塞感みたいなものを、常に覚えるというか感じていて、

(中略)

Q:小池さんもプロフィールを読むと昔哲学をやられていたっていう‥

A:仰る通り。

Q:それで、関係あるのかな、と。

A:はい。

Q:言語にどっぷりつかるのは良くないことなのか、というか、自分は向いているのか、本当は楽しくてやっていたのに、

A:はい。

Q:いつの間にか、ある種の苦しみというか、そういうことによる、

A:うん。

Q:人間関係ももしかしたら、ネガティブな影響があるんじゃないか、とさえ思うのですが‥

A:ありますよ〜。

Q:その辺はどうなのでしょうか。

A:はい。ああ、それはあなたの場合、哲学で、というご質問でしたけれども、他のかたがたにとっても「自分が好きでこれをやっていたはずなのに、いつの間にか重荷になっているな」と重ね合わせられるものがきっといろいろあるはずですから、幅広くお答えしたいなあ、と思いますけれど。‥全文を読む>>


Q:ここしばらく、瞑想しているときに条件反射のように眠くなってしまうのですが、(中略)そうすると、クリアな意識で感覚が見られないのでやはり、寝るというのは瞑想にとって良くないと思うのです。自分の中で、瞑想というのはクリアでこういういい状態みたいなのがあってそれを目指している、という部分もあると思うのですが‥。今そういう部分で、瞑想の修行の過程で低迷しており、いいアドバイスがいただければと思います。

A:どういうアドバイスが出そうだと思いますか?

Q:何もしない、まかせる、とういうか‥‥

A:わかっているじゃないですか!けれども、「まかせろ」と言われた場合に、「まかせられない」というふうに感じているのでしょう。では何が原因でまかせられないかというと、今説明してくださったとおりに、イメージの問題ですよね。「瞑想とはこういうものだ」というイメージの問題、もしくは「好ましく取り組んでいたい」というイメージの問題です。それは、煩悩の種類で言うと、どのような煩悩でしょうか?

Q:欲‥ですか。

A:そうですね、欲のヴァリエーションの一つであるところの、慢心です。「僕はすごいんだぞ」「僕はすごい感じで、いい感じで取り組まなきゃダメなんだぞ」というような、そういう思いです。なんというか、「立派な修行者」というようなイメージ、と言ってもいいです、言い換えれば。実は、そういったものが、ちょっと邪魔になるんじゃなくて、ものすごく邪魔になるんです。‥全文を読む>>


Q:輪廻転生というのが本当にあるのか、ということと、もしあるのであれば、前世から引き連れてきた自分の課題みたいなものがあって、それが今世において解決することによって、来世においてより良き人生がある、ということはあるのかないのか、ということを教えてほしいなと思います。

A:そうですか、はい‥。でも、その質問って今日してもいいですけど、1か月後にしても多分同じような質問ができますし、2か月前でも、再来年聞いてもいいんじゃないですか?もう少しこう、今、聞いておいたほうが良さそうなことは他にないですか?今、重要なこと‥

Q:今私にとって重要なことにつながってくるところがあるような気がしていて‥私の今における課題‥

A:自分の課題は何なんだろう、という気持ちが、あるんですね?

Q:はい。課題が何なんだろうか、って知りたいこともありますし、前世から与えられているものとのつながりもあるのかな、ということが質問の意図なんですが‥

A:課題っていうのは別に過去世のことを探さなくても、いつも今ここ、目の前で分かるんですよ、ある意味。今自分が何かしら苦しみを感じるような、何かしら疼きを感じるような、何かしら困難を感じるようなこと、それが全て課題ですからね。つまり‥‥物事が順風満帆に行っていて、何も問題を感じない、というところに課題を見出すことはできません。‥全文を読む>>


Q:瞑想をしているときに、体の中がかゆくなったり、イライラする感覚がすごく強くて、どうしてもそれがずっと体の中にあって、我慢ができなくなって、目を開けてしまうことが多いんですけど、そういうときはどうしたらいいですか?

A:普段はあまり感じないようなかゆみが感じられてくるんですね?
うん、そういうことも、しばしばあることですけれどもね‥。そのとき、かゆみに対して気づきを向けていますか?

Q:ずっと見てるようにしてるんですけど、それがずーっとあって‥

(中略)

A:ずっとかゆみがある気がする、と仰るのに対してなんというか、水を差すように聞こえるかもしれませんが、ちょっと分けてほしいんですね。「かゆみがある」というのを一つのボールに例えていただけるなら、イラッとしているとき、「今、イラッとしたな」っていうのは、かゆみというボールとは別のボールだということを。ピンポイントでちゃんと「イラッ」という別のボールが飛んできたことを区切って気づいていただければ―「イラッ」というのに意識を専念して気づいているようにすれば―その瞬間、かゆみは気にならなくなっているはずなんですよ、実は。イライラは、かゆみについてのイライラなんですが、かゆみそのものを感じているときと、それに対してイラッとしているときと、あるいは、それが癖になっていると、「今回もかゆみがずっと続いたらどうしよう」という気持ちがわいてくるとか、かゆみに対してイラッとしたときもうかゆみは感じてないんですけど、ましてや、「この嫌な感じが何十分も続いたらどうしよう」「嫌だなあ」「不安だなあ」とか思っているとき、不安にのめり込んでいるのであって、かゆみはほとんど感じていないはずなんですよ。‥全文を読む>>


(編集注:この質問[Q1、Q2]は、この日の坐禅指導のインストラクション内容を踏まえています。情報刺激の入力に対して、思考が自動的に出力され、まるでドミノ倒しのように自動的にパタパタパタパタと前のものが倒れ次のが倒れ‥‥自動的に進行している、という例えがありました。)

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Q1:自分の知らないうちにそうなってる「ドミノ倒し」っていうのと、小さい頃からとかいろんな社会とかで今の自分が成り立っているっていう「条件づけ」っていうのは全く別のものとして考えたらよいでしょうか?

A:いいえ、別のものではないのです。それは全く同じものです。今、条件づけっていう言葉でイメージされているよりも、はるかに複雑に条件づけがされていて、例えば、今された質問も何らかの条件に基づいて生じていますし、あるいは、その質問をされて今私が答えをしていますよね。で、その答えをするためには、一定の条件があるのです。‥(後略)

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Q2:(前略)毎日瞑想したりとか慈悲の瞑想で心がけていても、強い怒りや憎しみという感情までも湧いてくる部分があって、そのときでも客観的な視点というのはあるんですけれども、ただ怒り憎しみという不快な感情っていうのは非常に強くて、つらい。できれば、慈悲の気持ちをいつも抱けたらいいなあ、とは思うんですけど、どういう心持ちで日常生活を送ればいいでしょうか?

A:それはですね、慈悲の瞑想があまり役に立ってないような気がします。今、お聞きしていた限りだと。説明の言葉の中にもまさに出てきましたけれど、「そういう感じの状態の人になりたい」というふうに仰っていましたが、「そういう人になりたい」という思いが、ものすごくマイナスに働いていると思います。そういういい感じの自分という、自我イメージみたいなものを作って、「そうじゃなきゃいけない」というふうに強く思っています。それと、もちろん、慈悲に反する感情が出てきたら、その感情に対して、まあそうだろう、と受け止めるか、溺れるか、嫌だと思うか、というと、多分まず、嫌だと思うんですよ。とても嫌だと思う、ものすごく強く自己嫌悪して、で自己嫌悪というのは、強く執着することの一つのヴァリエーションです。‥全文を読む>>


A:寺子屋で皆さんが質問しようとするにあたって、質問しようかな、質問すまいかな、どうしようかな、ともし思ったとしますね。
質問しようかなっていうお喋りが、どこかの神経回路を刺激して、神経細胞群が活性化されて、発火します。でも、やめといたほうがいいんじゃないのとか、もしくは質問に限らず、こういうこと喋ろっかな、いや、でもこれ喋ったらどう思われるかなとか、やめといいたほうがいいんじゃない、批判されるかもよとか、喋ろっかなーというお喋りがあって、それに対して反応する別の回路がそれを批判したり、やめさせようとしたりするときに、ある回路が勝手に刺激されて喋ろうとし、それに勝手に反応する形で、別の回路群が、神経細胞群が発火して、それはイカンっていうのを勝手にやっているとして、どっちも自分ではないから、あーどっちもどうでもいいなー、と聞いていられれば中道に戻っているということ。(中略)とにかく、心は「これが中心」と完璧にまとまりきることはなく、そのような中心としての「我」はなく、ほつれてます。いろんな方向に。で、つい、そのどっちかの声をえこひいきして選んじゃうんですけど、選ぶのはやめて、どっちも嘘だし、どうでもいい幻みたいなものだ、って見ていれば中道に落ち着きます。

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Q1:浮かんできた考えとか感情とかは、川に流せるようになってきたような気がするんですけど、身体の痛みとの折り合いというか、が分からなくて、今日頭がずっと痛かったんですけど(中略)実体がないのは分かるんですが、実体のように感じてしまいます‥

A:実体のように感じる気持ちはよく分かります。
こういう実践をしていても、「いや痛みは流せない」と思い込む場合があるんですけど、それは、思い込んでるだけです。他の考えとか他の感覚とかについても、「ときどき流せるような気がする」っていうんじゃなくて、どれもあんまり気にならなくなって「流れるままー」になってくるにしたがって、痛みを感じたときに前ほど引きずり込まれなくなりますし、一回痛みに引きずり込まれないのを体験すると、痛みっていうのも他の感覚と同列なんだなって分かってくるにしたがって、よりフラットに扱えるようになってきます。まあ、今のうち、まだ思い込みがいくつもあって、これは特別、とかこれは大したことないけどこれは特別、とか、感情の中でもこういう感情は流せるけど、この手の感情は流せない、この手の感情は実体性がないような気がするけど、この手の感情は実体性がよりあるような気がする、とか。そういう不均衡な感じがあるのがだんだん外れてくるように、気長に取り組んでみることです。ただし、確かに痛みは、つい入り込んできやすいのは確かで‥(後略)

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Q2:今の話題の話(Q1)とも関連してくるんですけど、今朝の法話で出た、痛みの観察の仕方について、痛みがあって、嫌だと反応して、それが継続することに心配が起こる、という話だったと思うんですけど、痛みというのに直接嫌だと思ってるのかな、とちょっと疑問があるんです。
痛みが起こると、痛みと同時に二次的に身体の他の場所に、嫌な、言葉に表せないような、細かな振動みたいなものを感じて、それに対して嫌だと感じるプロセスだと思っているんですけど‥、それはそうなんでしょうか?

A:なるほどなるほど。それはなかなか鋭い、です。‥(後略)

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Q3:住職のウェブの連載で、「頭の中に住む7000人のおばさんたちの井戸端会議」っていうのがあったと思うんですけど、今日坐ってるときに、2人の質問者(Q1、Q2)のかたと似てるんですが、痛みがすごかったんですよ。で、痛みを、大声を出してる井戸端会議のおばちゃんだと思ったんですね‥

A:そうですよ、大阪弁で、めっちゃうるさいわぁ!って叫んでるようなもんですよ。

Q3:でもその蔭には、ささやいてるようなちっちゃい声のおばさんたちが絶対いるはずだと思って‥

A:絶対いるはずだ、っていうのもおばさんですからね。‥(後略)

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Q4:坐禅したときに考えは浮かんできちゃうから流してるんですけど、脚の痛みは、他人事みたいに捉えられない。痛みが起きてくると集中できず、坐禅もできない。痛みが起きたときにどうするのがよろしいでしょうか?

A:痛みが生じたら、痛みに気づいておきます。しかし、痛み以外の感覚もいろいろ入ってきます。あるいは、痛み以外の感情もいろいろ生じてきます。それに気づいておきます。痛みしかないような気がしてくるかもしれません。が、痛み以外の感情がいろいろ入ってきています。それらに、ありのままに気づいておきます。‥(後略)

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Q5:優劣や慢心を基準にして生きてきて、でも瞑想を続けていたら、何回かそこを離れられて、何もいらないんじゃないかなって思えていたのに、また元に戻る‥

A:そうやって戻ってるときは、瞑想もその対象になりますでしょうね。瞑想で優れている状態じゃないといけないし、瞑想が劣った状態になってはいけないし、という。でも離れているときは、どうでしょう?気にならないでしょうね。‥(後略)

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今日の、質問してくださった皆さんは、それぞれ別の人なんですけど、なんとなく星座を描くようにして、微妙な関連性を描きながら、最後に着地したこの答え、今朝の法話の内容に結局、戻っていったんですけど、朝の法話を聞いていてもその安心っていう言葉が何の意味か分からない、と感じていた人もいるかもしれませんが、その意味がなんとなく具体的に言い表わされることに、みんなで協力してつくり上げたようでもあって、これは大変有意義なことです。‥全文を読む>>


Q:優柔不断で小さなことでも迷いやすく自然に選べなくて、例えば、スーパーでお魚を選ぶときも、どっちが活きがいいか大きいかとか‥、もっと大きいことで言いますと、引っ越しのときに物件を探していて、不動産屋さんに他の人も内見してるから急いでください、とか言われて‥、とにかく迷って決められないんです。どういうポイントで決断をしたらいいのか、っていうことをぜひ教えていただきたいです。
(中略)
A:優柔不断であるっていうのは、執着してるポイントが多すぎるせいで、例えば、「魚」っていう情報が入ってくるだけでも、これが重要、あれが重要、それが重要、っていう神経細胞が、あっちこっちの回路が刺激されて、勝手にそういうことが飛び火して、どんどんどんどん執着が絡みついて、複数の執着同士の、こっちの執着がすごく強いっていうのがあれば、それが言うことをきかせるので、より弱い執着がなぎ倒されてしまって、とにかく味だけがもうめちゃくちゃ大事、って思ってたら、味が強そうなのを選んで終わるんですけど、他の要素にも執着してたら、それらが膠着状態になるというか、どっちにも電気が走って、どっちも取りたいけどどっちもは取れないから決まらない、っていうような状態になってしまう。(中略)で、そのときの問題は、「結論を下そうとしてるがいる」とか、「私がその電気を操ってる」とかそういう自我がいるっていう前提で見てるので、「どっちかに決められない私がいて問題だ」って思い込んでるんですけど、重要なのは、それはあなたの中のどの部分で生じてるんですか、っていうのは、要は、電気が複数の回路に通って、同じような強度で同じような速度で生じてるせいで、ただ並列してバグが起きてるだけ、っていうのを認識できれば、これは私の意思ではないし、私がこれにこだわりたいわけでもなく、ただ過去からの因縁で執着してきてるせいでそういう電気が通ってるだけで、要は、「これは本質的にはどうでもいいことなんだな」っていうことを見つめることができれば、「どっちが重要なんだろうな」ということはなくなるのです。つまり、「どっちもどうでもいいんだ」ってことに気づいたら、非常にフラットな落ちついた心の状態になるということです。で、非常に落ち着いた状態でいさえすれば‥全文を読む>>


Q:ウェブのほうの連載で最近、おばさん7000人、思考の中にっていうお話があって、思考を流すお稽古をしてて、流しても結局、この思考もあるがまま〜って言ってるのもおばさんで‥

A:そうそうそう。

Q:で、そのおばさんだからそれもあるがまま〜って言ってるのもおばさんでって思ってるのもおばさんでって、ずっとおばさんなんですけど、最終的にずっと何も、ずーっとそれが続くだけで・・

A:ひたすらおばさんが出て来続けてるんだなって気づくだけで、どうにも行きつかない、と感じていますか?って感じてるのもおばさんですよね。頭の中に膨大な数のおばさんがいて・・

Q:って思ってるのもおばさんで、おばさんの外側の宇宙を想像してみはするんですけど、その宇宙もおばさんで、おばさんしかいない‥

A:ほんとう?‥‥‥Tさんどうですか?それについては。

T:宇宙は、不変というか、そこは何もない隙間、空間なので、そこに星のようにおばさんたちが現れますけど‥

A:決してそこにおばさんは入り込んで来ませんね。‥全文を読む>>


Q:仏道における運命と宿命っていう考え方と、因果応報とか因縁っていう考え方について、小池さんの解釈みたいなのを知りたいのですが、‥(後略)

A:前のことが原因となって次のことが起きるんですよ。これを因果関係と言いますね。原因があって、原因それは自然界でも因果関係に基づいて物事が起きていますし、あるいは、生命体に関して言えば、過去に何か思ったことがあって、それが記憶として残っていて、それが原因としてあって、接触した情報が条件として働いて、でも過去からの因縁がある以上、そのように接触した情報に対して何を思うかとか、どういう気分になるかとか、どんな感情が湧いてくるかということは誰にも選ぶことはできません。勝手に湧いてくるからです。‥全文を読む>>


Q:特有のシチュエーションになると、いつもすごい苦しくなったりとか、煩悩が刺激されてしまうっていうことがあったときに、それはもうしょうがないものとして諦めたほうがいいのでしょうか?

A:諦めるという言葉のニュアンスにもよるんですよね。‥全文を読む>>


Q:先日夢を見たんです。すごく荒唐無稽な夢で、夢の中ではそれを本当だと思い込んでいて、家族みたいな人がいるけど、知らない人なんですけど自分は家族だと思い込んでいる。で、何かをすごく探していて・・・必死なんですよ。

A:ふむふむふむ。誰が探しているんですか?

Q:夢の中で自分だと思っている人。

A:あぁ、「自分だ」と思っている人も、自分じゃない人のことを自分だと思っているんですね。

Q:はい。

A:ところで面白いですね。今もあなたは自分じゃない人のことを自分だと思っているんですよ。この人のことを。

Q:・・・そうですよね。

A:それがちょっと分かったんじゃないですか?

Q:そう、なんです。

A:ほう、その夢はすごい重要な夢じゃのう。その夢をみんなも知るといい。はい、もうちょっと聞いてみましょう。興味深いですよ。‥全文を読む>>


Q:感情をどうこうしようとして、いじり回すと、感情に燃料投下することになると仰せられましたが、心がザワザワしていたり、なんとなく落ち込んでいるっていうときに瞑想をすると、心の中にあるものが見えてくるような気がして、例えば、寂しい気持ちがあるんだなってそこを見ていくと、承認欲求みたいのが満たされてないから寂しんだなって分かるとそれが消えるような気がしていたんですけれど、それは感情に反応して燃料投下をしていることになりますか?

A:いいえ、必ずしもそうとは限りませんよ。状況次第です。そうやって、「あ、承認欲求だったんだな」って自覚するとしますね。自覚しないときと比べてどう変化しますか、心の中で。なんとなくすっきりする気がするでしょう。「分かった!」という感じで。分からなくて、もやもやしたものに支配されていたでしょう。心の中の暗闇の中で、悪党が暗躍していたみたいな感じだったのが、光を照らしたら、悪党も「あー、まぶしい。この中でやるとバレバレだからもうできない」みたいな感じになりますよね。‥全文を読む>>


Q:慢心ということに関して、ものすごく無意識のうちにやっていて自分で気づくことが難しく、すごく深いところにいるような気がしています。そのすごく深いところで気づいていくというか、気づいている状態にしていくというか、 「する」ようなものではないかもしれないけど‥。

A:答えが出ましたね。そうです、「する」ものでもないのです。

Q:そこのコツというか、その辺をお伺いできればと思います。

A:あたかもね、これは星空の星の見方に習熟するように、なんですよ。
「あの星はどこにあるだろう」っていうことをあんまり一生懸命になって探しているとどうでしょうか。例えば、「金星はどこにあるだろう」っていうふうに、金星を夢中になって星空を探していると他のものを随分見落とすような感じになると思いませんか。‥全文を読む>>


Q:冒頭のお話にヒントがあったかなとは思うのですが質問させていただきます。
私には中学2年生の息子がおりまして、勉強とか生活スタイルのことで、この前きつく叱ったのです。

A:中2・・・一番むずかしい年頃ですね。

Q:叱りながら「あー俺は感情的になりながら、今、こいつに怒りをぶつけている。いいだろうか?いいんだろうか?」と思いながらも暴れ馬のように感情をぶつけていました。
一方で、手綱を引きながら、最後まで叱ってしまって、あとで振り返りまして「あの時自分の感情をくびり殺して、叱るのを止めたほうが良かったのだろうか?それとも他のやり方があったのだろうか?」とすごく悩んでいます。‥全文を読む>>


Q:質問です。中秋の名月になりますが、月詠寺さんでは月詠の儀式というものをやりますか?やるとすればいつやっていますか?
A:月寺、良い名前です。改称しても良さそうですねぇ(にっこり)。
 そうした儀式はおこなわないのですが、己の心という月の変化を読みこなす、坐禅という行の指導を、毎週土曜日にどこかでやっていますよ。


Q:普段、瞑想をしていると、コンプレックスのことばかり頭に浮かんできます。どうしたらこの考えから離れられるのでしょうか?

A:そうですね。非常に強くこびりついているものは何回もやってきます。ポイントは、ただ何回もやってくるだけのことで、実際のところは、それら一回やってくる都度のものは、実は流れ去っていくということです。流れ去ったものがもう一回ちょっと形を変えてまた流れてきて、また流れていったものがまた流れてきているんですよ。それがなんとなく、ずーっとそこにあるような気がしてしまっているのですけど、それを止めようとせず放っておいて流れてゆくに任せてしまうのが、ポイントです。けれど、‥全文を読む>>


Q:私たちの脳に何かの指令を受けて行動をしているわけですけど、するかしないか迷うとき、迷うときはどっちでもいいのかなと思うのですが、見分けかた、するかしないかをどういうふうに見分けたらよいのでしょうか?

A:それは実は重要なご質問です。ちなみに何かをしたいと思ったときですね、それはどっかから指令が飛んでくるんですが、そうしろって。ちなみにそのときにあなたが迷って、そうしようかどうかって迷っているんでしょう。そこに心の仕組みを読み解くヒントがあります。なぜならその迷ってるっていうのは、指令に対してあなたの意識が自分で主体的に選んで迷ってるって思われているでしょう。でも、事実はそうではないからです。「こうしたほうがいい」っていう指令がポッてやってきて、その直後に「でもそうすると損をするかもしれない」という指令がポッとやってきて、で、その指令と指令の間で拮抗して、どっちか決められないという指令がやってきているだけです。
つまり、‥全文を読む>>


Q:はじめまして。中学のとき先生の本を読ませていただき、社会人になった今(19)でも、先生の本にお世話になっております。今回は忙しい身だとは思うのですが、お言葉をいただきたく手紙を書かせていただきました。
私は「かまってちゃん」な欲の塊だと自覚しております。
嫌われたくないのに、人の嫌なところに目がいき、心を乱すばかりです。
友人関係、会社関係、親族関係…人間関係でお言葉をいただきたいことばかりですが、今回手紙を送らせてもらったのは恋愛関係です。
喜怒哀楽が激しく、怒りをぶつけるくせにぶつけられると傷つき、「別れた方がいいかも」と思ってないこと言ってしまい、相手に迷惑かけてしまっています。
先生の本を読み、怒りにコントロールされてるんだ。脳が刺激を求めているんだ、と分かっていても、不安になり多すぎる電話やLINEをしてしまいます。
A:いやはや、抜本的すぎるかもしれない回答をしてみましょう。かまってもらえても、実は何の意味もない(!)ことを、日々、観察してみてください。

 覚えておくと良いのは、もしあなたが彼から大事にしてもらえようと、反対に怒りをぶつけられたり愛情を注いでもらえなくても、それによってあなたがより良くなったり、より悪くなったりすることは皆無、ということです。

 彼の好意はあくまでも、あなたの言ったことや、あなたのやったことや、あるいはあなたの外見的魅力や装いといったものに対する反応にすぎません。

 けれども、あなたの言う内容も、あなたの振る舞いも、常に変わっていきます。あなたの外見も、変わっていきますし、六十年後には、しわしわのおばあちゃんになっているでしょう!(にっこり)

 「かわいいね」とほめてもらっても、それは「今」そうなだけで、六十年後にはたぶん当てはまりません。明日、体調不良で目の下にクマをつくり、顔色が悪ければ、もう当てはまりません。

 つまりそれらはすべて変化の途上にあるもので、固定できませんから、あなたの本質として頼りになるとは言えません。他人は、たとえ恋人であっても、そうした一時的な現れに対して好感を抱いて良くしてくれたり、反感を抱いて嫌な反応をしたりしているだけで、それにどれだけの意味があるでしょう?

 あなたの機嫌も、性格も、見た目も、優しさも意地悪さも、常に変化しています。それらが愛されようと愛されまいと、どうせすぐ変わってしまうのです。

 ですから、他人から愛してもらっても、あるいは憎まれてすら、それは実は本質的に空振りしていて、究極的には意味がないのです。「愛されている」と感じても、喜ぶかわりに、「愛されているのは、この一時的な感情や言葉や顔や体だ。これはどうせ永続しないから喜ぶに値しない」と思い出しましょう。

 あるいは「愛されているのは、ニコニコして彼にうなずいてあげているこの優しさだ。けど、この優しさも永続しないから空振りだ!」と。

 愛された、っていう感覚が、そもそも空振りでしかないと分かり始めるなら、それを必死で求めるのが馬鹿馬鹿しくなって、落ちついてくるはずですよ。

 余裕ができたぶんだけ、求めすぎたり連絡をしすぎるのはやめて、相手に優しくしてあげたいものですねぇ。


Q:無知な人は無知だと気づけないんですけど、無知だと自分で気づけたらそのあとは、先ほどのように自分で無知ではないかと見つめることで、改善はしていくんですか?

A:今の質問はちょっと難しかったですね。前半はついていけたんですけれど、後半をもう一度説明しなおしてもらえますか?

Q:風船が飛んでゆくのを、ただ眺めるように、好きでもなく嫌いでもなく、ただその状態を見つめるっていう観察するっていうやりかたを、それを例えば自分は無知だと思った場合も、そうやって観察するのですよね。

A:はい。ちなみに無知だと思った場合、という際の「無知」は何を意味しますか?

Q:僕の場合は、自分の気持ちっていうのが自分でちゃんと把握できてないっていう感じで、例えば嫌いな人に対しても、「嫌いだ」っていうことにちゃんと気づけてなかったっていう、その状態を無知だと‥

A:その通りです。

Q:あぁ。で、そういう状態をやっと、「この人を嫌いなんだ」って分かってきたんですけど、あの‥。

A:それはある意味、いいことだ。ある意味。

Q:あぁ、出発点。

A:そうですそうです、出発点として。‥全文を読む>>


Q:はじめまして。
いつもご著書を拝読させていただいております。
ご相談をお願いしたいことがありまして、ペンをとらせていただきました。
先日、知人より離婚の危機にあることを告げられました。
そのことを聞いてから、ショックで食欲は落ち、夜もよく眠れず、
昼間もため息が多く、とても辛いです。

離婚については、自分には何もできませんし、
何が正しくて、何が間違っているかもわかりません。
ただ、知人には自分がとても辛い目にあっていた時に助けてもらった事があり、
何かできることはないかとも考えるのですが、できることはありません。
その知人夫婦のことが、私は大好きです。二人とも好きなのでとても辛いです。

今は知人の顔を見ると、涙が出そうになってしまいます。
知人が辛い時に一緒にいることくらいしかできないと考えておりますが、
隣でおっさんが泣き出したら、きっと知人も困るに違いありません。
落ち着いた心で知人に接するにはどうしたらよいでしょうか。
A:そうですねぇ、お分かりのとおり、一緒にいて、押しつけがましくなく聞き役になってあげることくらいしか、できることはありません。

 それはそれで、大いに役立つ役回りでは、あるのですよ。

 ただしそのためには、「私の」友人(知人)とか、「私の」友人夫妻という具合に貼りつけられた、「私の」という観念を剥がす必要があります。回り道して説明してみますね。

 ご友人にとって一時的には別離が耐えがたいものであるにしましても、客観的に見れば、一方もしくは双方の心が修復不可能なまでに離れてしまっているなら、そのお二人の縁は尽きています。

 もはや尽きている縁を無理矢理つなげようと努めても、一つには苦しみが増えるだけでもあり、二つには二人とも次へと進めなくなり停滞するだけで、良いことがありません。

 もし離別されたがっているのが奥様のほうなのだとしましたら、当面はご友人のほうが強いダメージを受けるにしましても、やがて時とともに傷が癒えてより後は、澱んでしまった彼女とのつながりから離れたがゆえにこそ、新たな縁へと開かれてゆくでしょう。

「新たな縁」と申しますのは、単に異性のことのみを指すのではなくて、「古く、もう縁の尽きているもの」への執着から出ることによってこそ、本来なら出会っていてしかるべき人や事に、ちゃんと目を開いて出会えるようになるのです。

 いかがでしょう、そう考えますと、今後の彼女は全然不幸ではありませんし、ご友人すらも執着さえやがて捨てられるなら、全然不幸ではなさそうではありませんか!

 それが悲しくてたまらないというのは、たしかにやさしさのためもありましょう。けれどもそれと同時に、「私の」友人夫妻というひそかな所有感覚のせいで、「彼らがいつまでもセットで幸せそうな姿を、自分に対して見せていて欲しい」という我執こそが、苦しみ・悲しみを増しているのです。

「私の」という思いがなければ、「二人ともそれぞれ、新しい縁へと開かれてゆくのだなあ」と、二人を別々に、大らかに見守っていられることでしょうから。

 誤解のないように付言しますと、「新しい縁がどうのこうの」とご友人に説教して下さい、と申しているわけではありませんよ。あくまでご自身の心の内でそう理解して、大らかに余裕をもって耳を傾けてあげることです。「私は私」「彼は彼」「彼女は彼女」と。


Q:はじめまして。
ご相談したいことがあり、ペンを取らせて頂きました。

近頃、ブッダの教えを実践していくと、自分と世間とのギャップが広がり、自分は世間の人から孤立していくような気がします。それは仕方がないとは思うのですが、一方、それでは社会人として協調性がないようにも思われ、自分は世間の中で、これからどういうふうに生きて行けばいいのか、どういうふうに関わっていけばいいのか、と悩んでいます。

わかりやすい例でいうと
たとえば、忘年会などで、お酒を飲まないといけない雰囲気の時に、自分は不飲酒戒を守ろうと思い、お酒を飲まないようにしているのですが、まわりからは「飲めるのに飲まない、ノリが悪い」「協調性がない」と言われ、それでも自分は仕方がないと思っているのですが...一方で、社会人として、そういう場では少しくらい、付き合い程度で飲んだほうが、社会的にはいいのだろうか?...それでもやっぱり飲みたくない...などと悩むこともあります。

また、職場で、休み時間に、まわりの人たちがだれかの陰口を言っているとします。それを聞いて、自分は嫌な気持ちになり、会話には入らず、その場から離れたくなるのですが、会話に入らずに、ひとり無視していると、いつも会話に入らない協調性がないように思われるみたいで、それでもいいと、自分はその態度を貫いているのですが、まわりとコミュニケーションがうまくとれずにいます。

このように、ブッダの教えを守ろうとすると、ブッダの教えを知らない世間の人と協調性が乏しくなり、職場でも孤立した存在になります。

自分から、まわりの人に「それは、あまり良くないと思いますよ」と話したり、自分が「自我」をなくして、それが気にならなくなれば、済む話なのかもしれませんが、それがなかなかできません。

何か良いアドバイスがあれば、ありがたいと思い手紙を差し出した次第です。

小池さんも身体に気をつけて、お元気にお過ごしください。
A:ふむーう、協調性、ないならなくてもいいんじゃないでしょうか。

 ‥‥と大雑把に一言で済ましてしまっては身もフタもありませんね。ある点で協調性は今より小さくてもよく、ある点では今より大きくしたほうが良さそうだと思われるのです。

 お酒を飲まなきゃ協調性がない、という無茶な常識を強要する雰囲気はしばしばこの国では醸し出されるのは、確かです。

 けれどもそんな暴力に屈してまで「協調」する必要はまったくなく、堂々と、飲まなければ良いのですよ。注意したいのは、その際に「なぜ飲まないのか」を偉そうに説明したりはしないことです。

 飲まない自分のほうが立派だという感情があるなら、そうした慢心があるだけでも相手を傷つけ、怒らせてしまいかねないのですから。

 シンプルに、堂々と飲みません、許して下さいと言って、明るく「ノンアルコール下さい!」と笑って注文したり、「いやはや、協調性なくてスマナイねぇー」などと言ってニコニコ悪びれずに楽しくしていさえすれば、「協調性ないなぁ‥‥けれど嫌な奴じゃあないから、ま、いっか」となるはずです。

 つまり、必死に己の見解を守ろうとする執着や他者への否定感さえ外して、あっけらかんとしていれば大丈夫なはずです。

 協調性を大きくしたほうが良さそうな点、というのはそういうことです。誰かの陰口が言われていても、それに対して気分を害したりムッとしたりしているようでは、言わば自分の心の中で「彼ら間違った愚かな人々」の陰口を言っているようなものではありませんか(ガーン)!

 それでは、「自分が陰口を言わないから健やかでハッピー」というために実践しているはずのことが、「他人もこうあるべき」という見の煩悩と化して、ご自分を苦しめる執着になってしまっています。

 ですから、「それは、あまり良くないと思いますよ」と伝えるなんてもっての他でして、自他共に苦しめることになってしまいます。

 「あー、<見>と<慢>で、他人の領土に否定的思念を向けていた己であったことよなあ」と、内観してみましょう。

 そのうえで、他人が陰口を叩いていても、「陰口言いたいほど不幸なんだろうなぁ」と哀れみの気持ちを惹き起こして、「ふーむ、なるほどねー」などと聞き流す胆力を身につけることです。心は同調圧に屈せず、慈悲で協調してあげるのです。




月読寺子屋 : つくよみてらこや (〜2014)

皆様からご質問/ご相談を受け付け、できるだけ真面目かつ簡潔に、ときどきふざけながらも、以下のような「みもふたもない」お答えをして参ります。ご質問はそのことを覚悟のうえで、郵便でお送り下さい。

Q:こんにちは、小池さん。
 数々の悩みや相談が寄せられ、お忙しい身だと存じますが、1人では解決が難しい悩みがあり、よきアドバイスをいただけたら、とペンをとりました。
 その悩みというのは「眠り」についてです。
 今から3週間程前から、小池さんの著書を拝見させてもらい、仕事や人間関係、自分自身の体と心のつかい方を、少しずつ見直しているのですが、5日前程より、十分な睡眠時間をとっても、全く体と心が休まらず、目覚めたときには、大変な疲労感を伴うようになりました。
 そして決ってどんな短い睡眠時間でも「夢」を必ず見る様になりました。
 元々、夢がよく見るほうだったのですが、今回の夢はとりわけ強烈で支離滅裂なものが多く、3日後も覚えている様な内容のものが多いです。
 過去にこういった経験が無かった為、坐禅や集中するお稽古によって、自分の無意識の部分に光が当たり、好転反応にも似た何かが起こってるのかなと、勝手に妄想しております。zzz 

A: こんにちは。ええ、坐禅瞑想が深まっていくプロセスで、意識が覚醒してゆくにつれて、身体的にも精神的にも、これまで隠れていた問題が表面化してくるのは、よく起こることです。

 意識が覚醒しているぶん、いままでよりも夢を明晰に見ることになりがちで、夢の細部も覚えていることが多いものです。

身体的には、たとえば身体中の老廃物が一気に排出されることで一時的に体臭が強くなるとか(そのときの足の、臭いことったら!)吹き出物がたくさんできるとか。もしくは、頭痛がするとか胸焼けがするとか。そしてまさに、 眠って起きても疲れていて全身がダルくてしょうがない、といったことも、よくあることです。

 そしてそれらは、表面化してきたときにこちらが執着せず淡々としていられれば、意識の気づきの光が当たることでおのずから、クリーニングされてゆきます。

 それらすべて、その奥深くに業として貯蔵されてきた、不発弾のようなものです。へたに執着して扱うと、とらわれてしまったり、問題をかえって増幅させたりするものですから、何事が起きても、 あまり細かく気にせずに、淡々と観察するようにいたしましょう。

 解釈せず、評価せず、判断せず。そんな平常心においてただ観察して放っておく。そうしていれば、心が勝手にクリーニングを進めてくれます。

   夢を見たあと、色々と感じることはあるでしょうけれど、それも同様に、ただ夢を見た後の気分の悪さや感情を、ただ観察し、感じ取って、あとは判断せずに放っておくことです。

 そうしているうちに、いつのまにやらクリーニングが一段落してしまいさえすれば、嵐に見舞われていた頃が嘘だったみたいに、カラリと晴れわたり切った心の中に、スッキリと坐っていられるようになります。

 ですから心配されずに、のほほーんと修行を続けて下さるのが一等良いのです。「好転反応」という解釈すら加えずに、何も考えずにのほほんと取り組めるなら、なおのこと良いでしょう。



Q:食禅の際に教えて頂きました食事五観文ですが、一度では覚えきれなかったので正しい読み方と、ご住職の解釈をお教え頂けないでしょうか。 

A:それではすこぶるシンプルに切り詰めて、記してみましょう。

 一つには功の多少をはかり、彼の来処をはかる。
・・・目の前の食事の来歴に思いを馳せる。(お米や野菜の生育過程、土や太陽や水や微生物のはたらき、人のはたらきなどなどを黙想する。)

 二つには、己の徳行の全欠にはかって供に応ず。
・・・今日の、徳と行いに、問い直す。(果たして、これを頂くだけに価すると言えるかしらん?と。)

 三つには、心を防ぎ 貪等を離るるを宗とす。
・・・貪り急がず、よくよく噛みしめて食すること。

 四つには、まさに良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんがためなり。
・・・グルメのためでなく、飢えをしのぐために食すると、心得る。

 五つには、道業を成ぜんがためにまさにこの食(じき)を受くべし。
・・・我が道のりを全うするために、と心得る。

 そうして、いっただきまーす、と、滋味を噛みしめて、いただくことにいたしましょう、か。


Q: 初めてお手紙差し上げます。この便センの子猫、ネコッコさんに似ているなと思い、思わず選んでしまいました。
 住職様の著書を拝読するようになってから、自分が考えることや言動、行動に対して慎重になりつつあります。 少なくとも意識をする機会が増えました。全ての出来事は自業自得だと知り、本当にギョッとしたのですが、 どんな場所でも状況でも心穏やかに生きてゆけるかどうかは自分次第なんだと、心が軽くなりました。

 この度は妹のことについてご相談致したく、こうして今お手紙を書いております。
 私は今、実家で両親と妹と暮らしています。私26歳、妹23歳です。彼女は外ではとても良い子に振る舞っているようなのですが、 家では180℃違うのです。
 わがままさも度が過ぎるのですが、最近では仕事から帰宅すると、毎日延々と愚痴を吐き続けています。 口は達者で辛辣です。言い方も内容も・・・

 私の煩悩をどのように処理すれば平穏でいられますでしょうか?聞き役は主に母ですが、家も広くないため、聞こえないようにするには限界があります。  

A:あー、子猫のハンコのようなシルエットが遊び心をくすぐる感じの便箋ですねぇ。(ウェブ掲載時には見えないでしょうけれども・・・)

 さて、相手が超至近距離の家族、というのは、いちばん心の距離感が狂いやすいものですから、なかなかの難問ですぞ。

 妹さんへの耐えがたさの内訳を、まずは分解して自己省察してみましょう。

(1)我が侭やグチへの、素朴な怒り。
(2)内弁慶さへの、「嘘」への怒り。
 ・・・というのもあるでしょうけれど、その相手が同僚や友人なら、まだしも受け流しやすそうです。相手が「自分の妹」であるがゆえに、付け加わるマイナス要素を考えてみますと・・・。
(3)「これからもずっとこれが続くのかー」という不安。一過性じゃない、という嫌悪もありそうです。
 が、それについては、「いざとなったら独り暮らしすればいいや」と思い切っておけば、気が楽になりそうですね。
 すると最大の問題は、(4)「自分の妹」と、自我を貼つけて感情移入する欲望ということになりそうです。

 遺伝子を分かちあった実の兄弟姉妹ともなりますと、私たちは相手に対して「せめてこれくらいの人物であって欲しい」という願望を抱きやすいもの。
 無意識レベルで、相手を自分の自我パーツの一部のように感じる感情移入をしてしまうため、相手が自分の基準に反した行動や会話をしていますと、私たちの自我まで脅かされてしまいます。
 それゆえ、非っっっ常に、許せない気分になり、苦痛が上乗せされているものと思われます。

 「あー、彼女に○○であって欲しい、自分の妹なんだから、って自我を貼りつける欲で自分を苦しめていることよなぁ。」
 そんな風情に、そっと自分を理解してあげると、そのぶんだけいくらかは、気持ちがスッとして耐えやすくなるはずです、よ。


Q: 初めてお手紙差し上げます。

 先日、歯と鼻を折る事故をしてしまいまいした。顔にも傷が付いてしまったのですが、 事故を起こしたのは私が悪かったのだときちんと反省し、比較的穏やかな気持ちでいられたのは、 超訳ブッダの言葉をはじめとするたくさんの本のお陰だと思います。ありがとうございます。

 さて、私にはケガをする数日前に別れた恋人がいました。私がもう一緒にいるのが苦しいと感じ 別れを告げたのですが、事故後、恋人に対する自分の悪かった態度や言動(少なからず相手を見下していたように思います) を思い出し、どれ程相手を傷付けてしまったんだろう...そんな悪い心(傲慢な部分)が今回の事故を起こして しまったんだろうな、どうしてもっと彼に思いやりを持って接してあげることができなかったんだろうと、 考えれば考える程、自分を責めるようになってきてしまいました。

 彼に対する ごめんなさい という気持ちでいっぱいで、心が痛いです。それともかわいい自分を正当化しようとして 心が痛むのでしょうか??

 身勝手な相談ですが、こんな私に何かお言葉を頂くことができたらと思い、お手紙いたしました。 ここまで読んで頂いてありがとうございました。読んでもらえるかもしれないと思うと、お手紙を書いている間に 少し心が軽くなったような気がします。

A: おや、まぁ....、それはずいぶん難儀なことでしたねぇ。

 とはいえそんな別れも事故をも、半ばは受け入れる(すなわち活かす)心持ちになりかけておられるようですから、 その変化の芽を大事に育てていって欲しいものです。

 柔らかい眼差しで今回のこと諸々を受け入れられるようになるなら、心はやがて元気でハッピーになり、後日そうなってから 振り返ってみるとき、にっこり笑えるはずですから。

 ―「ああ、あのときつらい目に遭ったお陰で転機になって、今の自分があることよ、よかったなぁ」といった風情に、しみじみと。

 うーん、ところが、元恋人に対する罪悪感と自罰のほうへ、傾きすぎているのはつらいところですね。

 そのお心の成分としては、仰るとおり自己美化と陶酔も多分にあることでしょう。「本当だったら私は、彼にこのくらいは優しくして あげられるはずなのにッ」と、良い子でいたい理想の自分が、良い子でいられない現実の自分を叩いているのです。「今、 つきあっていない」という距離のある状況では、自分に実際はできそうもないことをできるかのように、無責任に反省できてしまいもするのです。

 けれどもお心の成分の中には、彼のことを思いやる気持ちや、自分を変化させる芽も含まれてもいそうです。私たちは、聖者でもないですけれども、 極悪人でもありませんからねぇ。にっこり。

 「けっこうな慢心と、いくらかの優しさなのだろうなぁ」くらいの公平さをもって、己を見つめ受けとめてみるのが、お勧めできそうです。

 恵敏(ヘ・ミン)氏という韓国の僧が、著作の中に述べていて、私もまた噛みしめた言葉を最後に紹介しましょう。

 「あの人と別れて ずいぶんたってから何の執着もなく『どうかあの人がしあわせになりますように』と道を歩いていてふと思ったら 自分もまたしあわせになる準備が整ったという合図です」。(『立ち止まれば、見えてくるもの』)

 そう、今はまだ執着により心が過去へ向かっているので、言わば「喪」が明けずに苦しんでおられるのでしょう。

 その後悔にお葬式をすること。「ごめんなさい」から解放されて、やがては「あなたがハッピーな新しい生を送っていますように」と微笑めるところへと どうか抜け出せますように。


Q:お陰様で、過去に呑み込まれることが少なくなってきましたが、そのせいで、心が未来に飛んでいってしまうことが強く意識されるようになりました。

仕事が終わりに近づくと、帰宅したらあれしてこれして、と考えている。食事の終盤には、この後すぐ洗い物してからあれやって、と考えている。木曜日頃になると、土・日にはあれとそれをやってしまわねば、と考えている。

万事がそんな有り様なのです。気が付くと、先の先の事を考えているのです。

身体感覚に意識を集中していても、わずかな隙をついて、心は勝手に先回りして、現実ではないことを考え続ける。そして、それが不安を強くしているから、きっと苦しいのだろうと思いますが、心を「今現在」に長く留めておくことが困難なのです。自分自身に、「焦るな!その時になってから考えても大丈夫!」と言い聞かせるのですが、心は未来へ飛んでいってしまうことを減らしてくれません。

どうしたら、先走る心を今に留めておく時間を長くできるでしょうか。ご教示お願いします。

A:おやまぁ、今現在の状態を一言で申すとするならば、それは贅沢病とでも表現できるものでしょうとも。

ひとまず、過去のことをクヨクヨ思い出し悩むことがなくなった。あー、なんと前よりラクになったことであることよ、と、手にしたものに、まずは満足して立ち止まってみては、いかがでしょうか。

そう、まさに仰せのとおりに、「心が未来に飛んでいってしまうことが強く意識されるようになったということでありまして、言わば、前よりもその現象が見た目上は目立つようになっただけのこと。

つまり、前は問題と思わなかったものを問題として見つけ出し、「握りつぶしてしまいたい!!」と焦ってしまわれることで、それが余分なストレスを生み出してもいるようです。

最初に、自分に変化が現われたのを喜ぶばかりに、「もっと、もっと次の変化をッ、はやく、はやく!!」と先を急がれるという「贅沢」に引っかかって、自分の足下をじっくり見つめることが、等閑に付されているのです。

なにぶん、はやく変化せねばと、自分の業(特質)を無視して変わる方法を工夫するのは、まさに「これから○△になりたい」と、心が未来に向かって妄想しているのですから。ガビーン。

そんなわけですから、心を現在に留めようと一方では根気強く努められつつ、他方では心が未来にブレるつどに、「あー、今は未来のことを考えてるなぁ」と確認することにとどまり、面倒でも毎回毎回、確認し続けてみましょう。

先を急がずに、今、現在の自身の現状を、何度も何度も確認し気づき、ゆっくりと我が変化を待ってあげるという、待つゆとりを根づかせてみて頂ければと思う次第です。


Q:初めてお便りいたします。
インターネットの「家出空間」にて、こちらの宛先で質問等を受けられていると拝見いたしましたので、ペンを取らせていただきました。

父がガンになりました。相当進行しているようです。私は実家から離れて暮らしている事もあり、ささいな変化に気付かずにいました。最悪の場合、それなりの「覚悟」はしておいた方がいいようです。

そこで住職にお伺いたしたいのですが、大切な人との別れの時、どうすれば冷静さを保っていられるのでしょうか。母のかわりにやらなければならない事も多々あるかも知れません。

取り乱さず、泣きわめかず、心の中に「静」を保つにはどうすればいいでしょうか。

A:いざその時がやってくることを想定して、二段構えで考えてみることにいたしましょう。

死によって個体としての御父様は滅びることになりますが、物質レベルでは元素が解体して宇宙に拡散し、やがて新たな生命の生まれる要素に戻るということです。

そして精神面で申しますと、遺伝や教育的感化などを通じて、親の美点(と、そしてあいにくながら欠点も。にっこり)は、子へと受け継がれコピーされています。

ですから死を嘆くかわりに、自分の中に受け継がれている親の性質(できるなら美点)を数えあげ、想い起こして頂いて、それを継承して自分の中で「生かしてゆこう」と思ってみてください。

すると、親からもらった「忍耐強さ」や「優しさ」や「気楽さ」などが自分の内に意識できるつどに、親が自分の中で生き続けるのが感じられるとともに、自然に有難いなぁ、という心地になれると思います。

思うに、大事な相手を失うタイミングこそが、こうして相手のことをもっとも有難いと思えるときでしょう。

その感謝の心持ちとともに、「死にゆくあなたが、今も死後も心安らかでありますように」と、相手が幸せであることを祈るほうへ心傾けてみる。

すると、「自分が悲しい」は薄れて「あなたが安らかでありますように」という温かさが、まさに自分を守ってくれるでしょう。

以上が一段階目の考察で、二段階目はーー。

そうして準備をしていても、個人差はあるでしょうけれど誰しも、愛着のある人を失う際には冷静さを失うこともあるものです。

「絶対に取り乱さないようにしなきゃ」と気負うよりも、「もしも取り乱したら取り乱したなりに、そんな自分の振れ幅を見つめる機会にしてみよう」くらいに思っておかれるのが賢明でしょう。

いざ悲しくなってしまったなら、その分だけは悲しみきってあげて、そんな自分を見つめ、知り抜く時間にしてあげては如何でしょう。


Q:はじめまして和尚さまの「超訳ブッダの言葉」が愛読書です。

”友を選ぶ”の章の中で
「あいにく自分より性格の悪い、そんな友にしか出会えないなら、いっそさわやかな独りぽっちを楽しみ、ただ独り歩むのが潔い。」
というお言葉がありますが、それを読むときについ”友”の部分を”きょうだい”に置き換えて読んでしまいたくなります。

他人である”友”ではなく、血を分けた親きょうだいをそういうふうに思うのはよくないことでしょうか?
よろしくお願いします。

A:初めまして。おやまぁ、いつも一緒にいなきゃいけない家族とうまくゆかないのは、辛いものですよねぇ。

ん、んー、答えは半分はYesで半分はNo、といったところでしょうか。

「半分Yes」の内訳は、血縁関係があるとはいえあくまでも、心はまったく別個な別宇宙なのですから、家族とても他人なのです。

ですからたとえ「きょうだい」であっても、悪影響しか与え合えないのなら離れて、独りぽっちになってみるのも一つの手だと思いますよ。

そうして「他人」として物理的ないし、せめて心理的に距離を置いてみると、相手への期待=要求も薄れて、かえってお互いが優しく気遣いをしあえることもあるものです。

「身内なんだから!」「他人じゃないんだもの!」という幻想ゆえに相手への期待水準が高まってしまい、「コレクライハデキルハズデショ」「コレクライハシテクレルハズ」と、押しつけ合って互いに苦しむものですから。

「ま、他人だしね」と幻滅して、相手に期待するのをやめる(相手に体重をかけるのをやめる)と、ラクになるでしょう。

そして「半分No」のほうの内訳は・・・。家族に対して「自分より性格が悪い」と軽蔑するような心情を持ち続けてしまいますと、徒らに否定的感情がこの心に、こびりついてしまうところにあります。

(私にも、見に覚えがありますぞ、イタタタ。)

相手を評価して低め、「せいせいしたゼッ」的な心情へ傾いてしまわないように気をつけて、あくまでも「お互い別宇宙なんだ。相手には何にも期待しないで、もたれあわず自分は自分!」という風情に、潔くシャッキーンとした心地へと、心を着地させていたいものです、ね。


Q:小池さん、初めまして。お聞きしたいことがあり、メールを送ることに致しました。

 私は去年より小池さんのご著書や家出書店で紹介されている先達の本を師として瞑想を始めました。一回15分から始め、45分座れるようになり、これから更に長くしようと思っていたところに、問題が発生しました。痔になりやすくなったのです。痔が嫌だというのは怒りに過ぎませんが、座ることと直結した問題ですし、年がら年中痔というのもさすがに辛いので、簡単に割り切れず、対応に困っています。今はとりあえず一回25分に短縮して様子を見ていますが、それでよろしいでしょうか?

 また、私は毎日丁寧に歯磨きをするのですが、あるときふと、これも虫歯に対する怒りの発露だと気づきました。しかし実際ひどい虫歯になると夜も眠れないほどの痛みを味わいますし、治療による時間的経済的損失もかなりのものになっていしまいます。それにもし長生きした場合、自分の歯が全て無くなってしまっているより、少しでも残っている方がよいように思います。そう考えると凡夫が歯磨きを丁寧にするぐらいは許されるように思いますが、小池さんはどうお考えでしょうか?

 この「痔と歯磨き問題」について考えるようになってから、仏弟子はどのように煩悩を扱えばよいのか、どの程度許してやったらよのか分からなくなりました。ブッダも中道の教えを説いていますから、あまり生真面目に考えなくてもよいのでしょうか?ご助言宜しくお願い致します。

A:初めまして。あれまぁ、坐ることで色々な問題が出てくることはままあるものですが、そのお悩みには初めて出会いましたねぇ。

さて、まずその二つとも、怒りの問題だというご理解は、ご明察です。しかしながらここでの行き詰まりは思うに、それを肯定すべきか否定すべきか、という二者択一の答えを、欲しがっていることに由来するのではないでしょうか。

つまり、一方では「これは怒りだから良くない」と否定したがっていて、他方では細々とした理由をつけて「やっておかなくては困るから」と正当化したがってもいて、双方が心中で衝突しあって落ち着かないのです。

いえ、私見では歯磨きを「そこそこ」丁寧にすれば良いと思うのですが、そこで自分が嫌がったり怒っているのなら、ただ「怒っているなぁ」と、観察する気づきの視線を向けておくことです。

「こうするのは仕方ないでしょ」と正当化するわけでもなく、ただ、気づいておく。それを長く続けているうちに、もしも過剰に丁寧に磨きすぎていたとしたなら、やがて「ほどほど丁寧」な感じへと最適化されることでしょう。

そのプロセスで、歯の痛みにまつわる記憶や植えつけられたイメージに、自分が過剰に脅えている姿なども、自覚されてくると思います。

それらをただ見つめることを続けているうちに、「過剰さ」や「力み」といった余計な要素が消えるか薄まるものです。ただ、それはすぐにというわけでもなく、じっくりと自覚と観察が深まったあとで生じることですから、急がない、急がない。

今は、「良い、悪い」という両極端を一歩離れて、じっくりと見つめるという、まさに「中道」に立ってみては如何でしょう。


Q:小池さん、こんにちは。メールの心構え(何だか仰々しいですが)について質問させてください。

私はある歌手のファンで、ファンレターならぬファンメールを2年前から折に触れ送っています。 メールの本来の目的は、「あなたの歌を聴けてうれしい」「あなたの歌を聴いて○○と思った」という気持ちを伝えることなのですが、時々「自分のメールを読んで相手に「うれしい」と思ってほしい」という欲が出てきます。それ以前に、自分のメールが実際に読まれているのかという不安もじわじわと出てくるときがあります。

好きで送っているのに、読まれているという確認がほしいとは・・・弱い、弱いです。

話を戻しまして、このように、相手に送るメールに自分の煩悩が強く出ていないかを確認するために、
1.少し時間を置いて何度も読み返す
2.私は・・・」で始まる文を少なくする
という方法を取っているのですが、その他に、自分濃度を薄められる方法がありましたら教えていただきたいです。お願いいたします。

A:いやはや、なんだかケナゲなご質問ですねぇ。

記されている1、2は悪くなさそうです、特にハイテンションなときに書いたものは、ちょっと醒める諸行無常を待ってから読み直し、「我」が出すぎていると感じられるところは削ると良いでしょう。

ところで、「歌を聴いて嬉しい」というこちら側の感情は、受け取る側は腐るほどもらい慣れて飽きていることでしょう。主眼を、「自分が嬉しい」から、「相手が嬉しい」に移してみては、如何。

本当に相手に嬉しく思ってもらいたいなら、人が心の底で望んでいる言葉を、差し出してみることです。(読んでもらえてないかも、しれませんけれどもねぇ・・・)

それは、「自分のことを、ここまで深く理解してくれてるんだ」と思わせるほどに、相手の内面の核心を突く言葉です。

相手の楽曲や歌詞が好きで、かなり聴きこんでおられるなら、その人が胸に秘めた不安や孤独や挫折やコンプレックス、あるいは優しさや理想や情熱といったものが、いくらかは透かし見ることができるでしょう。

そうした、ひょっとすると本人すらも自分で気づいていないかもしれないような思いを、作品から読み取ってみ、それを綴ってみるなら、もしもうまく響くなら「この人は、自分のことを分かってくれている」という感動を、相手に与えることでしょう。

「この人だけは、自分のことを理解してくれる」という感覚(うーん、ひょっとすると錯覚であるにせよ)を他者に与えられるとしたら、ファンメールに限ったことでなく、誰しもを最も温かい心持ちにしてあげることができるものです。


Q:初めまして和尚様、以前から時々HPを拝見していましたが久々に覗いて思わずかけこみたくなったので来ました。

私はこの世に生を受けて18年生きてきた女子です。18なんてまだまだ、とは思いますが、まさに恥の多い生涯を送ってきました。悩みの種は多すぎて、もはや死んでしまったほうが楽だと考えてしまう始末です。

突然ですが、私は、嫉妬の塊です。私は嫉妬という感情で生きています。あの子は可愛い私もあの子になりたい私を可愛いと言って、裕福な家がうらやましい私も好きなものを買い与えられ綺麗な家で過ごしたい、私と同じ時期に始めたのに私より優れているあの子が憎い、私も愛されたい私も抱きしめられたい羨ましい、こんな人生嫌だ。と、こんなことばかり。

もうこんなことを考える自分が嫌で仕方がありません。嫌なことばかり考えるのに、優しく穏やかな人になりたいと考え衝突しもはや自分が何なのかわからないのです。 私はとても汚いのです。心も体も汚れています。だけど私は綺麗でいたい優しい気持ちでいたい、そう思うと頭がいっぱいいっぱいでもうこんな世界が嫌で私が嫌でたまりません。

いっぱいいっぱいになったこの感情を、和尚様、どうか助けてください。

A:ふむ〜う、そんな悩める貴女に素敵な朗報があります。

とっても可愛くなって、「カワイイネ」とちやほやされて、裕福になって優秀になって、抱きしめてもらえたとしましょう。ん、んー、最初だけ嬉しくっても必ずや、不満足で空虚な気分へと、逆戻りすることでしょう。

手に入れると、それらはすべて当たり前のものとなり、「もっと良いもの」を求めて、もっと細かいことで不満足になりイライラするだけのことなのです。

ですから、この世の中に、この心を芯から満足させてくれるものなど、もう本っ当に、一切存在しないのですよねぇ。

そう考えてみると、苦労してまで手に入れるほど価値のあるものなど、何ひとつ存在しない。それが、生きることは「苦」ということです。

それを思い知りますと、「ああ、だったらそういうの全部、手に入れなくてもいいんだ・・・」という風情に、ちょっと肩の力が抜けませんでしょうか?・・・いえ、私の充分に思い知りきれていませんので、ついつい色々と欲しがっては、手に入れては幻滅しちゃうのですけれども。

さて、「優しく穏やかな人」になりたいですか?そうやって「○○になりたいッ」と、何者かになろうとして背伸びする欲望こそ、苦しみの元凶です。

「こうなりたい、ああなりたい」という欲望(有愛)が強すぎて、そうなれない現実の自分を意識するたびに、「汚い、嫌だ!」という自己嫌悪(無有愛)にさいなまれてしまうのでしょう。

ただ、ここでも朗報です。何かの拍子で、一時的になりとも「優しい人」になれて嬉しくなっても、それに執着するほど、自分が優しくなれないときは余計に自己嫌悪に陥ります。なおかつ、「優しい」だけでは足りないような気分になり、再び不満足に戻るだけなのでありました。

あれまぁ、つまり何を手に入れても無駄なだけでなく、何者か素敵な人になれたとしても、問題は解決しなさそうですねぇ。

かくして、この世に、真に手に入れる価するものの、真に「なる」に価する自分も、なんにもないのだと、意識してみましょう。

「ああ、そっか、別に、何者かにならなくていいんだ」と、弱い自分を、許して差し上げて下さい。

すると心がシィーンとして、結果として少しだけ柔らかく、少しだけ優しく、少しだけ穏やかに変化するでしょうから。


Q:小池住職初めまして。住職の本が大変気に入り、愛読しています。

私は、20代女性既婚者です。 あまり"もの"に振り回されたくないため、持ち物を必要現最大に軽く、コンパクトに、いつでも着の身着のまま何があってもどこへでも行ける様に工夫に工夫を重ねて居ます。

ゆえに普段使っているA5サイズの小さなポシェットでふらっと数日間旅が出来る位です。 洋服も下着まで同じものを2セット用意して毎日同じ物を着て居ます。 髪型もセット不要でそれなりに見える髪形です。

色々と考えるのに空いた時間は趣味や自然の移ろいを観察したり、のんびりと音楽を聴いたり、きままにすごして居ます。 私は楽をする為あれこれ工夫をしたり、身軽になるのが凄く楽しいです。 こんな趣味、周囲には当然分かって貰えませんし、私は無理に押し付ける気もないです。

ですが、夫が頭では理解しているものの「いつか出て行ってしまうのではないだろうか?」と時々不安がります。 夫の事は大好きですし、なにより失いがたい存在なのでできれば夫をポシェットに詰めて持ち歩きたいのですが…。 と、冗談はさておき自分のマニアックな趣味のせいで配偶者を心配させるのは胸が辛くなります。 小池住職ならどうしますか?

A:ええ、初めまして。

いやはや あっはっは、あいにく私もまさに似たようなことで悩ましく思うことが多いものでありまして・・・。

あらゆるものを捨てて周りをコンパクト化してしまうため、家族や周りの方々を、時として脅かしてしまったり、不安にさせたりしているのは否めません。

そんな次第ですから、回答する資格はなさそうですねぇ(にっこり)。

文面を拝見する限りですと、押しつける気も持たれていないとのことで好ましいことです。が、多かれ少なかれ、私と同様に、「物を必要最低限にする」ということの気持ち良さに、執着してしまわれているのでしょう。

う、うーん。かと言って、そう簡単に手放せる執着でもなく・・・、もしも「彼のためなら」というステキな気持ちで妥協できるのなら、「あなたを不安にさせたくないから、ちょっと持ち物を増やしてみたよ」なんて、言葉でアピールして差し上げると、安心してもらえるかもしれませんね。ポイントは、自分の価値観のほうが、彼よりも大事だと思わせてしまうと不安(と、実は嫉妬)を生んでしまう、というところでしょう。

ただ、人間と人間が一緒にいる以上、どうしても見ている世界が違うからには、心配させたりヤキモキさせたりするくらいは、仕方ないとも申せるかもしれません。

「心配かけるけど、許してね、ダーリン」というていどに、ほどほどに甘えても、良いのではないでしょうか。


Q:こんにちは。22歳の大学生(女)です。  「貧乏入門」「考えない練習」を読み、自分の生活全体が煩悩まみれだったことに気づきました。過度の考え事、過食、映画、ネット、読書、買い物、人間付き合いなど、以前の私は休む間もなく「強い刺激を求める脳」に振り回されていました。

 今はご住職の本を参考にしながらリアルタイムで「あっいま『慢』の心だった」「今度は『怒り』だ」「菓子パンって舌の上でこんな刺激を作り出すんだ」などと脳の動きを見る練習をしています。そのかいあってか、最近では強い刺激を求める心が薄らいできて、五感が感じる淡い刺激を楽しめるようになってきました。

 しかし、今まで強い刺激にずっぽりの人生を送ってきただけに、なんとなく手持ち無沙汰に感じることがあります。空いた時間があると、「何をすればいいんだろう?」と戸惑ってしまいます。それと、物欲や人に認められたい欲などが全体的になくなってきて、人生の目標がわからなくなってしまいました。たまにふっと「あれ?なんで生きてるんだっけ?今死んでもいいんじゃない?」と思うこともあります。

 (失礼な質問だったらすみません。)ご住職はなぜ生きておられるのですか?人生に「目標」を設定すること自体が間違えなのでしょうか?また、全くのフリーな時間はどのように使っておられますか?

A:おやまあ、「死んでも・・・」」という言葉を見つけて一瞬だけ心配になりましたが、「たまにふっと」そう感じるていどでしたら、ぜんぜん健全なことですから、これはこれでオーケー、と自分を認めてあげて下さいな。

生き方のスタイルを根本的に変え始めますと、心が昔なじみの方向へと戻ろうとして、もがく時期にぶつかるのは、よくあることです。

心は刺激の増幅ができなくなるのを恐れるばかりに、現状を過度に心配したり疑念を抱いたり、という形で幻影をつくりだします。

たとえば「こんなんじゃ世間からとりのこされないかしらん」と心配したり、あるいはそれこそ虚しさをつくり出して「こんなんじゃ生きてる意味がないのでは」と疑念をつくり出してみたり。

けれども、淡い感覚を楽しめるようになったと記しておられるように、こういった幻影が出てこないときは、目の前のひとつひとつのことに充実感を感じて、意識が覚醒している時間のほうが長くなるようにされていれば何の問題もないのです。

そして「何で生きてるんだっけ?」と虚しくなるとき、「虚しくなって、逃げ出そうとしてるんだな」と、それもまた観察してしまってみてくださいな。

大きな目標設定なんて、心を不自然に縛りつけるしろものに過ぎませんから、目標がどうしても必要でしたら、こんなのは如何でしょう。

「今、ていねいに包丁つかって料理するのを目標に」。「今、聞き役に回ってみるのを目標に」。「今、美しくなめらかな動作でお菓子を食べるのを目標に」などなど。

・・・私がなぜ生きているか、ですか。特に理由はないです。理由を考えるときもありますが、それは人生が行き詰まったとき、答えも出ないままに考えるだけですねぇ。あえて申せば生きている間に自分の抱えている心の問題を少しづつ解決してゆきたい、というのがありますね。

フリーな時間は、坐禅をしているか、菓子づくり、交遊、散歩、川や山にいくこと、お茶などを楽しんでいますよ。


Q:和尚様の御本は、ほとんど読ませてもらってます。 何冊かの御本の中で和尚様は苦しみを減らすために御自身の自転車の鍵をかけない、と幾度となく書かれておられます。

ですが例えば「自慢話をし続ける人は自慢話をすることで業を深めていってるので、その人のためにも その自慢話を腰を折ってさしあげましょう」とも和尚様は書いておられます。

その伝でいきますと、盗む人に盗みを行うチャンスを与えず、さらなる業を深めさせることを抑止するのも慈悲なのでは・・・?などと思ってしまうのです。

わたしのほうがなにか根本的に捉え違いをしてるのだろうとは思いますが説明していただけると嬉しいです。

A:イタタタ、鋭いご指摘ですねぇ。

たしかに、物に執着しないという名のもとに、「鍵をかけるという、窮屈なことはしたくない」という我がままを貫いているという側面があるのも否みがたく、盗む人への思いやりまでの、高度の思慮は私には欠けているようです。

ちょうど先日、『聖☆お兄さん』というマンガで、ブッダとイエスキリストが自転車を買う話を読みました。2人はあまりに強力すぎる外付け鍵を買い求めようとするのですが、その理由は彼らの自転車を盗む者が地獄へおちるのを防止するための慈悲、ということでそこは恐らく笑い所なのでしょう。けれども、的を得ている発言なのも確かです。

・・・・・・さて、それが的を得ているのは確かなのですけれども、その利他的思考よりもあいにく、「鍵は窮屈で好きじゃない」というある種の我執や、鍵をかけるとおっちょこちょいで落としてなくしやすいから嫌、とかの思いが勝ってしまうようです。

こうして、すぐには手放せない執着を各人各様に抱えつつ、不完全ながらも行きてゆかざるを得ないということですねぇ。


Q:私は雑誌などでよくある、カバンの中身紹介!という記事がなぜか大好きです。

ご住職の普段出歩く際の持ち物、良ければ紹介してください…!

A:いやはや、変わった趣味をお持ちなのですねぇ。気楽に答えさせて頂きましょう。

極力、身軽にしていたくて、風呂敷の中に入れているのはたいてい、次のものです。

一、筆記具関係。布の小型筆入れ(中に、パイロットの万年筆と
      月光荘のミニクレヨン)、コクヨの400字詰原稿用紙

二、布のポーチ(中にはハブラシ、ハミガキコ、パスポート、
      ハンコ、タトウ紙、カミソリ)

三、手拭い

四、財布

(五、本を読みに出かけるときは、本一冊)


Q:こんにちは。著書やHP、とても大好きで、気分が落ち込んだ時にいつも助けられています。

最近、退職した会社の同僚から、毎日のように送られてくるメールに悩んでいます。その方は私の後任となった方で、内容は主に「今日誰々に褒められて、これも無事に終わった」など、「今日こんなことがあって、私はうまくやっている」という報告のメールです。自分がうまくできなかった事をその人はいとも簡単にやっている様子を聞くと、自分と比べてしまい、私が無能だったんだと感じて落ち込みます。そのほか、「あなたに関する噂が社内で流れている」など、あまり知りたくない・聞きたくない内容のことも送られてきます。

前の会社は好きでしたが、激務で体調を崩してしまい、また上司との折り合いも最後までうまくいかず、円満退職ではありませんでした。複雑な思いも多々ありながら、なんとか気持ちを立て直して再び頑張ろうとしています。そんな時に、メールが来るとつらいです。

時々「こういう時はどうしてた?」という質問も来るので、義務感から仕方なく返事をしています。「内容は気にしない」と思うようにしていたのですが、見るとどうしても、立て直しかけていた心が大きく揺らぎ、辛くて泣いてしまうこともあります。ですが、別に私への中傷を送ってくるわけでもないのに「そういう話は聞きたくないから、もうしないで」と言うのも私が勝手を言っているように思います。

メールを見なければいいのですが、届いてしまうと内容が気になって開いてしまいます。メールを拒否していいのか、耐えるべきか、どう対処するのが自分にとってベストなのか悩んでいます。

A:勝手を言っちゃいけない、とお相手に生真面目に返信をしておられるのは、立派だなぁと思います。

ただ、今回の4コママンガにも描いたのですけれども、そうやって「耐えるべき」と自分に課すことが今の自分にとって成長のチャンスになるどころか、無益な「苦行」にしかならないなら、考えものです。

辛くて泣いてしまうほど、相手からの遠回しな「あなたより私のほうが優れてるんだよッ」という自慢に打撃を受けてしまわれるなら、それは今の自分には「できない」ことなんだと素直に諦めたほうが、良いかもしれません。

なんとか頑張れば「できる」ようになったときはチャレンジすると良いと思うのですけれども、(あくまでも今は)できないんだよねぇ、と自分を許してやっては如何でしょう。

・・・相手にとってもこちらを食い物にしてチマチマした優越感を満たし続けるなんていうことを続けても、客観的には不毛なだけなのですから。

「前の会社のことで色々とコンプレックスが今はあって、思い出すととっても辛くなってしまうので・・・、勝手なことを言うのが心苦しいのですが、お返事を差し上げるのは、これが最後とさせて下さい」。こういった文面を、もう少し丁寧にしたためて送ってみるというのも手です。

・・・という気持で、いざそれを書いている途中で、ひょっとしたら、こんな大ドンデン返しも、あるかもしれません。

「あ〜、いざとなったらこうやって断ち切ることもできるんなら、案外、大したことじゃないのかもね」だなんて。もしもそうなったらなったで、耐えてみても良いかもしれませんねぇ。(にっこり)


Q:小池住職初めまして。20歳になり人生に悩んでいたときに、小池住職の本に出会えてとても救われました。

若い頃からの悩みに答えていただけますでしょうか。私は幼い頃から絵を描くことが大好きでした。将来は、絵の仕事がしたい、できなくても趣味として続けたいと思っていました。 しかし、一人で絵を描くだけなら楽しくても、たとえば落書き帳をひとつ買うにしても、親から「絵なんてものにいくらお金を使うの!プロになんてなれるわけないのに、ばかばかしい!」などと言われて消極的で楽しめなくなっていったり、学校で絵を描いていると美術部員の子に批判をされたりして、だんだんと絵を描くのが楽しめなくなり、自分なんて才能がない、と考えるようになっていきました。

「家出空間」にもたくさんの可愛らしいイラストがありますが、「絵を描きたい」「絵を描くことを楽しみたい」と思うことは、決して悪いことではないんじゃないかなと思います。 今の私は絵を描きたい、絵を描くことを楽しみたい、と思いながらも、「自分になんて才能はないんだ、練習したってしょうがない…」「この絵もダメだ」「どうせまた批判されてしまうんだ」ということばかりが頭をめぐるようになってしまいました。

「絵を描きたい」というのも欲望のひとつではないかと思います。いや、自然に湧いてくるなら違うんでしょうか…。 とにかく、これまで蓄積された批判の声と、自分で自分を「才能がない、ダメだ…」と思う心を変えて、絵を楽しんで描ける人間になりたいのです。 何か良いアドバイスをいただけたらと思います…。

A:「才能があればOK、才能がなければNG」という発想で自分自身のことを見ておられることが、問題の現況と申せそうです。

言わば、「才能がないなら許さないからね!!」と値踏みし査定するような視線で自分をジロジロにらんでいるため、それでは心の底から楽しめるはずがありません。

もしも周囲の人たちやご両親が、「きみって上手くはないけど、描くのが好きならOK」という、暖かみのある視線を向けてくれていましたら、上手い下手に、そんなにこだわらずにすんだかもしれません。

が、周囲の人々からすでに「上手い、下手」という評価の価値観を刷りこまれてしまっている以上は、いかに周囲の視線に対する承認欲求を自覚して抜け出すかが、鍵となりそうです。

まず先に抽象的レベルのことを申せば・・・。「才能なくても、下手でも、それでも大丈夫だからね」という( おそらくこれまで誰も与えてくれなかったであろう)暖かみのある視線を自分に向けてやり、才能があればOKという条件を外した無条件の承認を与える練習をしてみましょう。

おそらく、絵にかぎらず他のことでも「うまくできればOK、失敗はNG」という、ジロジロ見る視線が(おそらくご両親経由で)染みついているので、その冷たい視線を、自分の新しいやさしい視線に置きかえてゆく。

・・・というのは根本的すぎて時間と根気が必要なことですので、極具体的なヒントも少し、記してみましょうね。

自分の中に内面化された、評価し査定するような視線が出てきにくくするには、「立派に完成されたものを、計画に沿ってちゃんとつくろう」という意識を捨てることです。

完成も目的も意味も忘れて、ただ自然体に描きたいと思えるものを、手なぐさみ的に、落書き的に描いてみる。

そうして目的意識から開放されると、潜在的にひそんでいる「うまくできたら誰々に見せて評価されて・・・」というプレッシャー抜きに、楽しく描けるはずです。

換言すると、誰に見せることも前提にせず、それを孤独な、楽しみにすると楽しめる、と思います。

他人に見せて評価されることをひそかに前提にして描いておられるからこそ、評価に傷つく。それは、他人とベタベタしすぎなことの症候とも、申せましょう。

「絵を仕事にしたい」=「仕事として成立するほど人々から評価されたい」=「絵により、人々から承認される快楽が得たい」ということ。

そこでは、「作る楽しさ」と「他人による承認の快楽」がごちゃ混ぜになっているので実は、作る楽しさは、かき消えてしまいやすいのです。

誰にも自分の評価視線からすらも知られずひっそりとやっていて楽しめることから、再出発しては如何でしょう。


Q:こんにちは。 もうすぐ携帯を変えようと思っております。 その際にメールアドレスも変えないといけないのですが、私は滅多にアドレスを変更しないので、長く使えるアドレスにしたいと思っております。

自分の名前や誕生日を入れたり、車が好きなので愛車に関するアドレスにしようか、色々と候補を挙げているのですが、自分に関連するものを全面的に入れるのは自分濃度が濃い行動でしょうか。 『自分ッ』と主張しすぎているかなぁと気になります。

ご住職は携帯をお持ちでないということですが、もしご住職がアドレスを決めるとしましたら、どのようなアドレスにされますか?

A:ん、んー。愛車に関するもの、「daichan-lovelove-toyota」とかのイタイタしい感じでなければ、全然良いと思うんですけれど、ね。

なるほど、たしかに誕生日や好みなどを入れますと、「自分の誕生日は○月×日なんだよ」と宣伝する感情や、「自分は○○が好きな、△△な人間なんだよ」とわかってもらおうとする感情が、混入するのは否めない、かもしれません。

あるいは、フルネームそのままなどですとニュートラルですけれども、語末にリン・チャン・クンなどをつけてユカリンとかシロウチャンとかアユミックスとか愛称風にするのは、愛され願望的な自意識過剰さの表れと、読み取れる面もありそうです。

仏教語を入れたり思想を入れたりするのは、それらの考えに執着して自己主張している印象が出るようにも思えます。

(あ・・・、あくまで一般的傾向を申していますので、誕生日や愛称をアドレスにしている方々がおられましたらお許し下さいまし、ね。)

私でしたら、そうですねぇ・・・、住所をとってkagawa3396-1とかフルネームkoikeryunosukeとか。

自然をながめてamenoyoruとかaozorasiroikumoとか。


Q:こんにちは。 いつも楽しく拝見しています。 女の私が男性の小池さんに聞くのもおかしいな話しですが、女の子が結婚式挙げたい!ウェディングドレスを着たい!と思うのはなぜなのでしょうか?

私は生まれて24年、一度も結婚式を挙げたいと思ったことがありません。 ウェディングドレスも着たいと思ったことがありません。子供の時から一度もないです。 子供の時から友達はみんな、ウェディングドレスを着たい!と言うので不思議でたまりませんでした。

私はおかしいのかなとよく思っていました。 普段はスカートも履きますし、女の子らしい服も着ますし、フリフリのスカートも履きます。 小池さんがウェディングドレスを着てください!と言われたら多分抵抗あると思うのですが、私のウェディングドレスに対する見方はその感覚と多分同じだと思います。

大好きな人が出来たら結婚式に対する見方も変わるのかなと思っていましたが、変わりませんでした。 寧ろますます、形に拘らなくて良い、そんな事にお金使うなんて勿体無い…と思うようになりました。

でも、周りに結婚式やウェディングドレスに夢を抱いている人が多いので、それはなぜだろう?とよく考えると、二人の為だけではなく、周りの感謝の気持ちも込められているのかな、と最近思い始めて、結婚式の意味を理解しつつあった時に、友人が結婚して式を挙げることになりました。

その友人は、両親と上手くいっていなく、友達もいないと言って泣くような子です。 あれ?何で結婚式やりたいんだろう?とまた振り出しに戻ってしまいました。 その子は自分を大きく見せたり、とても自慢話しが好きなので、もしかしたら結婚式も自慢の一つ?と思ってしまって、もしかしてみんなそうなの?と思ってしまっています。

結婚式やウェディングドレスを着たいという願望はどこから来ているのでしょうか?

A:うーん、明けすけに申しますと「皆に特別な場で自分の幸せを祝福されたい」という、ある種の見栄は多かれ少なかれ、含まれるでしょう。

「自分が幸せそうにしてドレスを豪華に着飾っている特別な姿」を、多くの人たちに見てもらうことで、改めて幸せを実感しようとする側面は、たしかに否めないと思います。

ただ、自慢癖のあるご友人が結婚式をすることになったからといって、すべての結婚式=自慢と結論するのは、否定的にとらえたい色眼鏡を通して見ているようで、飛躍しすぎているように思えますねぇ。

両親をはじめとして親族に対しては、自分の幸せそうな姿を見せて、安心させてあげたり喜ばせてあげたいという利他的な気持も、成分には含まれていることも多いものです。

あるいは「大袈裟な儀式をして労力もお金もかけ、多くの人に祝福された以上は、かんたんには別れられないよね?!」的な意味もあるような気もします。(いやはや)

ウェディングドレスなどというものは、儀式の単なる一部にすぎません。それを無意味だと思いつつも、相手や周囲が強く望むのならあわしてあげるという選択肢もありそうです。

そう考えますと、それを男性がウェディングドレスを着たくないと思うほどの強烈さ(いやはや)で嫌いすぎるのは、「形に拘りたくない」ということに、拘りすぎて自分を窮屈にしてしまっている、かもしれませんね。

「自分は形に拘らない、見栄は嫌いだ」という自己イメージをあまりに強く持ちすぎて、ギスギスしてしまっているようにも、感じられました。

結婚というのは相手と自分がするものですから、相手が式をしたくないならしなければ良いですし、相手がしたがっているなら自分に無理のない範囲でつきあってあげる、くらいのスタンスが柔らかくて、本当の意味で拘らない態度になることでしょう。


Q:こんにちは。 住職の著書を読み、大胆に実践に移してみました。

部屋がとてもちらかっていたので、大掃除をしました。 アイドルが好きで、関連グッズやCD、映像作品、さらにはアダルトビデオなどを「ほとんど」捨てて、ヴァーチャル女の子を追いかけるのを辞めてみることにしました。 すると外出する機会や、実際に女性と交流する機会が増えて、お友達ができました。

明らかに僕に好意を持ってくれているのが伝わってきたので、最初は嬉しく思ったのですが、徐々に面倒になっていきました。 メールの返事は面倒ですし、誕生日やバレンタインなどのイベント事の際に何かプレゼントを交換しよう、といった男女間特有の行事が煩わしくて仕方ありません。 やっぱりアイドルを眺めてる方が気楽じゃないか、と思い、少しだけ残しておいたアイドルのDVDを鑑賞していると、途中でメールが来て、ついにケンカしてしまいました。

もう、心底ヴァーチャル女の子が楽!!!ッと思ってしまい、それ以来またアイドルファンに戻りました。

いらないフリはしません。現実の女の子ともお付き合いしたくて仕方ありません。 このままの僕を受け入れてくれる人を探す、という選択肢は、欲張りなのでしょうか。

A:いやはや・・・、仰られるとおり、ええ、それは欲張りというものでしょう。

そんな心の広い女の人ないし、自分に面倒をぜんぜんかけない人なんて、この世にはいないでしょうから。

特にこの場合、アイドルやヴァーチャル世界の女の子たちを好まれているポイントが、「自分は面倒に関わらずただ一方的に楽しみたい」といったところにあるようなのが、気になるところです。

ところが通常の異性関係は基本的に、互いにディープな面倒をかけあうことで成り立っています。「楽しみだけを一方的に取りたい」という発想を弱めないと、誰が相手でも反感を買うことになるでしょう。

が、ヴァーチャルへ逃避すると、その発想を強化してしまうのが、難点と言えそうです。

アイドル鑑賞なら一方的に楽しむだけで良いのですが、生身の相手の場合、こちらは相手に色々な面倒をかけるものです。

そのお返しに、自分も面倒という労力を払ってあげるくらいの心意気を磨いてみては、如何でしょう。

それを磨く途上で、「あー、もう疲れたッ」とうんざりするときもあるでしょう。アイドルやビデオはせめて、そんなときの一時的現実逃避を助けてもらう、くらいのつきあいにするのが良いかも、しれませんね。


Q:小池さんは、たくさんの方から様々な悩みを相談されることが多いと思いますが、小池さんご自身は個人的な悩みを周りの方に相談することってありますか?

A:ありますよ。中立的な人に聞いてもらっているうちに、自分がどうしたいのかが見えやすくなりますからね。


Q:こんにちは。くだらない質問で申し訳ないのですが、先生は本の虫が出てきたらどう対処されていますか?

虫の正式な名前は分からないのですが、紙や本に出てくる小さい小さい虫です。 最近なぜかよく出てくるようになって困っています。 床はフローリングで毎日掃除し、窓も開けて日光も部屋に入れています。

「部屋何もないね」と人から言われるくらい、自室は箪笥とベッドと昨年買ったばかりの本棚しかなくて、ごちゃごちゃしていないのですが、たまたま部屋に置いていた紙の上にいたりフローリングにいるのを最近見かけます…。

A:ああ、ときどき見かけますよねぇ。

そのまま放っておきます。人に害は(たぶん)およぼさないはずですしねぇ。


Q:ご住職の座右の銘を教えてください!

A:「まー、いっか。」です。


Q:和尚様 質問させていただいてもよろしいでしょうか

脳は 自分にとって 敵 なのでしょうか。脳の支配を逃れる事は、ないのでしょうか。

どうかよろしくお願いいたします。

A:…というように疑問を持っておられるのも脳の機能のひとつなのですから、決して敵ではなくって、脳によって脳の働き方を適正化してあげるのが肝要なのです。


Q:最近の領土のニュースに心がざわつきます…

世界平和を心から願っています。

庶民は気にしない方が幸せなのでしょうか…

A:平和を願うこの心が、まずは平和になることが、第一歩だと思います。

息を感じながら「なぜ、自分はこんなにもニュースに心がざわつくんだろう?」と原因を探ってみると、それをきっかけに自分自身の平和を願う心の中に意外と、傲慢さや恐れやこわばった正義感などが巣食っていることに気づくことのできるチャンスに、なるはずですよ。


Q:こんにちは。 数年ぶりにあった友人についての御相談です。

久しぶりにあった友人は、以前と変わってロックを聞くようになっていました。私も昔から大好きなバンドです。ですが、私はもうCDを買ったりとかはしていなくて、バンドの近況も全然知りません。

会っていない間に友人は熱狂的ファンになり、ライブにも遠征しているみたいで、ライブのグッズの写メなどを見せてきたのですが、本当に好きなファンしか買わないだろうなーというよな、ちょっと高価なマニアックなグッズで、正直、 『うわーこんなの買ったのー?!』と思ってしまいました。『これのどこが良いのー?!』と…。 友達だけど、その心を露わに出来る程の相手ではない為、口では「へぇ〜」と反応し、可愛いでしょ?と聞かれて、うん、と答え…。

遠征先で、そのバンドと同じ名前の飲食店に行った!と店の看板の写メを見せられたのですが、ただ偶然にバンド名と飲食店が同じ名前というだけで、そのバンド本人たちとは全く関わりないいただの飲食店なのです。 『えーー!!だから何ーー!!』 と思い、これが一番反応に困りました・・・。 ファンの間では有名な飲食店みたいなのですが、自分の好きなバンドと同じ名前の飲食店ってだけで盛り上がるのが意味分からなくて…。

次にライブ当日の友人のパンキッシュな格好を見せられて、『わぁぁぁこんな格好してるのー?!似合ってないよー!ダサいよー!』と思ってしまいました。。。 でも友人はとても嬉しそうに満足気。 私は、なんでも言える友人なら『うわー!笑』といった露骨な反応をするのですが、そうではない相手の為、正直な反応する勇気はなく、「へぇ〜カッコイイねぇ」と心にもない事を言ってしまいました。

パンキッシュな格好を否定するわけではありません。以前私もそのバンドが好きだったので、そういう傾向に服装も変わるのはわかります。

話しを聞くのは構わないのです。話しを聞いてイラッとはしないので、話しの腰を折るほどではないのです。でも、どんな反応をしたらいいか困ります。

こういう時、どんな返事をするのが良いのでしょうか? 相手がとても楽しそうに話しているから相手の気を悪くさせないように、良いと思わないものでも、良いね!と楽しそうにするのが良いのでしょうか…。

A:いやはや、私たちは相手の「見て見て」という承認欲求を向けられたとき、反射的にこう思ってしまいがちなものですね。

「『良いね!』って承認して喜ばせてあげなくちゃ。だって、そうしないと相手は不機嫌になって、自分を承認し返してくれる度合いが下がってしまう・・・」。と。

こうして無意識的かつ反射的に思う結果として、相手に同調したくないのに同調してしまうプレッシャーが生じているのです。

けれども無理して楽しそうに同調すると、「本当は違うのにッ」と、抑圧された本心が苦しみますから、避けたいも。

まずは「気を悪くさせないように」という思いの裏側を、見つめてみましょう。「あー、この人を承認してあげることで承認されたいという、慢の欲が自分にあるのだなぁ」と、受けとめてやる。

自分の勇気のなさの正体をよくわかってあげると、ちょっと勇気が出てくるはずです。

そうしたら、「嘘をついてまで同調しなくてもいいよね」という程度の気分ににはなれるものです。

「へぇ〜 カッコイイねぇ」という、プラスすぎる媚びた表現は、「へぇ〜 パンキッシュだねぇ」という、ややニュートラルな表現にすることもできるでしょう。

高価なマニアックなグッズに対しても、「可愛いでしょ?」と聞かれた際に、「うん」と媚びなくても、たとえば「あー、ファンならたしかに、こういうの欲しくなるよねぇ」などとニュートラルにかわせます。

「この程度のニュートラルさで十分に会話は成立するから、そこまでおびえて媚びなくてもいいからね」と、怖がっている自分の心を勇気づけてあげたいものです。


Q:こんにちは。書籍、及び正現寺で勉強させていただいております。

さて、睡眠についての質問です。私は少なくとも6時間は寝ないと調子が悪いと自負していますが、人によれば2〜3時間の睡眠で精力的に活動されている方もいらっしゃるようです。

深夜遅い時間になると、寝なければ!と思ってしますのですが、これは強迫観念に過ぎないのでしょうか?

睡眠についてお話頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。

A:大丈夫、私なんて七時間は寝ないと調子が悪いと「自負」していますよ。にっこり。

精神がクリアになっているときは、睡眠の必要時間が減るのはたしかです。が、ある程度生まれつき体が丈夫な人もいれば、私たちのようにちょっと弱くて睡眠が多めに必要な人たちもいるのは、しかたがないのじゃないかなぁ、と思います。

夜十時から深夜二時ごろまでがもっとも睡眠による細胞修復に適していると言われてもいるとおり、規則正しく早寝のリズムをつくっておくのは、心と身体を保つのに資するこごです。

とは申しましても、「寝なければ!」という思いに縛られるのは、嬉しくありませんよねぇ。(私にも、見に覚えがあります。)

そうしないためには、夜遅くにはなるべく予定は入れず、決まった時間に眠くなって自然に寝るのが当たり前にしておくのが、お勧めできるかも、しれません。


Q:はじめまして、こんにちは。住職の著書を拝見し、アドバイスをいただきたく投稿させていただきました。

わたしの悩みは、仕事のことです。 私は広告制作会社で編集ライターとして働いています。仕事はとても忙しく、朝10時前に出社して帰宅はいつも23時以降です。広告ですので、クライアントや代理店の意向は絶対。シリーズものを請け負っているため、新しく提案する機会もほとんどありません。

自分なりに一生懸命走り続けてきたつもりですが、最近ある一言でやる気がフッと落ちてしまいました。 「もっと馬車馬のように働いてもらわないと」、相手の人が冗談交じりで言ったことも分かっています。最初は怒りを感じましたが、今は気持ちの入らない状態で仕事をしています。

少しずつ転職活動も始めていますが、自分が何をしたかったのか分からなくなってしまいました。現在29歳で、仕事はずっと続けていきたいと考えています。女性なので、結婚も出産もしたい。

すべてを得ようとせず、本当に大切なことを見定める時期なのかもしれませんが、今は整理ができません。ただ気持ちは焦るばかりです。

どうにか気持ちを切り替えて今の会社で仕事を続けるか、派遣社員に切り替えて働きながら考える時間を作るか。

夢中になれるものが唯一「書くこと」なので、違うことにも目を向けたいとも思っています。 長々と悩みを書かせていただきましたが、少しでもアドバイスをいただければ幸いです。

A:心ない一言を一発、浴びせられてすっかり萎えてしまう・・・・・、というこから、自分自身の成り立ちを一歩立ち止まって吟味してみる好機なのかもしれません。

そのくらいでパッと萎えてしまうということは、本当の本当にその仕事がご自身の拠り所にはってくれているわけではないことがわかりそうです、よね。

それどころか、心の中のどこかで無理をしすぎているとか、強引に夢中になりすぎているとか、負担を感じつつも軌道修正できないでおられたのではないでしょうか。

「社会で”自己実現”できるクリエイティブそうな仕事」とでも申せそうなものにガムシャラに取り組むことで、自分の価値を吊り上げることに夢中になりすぎる。その結果、ゆっくり立ち止まることや人間関係を温めることができなくなって心身ともに疲れ果てておられたのかもしれません。

それゆえにこそ、言わばすでに「フッと落ちる準備は心の中で出来上がっていた。そこに冗談交じりの一言がやってきて、「これをダシにして落ちてみよう」と、自分から壊れてみたというのが、本当のところでしょう。

ですからこの足踏みの時期にこそ、静かに内省してみるといいのです。「なぜ自分は、こんなにバランスを欠くほど仕事に執着しているのだろう?」と。

すると、仕事以外のものや人が自分を認めてくれなかったり助けてくれなかったり、支えてくれなかったことへの、恨みや不信感、見返してやりたい、などという思いが、ひょっとすると掘り出されてくるかもしれません。

そういった煩悩をまずは認知してみましたら、「そんなことだったのか」と肩の力を抜いて、バランスを取り直すこともできようかと思われます。

これまで”自己実現”中毒で、むしろ自分の足場を見失っていたところから、今は目を覚ます途上なのでしょう。


Q:小池住職、はじめまして。最近ご本やHPをよく読ませていただいております。

私は今年で30歳になる独身女性です。休日に気軽に出かけられるような友達がおらず、とても孤独なのが悩みです。 仲良くしていた高校の同級生たちとも私のつまらぬプライドから縁を切ってしまい、大学でも社会でも長続きするような友人ができませんでした。

住職の言葉を読んでいるうちに、これは私の「慢」「欲」「怒」といったものが強過ぎて、その業を積んできた結果なのかなと思うようになりました。

自分を変えるために、これから坐禅瞑想を勉強してみようと思っております。でも、それで変われるのだろうかという不安もあります。 そんな私に一言喝をいただけませんでしょうか。

A:喝ァァァ〜〜〜〜〜ッ!

・・・・と、原稿用紙に記すのはできるのですけれども、実際に一喝するのは、得意ではありませんねぇ。ニッコリ。

さて、「それで変われるだろうか」という不安は、思春期のあれによく似ています。

初恋。好きになってしまった。告白したい。

けれども、「それで振り向いてくれるだろうか」と不安になってしまう、というアレですね。

その本質は、もしフられたらプライドが傷つく、という「慢」に他なりません。

裏を返しますと、別にフられてもプライド以外のものは、何ら損害を被らないのです。

そう考えて、慢を捨てて告白すれば、うまくいくか、もしくは玉砕してスッキリするか。どちらにせよ悪いことにはなりません。

瞑想も、変われなかったら、見切りをつけて諦めれば良いだけのこと。すなわち、玉砕してもいいや、くらいの気軽さで足をふみ入れてみては如何でしょう。

また別言いたしますと、瞑想には向き、不向きがありますから、やってみても「フられる」ということが起き得るのは、人によっては当然なのです。

いざとなればスパッと諦める潔さで、慢を引きはがしてみますなら、「慢」」の自分を変えるための少なくとも第一歩には、すでになっているのだと、申せましょう。


Q:いつもこちらで勉強させて頂いています。

私は、友達が少ないです。特別仲の良い人はいません。とても仲が良くて、本当に大好きだ!!と思える友達、昔はたくさんいたように思うのですが、今はいません。 会いたいと思える友達がいません。学生の時仲の良かったグループの子とも全然連絡取らなくなってしまって、あんなに仲が良かったのが嘘みたいです。

普段友達がいないことは気にならないのですが、誕生日を迎える時が毎年辛いです。 おめでとうのメールが1件くるかどうか…。昔はあんなに祝ってもらえてたのに、と昔を思い出してしまいます。 学生の時仲の良かった子たちは、ほとんど私よりみんな誕生日が早いため、学校を卒業しても私は、おめでとう!とメール送ったり、プレゼントを贈ったりしていたのですが、私の誕生日はみんな何も触れてこないので、私もいつしかお祝いしなくなりました。

普段から密な付き合いしていないからお祝いのメールなど来ないと分かっていても、でも誰かから来るのではないかと、期待してしまう自分が嫌になります。とても悲しくなります。 祝ってくれる人がいないのになぜ自分は生きているのだろうと思ってしまいます。 誕生日が、辛いです。

A:「誕生日を何人もの友達が祝ってくれる」というのを、自分の存在価値のバロメータにするというのは、よくあることです。

けれども「おめでとう!」とメールやプレゼントを交換していても、心の底から互いのことを理解しあって、心の底から「生まれてきてくれてありがとう」と思ってくれている人なんて、ほとんど皆無なもの。

特に、そういった友人の人数を増やせば増やすほど、ふつうは関係性も浅く平板なものになりがちでしょう。そんなの、本当は心の支えになりはしません。

大好きな友達が「昔はたくさんいた」と仰っているのも、子供時代の感覚の雑さゆえの、錯覚にすぎないかもしれません。

もしそうなのでしたら、昔はしてもらっていたものを失って悲しいと嘆かれているのも錯覚。それらは元々、なかったようなものなのです。

元々、ゼロ。そう明るく考えて、本当に価値のあるお祝いをしてくれる人が、たった一人でもいてくれるように、人づきあいの仕方を見直してみてはいかがでしょう。

蛇足ながら、そのためのポイントは・・・・・・「この人が生まれてきてくれたおかげで出会えて、本当に私にとって良かった」と相手に思ってもらえるほどの、関係を築くこと。

「自分が大事にされたい、祝われたい」という姿勢から、たった一人でも相手を優先して、大事にする姿勢に移ること、です。


Q:こんにちは。いつも著書を熟読し、ここでの回答も楽しみにしております。

ご住職は普段私たちの前でお話しする時と、テレビでお話しする時と、仕事の関係者の方とお話しする時と、家で家族とお話する時と、親しい友人とお話しする時と、恋人とお話しする時、全て同じですか?

私は、会社では、なるべくハキハキした話し方をしていますが、親しい友人の前ではダラけた話し方になってしまい声も低いと言われ、恋人の前では赤ちゃんみたいな話し方になってしまいます・・・。 恋人にこんな話し方をしているなんて友人が知ったらビックリすると思います。

話し方も一つに統一した方が良いのでしょうか。

A:そうですか。このご質問は、私も楽しく読ませて頂きましたので、おあいこという案配ですね。

さて私の場合、基本的にはほぼ全ての人に対して、ゆっくり丁寧に話します。ただし、昔からの友人や家族に対してのみ、丁寧語で話すと違和感があるため、言葉はフランクにしつつ、口調はゆっくり静かに、を保っているかと思います。

書かれている、「ハキハキ」→「ダラけた」→「赤ちゃんみたい」という三段階は、なかなか興味深いものです。

「嫌われないようキチンとしなきゃ!」と緊張して過ごす層と、「これくらい受け入れてくれるよね?」とばかりにリラックスして過ごす層と、徹底的にリラックスしきって甘えたくなる層。

言わば、その三層の身分秩序へと、人々を無意識的にふりわけておられるのでしょう。

その結果、第一の層の人々と一緒にいると、疲れすぎてしまいませんでしょうか。

一番の近しい人には「あなたの前でだけこんななの〜☆」という具合に見せてあげるのは、相手の特別感もくすぐりますから悪いこともないかもしれません。

けれども、「甘えすぎ」と「緊張しすぎ」は共犯関係にあることを考えますと、甘えの度合いを少し下げて、ハキハキ演技しすぎる度合いも少し下げて、上がり下がりのギャップを縮めてあげたほうが、自分が安定してラクになることでしょう。

統一、とはゆかずとも、落差縮小、ですね。


Q:小池住職、はじめまして。御著書、HP等いつも勉強させていただいております。

私の悩みにお答えいただけますでしょうか。 私には職場で嫌いな人がいます。Aさんとしましょう。 そのAさんは快活で人当たりも良く、私とは正反対です。 管理職にも可愛がられており、その姿を見ると私は勝手にやってろ、とトーンダウンします。

私がAさんを嫌いなのは何事にも細かいといった点や、歯に衣着せぬ指摘をする点、いい子ぶりっ子している、と感じるからだと思っております。 最近ではAさんと仲良く接しているほかの社員とまでも口をききたくない、とさえ思うようになりました。

Aさんを嫌いなのはおそらく私だけです。 そしてAさんはおそらくですが、私を嫌っていません。 私が勝手に自分の中で状況を苦しいものにしていると思います。

今の職場は良いところです。辞めたくありません。 住職、どうかご回答いただきたく思います。

A:おやまあ、文面をさっと一読しまして最初に気になりましたのは、実はAさんのことを嫌いな理由を列挙したところでありました。

「何事にも細かい。歯に衣着せぬ指摘をする」という点と「いい子ぶりっ子をしている」という点は、通常ですと両立しなさそうな事柄だからです。

これはあたかも、借りたヤカンを壊してしまった人が、こんな言い訳をするという古いジョークに似ています。「ヤカンは初めから壊れていたんだよ」「実はヤカンを壊したのは昨日の来客の奴なんだ」「ところで俺はそもそも、ヤカンなんて借りてない」と。

言い訳の数が多すぎて、それぞれが矛盾している。心が強引な主張を無理矢理でっちあげようとするとき、こういったことがよく起きるものです。

ですから「Aさんのことを何としてでも嫌いになりたいッ」という衝動が先にあって、強引に、ありもしない理由をでっちあげておられるのでしょう。

問題の核心は、「私とは正反対です」と記しておられるところにあります。正反対ということは一応、同じ系統の線上に乗りますから比較対象になりやすいという意味では、実は似た者同士なのです。

自分と似た者同士の存在が優秀であったり良い評価を受けていますと、自分の取り分が減るように錯覚して、動物的な攻撃性が嫉妬という形で表れる。言わば、似た者の幸せは毒の味。

結果として心が醜くなり、他の仲良しにまで「坊主憎けりゃ・・・」式に攻撃性が向くなら、やがて孤立して、それこそ取り分が減ってしまいます。まずはこのことを意識しておく。

せめて加えてAさんが自分のことを嫌っていない、という安心材料を大事に使って、もう少し積極的に接して具体的な印象を増やすことをお勧めいたしましょう。Aさんへの抽象的かつ盲目的な否定を啓蒙できるほどに、Aさんから自分自身も優しくしてもらったり人当たりよく扱われているうちに、気分も和らぐかもしれません。


Q:こんにちは。ご住職の著書を拝見させていただき、こちらのサイトにたどりつきました。

突然ですが、最近結婚について漠然とした不安を感じ始めており、それに対してどう対処したらよいのか悩んでおります。 具体的に申しますと、私(25歳)は将来子供がほしく体力的な面を考えて20代で出産したいため、結婚も20代でしなければと考えております。

現在2年弱お付き合いさせていただいている男性(33歳)がおり、私はその男性と結婚したいとは考えているのですが、彼から結婚の話が全くないことから、このままでは20代での結婚・出産が難しいのではないかと考えており、彼を諦めて別の結婚願望のある男性を探すべきではないかと悩んでおります。

一方で、20代でなくても最近30代で出産する人も増えてきていることから20代での結婚・出産にこだわる必要はない気もしています。さらに、結婚や出産しても夫や子供が離婚や死別等で自分と永久に一緒にいるとは限らないことを考えると、そもそも結婚や出産は必要ないのではないかとも思い始めています。それでも20代での結婚・出産にこだわりをもち、焦りを感じている自分がいます。

上記のような不安や焦りを解消するためにはどうすればよいでしょうか。宜しくお願いします。

A:ん、んー。「20代で子供がほしいッ」という思いは、遺伝子の命令には適うものではあるでしょう。

なにせ、仰せのとおり20代のうちのほうが体力的な面で有利で、より健康的な子供を産んで、遺伝子のコピーをより堅実に子供へと残してゆくことができますから、ね。

ということは、その願望は一方では、ご自身が遺伝子の言いなりになっているということです。(ええー!?)そして他方では、20代のうちに好きな人から「結婚という贈り物」をもらえる人のほうが、価値が高い。という世間の神話にも、洗脳されているのかもしれません。

そして上の二つの考えに支配されつつ男性を求めますと、小心者な男性の慢心をいたく傷つけますから、気をつけましょう。「子供が欲しいだけなら、ボクじゃなくてもいいじゃないか、ガッビーン」と。(いやはや、まさに他の男性を探すべきか・・・と考えておられるようですねぇ。

さらに、「子供がほしいほしい」という気持ちがあんまり強すぎるのは、我がアイデンティティを「この子の母親」というところに注ぎこみすぎることになります。

結果として、まさに遺伝情報をしっかりコピーしつくすべく、子を過剰に世話しすぎたり支配しすぎたりと、子供に依存してバランスが崩れる可能性すら、あるのです。

遺伝子の命令にせかされていることに気づいて、も少しゆったり構えてあげること。それによって男性に対しても、やがて生まれてくるであろう御子にも優しくなれることでしょう。


Q:こんにちは。いつもこの寺子屋の更新を楽しみにしています。高校2年生女子です。

最近私は「モテたい」と常日頃思ってしまいます。

ある日突然自分に素敵な人が現れる妄想や 目が合っただけでも「あの人ウチのこと好きなんかも!?」 と妄想妄想・・・・

「モテたい」「好かれたい」「嫌われたくない」と思うあまり、男の人としゃべった後に 「もっと好感もたせる言い方あったのになーあーあー・・」と後悔後悔・・・・ そんな煩悩だらけの毎日に心休まる日もあらず・・・

モテたくてモテたくてたまらないこの心・・・ どのようおにこの心を対処すればよいですか?

A:あっは、大丈夫。この質問を執務室のかたが「おもしろい」と選んでくれましたから、素直な文面がちゃんとモテていますよ。さて「もっと好感持たれる言い方あったのに・・・」的なことは、私も高校時代いつも考えていました。

そして、「次はこう言えばうまくいくはず」なんてガチガチに思いすぎるせいで、かえって固くなってやっぱり次も「もっと良い言い方あったのに」「こうすれば良かったのに・・・」と。で、お話は無限に続く。

こういったループは、異性と会ったりメールのやり取りをするたびに生じて、ずーっと、「もっとじょうずに愛されなさい!」=「もっとうまく評価されなさい!」という命令にさいなまれることでしょう。

それがうまくゆくと快楽物質がドバー、失敗すると不快物質がドバー、というアメとムチ。でも、たとえうまくいっても安心はできず、もっと好感度アップのために頑張らなくてはならず、それは自分をつまらない”愛され人間”というパターンにはめこむことになります。何のために生きているのかわからなくなるでしょう。

転じて、この文面はいつもの対人関係よりも、飾らず、比較的モテようとせず素直に記されましたでしょう?そして、その他者の視線を(あまり)気にしていないのは、最初に申しましたような(ある種の)魅力を伴うものなのです。

相手に「モテよう」=「好感を持たれよう」として素直な気持を隠して演じてしまいそうになるたびに、「あ、演じる煩悩モードだ」と気づいてやりましょう。

そして、何回かに一度は、素の自分をあえて出して意表をついてみるのも、痛快なだけでなく、自分をラクにしてくれるはずです。肩の力が、抜ける。


Q:こんにちは。

小池さんの本を毎日読ませていただいている学生です。 読んでいると《はっ》と気付くことが山々です。

いきなりですが、男性にも女性にももてたいです。特に女性の方は。もてるための秘訣を教えてください。

あと悩み事が無くなる方法も教えていただきたいです。

A:いやはや、狙ったわけではないのでしょうけれども、ちょっと愉快な質問ですねぇ。あいにくモテるための秘訣を考えている間は、「この人って自分が大好きなナルシストだねぇ」と思われて、魅力が半減すると思います。残念ッ。

ですからモテ(すなわち人からの視線)以外のところで、楽しみを感じられるように練習して、楽しさの回路を組みかえてみられてはいかがでしょうか。

少年老いやすく学なり難し。今の、深く潜って一気に成長すべき短い期間を、他者の視線を気にする露出狂で無駄に使うのは、もったいないです。

今くらいだけでも、人からは離れて孤独に勉学し、世間と関わりなく深く深く、充電しておくことをお勧めいたしましょう。

ついでに申せば、「いきなり秘訣を聞いたり悩み事がなくなる方法を聞いたりしても、多分困らせるんじゃないかなぁ・・・?と、想像力をはたらかせるのも大事、でしょうね。(にっこり。)


Q:こんにちは。御著書の中の、守るべき決まり事の中で、昼食以後は、何も食べない、と書かれていらっしゃるのを読み、 ダイエットにもなるし、ラッキー☆と、軽い気持ちで始めたのですが、鍛え方が足りないせいか、夜になると、お腹がすいて、倒れそうになってしまいます。

また、一人暮らしなので、普段は食べないで済ませるにしても、人との夕食などは避けられません。 でも、一方で、夜に食べないと、胃や腸が休まっている感じがするのも事実なので、上手なペースで食事をとりたいと模索中です。

ご住職様は、普段の生活では、いつも夜は召し上がらないですか? また、食間の、エネルギー補給になるようなものがあれば、教えて下さい。

A:こんにちは。これに似た質問を時々いただきますので、ここに答えておきましょう。

食事のことに限らず、あらゆるルールは、自分に課すときに、自らの身の丈に合ったものであるのが大事なことです。ルールを課して、つらくなっているようなら、それは身の丈にあってない、ということ。

昼以降に食を断つことは瞑想修行のみにひたすら集中的に取り組むためのものですから、日常生活をふつうに送っているときにまで、無理にそうする必要もありません。

食を断つことで身も心も快調になるなら採用する。けれども仰るように、倒れそうになったり人付き合いに支障をきたすようでしたら、当面は不採用にする。

実験してみて、あわないものは避けて、合うものは採用するという姿勢で、いろんなものを取り入れると良いでしょう。

私の場合は、以前は夕方を抜いて朝・昼の二食だったのですけれども、ここ半年くらい普段の生活では、朝を抜いて昼・夕方の二食にしていますよ。

うーん、間食のエネルギー補給・・・?消化に負担なく、満足感のあるものが良さそうですね。私でしたら葛湯や葛餅をさっとつくるといった具合でしょうか。


Q:はじめまして。ご住職のご本を読みながら、元気をいただいております。

私は二児の母ですが、子供たちの学校がらみのお付き合いがとても苦手です。 小さい頃には親子参加もあまり苦にならなかったのですが、中学になってもまだ親子での食事会などあり、とても気が重たくなってしまいます。

元来人見知りなところがあり、ほとんど知らない方ばかりの中で、身の置き所がないのがしんどくなります。 子供のため、なんだろうのに、親がしんどくなるって私がやっぱりおかしいのかしらと、行事の案内がくるたびに憂鬱です。 悩んだ挙句に、不参加にすることが多いのですが、親としていけないだろうかと、あとで罪悪感を感じてしまいます。

こんなうじうじの私に、喝をお願いします。

A:そうして悩まれているのは自分の身の丈にあわない、”立派そうな親”という演戯を、やめるタイミングがきている、ということなのかもしれません。

「親としていけない」「やっぱりおかしい」と思ってみられたところで、できないものはできないのだと、開きなおりたいものです。(ちなみに、もし私が同じ立場でしたら行きたくないですよ。にっこり。)

できないことをやろうとしたり、できないことに罪悪感を感じたりして自分の心を疲れさせるよりは、「これはできないから仕方ない」と開きなおって、他に子どもにしてあげられることをして差し上げて埋めあわせれば良いでしょう。

子どもに対して「ちゃんとした親ですよ!」と見せようと無理したくなる自分の慢心に気づくこと。そのうえで、「ごめんね、うちだけ親がいないのは肩身が狭いかもしれないけど・・・、正直言うと知らない人たちの中にいると身の置き所がなくてつらいから、行きたくないの。」といった風情に、自分の素顔を見せてやると良いのです。

こうして”良い人”とか”立派な人”をやめることで、肩の力も抜けますし、ついでに子どもとの距離まで縮まることでしょう。肩肘はった演戯を通じて、ほんとのコミュニケーションは生じませんから。


Q:小池ご住職に質問したいことがあります。

私は今獣医学科で獣医師を目指しています。また生きる軸として仏教が基本にありお釈迦様や小池ご住職の教えを勉強しています。

私は地球上から人間の肉食文化が無くなれば良いと願い動物の権利について勉強しています。人間と動物の命の重さは同じだと日々感じています。

そこで、仏教ではその辺りをどうとらえているのかを教えて頂きたいです。人間界で悪い業を積むと畜生界に生まれ変わると聞きました。それは仏教では動物は人間よりも劣っている、人間の方がより幸せだ、と考えているということでしょうか?もしそうだとしたら、具体的にどのような点において劣っていると考えているのでしょうか?

仏教で動物性タンパク質を摂らないのは自分に悪い業が溜まるからという理由だけでなく、人を殺してはいけないのと同じ理由で動物も殺してはいけないという考えは存在しますか?

これらについてお釈迦様のお考えとご住職のお考えも教えて頂けると嬉しいです。

私は動物と人間は「平等」であると考えていますが、もし心から信頼している仏教で違う考えだったら自分の根本を揺るがされる気がして質問させて頂きました。

あまり万人受けしない質問ですがお答え頂けると嬉しいです。

寺子屋にはまだ参加したことはありませんがこのような質問をしても大丈夫でしょうか。

先日ご住職のマフラー姿が可愛くて癒されました。一段と寒くなりましたので風邪引かないように気をつけて下さいね。

さようなら

A:動物や虫は、人間よりもはるかにささいなことで生命を脅かされ、ビクッと恐怖を感じる機会の多い境涯です。

その意味で、”怒り”を感じることが多く、それに基づいた”苦”を感じている時間が長い場合が、多いのです。

それに加えて、人間の場合は、自分が”苦”を感じていることを自覚して"苦”を消すこともできるという点で、仏教では人間に生まれることは(それなりに)幸福だと、捉えています。

ただしその可能性を使わずに、動物以上に強烈な苦しみをもたらす悪業をも発してしまうこともあるのが、人間という境涯ではあります。

そのように人間と動物の間に差があることは明らかです。しかしながら、”優劣の差があること”は”命を奪って良いこと”の根拠には、なり得ません。

仏教では、あらゆる生き物が”生きたがっている”という点では同じなのだから、その点では平等だと考えるのです。ですから、「人だけは殺してはいけない」とも言いません。「動物だけは殺してはいけない」とも言わず、「生き物の命を奪わないように」と、仏教では考えています。

動物を大事にしたいあまりに、肉食をしている人間をうっかり”逆差別”してしまわぬよう、バランスよく人にも動物にも優しくできるとよい、ですね。


Q:小池さん、はじめまして。18歳の女子です。

わたしは前から同じ悩みがあるのですが、友達と仲が良くなって親友だなと思える人ができて、よく一緒に行動したりすることがおおくなるんですが、長い間一緒に行動すると相手の嫌なところを気にしてしまいます。 そして自分自身相手に嫌なことをされると苦手になり、思い出してはいらいらしてしまいます。

この前は勝手に私のケータイなどをみられていて他の友達にも見せていたことがショックなのに普通に私に接してくる親友にいらいらが募ります。

これはどうすればいいのかよければなにかお言葉をくれると嬉しいです。

A:いやはや、仲の良くなればなるほど、相手に対して「これくらい配慮してほしい」と思う期待値は、高まってしまいますから、ね。

ただ、そんな期待をちゃんと満たせるほど素晴らしい人など、なかなかいません。

貴女自身が、自分にとって都合のよいお友達を求める欲望と、それに合わない相手に対するイライラに満ちているのと、他の人たちも同じなのです。

勝手に携帯電話を盗み見て他の人に見せたくなるのも、秘密を楽しみたいという欲望。そして、「これくらいなら許してくれるよね?」という甘えの欲望を見せてきていて、それはそのかたの貴女への期待値なのです。

互いの高い期待値がそれぞれ食い違いつつぶつかってるだけなんだな、と理解してみては如何でしょう。それぞれを操っているものがよくわかれば、イライラもすこし弱まることでしょう。


Q:はじめまして。
19歳の女です。
母が教えてくれて、いつも拝見しております。

ふと、友達のブログ等を見ていると恋人の事が多々出てくるんですが、内容は、とても自分は幸せだとか、相手と出会えたことで全てが変わった等と言うものでした。 最初は幸せそうで良かったと安心したり、一緒になって喜んでいたのですが、最近なんだか恋人のいない自分がまるで不幸だと思われているような感じがしてきました。

誰がなんと言おうと、私は私で今充実していて、幸せと自由を感じられています。 でも、自分の幸福論を否定されたような気がしてなりません。

誰かに、この気持ちはなんだろうかと訪ねたり、聞いて欲しいのですが、なかなか器の小さい自分が恥ずかしくて言えずに悶々としている日々です。 こんな風にちっぽけに考え込んでいるのは世の中私くらいのものなのでしょうか?そして、これは”ひがみ”や”劣等感”というものなんでしょうか?

どう考えたら周りが気にならなくなりますか?教えてください。

A:いやはや、ひがみや劣等感というものは、意外と誰だって持っているものなのです。

ところが、貴女と同様に多くの人が、「器の小さい自分が恥ずかしくて言えず」にいるせいで、ひがんでなどいないかのようにふるまっています。それゆえ、ひがみを持っている人はあまりいないかのように見えてしまうのでしょう。

つまり、劣等感とは本当は、ごくごくありふれた、フツーの感情にすぎません。それを「器が小さい」「恥ずかしい」と否定して隠そうとするせいで、そこに「私くらいのもの」という負の特別感が生じてしまいます。

人の心は、”自分が他とちがって特別”と思うのが好きなので、そうやって隠そうとするほど、ひがみが癖になってしまうでしょう。

否定する/認めない、という心の向きを、受け入れる/認めるという向きに変えてあげると、楽になる上に直りやすくなるものです。

「誰がなんと言おうと・・・幸せと自由を感じられています」と、劣等感を否定する方向に心を持っていくのは、けっこう疲れるものでもあるのです。「実は弱いんだね、自分って」と、受け止めてあげることが、変わるための第一歩となるでしょう。

そして、恥ずかしがらずに「自分って友達の日記見てひがんじゃうんだよね」とカミングアウトしてみる。自分の器の小ささを隠さずにいるのはスッキリしますし、隠すのをやめただけですでに、すこし器は大きくなっているのです。

また、次のようなフローチャートで、自らの心がこんがらがって結び目ができているのをよく見直してみるのも役立つでしょう。ひがみ(慢心1)→ひがみは恥ずかしい(慢心2)→ひがみを隠したい(慢心3)→ひがみを抹消したい(怒)と。



Q:冬にあたたまる飲み物を教えてください。

A:カボチャのポタージュなど如何でしょう。

1.このカボチャはホクホクして甘いですか?とお店の人にたずねて、買って帰ります。

2.カボチャをキューブ状にザクザク切って皮をむき、煮くずれるまで煮たら、マッシャーかフォークなどでなめらかにつぶし、適量の水を加えて塩ひとつまみで味を整えます。お好みで、バニラビーンズを風味づけに加えるのも良いです。

3.その日の気分に応じたカップに注ぎます。別に蒸しておいたカボチャの皮を刻み、トッピングするのも、緑が映えてよいでしょう。

つくるのも楽しく、心もちもあったまる飲みものです。


また、リンゴを丸ごと水と共に鍋に入れ、ストーヴの上にしばらく置いておくと、リンゴスープができます。リンゴの香りが部屋に満ちるのも、なかなか良いものです。



Q:始めまして。
和尚様の熱心な愛読者であります。
ですが、いくらありがたいお言葉も
リアルな出来事の前には
見事に吹き飛んでしまう未熟者でもあります。

最近、相手からの心底、気の知れない反応を
たてつづけに2件ほど目撃し心が沈んでおります。

1件はスーパーのレジでのことです。
缶ビール1本を手に、どこのレジが早かろうかと
うろうろしていたジイさんがわたしの後ろに並びました。
なので、わたしは
『よろしければ、おさきにどうぞ』と
そのジイさんに順番を譲ろうとしました。
すると、ジイさんは
『こっちは待つつもりやったんや。よけいなお世話や』
と、なぜか気を悪くされたご様子でした。

もう1件はコンビニで。
同じくレジに向かうとき、やはり向こうから
スポーツ新聞だけを手にしたジイさんがやってきました。
私の方が先にレジにつきそうだったのですが
私はカゴにおにぎりやお茶やお菓子を
入れていたので、アイコンタクトで
『おさきにどうぞ』と伝えました。
すると、ジイさんは
『なんのつもりや。おばはん。』と
捨てゼリフを吐いて、とっとと先にレジに行き
お会計が済んだあとも、また、わたしを睨んでいきました。

ちなみに『おばはん』呼ばわりされましたが
わたしは、これでもジイさんの娘くらいの
年齢です。

なにがなんだかワケがわかりません。
いったい、これはどういう心理がなせるわざだと思われますか?
これほどにも、ジイさんをめぐる
環境が世間的にも劣悪になってきていて
荒廃しているのでしょうか?

なんだか、心が萎えてしまいます。


A:あっは、失礼ながらちょっと笑ってしまいますねえ。

「自分がいたわられるべき弱者として扱われたのはプライドが傷つけられたのであーる」。

そんな風情に、自信のない人にとっては他人からの親切には何かしら、劣等感を刺激されるということが、ままあることですから注意したいものです。劣等感ゆえに、「待つつもりだったんだもんねッ」などと、嘘をついて取りつくろいたくもなる、ということ。

劣等感の流れで付言いたしますと、「親切にしてあげましょう!」という勢いがつくとき、私たちはしばしば「自分は良いことをしている素敵な人間であーる」と思い上がってしまいがち。つまり、自尊心と優越感という名の慢心に感染しがちなものです。そしてそうであればあるほど、相手の劣等感を刺激してしまいます。

「なぜか気を悪くされた」「わけがわかりません」というお言葉から読み取れますのは、親切というものが他人を傷つけ得るということについて、まったく想像されておられないだろう、ということです。

その想像ができていれば、自然と態度も、もっと控えめになり相手も受け入れやすくなる、かもしれませんね。



Q:こんにちは。最近風が冷たくなりました。
いつもなら体をちぢこめて
「う〜、さむい」とやるところですが、
冷たい空気や風をありのまま受け入れてみると
色々発見があって面白いです。

でもさすがに春や夏のままの格好で出歩くのは
無理があると思います(^_^;)
小池さんは冬どのような格好で過ごされますか?

お坊さんでマフラーを巻いたり
ニット帽をかぶった人とか今まで見たことがないので
小池さんはどうなのかなぁと気になりました。


A:いやはや・・・。ええ、わざわざ好きこのんで苦行をおこなうことはありませんから、ねえ。(にっこり)

私の場合は和服の下にワイシャツを着て、二重廻しという古い外套をまとうのが.真冬の外出着です。ストールと帽子は、先日なくしてしまって、今のところこの冬は、なしで済ませています。

ただ、ひとつ申せるのは同じ寒さでも、瞑想のパワーが強いときは着物だけで平気ですし、パワーがそこそこのときは「寒っ。」となり、パワーが低迷しているときは「ううう・・・」となります。

寒さを心が「苦」とか「楽」とか「ふつう」とか味つけする。

寒さに対する心の反応も、「やっぱりこの心のフィルタを通じて味つけされて変化するんだなあ」と眺めてやると、世界の流動性に身を晒すレッスンにもなるものです、ね。



Q:小池さま、苦手な人はいらっしゃいますか?もし、いらっしゃる場合はそういった方と関わりたくないなと思いますか?また、関わらねばならないときどういった心持ちでいられますか?

わたしは苦手な人が多いです。関わっていないときに思い出すほどではありませんが、あまり関わりたくないなーと思う人が多いです。

しかし仕事等の都合で関わらずにすまないのでどうすればニュートラルになれるかの参考意見がいただければ幸いです。自分が苦手と感じる人の傾向は個人の欲望に人を巻き込む人や、他人を見下している人、ネガティブな話ばかりする人などです。

どうぞ、よろしくお願いいたします。


A:素朴に答えますと、「ええ、あいにく、おります」。

けれども厳密に答えますと、「いるときもあれば、いないときもあります」。

私の場合は”自分の正義を他人に押しつける人”が苦手だと感じがちですけれども、それを「うぐぐ・・・っ、とても苦手だなあ」と感じるときもあれば、さほど気にならず流していられるときもありますから、ね。(諸行無常。)

それはともあれ、苦手だと感じた際に積極的につきあってゆくか、敬遠して遠去かるかの判断基準は、およそ次のようなものです。

苦手意識をこえることで自分のパターンを変えて成長できそうか(キレイゴトっぽいですねぇ・・・いやはや。)、相手に影響を受けて自分の良くない部分が助長されるのか。相手が悪いわけでもなく、互いの”相性”の問題だと思っております。

マイナス面のほうが目立つようなら、私の場合は連絡を絶ったり、必要最低限のやりとりに制限して疎遠にしたりします。

仰るような仕事上の場合は、自分の”利益”を優先しているため率直になれないことが多いかもしれませんね。その場合は、「利益のためにこのマイナスを選びとっているのは、あくまで自分の意志なんだよね」と自覚してみると良いでしょう。あくまで自分の損得勘定なのですから、相手のせいにもできずニュートラルに受け入れやすくなるでしょう。

そしてその省察の結果、もしその利益は別になくても良いのでは、と思えるようならいっそ、断ち切ってみるのも清々しいかもしれません。



Q:21歳の男です。学生です。「考えない練習」拝読させていただきました。読んでいて、はっとさせられることばかりで何度も読み返しています。いつも持ち歩いて、心が乱れていたりして、落ち着かせたいときに読むようにしています。ほかの著書も拝読させていただきます。読むのがいまから楽しみです。

恋人のことで相談があります。 いま付き合って8ヶ月になる彼女がいます。本当に仲もよく、とても大事な存在です。 大事に思いすぎるからか、過度に無駄な心配をしてしまったり、やきもちを焼いてしまったりして悩んでいます。

例えば、彼女がこれから居酒屋でバイトをするようなのですが、それだけでも「酔っ払いとか、チャラチャラした人に絡まれるんだろうな、どうしよう」だとか、「バイト先の男で変な人がいたらどうしよう」だとか考えてしまい、そのお店の前を通るだけでもいやなことばかり想像してしまったりします。そのほかにも本当に書き出したらキリがないくらい何でもかんでも心配したりやきもちを焼いてしまいます。

彼女はいつも気持ちを伝えてくれるし、本当にしっかりとした子です。それなのにいつも心配する僕をとても嫌がっています。

彼女のためにもこんな自分を変えたいのですが、こんなにやきもちを焼いたりした経験がないため、自分自身に困惑していてどうしたらいいのかわかりません。本当に悩んでいます。お時間があれば相談に乗っていただけると幸いです。よろしくお願いいたします。


A:初めての経験に困惑されている由、それは、けれども、本気で人を好きになることを通じて、自分自身のことを知り直す好機でもあるかも、しれません。

どうして不必要にやきもち焼きや心配をしてしまうのかと申せば、自分自身が精神的に「自給自足」できていないからです。言わば、幸福感の「自給率」が低いため、他国からの大量輸入に依存せざるを得ない。結果として、他国の動向が激しく気になりすぎて他国に振り回されてしまいます。

その相手が「大事な彼女」であるとき、大量輸入を必死で確保しようとして過剰な干渉をしたくなる結果、災いが生じます。まず自分が精神的に苦しくなり、なおかつ相手は過剰な干渉を束縛と感じて、面倒くさくなってしまうことでしょう。

その内政干渉をしたくなる欲望を「大事に思いすぎるからか」と綺麗にデコレーションすることなく、「あ、今、自分は幸福の自給率が下がってるんだな」と自己認識するように努めるところから、始めてみては如何でしょう。

そのうえで、彼女のことを考えない時間や、他のことに没頭する時間をつくっていき、「自給自足」を目指してみると、結果として彼女とのバランスが良くなると思いますよ。



Q:「超訳ブッダの言葉」に感銘を受け、自分自身の心を日々見つめる作業と座禅のトレーニングを続けています。

子どもと過ごす時間についてアドバイス下さい。 外遊びでは近所の公園で遊んでいますが、雨の日や就寝前の室内遊びではトランプやカードゲームをして過ごしています。 一緒に何かをして欲しいと言うので、勝敗のあるゲームが楽で選んでいます。

1.公園での虫捕りが好きで、虫籠いっぱいに捕まえて数日後に逃がしているのですが、命の大切さを教えるにはどのようにしていったらいいのでしょうか。

2.オセロやトランプやかるたは短時間で終わるので私が飽きてしまい、将棋や囲碁を親子で習ってみたいのですが、勝敗がある遊びはスポーツの勝敗と同じと考えるのでしょうか。百人一首などの暗記をする遊びはどうでしょうか。

3.私がテレビやコンピューターゲームのない生活に慣れてしまったので子どもにも見せていないのですが、買って欲しいとせがまれて迷っています。たまに実家へ行くとテレビの前から離れなく、友達のDSも借りてやっています。

親子で意見が一致しない場合の対処方法はありますか。

将来、子どもがこの世界に生まれて良かったと自己肯定できるような子育てをしていくのが希望で、子どもとの遊びの内容も重要だと考えています。 娘6歳です。どうぞよろしくお願いします。
A:順に答えてまいります。

(1)それは難しいものですが、生き物の感じている「苦しみ」への感受性を育ててあげるのが大事だと思います。「捕まえられそうになっている虫が逃げるのは何故だと思う?」「捕まるのは苦しくてこわくて胸が張り裂けそうになって、逃げているんだよ」とか、教えてあげるのは役に立つかもしれません。

(2)うがった見方をしますと、勝敗にこだわらないで遊ぶ」という決まり文句がある理由は、誰もが勝敗にこだわってしまうからでもあることでしょう。(私も自分の少年時代をふりかえってみますに、子どもは、負けるとムキになることも多いですね。)

百人一首も良いですがいわゆる既製品の「ゲーム」をしなくても、「一緒にサイコロを振った数だけ電車の駅を進んで、降りた駅を探検する遊び」とか「一緒に面白いお菓子や料理を研究してつくる遊び」とか、時間や運動感覚を共有できる遊びは、いくらでも創意工夫できそうでは、あります。共有や協力を重視するのが、仰る目的にも合っていそうですね。

(3)家の外でやることについては放っておいた方が良いでしょうけれども、家の中では、はっきり気持ちを伝えた方が良いでしょう。

「きみが働き始めて自分でお金を得るようになったら、ゲームを買ってもいい。けれど、自分はテレビやコンピュータゲームの楽しさは君にとって良くないと思っているから、それにお金を使いたくはないんだよ」といった具合に。





Q:いつもありがとうございます。寺子屋の小池様のご回答に苦しみが薄らいでいくのを感じております。

私は会社の代表取締役を努めることになりました。リーダーというのは社会の役に立つための仕事をしていくことであり、そのためには多くの従業員に会社の方針に沿った働き方をしてもらうことが重要になってくるので強い信念が必要だと想います。

この強い信念は欲の業を積み重ねるということになるのでしょうか。リーダーとしての仕事としていろいろ考えていると、苦しくなるときがございます。自分が出てきているというのかなんというのか。今までのようにリーダーに従う立場のほうが、すこぶる気が楽で気持ち良く仕事ができました。

これはどう解釈し乗り越えていったらよいのでしょうか。自分の発言や行動で、意図しない結果になったとしても覚悟をして貫くべきなのでしょうか。


A:いやはや、リーダーに従う立場がある意味ラクなのは、自分の中に隠れた権力欲が出てこないですむから、かもしれません。

従業員に対して、純粋に「会社の方針に従うように働きかける」ということ自体に罪があるわけではありません。それ自体には、苦しみが発生する余地は少ないのですけれども、そこに「この自分が言っているのだから、ちゃんと従ってホシイ」という権力欲が混ざりこむパーセンテージが高まれば高まるほど、思い通りに操りたい、支配したいという思いゆえの緊張感がストレスになります。 それに、思い通りにいかないときの苦しみもつきまとうものです。仰せのとおり、そこに「自分」が出ているから、苦しみます。

そうでなければ、方針に従わない人々がいたところで、「自分」=「自己イメージ」とは切り離して、単純に会社の問題としてとらえ、そこに混ざる苦しみはずっと少ないはず。解決するための合理的な働きかけかたを淡々と考案すれば良いでしょう。

お言葉にある「意図しない結果」が生じたときに、不快感を感じて苦しくなるなら、そのつど次のように心に念じて、自分の煩悩のモードを自覚してみましょう。

「権力欲、支配欲。権力欲、支配欲」と。

自分が持っていないつもりで実は隠し持っていた支配欲を点検しつつ、それを薄めて淡々と「職務」としてこなされるのがよろしいでしょう。



Q:以前、某雑誌で小池さんの恋愛相談のコラムを読ませていただきました。

そこで、「彼氏の浮気をつい疑ってしまう」という悩みに対して、 「自分が一番じゃなきゃイヤ病」から「相手の気持ちを一番にしてあげる差別」に切り替えると良いというアドバイスを見ました。

私も「自分が一番じゃなきゃイヤ病」患者だと自覚しています。(汗) 相手の気持ちを一番にしてあげる差別」に切り替えるというのは具体的にどうすればよいのでしょうか??

よかったらお答えください。

A:恋愛ではいきおい、「愛されてる自分」を実感して「自分株価」を吊り上げたい、という欲求にのみこまれてしまいがちです。

けれども、自分の価値を吊り上げるために役立つことは、相手を嫉妬させることや、「相手にはあんまりしてあげないけど、相手は自分にたくさんしてくれてる」とかといった風情に、相手にとってマイナスなことばかり。相手の「価値」を下落させることで自分の株価を吊り上げる操作は、互いの関係を悪化させます。

それを踏まえてお答えいたしますと、相手の価値を下げる反対に、上げて差しあげられるようなことを練習してみることです。ごく一例を挙げてみますと・・・。

(1)付き合い始めたころに、相手にしてあげていたことの水準を、落とさない ように、続ける努力をする。それをお勧めする理由は、親しくなればなるほど、釣った魚にエサをやらない現象に加えて「愛され感」が欲しいばかりに、なるべく相手に「してあげたくなくなる」結果として、相手の価値を下げると必ず復習を受けるからです。それをもう一歩具体的に申しますと、以前相手の話をよく聞いてあげていたなら、付き合いが深まったあともそれを続ける。以前、手料理をつくってあげていたなら、それと同じ労力をかけて料理をつくる水準を守る、とか。

(2)あるいは相手との約束は、何があっても守るようにする、とか。

(3)相手とすごすときは、相手に意識を集中して、携帯電話や他のことに気を散らさない、とか。

これらはごく一例にすぎませんけれども、そう してやや特別に扱う差別をして差しあげることで、相手の中での価値を上げておいて差しあげる。そのことで、相手は自然にお返しをしたくなるものなのです。



Q:住職は恋についてどう考えていますか?

愛じゃなくて恋です。

よろしくお願い致します。
A:恋い焦がれる心の作用は、「自分の思い通りにいかないため、ちゃんと手に入ったと思えない苦しみゆえに相手をとても欲しくなる」ことか、 「思い通りになる相手を手に入れたと感じてつまらなくなる」ことのどちらかしかないという、袋小路に陥りがちです。

恋とは、やがては薄まってゆき、安らいだ関係へと向かって消えてゆく媒介者となるとき、この袋小路から脱出できるように思います。



Q:小池さん、今晩は。

単刀直入に伺います。
人生に迷ったとき、どの光を目指して進まれますか?

私はどんなに苦しく困難な道のりとなろうと、自分が美しいと感じる、楽しいと思える光を目指したいのですが、一歩踏み出す勇気が持てない時があります。
A:苦しみの原因となっている選択肢を消去する、という消去法で進むことが多いように思います。
特に光は目指して進みません。

「美しい、楽しい」というのはつきつめると "快" にすぎませんが、それを目指すために "快" より多い "苦" を受けそうなのなら、避けるのが賢明ではないでしょうか。
「光」とか「美」という美名に騙されずに。



Q:はじめまして。1歳下の妹との関係についてご相談したく、メールさせていただきました。

私は3人兄弟の長女で未婚の33歳、妹は既婚で娘が一人おります。
20代中頃から、妹との関係が悪化し始め、今ではもう取り返しのつかないほど心が離れてしまっています。
原因はいろいろあるかと思いますが、すれ違いが積み重なった結果のように感じています。

私にとってはかけがえのないたった一人の妹、何よりも大切な存在です。
だからこそ、このままお互い他人のように心を交わすこともなく一生を終えるのかと思うと、やり切れない思いでいたたまれなく苦しいです。
妹と昔のように仲の良い姉妹に戻りたいという願いは、手放したほうが良いですか?
ただただ空しいです。

ご多用のところお手数ですが、何かアドバイスいただけましたら幸いです。
どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

A:ん、んー。文面からは、どのようなすれ違いがあったのかが読み取れません。

「取り返しがつかないほど心が離れる」よりも前なら修正の努力もあり得るでしょうけれども、そこまで酷い状態になった後で多少、何を言ってもやっても、たいていは今までの延長でものごとが悪化するだけでしょう。

残念ながら「たった一人の妹」「いたたまれなくて苦しい」「ただただ空しい」といった強烈すぎる情念を背景として妹さんに接すると、ご自身の意図に反して、まさにこれまで通りすれ違って反発しあうだけなのではないでしょうか。

そうだとしましたら、「取り返しがつかないんだ」と諦めて、素直に手放してあげることで、ご自身にとっても楽なうえに、妹さんをも、重苦しい気分から解放してあげることができるでしょう。




Q:初めまして。一浪中の女子です。
昔、妹にされたことが忘れられなくて悩んでいます。

冷静に考えればきっと大したことないのでしょうが、事は中学生の時だったにも関わらずずっと引きずってしまっています。

私は当時、祖母に買って貰ったお気に入りの草履を室内で履いていました。
妹がある日 夏祭りに浴衣を着て行くと言って私に黙って草履をおろしてしまいました。
妹はその後、父と草履を買いに行ったのですが無かったらしく、外食をして帰って来て「探したけどなかった。」と言って片付けてしまったので私は なんだか裏切られたような気持ちでした。

今も下駄箱にしまってありますが 見るたびに恐ろしい程の怒りを覚えます。
妹に履かれて以来 今日初めて履いて外に出てみたのですが怒りが募るばかりでした。

他の商品に対して私はさほど執着しないのですが.....
当時の私は自分の価値を下げられたと思ったのでしょうか。

妹は今はきっと すっかり忘れてしまっています。
彼女は度々そのような振る舞いをするのですが、この件に関してはなぜか忘れられません。
この怒りをどうにかコントロールしたいです。

いつまでも根に持つ自分を情けなく思っています。
また、怒りに支配されている事を実感しても、どうやってこれを切り抜ければいいのか分かりません。

いまさら謝ってもらっても、新しい商品を貰っても恐らく怒りは消えない気がします。
草履はいっそ捨ててしまったほうが良いのでしょうか....?
A:その「なんだか裏切られたような気持ち」の内訳を、しっかり見つめ直してみるのが役立つことでしょう。

買ってもらった草履はただの物体ではなくて、「自分がおばあちゃんから愛情を注いでもらえていること」のシンボルだったからこそ、他ではあり得ないほどに心に突き刺さったのではないでしょうか。

言わば、「自分が大事にされている証」すなわち存在価値の証を妹さんによっていい加減に扱われたからには、彼女がどれだけ<いけないこと>をしたのかを思い知って、ちゃんと謝って欲しかったのかも知れませんね。

もしもそれが当たっているなら、自分自身の苦痛を次のように受け止めてやってみるといい。 「おばあちゃんの愛情のシンボルをぞんざいに扱われて口惜しかったんだね。そのことを妹に思い知って欲しかったんだね。」などという風情に。きちんと分析され受け止められた時点で、草履を捨てなきゃ、という頑な気持ちも、氷解することでしょう。せっかくの草履ですものね。




Q:はじめまして。7歳の子供を持つ結婚15年目の主婦です。私の悩みは、片づけと掃除ができないことです。

子供の世話が大変だから、体力が無くて疲れてるから、長年言い訳し続けて、気がつけば家の中は、何処から手をつければ良いか分らない有様です。

そんな時、住職様の「ブッダにならう苦しまない練習」を読ませていただきました。「精進する」の所で、「仏道で怠惰は特に戒められている」と知り、ガーンとなりました。

ダラダラする自分がもう嫌です。部屋をきれいにして友達を招きたいし、なにより寛いで過ごしたいです。

ダラダラから抜け出す方法を、どうかご伝授ください。
どうぞよろしくお願いします。
A:いやはや、私も怠惰に昼寝を楽しむのが好きだったりしますので、すると、「ガーン」とならなければならないかもしれませんね。にっこり。

ところで必ずしも「ダラダラ」=「掃除できない」ではないと思います。何せ、御子の世話などは、ダラダラせずに頑張っておられるのでしょう?

部屋が散らかって乱雑な状態になっているのを目にすると、それを見たことによる刺激が生じて、心も散らかる方向に影響を受けがちなものです。そうやって混乱する刺激を受け取るのは最初のうちは不快なのですが、あまりにも繰り返されると癖になって、心のどこかでその刺激を心地よいと錯覚し始めるのだと思います。それは生命としていくぶん、不健全な状態。

そうして不快状態を快と取り違える癖を修正してあげるには、まずは散らかった光景の刺激を遠去けてやって、言わば<麻薬抜き>をしてやるのがよいでしょう。そのためには、一人でできなければ家族に手伝ってもらってでも、業者を雇ってでも余計な物を一挙に捨てて掃除を徹底し、しばらくその状態をキープしてあげることです。 散らかしたくなる<禁断症状>が生じるかもしれませんが、それを乗り越えれば、散らかった状態を避けようとする健全な心の機能が回復することでしょう。




Q:こんばんは。38歳女バツ一既婚子どもが二人います。「考えない練習」拝読させていただきました。

私には虚言癖があります。小さいころからうそをつく子どもで親に「リレーの選手になった」とうそをついて運動会の当日本番でがっかりさせたり、中学生の時はみんなの憧れのセンパイと文通していると友達にうそをついたり・・。

自分でも「これはいけないことだッ」とわかっているのにうそをついてしまいます。特に「ここ一番!」という重要なところでうそをついてしまいます。

現在前夫との間にできた長男を両親に預け、再婚して長女を出産しましたが、長男と別居していることを隠し、ひたすら一緒に住んでいるといううそを周囲の友人などにつき続けております。

さらに、夫のDVがどんどんエスカレートしていくのに耐えかね、昨日とうとう夫に「前妻との共通の知人がいて、あなたの暴力がひどくて離婚した、別れて本当によかった、今とても幸せだと言っていたらしい」と夫に言ってしまいました。もちろん共通の知人がいるなど真っ赤なうそです。

自分でもうそをつくのがとても苦しいです。でもついてしまうのです。「考えない練習」によると嘘を積み重ねると頭が悪くなるとか・・そして心が歪んでいくとありますね。本当にそのとおりだと思います。

どうしたら、嘘をつかずに清らかに暮らせるのでしょうか?

A: いやはや文章を拝見しましたところ、主に見栄を張る目的で嘘をつかれているように思われます。

それでは、嘘をつかれるときに生じているであろう、おおまなかな時間推移を考察してみましょう。

(1)見栄をはりたくてうずうずする→(2)そのために役立つ嘘を瞬時に脳内合成される→(3)それを口に出して言い始める→(4)言い終わる→(5)「あ、言っちゃった」と後から気付く→(6)嘘がバレないようにしなきゃと緊張する→(7)(8)(9)・・・

このプロセスがあまりにも強く心にしみこんでいて自動化されているため、ほとんど無意識的にクラクラっとおこなわれていることでしょう。「自分でもこれはよくないッ、と分かっている」とは記されているものの、嘘をついている真っ最中はほとんど無意識になっているはずです。その無意識的なプロセスを、まずは(3)の途中くらいで自己認知する訓練をしてみてください。

「あ、今、嘘を言ってるなー、自分」と。

そして自己認知に慣れてきますと、やがて(2)の段階で「あッ」と気付くようになってきます。嘘をつきそうな瞬間に対して自覚的になることによって、なんとなく嘘をつくのが居心地悪くなるはずです。それによって止めやすくなることでしょう。

そうやって、無意識の領域に沈めこんでしまった反応プロセスを、意識の領域に少しずつ取り戻してあげることです。



Q:「煩悩リセット稽古帖」を拝見しメールさせていただきました。私はあがり症で、会合など人前でプレゼンテーションする際に自分の声の微妙な変化に反応して、不安感が増幅しとたんにシドロモドロになってしまいます。それを抑え込もうとすればするほど症状が悪化し呼吸が乱れ、まさに負のカルマが暴走している印象です。聞き手に話す内容ではなく、あがらないよううまく話すことに集中してしまっているのも分かっているつもりです。

小池住職の記載されているように「あがっている、あがっている、怒り、怒り・・・」と念じようとするのですが、同時にプレゼンテーションも継続しなければならず、暴走の鎮静化と喋ることとがうまく両立できず少し混乱しています。どのような心持ちで対処すればこの二つが両立するのでしょうか?お忙しい中申し訳ありませんが、御教示願えませんでしょうか。

A:ご質問の場合ですと、プレゼンテーションの最中には、「話すこと8:自分を見つめること2」くらいの気持ちで、自己観察はわざと緩めにして取り組むと良いのではないかと思われます。 心を見つめる以前に、話している最中に息苦しくならないように呼吸を見つめておいて、息が整うようにすることを習慣化するほうが有用かもしれません。

また、プレゼンテーション以外の平常時の対人コミュニケーションのときに、もっと心を見つめるくせをつけて、平穏な心を準備しておくことをお勧めいたします。普段のコミュニケーションはプレゼンテーションよりは緊張しにくいはずですから、言わば良い練習台になるはずです。

そうすれば、いざプレゼンテーションのときは多少、心を見つめなくてもごく自然に、焦らず話しやすくなっているはずです。

また差し当たっては、話している真っ最中は、言葉と言葉がぶつかってしまわないように、言葉を用いて念じるのはやめて、ただ自分の感情を見つめ理解しておくだけにとどめるのが良いかもしれません。言葉で念じるのであれば、話している文と文の切れ目のタイミングで一呼吸を置くようにして、そのタイミングごとにおこなってみるとか、自分を一定時間ごとに、リペアする工夫をしておくとよいでしょう。。





Q: はじめてご相談いたします。実は自分の配慮のなさから人を傷つけました。

職場の出来事ですが、ある不正を感情的に暴いてしまい、情報提供して下さった方を半ば密告する形になり人様の人生を狂わせました。

冷静に判断できず突っ走り起こしてしまった事です。仲間を売ったも同然です。あまりに感情的になりすぎ迷惑をかけた事は真摯にお詫びしました。無論許してはいただけません。何度もしつこく謝るのは自分が楽になりたいだけなので今は何もしていません。

これから先、どう償えばいいか、短絡的に転職するのは逃げなのか、今の職場で自分への報いと思い耐えるのか思考が定まりません。耐えるのはいつまでだろう。何て事をしたのか、そればかり考えます。

私が逃げたいのは、馬鹿な事をやらかす感情的な人間というレッテルから逃げたいのです。もはや自分の事しか考えられていません。でもどうすればいいかも答えが出せません。 ご助言頂けませんでしょうか。1番つらいのは私ではないのに。転職して逃げ出したいです。

A:ご自身で半ばはお分かりになっておられるように、思考が分裂しています。しかもそれらの思考はすべて、自分の体裁にメッキをしようとする欲望をめぐっているように思われることです。それらは、おおざっぱに整理すれば以下の4種の思考がぶつかりあって混乱しておられるようです。

(1)「謝ったり償いをして報いをさっさとすませ、体裁を保ちたいよー」という偽善者的思考。
(2)でも、したことの報いとして苦しい目にあうことは受け入れたくない(つまり心の根っこでは、本気で申し訳ないとは思っていない)、という本音の思考。特に、この職場にいると自分はマイナスイメージで見られて体裁が保てないので、イライラする思考。
(3)逃げ出して、このことを知らない人たちしかいない職場にいけば、体裁を保てる。「してしまったことを隠せるところにいきたい」という思考。
(4)「でも、逃げになるのは良くない、それはかっこ悪い・・・」と体裁を気にする思考。


おおむね、転職したいという欲望は「2+3」によって成り立っていて、留まるべきという命令のは「1+4」によって成り立っていて、しかしどちらも見栄を中心にまわっていることをまずは自覚してみましょう。

転職したいという動機は、したことを隠してごまかしたい慢心なんだなあ、ということを内省しつつ、そんな動機で動いてもロクな結果がついてこないことを我が心に言い聞かせておくのが賢明でしょう。

いざとなったら辞めるのはいつでもできるのですから、とりあえず明日も明後日も仕事に行って地道に仕事をしてみることです。今回のように自分への信用や評価を破壊するのは一瞬でできますけれども、それを回復するにははるかに多大な労力の積み重ねが必要になります。

面倒でも、一歩一歩、やり直すことです。すぐに信用や評価が回復しないからといって転職という早道を取ろうとすること自体、またしても感情的に早まったことをすることの繰り返しになりますから。冷たい目で見られようと非難されようと、「仕方ない、これも報いだ」と受け止めることが長い目でみれば、自分のためになるでしょう。



Q:弟のことで相談があります。弟は現在中学2年生です。私は高1の女子で、大学2年の姉、母と4人暮らしです。父は単身赴任をしています。

弟は中学生になってからしばらく経つと、眠れないと言い出しました。今でもその状態は続いているようです。

『考えない練習』を拝読しました。その中に眠りについてのコラムがありました。実際に「悩みがなくなりますように」と念じていると、すーっと気持ちよく眠りにつくことができました。これを弟にも体感して欲しいなと思いました。 ただ、伝え方がわからないのです。

私は今、心が不安定です。高校の始めに現代社会の授業で習ったように、青年期に差し掛かった身としては当然でしょう。ただ、大人になっても不安が減るとは思えません。これからは不安とどんな付き合い方をしていくのか練習する生き方をしていくのだと思います。

だけどそれ故私は弟のことを心配し過ぎてしまう時があります。自分の中の悩みから目を逸らすために。これは住職のおかげで気付けたことです。 何かするわけではありません。が、ふと弟のことが頭に浮かんだり、目にすると「こうなって欲しい」と考えてしまうのです。つまりわたしは今の弟のことを受け入れていないのです。

こんな私が眠り方のことを伝えても、「私はお前のことを心配できる良い姉だッ」というメッセージが見え隠れして、せっかくの良い知恵が無駄になってしまう気がします。

弟は家に居ると大抵ゲームかインターネットの動画サイトを観ています。本の説明の通りそうやって刺激を求めているから眠れないんだと思います。弟自身、「疲れていても何で眠れないんだろう」と前に言っていたので、無自覚なのでしょう。

弟は他にもたまに夜中に下痢をしたり、ひどいにきびができるようになったり、目つきが鋭くなり喋り方も変わりました。声変わりによる戸惑いもあるのかもしれませんが、何か心に混乱があるかのように、「その」という言葉を多く入れるので、聞いていて落ち着かないのです。 全てが急に変わるはずはないです。が、後顧の憂いなく眠れないというのは本当に辛いと思います。

言い方、心掛けへのアドバイスをお願いします。それともこのまま何もしないほうがいいのか、返事を聞かせて頂けたらと思います。長文失礼しました。

A:弟君に対する優しい気持ちと、変化していく彼をひそかに嫌悪する気持ちとが、混合しているようですね。 こうしてご相談されるということは、普段から弟君になにかしら口出しをしてしまい、聞いてもらえないといったこともあるのかも、しれません。

それでも、少なくともそうやって押しつけがましくなることを気にしておられること自体が、彼に対する優しさになっているのは確かです。

「私は良い姉ですものッ」という感情が裏に隠れたアドバイスは耳障りが悪いものですけれども、「そのせいで弟を傷つけてしまわないかしらん」と、自分の偽善的部分に気付いて躊躇していることこそが、偽善から一歩身をひいた優しさになっているからです。

そういった心がにじみ出た控え目な親切というものに対しては、「言うことを聞いてみようかな」という気に比較的、なりやすいものです。 ですから、口出しをする前にその瞬間の自分の心をまずは確認して、偽善的な感情を見つめてしずめて、優しい心持ちの勢力を強めておいてあげるのが賢明でしょう。

そのうえで、このご相談で記してくださっているような気持ち全体を、丁寧に伝えてみることをお勧めいたします。たとえば、ごく一例ですけれども次のように。

「自分自身がやってみたらよく眠れたから君にもやってみてほしいって思ったんだけれど・・・、良い姉ぶってるイヤな感情も混ざってるような気がして、どうしようかなって迷ったんだけどね・・・、でも、ほんと眠れるからやってみて。あーあ、結局、言っちゃって良い姉ぶってしまったかなあ。でも、君がちゃんと眠れるようになってくれると私も嬉しいんだよね」などと。

さらに、そうしても聞いてもらえないことだって、おおいにあるわけでして、その時に、「あーあ、聞いてもらえなかった」とガッカリしないように心の準備をしておきたいものです。 そのガッカリ感は、相手に影響力をふるって支配したい欲望のあらわれにほかなりませんから「支配欲だなあ、自己愛だなあ」と見つめてなだめてあげましょう。


Q:はじめまして。時々、月読寺さんのWebサイトを拝見しております。

事業の運転資金に困っている(という)人に高額のお金を貸してしまいました。 「必ず返す」といいながら音沙汰がなく数年が経過したため、弁護士さんを入れて返済交渉をしていますが、ごく僅かの返済があったものの色々な面で「誠意」が感じられず埒があきません。

このまま「蟻んこの涙」程の有るか無いか分からない返済を待つか、民事裁判や詐欺罪での刑事裁判を起こすなど、幾つか選択肢が考えられます。

仏様ならどうされるかなぁ、と思い質問致しました。(そもそも仏様は「借りたものを返さない人」になどお金を貸したりはしないでしょうが。)

慈悲深い仏様なら、裁判などを起こして、相手の家庭や生活を壊すようなことは避けるのでしょうか。(それも、ちょっと違うような気もするのですが。)

ご多忙中かと思いますが、コメント頂けると幸いです。よろしくお願い致します。

A:人間、追いつめられたら誰しも煩悩むきだしになるのは誰だってごく自然なことでしょう。「誠意」などというものを他人に見せられるほどの聖人君子など、古代社会にはちらほらいたかもしれませんけれども、今の世の中にはそんな人はそうそういるものではありません。

「お金が返してもらえて誠意を見せてもらいたいよォ〜ッ」と思いつづけて、日々精神的ストレスを感じるのは、端的に不幸だと思われませんでしょうか。裁判などまで起こして、仮に勝てるにしましても、それまでに散々、争うはめになり怒りや憎しみに駆られて、日々苦しみを味わうはめになるでしょう。そうして毎日毎日ストレスをためてようやくお金を取り返されますのは、私の目には、たかだかお金なんかのために割のあわない悪業をつむことのように見えることです。

いっそのこと、お金は全部寄付してあげた、くらいの大らかな気持で手放した心持ちで忘れてしまいさえしましたら、今すぐ心が柔らかくなって幸せな心持ちになれることでしょう。



Q:初めて相談させていただきます。読むうちに悩みが空っぽになる人生相談を読んで、人生に必要なことを学ばせていただいております。

現在は、アロマセラピストの仕事をしており、もうすぐ開業する予定です。 そこで化粧品の仕入を考えているのですが、以前お世話になっていた仕事場の化粧品を導入しようか悩んでいます。

セラピストの修行時代に、フェイシャルエステの新しい化粧品を探している中で、同僚が自分の知り合いに良い社長さんがいて友達だから、そこはどうだろう?という話になりました。

使ってみるととても良い化粧品で、一度社長さんに来ていただいて化粧品について教わろうということになり実習していたのですが、なぜか1人の女の子がしくしく泣き始めました。するともう1人の女の子もしくしく泣き始めました。そんなうちに、社長さんが、現代語にされたお経を読み始めて浄霊が始まってしまいました・・・。

その頃、我が家は、母が継父を亡くし、少しうつ状態になり、それを見ていた姉までがおかしくなってきていて、すでに結婚して家を出ていた私としては本当に心配で、この社長さんなら何か起こるかもしれないと、一度家族を連れて会いに行きました。すると、3人とも浄霊されてしまいました(3人それぞれ別の場所で、浄霊されたのです)。その後、家族でセミナーを受け、心の大切さ、あの世は本当にあるという話をお聞きし、心新たにこれからの人生を、執着をなくして、心をキレイにする努力をしようとなったのです。

次もセミナーを開くということでしたが、その時は、その社長さんを紹介してくれた同僚も来るということでした。私は、実はその同僚を好きになれずに苦しんでいました。そのうち、いやといえずに参加をしていたのですが(嫌というと悪霊がついている、何かが邪魔をしているといわれるのです)、セミナーの前に熱を出して寝込んでしまいました。寝込んでセミナーにいけないと悪霊の仕業なのです。私が寝込んでいる中、電話越しからセミナーに参加したみんなのお経の声が聞こえます。社長さんはクリスタルボールを回して、お経を読んでいます。そのうち、左耳に確かに人の声がしたように思いました。とても怖かった。あー私もなのかと思いました。母には大蛇が憑いていると言われ、情けないことなのですが、一時期私は母に触るのが怖くなってしまいました。私は悪霊が怖かった。一生懸命心が良くなるように本を読み、まだまだなのは十分承知ですが、心がキレイになる実践をしてきたつもりです。

そのうち、4年ほど過ぎた今、色々な方の本を読む中で、果たして、この教えが全てなのかと疑問が沸いてきました。

確かに皆色々あったけれど、そういった浄霊を受けたみんなは普通に暮らしている。私だけがいやだ怖いと暮らしていたら元も子もないです。浄霊ってなんだろうと思います。少なくとも私と主人は浄霊はおきませんでした。

母と姉は一時、なんでもかんでもその社長さんに相談するというおかしな状況に陥ってしまい、その後社長さんは病気になってしまい2年ほどお会いしていません。もし私がその社長さんのところで化粧品を仕入れなかったら、母と姉はとても残念がるのは目に見えています。

お化粧品はとても良いものなので、お客様には必ず喜んでいただけるとは思うのですが、またセミナーだとかなんだとか言われるのがいやなのです。なんだか毎日馬鹿みたいにそのことが頭から離れません。一応他のところで化粧品の仕入は決まっています。

長くなっていまいすみませんが、もし出来たらご相談に乗っていただきたいのです。

どうぞよろしくお願いいたします。

A:すでに、他のちゃんとしたところに仕入れ先も決まっているのでしたら、過去のドロドロした感情がまとわりついてくるような相手から仕入れる必要はないでしょう。

お母様とお姉様がそれを残念がるにしましても、そのことを恐れて御自身の素直な気持を抑圧して良い人ぶることは、自分を不幸にするだけのことです。お二人には、自らの率直なお気持を打ち明けて、スッキリされるのが賢明でしょう。



Q:初めて相談します。

今、心が『孤独』でいっぱいです。

というのも、来月実家を出て一人暮らしをします。実家から車で30分ぐらいの近い場所なのでいつでも帰ってこれますが、不安で寂しくて仕方ないのです。

少し前までは、何をするにも親の目があってめんどくさいな。と思い、2年前まではすぐには帰ってこれない遠くで一人暮らしをしていたのもあり、そういう自由を求めて決心したのですが、いざ家を出よう!と準備をしていると、モンモンと心の中が『寂しさ・孤独』でいっぱいに。

このままでは、彼氏に依存しすぎたり、暗い気持ちのまま日々を過ごすことになりそうで、どうにか孤独に思う気持ちを受け入れようと、その想いに集中して見つめているのですが、なかなか消えません。

職場でも、輪に入れない少し浮いた自分を見る機会が増え、そこでも孤独を感じているので、今はダブルパンチ的に孤独・孤独・孤独・・・と心が唱えています。

どうやって孤独を受け入れればいいのですか?もっと一人暮らしに、職場の輪に時々入れていないことに、楽に向き合いたいです。

A:孤独な気分がわきあがってきたとき、選択肢が二つあり得るでしょう。

ひとつは、誰かに連絡を取ったり直接会うことで安心して、孤独が紛れる、という方向。もうひとつは、孤独なままでじーっとしているうちに、しばらくの間はそわそわして落ちつかず元気が出なくても、やがて気にならなくなってくる、という方向。

ひとつめの方向は、そうして安心させてくれる家族や恋人や友人がいてくれるのは何にも替えがたい財産ではあります。けれども、孤独の淋しさがわいてくるたびに、いつも簡単に誰かと連絡を取って紛らわせていますと、孤独への耐性がだんだん弱くなってまいります。孤独から解放されて「人とつながった」という嬉しさで脳内に快感物質を分泌して一種の興奮状態が生じます。そのため、それをあまり頻繁に繰り返しますと、結果として落ちつきや安定感が失われかねません。

ですから、安易に人と「つながる」以外の、一人で過ごす時間を大事に過ごしてゆくことが大切になるでしょう。みんなの輪から浮いてしまうときも、自室に独りぽっちでいて淋しいときも、「今は孤独を楽しんで一人立ちする時間なんだな」というくらいにとらえて、しばらくじぃーっとしていることです。その孤独を追い払おうとすることなく、孤独感を抱きしめてあやしてやるような心持ちで見つめてみるとよいでしょう。「よしよし、孤独なんだね」と呟いてあげると、孤独感は自分に理解され受けとめてもらえたことで、少しずつ癒えてゆくことでしょう。



Q:思春期の男子に対する親の接し方をご教示ねがいたいと思います。

高校で、私が進学クラスに半ば脅迫的に入学させてしまいました。今、学業がつらく、クラスに居場所がない、といいます。中退し、定時制でなら一番になれると思う、と再受験を望んでいる息子で、今、不登校を続けております。

しかし、家で勉強するそぶりなく、努力もせず、現実逃避のように思え、腹だっています。

本当は、私が、定時制では恥ずかしいのです。受け入れられないのです。

繊細でプライドが高くまだ子供の彼は、話たくないようで、そっとしておけばよいのか、悩んでおります。

叱らず厳しく、がなかなか分からないのです。

何卒よろしくお願い致します。

A:御自身が定時制を恥ずかしいと思われるのは自分自身の自由ですけれども、それは「自分が通うのは恥ずかしいから通いたくない」に留めておくのが賢明でしょう。

率直に申しますと、「進学クラスに入ってくれたら嬉しい」とか「定時制だと恥ずかしい」といった見栄の心で接せられるからこそ、息子さんの心は崩壊してゆくのです。「この人は、自分を見栄のための餌食にしようとしているんだな」と悲しくなるのですから。

さらに皮肉なことに、見栄で子育てされる報いとして、息子さんも親をコピーして見栄を異様に気にするようになっています。一生懸命勉強しても成績が良くなければ「恥ずかしい」からこそ、最初から努力を放棄して見栄を保っている。あるいは、「定時制でなら一番になれ」て、見栄を張れる、という価値観も、親を彼なりにコピーした結果のものでしょう。

つまり、彼の「無気力」や「現実逃避」に腹を立てておられるようですけれども、そもそもそれらは、御自身が彼に植えつけた見栄っぱりから来ている以上、貴女の自業自得と申すより他はありません。

そのような、我が子を餌食にしようとする姿勢を見直して、子どもを自分とは別人格として接するべく、まずは貴女が精神的に子ばなれし「自立」することが先決と申せましょう。



Q:はじめまして。長文をお許しくださいませ。

ここ何カ月が主人の不倫のことで、ものすごく悩んでいましたが、たまたま雑誌で先生の記事を拝見して、引き込まれるようなパワーを感じ本を何冊か読ませていただきました。そして、だいぶん気持ちが軽くなり本当に感謝しています。

後悔していますが、主人と愛人とのメールをみてしまいました。3年間付き合っては別れを繰り返していたようでした。初めは罪悪感でいっぱいでしたが、だんだん麻痺してきたのか主人の物を探るようになってしまい、主人が撮影した愛人との動画も見てしまいました。(それで体の関係がわかりました)

私がメールを見たことを白状して、主人は不倫を認めたのですが、さすがに動画を見たとは言えませんでした。主人は「体の関係はほとんどなかった」と嘘をつくのです。(ほとんど無かったような内容ではありませんでした。ましてや動画を撮るくらいなので)

そして、もう愛人とは全く連絡をとらないと約束したにもかかわらず、連絡をとりあっていたのが発覚しました。なぜそんな嘘ついたのか理由を聞いたら「やんわりと別れないと相手が何をしでかすかわからないから」と言いました。そして今でも、愛人のブログのようなものを毎日見ているようです。

そんな感じで不倫中の3年間だまし続けられていたこと、不倫が発覚した後も嘘をついたことなどどうしても、自分の中で消化でない事があります。不倫されたのも私に至らないところがあったと認め、謝ったりもしましたが、裏切られたという気持ちで一杯です。

今はやり直すということで、主人も仕事に打ち込んでいるようですが、今でも帰りが遅いと、また嘘をついて、愛人と会っているのでは?と考えてしまいます。主人は優しく接してくれますが、これを素直に聞き入れているとまた騙されて悲しい思いをするのではないかと思いまったく素直になれません。

色々探って見てしまった私に、悪が戻ってきたということでしょうか。。脳裏から離れません。どうやったら、脳裏に焼き付いているものが消えて主人に対し素直になれるのでしょうか。

長文失礼いたしました。
A:自分の犯した罪を隠したまま旦那さんだけを責めるのはオカシイ、と御自身でも心のどこかで気づいておられることでしょう。

「この上品なはずのわたくしが、こっそりメールを盗み見したり監視しているなんてバレたら、恥ずかしいですわッ」

そのような「慢」の心に呪縛され、実状の一部を隠したまま本音が率直に言えないために、彼への言葉も奥歯にものがつまったような歯切れの悪いものになりがちなのではないでしょうか。

まずは、たとえば次のようにカミングアウトしつつ、最後通牒をときつけてみては如何でしょう。「ごめんね、疑心暗鬼になってメールを見てしまって、彼女との動画のことも知ってるの。だから貴方が嘘をついているのも知ってる。浮気も悲しいけれど、嘘をついて裏切られているのは大事にされてないって感じるから苦しい。このままじゃ信じられなくなって続けていけないから、ちゃんんと信じさせて」などと。

少なくとも告白し謝ることでモヤモヤは晴れるでしょうし、彼も身につまされるかもしれません。


Q:いつも楽しくご著書拝読させていただいています。

私は環境にかかわる仕事をしているのですが、ご住職の本を読ませて頂き仏道の「怒り・欲・迷い」の煩悩を減らしていくシステムや「慈悲」の心というものをみんなが身に付けられれば、今ある環境問題はだいぶ良くなるのではないか?と考えるようになりました。

と、同時に今ある環境保護活動やECOな生活というものは対処療法でしかなく、根本の解決にはならないのではないか?とも考えるようになり、今の仕事に対しても疑問を感じるようになってしまいました。

仏道における環境や自然に対する認識というものはどのようなものなのでしょうか?またそれを応用すれば自然を良くすることも可能なのでしょうか?
A:仏道における「自然認識」という大きなことはとりあえずおいておきますと、人間も自然の一部であり、環境破壊すら自然に起きていることです。

確かに世界中の人々の欲望(=「今のままではイヤだ」)が今よりずっと小さくなり、足るを知るようになれば、環境破壊は止まるでしょう。しかし「他人の欲望が小さくなるべきであーる」という思考は他者への怒りに他ならず、それでは袋小路に陥るだけです。

さらに自然保護ということに執着しすぎますと、「いいことをしている自分」の「幻」にひきずりこまれて、「自然な自分」が見えなくなりかねません。それは自分自身の本当の問題を見失うことでもあります。「どうして自分は自然保護をしたくてたまらないのでせう?」と自らを再点検してみるのもよいかもしれません。


Q:お互い生涯のパートナーだと思える人とお付き合いしています。6年になります。私のよき理解者でとてもいい関係です。でも彼には妻子があります。そのことで今までたびたび嫉妬や寂しさにさいなまれてきました。去年から遠距離になり2、3ヶ月に一度しかあえなくなり、余計寂しくて何度も別れを考えました。でもそれは、自分の勝手な想像によるもので、彼は変わらず私を大事にしてくれています。

考えない練習をすれば、これからも幸せに一緒にいれるでしょうか?嫉妬にさいなまれるような関係はやめた方が幸せなのでしょうか?

結婚や出産に憧れがありますが、これも煩悩でしょうか?

先生の考えをお聞かせください。
A:2、3ヶ月にいちどだけ会ったときに相手に優しくするとか、よく理解してあげるとか、それはとてもたやすいことです。それはあたかも、子育てに無責任な立場にある祖父母が、たまに会ったときだけ孫を甘やかすのがたやすいのにも似ています。

彼が妻子と別れないということは、次のことを意味いたします。「家庭は壊したくなく、妻も子も愛している。しかし家ばかりでは息がつまるから、たまに無責任に優しくしてあげて良い気分になれる息抜き空いてが欲しいみたい」と。

その証拠に、貴女が嫉妬に苦しんでいても恐らく気休めを口先で言うだけで、抜本的な解決は示してくれないでしょう。彼の家庭生活の息抜きに利用される人生は、早めに終わりにするのが賢明と申せましょう。


Q:考えない練習 を読んで、いろんな事に気をつけて過ごすと自分の周りが少し変わったように思います。

ただ、産まれてから今日まで悩み続けどうしても直らない病気があります。

それは、私は直ぐに涙が出てしまうのです。ここで泣いたら失礼なとき怒っているとき、謝罪するとき

この場では絶対タブーな時相手をより怒らせてしまいそうなとき、涙を流したくないのにどうしても、涙を止めることができません。

ついこの間も大失敗してしまい謝罪のとき涙が止まらなくなり後輩もいるのにおかしな30歳オンナになってしまいました。

涙を止める練習は具体的にどのようにしたら良いか教えてください。

それさえ直ってくれたらもっと楽になれるのに、、、。

お忙しいと思いますが対策を教えてくだい。

真剣になやんでいます。

よろしくお願いします。
A:涙が出てしまうとき、それを嫌がらずに受け入れてやる練習をしてみるのが役に立つでしょう。

たとえ人前でも「あーまた泣いちゃった、どうしよー」と思うかわりに、自らの内側に心を向けてみる。そして心の中で「よしよし、泣きたいんだね、わかったよ」とつぶやいて、泣いている自分の苦しい感覚を受けとめてあげましょう。

「泣いたら困る」と否定され、抑圧されているがゆえにこそ猛威をふるっているパターンは、柔らかく受け入れてやることでおとなしくなりますから。涙が出そうになるたびに、その涙を自分自身で優しく理解してあげること。それを繰り返していれば、涙は出にくくなることでしょう。


Q:私は以前、仕事で大失敗しました。それをきっかけに、まわりから孤立してしまいました。以前からミスが多いのですが、それが大きなことに繋がってしまいました。

落ち込むと、どんどん悪い方向にいってしまいのでできるだけ失敗を引きずらないように自己開発セミナーなどで教えてもらった方法先生の本で学んだことを自分なりに実践していますがどうしても、他に気がとられると今やっていたことを直ぐに忘れてしまう。自分は病気じゃないかと思うくらいです。その上、直ぐに涙がでてしいます。

職場の皆はとても素敵な人ばかりで、あれから少し孤立したものの、なんとかこれをバネにして、うかくいくように、みんなが気遣って、フォローしてくれて、助けてくれていましたが、それでも、現場に立つと何処かで萎縮しているのか、以前にも増してミスを続けています。しかも、そのミスは驚くほどに、幼稚園児でもミスしないような事だったりするのです。自分が何をやらかすか、恐くて恐くて。

家族のみんなも、普通に頭の良い学校を出ていて、父も母も、まともな人です。姉も普通な成績で学校を卒業してます。私は幼いこるから頭が悪すぎて目立っていて家族の中でも、恥ずかしい存在でした。家族に嫌われているわけではありませんが随分恥ずかしい思いをさせてしまいました。

今は、地元とは遠く離れて暮らしているため、私が未だに世間に迷惑かけていることも知らずにいてます。仕事が全然出来ないことを打ち明けることも出来ません。18から大阪で暮らして、もう30歳が過ぎました。

そして、このように頭が悪く、要領の悪い私なのに、友達は優秀な友達が多く、こんな自分の相談もできません。人には言えないようなことをしてしまいしばらく起き上がれないくらい落ち込んでも、次に向かって今まで10年以上大阪で頑張ってきました。

周りの人にどんな嫌な想いをさせているかとか思うと精神的にもう限界です。

見えないところでストレスがたまっていたのか、毎日のように蕁麻疹が出て抗アレルギー剤を飲まないとひどくなってしまう状態が一ヶ月以上続いてます。もともと、痩せているのですが、この間の健康診断では、30キロ代になっていてビックリしました。ご飯は周りの人より食べているのですが。

このままで、私は生きていけるのでしょうか。働けなかったら収入を得ることが出来ません。ですが、何処へいっても、物覚えが悪く使い者にならない、30過ぎの女なんて、何処でもいらないですよね。実家にも帰れません。ただでさえ、結婚も出来ず心配をかけ、そして、この事実を知ったら、歳をとった親からしてみると情けないでしょう。若かったらまだしも、悲しませることは出来ません。

この先どうやって生きていったらいいのでしょうか。
A:御自身のことをあまりに卑下しておられるようですけれども、その自分を締めつけるパワーのために緊張してしまい、ものごとにまともに取り組めなくなっている模様です。

「要領の悪い私なのに」と自己卑下することは、「本当は要領がよくなきゃダメなのであーる」と自分自身を威カクするようなもの。貴女の場合、いつも「ちゃんとしなくちゃ許さないよ」とプライドによって自分自身を威カクし続けているせいで、すっかり心身ともに萎縮してしまっているように思われます。

この「慢」=プライドの呪縛から足を洗ってまいりますためには、次のように向き合うことが役立つでしょう。きっとまた失敗は起こるでしょうけれども、その際に心の動揺や自己否定が生じたなら目をつむって「プライドが傷ついておびえてるんだね、わかったよ、よしよし」と心の中で抱きとめてつぶやいてあげてください。

いつも威カクされておびえていた心は、受けとめられることを通じて少し、リラックスすることでしょう。そうして余計なプライドを和らげたうえで、「優秀な友達には相談できないよう、だって恥だもん」というのも高すぎるプライドの鎧ゆえに自分を縛って苦しくさせているだけだと気づいてあげましょう。

そうして他人にも「自分を現実よりよくみせませう」とするのをやめて心を開いてゆくことで、まずは心の萎縮をときほぐしてゆくことが先決でしょう。そうしましたら自然とミスは少なくなるはずです。


Q:小池先生の「考えない…」「沈黙…」「もう怒…(途中)」を読ませていただきました。

多分、人生最大の『目から鱗』であったと思います。

煩悩の言うがまま、それを満たさんと、もがき苦しんでいる自分の姿が見えました。

私は、四十半ばの男で、ここ数年うつ病も患っておりますが、この仏道の教えとは自分にとって、とてもよい認知療法となるように思えます。

まずは、この仏道の教えに、やさしい解釈でふれさせていただきました小池先生に、厚くお礼を申し上げます。

で、1つ質問ですが、テレビや雑誌を見ておりますと、いわゆる「勝組」で、とてもまばゆい生活をしている人たち(セレブというのですかね)が「とても満足な人生である」とおっしゃっているのを散見しますが、先生の本を読みにつれ、煩悩というものは絶対に満たされることはないように思えます。

ここでもやはり満たされているようで、煩悩というものはやはり、満たされてはいないものなのでしょうか?
A:ええ、まったく満たされず、人前では「満たされているフリ」をして嘘イメージをつくらねばならないぶん、ストレスも並大抵ではない。それがほとんどの場合の実状でしょう。


Q:何かしらヒントがみつかると思い、本や多くの質問の答えを、一部ですがじっくり読んでみました。今のところ全く同じケースは見あたらなかったものの、読み続けるうちに、今の自分に必要な内容は必ずやみつかりそうですが、簡単に相談させてください。 私は何度となく失敗を繰り返しているにも関わらず、又精神病薬を止めようとしています。もちろん、先生や両親は過去の例があるので、薬は必要だと言います。失敗を繰り返しているのに、懲りずに挑戦しようとするのは、変でしょうか。又、あまりにも我が強すぎるでしょうか。
A:「我が強い」=「他人の言う通りにしない」という方程式は必ずしも正しくありません。

あえてやや皮肉なアドバイスをいたしますなら、薬なしでもやっていけるほどに、心の乱れの原因である「我」を静めていけるようにこそ、努力されるのがよろしいでしょう。

それは、再挑戦する価値のあることと思われます。


Q:著書、サイトなど興味深く拝見させていただいております。

早速ですが、質問させてください。

おつきあいしているわけではありませんが、二人きりで2回だけデートした男性がいます。連絡を取るときも会っているときもよくも悪くもきわめてストレスがなく、緊張もしないし不快な気分になることもなくてそれはすばらしいのですが、ドキドキときめいたりもしないのです。数年来の友達みたいです。

もしおつきあいするとすればこのストレスがないという状況、すばらしいことのように感じます。

ときめきもないこのストレスのない関係こそしあわせな恋愛なのか?もしかしてそうなのか?

仏教の視点からお考えを拝借できれば大変うれしいです。

私は「ときめきがない」ことにひっかかっています。
A:そういった安心感に裏打ちされたものこそ実は、幸せな恋だと、私には思われますので大事に関係を育まれるとよろしいでしょう。

「ときめき」、それは一時的コウフン状態により生じる血圧異常に過ぎないのですから、そんなものに騙されず日々を平穏に楽しむのが得策、と申せましょう。


Q:はじめまして 26歳 男です。少し前、新聞で小池龍照先生の事を知りました。この方なら信頼できそう、と思い今悩んでる事をメールしてみようと思いました。こうやって安易にメールする前に小池先生が書かれた本を読むのが本当だと思うのですが、最近は本も読む気力がありません。

僕は自分でもバカだなあ、と思うのですが、しょうもない事でやる気をなくし時には死にたいと思うことがあります。それはアダルトビデオ(強姦、痴漢)等の暴力的なものが、日本社会に氾濫している事についてです。それをインターネットや携帯ができた事で小学生でも簡単に見れる事ができる状態です。普通のAVならまだしも(それもイヤですが)強姦物のAVを小学生から見ていると将来どうなるのか心配で、強姦、痴漢が増えていく様な気がしてやるせない気持ちになります。エロ本やAVを街で見たりするだけで嫌な気分になりますし、最近では、若い女性を見るだけで、悪い男に嫌な事されてないだろうか?などと考えてしまい、いっその事死んでしまいたいと思う事があります。仕事にも身が入らずサボり気味です。

ポルノと性犯罪との関係は証明されてませんが、僕はこの国の女性が心配で心配でたまりません。僕が一人で悩んでも強姦AVは無くならないのは解ってるのですが、真剣に悩んでいます。

僕は何故こんな変な事で死にたいとまで思うようになったのかな?と自分で呆れています。

そこで小池先生のお考えをお聞きしたいのですが、先生は暴力的なアダルトが氾濫しそれが小学生でも簡単に見れる、 と言う事についてどう考えておられますか? あと、そのような物を小さい時から見続けた場合とのような影響が出ると思われますか。

自分の気持ちが抑えられず、ただの愚痴のような事を書いてしまい、すごい読みにくい文章になってしまいました。申し訳ありませんでした。 もしお答え頂けたら嬉しいです。

暑い日が続きますがお仕事頑張ってください。 元気が出てきたら先生の著作、読ませて頂きます。
失礼します。
A:いやはや、もしかすると「日本の子供たち」も「日本の女性たち」も、そのような心配をされても「大きなお世話、それよりも自分の心配をすれば?」と思うかもしれません。

自分の心の問題から目をそらすために他人の心配をしすぎているんだ、ガビーン、と気づいていただきましたら、そのように目をそらしている自らの姿、自らの現実をこそ直視することをお勧め申し上げます。


Q:こんにちは。

早速ですが、同僚が自分の悪口を言っているのを聞いてしまいました。そのことを、同僚は気づいていません。

聞かなかったことにして、普通に接しようと思うのですが、私の態度がぎこちなくなってしまいます。

そして、いつも何か言われているのではないかと不安になってしまいます。

どうしたらよいでしょうか。
A:何か言われているのでは、と不安になるかわりに、「悪口を言われているだろう、それは当たり前のことであーる」と、明るく諦めておくことをお勧めいたしましょう。

悪口を言われるのはイヤなことだ、という固定観念を捨てて、「悪口を言われる、という結果を招いた自らの心、言葉、行動はなんだったのだろう?」と自己点検をすることです。

そうすれば、「ま、しかたないか」と明るい心持ちで自分の心を向上させることができ、相手にも素直に接せられることでしょう。


Q:初めまして。

相談事なのですが、宜しいでしょうか?

もう自分が努力しても出来ないことは、それが自分にとって無理で不相応な事なんだ、と諦めて、ありのままの自分を受け入れる方がいいのでしょうか?

小さい頃から人付き合いが上手に出来ず、勤めに出るような歳になったのに、まだ改善出来ません。特に同世代の男性が怖くて仕方がないです。他愛ない話をする程度なら大丈夫なのですが、昔、お付き合いした男性とのトラブルがあってから、異性として意識されると途端に恐怖を感じて動けなくなるようになりました。

それなのに、市井の男女2人連れを見ると羨ましいような、憧れる様な気持を感じます。人とうまくやれない私は何て駄目な人間なんだろうと嫌悪してしまいます。

矛盾していて苦しいです。過分な欲をもっている、という事でしょうか。

また、このような相談を寄せている点で、「そんなことはない」という慰めや、「貴方は間違ってない」という肯定が欲しい、自分を正当化したいだけなのでしょうか。

すみません、一言頂けると幸いです。
A:ん・んー。「努力しても出来ないこと」と仰せですけれども、「努力のしかたが適切ではない結果、必然的にうまくいかない」のかもしれません。

では適切な努力とは何かと申しますと、自らが男性に恐れたならば「恐れたな」と見つめ、憧れたなら「憧れたな」と見つめること。

「何てダメな人間なんだろう」と嫌悪しはじめたなら「嫌悪しているな」と見つめ、「嫌悪してしまう」などと、嫌悪に対する罪悪感を感じはじめたなら「嫌悪に対して嫌悪しているな」と気づき、見つめることです。

そのようにして、雪ダルマのごとく連鎖しつづけるネガティブな妄想チェーンを見つめ、切り離す努力こそが、過去の業による呪縛から自らを解き放ってくれることでしょう。




Q:著作をいくつか読ませていただき、いかに自分がさまざまな煩悩にとりつかれ、自分で自分を苦しめているのかということを、実感よいうより理屈で納得できたような気がしました。(常に理屈、知識でモノを考えてしまう癖ゆえ)煩悩から自分を解き放ち、自由でゆったりと生きていきたい…そのためには身体の実感を伴う気づきが必要だということも理解できるような気がします。

ですので日常、「漫」「怒」といった感情が出てくる度に、著作にあった通り「これは漫の苦」「これは怒の苦」「また比較している」「また自分で自分を…」と心で唱え、心が妄想に暴走しないよう気をつけるようにしています。

しかし、あまりにも長年積もり積もった「漫」「怒」の反応が、日々の中で間をおかずに現れるため、果てしないモグラたたきのような気分になっています。

辛抱づよくこれを続けるべきなのはわかるのですが、もしかするとそれだけでは足りない?ような気がしてきました。やはり瞑想や座禅に取り組み、自分の心を改めて見つめてみるのも、必要なことなのでしょうか。
A:うーん、必要かどうかは申せませんけれども、有用ではあるでしょう。他方で、瞑想に取り組むにしましても、過去から積み上げてきた自らとの間に果てしないモグラ叩きをするくらいの覚悟がないと、すぐ投げ出してしまうでしょうけれども。




Q:書籍読ませて頂いております。

さてご質問ですが、5年以上付き合った彼から「しばらく距離を置きたい」と言われ、自分自身の中でもう忘れるのか、待つのかを決断できず、困っております。

そもそも、彼は友達から「私に対し気をつかっている、無理しているのでは?」と言われ、私に対する気持ちが良くわからなくなった、他の人にも接してみて自分の気持ちを確かめたいので距離を置きたいと言いました。そして、振られるでもなく、嫌いとも嫌とも言われるでもなく、かといってやり直そうと言うわけでもなく、時々電話をしてきては仕事の愚痴を言うなど、曖昧な態度のまま4か月が過ぎました。

私は彼の気持ちは良くはわかりませんが、彼自身が傷つきたくないのか、私を傷つけるのがいやなのか、いずれにしてもはっきりしない態度は身勝手だなと感じています。

一方、私も私が彼を好きならばそれでいいとも思えず、かといって忘れることもできず、時々思い出しては辛い気持になってしまいます。

どうすれば、自分の気持ちに整理をつけられるのでしょうか?よろしくお願いします。
A:私たちは誰しも程度の差こそあれ、「はっきりしない、曖昧な状態」に置かれるのは好まないものです。

この場合、はっきりしない態度を続けられてしまうくらいなら、いっそのこと「嫌い」とか「別れよう」とかはっきり拒絶してくれたほうが、よほどスッキリするのに、とお考えなのではないでしょうか。それは、「整理をつけられるのでしょうか」というお言葉にも表れているように思われます。

この点を、少しばかり掘り下げて分析してみましょう。こちらは相手を好きなのに、相手が同等の「好きッ」を返してきてくれないと、私たちには苦しみが湧きあがります。曖昧な状況下でうっすらと期待が残り続けると、かえってその淡い期待のせいで、欲ゆえの苦しみに苛まれることを、私たちは心のどこかで知っているものです。

ゆえにこそ、期待が残ることで苦しむくらいなら「いっそのこと期待などできなくなるほど」 自分をちゃんと「傷つけて」 フって欲しい、と思うかも、しれません。

そう考えてみますと、心の中では [楽になりたいよー>好きッ]という不等号が成り立っているのでしょう。

また、さらに別の観点から見てみましょう。曖昧な状況がイヤ、ということは、自分が「愛されている存在」なのか、「愛されてない存在なのか」確定できないことに対して、自我イメージを形成しづらいことへのイライラ、かもしれません。

いっそ「愛されてない存在」でもかまわないので、自我アイデンティティをつくりあげたくて仕様がないのが、私たち人間が抱えた「慢」という名の業。ここでは[アイデンティティ欲>好きッ]という不等号が成り立っているのです。

と、以上のように考察してみますと、そもそも御自身の彼に対する愛情すら、(彼のキモチがヒドイのと同様に)けっこうヒドイものだということが腑に落ちるのではないでしょうか。

それらをふまえられましたなら、何かしらなりともの「整理」が自然に心中に起きるかも、しれませんね。





Q:相談があります。

仲良くしている友達がいるのですが、最近一人でいるときに彼に対して怒りがわきます。彼の短所を心の中で毒づいてしまうのです。

怒りがわいているなあ、と観察してみるとそのうちに忘れてしまうのですが、やっぱり考えているときは不快ですし、なんとかならないかなあと思います。

あんまり彼と会わないほうがいいのかな、なんて思ったりもします。

どうすればいいのでしょうか。
A:拝察するに、ご友人の短所を思い起こして心の中で毒づく、ということが起きるのは、「その彼のせい」ではありません。

と申しますのは、おそらくはご両親と一緒にすごしたあとは彼らの欠点が思い出されて怒りが湧いてくることでしょうし、恋人がいらっしゃればその彼/彼女の問題点が脳内で反復してイライラすることでしょう。


ポイントは、相手との仲が良ければ良いほど、相手に「こうあってほしい」という欲望が強まりがちで、まさにその分だけ相手の短所が目につきやすということです。この、いわば「親密な相手の欠点見つけイライラ病」の業が温存される限り、今後、どなたと新たに親密になっても、不幸せになります。親密になる前、仲良くなる前は楽しいのに、親しくなると急に心が毒づき始めて苦しむ、というのを、一生繰り返すはめにすらなりかねません。

ですから、そのご友人をいっそのこと、「親密・・・病」の業を克服するための練習台と心得て、自らの怒りを見つめるのが賢明なことと申せましょう。

すなわち、あー、また親密な相手の欠点見つけイライラ病にかかって怒っちゃってるなー、やれやれ、などと客観視して受け流すことをお勧めいたします。






Q:ご相談がございます。どうしても痴漢がやめられません。どうしたらやめられるでしょうか? 宜しくお願いいたします。

(*)皆様からのご意見を受け、回答をし直し掲載いたしました。お待たせいたしました。
A:おやまあ、ある意味勇気のあるご質問ですねえ。

ちかんをしている時の気持ちを、プレイバックしてみましょう。

無論心は気持ちよいと思い込んでやっていると思うのですが、ではなにが心にとって気持ちよいのでしょうか。

この気持ちよさに入っている構成要素としては、

・ひとつには、やってはいけないことをしている

・ふたつには、相手が嫌がっていることをしている

ということでしょう。

ひとつめの側面では、つまりルールで禁じられているやってはならないこと手を出して、もしかしたら罰せられるかもしれない、とか、自分の人生が破滅するかもしれない、という興奮から快楽を引き出しているといえるでしょう。

そう考えてみると、これは一見相手を辱めて相手にダメージを与えているように見えて、実は自己破壊をし、自分が社会的に破滅するかもしれないことによるドキドキ感で快楽を得るというマゾヒズムの性質をもっていることがわかるはずです。

その証拠に「ちかん」そのものに興味をひかれているのなら、それが社会的に問題のないことで、むしろ推奨されるようなことであり、その上相手が嫌がらずに歓迎していたら、あなたは興味を失うはずだからです。

実は自分が行っているのは自傷行為の一種なんだということに理解がおよべば、幾分かそれを続けたいという気持ちのストッパーになるのではないかと思います。

ふたつめの側面では、相手が嫌がっているにもかかわらず、「たすけて」とか「やめなさい」といった形で反撃してこないで、もじもじしてはずかしそうにしている、ということでしょう。

普通は、相手が嫌がっていることをすれば反撃されます。しかし、ちかんの場合、おそらくは反撃してこなそうな相手を選んで、相手が恐怖や恥の感情でいっぱいになり動けなくなってしまうのを楽しむのでしょう。

相手は嫌なはずなのに自分の影響下に置かれ、嫌なことを嫌と言えない状態に飼いならされてしまっている程に、自分が他者に強い影響を行使している、という全能感が味わえることでしょう。単に、「僕って影響力があるんだゾッ」と思いたいだけで、その理由は、現実の自分にあまり影響力がないからに他なりません。

一時的に相手の前で神様の立場に立ちたい、という衝動が実は自分を動かしているということ。

おそらくはこの2つの側面から自分が操られている、ということがみえれば、所詮ちかんと見えていたものは自傷癖と尊大さというナルシシズムから成り立っているものにすぎないのだなあ、と分かるはず。すると繰り返せなくなるはずです。





Q:はじめまして、小池さんと同年代の者です。

「考えない練習」何度も読ませていただいております。でも、今、考えてしまうことができ、質問メールを送信させてください。

中学時代の恩師ががんであると、恩師の奥様と親交の深い、私の母からききました。奥様が大変憔悴しておられて、母にも詳しい話をあまりしないでいることと、今は在宅だがあと十日ほどで再入院の予定であるということをききました。

母は、私の同窓生にそのことを伝えて、手紙などを募ってはどうかと言いました。

ただ、私はどうも、それが、正しいように見えるのに違和感があるのです。

今、同窓会を一番やらないというか、自分のことで忙しく、地元に帰るタイミングもばらばらで、頻繁に連絡を取り合ったり、集まったりしない年代の同級生に、「母からの伝聞なのだけど(そして詳しく知らないのだけど)地元の○○先生ががんで」と伝えること(ここまでで止めてはどうかとも考えました)、さらに、お見舞いができなくてもせめて「はげます」ように勧めるということ、それが、どうも、ためらわれるのです。

なんというか、そんな単純なものではない気がするというか…。

自分がお見舞い状を書くことはできるのに、それも、すこし迷います。今、二人目を妊娠中(母から恩師に伝わっている)で、自分の生活のトーンが「生」に充ちていて、手紙に何がにじむかわからない、と恐れる気持ちです。

でも、「ときが刻々と過ぎて行くことに、自分が健康なものだから無自覚で薄情なのでは」という思いもあるのです。病状を楽観的にとらえたいという気持ちも確かにあります。

「死が近いかもしれない病気の、思い入れがある相手」が穏やかでいてほしい、という気持ちのとき、それに沿った行動をしたいというとき、どのように行動したらよいのでしょう。

A:考え(すぎ)ておられるほど、手紙を受け取った側が何か嫌な思いをする可能性は、ないと思われます。

「こっちはこんなにツライのに、形ばかりの慰めなんてイラぬわい」」「幸せそうな奴からの慰めの言葉が届いたせいで自分がより惨めになりツライですよ」といった偏屈な反応はなかなかないでしょう。一般的には「うれしいな」、という素朴な気持ちになるのではないでしょうか。

そういった「善きこと」が、「何て思われるだろう」と考えすぎるせいで動けなくなり実行できなくなるのは、もったいないことと申せましょう。

しかし他方で、親交のある立場ならともかく、大して関係のない人たちまで巻き込んでということになりますと、気持ちに温度差のある人々にも「やらせる」ということになります。しかもそれを「やりたくない」と思っているのに、ムリをしてやるというのもよくありません。同窓生には、(お言葉にある通り)事実を伝えるだけで充分でしょう。


「励ます」ということに対して抱いておられる違和感はもっともなことで、「ガンにかかったのは悲惨なことで励まされるべきものであーる」といった固定観念を相手に押しつけてしまいますと、相手の元気を奪ってしまうことにもなりかねません。

そうではなく、「ただ自分が、相手のことに思い入れがあり気遣いをしている」ということさえ伝わればよいのですから、変に深刻にならずに手紙を差し上げたり、お見舞いにいって談笑し、楽しい時を過ごせるようにして差し上げるとよいのではないでしょうか。



Q:小池先生こんにちは。 インターネットとの付き合い方について相談があります。

以前まで、mixiというSNSを使っていましたが、一日に何度もチェックし、自分にとってあまり有益とはいえないような日記を見なきゃいけないことに疲れて1カ月程前にやめました。

また自分も他人にとって有益とは思えない日記を書きながらも、コメントがたくさんあると喜び、自分の慢の煩悩を刺激しておりました。

やめてから1カ月程経ちますが、さほど不便と感じているわけではありません。

しかし寂しさという名の怒りの煩悩が出ては消え、出ては消え…という繰り返しで困っております。

大学生ゆえに周りが大勢やっておりますので、否応なしにSNSの話題になり、なんだか居心地が悪くなっている自分がいます。

再開したら、ストレスが増大するとわかっているので、始める気はありませんが、ふとした瞬間に再開しそうで怖いのです。

小池先生のご意見お聞かせくださいま