家出空間 月読寺 iedecafe イエデカフェ

menu >> iede cafe / about / イエデ通貨 / shojin kitchen / rental gallery / 家出空間 / 月読寺 ・・・・・・・ / contact


月読寺
イエデ式
坐禅セッション合宿
感想文集



イエデ式坐禅セッション合宿に参加された御方から感想文を頂戴して、掲載して参ります。 良い子も悪い子も投稿用紙を用いて、感想文を送りませう。






- - - - - - - - - - -
「農業坐禅セッション合宿」
山口県 / 正現寺 / 二泊三日
2009年10月10日---10月12日
- - - - - - - - - - -


合宿での空間や時間の流れの記憶は薄らぎつつあるものの、その3日間で体感したことは、後の日々に、コロコロ形を変えながら、漂い続けているようです。

日常では保つことが難しい沈黙の環境に居られることで、心の波立ちが静まっていたように思われます。普段、いかに、他者からの言葉や、脳内おしゃべり、物語作りに翻弄され、その苦を自ら好んで掴んでいるということを、合宿中に安堵感を体感することで、後々しみじみしたものです。隣で農作業をする方の姿や発する音、廊下ですれ違うときの風の流れ、足音、セッション中の凛とした空気、すっと差し出してくれた優しさ、ピクニック時には、捕らえる様々な情報、それら一つ一つが新鮮で、心地よいという感情が生じたのを覚えています。合宿終了後には、駅のホームのベンチに腰掛けながらの何名かの参禅者の方々と交わした会話に、穏やかな幸せを感じたものでした。

その安穏とした気持ちは、「家」に持ち帰りしたような気がしており、合宿前に「時が来た」と力んでみたものの、こびり付いた毒は払拭出来なかった、けれど、農作業や虫観察、五右衛門風呂など、愉しかったこと、気付いたことはあったものね、と、3日間を思い起こして感想文の下書きに着手。そして、これまで、「怒」を投げ付けていた身近な人に対して、優しい気持ちで向き合えるようにもなり、返せずにいた手紙の返事も仕上げることがかなったのでした。

しかし。一週間程経過してからでしょうか、今まで、「怒」の対象外であった人々や事柄に対して、苛々していることに気付き始め、そして、その湧き上がる衝動の速さと、連鎖させてしまう思考が手に負えず、ふて腐れて、睡眠に逃避することも幾度かありました。感想文の下書きも、書いては、クシャクシャ、ポイッ。


なんて変わりやすい心でしょ、「言葉」にとても影響を受けやすい。その見事な変容ぶりに敵対心を抱くのではなく、今この瞬間に気付き、相手を受け入れ流すしなやかさを少しずつ培っていきたいと思います。また、様々な形で、このような機会に導いてくださり、見守ってくださった皆様、凛々しい空間を共に過ごした参禅者皆様に、感謝申し上げます。

さて。「伊勢光」ですが、そのままで、黒豆やひよこ豆、または、根菜類などといっしょに炊いて、美味しく頂いております。 「自給自足のできるお寺コミュニティの形成」を想いつつ。


合宿では大変お世話になりました。

何をするにも意識的に集中して、無意識に衝動的に行動しないようにするというのがとても新鮮でした。

人や自分と比べ評価して落ち込んだり舞い上がったりしないように、という指導を受け、かつ、他の参禅者の方とはなるべく目も合せず会話もしないという状況の中なのにも関わらず、自分の意思とは全く関係なく自分や他人を評価しようとしていることに驚きを感じました。

「あ、他の人より稲刈りが遅い。とろいと思われ……、あ、評価している。慢、慢」と何度も出てくる慢の煩悩との戦いでした。

自分一人ではあんなにも長時間座禅をすることがないため、貴重な体験ができたと思います。ただ、刺激が極端に減ることに耐えられず迷いの煩悩が荒れ狂って連想ゲームや眠気に襲われる状況はなかなか改善せず、これからも精進が必要だと思いました。

合宿を終えて2週間ほどが経ち、あの3日間が良い影響を与えているなと思うことが多くあります。

いらいらして無意識に頭を掻いたり胸の辺りをつねってしまうことが良くあったのですが、最近は極端にそれが減りました。衝動的に体を動かしてしまうということが減って、意識のコントロール下に置けるようになった感じがします。

また、少しですが観察できる呼吸の精度も上がり、歩行にも集中しやすくなりました。

それと些細な話ですが、食べず嫌いではなく心底嫌いだった茄子が食べられるようになりました(笑)合宿中の食事で頂いた際に味に集中したら「あ〜、自分はこういう種類の味に対して自動的にイヤイヤをしていたんだな」と観察できたためだと思っています。

また機会がありましたら、参加したいなと思っております。ありがとうございました。


農業坐禅合宿では、2泊3日+その後10日間、大変お世話になりました。正現寺の皆様にお願いをして合宿後も農と瞑想の日々を続けさせていただき、とても有意義な時間をすごさせていただきました。ありがとうございました。

約2週間、穏やかで、静かな、幸福感と充実感で満たされた時間でした(もちろん怒りや慢に気づくことは数限りなくありましたが)。

生活をする上で当たり前の素朴な動作ひとつひとつにぴったり念が伴い、ただ呼吸していること、歩いていること、坐ること、稲や草を刈ること、料理を作ること、お風呂をたくこと、お風呂に入ること、掃除をすること・・・、それらのこと自体がとても幸せでした。

それはまさに全て生きることそのものであり、地に足をつけて丁寧に生活を送ることでこんなに満たされ幸福であるのか、と実感しました。

ご指導のおかげで、多少、粗が密になってきたのか、振り返りますと1ヶ月も2ヶ月も滞在させていただいたような、とても濃密な時間でした。しかし、後半はだんだんと慣れが生じ、また念や定がとぎれ、「刺激が欲しい」という感情がしばしば表れ、それを「苦を増やすことによって自分の存在を確かめようとしているプログラムされているんだなぁ」と見つめておりました。

ですので、何をしていても念が伴い集中できていればオフィスで頭脳労働をしていても、田畑で農業をしていても、家で家事をしていても、素朴な仕事でも複雑な仕事でも、楽しく幸福を感じるのでしょう。そして、特にそれが今回のように、自然の中、様々な生命の存在や自然の気を感じながら、農を瞑想対象にしたことで、念が入りやすく清々しく瞑想できたように感じました(かねてより農作業後は瞑想後と似たような清々しさを感じていました)。

そして、もともとは自分自身の心を苦しみなく平穏でいられるよう始めた瞑想でしたが、夏の合宿以降特に慢が刺激され、慢ゆえに仏道を深めたいという本末転倒な方向に進んでいたように思います。

瞑想により集中状態をいかに高められるか、瞑想を進めることができるかに目的がシフトしてしまっていました。

今回の合宿では、瞑想が進んでも進まないはさておき、念を伴い目の前にある仕事を丁寧に行うことでこんなにも幸福なんだと気付けたことが、とても大きな収穫でした。

引き続き、刈っても刈っても怒りと慢が表れる広大な心の田畑を、気づき見つめてまいりたいと思います。

小池ご住職様、正現寺ご住職様、坊守様、合宿に参加された皆様、ご関係者の皆様、どうもありがとうございました。

合掌


ご住職の本を初めて読んで目からウロコを落としまくってから約半年。自分なりに座禅瞑想に取り組んでいたものの、ぜんぜんダメじゃーん状態で今回の参加となりました。

自分はやさしい人間だと思って生きてきたのにどうやら怒りが満タン。というかチロチロ漏れてる、、、

よって怒りを刈るのが今回の最大テーマでした。 しかし3日のあいだといえば、座禅中、足が痛くて痛くて痛くてお腹すいて、(ご住職っ、早く終わりの鐘を鳴らしてくださいーっ) げげっ、怒り怒り怒り怒り眠い怒り、、

あっという間に3日間は終わり、よしっ、このまま怒りを消していきますよっ、とさっぱりした気持ちでお寺を後にしたはずが、、、さみしい、さみしい、なんでだかわからんが完全にさみしいという気持ちに飲み込まれてしまいました。これは正に、怒り怒り怒り怒り、、、

ご住職に教わったテクニックも発動できず、、さみしいという怒りにフタをするためにタイ焼きとあんパンをむしゃむしゃとムサボリました。感情を誤魔化すために、消したつもりになるために食べている、と初めて実感しながら食べ物を食べました。 それがこの3日の何よりの成果だったかもしれません。

翌日、稲刈りしますのでもう少し座禅させて下さいとお寺に舞い戻りました。

みなさん、今年のお米は無事に全部刈り取りましたっ! 怒り、は焦らず少しずつちょっとずつちょっとずつ刈り取って行きます。

おっと、夢中でメール書いていましたら、呼吸を忘れてしまっていたことに、やっと今気付きました、、、


「稲と怒りを刈り取る」農業坐禅セッションに参加させていただきました。小池さんをはじめ正現寺の皆さまには大変お世話になりました。改めて感謝いたします。

二泊三日の間、無言を貫き自分自身に向き合ってみると、なんて心は怒ってばかりなのだろうと、愕然とする思いでした。

「寒い、暑い」「足が痛い」から始まり、「あー、今回のセッションは長すぎる。早く終わってくれ」だの「あの人はちゃんとできているのに自分はできていない」とか、さらには「あ、人と比較している。比較しても意味ないのに」などなど。慢や見の煩悩もてんこもりに、一方的に自分を責め、ひそかに他人や周囲に文句を言い続けていました。

もしかすると一日に千回くらい怒っていたかもしれません。

そして小池さんの「怒りは幸福感を破壊する」との言葉を受け、がっびーん、今まで毎日毎日こんなにも自分を不幸にしていたのかとショックを受けました。

思えば私は以前から月読寺のセッションで「瞑想が進むにつれ、以前楽しかったことが楽しめなくなった。ハッピーがわからなくなった。」などの質問を何度かしております。でも今回この合宿に参加して、その答えが見えてきた、やるべきことが定まったと感じております。

目の前のことに念を込めて行い、集中すること。そして心がさまよったらそれをきちんと自覚して手放していくこと。今ここに集中することがすなわちハッピー。怒りや雑念に流されるとその分だけ不幸。

本当に幸福というのは単純な仕組みでできているのですね。

日常にもどってからはさすがに稲は刈れませんが、怒りの方は丁寧に刈り取り、なるべく自らを不幸せにせぬよう心がけていく所存です。一週間の合宿には仕事の都合などで参加できませんので、今回のように連休を利用した合宿をぜひまた計画していただきたく欲望しております。ありがとうございました。


この度は、小池一家の方々の手厚い指導、ならびに2泊3日を色々な形で支えて下さいまして、本当に有難うございます。最終日の夜には、夜ご飯まで頂きまして…(笑

2泊3日という期間でしたが、思った以上の充実な2泊3日を過ごさせて頂きました。

農作業は貴重な体験もさせて頂きました。体を動かす+念のコンビは中々のものでした。

普段なら腰が痛くなり、疲労でどんどんイヤイヤ、と言う思いが強くなるのが普通でしたが、念を入れながらの作業をすると、体は『疲れたッ』て感じはありましたが、『もうしんどい』という思いはどっかにいってしまったように思いました。

座禅ではとにかく広背筋 、大殿筋の一部が非常に凝ったような痛い感じで、座禅はその2箇所と格闘していた、と言う感じでした。

しかし、それは脳が勝手にイタイイタイ、と感じているだけという事、少しですが智慧で理解できたかなと思います。

家に帰ってから1週間、出来る時に座禅や食禅、歩行禅を行っていますが、今までどんなに無意識だったか、というのを痛感しました。 それにより恐ろしいほどのストレスを1日に溜めていたという事も。

セッションで得たもの、これからも忘れず、忘れた時は本を読んだりあの時を思い出し、今まで溜めて来た毒を浄化し、日々を充実に過ごせるよう精進して参ります。

またこのような合宿がありましたら、是非参加したいと思います。それでは失礼致します。


農業坐禅セッション感想文

普段、モニターと数字ばかりと向き合ってばかりいるため、「海苔巻きの太さ」さえ気に掛けることができず、「人数の倍数の数」のことしか頭に浮かばないことに愕然としてはじまった今回の合宿は、坐禅の時間は農作業で疲れて眠ってばかりでしたが、農作業や作務を通して、日常で炸裂している見と慢の煩悩に向き合うという、長期のお稽古とはまた違ったキビシさでした。

『せめて合宿中は、怒らないように、追い立てないようにしよう』と思っているのにも関わらず。。。 「決められた時間内に食べる、掃除をする」となると、『○時までに食べ終わらなければならないっ』『○時までに掃除をし終えなければならないっ』と見の怒りでピシッピシッと鞭打つ、鞭打つ。

その時は刺激に興奮してさっさと動けるし、それが達成できると『達成できた自分って偉いもんねっ』と慢の煩悩が炸裂して、一瞬だけ気持ちよがっているのですが、その後は疲れてボーっとしてまた行動がのろくなるし、のろさをカバーするためにまた怒りで駆り立てなければならないし、気分もどよーんと落ちいく不快感の悪循環に気づきました。

幼少の時からのろまなことにコンプレックスがあるのですが、『こんな風にいつも駆り立てて、周囲に怒りと慢の波動を撒き散らして、周りを緊張させていたのだなー』と反省しました。

翌日は、『少し遅くなってもいいから、念を込めよう』と思って食事や掃除、稲刈りをしたところ、怒りで駆り立てている時よりも、穏やかで楽な感覚を感じることができました。

農業も稲刈りも初めての経験でした。はじめは稲を刈る身体の感覚に気をつけて念を入れているのですが、だんだんと腰が痛くなるにつれ、『痛いよー、痛いよー。あー休みたい、水飲みたい。あとどれくらいかな』とか『あーみんなより遅れているみたい、まずいなー』とか意識がさまよいがちになってしまい。。。

けれども、休憩の気配も、終わる気配もなく作業は延々と続いていき、次から次へと湧いてくる煩悩に念を打ち込むものの、脳内へ逃げ込むことへの不快感への苦痛がだんだんと大きくなって、『もうっ、こんなこと考えていていることに耐えられないっ』と思い切ったら、身体はしんどいし思うように動かないけれども、稲を刈る鎌が軽くなったような感じもして、失念しているときの不快感よりも楽な感覚、気持ちが落ち着く感覚を感じることができました。

今回農作業をさせて頂いたお陰で、食事五観文の「一には功の多少を計り彼の来所を量る」を前よりは実感を込めて唱えることが出来るようになった気がします。

ワタクシは、苦手なものがたくさんあり、虫も苦手なのですが、田んぼでたくさんの虫に出合っても『あー虫がたくさんいるなー』としか思わなかったのが不思議です。

また合宿に参加するたびに、今まで『絶対に、出来ないっ』と思っていたこと、坐禅瞑想も、集団生活も、1日2食の菜食も、夜行バスも嫌ではなくなっていくのも不思議です。

たまねぎを剥くように少しずつ煩悩が削り落ちていっているからなのでしょうか???

日常生活に戻ってからですが、「怒りで駆り立てて、作業スピードをアップさせる癖」に気づきやすくなったので、プライベートでは以前よりだいぶマシになってきましたが、職場ではお金という数字がのしかかってきて、なかなかそうもいかないことが悩みどころです。。。

今回も、小池住職をはじめ、正現寺のご住職さま、坊守さま、農作業をご指導してくださった檀家の方に大変お世話になりました。有難うございました。

田んぼで頂きました黒砂糖餡の大福の小昼は、格別なひと時でした。 ピクニックでのデザートのクッキーを山の清々しい空間で、一口一口噛みしめて味わったのも素適なひと時でした。

五右衛門風呂を焚いてくださった参禅者の御方、3日間を共にしてくださった参禅者の皆さん有難うございました。

機会に恵まれたら是非また参加させていただきたいです。

合掌


3日間の農業坐禅合宿、参加してよかったー!無上の3連休でございました。

龍之介先生、正現寺住職様、坊守様、農作業を指導して下さった井上様、本当に本当にありがとうございました!!!

農作業や坐禅に限らず、日常生活に伴うあらゆる行為に念を入れることを事細かに指導していただきました。 さながら寄宿学校のようでもあり、これまでの人生で最高の「教育」を受けることができたと感じております。

農作業は予想をはるかに超える重労働で2日目はべそをかきながら疲労に打ちひしがれていました。

しかし、3日目に龍之介先生のご指示はもちろんのこと、正現寺住職様の大変興味深いアドバイスを手がかりにしながら作業に打ち込んでみると、動作は少々ゆっくり目になるものの、疲労感が激減し、作業が失敗なく確実に進んだので大いに喜びを感じました。

失念している時の何だか不快な感じと念を入れて行為をしているときの落ち着いたイイ感じのあからさまな違いを実感できなのは大収穫でした。

農作業でくたびれて、夜の坐禅がほとんど居眠りになってしまったのが残念ではありますが、私にとっては新しいことだらけで、沈黙行にもかかわらずかなり刺激的で、そして実り多い合宿となりました。

自分で体を動かしてみて初めて食事五観文の「一には功の多少を計り彼の来所を量る」の意味を心底理解できたような気がします。これからは厳粛な気持ちで食物をいただきたいと思います。

貴重な経験をさせていただき大変感謝しております。これからも坐禅指導よろしくお願いいたします。麦も刈りに行きたいな。


農業坐禅セッションのおかげで、みかんが入っている赤いネットのように、すき間だらけだった念の状態から、編み目の細かいザルほどの、念を維持できるようになりました。

小池住職のおっしゃっていた、「キーボードを打つ瞬間にとどまること」や、「『いま』に住まうこと」の意味が、ようやく実感できるようになりました。

そして、中途半端に意識しているつもりの状態が、危険な状態だということも感じました(「あ、やだな〜と思ってるな〜」と、わかったようなつもりでいて、でも、本当は、その「怒」を味わっていないことで、身体のあちこちが緊張して、痛くなり、痛みが拡大していき、「やだな」が増えることで、さらに悪い方向へ進む、という恐ろしさに、気づけないという、危険な状態)。

中途半端な状態から卒業することを目標に掲げ、お稽古に取り組みます。


農坐禅セッションに参加するまでは2泊3日では遠足気分のまま終ってしまうのではないかしら〜、と思っていました。

しかし、日常からあまり切り離された空間でなかったことでギャップがあまり生じず、今までとは違った充実感を得られた3日間でした。

合宿に行く度に新しい変化が起きるのですが、今回は「パタンと倒す」ということの理解が進んだように思います。

あ、今まではパタンと倒して倒して、そのうち怒って仁王立ちしてたのか〜と思ったりしました。引き離して引き離して、すると査定したり、現状が変わるはずという思いが、引き離すすぐ後に出て来て、それにはのまれていて気づけてなかった。もしくはそのあとに怒りが出て来て、その時に査定してると気づくもすでに怒りにのまれている。パターン。もういいやと投げ出す。

このパターンに注意して精進してみようと思う、そばから逃げ道が無くなる〜と言う思考が...。

日々戒を守ることで防護し、集中をもって日々を過ごすことの重要性を強く再確認できました。と書くそばからでもグデッとしたい〜と言う思考が..。

これらもいつかは削ぎ落ちてしまえるように、日々小さな努力を続けます。

また日常では敷地内以外は裸足で歩くことがはばかれるので、合宿中なら誰はばかること無く裸足でいれるんだ!と気づいて途中から裸足で外を歩くようにしたのですが、歩いてると砂利が足に刺さって痛いという思いが強くて最初はずっと「苦、苦、苦、」と歩きながら念じていました。

しかし、途中で足を移動している間は苦が無いことに気づいて、びっくりしました。歩くこと一つとっても苦とそれが消滅した楽が繰り返しやって来ているのに、痛みにばかり注目しているから楽があるのに気づけていない。それ以降は苦と楽とのグラデーションに注目して歩くようになりました。

座禅をしていても足に痛みが出ますが、これは確かに出滅を小さなそれぞれがかなりのスピードで繰り返していることには気づいていたのに、滅した時の楽を苦にしがみついていることでほとんど無視していた、衝撃でした。

苦が嫌だとしがみつくことで、自分に訪れていた背中合わせの楽を無視していた!苦を見つめて消すことと、苦の中に居続けることに躍起になっていて、意識から楽の感覚がまったく抜け落ちていたとは!

今後は楽にも注目してみようと思うのですが、これは欲によりまたなにかに蓋をしてしまうことになるのでしょうか?

最後は質問文になってしまいましたが、また合宿がありましたら是非参加させて頂きたいです。

ご住職はじめ合宿でお世話になった皆様、ありがとうございました。

合掌
A:ん・んー。認識のセンサーが細かくなったことによって苦楽の変化がより細かく見えるようになってきたのは良いことです、が、拙速な解釈(=「見」の煩悩)にはまる自分自身の心を「あ、見の煩悩が出て来た」と見つめることを優先いたしましょう。

「楽」を「苦」が消えたあとに心内合成される蜃気楼と認識できているなら「楽」と見ていただいても問題ありません。けれども文章の調子を拝見するかぎり「目新しい発見」に対してしがみつきたいよー、という具合のようです。

単に「『苦』がずーっとノッペリとあるわけではなくて、実は増えたり減ったりしているなあ、今、『苦』が減って、心が楽だと認識しているのだなあ」と、ありのままに見つめておかれると、楽を追い求めずに享受できるでしょう。


農業座禅セッションに参加させていただいた小鳥(仮名)です。

充実の二泊三日をありがとうございました。

途中偏頭痛で小池様、お父様、お母様並びに他の参加者の方にもご迷惑かけてしまい失礼致しました。 お父様より教わった頭やおなかを触ることで健康状態をチェックする方法は今も実践しております。

このサイトはいつも愛読しており、小池様の著書も愛読しているものの座禅自体はセッションに一度通っただけでした。今回三日間で成長できればいいなあと思ったものの、座禅をすると湧き上がる雑念(寒い、過去のいやな出来事、いやな人、最近読んだ漫画の内容)が出てきて、それに都度対処というカタチで三日が過ぎゆきました。

歩行禅だと比較的集中できるのですが、どうも座った状態のままだと雑念が雲のように湧き出てしまうようです。

ですのでいい感じに座禅ができてるなあ、という実感はないままだったのですが、その後一週間、日常を暮らし当たり前のようにまたイライラしてしまうのですが、そのときにふっと、座禅セッションでのコトバを思い出し、時間はかかってしまうのですが我に返るようになれたとは思います。

(我に返ったあと、いやいややっぱりとまたイライラしてしまうことも多いのですが…)

あと、無意識で手で顔や体などを所在無さげにさわってしまうクセがあったのですがそれはだいぶ気をつけられるようになってきました。これも忘れないようにしていきたい感覚です。

二泊三日で聞いたこと、知ったことを、忘れないために日々の生活の中に根付かせていきたいと思います。

二泊三日、大変お世話になりました。ありがとうございました。


- - - - - - - - - - -
  「坐禅セッション合宿」
山口県 / 正現寺 / 七泊八日
2009年8月15日---8月22日
- - - - - - - - - - -


夏の合宿参加から、早2ヵ月が経過しようとしています。延び延びになっていた感想文を提出致しますので、ご査収戴けると幸いです。

今回の合宿では、「普段坐禅瞑想をしていてどうしても消せない、足の痛みを乗り越える!」ということを目標にしていました。

しかし! 最初の3日間「迷」が噴出し、ビックリするくらい昏沈睡眠が続きました。坐っても眠り、立禅をしていても眠り。よろめいて、足が床をこすった音で目覚める、ということも数回。それに対して「あぁ、何で眠っちゃうんだろう!」「もぉ〜、はずかしいなぁ!」と三毒を量産。

と、同時に、2日目あたりから、いままであまり気づかなかった変な映像や声&音の情報が、頭の中で、すごいスピードでピュンピュン流れていることを思い知らされました。

昏沈睡眠の嵐が通り過ぎると、いつも感じていた足の痛みが続々と登場。「痛いよー、足を動かしたいよー」「痛みが消せるって、本当にできるの?」「あぁ、もうだめ」などなど、これまた三毒を量産。

蚊が飛んでくることにもビクッとして怒り、刺されてかゆいことにも怒り、怒ってしまう自分に対して怒る、という、怒りのオンパレード。

そんな調子で、6日目まで過ぎていき、「一体何のために此処へ来たのだろう?」と、思うことになり。

痛みの中へ飛び込むことをせざるを得ない状況へ辿り着き、いままで限界だと感じていた痛みの、さらに奥へ踏み込むべく、ひたすらひたすら見つめました。

すると、これまでなかなか気づけなかった「慢」に遭遇! 合宿中に行われた「慢」の説法を聴いていても、心は痛むけど、すぐにシュレッダーにかけてしまっていて、フタをしていたことに気づきました。

ありとあらゆる情報や刺激、思考にひたすらくらいついていったら、「わー、こんな世界があったんだぁー」と、地獄の0.000001丁目に到着。

と、同時に、もぉぉのすごぉぉぉーく怒ってる気持ち、悲しんでいる気持ち、甘えたがっている気持ちなどなど、それらが勝手に出てきて、「もう、いい! もうこんなツライのなら、三毒は増やしたくない! このゲームは終わりにしたい!」と思うのに、止められない。そのメカニズムに、思いっきり衝撃を受け、恐怖を感じました。

ただ呼吸をすることでさえも苦しく、「いやだ!」と怒っていることを感じたとき、慈悲の「悲」の意味が、リアリティと重みを伴って体感できた気がします。みんな、「ウッッ」に操られていて、苦しいんだな、って。そう思ったとき、心のどこかが緩んだ気がします。

日常生活に戻り、時として様々な情報を刺激と認識することができず、三毒まみれになることも多々あるのですが、ただひたすら、「いま、ここ、この瞬間」を見つめるお稽古を続け、精進して参りたいと思います。

最後に。正現寺ご住職様、坊守様、いろいろとお心遣い賜りまして、有難うございました。そして、合宿に参加された皆様、暖かく見守って下さり、有難うございました。機会があれば、次回も是非参加したいと思っております。

合掌


座禅合宿は参加する都度、合宿中の総合的な心地良さに、行きはよいよい帰りは怖い状態に陥って仕舞います。

合宿が終ると、合宿中と現実生活(今までの生活習慣)の違いにびっくりして、執着と怒りが増強され、欲が拍車をかける...そんなこんなで自宅座禅を放棄したり、心と体に良いであろうものを投げ出したり、また座禅してみたり。の繰り返しでしたが、今回はガタガタ道ではありますがなんとか着地出来たようです。

みごとに心が変わったと感じるのは、四六時中自分が何をしているかに意識を持って行こうとする基本姿勢ができたこと。もちろんそれたりはしますが、それでもハッと念じ現実に引き戻るスピードが以前に増して早くなったこと。と、それたことに怒りがでる濃度が薄れたこと。

確かに「苦」の刺激しかないこと、逃れようとしたことがまた「苦」の刺激でしかないことを座禅中にみせつけられて、痛みから怒り逃れようとすることを心がある程度諦めたこと。

それにより体を大切に使うようになったこと。痛み=怒りの結び目が緩くなり、座禅中の痛みが強烈なものではなくなったこと。「怒り」がでてきた時に、人や物、状況に転嫁して怒り続けるということをしなくなったこと。自分濃度が前よりも薄くなったなどです。

現在は「欲」とくに食欲にはよくのみ込まれますが、そのことについてまた業を増やすような反応をなるべくしないようにするには、欲にのまれた時の風合いを観察するくらいしかおもいつかないのでそのようにしています。

自宅で座禅を朝晩していますが、慈悲の座禅瞑想をする時間まではとれないので、瞑想は朝、昼間、にして夜は慈悲の瞑想にしようかなと思っています。瞑想中は逃げ出すことも多かったのですが、何度か繰り返すと次ぎにチャレンジすることはそれだと思うようになりました。日常で捕まえる範囲の業に意識を持って行くようになって、自分の業に徹底的に向き合うことが出来るのは座禅中しかないんだなぁ、と今は思っています。

いっぺんにはうまくいきませんけれど、少しずつ精進。

そして、最後になりますが合宿中は住職、副住職、坊守さんに専念出来る環境を作ってもらい、また皆で瞑想をして他の人のシャキーンの波動の影響も頂けて、凄い環境だったんだな〜と帰ってきて思います。皆様ありがとうございました。

またご一緒した際にはシャキーンの波動を出し合いましょうね。


座禅合宿を終えいつもの日常モードにすっかり舞い戻ってきましたが、この合宿を通じて日常に活かせていると実感出来る部分、思ったよりも日常では煩悩に流されてしまい活かせていないと感じる部分・・

そんな両面を感じつつ思ったより活かせていないと感じている部分があること自体、慢の煩悩に侵されているのだと思います。

住職に説法いただいた現代人が陥りがちな完璧主義な部分=慢の煩悩というのが自分自身に多々あてはまり、、そして其の他の慢の煩悩に当てはまる事例も今までの自分に当てはまることだらけ!!

この慢煩悩説法を聞いたのちのショックは今でもリアルに感じるほどです。

そしてその認めざるおえない慢煩悩の説法を聞いた直後の座禅が今までにないぐらい集中できたのがとても不思議な感覚でした。

ショック療法しかり人間ときに認めざるおえないようなことを受け入れたり、手放したり、そういった事を素直におこなえる部分も大事なんだろうなぁ..と感じました。

合宿を終えた日常生活でもシュレッダーにして無我に溜め込むよじ曲がった勝手な自己解釈の流れに少しでも気付き念を入れ軽減していければと思います。

またこの合宿に参加させてもらった大きな効能の一つは一人でいる時の行動にも以前より意識付けを行えるようになったことです。

住職がおっしゃられていたように一人でいただく時の食事こそ丁寧に行おうと強く感じ試行錯誤食禅も時に意識しながら食事しております。

毎日行く犬の散歩も歩行禅の感覚取り入れてみたり。

そんな感じでまだまだ座禅初心者だからこそ今回得させてもらった糧を活かして一歩一歩心をクリアにする術とレベルを高められたら何よりだと思います。

ここまでのレベルになりたい!!という欲や完璧主義の慢煩悩に苛まれることなく・・

以上、カルマを気付かず溜め込んできた中で、この時期に成人して以来こんなにも有意義で濃い一週間を過ごせたのは人生で初めてでしたし、今後の自分にとって良い流れに転換できるきっかけとなりました。

住職始めこの合宿に携わっていただいた全ての方に感謝いたします。本当にありがとうございました。

前列角地から日々共に精進している参加者の皆様を見渡しながら自身に向き合い修行する日々は大きな財産にもなり自分を振り返る上でも欠かせない思い出となった気がします。

また運やら巡り合わせがよく機会あればぜひまた合宿参加させせてもらいたいです。合掌。


毎日、この合宿に参加させていただくご縁を頂いたことを深く感謝して日々の生活を送っております。

ただただ穏やかな気持ちで日々を過ごしたいと願い参加を希望しました。

合宿も残りあと一日という、7日目の早朝衝撃を受ける出来事が起こりました。

自分が自分以外の何かによって動かされているということを(苦に突き動かされている)実感できたのです。

それと同時に大きなショックを受けました。「自分はなんと思い上がった人間!」ということをはっきりと感じ、そのことに100パーセント納得したショックでした。急にまぶたの裏が熱くなり、涙が出てきました。

私は「あーこれだったんた。この事実を突きつけられたかったんだ。」と思いました。言葉ではなんとなくそのことを知っているつもりでしたが、体で感じてこのことを知りたかったのだと思いました。

7日間、静謐な時間の流れの中で神経が研ぎすまされ、一瞬だけ我というものが取り除かれた世界に触れたという気がしました。一瞬というのも気が引けるくらいの短い時間の出来事でした。それからは慈悲の瞑想を以前よりも深く理解できるようになった感じがしています。

小池ご住職様、ご住職様、坊守様そしてお食事のお世話をして下さった方、皆様の究極の優しさ(我欲というものが限り無く削ぎ落とされている気配り)には心より感謝しております。余分なものが削り落とされている清浄な落ち着いた空間は今まで味わったことのない美しさに満ちていました。

合宿を終えて、そこで学んだことを日々の生活に取り入れることで毎日の生活の充実感が増しました。これからも、日々精進して心を磨いていきたいです。

最後になりましたが、19名の同志の皆様いろいろとお世話になりました。皆様から寄せられている感想文を読むことで再び励まされております。本当にありがとうございました。


先日の合宿では大変お世話になりました。感謝の気持ちをなんと申し上げて良いやらわかりません。この合宿に参加できたことは、人生の上でも大きなものだったと感じております。

合宿が終了してからおよそ一週間が経過しました。刺激の渦の中、「うっ!」「うぐぐ!」となりながら、これまでどうやってこんな中無自覚で暮らしていたのだろうと感じております。また、人とのコミュニケーションでも相手が苦に駆り立てられている様子が少しずつ見え始め、多少余裕が出てまいりました。

合宿から時間が経つにつれ、特殊な環境下での合宿中や合宿直後に比べて、失念することが多くなってきましたが、最後の説法でご住職がお話くださった「呼吸はどのような困った時でもそこに存在しています。そこを意識すれば今この瞬間に立ち戻れます。」というお言葉を胸に、日々サバイバルしております。

合宿当初は、心が変わることへの拒絶反応でしょうか、自ら希望して参加した合宿ですのに辛いく感じるばかりで、これまで脱落者は一人もいないとお聞きしましたが、3日目の朝には自分が初の脱落者となっても構わないから恥を捨ててお寺から脱走しようかとまで考える有様でした(後に沈黙行が解けてから他の方も全く同じ事を考えておられたとのことをお聞きして笑ってしまいましたが・・・)。

しかし、それ以降は呼吸への集中力も高まり、瞬く間に最終日までが過ぎていきました。そして、7日目には、地獄の0.000001丁目?位を垣間見ました。あんなにおぞましいものが無明の中でうごめいていること、なんとなくわかっていような、でも見たくないから蓋をし続けてきたこと、ショックを受けました。

これが1丁目までアクセスしたら・・・。これを機に、少しでも性格を好いものに変えていけたらと思っております。

また、毎晩の慈悲の瞑想は、日に日に心の波が凪いでいくのがわかりました。昨年私自身の煩悩がマックスになった際、思考停止となり、精神安定剤に依存しておりましたが、そのきっかけとなりお互いに怒りの業を増幅させあった方を、当初「嫌い・苦手」とするカテゴリーで念じていたのが、後半は自然に「親しい人」のカテゴリーで念じることができました。

まずは自分が平穏であること、そのお裾分けとして慈悲にもとづき他の生命の幸せを願えるよう暮らしていけたらと思います。

今一つ懸念でありますのは、仏道の真理を知ること、生命のプログラムが残酷であることが、刺激的であるということです。その欲に駆り立てられ、ムズムズして仏道を精進することのないよう、「無我ゆえに我あり」という誤った状況に陥らないよう、平常心で仏道をよりどころに、丁寧に地に足のついた生活をしてまいります。

19名の同志の皆様の凛とした雰囲気にはとても励まされました。正現寺ご住職様・坊守様のお心遣い、大変感謝しております。小池ご住職様、皆様に心よりお礼申し上げます。今後ともご指導賜れましたら幸いに存じます。

合掌


二度目の合宿に参加させていただきました。

怒りの煩悩中毒患者のワタクシは、前回に比べ早々に怒りの煩悩が浮かび上がってきて、慈悲の瞑想では異様な気持ち悪さにのみ込まれ、個人面談では、無自覚にひた隠しに隠していた嫉妬の煩悩に直面し、愕然としつつも、すぐさま『嫉妬?!それだけはない、わッ』とツッコミをいれるも、説法でダメ押し、さらに瞑想でダメ押し、慢と嫉妬が出てくる、出てくる。それでもなお、自我は抵抗して『こんな自分は嫌ーッ』と暴れ、怒りの煩悩の炎はメラメラと燃え上がり、荒れ狂う始末。

そんな時、雑念に出てきた「人参の天婦羅」が地獄に仏となりにけり。『人参の天婦羅は何度々々も揚げて上手になるのに、なぜゆえ仏道の修行は、言われたことを「今、すぐ」出来ないとだめなのでせーう?』と思ったら気が楽になり、落ち着いてお稽古に向き合えるようになりました。

今回は、なぜか中学生の時の記憶がしばしば甦りました。 あぁッ、あの時の身・口・意によって犯した諸々の過ちよって積み上げた業にこんなに苦しむ羽目になるとはッ

その上、強烈に刺激的なあまりに、こころが今尚ガッチリとしがみついているとはッ 無知とはなんと恐ろしいのでしょーう。

中学生諸君、受験勉強の前に仏道を学びましょーう。

「性格を変える」ということについての認識が甘かったため、自我の抵抗の壁を乗り越えることは叶いませんでしたが、僅かによじ登ることは出来たようです。最後の2日間の夜の慈悲の瞑想は、昏沈睡眠に陥ることも無く、今までの中で一番集中して念じることが出来ました。

そして最後の夜の慈悲の瞑想では、今まで嫌いな人のカテゴリーに入っていた人も、なぜか親しい人のカテゴリーに入っていました。また、午前一時半にバタバタと音がしてもイラッとせずに、ササッと起きることが出来ました。

浮世に戻って一週間が経ちましたが、慢の煩悩は相変わらず出まくりますが、慢にぶつける怒りのパワーが、グッと減少したように感じます。

そのせいか、平常心で念を打ち込める力が少し増えた様で、呼吸が深くなり怒りが引いてゆくような感覚が感じられるようになりました。 また、今のところ周囲に怒りをぶつけることもなく過ごせています。

初心に帰って、坐禅中だけでなく、日頃から所作を丁寧に行なうこと、心の中でネガティブなことを呟かないこと、ただ頑張ることを心がけて生活し、再び幸運に恵まれ合宿に参加できるまで心の基礎体力をつけたいと思います。 これが、今回の合宿で得た一番の宝です。

小池ご住職、ご参加の皆様、正現寺ご住職様、坊守様、温かく支えてくださってありがとうございました。

合掌

追記:日頃、ストレス「苦」を『ご褒美』と名づけたお菓子や美食という別の種類の「苦」を与えてごまかし、さらに「苦」と、怒りの煩悩を増やしていたワタクシは、多くの人に嫌がられるような「巨大な蚊」にたかられ、刺されまくりました。虫除けはまったく効きませんでした。こころと共に食生活も見直したいと思います。


多くの学びがありましたが特に印象に残っているお稽古は食事中に教えて頂いた「ウッ!!」の身体感覚に気をつけるという事です。 普段とても雑に生活している為、「しまった!」とか「嫌だな」という心(怒り)の状態になった瞬間にある「ウッ!!」の感覚にはまったく気づいていませんでした。

しかしこのテクニックを習って以来、実際に気をつけて日常生活を送っていますと、しょっちゅう「ウッ!!」なのです。

知らず知らずにこんなに怒りを炸裂させ苦を溜め込んでいたのかと驚きました。

また「ウッ!!」ときた時に落ち着いて自分の心を観ると私の場合は大概訳も無く焦っている事が多いので、そんな時はしっかり“念”を入れなおすようにしたいと思います。

それから一人でいる時と人と一緒に過ごしている時の立ち振る舞いにギャップがあると ストレスが溜まるというお話も私にはありがたかったです。

一人でいる時こそ丁寧にノイズを少なく過ごそうと心がけ、まず食事を丁寧に頂くという事を続けてゆこうと思います。

長らく認めたくない自分の欲望に蓋をして心の底にしまっておりましたが、今回その1つをご住職のお導きのお蔭で、開き覗くことが出来ました。覗いて見ているのにも関わらず慢が強くてそれを誤魔化したくてシュレッダーにかけバラバラにしました。

そしてまたそれを変に繋ぎ合わせて夢で見るという心の不思議な構造を苦々しく体験致しました。なかなか受け流せないでいる状態なようですが、それに気づけた分だけ幾分心が軽くなったように感じます。

私も早退して最終説法を聞けなかったのですが、心優しい法友が音声を送って下さったので内容を知る事が出来ました。

「自分の表情、特に言葉や声は人にすごく影響を与えるという事、だからそれに気づく・自覚しなくてはいけない」

というお話身にしみました。またご住職が最後に“健闘を祈ります”とおっしゃって下さっている正にそのお声の音波から勇気を頂いたように感じました。

お言葉をお守りに、またサバイブしてゆきます。ご住職の慈悲深いご指導に心から感謝申し上げます。

恐れ多くも正現寺ご住職様と坊守様に沸かして頂いた露天五右衛門風呂は、風流で楽しい思い出となっております。ありがとうございました。

お食事を作って下さった法友の方、またすべての参加者の方々にもお礼申し上げます。

皆様のお蔭で素晴しい8日間を過ごす事が出来ました。


田畑に囲まれ、さわやかな風が吹き抜ける正現寺。19名の仲間と共に、無事に7日間を過ごすことができました。

集中して坐禅し、本格的な説法を聞く機会に恵まれたこと、感謝しています。「ツボ」を押されて「いたたたた・・・」というポイント満載の「説法」の中でも、「渇愛」のツボは効きました。

「自分の存在価値を認めてほしい」・「甘えん坊で完璧主義者」の点、まさに私のことだと思いました。痛かったけれど、今、このタイミングで気づくことができ、よかったです。

また、この説法は、「鋭い」だけでも「押し付け」でもありませんでした。それは、

1.「悩み」が起きる原因に対する仏教的知見を教えてもらい
2.それが本当にあっているのかを自分自身で確かめ、
3.合点した上で、それに対処する生き方を知る


という実証的プロセスを経ていました。だからこそ、「腑に落ちる」感覚の学びが得られたのです。それでは、そのようにして気づかされた学びの数々を、以下にあげてみたいと思います。

・自分の中のどろどろ

瞑想が深まるにつれ、体が痛くなり、六日目には頭から湯気が出ていたように感じました。「煩悩の火に焼かれる」とは、大げさではない表現だと思います。せめて「今より業(どろどろ)を増やさない」こと、日々「お腹にものをためない」ことを心がけようと決心するのに十分でした。

・腹の感覚

怒りを感じると、みぞおちがきゅっと縮み反応しているのがわかりました。「ああ、こうなっているから、(以前)病気になったのだな」と分かりました。この「腹」の感覚を大切にすることができれば、何かを決断する時にも、他の人に頼らなくてもいいということが実感できたし、「腹を立てたら、その分自分が損だよ。体に悪いよ。」と、子供のとき親から言われていた言葉の意味がようやく分かったような気がしました。

・人のことより自分のこと

人のことをあれこれ言う余裕があったらその前に、自分の考えにもっと注意を払うことの方が大事、だから、人の批判はもうしません。

・「えっと」「いいなあ」「作り笑い」「どうしよう」を、安易に言わない

何かを言い淀む時や、人を羨む時、迷う時、そして曖昧な作り笑いには、「慢」や「怒り」、「迷い」の心がその奥にあることに気付きました。今まで多用していたことだけに、ショックでした。

・「自分の考え」ではなく、「自分がつかんでいる考え」である

「自分の考えを持ちましょう」とはよく聞く言葉で、単純にいいことだと思い込んでいましたが、「自分の考え」から「自分」を切り離すことのほうが、実は重要なのだということを学びました。

なぜなら、「自分の考え」とは、実は「自分の」ものではなく、数ある「考え」の中から「自分がつかんでいる(つかまされている)」考えだからです。

心が考えを「つかむ」機能は自動的なもので私たち人間には止められませんが、「念」を用いることによって、「今、何をつかまされているかに気づき、よく味わい、手放すこと」もできること、そして、そうした方が色々なことが楽になることを知りました。

・「記憶の残像」に惑わされない

まるで草原の牛が草をはみ続けるように、私たちは心の中で「記憶」を(無自覚に)反芻していることを自覚しました。その実体はすでに影のごとくないにも関わらず、です。何があったにせよ「これからはこれから」ですね。

・口癖に気をつけて・・・「ただ、やる」

「めんどくさい」「汚い」「痛い」「できなかったらどうしよう」などの言葉の底には「苦」があることを知りました。こうした気持ちが顔を出すたびに、「その場でつかまえ」、何かがうまくいかない時こそ、「ただ、やる」のみと念じたほうが実は楽、であることを実感しました。

・体を使う、こと

食べること、掃除すること、その他日常の動作において、いかに「失念」していたか無知でした。1人の時の「基本の姿」を正すことの大切さを思い知りました。坐禅から帰宅後、ほうきと雑巾を使って部屋の掃除をしてみました。今まで見えていなかった汚れを多く発見しました。

以上が、今思いつく学びの数々です。喉元過ぎれば暑さ忘れる、にならぬよう、この芽を育てていきたいと思います。

また、今回その存在を垣間見た業(どろどろ)や六道輪廻についての洞察を深め、それをいかに心の中に整理していくか、ということが長期的な課題となると思います。これからも折々にふれてご教示いただければ幸いです。

最後になりますが、汗だくになって五右衛門風呂をたいて下さった正現寺ご住職、薪の香りが気持ちよく、お風呂に入ると生き返ったような気持ちがしました。

また、坊守さま、体に優しいおやつをおいしく頂きました。そして、時に心を見つめるしんどさに挫けそうになりながらも、小池住職の励ましのおかげで乗り越えられました。皆さま、本当にありがとうございました。


二度目の合宿参加をさせていただきました。 ふたたび、いいえ、前回以上に、充実した時を過ごすことができました。

小池住職、ご参加の皆様、正現寺住職様、坊守様、檀家の皆様、本当に本当にお世話になりました。ありがとうございました。

厚く厚く守られていた日々から、ヒリヒリとした日常に戻り、「苦」を見ていることがやっとこさ…、ではありますが、これからも精進してまいります。

合掌


これまで最長三時間しか坐禅を組んだことがなく、また人一倍食事量が多い私にとって、一週間、半日断食というハードルの高さに不安を感じながら参加しました。

しかしその心配は杞憂に終わりました。 初心者にも分かりやすい論理的なインストラクション・説法、各人の問題に応じてくださる個人面談を通じて、割とスムーズに上達への道を歩むことが出来、安心して坐禅に取り組むことが出来ました。

ご住職・坊守の奥様、食事を作っていただいた方により、坐禅のみに集中する環境を作っていただきました。

瞑想が高まっていたためか、思いのほかお腹がすかず、普段消化に多大なエネルギーが割かれていることを実感できました。

また一週間の修行をともにした19名の参加者は無言でありながらもお互いを支えあう心強い同志でした。

こうして一週間の合宿はあっという間に過ぎ去ってしまいました。 終わったときは副住職のおっしゃったとおり、解放された安心感ともう少し俗世から離れていたい感情が入り混じった複雑な気持ちでした。

坐禅の経過についてですが、4日目までは足の痛みと眠気に戦いながら、あまり上達も感じられずもどかしい思いをしながら瞑想をしていました。

しかし、5日目に転機が訪れました。急に鼻先に意識を集中する瞑想がうまく行くようになり、容易に集中できるようになりました。その晩には体が激しく揺れることが4時間あまり続きました。 それ以降比較的高い集中力を持って最終日まで坐ることができたと思います。

合宿後以下のような点に変化が見られました。

まず食事について。食禅を通じて、微細な味の差異を味わうことが出来るようになりました。また食感や味に集中することで、これまで無理に食べていた食事の量が減りました。 未だにストレスが高まったとき、暴食をしてしまう悪癖は改善されていませんが、それがストレスを紛らわすための新たな苦しみであることは認識できるようになりました。

歩行禅・掃除を通じて、日常のつまらない動作に対する集中力が高まりました。

また「行」(=衝動)の観察を通じて、今自分がどのような思考をしているのか、少しだけ客観視できるようになり、思考の暴走を幾分か食い止めることが出来るようになりました。

同じく「行」の観察を通じて、自分にとっていかに「慢」が自らを苦しめているか認識できるようになりました。 コミュニケーションに於いてはやはり緊張してしまいますが、徐々に改善されればと思います。

このように目標であった「今ここに集中すること」が少しできるようになりました。 しかしまだまだ修行の道のりは長いかと思います。 最終日にご住職に、「長年積んできた業だから、方向をただすにもやはり時間がかかる。気長にじっくり取り組んでください」といわれたことが心に残っています。 これからもご指導のほどよろしくお願いいたします。

副住職様、ご住職・坊守様、参加者の皆様、1週間有難うございました。また次回も参加できればと思います。


坐禅合宿では、大変お世話になり、ありがとうございました。

地方からの初参加のため、緊張し、ドキドキの現地入りでした。幸いなことに、同地方からの参加者の方と二人で、上嘉川駅から正現寺に向かいながら、「お寺についたら話せませんよ^^」などとお話しましたことは、いい思い出になっております。

坐禅は、二日目までは何も分からない状態(無明が多量のため)でしたが、ポロっと何かが取れてからは、心と身体の観察に溺れそうでした。ご住職のイタイ・あたたかいお言葉を受けられたことで、苦を見つめ続けることができました。

7日目の坐禅では衝撃を受けました。それを通じて、慈悲の外形がわずかに感じられたように思えます。それに、ご住職の慈悲深さに胸が熱くなります。

話さなければならない夢を心に邪魔され、話さないままになってしまいました。また、折に触れ駆け込みます。

食禅、歩行禅ともに、生活のだらしなさが露呈して、焦りました。日々、感覚の鮮烈さが呼び戻され、おいしくいただきました。

帰宅中、帰宅後、これまでの生活の中で普通に接していたものに、いまでは頭がクラクラします。情報の多さに目も耳も頭も疲れます。視覚・聴覚などが全開であるわけではないのに、です。


環境、日々のお世話までしていだき、またご迷惑おかけした、正現寺ご住職様、坊守様と、一週間をともにした参加者の皆様方、ありがとうございました。ここで共有した時間は、これからの生活への勇気となっています。

運が良かった…いえ、ご縁ができて本当にうれしく、感謝の念でいっぱいです。来阪されることはないのでしょうか。またお会いできる日を楽しみに。

先ほど感想送りましたが、文末の「楽しみに」は、うっすら「苦」と感じ、詰めの甘さに苦笑いしつつ、またお会いできる日まで、精進いたしております。


最初の2、3日はただ座ることが辛かっただけで過ぎてしまいましたが、それ以降は足が慣れ、驚く程色々な発見があり、とても充実した1週間を過ごさせて頂きました。

「食禅」と「沈黙行」、衝撃でした。 いかに雑に口に食べ物を投げ込んでいたのか、いかに食べ過ぎていたのか、を実感致しました。

晩ご飯を食べない心地よさ…本当に驚きでした。

そして話すということがどれほど心を乱すものであるのかということ。いかに衝動のみで話していたかという事。

「まあいいや。(気にしてないふり怒)」
「〜らしいですよ(責任逃れ迷)」等。


ごまかしの口癖はまだまだ沢山ありそうです。

早食い、早口、せっかち、な私には日頃の行いを顧みて反省(怒)に見舞われる事しばしばでした。

今回、自分の反応パターンの表層だけでも感じられたことは本当に得難いです。 本を読んだだけでいかにわかったつもり(慢)になっていたことか…。 まだまだ無意識な部分がさぞ多いことだろうと感じました。

日常生活に戻り、あっと言う間に情報の多さに呑まれていく自分を感じました。 意識のまったく追いつかないことに一瞬焦りと怒りが……。

「意識」を少しでも心がけ、「業」を積みあげない努力を。ぜひ習慣にしていきたいです。

戒律と生活と住職の慈悲深い導き…、今回あのような贅沢な1週間を過ごす機会を頂けた事を本当に感謝して居ります。 本当に本当にどうもありがとうざいました。

また、ご飯がとっても美味しくて感動でした。(黒砂糖の美味しさにも目覚めてしまいました)

嗚呼、是非また参加したい…新たな欲望が生まれてしまいました。合掌。


小池住職、正現寺ご住職と坊守様、そして苦楽を共にした19名の同志の皆様、8日間本当にありがとうございました。

これほど濃密な時間を過ごしたこと、そしてこれほど自分と向き合ったことは人生で初めてのかけがえのない経験でした。

終わって翌日を迎えた今となっては、「もしこの合宿に参加していなかったら、、、」と思うとゾッとするほどです。人間として生きていくうえで、何を置いても一番先に解らなければならないことを解らないまま一生を終えることになっていたかもしれません。

皆様への感謝の気持ちを込め、かつ、自分自身合宿で得たものを風化させることなくこれからの俗世サバイバルに活かすべく、 (1)まずは、今回の合宿を通じて私が受け止めた住職のメインメッセージをまとめ、
(2)続いて、その他私にとって「これは!」という発見だった点について雑記してみます。

(1)私が受け止めた、住職からの3つのコアメッセージ

1:「今」を「丁寧に」、「念を持って」生きる
  ⇒そうすれば、自然に「適正化」が起こる。作為はいらない。

2:「安易に考えない」
  ⇒そうすれば、新たな業を生まずに済む。

3:「苦しまない」
  ⇒そうすれば、既に持ってしまっている業と念を持って対峙するチャンスが得られる。

(2)雑記

合宿が深まれば深まるほどイエデ式仏道の心地良い凄みを何度も感じることになった。例えば、、、

*   イエデ式仏道はどこまでも徹底的に「宗教」ではない。宗教ならではの、何らかの神や仏に念仏を唱える等して救済してもらおうという「他力本願で受身」のあり方とは対極を行く。イエデ式仏道は徹底的に「自力本願で能動」のあり方を参加者に求める。

「自分の業と対峙し、念により浄化する手術ができるのは自分だけ」だからである。授けて頂く「教」ではなく、自分で極める「道」であるということ、これがまず最初に感じた非常に清清しい発見であった。

*   「自力本願で能動」を求めつつも、その横では住職が一人一人を徹底的にサポートしてくれる。世の坐禅指導で、自分のエネルギーを惜しむことなく投入し、付きっきりでインストラクションしてくれる指導者は少ないのではないか。

また、指導の質も極めて高い。参加者の面談等を通じて得た洞察から説法のテーマを自在に設定し、即興なのに深くてズシンと重みのある話を毎日して頂ける。

今回は特に、現代人がそれに犯されていることを見逃しがちな「慢」を軸にした説法を多くして頂いた。私自身面談の際住職にそれが自分の業だと伝えた一人であり、特に、「慢の業が強い故に欲や怒りが出て来るとそれと対峙しようとせず、見たくないから無明というシュレッダーに放り込み、切り刻んで亡きものにしようとする」とのお話は、目から鱗であった。

*   「教」ではなく「道」であるが故、徹底的に「今我々が生きている現実世界をどうサバイブするか」という実践への役立ちを意識したプログラムになっていること。

四方八方から入れたくもない雑多な情報が目と耳を通じて入ってくる環境で、常に頭でっかちにぐるぐる無意味な思考を回し続けている我々現代人が自分の本丸を陥落されないようにするには、「外堀として六処、特に眼、耳、身体感覚、意の4つに触った所で食い止め、それを突破されたら受蘊で走る刺激で食い止める」とのサジェスチョンは、思わず「なるほど!」と思わざるを得ないものであった。

*   合宿の環境設定が絶妙である。一日二回の精進料理で内臓の負担を軽くしてもらい、外部とのみならず一緒に参加している同志とも最後のピクニックまではコミュニケーション禁止の沈黙行にすることで新たな刺激から守ってもらい、かつ苦楽を共にする同志の姿に勇気付けられ、ただ自分と向き合うことのみに没頭できる環境を用意してもらえることで、4日目当たりから人生で経験したことがないほど心身が澄み渡り研ぎ澄まされてくるのを感じた。

睡眠時間も4時間寝ればすっきり目覚め、起きた直後から夜寝るまでその研ぎ澄まされた状態が維持される。なんという贅沢!心身をこんなレベルに保って俗世でも生活できたら、人生はどれだけ充実するだろう。

あの環境が素晴らしかったのをまざまざと感じたのは合宿からの家路であった。飛行機に乗ると知りたくもない新聞、雑誌の情報の山がそこかしこに置いてある。「おーっ、これはまさしく苦だ!見たくない。」東京に着いて電車に乗り道を歩くと大量の人間達が無秩序に動いており、ぶつからないよう自分のスペースを選んで歩く。

「おーっ、この情報処理も多大な苦だったんだ!」合宿前はそんな捉え方をしたことさえなかったのに、「それまで当たり前だと思っていたことのほとんどがこれほど自分にとって苦の刺激だったとは!他の参加者のみんなも似たようなギャップに直面してるんだろうな。みんな頑張れよ!」などと思いながら家路を辿ったのであった。

最後に、、、 帰京便の時間があり、ピクニック後の住職の「最後のメッセージ」を聞くことが適いませんでした。とても聞きたいと思っているのですが、同志のどなたか、感想文にその内容を記して頂けましたなら、この上ない喜びです。合掌


- - - - - - - - - - -
  「坐禅セッション合宿」
山口県 / 正現寺 / 七泊八日
2009年3月20日---3月27日
- - - - - - - - - - -


先日の山口での座禅合宿では娘が大変お世話になりました。お礼が遅くなり申し訳ございません。

合宿中ケータイご法度、「お寺に着いた」を最後に合宿終了するまで主人と、ちゃんとやっているのだろうか?途中で投げたして帰って来るのではないかと、心配ばかり。 今まで一人で知らないところに行った事も無く、一週間も連絡が取れない状況も無く・・・

帰ってきた娘は「死ぬ〜」と言いながらも心なしか達成感のある顔をしていました。 「どうだった?」と問いに「解ったような、解らなかったような」の返事。

ご住職はじめ参加された皆様にご迷惑お掛けしなかったでしょうか?気がかりです。

あれから一ヶ月、様子を見ていました所、以前より余裕のある、落着いた明るい顔や態度のような気がします。 一週間ご指導頂いたことが娘の心のどこかで根付いていてくれれば・・・と思います。

問題の学校の友達への言動はどうなのか気になるところではありますが、本人が性格を直すと言ったのを信じたいです。 ご住職には何も解らない子を指導して頂き本当にありがとうございました。


坐禅合宿では楽しく、実り多く、リラックスしたひと時を堪能することが出来ました。久しぶりに生き返りましたよ。ありがとうございます。

「集中の瞑想に集中してもよい」という作戦変更のアドバイスを頂戴してから上り調子になったような気がいたします。 自分でも集中力の向上&その持続・維持をテーマに掲げて参禅いたしましたが、いざ合宿が始まるとそんなことはすっかり忘れ、言われてハッと思い直しました。

ここしばらく追い込まれた嫌〜な感じが続いておりましたが、お陰様でヘタはヘタなりに精進出来そうな気配です。


- - - - - - -
講師感想文
- - - - - - -

七泊八日のあいだ、各人各様に、自らの心身内部を大冒険していただきました。各人に起きる内なるドラマに付かず離れず接しながら、人が変化してゆくのを見守る快楽を味わった、一週間でありました。

この快楽が、坐禅セッション合宿をおこなうことの、何よりの報酬。 そして今回は、いつも以上に波瀾万丈のドラマに満ちていた・・・ッ、それゆえ、すべてを終えてから皆でお寺の裏山へピクニックへ行った平和なひとときは、忘れがたきものとぞなりにける。斜面のすそ、原っぱで、太陽を浴びながら思い思いに過ごしました、よね。

毎日、午前四時半に、目覚ましの鉄琴を鳴らして歩きましたのを、「あーもっと眠っていたいのに、うるさき音なることよ」と思われたかたもいたでしょう。しかしながら最後の二日間は、鉄琴を鳴らすまえ、午前二時ごろからすでに何名もが本堂に集結して坐禅をはじめており、感無量でありました。

イエデ式に、「型」はありません。ただ、「念」をこめて丁寧におこなうこと。食べること、調理すること、掃除すること、歩くこと、そして坐禅すること。それは「リアルに生きる」ことのお稽古であったとも申せましょう。

そう、お稽古いたしましたことを一言でまとめると、リアルな情報を感じ取る能力を高めること、でした。脳内で編集しなおされてしまう前の"生"の情報を、インプットされた入り口において感じ取る。すると、本当は「苦」であるものを「楽しい」と脳内編集してしまう呪われたプログラムは、終息する・・・ッ。

五日目におこなった「苦」と「感情」の仕組みについての分析と瞑想指導では、全力を尽くして完全燃焼いたしました。この日の説法では、言語で伝えられるかぎりギリギリの、本質的な内容を伝えられたように思います。このようなクオリティの説法は、参禅者とのあいだの無言のグルーヴ感が高まっていないと不可能なことであったと、一期一会に感謝しております。

一つしかないお風呂に、大人数で入れ替わり立ち代わり入るのが、実は一番の難題でした。が、このときに限り「沈黙行」のルールをといて、皆で「風呂ルール」を策定する会議をおこないました、ね。それにより、問題は無事解決されたのでした。皆様より預かりました御布施は、正現寺にお風呂や宿泊施設を増設するための資金として溜めておきます。

寝食をともにし、同じ屋根のしたでお稽古をした二十名の仲間を、覚えていてください。いやはや、気に食わない人が一人や二人はいたことも事実でしょうけれども、あるいはたとえこれ以後もう顔を合わせることはないかもしれなくっても、ともあれあのお稽古仲間たちが、今もこの世界のどこかでサバイバルしていることを思い浮かべますことは、自らが前進するための拠り所ともなりましょう。


今日まで坐禅合宿の感謝や感動をうまく言葉にせねばと意気込み全く書けていませんでした。

これが正に、欲がでて緊張して、そして途中で書くことを挫折するという負のループに取り込まれていることにやっと気づきました。どんなにつたなくても今日中にメールを送りたいと思います。

本当に親切に教えていただき、小池住職には心より感謝しております。ありがとうございました。

坐禅の経験はまるでなく、勢いで合宿に参加しました。最初の三日は本当に座っていることがただただ辛かったのですが、 4日目から最終日まで私の意識と反し、自分の体が引っ張られて前後左右に倒れたり、座っている腰を軸に体がぐるぐる回るという体験をしました。一体何が起きたんだろう!?とても焦りましたが、助言もいただき、自分の体の声をできるだけ冷静に聞こうと努めました。そして欲望に任せて暴飲暴食を繰り返してきた自分の行いに気づきました。

身体だけではなく、心の動きを細分化していくことにより、今までは「お腹がすいた」=「何か食べたい」だと思っていたのが、お腹がすいているのは、現在の自分の状態に過ぎないことに気づけるようになりました。

合宿後も、以前よりだいぶ少食になり、油っぽいものや甘いものもあまり欲しなくなりました。

そして以前とある舞踏家の方が「一瞬の中に永遠がある」とおっしゃっていました。私は意味がわからないながらも、なぜかとても心に残る言葉でした。 今回「過去でも未来でもない、今この瞬間に集中する」というのを聞いて呼吸に集中するのを体験した時、その言葉の意味を理解できたような気がしました。

坐禅をしながら、過去に起こった悲しい出来事や、何気ない一言を思い出しいっぱい泣きました。こんなに傷ついていたとは自分自身も思いませんでした。 怒り、悲しみの感情にとどまらず、相手がどのような気持ちで口にしたのかまで頭に浮かび、怒りが消えていくのを感じました。

そして最後の夜にその人と和解している夢をみました。2年ほど私の中でネックになっていた人だけにかなりすっきりしました。

自分の思考に癖があることに気づくことができ、以前よりも精神のストッパーが働くようになってきました。点と点でしかなかったことが繋がり、見えるようになってきたように思います。

今後の指針となるような、貴重な経験でした。このような機会をいただけて本当に幸せでした。どうもありがとうございます。是非また参加したいと思います。


合宿では大変お世話になり、ありがとうございました。 私はまたいつもの生活に戻りましたが、心に確実に変化があったのを感じています。

特に心随観が以前よりうまく出来るようになったと思います。

これまで何人かの師に瞑想を教えて頂きましたが、今回ほど丁寧に心の観方を伝授頂いたのは初めてでした。

最終日の前夜、無常・無我を観る瞑想を教えて頂きましたが、それを実感するようなところまではまいりませんでした。

しかし、次々に勝手に湧き上がってくる衝動(苦・楽・中性)はずっと過去から積み上げてきたものが今噴出してきているんだ、確かにこれはどうする事も出来ないと実感し、とにかくそれらに飲み込まれて自動的に反応してしまわないよう気をつけ、これから将来に悪いカルマを積まないように、今・一瞬一瞬に気づくしかないのだと感じました。

そしてそれは自分だけではなくて、他の人も同じで幾ら良い事をしようと思っていても過去の業のせいでこのような行動をしているのだと思うと、嫌な事を言われたり、されたりしても「まぁ、仕方がないよね」という風に捉えれるようになりました。

そのような事を瞑想から学べたのも初めての事でした。

そしていつも父の行動や言動に心の中で怒り、その衝動に“怒り”と念を入れても止められずにいたのが合宿後はそのパターンにはまらずに、いつもなら怒る場面に出くわしても“あぁ、私はここでいつもは怒っていたんだな〜、父もこの行動パターンにはまり込んでしまっていて自由になれないでいるんだな、なるほど・・・”と受け流すことが出来、ひとつひとつ以前に積み上げたカルマの消化作業を行えるようになりました。

それ以外にも沢山、貴重な体験が出来たのですが、何と言っても今まで自分に突き刺さっていた棘が何であったのか分かった事は大きかったです。この棘が原因で私は怒りや欲望を心身に溜め込み常に身体が緊張していたのです。

ご住職に夢を紐解いて頂いている時、蓋をしていた心の底が見え、本当に驚きショックでした。が、その後は「そうだったのか、何だそんなものを抱え込んでいたのか・・・もうそれは手放そう」というような意外にもサッパリした気持ちになり、非常に爽やかな風が心を吹きぬけていったかのような状態で瞑想に入りました。

すると1時間位、喜悦感を感じました。いつも瞑想中に感じる、左肩甲骨の内側や目の下のこわばりが全く無くなり、20〜30分で痛くなってくるはずの足もなんともありません、そしていつも緊張していた身体が解放され柔軟になったようでした。心を煩悩で汚さず、清らかにしていれば、このように心も身体も楽になるのだと確信しました。

ご住職にはどう御礼を申し上げてよいのかわからない程、感謝致しております。ずっと私達につきっきりでご指導下さり、食事まで作って頂いて、心が温まりました。

特にインタビューでは、親切に誠実に心をこめて的確なアドヴァイスを下さり、本当にホッと致しました。

教えて頂いた事を無駄にしないよう、“今”に気づき“丁寧”に生活してゆきたいと思います。今後もどうかよろしくお願い致します。


先般は、坐禅セッション合宿にて御指導賜り、誠にありがとうございました。小池住職には、言葉で表現できない、数多くのことを教えていただきました。また、「今、ここ、この瞬間」には、言葉も思考もなく、ただ「ある」ということ、言葉と頭の無力さを実感しました。

日常生活に戻り、ようやく適応し始めました。そして「淡々と、淡々と、揺るがず動じぬ平常心」を心がけることで、疲れず、穏やかに毎瞬を過ごすことができるようになりました。日々を丁寧に生きるということが、こんなに充実し、安定感のあるものだと体感し、ただただ感謝の念で一杯です。

今後も、念と定と捨を備え、日々精進して参りたいと存じます。これからも、御指導の程、何卒宜敷く御願い申し上げます。略儀ながら、書中をもちまして一言御礼を申し上げます。


合宿中は大変お世話になりました。 小池住職から学び、気づかせて頂いたことはあまりに大きく、且つ数えきれません。

私にとっては、これからの社会人生活で本当の意味での勇気を付けて頂いたと感じています。

合宿中は寒さや自分を見つめていく辛さの中で、『出家したいなんてもう冗談でも言わない』と強く思ったこともあったはずなのに、この一週間を思い返すと、切ないほど、爽やかな思い出ばかりが浮かんできます。

けれども感傷に浸って、これ以上迷いの業を積んではいけないと、住職の言われた「今、この瞬間」を常に意識するようにしています。

帰宅後は普段使わないきれいな食器を用いて、丁寧にご飯の準備をし、家族と食卓の前で食事五観文をとなえて食事をした後、家中雑巾掛けをし、大掃除をしました。

最後に、快適な合宿を支えて下さった正現寺のご住職と坊守さまのお心遣いにも、とても感謝しております。お二人にもよろしくお願いいたします。本当に、どうもありがとうございました。

クマッコの葉っぱの理由も忘れません。また坐禅セッション参加の際は、よろしくお願いいたします。


合宿坐禅セッション、本当に本当に充実した8日間でした。 (自らの心や身体に生起した、めくるめく事象は恐ろしかったのですが…。)

八斎戒や沈黙行、言葉の戒めルール、とっても気持ちが良かったです。 律していると、むしろ心は自由を感じて喜ぶことは、愉快でした。

食事の度に行った参加者全員での五観文の読誦。 最初はたどたどしく不ぞろいだったのが、最後には美しく共鳴するようになったことに、感動。

食事の支度をお手伝いさせていただきました。包丁も念を込めると、言うことを聞いてくれることに、感激。 (自宅の包丁にも念を込めましたところ、こんなに切れたっけ?と再感激)

それから、…
(キリがありませんので、中略)。

「社会復帰できるのかしらん…」と一抹の不安がありました。杞憂でした。 ご住職がおっしゃっていた「今」「丁寧」を意識に留めていると、のっしのっしとさわやかに日々を過ごすことができます。

また参加させてください!ありがとうございました。


山口の座禅セッションに参加いたしました。本で読んだだけでは感じ取れなかったことがたくさんあり、実際に体験できてよかったなと思いました。

日常では取りこぼしていた感情が、実はいろんな業だったんだとわかりました。

日常生活に戻りまして、座禅セッションで感じ取ることができた薄味でも穏やかな感情を大切に、住職がおっしゃられた、「今、この瞬間!そして、ていねいに」を心にとめて生活していきたいです。ほんとうにありがとうございました。


「この際、キレイサッパリ自分を浄化しよう」と合宿に参禅しました。けれども、潜在意識の表層をチラッと覗いただけでも、欲・怒・迷いの業でいっぱい。。。意気込みとは裏腹に、平常心でありたいのにある時は気持ちよさにのまれてポワーンとしたり、『なんだかうまくいっているみたいッ』と浮き足立ったり、逆に『ちっとも集中できませんわっっ』とイライラしたり、ステップアップしてゆくお稽古の内容についてゆけず、気落ちしたりと揺れては「念・定・捨」に戻り、揺れては戻りしつつも、勝手気ままな思考に振り回され『やーん。ワタクシは乗っ取られています。。。』としょぼーんとしたことも。

けれども、『ひょっとしてこれが無我ッコ?!残りわずかだし、今より少し穏やかになれればいいや』と思い切って、できなくてもとにかくチャレンジだけしていました。そんな状態でも最後のセッションでの呼吸の観察では、息が入ったり出たりする感覚が初回のセションよりもずっとずっとずっと鮮明に新鮮に感じることができて、驚きと共に『あーっ、一週間がんばってよかった』と涙がでました。

また、合宿中は愉快なこともありました。夢を見た翌日に夢の暗示を体験するようなことが起きて『きっ、気をつけよう』と冷汗をかいたり、身体内部の観察のお稽古の時は胃の辺りになにも感じられなかったのに、ご住職が「合宿もあと残りわずか2日ですが。。。」と述べられたときに『あれっ???あと3日じゃなかったっかしら???ワタクシ、間違えましたワーッッ』と焦った時に胃がキューーーーッと縮んだのがちゃんと感じられて『アッ、いま胃が縮んでるっ』と一方で観察している自分がおかしかったりしたのでした。

また、セッション中に身体が勝手に動き出したこともあり、怖気づきながらも動きを観察しつつ委ねていたら、そのあと身体がスッキリと軽くなっていてヒーリングや整体でも取りきれなかった喉の締めつけ感や肩甲骨下の痛みがなくなりました。 時が経った今も違和感と痛みがないのです(にっこり)

世俗に戻ってみますと『厳しそうっっ、一週間乗り切れるかしら?!』と不安に思っていた合宿生活がいかに手厚く守られていたことか、と痛感☆☆☆

合宿中はマクロビオティックの1日2食でも空腹感はあまり感じなかったのに、帰り支度の時に雑誌に載っている写真を見ただけで、もの凄?く空腹になってビックリ!駅の売店に並んでいるお菓子を見ただけでさらに空腹感100倍↑↑↑『映像刺激に頭が興奮して頭が食べたがっているみたい』と分けて頂いたお菓子1つでガマン☆

飛行機では「ワーイ、夜景がキレイ♪」と再び頭が興奮しているのに身体がとーっとも緊張していてすぐに眠ってしまい、空港では明るすぎる蛍光灯の光にクラッと。お弁当やお肉を食べ胃痛に苦ッ。時が経つにつれ感覚が鈍くなってしまい今ではそんなこともなくなりましたが。

さて、「ご住職のように常に穏やかに淡々とクールになりたいっっ」との思いは果たせなかったものの、日常生活が合宿参加前と後では、ずいぶんと変わりました。

お酒も飲まずにすんでいますし、ほぼ毎日のように立ち寄っていたお菓子のディスカウントストアも横目で見つつ通過し、食事も白砂糖や白米(食べるととめるのが大変)を控え、合宿での食事を思い浮かべて調理するようになりました。

午前4時半に起き、自主お稽古をして朝食を粛々と頂き(前はお弁当を詰ながら、コーヒーを飲みながら、パンやお菓子をかじっていました)少しお掃除のお稽古をして出かけます。

それだけでも大した変わり様なのですが、『ムッカーーーッッッ』きても、意見を押し通したくなっても電光石火反射・的な言動がもの凄ーく減りました。どうしても怒りが収まらないときは「慈悲る」と怒りが静まります。本当に不思議で驚きです☆☆☆

ご住職にはお稽古の指導・面談・毎食々々工夫された食事作り・調理指導、等々何から何まで本当にお世話になりました。また正現寺ご住職、坊守さまにも細やかな温かいお気遣いを頂きまして、お陰様で無事に一週間を乗り切ることが出来ました。本当に有難うございました。

そして、一週間を共に過ごしお稽古に励んだ仲間に言葉は交わさずともどれほど支えられていたことか。1人になって身に染みて感じている今日この頃です。ご縁を頂いた皆さま本当に有難うございました。

またいつの日か幸運に恵まれ、坐禅セッション合宿に参禅できることを願って「いま」をポケットに修行を続けて参ります。 合掌

追記:合宿後、体重2キロ減、体脂肪率は20%台を切り、基礎代謝率が上がりました。お肌もエステに行った時よりも?ピカピカになりました↑↑↑


8日間のご報告

自分について再認識し、新たに気づき、自覚できました。

 <自分について自覚したこと>

 ・思っていた以上に落ち着きが無い。注意力がない。
 ・「迷い」が多い。今までわざと妄想して楽しんだり、嬉しかった事を何度も取り出して眺めることをしてきたので「飽き」て頭の中に「逃げ」ることが多いのですね。
 ・小さなことにこだわって大切なことに気づけない。これは、今頃ですがやっと気づけて良かったです。感謝です。
 ・欲望に弱い。

  今回で坐禅の大きな進歩があったわけではありませんが、これからどうしていけば良いのかという道筋がよく理解できました。だから安心しています。ありがとうございます。

真剣に「念」「定」「捨」を持って「今」を丁寧に味わえる人を目指します!! 失敗しても諦めずに煩悩を見つめ→消し去って 見つめ→消し去って・・・・自分の心のパターンから脱却したいと思います。「性格の本質は変わらない」と思い込んでいましたが、「変われるんだ」とわかり素直に嬉しいです。

「性格はお金では買えませんから」というお言葉が心に残りました。

<お料理>

お料理が美味しくて幸せでした。お腹がぐーっと鳴っていても日常のようにお腹ペコペコという苦の感覚は無かったのが不思議です。お味噌汁の美味しさが恋しいです。家に帰ってお味噌汁が美味しくなくて!驚きました・・・。味噌を変え、出汁はシイタケと昆布にしようと思います。

・シナモン風味のデザート : やさしい甘みで香りも良くて「また食べたい」欲が急増しました。
・胡麻と葛の甘味 : 味も食感も素晴らしいく、味わいつつも「作り方を知りたい」という「欲」だらけになっていました。
・そば粉クッキー : 親ゆびトムにも負けない美味しさに驚きました。自分も作りたいと思いました。


この8日間で黒砂糖の美味しさを再認識しました。早速、今日「マクロビオティック スイーツ」の本を買いました。今まで白砂糖が悪いと知りながら欲に負けて食べては自己嫌悪でした。砂糖の取りすぎでだるかったように思います。これからは自分で作って丁寧にお茶の時間を楽しめば「至福の時間」になりますね。




- - - - - - - - - - -
  「坐禅セッション合宿」
福島県 / 仙林寺 /六泊七日
2008年11月21日---11月27日
- - - - - - - - - - -


座禅セッション in福島で体験したことは、ここに全て書き記すことは出来ないくらいの変化がありました。

前回山口で座禅した時は、足が痛くて苦しいのと、やっている事がなんだかよくわからないのとで、座禅の時間が我慢の時間になっていました。それでも、内面の変化は大きなものがあり、その後の生活にも変化がでたのでした。今回は足が痛いのはありましたが、座禅の時間が苦痛ではなくなったのがびっくりでした。

食事の量を少なくしてもらってからはあまり寝てしまう事もなく、毎回セッションの後はスッキリした自分がいました。 やっと「苦も楽もそのままで味わうこと」がわかった気がしました。確かに脳内のチェーンリアクションが味付けした感覚が凄く気持ち悪く感じるようになりました。

そう、認識の不確実さ曖昧さも痛感致しました。判断することが間違いのもとと感じました。と言うのは座禅をしている時に聞こえてくる音とか気配とかで、何がどうなっているか?を認識したがるのですが、なんとも自分がそれまでに得た情報とつなぎ合わせて判断するものですから、座禅を解いて目を開けてみるとみごとに違っていたりすることの多い事!脳を使った認識、判断のいい加減さにびっくりしちゃいました。

で、幻影幻聴なども、脳でわたしが判断して怖いとか気持ちいとか、押したり引いたりくるくるしたり、それを作り出しているのが自分なのだから実は怖い事もないだろう。と思えたのです。

まるで事典を作るかのように事物を掴んでは当てはめ意味付けし、そしてその事典から判断するということ、をしている。物事をあるがままに感じて、事典を引く事のない状態が凄く気持ちよいと感じれるようになってきました。

あと、苦からにげてもすぐに次の苦が現れ、逃げれば逃げるほど苦が増す。逃げずに受け止めれば、苦はいつしか消える。苦に嫌とかの感情をつけなければ、自分に溜め込むこともないみたいですね。

瞬間瞬間はもの凄い移り変わりをしている、ついていけないけれども。少しでも短い瞬間の線を感じれるようになりたいと思いました。

それから依存している状態は気持ち悪いと感じる事ができました。それから、みんな、道の途中なんだなって思いました。だから自分の知っている範囲で批判したり自慢したり、っておろかなことなんだなって思いました。

はるか彼方を歩いてる人もいれば、だいぶ後ろを歩いている人もいて、そうして立ち止まって見渡してたら横を通り過ぎていく人もいて、そんなことを思います。

あと、帰りのバスでは慢と欲が四六時中出てきて、いやはやでした。家でその話をしたら「修行中は薄められていたから修行が終わっていつもの状態に戻っただけで、今回のことで感度が上がった分、いっぱい出てると感じたんじゃない」とかなんとか言われました。 慢と欲と怒りの日常....も、少しづつ薄めていけたらな〜と思いました。

体の中の冒険にも踏み出せたのがびっくりしました。瞑想って、やる事がいっぱいあって面白いです。でも、集中が途切れるとなかなか立ち直るのが難しい。

平常心の形が薄ぼんやり見えてきたような気がしましたが、現在感想文を書いている私はまた、平常心が見えなくなっていたり..。

あと、合掌するのが気持ちよいなって。お辞儀だと気持ちがぼんやりと広がって、迷うのだけれど、合掌すると感謝などの気持ちが一点集中して迷いが発生しないのがこれまた気持ちいいと感じました。 また通しセッションに参加したいです。

なんだかうまく書けないけれど、少しはニュアンス伝わったらいいと思います。ありがとうございました。


福島での東北イエデセッションに参加した者です。先日はご指導いただき本当にありがとうございました。

三日間の参加でしたが、多くのことを学ばせていただきました。禅の形態が座禅に限られず、自分には歩行禅が適しているのではないかという発見もありました。

参加後は、日常生活においても、あれこれ過去の記憶に思い惑っている自分に気づき、慌てて鼻先の呼吸に集中しようと取り組める機会が増えました。電車の中や、何かの待ち時間にも退屈な思いに焦ることなく、静かに呼吸に集中して心穏やかに過ごせるようになりました。

またこのような機会があれば是非とも参加させていただきたいです。本当にありがとうございました。


保原駅で降りると日はとっぷり暮れて、つめたい雨が降っておりましたので仙林寺に向かう足取りがとぼとぼになってしまいましたが、集合場所の戸を開けると両ご住職がにっこり迎えてくださって、ほっといたしました。福島はとっても寒くて、時々は教えていただいた通りに寒さを観るように努めてみたものの最終日までかないませんでした。それで3日目まではいつのタイミングで..とうかがっておりましたのに終わってみればあっという間の一週間だったように感じられます。

私の場合、劇的ななにかということはなかったのですが、それでも日常に戻って数日過ごしてみますと、いくつか持ち帰られていることに気づきます。参禅中はあまりなじめなかった慈悲喜捨の瞑想を試みますと心身がじんわりゆるんでくる心地がする時もあります。

一日のうちで好きだったのは朝の時間です。夜明け前一回目のセッションの後、カタコトトントン、朝食の準備が静かにすすめられている音、気配に時折、耳を澄ますとなんだか安らぐ心持がしました(本当は各自での座禅に専念すべきところでしたが)やがて薄い日が射してきて、しばらくすると用意ができたことをつげられ、キッチンに入ると湯気が立ちのぼっていて、皆で粛々をお椀を運び、念をともなってあたたかいスープをいただくのは充実感がありました。朝の風景を思い出しますと、朝食の準備のお手伝いしたかったな、しておけばよかったと少し心残りです。

7日間ご指導いただき、ありがとうございました。


東北イエデセッションでは大変おせわになりありがとうございました。歩行禅をしてから坐禅に集中できるようになりました者です。

今回の座禅セッションには5日間参加させていただきました。福島は予想をこえた寒さに夜はあまり眠れず、昼は坐禅に集中できず、初めの2〜3日間は最後までやり通せるのか、全く自信がない状況でした。

しかし、少しずつ小池住職の声に耳を傾けられる時間が増えてきまして、なぜ坐禅をするのか、身体感覚に注意を向けることがどうして必要なのか、理解しはじめました。そして歩行禅を行った後自分の中の何かが変わりました。今まで睡魔に襲われ全く手中できなった座禅に集中できるようになってきたのです。

5日目を終えた時には、家に帰る途中で気がついたのですが、周囲の景色の色がとても濃く見えました。これは坐禅の副産物でしょうか?

家に帰った今でも通勤電車の中では眠ったふりをしつつ、坐禅を続けております。また、仕事中の眠気覚ましに無理やり飲んでいたコーヒーともさよならすることができました。そして何といっても、雑念や怒りにとらわれている時間が減ってから心が動揺している割合が減ったような気がします。

今回、東北イエデセッションに参加させていただきまして本当にありがとうございました。長期座禅セッションの今後の開催を希望いたします!


東北座禅セッションに参加させていただきました。仕事の都合で、勝手ながら三日間のみの参禅となりましたが、大いに得るものがあり、非常に有意義な時間を過ごさせていただきました。この場を借りて小池御住職ならびに仙林寺御住職に御礼申し上げたく。 ありがとうございました(合掌)。

到着当初は、やはり慣れない環境の中、寒さや空腹に流されそうになり、挫けそうにもなりましたが、セッションの中でそういう自己を見つめ、苦や楽を冷静に分析できるようになり、徐々に気にならなくなりました。

逆に意識のセンサーが研ぎ澄まされ、自らの欲を必要以上に感じる瞬間も生まれるのですが、御住職の指導通り、ただ、ただ冷静に見つめる事により、解消して行く様がアリアリと感じる事ができました。意識のセンサーの鋭敏化は福島を辞去した後、薄れつつも続いており、良きお土産を持たせていただけた、と存じます。

また、禅的調理方法に興味のある私の我侭から、調理の担当を幾度もさせていただけた事も大きな収穫でした。包丁の扱い方然り、野菜の切り方然り、残飯の再利用然り、全てが仏道に則り、禅的食ライフを学ばせていただき、自らの普段の生活に取り入れさせていただいております。

食事に関わる話で、もう一つお伝えすると、この3日間で胃腸がすこぶる快調になりました。禅による「適正化」もあるでしょうし、玄米・野菜&油ナシなマクロビオティック生活を遅らせていただいたおかげです。なんと、体重も1.5kg減、ベルトの穴も一つズレました。知らずともダイエットにもなっている、長期座禅セッション、凄いです。

兎にも角にも、良い事ずくめな長期セッションに参加させていただけた事、本当に嬉しく思います。 ご用意いただいた小池御住職ならびに場を提供いただいた仙林寺様、私語はほとんど交わす事はなかったものの、同じ空間を共有した他の参禅者の皆様他、関わる皆様に改めて感謝申し上げると共に、引き続き同様なセッション開催を熱望いたしております。


仙林寺合宿ではお世話になりました。本当にありがとうございました。まさか自分にニミッタが見えるとは思ってませんでした。この光を見ていると本当に心が安らぎます。以前、心の問題が起きた時も世界が変わったような気がしましたが、これでまた人生が変わった気がします。

しかし、ニミッタも諸行無常、執着してはいけないのでしょが、見えないときは欲が出てしまいます。最終日の昼食後に、見えたときはこういうときでも見えるのだと感動でした。帰りの電車でも見えて見る度ごとに安らぎます。

しかし、まだ入口が見えただけで、入学試験に受かったわけではないです。卒業などは更なる先のこと。日常生活の中でどれだけやれるかわかりませんが更なる精進を続けます。


■座禅

座禅中ほんの少しの間ですが空白の時間のようなものを感じる時がありました。 (決して寝ている訳ではないと思うのですが・・・・)自分の呼吸が自分のものではないような感じになりふっと自分の呼吸だと気がつく・・・不思議なくり返しでした。これは集中できたと言う事なのでしょうか?

私は設計の仕事をしており 一日中パソコンに向かい図面を引くだけという沈黙行の様な作業の毎日で余計な事を考えて仕事がはかどらない事に悩んでいました。

座禅セッションから戻りどうしても集中力が欠ける時に呼吸を意識しながらパソコンに向うとスムーズに仕事を行える事が分かりました。(多少鼻息が荒くなってしまうのですが・・・)

さすがに、【呼吸の事を考えながら、仕事の事を考えながら、余計な事を考える】という同時3つ進行はできない様です。

しばらくは【仕事の他、考える事は呼吸だけ】 という2つ同時進行法でレッスンして行きたいと思います。

子供の頃の集中力に近づける様 頑張ります。

■歩行禅

ケガをしてリハビリ中の私ですが歩行禅を意識して歩くと、びっこを引かなくなる事が分かりました。無意識でなんとなく歩いていると、ついケガをした足をかばってしまう癖がついていた様です。

歩行禅中感じたのですがケガをした足の方が床を踏む感覚が鋭い様な感じがしました。痛みのある足の方が敏感になっているようです。

〜ケガをして手術をし、2週間くらいたってからだと思います。自分の足を自分で動かす事ができずにもどかしさを感じていた私にリハビリの先生が 「しばらく足を動かさなかったから脳が足を動かす指令を出す事を忘れてしまっているんだよ」と言われました。

その時はピンと来なかった言葉でしたが、歩行禅を体験して、ただ歩くだけの事でも体の中の沢山の機能を使っている事を知る事ができました。それに加えて、私の弱っている足の筋肉がどこなのかよく分かりました。今後はそこの筋肉を鍛えて、春には趣味のスポーツに復帰できる様になりたいです。歩行禅は外科的リハビリに取り入れるべき!です。

■食禅

私は以前、鬱病から過食症を患っていた事があり、過食症に関しては病院の先生にも言えずに一人苦しんでいました。色々な心の苦痛が重なった時期で仏道的な言葉で言えば『渇愛』というものが主な原因だったと今は思っております。

悲劇の真ん中で自暴自棄になっていた私は人に優しくされても偽善としか思えず逆に猜疑心をつのらせますます病状を悪化させた時期もありました。

食膳中は、そんな時期の私を付かず離れずの距離で見守ってくれていた人への感謝過去の自分への自責の念と今後の精進への心をこめて頂きました。

メニューはどれもすべて美味しく頂きました。 □おかずに粟を加えたものは初めてでしたが、ぷちぷちした食感が楽しくまさに噛めば噛むほど・・・でした。

□朝食に頂いた 残り物玄米デザートも美味しかったです。黒ゴマとメープルシロップ よく合いますね。

□あずき入り玄米ごはんは祖母がよく作ってくれたもので懐かしい味がしました。玄米食で育った私ですが、幼い頃あんなに『茶色いごはん』と嫌っていたのですが ここ1年玄米を食べるようになり体の調子も良くなった感じがします。

■説法

『人の言葉の発する言葉に多少の悪意はあっても言った本人はほとんど覚えてない』というお話は気持ちが楽になりました。今まで他人の少々の言葉でも悪意を感じるとすぐに傷ついてしまう小心者でしたので・・・

その他自分の弱さやずるさを指摘されている様でいたたまれなくなってしまうお話もありましたがその為の対処法を具体的に分かりやすくお話頂き有難くポケットにしまいました。今でも時々カタカタと音を立てております。

■沈黙行

普段おしゃべりな私が沈黙を続けるのはなかなか大変でした。つい破ってしまった事もあり、ご指摘を受けましたが改めてお詫び致します。

今まで何気なしに言った言葉が人を傷つけたりした事があったんだろうと思い言葉の重要性を再認識する事となりました。

それにしても 言葉を発しなくとも、その人の表情や振る舞いから人柄が伝わる事もあるのですね。

好きなアーティストの歌詞の中に『声になる前のやさしい言葉』とあるのですが 今回のセッションでそんな感じが伝わる方々とお会いできた事を嬉しく思っております。
投稿用紙

電子メィルのアドレス



>> back to the index