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2009年7月27日、「PARC自由学校」のリレー講座「連帯のための哲学」第四回目にお呼ばれにあずかり、お話ししたものであります。


助け合い欲望シンドローム

(コーディネータ:大岡氏による紹介)

 

今日は小池龍之介さんにお越し頂きました。小池さんの著書「自分から自由になる沈黙入門」という著書を拝見しまして・・・家出カフェというカフェを営まれたり、家出空間というサイトを運営されています。読んだらとても面白かったので、お誘いしました。

「連帯のための哲学」主にこの講義は小泉・竹中以来の新自由主義の風潮に対して、どう連帯のための道筋を回復していくかという政治的なテーマが軸にあります。例えば一回目の講座で「連帯」を「助け合い」に捕らえ直してみようかという話をしたわけですけど、そこまで砕いてしまうと左派だろうが右派だろうがどんな思想であれ、人と人とが共存してくための仕掛けは理屈として存在しているんだろうな、と漠然と、もやっと考えていたんですけど、そのことはそのことで。

 

そして今回小池さんに来てお話をしていただきたいと思ったのは、私個人が最近なんとなく仏教に関心が向いていることもありまして、なんで関心がむいているのかというと南直哉さんという曹洞宗の論客、和尚さんがいて、彼の「日常生活の中の禅」だったと思いますけど、道元の曹洞禅を今の現代思想に置き直して論ずるみたいな本がありまして、たまたま禅の思想に素人ながら興味が湧いてしまってつらつら読み始めました。岩波文庫で「ブッダの言葉」を読んだり、つらつらつらつら。

なにゆえそうなったかと言いますと、私はもろポストモダンの思想潮流の影響をかぶってしまった世代ですから、ポストモダンとは「近代自我の克服」というのが一番大きなテーマなんだろうなという風に勝手に思っていて、もっと砕いて言うと「自分が理想の自分でありたい」というような執着をどうやって超えていくかというようなそういうことですね。自分の殻みたいなものをほどいていきたいと考えた時に、ヨーロッパの哲学だと自分の執着を乗り越えるのも自分で頑張るんだ、というところになかなか至らないのが不満としてあって、それで禅の思想に触れた時に、これは根本的に自分のことが気になってしょうがない、という自分のありかたを一つ一つ解きほぐすためのレッスンなのかな、と思って、そう考えると急に身近なモノに感じられるな、と思ったわけです。

人と人とがつながるといった時に、実際にこのように皆で一緒に生きているわけですから、自然と人間一緒に生きられるもんだよ、と言っていいのかもしれないんですけど、「助けてあげるよ」と手をさしのべられるとその手を振り払いたくなる自分がいたりですね、あるいは頼まれてもいないのにわざわざ手をさしのべたくなる自分がいたり、傷ついたり、とかく世の中大変で、そういう変な執着なしに人と人とが助け合う事ってできるのかということを考えると、まずは自分が認められたいとか人助けをして誉められたいというこだわりを解きほぐさないと自分はなかなかそんなところにいけないな、と思ったもので、そういうあたりを誰かに聞いてみたい、と思ったわけです。

そして小池さんの著書を読んだ時にまさにレシピという書き方をされていますけれども、まさに誰しも自分がかわいく、地方などで仕事していると誰しも自分を大きく見せたがるというか、「俺に挨拶がないのは良くない」とかですね、「東京のだれそれさんという人がいるでしょ、僕は知り合いなんだよ」とかですね、誰しも自分を大きく見せたいし、自分を素通りされると腹が立つし、かといって殴り合いになるかというとならないし、私も曖昧な人間関係で仕事をしていますけれども、というところからまったく私も自由ではないんですけれども、そのようなことを考えていた時に「誰しも自分がかわいい」というところからどうやって自分が一歩一歩自由になっていくか、という教科書みたいなものだなと思ったもので、今日はその当たりについて、助け合うことのややこしさについてお話いただけないかな、と思いお誘いした次第です。それではよろしくお願いします。

 

 

 

演題:「助け合い欲望シンドローム(症候群)」

  月読寺 住職 小池龍之介氏

 

多くの方にとっては初めまして。こんばんは。しばらくお話申し上げます。

 

演題として考えて参りましたのは「助け合い欲望シンドローム(症候群)」という題に沿ってしばしお話申し上げます。

 

■イントロダクション:「犀の角のようにただ独り歩め」

 

ところで講座の名前は、「連帯のための哲学」という名前のようなんですけれども、最初にほんの少し「ブッダのことば」を読んでみましょう。「ブッダのことば」という岩波文庫で出ているモノですけれども、これはスッタニパータと言われる世界最古の仏教経典です。岩波文庫の表に書いてある言葉をそのまま読み上げますと「数多い仏教書のうちで最も古い聖典。後世の仏典に見られる煩瑣な教理は少しもなく、人間として正しく生きる道が対話の中で具体的に語られる・・・云々」というものです。その中に沢山の教典が入っているのですが、第三経、三つ目のお経の中に「犀の角」と呼ばれるセクションがあります。いくつもいくつもフレーズがたたみかけられて、例えばこのような具合です。

 

音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。

 

歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。

 

慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

 

貪り(貪欲)と怒り(嫌悪)と迷妄とを捨て、(煩悩の)結び目を破り、命を失うのを恐れることなく(この「命を失うのを恐れることなく」というのは自分の寿命が尽きていくのをおそれることなく、という意味ですが)、犀の角のようにただ独り歩め。

 

ずっとこのように延々と「犀の角のように・・・・・ただ独り歩め」と述べられ続けているわけです。

 

その中の一部に、

 

学識(智慧が)ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な(自らを戒めている)友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

 

もしも汝が〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気を落ち着かせて、かれとともに歩め。

 

しかしもしも汝が〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

 

そうしてこのセクションの最後が

 

今のひとびと(現代人)は自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益を目指さない友は得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め(そしてありとあらゆる人間が自分の個人的な意見にとらわれており、その自分の考えに基づいて利益を得ようとしている。そのあり方というのはきれいなものでなく、汚らしいモノである、という理を知って、犀の角のようにただ独り歩め)。

 

ということでこの「犀の角」のセクションが終わります。70個位のフレーズが延々と反復されていてたたみかけるように「犀の角のようにただ独り歩め・ただ独り歩め」と繰り返されるわけです。

 

原始仏教の経典というのはこのように反復してひたすら繰り返す、という特徴を実は持っていて、それを何度も何度も唱えている内に、これは現代人がみると何度も同じ事を言っていてもう聞き飽きたよ、という気分になるかもしれませんが、目で追っていると。もともとは文字にするモノではなく口で唱えて、そして語り継いでいくものでありましたので、それを何度も何度も口ずさむことによって「自ら独りで歩んでいくのである」ということが心に刻み込まれていく。という意味合いがあったわけです。このように「ただ独り歩め」ということを一方で非常に強くブッダは言っている。

 

そして、ただちその裏側ではブッダは「サンガ」という組織を組織いたしました。原始仏教の僧侶達というのは祇園精舎というのは有名で皆さんも耳にしたことがあるかと思うのですけれども、祇園というのはジェータ、ジェータ王子、という方がいてそのジェータ王子が所有していた土地をアナ・ピンディカ長者という方が購入してそしてブッダに寄進したので、ジェータと言う方のもっていた土地ということで祇園の精舎、ジェータ王子の精舎と名付けられているのですけれども。そこで「サンガ」と申しますのは僧団、僧侶達出家者の共同生活体というものが営まれていたわけです。

 

そして先ほどお話を伺っていたら「左翼」という言葉が出てきましたけれども、ある意味原始仏教教団というのは極左ですよ。完全に私有財産が一切ないんです。私有財産は一切なしで、自分たちが生きていくのはどうやって生きていくのかというと、全てお布施によってまかなわれなければいけない。お布施というのはもともと一番最初のところまでさかのぼってみますと、食事のお布施というものだったんです。出家者達は私有財産を一切持たないので、生きて行かれない、そこへ在家の方々が食事を作ってあげる、それで生きていく、という仕組みだったんです。

 

そしてこの原始共産主義のような生き方がどうして可能だったのかと申せば、そこに所属している全員(全員とは言い切れないかもしれませんがとりあえずそこに所属していれば生きていけるからと言うような人々が教団が大きくなるに従ってでてきました。最初教団がとても小さかった時はブッダとその高弟達だけだったんですけれどもやがて彼がどんどん有名になってきますと、とにかくそこにいれば食いっぱぐれないだろうというような人達もやってくるにしたがって実は変化していったんですけれども・・・)ともあれ、多かれ少なかれ大部分の人は修行をかなり真剣にしていたんですね。修行というのはとても素朴に言ってしまえば、自分の心の中にある欲望・何かを欲しいという感情や、何かが嫌だと思う感情・怒り、と言ったような心がものすごく沢山ある、それを削り落としていく作業です、丁寧に丁寧に削り落としていく作業。それにみんなものすごく一生懸命になっていたんです。何かが欲しい、とかそういうことはあり得なかったんですね。具体的に、食べ物を何週間分蓄えておきたい、とか、他の人と同じ服だと嫌だ、とか、そういうことはあり得なかったんです。

 

  そしてとりわけ重要だろうと思われることは、共同生活のように見えてみんな完全に独りなんですね。つまり、「独り犀の角のように歩んで」いるんです。文字通り、生活する場所は同じ場所に一緒に寝る、ということはありえません。場合によっては洞窟に独りで、すっごくひろい森を寄進されてその森の中で大まかに共同生活をしているといえばしているのですけれども、ある者は洞窟の中で独り寝起きしていて人に質問がある時だけ下りてくる、というような感じであったり、ある者は小屋を建てて住んでいるかもしれないけれども原則として小屋をもし建てるとしても独りが住むだけの3畳とか4畳位の小屋を建ててそこに独りで住むんですね。そして物をもたない。一応持っていると言えば持っているんですが、托鉢をするためのお鉢と自分の衣、それだけなのです。それ以外に物を持つのは禁じられていたんです。そういう厳しい条件下でありましたら、精神的な「あれがほしい。なければどうしようもやっていられない」、あるいは何かを沢山ためることによって自分は地位が高いようなイメージを作り出したい、といったようなところからものすごく無縁であって、ある意味初めてそういう共同体生活というのは理想的に運営することができるようにも思われます。

 

歴史上私有財産を廃止しようというような運動が世界中で行われていたように思うのですけれども、それで社会をみんな平等にして、という運動がことごとくその指導者の方々やその周辺の人々の、最初は高邁な気持ちで活動していたのかもしれないんですけれども、なんだかよくわからないんですが、やっている内にその方々の地位がものすごく高くなって、そしてその人達の持ち物がものすごく増えて、そうしてその人達のお家がものすごく豪華になって、ボディガードがついて、といった感じになっていっちゃうんですね。

 

といったような話、イントロダクションとして一旦おいておきます。もっと地に足のついたところに立つことといたしましょう。

 

 

  人の役に立ちたくてたまらないムズムズ ~家出カフェ・悩み相談~

 

私のことを少しお話いたしましょうか。先ほど紹介にあずかりました「家出カフェ」というものを主に4-2年前にかけて精力的に活動をしていたんですけれども、その際に行っていた、カフェですから実際にお食事を出すとか、お茶を出すというようなことをやっていたわけですけれども、そこでそういった場所でお坊さんが悩み相談にのりますよ、駆け込み寺のようにしてそこに家出をしてくるようにして使ってくれていいですよ、という感じで営んでいたんです。

 

すると、お坊さんに相談したらなにか解決するんではないかといったような気になった人が色々とやってきてくださるんですけれども、無論、時としてその相談にのることによってその方の相談がよい方向に変化するということも生じますし、時としてお互いの思惑に反してそうはならないことも無論当たり前ですけれどもあるわけです。そうしてその当時の私は自分の思惑通りに相談にやってきた方・駆け込んできた方が改善しなかった場合に、すごいストレスを感じていたんですね。なぜストレスを感じるかというと、心のどこかで思っているんですね。「あなたは私が相談にのってやってるんだから問題をそれによって“解決されました、ありがとうございます!”と感謝してそのことによって、私の自我を気持ちよくさせるべきである」という感情が裏にあるからです。裏を返しますと、うまくいくと嬉しいわけです。そしてこの嬉しいというのを積み重ねたいので繰り返すということが生じます。失敗すると「ああ、失敗した。だめだ、うまくいかなかった!」という刺激が心に走ります。苦痛の刺激が心に走ります。うまくいったら「うわあ、自分は素晴らしい!立派だ!生きている意味がある!存在価値がある!」という刺激がこころに走ります、快楽の刺激が。

 

しかしながら残念なことにそういう刺激を求めて人の相談にのっていても、いまいちうまく行かないんですね。うまくいく時もあるんですが、うまくいかない時も沢山あるんです。その理由の一つとしてあげることができるのが、本当の本当につきつめてみると、相手の話に耳を傾けたくなんかない、ですし、本当の本当を言えば「お前の悩みなんかどうでもいい」とどこかで思っている。にも関わらず、人の役に立っている、ということで自分の存在価値、自分は立派な人間であるというイメージを作る、そちらの方を優先して、自分は「本当は聞きたくないな」と言う気持ちだったり、「もう二時間も話を聞いたらうんざりだよ」という気分になってきたりするのをなぜ抑えられるか。抑えられない人だっているはずですよ、「もううるさい、二時間も話を聞いたんだから帰りなさい」とか言いたくなるのになぜ「もう帰りなさい」と言わないのかというと、そこに欲望の方が強いからです。怒っている「嫌だ」という気持ちよりも欲望の方が強いからです。なんとかしてもう少し粘っていればこの人を良い方向に変えることができるのでは、すると自分は気持ちよくなれるのではないか、という欲望が勝っているからです。

 

しかしながらこういう形で「本当は聞きたくない」「本当はできるならばしたくない」という気持ちでやっているので、一つには自分がストレスを感じる。仮にうまくいってもストレスが残ります。うまくいかなかったらさらにストレスが発生します。

 

そうしてこういう気持ちでやっている人に話をきいてもらったからといって、それで楽になったり、あるいは問題が解決したりするか、というとやはりそうはならないんです。相手の気持ちをみているつもりでいても、相談にのっている私自身が「今ちょっとこの話がうまくいった」「今うまくいかなかった」とか、そういうことで一喜一憂して心がすごく波立ち揺れていますので、相手の心が実はいまいちみえない。表面しか見えないんです。相手の心の奥で今なにがゆれたか、どう動いたか、この人はこういう話をしているけれど何を隠すためにこういうことを言っているんだろう、とか、そういった複雑な心の構造は見えないで、とにかく話を聞いてあげれば楽になるだろう、そして余計なアドバイスを時々言ったりする。そういうものに過ぎなかったんです。

 

一つにはそれは大して役に立ちませんし、時として役に立つとすればそれは相談者の思いこみに基づくものなんです。お坊さんというのは何か特別な力を持っているに違いないから、こういう特殊な人に話せば何か解決するに違いない、とものすごく思いこんでいる人に対して、「ふんふんふんふん」とずっと話を聞いてあげると色々吐き出したことによって楽になったという錯覚が得られるかもしれません、その場限りの。でも大して役には立たない。

 

そして第二に、それをやっている私自身が何のためにやっているのか分からなくなってくるんです、それをやっているのか。とても疲れる上に、本当にそんなことやっていてもいまいち相手が抜本的に解決するわけでもなんでもないからです。

 

そこでふと、自らの心を点検してみたんです。点検してみたところ、ああ、なるほど、と思ったんですね。人を助けるということを、なんで自分がやりたくなっていたかということ、その悩み相談といったようなことをなんでそんなにやりたくなっていたのかということ。弱っている人に自分が手を差し伸べてあげる、とりわけその人の精神的な問題についてアドバイスを差し上げたり聞いてあげて「ほら、良くなったでしょあなたは」という立場に立つことができた時、とても自分が有意義な存在、相手よりも上、の立派な人間であるというイメージ操作ができてしまうからなんだな、ということがようく分かったんです。言ってしまえば、極端な言葉を使ってしまえば洗脳するようなものです。洗脳ということばは少し当たらないかもしれませんが、支配したいという欲求がそこにあるんです。そしてその支配したいという欲求があるからこそ自分がとてもストレスを感じているんだなぁ、ということがよく分かりました。

 

そこで、それは全部やめようと思ったんです。とても無意味だから。それでそれを全部辞めて、一旦社会的な責任を全部放棄して、仕事とかを全部辞めて、カフェも閉じて、そうしてしばらくひたすら修行していたんですけれども。そうして今になって、悩み相談、まだやっています、別にやりたくない・・・ということもないんですけれども。ある時「そういう悩み相談をやっていて疲れませんか?」と聞かれたんです。色々な人の色々な言葉をぶつけられて疲れませんかと。それは、もう、疲れないんです、全然それは。なぜ疲れなくなったか、と申せば、それがやりたくてしょうがないということがまったくないからです。相談を受けるのでまあ答えざるを得ないので答える、けれども別にすごくそれをやりたいわけではもうないからです。その差は、とても素朴に切りつめて申しますと、それをしたくてしたくてたまらない、とムズムズしているか、別にやるならやるけれどもやらないならやらないでも全然かまわない、と落ち着いているかということの決定的な差なんです。

 

そして今日お話しようと思っておりますことの中核はこの「ムズムズしている」ということ、に集約されるということをあらかじめ申し上げておきます。「ムズムズしている」と申しますのは、いてもたってもいられなくなる、ということです。「ああ、こうしてはいられない、何かをしなければならない」という衝動的な自分を駆り立てる心持ち。

 

先ほどの話に立ち返りますとこの「支配したい」、自分では「支配したい」なんて思っていませんよ、表面的に。支配したいから話を聞いてあげよう、と思いながら話を聞くことは人間にはできませんからね。そこまで露骨なことは。ある程度「自分は良い人間である」と思いこんでいないとそういうことはできません。「支配したい」という気持ちを裏に抱えながら、「自分は良い人間である」という気持ちで人に何かをしてあげたい、となっている時、なぜでもそういう気持ちになっているのかなぁと考えてみますと、とても自分の存在価値について不安があるからに他なりません。「自分に生きている意味はあるんだろうか」とか、「自分は果たして有意義な人生を送れているのだろうか」とか、「自分を認めてくれているひとがどこにもいないのではないか」とか「もっと多くの人に認められたい」、というのを尚早に言ってしまいました。なぜでは認められたいのかというと、自分の存在意義がないような気がするからです。

 

 

  自分の存在感のなさ・無力感に不安になる3つの観点

 

今日はその「自分は生きている意味がないんじゃないかな」「何の意味があって生きているんだろう」ということを、漠然とした不安のようなものとしておそらくその当時の私が自己分析してみた結果、「ああそうなんだな、自分はそういうのに駆られているだけなんだなぁ」と思ったこと。多かれ少なかれ多くの人が抱えているはずなんです。で、その自分の存在感のなさ、無力感と言い換えてもいいのかと思うのですけれども、ということをいくつかの観点から考察してみたいと思っています。

 

一つの観点は、現代の社会的観点。社会史的な観点。二つめの観点は、個人・自分の生まれてからに積み上げられてきた感情、個人的な感情、個人の歴史、それは仏教用語で業と申しても良いですけれども、そういう観点。と、それからもう少し根源的な観点、無我、という観点。の3つの観点から申し上げたいと思っています。

 

1)社会的観点

 

社会的観点と申しましたのは、現代社会、もうずっと前から久しくだとは思われますけれども、個人が本当に塵のような存在で自分の役割が社会の中で自分の存在がどれ位重要なのであるかということを全く実感できなくなっているように思われます。ずーっと昔もそうだったのですが、それとは決定的に違いのはずっと昔はその現状に対して「でも個人はとても価値がある人間だから自己実現しなければなりませんよ」というメッセージは昔はなかったんです。今は現実はものすごく個人が無力におかれるような現状であるにもかかわらず、「そうではないんだよ、人間独りとはとても価値があって、あなたはとても立派な価値ある人間ですよ、その価値を実現してきましょう」というメッセージを、生まれた時から四方八方から浴びせかけられてしまうんです。これが最大の災い。

 

現実との間にその脳内に植え付けられた妄想、自分は立派であるという、あるいは存在価値を持たなければ行けないという妄想との間にものすごい落差が生じてしまう、ということ。これについてはもう少し詳しく申したいと思いますが、とりあえずそういうこと。

 

2)個人史的観点

 

そして個人、自分自身が生まれた時から今まで生育してくるにしたがって自分の存在意義に関してすごく何度も繰り返し繰り返し「自分が存在している意味がないんではないか」と感じされられるようなきっかけがあったはずなんです。

 

3)無我の観点

 

そしてもう一つ、個人と社会よりももっと根源的な話をしますと、そもそも皆さん世界中の人の60億人以上位が思いこんでいる事柄として「自分というのが確かに存在して、自我というのがある」という風に思い込んでいるんですけれども、あると思っている自我は本当はないんです。存在しない、という観点を申したいと思います。

 

存在しないことを体得、認識できれば「ああ、本当に存在しないんだ」と分かってしまえばむちゃくちゃ自由になります。ところが、その正反対のことは人は行ってしまうんです。「自分が確かにここにいる」とか、「自分は立派な人間としてここにいる」とか、「自分は価値ある存在としてここにいる」とかいうのは自分は存在しないことの正反対です。裏を返しますと、本当は自分は存在しないんですけれども、そのことを知るのがものすごく怖いので、恐ろしくてしようがないので、絶え間なくそれを否定するような刺激を心に浴びせかけ続けて「ああ、自分は確かに存在する、存在価値がある、だから大丈夫だ、生きていて大丈夫だ」と思いこもうとして七転八倒している、という真実。残酷な真実ですけれども。これについて最後に少しばかりお話したいと思っております。

 

というこの社会史と個人史と、もっと根源的な話をしたいと思います。

 

?    社会史的観点

 

学校の、そうですね左翼という話を敢えて致しますと、現代の学校教育が戦後所謂ゆるい感じの左翼的な思想によって教育現場が作り続けられてきたということは周知の事実だと思うのですが、そして近年それは反対の陣営の人達からものすごく批判を浴びて正反対の方向に持っていこうとする勢力なんかが出てきているようですけれども。それはともかく、その教育に良い点も無論あったでしょうし、悪い点もあったはず。で、私自身が、学校の生徒だった時にすり込まれた教育の中で、ああ、あんなのはないよなと今思い起こしても思います一つは、まとめてしまえば「あなたはとてもかけがえのない存在だからそれを実現するために本当にやりたいことを探して実現していきなさい」といったような感じのことを延々とすり込まれたんです。

 

小さな頃に、小学校1年生の頃に感想文を書かされる。大体誰も大して書くことなんかなくて「悲しかったです」とか「寂しかったです」とかそういうことをちょろっと書いて後はあらすじを書く程度、なんですが、「いやそれはそんなのじゃない、あなたのオリジナルな意見があるでしょう」みたいな事を言われて書き直させられるんです。「いやあ、でも悲しいだけだし・・・」と思うんですけれども、でも書き直させられるんですよ。場合によっては怒られるんですね。それじゃあ駄目だって。しょうがないから、「主人公はあそこでもっとこうするべきだったと思います」とかもっともらしいことをしょうがないから書くんですけれども。そういうのを繰り返しながら、素朴な何も、素朴に素直に自分が思うことは駄目なんじゃないだろうかっていうような気分を生じていくんですね。色々何かオリジナルなものを無理矢理作らなくてはいけないんじゃないか、といったような妄想が植え付けられます。

 

そしてこれは現実との間にすごく落差があるんです。ものすごい複雑な社会システムの中で、個人ができることなんて本当にたかが知れていて、多くの人が、多かれ少なかれ感じているであろうことはもうおそらく数十年前から言われているようなこの「自分がこの社会全体の取り替えのきく、あってもなくてもいいような歯車に過ぎないのではないか」といったような感覚、これはそういった感覚がなんとなく蔓延しているだけではなくてまあ実際にある程度事実に即しているんです。

 

社会的に重要な位置を占めている人間ですらそうです。別にその人が消えたからといって、社会が大混乱に陥るとか、絶対にその人がいなければ成り立たない何かというのは存在しえない。自分が、では「自己実現できるような、本当にそれを探してみなさい」と言われて、「よしではさあ探そう」と思ったところで、第一に本当にやりたいことというのはどのようにして私たちにすり込まれるかというと、大人達の姿だとかを観ていて「あ、これはかっこうよさそうだ、」とか、大抵の場合は社会でものすごく評価されている評価が高い事柄をみて、これはよさそうだと思うわけです。

 

子どものころはものすごく単純ですから、サッカー選手がものすごくもてはやされていればサッカー選手になりたいと思ったり、野球選手になりたいと思ったり。サッカーはある時までは全然持ち上げられていませんでしたが、Jリーグというのができた時にその選手になりたいという子どもたちが沢山増えたり。○○になりたいと、現代でしたら人の視線を浴びる芸能人になりたいですとか、お笑い芸人の地位が高まってくるとそれになりたい人が増えたり、その本当に自分がなりたい、というのはどんな風にしていつの間にか自分の中に入ってくるかというと、その、それになっている人がとても世間で脚光を浴びていたりする。それを見て、その人が得ている刺激を自分もその立場に立って得たいという大雑把に。もう少し細かく言いますと、誰かが好ましい状況にあっているのを見て、見ると刺激が心に走ります。「これは好ましそうである」という刺激を繰り替えし浴びますと、「ああそれは本当に自分のやりたいことなのではないか」、と言う印象が生じます。

 

ところで何でその時何でそれが「なりたい」「これが本当に自分のやりたいことである」というものがその時の社会の人気職業ベストテンのようなものに集中してしまって、現代であれば、掃除をする人になりたいと思う人が全然いないのか、とても分かりやすい話なんです。そこにその立場に立てば、この社会の中でより人々がうらやむみんながなりたいと思っている人になることによって、そうでない人達に比べて、相対的に自分は存在意義があるのではないかと思えるからです。そしてさらに残念なことにはそうやって駆り立てられて、本当に自分がやりたいことと思いこまされてしまったところで、それになろうと思ってなれるかどうかというと当然ながらそれは人気職業ですから、人が餓鬼のように群がるんですね。そこに大量の人が群がってものすごい競争が生じます。その中で勝った人は勝った人でものすごい忙しい業界だったりしますから休む暇もない位むちゃくちゃ働かなくてはいけなかったりして本当に幸せかどうかわからなくなってしまうようであったり。そして、それになれない人は死ぬまでストレスを抱え続ける。「これは本当の自分がやりたいことではないかもしれないのになぁ」と思いながら、なれなかったのではない、本当はしたくないのになぁ、と思うことをやり続けなくてはならないのです。

 

「本当にやりたいこと」というのはものすごく有害なんです。なぜかというとやりたいことというのはできることと乖離しているからです。自分の能力と必ずしも合致していないからです。もう少しさらに皮肉なことを申しますと、人が欲するモノはどんなモノを欲するかということを考えてみましょう。一番欲しくなるモノは不可能なモノが欲しくなります。そのことを説明するために少しだけ欲望の構造をお話いたしましょう。

 

欲望すると、何かが欲しいと思うと、何が生じるかというと、欲しいと思った時から手にするまでの間に「ああ今手に入っていない」→「欲しい」→「手に入っていない」→「欲しい」→「手に入っていない」→「欲しい」→「手に入っていない」という思考が心の中でうっすらと回り続けます。エコーがかかります。手に入るまで。この「欲しい」→「手に入っていない」と反転する時に、心に強い刺激が走ります。この刺激の事を「受ける」という字を書いて「受(じゅ)」古いインドの言葉でヴェーダナーと申しますけれども、苦しみの受、苦しみのヴェーダナーが発生します。苦しいと。この苦しいという感じが私たちを鞭打って、動きます。

 

手に入ったらこの鞭打つのが消えます。鞭打つのが消えるとこの「受」、刺激が消えます。私たちの心は常に刺激を求めています。新しい刺激が入ってくると「わあ、刺激が入ってきた!自分は存在している」と思うことが「確かにここに存在している」と感じることができる。

 

ちょっと話が一旦飛んでしまいますが。さっき申した無我との絡みで・・・刺激が走った時だけ「ああ自分は存在している」実感が湧くんです。何かを見ていると、見ていることを通じて刺激が入力されます。そして「見ている自分は確かに存在している」と感じます。その時に、自分のあんまり興味のない茫漠とした風景をみていると、あんまり自我が刺激されませんので、自分は存在していないんじゃないだろうかという気分になってしまいます。しかし自分がものすごい好きな映画を見ていると、その映像を通じて強い刺激が入るので自分は確かに存在しているという幻覚が生じます。反対に自分がものすごい嫌いな映画を見させられまして、「うわあ嫌だ!」という刺激が走るのでその刺激を通じて自分は確かに存在しているという錯覚が生じます。それは耳を通じて入ってくる情報であれ、匂いであれ、味であれ、身体感覚であれ、あるいは思考を通じて何かを考えることを通じて強い刺激が生じることであれ、同じなのですが。そして欲望、こうなりたいと思うと強い刺激が走ります。手に入るまでは。手に入ると刺激が消えます。するとこれは、心の流れにとっては都合の悪いことなんです。刺激が消えてしまうからです。刺激が消えてしまうと、自分が存在しているのかいないのか分からなくなってしまう。というよりは、存在していないという事実が見えてしまうので、それに目隠しする必要があるんです。

 

ということをおおざっぱに念頭に置いていただきますと、欲望というのは突き詰めていくと、欲望が実現しないほうが都合がいいんです。心のプログラムにとっては。実現すると、刺激が消えます。すると、これじゃなかった、自分がほしいのはこれじゃなかった、という気分になって、別のモノに変えなければいけなくなる。また別のモノを欲しくなると言う形で変えなければいけなくなる。というように、万人が何かを手に入れたらこれは本当に欲しいモノではなかった、別の物に変えよう、でもこれもまた本当に欲しいモノではなかった、これを手に入れたら満たされると思いこまされていたけれど、別にダイヤモンドを手に入れても幸せにはなれない。大会社の会長になったら幸せになれるに違いないと思っていたらなってみたけど家族関係がうまくいかなかったり、みんながちやほやしてくれると思いこんでいたけれども、ちやほやすべきであると思っていてもおべっかを使ってくる人はいても心の底から言ってくれるひとはいないような気がする。ああ本当に欲しいのは会長じゃなかった、本当に欲しいのは本当にちやほやされることだ、本当にちやほやされるにはどうしたらいいだろう、とか考えると『部下に誉められる66の法則』そういう本を熟読してちやほやされたいと思うんですが。でもそういう本を読んで手練手管を尽くしてみたところで人の心をつかむことはできない。そして、これが欲しいと思う。手に入ったらこれは違うと思う。

 

こういう面倒くさいことをしなくてすむためには、手に入りにくいものを最初からターゲットにするといいんです。するといつまで経っても「ああ、欲しい」→「手に入らない」→「ああ、欲しい」→「手に入らない」→「ああ、欲しい」→「手に入らない」と思い続けて刺激を浴び続けることができるからです。苦しみの受、○○○○?を感じ続けることができるからです。

 

ですから、感情が煮詰まって来てしまう人、例えば奥さんがいる男性を好きになってしまう、手に入らないですね。奥さんがいるわけですから。女性の方で奥さんのいる男性を好きになってしまう、どうしてもそういう方ばかりを好きになってしまう。で、その方のことが欲しいんだけど「手に入らない」→「欲しい」→「手に入らない」と。これは今申した罠にはまっているんです。手に入りにくいから都合がいいんです。

 

そして先ほどの話に戻りますと、自己実現というものがどうしても手に入らないものをターゲットにしてしまうんです。心の構造上です、これは。手に入らない、手に入りにくいモノをターゲットにしますから、どうしても手に入らない、そして別なもので代替します。「本当はこの仕事やりなくないのになぁ」と思いながら。あるいは「こんな団体の、こういう立場で、こんなことをやってることをするよりもっといいことがしたいのに」と。この「もっと○○がしたいのにな」これが欲望、です。「こういう自分になりたいのに」「もっとこうでありたいのにな」と実現しなさそうなことを常に頭の中で妄想していて、それが常にストレスを感じさせていてそしてそのストレスゆえにそのストレスを感じているがゆえに確かに自分はここに存在するという、罠、に他なりません。そしてその罠を助長するようなことを学校が教えているんです。そしてマスメディアが、そのことを利用して、人をカモにして、役に立たない情報を売りつけているんです。そして、歌や漫画や映画といったようなモノが、この個人がいかにもなんの役にも立たなくなっているような時代に、ある個人がとても重要な役割をあたかも果たせてしまうかのような作品をばらまいて目隠しするんです。すごい主人公がなにかすごいことをする。世界の誰かが主役になっているかのような幻想である。そういうのがあり得るような幻想。すると、ああ、そういうのがあり得るのかも知れないという気に少しさせられてしまいます。すると欲が生じます。現実を見なくなります。個人というのは塵に過ぎない、という現実を見なくなります。というように、現代の社会があるように思われます。この現実から目をそらしたい人達がいてそしてその現実から目をそらすために色々な商品を提供してくれています。ですから現実から目をそらしたい、自分はそれなりに役に立つ人間、塵ではない、ということを錯覚したいと言う欲望を持っている人を消費者にして、様々な商品が売りさばかれています。哲学ですとか、漫画、映画、そして歌。音楽の中で男の子や女の子が恋愛を通じてものすごくお互いがかけがえのない存在になっているかのような歌詞をもった甘い歌。現実から目をそらしたいという気持ちをカモにされて、こうやってお金をある意味搾取されてしまっている。社会のことは実はそんなに重要ではありませんので今日のこの話の中では。これ位にしておきます。

 

 

?    個人史観点

 

そうして、ではなんでカモになってしまったりすり込まれてしてしまうのか、すり込まれないと言う選択肢もないわけではないはずなのですが、そもそもなぜ私たちはそうやって翻弄させたり操られたりするのかなぁ、ということを考えてみますと、この塵のようである、存在価値がないかもしれないといったようなことについて、私たちは小さい頃から大量の災い深い情報を植え付けられています。それはさっき申したことと同じで、欲望が関わっているんですけれども、生まれた瞬間の赤ん坊、ものすごい欲望の塊です。ある意味それはしょうがないことですが、自分が死ぬかもしれないからとにかくかまってくれ、とにかく母乳をくれ、とにかく一瞬たりとも自分のもとを離れないでいてほしい、と思っています。

 

思い起こすことが適うでしょう。生まれたばかりのことは分からなくても3歳・4歳位までさかのぼれば記憶がおありなのではないですか?親がちょっとどこか別の部屋に行ったり、お隣さんのところに行ってしまうと、ものすごく不安になってきたり、実際に泣き叫んだり、その時求めているものは「そんな他の人に時間を割かずに自分に割くべきである」ということを思っている。赤ん坊は露骨にそうです。構ってもらえなかったり、自分に愛情を注いでもらっていない、自分の思い通りの時間にごはんが与えられない、とかそういうこと一つ一つものすごく不安になって泣き叫ぶ。人によって程度の差はあれ、多かれ少なかれ生まれたばかりのころにものすごい沢山の欲望があって、その内のいくらかは満たされるんですが、その内のいくらかは満たされません。あまりにも多くの事を望みすぎているからです。

 

親に対して大量の事を要求します。しかしそのうちのいくつかは聞いてもらえません。そして聞いてもらえない度にめちゃくちゃ悲しくなったこと、それを思い起こすことができるでしょう。小さい頃に、キン肉マンというアニメが流行っていて、それのフィギュアみたいなキン肉マン消しゴムという消しゴムが流行っていたんです。それがとても欲しいので、「買って、買って」というんです。けれども買ってもらえない、「ダメ」と言われて。むちゃくちゃ悲しくなって泣き叫んだりするんです。胸が張り裂けそうに。で、その時に欲望にはこういう威力があるんですが、実現しなかった時にむちゃくちゃ苦しいという。大人になると抑圧し出しますが、子供の時に抑圧する前に欲が実現しない時のあの苦しさ、というのは激しいんです。ただ単に消しゴムが欲しい、けど手に入らない、位のことではそこまで張り裂けないんです。自分はこれを買ってあげるに値しない存在だと思われているのではないかということが悲しかった。自分は存在価値を認めてもらえていないのではないか、ということが悲しかったんです。

 

で、多くの子供は勘違いします。親は別に「お前に存在価値はないしお前は愛されるに値しないからこれを買い与えないよ」と別に言っているわけではなくて、(まあ実際にそういう場合も確かにあり得るかも知れません「お前なんかにはあげない」と。)大抵の場合は教育的配慮から何でもかんでも買い与えるのは良くないであろう、という風に我が儘な子供に育たないようにしようという心持ちであるかもしれませんし、何かしらの配慮が大抵働いているんですが。子供はそういう複雑な事情は全く認知しないんです。ものすごく貪欲に「自分は愛されるべきだ。愛されるべきだ。一瞬たりとも見逃さないように愛情を注いでもらうべきだ」と強力な強い欲望を持っていますから、何回も何回も傷つくんです。勘違いして「自分は愛されていないのではないか」「存在価値がないのではないか」と。

 

そして、助け合うという話にも少しだけつながりますけど、ある時子供は覚えてしまうんです。ある味をしめてしまうんです。何かをした時に、それを親が誉める、喜ぶ、という仕草をすることが、誉めてもらえている、受け入れてもらえている、認めてもらえている、これをすれば、(不安なんですね、受け入れてもらえていないのでは、愛情を注いでもらえていないのではないかと行ったようなことについて)何かをすると誉めたり笑顔を見せてくれたりする。「ああこれをすれば自分は受け入れられるし存在価値があるといるメッセージをもらえるんだ」というメッセージを与えています。そういう刺激を受けるんです、快楽の刺激を。親の表情が目を通じて入ってくる。快楽が生じる。親の言葉が入ってくる。「いい子ね」といわれるとすごく耳を通じて耳に音波が当たることを通じて、快楽の受、刺激が生じます。「ああ自分は確かに存在している、しかも存在意義がある。」ということが生じます。すると条件付けられていってしまうんです。もともとは欲望まみれでした。ものすごい欲望がありました。それはある意味親にとっては迷惑なことです。親ができないようなことむちゃくちゃをいっぱい要求してくるので、子供は。迷惑です。そして親は洗脳しようとするのです。誉めることと叱ることを通じて。

 

ちなみに一言だけもうしておけば仏道・仏教式に子育てをしようと思ったら誉めないことです。そして叱らないことです。なぜかというと叱るのは「それは絶対にならない・しない」という方向に相手を洗脳することであって、そうして誉めるのは「それを繰り返しなさい繰り返しなさい繰り返しなさい繰り返しなさい・・・そうしたら私が快楽を感じますよ」という洗脳を行うことに他ならない。そして、その洗脳というのは子供の欲望を封じ込めていきます。欲望を封じ込めるのはある側面ではとても良いことではあるのですけれども、その過程で心がねじ曲がっていきます。自分の欲を全開にしてむちゃくちゃにしてワガママ放題に本当はしたいんですけれども、そうしたらこの人は受け入れてくれないらしい、じゃあ受け入れてもらうためにはこの人が笑ってくれることをすればいい、という形で少しずつ自分を変形していきます。でもこれは両刃の剣でなんですね。「ああ受け入れてもらっている。なんとか存在価値がある。自分は確かに生きている意味があるような気がする。」と一方で思うことができます。ただ、他方で「あなた達に受け入れてもらっているのは、元々の自分ではなくてあなた達の都合の良いように作り直した自分でしょ」という感覚がどこまでもぬぐえないから、両刃の剣なんです。やがてでも忘れていきます。自分がもともと持っていた欲望のことも忘れています。自分の元々持っていた欲望を全開にした時に全部は受け入れてもらえなかったことも忘れます。その過程で「よい子」になっていきます。多かれ少なかれだれでも「よい子」になっていきます。

 

ああところでそうとも言えませんけれども。反対の極に走る人も。「どうせあなた達が受け入れてくれないんだったら、もういらない」苦しいですから、受け入れてもらえないのは、もういらないという方向に走るという方もいます。方、というと他人事の用ですが、私の場合は自分の成育史をみてみると「お前らがくれないんならもういらない」という反応をいたしました。この「もういらない」という反応をする人達は、ある一定集団の中でちょっとアウトロー的な人になっていきます。反対に、とても大まかな図式ですけれども、相手の笑顔を見ることによって快楽を感じて、でもそれは色々と諦めていかなければならないんですよ、自分のやりたかったことを。でも、それでも自分は認めてもらえているから嬉しい、と、思う方向に偏っていくと、とてもおおざっぱにいえば、学級委員的な気質になります。そうしてこの学級委員的な気質の子と、アウトロー的なちょっと不良っぽい子・・・、この対は全く同じ心の構造の裏表です。この悪い子になってしまう方はおいておいて、今日テーマ的に重要なのはこの「よい子」の方です。でも自分で抑圧したけれども、心の中では見えないところでちくちくし続けているんです。「なるほど確かにこの人は自分を受け入れてくれたが、でもそれは自分があなた方の望むように振る舞っている限りのことでしょう」と。それを自覚すると悲しくなってくるので自覚しませんけれども、潜在意識、これが業の領域でエコーがかかるように「でもあなた達は自分の存在意義を認めてここにいていいよ、と、言っているけど、でもそれは自分じゃないでしょ、自分じゃないでしょ、それは本当の自分じゃないでしょ、本当の自分じゃないでしょ・・・」と回り続けているんです。なぜなら、世の中で言われている「自分探し」というような時「本当の自分」というのを向いていくと、それは何かと申せば、剥き出しの欲望ですよ。あるいは欲望が満たされなかった時の剥き出しの怒りですよ。それが本当の自分です。仏教でこの欲と怒りと、そして無知のことを三毒ともうしますけれども、本当の自分というのはこの三毒に他なりませんよ。本当に探したらそれですよ。けれども、自分を周りの人に受け入れてもらうためのプラットフォームとして、まずは親に受け入れてもらうために、学校に行ったら先生という支配者に受け入れてもらうために、あるいはクラスというムラに受け入れてもらうために、その人達が望む形に何かしらの形に作り替えなくてはならない。あるいは現代人が合コンの席であれば、そこで楽しげにキャラクターを演じる、というようなことの中に自分を作り替えて行かなくてはならない。そうしてみんな感じているのは、「ああ、確かにこのキャラを演じた自分は受け入れられた。しかし、本当の自分ではない。本当の自分は受け入れられていないも同然である」受け入れてもらいたがっているがゆえに自分を作り変える。にもかかわらず、それはでも自分じゃないと心の中で逆恨みしているような状態です。多かれ少なかれ実はこれを多くの人が体験せざるを得ない。

 

そうしてそれが極端に至ってしまった場合はとても可哀想なことになる。自分は本当にピアノしたかったのかなぁ、とよくわからないんですけれども、とにかく親が喜ぶから、ある時「ピアノは自分がしたいことである」と思い込むようになって、やり続けていたところ、ある時ふと思い当たるんです。親に誉められるためにやっていた、親にやらされた、親が悪い、親のせいで人生が狂った、みたいなことをある時に思い出して急にうつ病になったりする。ということがあり得る。

 

あるいは私の旧友でこういう方がいました。大学に入って、文字通りその方は学級委員を何度か繰り返し務めてきた方なんですけれども、子供時代。大学に入った時に親にずーっと誉められてきて、それで成績がいいから頑張ってきて、そうしていい大学に入ったものの、でもそれは全然自分がしたいことじゃなかったとある時はたと思ったんです。で、その時はたと思ったのが、自分の本当にしたいのは、音楽だ、と思って、その方の場合テクノミュージックをやり始めてそれを学ぶためにドイツに行ったりしたんですが、ドイツでうつ病になって日本に帰ってきてしまいました。ちなみにその音楽がやりたいんだ、と思ったのも本当に向いているかどうかは知りませんよ。心の構造上、色々な刷り込みがあってある時急に思いこみが生じただけです。実際。少なくとも言えるのは、これまで自分が勉強をしたいと思って、思いこんでやってきたけれど、ああ、実際は違うんじゃないか、周りに受け入れてもらうために、親に受け入れてもらうのがうれしくてやってきただけなんじゃないかと、ふと思い当たった時に、そうではない何かを入れたくなった時にたまたまあった身近にあった好きな物がそれだった、ということに過ぎませんけれども。

 

逆恨みするんですね。自分が相手から受け入れてもらいたいが故にこそ、相手にある時から気づかず気づかず自分を作り替えていったんですが、認知は逆の方向に働くんです。自分がやったんではなくて、おまえらのせいでやらされた、というふうに、これは多くの人の話を聞くと大抵そう思っているんです。細かく聞いていると。表面的な意識では自分の責任であると思っているんですが、底の底では、やらされた、と認識しているんです。でも実際、そういう側面があるんです。あるのが事実です。

 

親がなぜそれを喜んだり誉めたりするのかというと、その通りにさせたいという気持ちが働いているからに決まっているからです。そうである以上、確かに「させられた」という側面が全くないわけではないのが事実です。そういうメンタリティを作ってしまいますと、一応誉められて認められているということで、ぐらぐらしつつも一定の人格の安定が保たれたふりをできます。でもこれはとても不安定なんです。新たにまた誉められたり、新たに評価されたりしないと、不安になってくる。常に新しい刺激を入れる必要があるからです。その上、でも本当は親は認めてくれていない、自分そのものを認めてくれているわけではないだろう、作っている自分、キャラを演じている自分を認めてくれているだけに違いない、という不安がどこかにありますから、常に「足りない・足りない・足りない・足りない、穴が空いている・穴が空いている、自分は存在価値があるんだろうか」という恐れが常につきまとうんです。

 

その穴をやがて親ではない存在に求めようとすると、次に子供時代に出会うのは学校の先生です。親と同じような年齢だったり、それより上だったり下だったりするかもしれませんが、親が自分に対して圧倒的な権力を持っていたのと同様に、学校という場で圧倒的な権力を持っている存在。やっぱりその人達は誉めたり怒ったりする。先生に誉めてもらわなくたっていいや、という人はいるかもしれませんが、大抵それはウソなんです。なぜかと申しましたら、多くの人が子供の頃口にしたことがあるはずです、「あの先生、贔屓するから嫌だよ」。つまりそれは、誉められている生徒、評価されている生徒に対する妬み。なぜそれが妬みだと言えるかと申せば、自分が先生に評価された時にそういうことは言わないからです。「あの先生贔屓いするから嫌だよね」と学級委員は言わないからです。まあ必ずしも学級員が先生に贔屓されているかどうかは分かりませんけれども。ある先生に贔屓される人は支配者に贔屓されて支配者層に加われる人はごく一部です。クラスに独りとか二人とか。大部分の人はそちらに回れない。で、その回れない人達が「あの先生、贔屓するから嫌だよ」と。私も何度かそのセリフを口にした記憶があいます。でも、数少ない経験として、私も贔屓されたことがあります。で、その時はそんなこと全然言わないんですよ。気持ちいいですから。「依怙贔屓されるから嫌だよね」、という言葉は、翻訳すると「彼らの賞賛や評価するということは、自分に向けられて然るべきなのに、特定の人間が独占しているから好ましくない」という風に翻訳できるかも知れません。このようにして、独りか二人は刺激を学校でも浴びられます。「ああ、自分は存在価値がある、認められている」という風なことを、先生との間で。でも大部分の人はそれを実感できなくて、いらいらしている。

 

あるいは友達との間に同じようなことを行おうとするかも知れません。自分の大好きな友達、その人に愛情を注いでもらいたい、その人に認めてもらいたい、評価してもらいたい。多くの人が小さな頃に、「この子が一番好き」というような子が、同性の子供がいたんじゃないかなぁと思います。その子が別の子と遊んでいたりすると、なんだかちょっとだけ嫉妬心のようなものが湧いてくる。それは似ていないでしょうか、親を独占したかったということに。親を独占したかったですが独占できなかった、愛情を完全に注いでもらおうという巨大な欲望、ものすごい巨大な心の穴、つまり実現できないものを実現しようとして、刺激をすごく浴びるというプログラムにのせられて失敗した。それを友達で繰り返さなかったでしょうか。必ずしも、でも、ずーっとその子を独占できるわけではない、その子も他の子と遊んだりするし、自分が思っている通りに自分は存在意義のある人間であるとういことを実感させてくれる道具にはなりきってくれない。繰り返すんですね、埋まらない穴を「この人なら埋まるに違いない、この人なら埋まるに違いない、この人なら埋まるに違いない、この人なら埋まるに違いない・・・・」と。

 

私はようく覚えていますよ。“たけちゃん”という友達がいて、小学校の時に、その子に遊ぼうという電話をして、「いや、今日は遊ばれへんわ」と言われて、何かの理由を言われたんですけれども。でも、後で別の子と遊んでた、ということが分かってものすごいショックを受けて、とても暗い気分になったことをとてもよく覚えています。だからといって、相手が全然自分を認めてくれていないわけでもなくて、友達である以上しょっちゅう遊んでくれているわけですから。でもある時一回、ちょっとそうではない反対の刺激を入れられるとむちゃくちゃ傷ついたりいらいらしたりするでしょう。自分の商品価値が下がったような気がすると思います。みんなに、先生、親、学校の友達、にちやほやされたい、評価されたい、ちゃんと遊んでもらいたい、そうでない情報を仕入れる都度に「ああ、自分の価値が下がった、価値が下がった、価値が下がった・・・」と、生きている意味がないのではないかと脅かされます。この脅かされた度合いが強い人ほど穴が拡大します。そしてこの穴を埋めるのには、埋めたふりをするにはいくつかのツールがあるでしょうけれども、さっき申したように社会的に何か立派なことをするのはなかなか難しいんですね。立派なことというか、みんながなりたいことをやってすごく評価されるというのはなかなか難しい。

 

でも、自分の隣でなにか困っている人がいて、その人に偉そうに説教をたれている時に、ものすごく気分が良くなってくるんです。自分を、とてもこの人を支配している有力な存在である、という印象が生じる。あるいは、世界全体のことについてとても鷹揚な議論を作って世界構造全体のことを把握してみせて、世界平和のこととか、世界経済のこととかについて偉そうなこと、偉そうな意見を述べてみると、忘れられるんです。自分がとても惨めな生きている意味がないような存在であるということを。

                           

・・・これが「ムズムズしている」ということの本質です。穴が空いていて、「ああ、困った、困った、困った、なんとかして自分は生きている意味がある、存在価値があるというように思いたい」とムズムズしてしまうと、気持ちがいてもたってもいられなくなって、本当は助けを求めていないかもしれない人に無理矢理アドバイスをしたくなるかもしれませんし、悩み相談をしていますよ、と言いたくなるかもしれませんし、あるいはカウンセラーになって色々な人の役に立ちたいとい思うようになるかもしれませんし。でも、そうやってカウンセラーになると、精神病への道を歩むハメになる。

 

私が相談にのっておりますと、そういった精神医療に携わっている方から相談を受けることが多々あります。さっきの私の話ではありませんが、本当に相手の話を聞きたいとか、そんな人はほとんどいないでしょう。ある目的のためにきいている。ですからものすごいストレスが溜まります。カウンセリング理論というのは、ひたすら相手の話を聞いて受け入れてあげましょう、というようなことですけれども、そんなことができるわけないんですよ、人間に。できないのに無理してそういうことをやるので、むちゃくちゃ心に負荷がかかって、病気になっちゃう。で、精神安定剤を飲みながら、患者の診察をしている精神科医、カウンセラーがざらにいる。

 

あるいは、自分の惨めな現実を忘れるために、世界の人の幸せ、とか、国全体の幸せ、とかそういう大風呂敷をつい広げたくなるかもしれませんけど。でも、大風呂敷を広げると足下がとてもおろそかになるんです。その時、では、一緒に住んでいる方、家族や友達に対して自分が優しくできているかどうか、優しくできていない場合に、大風呂敷を広げると、その優しくできていないということときょうはん関係に当たってしまいます。自分が存在価値がないようでいらいらしていて、相手や色々な人間から自分を認めさせたいと思っていたり、している。このかりかりした感情で周りにぶつかっていきますから、友人関係にガタがきたり、家族や恋人につらくあたっていたり、自分の思い通りにいかないことにストレスが溜まりますので、それに対して一回一回、逐一、「そんな言い方をされると自分の存在価値が傷つくような気がする」「そういう振る舞い方は自分の存在価値が傷つくような気がする」と優しくない心の反応をしているかもしれません。でも、その自分が本当は優しくないということを忘れてしまうことができる。「自分はだって世界平和のことを願っている立派な人間なんだから優しいはずでしょう」と思うことができるからです。ところが順序が逆なんです、本当は。自分の大切な人独りに対して優しくできない人が、世界のことについて何か言っていても、それは現実をごまかそうとしているだけ。ですから、実際そういう人が権力を握りってしまうととても危ないんです。自分を認めさせたい、とか、そういう感情を持って、削り落とさないままで、すごい穴があるんです。自分の存在価値がないのではないかと、いう不安に駆り立てられながら、存在価値を見つけるにはどうしたらいいだろう、ということの中でたどり着いた領域で何か指導的な立場に立ってしまった、ということはとても危ない。

 

そうしないですむようにするにはどうしたらいいかというと、単純なことなんです。ムズムズしていなければいいんです。ムズムズしていなければいい、と申しますのは、この欲、を通じて、「手に入れたい、手に入っていない」そして刺激が走る、刺激が走ることで「自分、自分、自分、確かにいる」というこのプログラムを破っている、このプログラムから脱出していられると、脱出する度合いが強まるに従って、ムズムズしなくなるんです。

 

・・・時間がなくなりますからまとめに入らなくてはいけません。

 

 

?無我の視点

 

三つめに申す、社会的にみんなが無力感を感じている、そして個人の歴史を通じて多かれ少なかれ誰もが自分の無力さをものすごく感じで刻み込まれてしまって、その無力さをごまかすために色々頑張っている。それらの背後に控えている最大の病は「自分は存在しない」本来自分はもともと存在しない、ということです。

 

何かを考えた瞬間、「これを考えている自分がいる」という感覚が、印象が生じます。何かを見ている時は「何かを見ている自分がいる」という感覚が生じます。この感覚が消えている時は自分という感覚も消えます。生まれてからずーっと六感を通じて色々な刺激が入り続けていますから、それを通じて「ああ、確かに自分はいる」という風に思いこんでいるんですが、でもそれは気のせいなんです。刺激の量が強くなると「より自分はいる」という感じになりますし、刺激の量が減っていくにしたがって「いないような気がする」という感じになる。この大雑把なグラデーション位は、誰しも感じたことがあることでしょう。そしてこの刺激を滅していくと消えます、「この自分」という感覚は。で、消えた状態はとても安らかです。とても安らかなんですが、この消えたという経験がない人には、消えたというのが死ぬようなものなのではないか、というものすごい恐れのようなものが、DNAレベルと申してもよいかもしれませんが、人間には組み込まれている。そして、自分というのは存在する、という錯覚が常に生じます。刺激が生じる都度に。そして刺激が生じると、その刺激に応じて「あれが欲しい・これが欲しい」といてもたってもいられなくなります。「これを手に入れれば、自分は存在価値のある人間になるのではないか」という幻覚が生じて、そして駆り立てられます。この駆り立てられることを通じて、相手を論破したくなったり、論破すると気持ちいいですから、自分は立派な人間でありえる。論破したくなったり、あるいは、競争をしたくなったり、集団レベルで争いたくなったり、あるいは本当に人類に必要かどうか分からないイノベーションをばんばん繰り返して余計なものを新たに発明しまくったりするかもしれませんし、あるいは強い刺激を求めて戦争をするかもしれません。

 

このようにして人間の文化とか文明と言われるものが成り立っているわけですけれども、それは苦しみに鞭打たれてのことです。「苦しい」→「何とかしたい」→「苦しい」→「何とかしたい」→「苦しい」→「まだ手に入っていない」→「苦しい」→「なんとかしたい、なんとかしたい、なんとかしたい、自分の存在価値、存在価値、存在価値、存在価値・・・」というプログラムに操られてありとあらゆる衝突やストレスが生じているんですが、でもそのストレスをストレスと実感できないようにされてしまっているんです。

 

争う時に、あるいは自分の意見を言って相手を論破しようとしている時に、あるいは私の悩み相談の例に立ち返りますと、悩み相談に乗ってあげてうまくいった時本当はストレスを感じているのに、うまくいった瞬間にちょっと気持ちいいような気がするんです。あるいは自分の意見をものすごく言い張っている時、すごくリラックスして一緒にのんびりしている時と言い張っている時とどっちが気持ちいいかというとリラックスしている時に決まっているのに、でも議論している時とても気持ちいいように錯覚するんです。それを錯覚するように心の構造上なっているんです。強い刺激が発生しますと、それは苦痛なんですけれども、その苦痛を頭が沢山刺激が発生したので自分が存在する実感を味わえているのでこれは快楽である、というように書き直す、この変換プログラム、苦痛を快楽に変換するプログラムが人間には組み込まれています。

 

このプログラムを消していくと何がわかるかというと、私たちが感じている刺激は一から百まで全部苦痛しかないということです。これが仏道において言われる「一切皆苦」といわれることの本質ですけれども、私たちが体で感じている刺激も、心で感じている刺激も、厳密に認識していくと全部苦痛でしかない。ということです。でもこれが分からないようにプログラムがなされています。なぜなら、なぜならというのもおかしいですけれども、それを認識してしまうと、私たちはあくせく争ったりするのをやめます。あくせく我を主張して、周りを論破したりやっつけたりして優位に立とうということをしたくなくなります。あるいは戦争をしてまで自分達のグループを増やしたいとか、思わなくなります。あるいは余計なものをばんばん発明して自然を破壊したりとか、結果として破壊するとか、そういうことはできなくなります。とても無意味であることが、それらが全部苦痛であることがばれてしまいます。わからないようにプログラムされているんです。苦痛を感じて、その苦痛で駆り立てて動くようにプログラムされているんですが。

 

でもそれで気づいちゃうと止まっちゃうんです。止まりはしないですが、その命令通りに動かなくなって、ある意味革命が起きちゃうんです。この苦しみに鞭打たれて奴隷のように馬車馬のように争ったり論破したり泣いたり叫んだり、しながら人間という種をどんどんどんどん増やしていこう、でたらめに、でもでたらめなプログラムも暴走して時々個体は自殺してしまったり、ものすごく苦しくなったりするんですが。でも大まかにみるとなんだか数は増えている。そのでたらめなプログラムに従って。でもその真実を見破っちゃうと、瞑想とかを通じて、その変換するというプログラムを停止していって、事実を見ていくと、止まっちゃう、プログラムを停止して止まって何がおきるかというと、うわっ体のどこもかしこも苦しみばっかりが走っていて、例えば性器を特殊な触り方で触ると本当は痛いだけなのに頭がそれを快楽、気持ちいいと書き直したり、あるいは同じ痛覚なのに量が少ないと痒いと感じさせたり、量が多くなってくると痛い、仕分けしているんですよ。この仕分けしているプログラムを止めると、もう全部苦痛なんですよ。痛覚がニューロンを通じて痛みを運んでいるだけだということが見えてくるとものすごいショックを受けます、心が。うわっ、本当に苦しみしか感じていない。なら、そうだったのか、と思うと方の荷が下ります。苦しみは嫌だから快楽が欲しい、というプログラムで操られている、でも、どうせ全部苦しみだったら腹をくくれる。それがさっきの「寿命が尽きることを恐れず」ということです。別になにももう怖くなくなるんです。どうせ全部苦痛。でもこれが起きると、もう荷を下ろしてしまって、刺激の奴隷状態になっていた状態から革命が起きて自由になると困るんです。ですから徹底的に見えないように隠されています、全部が苦しみだという真理は。

 

そしてもう一つ今申したいのは、真実は無我、ということです。我というのは存在しないと言うことも徹底的に隠されています。苦しみということと結びついていますから、苦しみの刺激が走る都度に頭が「ああ刺激だ」として我がある錯覚が生じます。仏教学の先生やお坊さんが「無我」「我なんて存在しませんよ」と口で言っていても、でもそれは、「そういうことを喋っている自分は存在する、確かにいる」とか、「それを教えていて気持ちいい」と思っている以上、全然そんなのは無我ではありません。それが結局苦の刺激が生じて、我が発生しているということなんです。

 

ただこの無我というのも、我が存在しているからその我を存在意義があるようにしなさい、と命令で動かされているんです、人間は。ただそれは馬の前にニンジンをぶら下げられて「ああ我がある、我がある、あるに違いない」と走らされているだけで、いつまで立っても永遠にそれは手に入らないから、新たな刺激を常に入れ続けて「自分は存在する・存在意義がある」と思い続けなきゃいけない。そして真実を知ることをどこかでものすごく恐れている。

 

「自分は存在意義がない」、と通り越して「自分は存在しない」ということを知ってしまう。皮肉なことに知ってしまうと肩の荷が下りるんです、ああそうか、自分と思っていたものはただの流れで何かを認識する、認識すると、認識した瞬間に、例えば今私が「認識した瞬間に」と申したこのこと一つをとってみましても、皆さんの耳に届いた瞬間に、勝手にこういう意味であろうと認識されます。そして、勝手に認識されたものに基づいて何かしらの刺激が発生しているはずです。そんな話は聞きたくない、という刺激かもしれませんし、興味深いという刺激かもしれませんし、あるいは何を言っているか分からないからストレスがたまるという刺激かもしれませんし、あるいはああとても興味深い面白いそんな話があるのかという快楽の刺激になっているかもしれませんし、どんな刺激かわかりませんがいずれにしても刺激が発生しているはずです。

 

でもそれは自分が選んで発生させているかどうか、そうではないんです、過去の自分のデータベースが勝手に働いて私の申していることを勝手に解釈していて勝手にそういう刺激が発生している。そしてそれについて心が勝手に反応しているはずです。もっと聞いていたいとか、もう聞きたくないとか、そろそろ終わらないかな、とか、ああ、もう少し聞いていたいのに時間が終わりそうだなとか、人それぞれてんで勝手な情報処理をしているはずですが、よし今からそのように思おう、とかそのように情報処理をしようと思って情報処理をしていますか?していないはずです。勝手に音が聞こえてきて勝手にそれをデータベースが解釈して勝手に刺激が発生してそして勝手に心が反応しているでしょう。

 

この流れの事を“色受想行識”、「五蘊」と申しまして、人間が「これが自分っ!」と執着できるもの全てです。この体、認識するというもの「自分の記憶っ!」データベース、「自分の思い出っ!」そして「自分の快楽」や「自分の苦しみ刺激」、そして「自分の心の反応」、「自分の考え」、と色々執着し、ここに自分を見い出している。でもその一つ一つを有り体に申しまして、勝手に聞こえてくるでしょう。聞くまいと思っていても勝手にとっているでしょう。場合によっては、しかし聞こえない場合もあります。ものすごく、この場で何かの仕事に集中しているとしたら私の声は背景化してほとんど聞こえないということがありえるかもしれません。しかしある時集中していても、集中が切れた瞬間にふといきなり聞こえてきて「ああうるさい、坊主が喋ってうるさい」と感じるかもしれませんが、その時に、自分の意志によって「今からこの坊主の話を聞こう」と決めたわけではなくて、あるこころの条件が従うと、勝手に心が取りに行くんです。

 

その条件を簡単に説明申し上げますと、刺激の量がより多く取れるもの、に心が勝手にチェンジします。仕事にものすごく刺激が得られた場合は集中しますが、それがうまくいかなくなって飽きてきたりぼんやりしてきた時にそれよりも強い刺激が得られるものに飛んでいきます。お坊さんの声と、その他に自分の大嫌いな人が他の人におべっかをつかっている、という情景がその場にあったら、自分の大嫌いな人を意識する方が刺激が強いですから、そっちに意識が飛んでいきます。自動的に動いているんです、勝手に。細かく見ていけば見ていくほど実はこれは分かってくることなのですが、日常的なぼんやりした意識だと勘違いしちゃうんです、「自分の意志で認識しているに違いない」と。でも実際はそうなっていない。そしてそれに基づいてそれはどういうものであるという記憶のデータベースに基づいて判断します。

 

この判断する時に、「よしっ、この記憶をもってきてこう判断しよう」と思う暇はありません。勝手に判断、そしてそれに基づいて刺激が生じて、心が勝手にこの人は嫌いだとか、こんな事を言われて嫌だとか、自由がないんです。奴隷状態におかれているかのように、何かを認識すると心が反応するところまで心が自動的に動いてしまう。どこにも、ですから、本当は我というものは見いだせない、んですけれども、それがばれないように、我は確かにありますよ、というエサ、だから我は確かにあると思いこむために色んな刺激をください、とある意味命令され続けて暴れ回っているんです。

 

この暴れ回る度合いが強くなると、とてもムズムズしてきて、色んな人に誉められたくなります。色んな人の前で欲して、誉められるためには「よい子」にならなければなりません。子供の時のことを思い出してみましょう。親に誉められるために自分の欲望と自分が満たされない事への怒りを切りつめました。汚れきった本当の自分と呼べるような、まあ、本当の自分というものはないですけれども、存在しないですけれども、自分、ただ自分の内部での印象として「これが本当の自分」という思い込みえるもの、というものは欲や怒りまみれの自分、それを切りつめました、それと同じ事をやっているんです、大人になっても。恋人の前で、この人に受け入れてもらうために色々と我慢する、特に最初の内は。最初の内だけ我慢して、やがて慣れてくると我慢しなくなるから関係がむちゃくちゃになるんですよ。友人の前だと、こういうキャラを演じて、切りつめる。これこれの前だと切りつめる、切りつめる。これは「よい子」を演じる、と言うこと。「よい子」を演じると受け入れてもらえる。

 

そして多くの人に受け入れてもらえること、その多く、多く、を追求していくと、大義名分というところに行き着きます。ですから、大義名分が一見立つことというのはものすごく、怪しいんです、大抵の場合。裏に隠れているのはこういう感情だったりすることがとても多いからです。そうして、残念ながら歴史上、企てられた共産主義の運動というのはことごとく暴力政治に至って、権力、ある時点から急に、本当の自分、隠していた本当の自分、というのが噴出することによって、最初は麗しく見えたものが、恐怖政治に変化します。必然なんです。これは。

 

最初は相手に気に入られたいので、恋人に対してものすごく優しく振る舞って、でもその時心の裏で感じているのは、○○が反復されているんです。「確かに君は僕のこと、確かにあなたは私のことを愛してくれているようにみえるけど、でもそれは私がキャラを演じているからでしょう、本当の自分はこうなんだ!」とある時から爆発させたくなる。うまくいきだすとなれ合いになって、爆発される、受け入れさせようとする。とむちゃくちゃになる。そうならないで済ませるためには、その括弧付きの「本当の自分」という怪しげなもの、そのもの、そこにあるでろでろとした欲望や怒りそのものを抑圧するのではなくて、解き放って消しておく必要が、程度の差はあれ消しておく必要があるんです。言い換えるとムズムズしていない必要があるんです。

 

ですから、一つ確信をもって申せることは、共産社会、私有財産のない平等な社会というのはムズムズしていない人達のみのコミュニティでないと成り立たないと思います。というようなことで、最初にああいった話をしたのですけれども。そうして、そのムズムズをおろす、ということは、自分を支配しているものの本質を知るということによって幾分かが可能になるはずです。

 

例えば、存在しない我を存在していると思い込むという段階、そしてただ存在しているだけじゃなくて、存在価値がないものではなく、存在価値があると思い込まなければならない、と埋まらないニンジンをぶら下げられているということ。しかもその流れの歯車に用いられているものは苦しみの刺激、絶えず苦しみの電流が走っている、にも関わらずそれを苦しみと認識させてもらえず、快楽であると認識し直す装置が組み込まれている、それを幾分かなりとも、腑に落とすこと。坐禅瞑想を行わずに言葉だけでこういう話を聞いても、仮になるほどなぁ、と思ってもさして心は変わらないかも知れませんが、人間という生命を操っているのはこの苦しみの刺激が王様であって、その奴隷にさせられている、奴隷状態で全く我なんてなく勝手に自動的プログラムが働いているだけ、AゆえにB、BゆえにC、CゆえにDと勝手に動いているだけの流れが生じているだけのところに、でも、それをさらに激しく動かすために「我があるでしょう」と思いこませるというプログラムを追加させられてしまう。ということ。ああ、そういうことにすぎなかったんだ、と言葉の上だけでもちょっとだけでも腑に落とすと、すると少しはムズムズが緩やかになるかもしれません。

 

 

ムズムズが緩やかになると、少し自分が楽になって余裕ができます。余裕ができると、他の人の心流れがよく見えるようになります。自分の心のこだわりのなかに閉じこもっている必要がなくなります。そしてよく周りがみえるようになってくると、何が見えるか。他の人達がいかに、例えば、複数人数がいる場、で、その場の雰囲気で刺激を浴びます。苦しくなってくる、沈黙がある「ああ、何か言わなくてはいけないんではないだろうか」という刺激を浴びて、誰かがいてもたってもいられなくなって、なにかはっちゃけた事を無理にキャラを演じてしゃべり出す。その時に、「ああ、この人は苦しみの刺激が生じてそれに鞭打たれて自動的にはっちゃけてしまっているんだなぁ」ということが分かります。で、分からないと何が生じるかというと「この人はなんだか知らないけれど大騒ぎしてうるさいなぁ」といらいらするかもしれません。自分はそんな話聞きたくないのに、とか自分だけいいかっこしようとしてうっとうしいとか、思うかもしれません。自分の中に余裕ができていてムズムズしていなければ、その人の心の流れが見えます。ああ、ムズムズして刺激が、その場の雰囲気を認識して、認識したことに基づいて、この状態はとてもまずい状態にだと勝手に判断して、苦しみが走って、そしてムズムズしてそういうキャラを演じざるを得なくなっている。ロボットのように操られているんだなぁ、刺激で。と、見えた時に、初めて、これは初めて!自分を立派にするために相手を洗脳したり支配しようとしたりするんじゃなくて、真面目な話、かわいそうだ、と自分の牢獄から出て相手がかわいそうだ、と思うことができるように、自分に余裕があったら初めて。ああ、自分がただ苦しみに駆られて、馬車馬のように走らされていたのと同様にこの人は馬車馬のように走らされている、と認識すると、これ以上この人の苦しみを増やさないようにしなければならない、増やさないようにしてあげたいという気持ちに、それはほぼ自動的になります。

 

すると、イライラしなくなるので、相手がもし自分にガミガミ文句を言ってきたとしても、一緒に住んでいる相手でしたら、「この食器はそこに置くんじゃないでしょ」とか、言ってきたとしたら、それに対して「ふざけるな」って言い返したくなるかもしれないですけれども、でも、「ああ、この人は、“ここに置かなくてはいけない”という強い執着があって、それゆえにそれに反した情報を受けるとものすごい強いストレスを自動的に受けて、そして電気ショックを受けたように口をついて勝手に攻撃的な言葉が出るんだな。」で、その時にその本人が快楽を味わっていると頭は勘違いしているんですが、実際は苦痛が生じてものすごいストレスが生じて体も疲れる状態になってしまっているんだなあ。ということが見えますから、じゃあ、せめてこの人の苦しみを増やさないよう振る舞おうという心持ちで穏やかに対応することが可能です。

 

この相手の苦が見透かせる、ということ、相手を操っている、王様として鞭打っている御者である苦が見える、ということが慈悲につながります。慈悲の悲というは悲しむという字を書きますが、言語のカルナという言葉や他者の苦しみに共感するということです。しかしながら共感することは難しいんです。自分の自我の捕らわれにフィルタがかかっていますから「かわいそう」とかいって泣いたりする時、全然それは慈悲ではないんです。ものすごくそれはムズムズしているからです。心が波立って。慈悲というのは、そういうものではありません。ムズムズしていないんです。客観的に見つめて、「ああ、こういう刺激が走っていて、このようにロボットになっていしまっているんだなぁ。あぁあ。ではそうならないように、この人がもう少しこれから脱するにはどう振る舞えば良いだろう」と客観的に認識してただそのように振る舞います。その際に刺激は媒介していない。ムズムズしていない。というのが人に対して押しつけたり支配したり抑圧しない、「慈悲」ということです。

 

そして、この国で「慈悲」という言葉が用いられる時に、まずもってこういう意味合いでは使われない言葉です。残念ながら大抵の場合はムズムズしているのに「これが慈悲です」と言っている。でもそれは他人の心はともかく、自分の心であればすぐチェックできます、ムズムズしているのか。ムズムズしていたら結構それは嘘が混じっている。

その「よい子ぶりたい」感情の波立ちで何かを行っても相手に対しては圧迫感を与えます。

 

■最後に

 

最後にこの例を一つだけ挙げて終わりましょう。病気になって死の病に伏せっている人に対して、心がものすごく波立って、「うわ~、大好きな人が亡くなっちゃう」とむちゃくちゃ泣いている、これは全然慈悲ではないんです。あるいは「大丈夫!大丈夫!大丈夫!大丈夫!」とものすごく死にそうな人をさする、これはものすごい怒っているんです。仏教の認識で言えば。その状態に対して受け入れたくない、という感情が生じて、すごく心が波立って、いてもたってもいられなくなって、で、この「大丈夫!」というのが相手をいたわると自分では思っているつもりなのですが、実際はそれは心が怒っているので、受け入れたくないという感情で怒っているので、そういった雰囲気をものすごく醸し出します。すると、その看病される相手も「大丈夫!大丈夫!」とまでは言わなくとも「大丈夫?」と心配されると、その人の前で「ああ、この人をこれ以上心配させないように振る舞わなければいけない」といったような緊張感をもとに置いてしまう。結果として、つまり怒る感情というのは、仏教でいう、否定する、受け入れないというのは、自分が緊張してストレスを生じさせるだけではなくて、相手にもストレスを感じさせて緊張させる、ですから結果として相手にもストレスを与えて、慈悲のつもりが余計病状が悪化して早く死ぬ。相手にもストレスを与えるだけではなくて、自分もストレスで「うわーっ」となっているからストレスを感じる。

 

「慈悲」であるかどうかは自分が心が波立ってムズムズしていないかどうか、ストレスを感じていないかどうかでチェックすることができます。相手の苦が分かって穏やかな心持ちで完璧に認識できていればストレスどころか、とても穏やかで優しくて、暖かい感じの心になっています。波立っていません。微笑しています。にこっと。時としてそれをチェックしてみれば、なにか大義名分に則って、「よい子」「よい子のプレイ」を、「よい子の演劇」をしたくなってしまっている、誰かを助けつつ抑圧して気持ちよくなろうとしているのか、その人の苦しみ、その集団の苦しみを自分が減らしてあげたいと真摯に思っているのか、ということの度合いがチェックできるはずです。全く波立っていない、ムズムズしていないということは、おそらく一般の人には絶対ありえないことでしょうけれども、しかしそのムズムズがとても激しいようなものであれば、それはとても不善の悪行為ですからやめた方がいい。ムズムズが比較的少なければそれは嘘は比較的少ない、比較的・・・ですけれども。けっこう偽善ですけれど、でも善もちょっと混ざっています。それを時々自分の胸に手を当ててチェックするクセをつけてみられると、とても自分が成長してストレスを感じなく、そして他人に対して今よりも少し優しくなれるかもしれません。ということをもって終えさせていただきましょう。