僧の言箱
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東京造形大学のサステナブル・デザイン学科に招かれておこなった坐禅セッション時、最初におこなった説法をテープ起こししていただいたものを採録いたします。


欲望デザイン


  • 坐禅セッション in 東京造形大学
  • 日時:2008年12月22日(月) 13:30〜16:50
  • 会場:東京造形大学大学院棟2階レクチャールーム

    〜法話音声記録・テープおこし〜

    こんにちは、はじめまして。はじめに、30分程度お話を申し上げたいと思っております。

    どのようなことをお話しようかなーということを、考えてきたわけではないのですが、さきほどここの研究室の担当教員の方とお話をしておりまして、みなさんがどのような問題意識でどのようなことを学んでおられるかとても大雑把ではありますが、お聞きしましたので、そこで感じたことがいろいろとあります。そういったことにまつわってお話をしてみたいと思っております。

    デザイン、というものがいったいどういうものかな、と考えてみますに、私も多少、自分のお坊さんとしての活動をしていく中で、デザインということに知らず知らずのうちに関わることになりました。

    具体的に申しますと、仏教を基にした本なんですけれども、何冊か、著述するにあたりまして、ブックデザインというものを、やらざるを得なくなるわけです。出版社のデザイナーがいらっしゃって、デザイナーとのやり取りをしながら、最終的にこれでと折り合いをつけてデザインを決定するわけですが、一体これは何のためにやっているのかな、ということを、今、振り返ってみたいな、という風に思います。

    おそらく、第一義は、そのデザインをしている対象、本ですね、この本を、多くの人に届けたいという気持ちがあって、そのためにはどういうデザインにしたら最適なのか、ということです。

    しかしながら、デザイナーにはそういう気持ちも無論あるはずなのですが、自分の気に入ったものにしたいという気持ちがあるはずです。そして、私にも、自分の美意識を損なわないようなものにしたいという、個人的な願望があります。デザイナーの方にも、著者のほうにも願望があります。

    出版社の側からすると、どちらかというとその方の好みというよりは、よく売れるものであればいいといったような意識かもしれないんですけれども、かかわるひとそれぞれにいろんな思惑がありつつも、第一義としてはそれを商品として人に届ける、といったことが、もともとは、重要なポイントになっているはずです。

    ところで、そんなことをお話しするに当たって、お坊さんである私がいったい何が語れるかな、と、考えてみますと、それは人様の欲望を刺激する行為なんです。基本的に。これは好ましい、これはすばらしい、自分の持ちものにしたい、持ったら幸せになるだろうとか、これを持ったら、より自分らしくなる、今の世の中で多くの人がものを買う際に潜在的に思い込まされてしまう、これを買えば幸せになるはずだ!、幸せになれないですよ、たいていの場合は。それはトリックですから。

    デザインというのは、残念ながら、多かれ少なかれこのトリックという要素をはらんでしまうことがあるようです。

    仏教において説いているのは、そういったトリックに、騙されないで生きていくには、どのように、生きていけるかということでもあります。しかしながら、その発想を皆さんにお届けしようとするにあたって、トリック無しでは届かないのです。その本をわら半紙にすって、ホチキスで綴じて「読んでくださーい」と言って私が拡声器で街を歩いて回っても、そんな奇妙な行為に面白がって読んでくれる人はいるかもしれませんが、おおむね届かないんです。

    一方で、デザインは人の欲望を刺激します。あ、これで幸せになれそうだ、という感覚を刺激します。そして、そうですね、デザインといっても本当にさまざまなので、一概にくくれないと思うのですが、とりわけ広告デザインは、まあこれは、わざわざ私が申すまでもなく、誰もが日常の中で感じていることだと思いますが、トリックとしての性質が一番強いものでしょう。ものそのものをいかにふくらませて素敵なものとして拡大解釈できるような、雰囲気に仕立て上げるか、ということに基づいていますから、現物からとても離れてしまったもののイメージだけで、人を釣るような性質を持っています。

    ただ、だからといってデザインだとか、広告的な要素が、そういった、人をだますという要素しか持っていないかというと、決してそんなことはないんです。一方で、そうでありながら、今の世の中では最低限の、そういった、デザイン的な要素が何かしらの形で満たされていない限り、せっかく良いものがあっても、「良くないもの、を、トリックによって良く見せる装置」がすでにすごくたくさん働いていますから、良いものをただ良いですよと言って出しても、負けてしまう。「良質」なだけでは受け入れてもらえない土壌が、この国には成り立ってしまっています。

    そうなると、両刃の剣なんですけれども。欲望を刺激しつつも、でもそれで終わらないものを作ることができれば、パッと見は、商品にすぎないんです、たとえば私が著している本は商品であります。

    お金と交換される、そして、何やら手に取りやすそうな雰囲気に作り上げられていて。あるいはデザインにはいろんな側面があると思いますが、文章表現というのもある種のデザインです。

    そんなことを言い出すと、人の口調、といったようなこともデザインだというようなことができてくるかもしれないんですけれども、人によって、ものすごくけだるそうに常にしゃべるような方がいて、そのけだるそうなしゃべり方を好みだな、と思う人がいて、けだるくて、ちょっとこれはいやだなぁと思う人もいて、その内容そのものじゃなくて、そのしゃべり方ですとか、その元気さとか、によって人は聞く気になったり聞く気にならなかったり、あるいは相手の表情、どんな表情でしゃべっているかによって、聞きたいな、と思ったり、あんまり聞きたくないな、と思ったりもいたします。穏やかにしゃべっているか、カリカリしてしゃべっているか、こういったこともひょっとしたらデザイン、つまり、雰囲気を形作る、その内容そのものに付加する要素として、くっついておりますところのものですね。

    日常生活において、私達は自分の口調ですとか、表情ですとか、あるいは手振り身振りといったものをあまりデザインという観点を持たずに行動しているのではないかな、と思います。

    なんとなく不愉快になったらもうその気分に流されて、イライラっとした口調でカリカリしゃべったりして、忙しい時はとにかく、今から急いで話すぞ、と決めているわけではないのに、とにかく気付いたら急いで話してしまう、あるいは恋人と一緒にいて落ち着いている時は、まあ落ち着いて話そうというつもりはないのに落ち着いて話しているかもしれません。

    心を律すればこういったこと一つとっても、今はこういう話し方をしよう、ついイラッとして早口でしゃべってしまいそうになったり、つい、プレゼンテーションの場で自分のことを相手にわからせたくて、ものすごい勢いでしゃべりたくなるかもしれませんが、結果として、そういう感情に流されて、デザイン、という観点抜きに自分の感情をそのまま、製品として垂れ流してしまうと結構不快なものなんです。

    そこには大量の自分自身の煩悩が混ざっているからです。人間は自分の煩悩は好きですけど、他人が「自分のこと分かって」、と、プレゼンテーションしてくる煩悩は嫌いなんです。

    自分の煩悩は好きですけれども、裏を返せば他人の煩悩は自分の煩悩を邪魔しますから嫌いなんです。

    そして、その自分の言いたいことっていうのが相手に届いてすばらしいものかどうかっていうのは別として、いずれにしてもデザイン的な要素というのは、日常生活のレベルでもものすごく威力を発揮しています。

    同じ椅子であるにしても、どのような形の椅子であるのか、どんな素材であるのか、どういう風にデザインされているかによってこれに座りたい、二つ並べられていたら、こちらに座りたいと思う人がいたり、こちらに座りたいと思う人がいたり。

    ここで学んでおられる方々は、現在の、いわゆるデザインというジャンルが、今の世の中をものすごいスピードで回している牽引力になっているもの、支えている一つの柱である状態になっていて、そうやって回っている今の世の中がものすごく人を急がせて、本当はいらないかもしれないものを買わせて、いらないものを部屋の中にすごく溜めこませる、で、ご本人もそういう生活をしつつ、なおかつ周りの人間にもそれをさせて、それによって生活を成り立たせる、といったような状況が、大まかに成り立っているのに対して、ある種の疑問を抱いて、そうではないデザインのあり方があるのではないか、ということを多かれ少なかれ問題意識としてもって、おられることでしょう。

    今日、学生の方以外にも卒業生の方や、それから大学の外から一般の方も数名、いらっしゃっていただいているはずです。だから、話をこんな風に特化されてしまうと「私は関係ないよ」と思ってしまうかもしれませんが、しかし、実は普遍的な問題、ではあるはずです。

    自分の伝えたいことをそのままではなくてどのように伝えたらより伝わりやすくなるか、より受け入れられやすくなるか、それが自分が発信したいものそのものでなくとも、誰かがつくったものをこれが良いな、と思ったものを、じゃあ自分がより広く伝えるにはどうお手伝いができるだろうかという観点でもいいのですが、基本はそれが広がることによって、世間や人々がより良くなるであろうということが予想できる事柄、それを届きやすさ、文章であれば文章の調子を整え、あるいは政治家であれば、政治家のブレーンのような方が、あんたそのしゃべり方じゃ受けませんよ、と、政治家のポージングやしゃべり方、言葉の選び方といったようなものを指導するかもしれません。それも、ある種のデザインでしょう。

    できれば、自らが、好ましいと思っているものを、より発信して広めたいと多くの人が思っている、はずです。

    しかしながら、本当にそれが周りの人に広がって、その広がった相手がハッピーになるのか、あるいは本当はいらないかもしれないものを買わされたり手に入れたりしてしまったりして、ひょっとしたらお金を使うだけ使ってしんどい思いを、することになるのだろうか、場合によっては、自分のしゃべることも、そうです。

    私が今お話ししているのは、もしかしたら、皆さんの心にとってガラクタのような、インテリアになってしまうかもしれませんけれども、一応、心づもりとしてはなにかしら役立つ小物を皆さんの部屋に届けたい、というお思いがあってお話ししています。実際そうなるかどうかは別として、その心持ち、を、自らの心に持って何かを発信するというのは、自分の中に一貫性ができて、筋が通りますから、とても心が安らぎます。

    周りのためにとか、そんな大げさなことは考えなくていいのですが、その発信したいもの、というのが、何に根ざしていて、周りにどういう影響を与えるかな、ということを真剣に考えてみますと、狭い意味でのデザインではなくて、たとえば話す内容でしたら、相手にこれ話したい、今日話したい、ということが毎日毎日あるはずなんですが、その毎日毎日いっぱい浮かび上がってくる事柄のいくつかは、必ずしも伝えなくても良いことだったり、相手に伝えることで相手が不快になることであったり、相手を不幸にする言葉する言葉もあるわけです。

    一方で本当に伝えたいことや、これを伝えると、お互いハッピーになれそうだという事柄もあるわけですが、ふだん私達は自分の行動や言葉をしっかり律しよう、見つめて、これを選んでこれにしよう、これはやめておこうということをあまりしないで、すべてを垂れ流してしまうということをやってしまいがちなので、そうすると本当に伝わったほうがいいであろうことはあまり伝わらなく、なるわけです。ノイズとして余計な必要ないことをいっぱいしゃべってしまうからです。傷つけるようなことや愚痴とか、無駄話、あるいは、僕ってこんなにすごいんだよ、私ってこんなにすごいんだよ、ということをアピールしたい言葉、そういったものに言葉がいろいろ汚染されて、いるからです。

    それはそれでデザインされているんですよ、実は。その自慢話をどうやって聞かせようかな、とか、どういう順番で聞かせたら効率がいいかな、とか広告的要素を多少考えているんですよ。ただそれは、商品として届けないほうがたぶん相手にとって幸せですし、先ほどの文脈に戻りますと、自分が幸せです。普段はそういうの自動的にやってしまっているんですけれど、やめよう、って心で自らを律していれば、自分に芯ができます。

    たとえば、自慢話はやめよう、自慢話につながるような話は、やめよう、と、自分を律していれば、時々もちろんやってしまうと思うんですが、やってしまっても、ああやってしまった、次はやめよう、というふうに自分を律するにあたってのルールがちゃんと自らの中にあれば、心がぶれません。これをちゃんと守って、自分の芯にしているんだぞ、という心持ちがあれば、疲れないんです。

    どういう生き方をしていたら疲れるのかというと、ありとあらゆる依頼がやってきて、それに対してまあこんなのはあきらかに役に立たないものと思える、けど、それを広告デザインによってごまかして売るということを自分の仕事だからやっちゃえ、という感じで生きていると、場当たり的に生きる羽目になるんです。

    その場その場で自分の心を律する、という方向ではなくって、出鱈目に、なってしまうんです。出鱈目になるとその場その場で、心があっちに行ったりこっちに行ったり、またあちらへ漂ったりいたしますから、実はそれは疲れるんです。人と話すにしても、自慢話をしている真っ最中、自分は気持ちいい、と多くの人は思っているんですけれども、気持ちいいと思っているからやっているんですが、実際その時、結構胸が苦しかったりドキドキしていたり、するんです。

    ワカッテヨーという気持ちになっていますから、体が割と疲れているんです。ノルアドレナリンが、出ているんです。しかし、脳みそだけが勘違いしているんです。体は現実として苦しんでいるんですが、脳内の刺激だけがアア、キモチイイって思っているから、やらされてしまうんです。

    脳に、騙されないことです。自分が気持ちいい、と思い込んでいることが本当に気持ちいいのかなぁ、本当に自らにとって心地いのはなんだろう、と、いうことが分かれば、ぶれなくなります。ほんとうに心地よいことに基づいて、成すべきことが決まってくるからです。

    デザイン的なものが、人にどのような影響を与えるかというと、多くの場合、やはり、あいにくこれは、脳の刺激を通じて欲望を喚起するということが主な、作業です。ただ、それを通じて、その人が手に取るものは、現実的なものなんです。

    最初に申しましたように、そういった両刃の剣的な性質がどうしても拭えない、ことでしょう。その、リアルでない、という点がです。それを見た瞬間に、あるいは聞いた瞬間に、脳に刺激が起こって、そしてそれが心地よいと感じてしまう。しまう、というとおかしいんですけれども、それが本当の心地よさと一致している場合もあるんですが、しばしば実際の体の心地よさや心がリラックスしたり安楽であったりするということのハッピーさとは矛盾した刺激を脳が受けてア、キモチチイと感じてしまう時に、人はおかしな行動をとってしまうんですが、そのおかしな行動の一つのあり方が、本当はいらないかもしれないものを買う、ということです。

    自らの成すことに誇りを持つ、一貫性を持つ、自らにルールを課してこうやって、自らを守っているから安心だ、と、思うことができますためには、あくまでも人の脳を感覚器官を通じて、目や耳、鼻、口、身体感覚、それから、思考を、通じて刺激すること、仏教では感覚というのは所詮六種類しかありませんよ、と申します。目、耳、鼻、口、身体感覚、それから脳の刺激である、思考、考えることです、六種類しかありません。

    そして、その六種類の刺激が入って来た後に感じるのは、「快楽」か「不快」か「興味が無い」、ということの三種類、です。六種類の感覚刺激を通じて、三種類の快不快、を感じて、その刺激に対して欲望が発生するか、それを受け入れたい、と思うか、受け入れたくない、と思うか、ないし興味が持てずに意識がさ迷ってしまうか、というのが心の構造です。

    ものすごくシンプルな心の構造です。その中でとりわけ、視覚や聴覚に訴えて、そして、おそらく快楽の刺激を与えて欲望を発生させる、というのが、デザインです。その両刃の剣が、文字通り本当に刃になってしまわないためには、そして自分がおかしなことを、しているんではないかと心のどこかに思ってしまう羽目になってしまうと、自分が疲れるんです。

    そうではなくて、どこかに誇りを保つことが、できるようにいたしますためには、あくまでも、そういうものであるということはどこかで自覚しつつも、その、刺激を与えることによって、刺激を受けた側が欲しい、と思うものが、こうやって欲望によってぐるぐるぐるぐる回りながら世の中をむちゃくちゃにしてしまっている社会を、なにがしか、方向転換させたり、人をハッピーに明らかにするであろう、脳の刺激を通じて、欲しいと思わせるのは事実なんですが、その結果としてただ脳の刺激だけで終わらずに、五感の快感、心地よさ、ですね、それと合致するようなもの、を、届けるための入り口として、その刺激を送っているんだ、という意識が保てましたら、誇りを損なわずにきっと、済むはずです。

    人と話すとき一つにしても、言葉遣いに気をつけよう、と、仮に思っていたとしましょう。

    「こういうことはしゃべって、こういうのはやめよう」と思った時にしても、自分にとって本当に何が心地よいのか、ということがまず分かっていて、それに従おう、という気持ちを強く持って、自分の心や体を観察していることができたら、騙されないんです。

    普段から、自分の胸やおなかを観察する癖を、つけていたら、自慢話がしたくなった途端に、瞬間に、みぞおちの辺りが苦しくなっているのが分かるはずです。すると、ア、今コレ苦シイ、と明らかにやめたほうがいい、やめざるを得なくなるんです、ちゃんと、見ていれば。脳だけで考えることに引きこもってしまっていたら、流されてしまうんです。

    願わくは、デザインというものが、どうしてもだます性質を持ちがちなんですが、そのだます性質を突破して、入口はだますことであれ、そうやって発信されたものを手に取った方が、欲望を刺激されたり、自我を肥大させて苦しんだり、する方向とは違う方向に、向 かえるものを発信できましたら、結果として自分が楽になるはずです。

    それは私がやっていること、自分自身を考えてみても、そう思えるのですけれども、本を書くにあたってイラストを描いたりだとかして、まあ、本来の仏教の精神からすると、そんなたわいもないイラストレーションをいっぱいつけて売り物にする、というのは大正解

    というわけでは、ないですし、明らかにキャッチーにしようというような、そういう人の欲望を刺激しようという要素は持っているんですが、結果としてそれを取って、読まれた方がそういった欲望ルートとは全く違う方向の発想もあるんだ、ということを、感じてい

    ただけるようであれば、どこかで私は騙しているんですけれども、騙しつつも、安心できるんです。

    やっていることは、たぶん、間違っていないぞと思えるからです。この間違ってないぞ、という感覚を、いつか手に入れるために、ひとつは人の脳を騙さない、というのは、デザインをする立場としてはとても大切なんじゃないかなと思うんですが、まず、自分が自分の脳内の刺激に騙されないというのがとても大切なことです。

    そのための一つの能力を今日は磨いていただきたいと思います。頭に騙される、とはつまり、頭でいろいろゴチャゴチャゴチャゴチャ考えてしまう、ということです。考えてしまう瞬間、私達はあんまり、何もできなくなります。ものすごくいっぱい考えていると、話すことが秩序立って話せなくなります。

    ものすごくいっぱい考えていると、味がわからなくなります、食べている時。ものすごく考えていると、自分の目の前で話している人が何を話しているかわからなくなります。

    あるいは、目の前の人がどんな表情をして自分の方を見ているかわからなくなります。目の前の人がどんな呼吸をしているか、イライラした呼吸をしているか、穏やかな呼吸をしているか、読み取れなくなります。あるいはものすごく考え事をしながら、自慢話に夢中になっていたら、相手がイライラしてこんな感じ<指で忙しなく畳を叩く>になっていても、それにすら気付かないかもしれません。感覚が非常に鈍麻するんです、考えると。

    脳が、いっぱい作業するので。そうではなくて、坐禅においては、思考から離れていただきます。考えることから離れて、感じる能力、意識のセンサーを体中に張り巡らせて、今自分の身体の中では一体現実的には何が起きているのかを直感的に認識する能力、この能力のことを念の力、念力、と申しますけれども、そのトレーニングの初歩、を、皆さんにやっていただきたいという風に思います。

    おそらく多かれ少なかれ、自分が頭の中で思い込んでいることと現実に体の中に起きていることの落差を幾分かなりとも体感していただくことができるのではないかな、と、思います。そうして、ある程度、自分が、本当に何を心地よく感じていて何を不快に思っているのか、感じるのかということを、基礎的能力として身につけていただいたら、後は多くのことを自分の直感の力によって判断することができるようになるはずです。

    皆さんが今、頭の中で思っている、これがしたい、これは絶対したくないと思っていることは、本当に自分の感覚によって、注意深く選んできたものかどうかと申しますなら、なんとなく気付いたらいろんな刺激が、目や鼻や耳やから、生まれた時から入り続けて来ていて、こういう生活が素敵だよ、こういうのはダメだよ、というのが延々と学校の先生や親やメディアを通じて入り込んで、気付いたらそれらの刺激の集積によって、自分の好み、好き嫌いが決まっていて、自分が欲を持つ、こういうのが好きでこういうのが嫌い、というのが、気付いたら決まって、しまっているんです。

    しかしながら、場合によってはそれは、選び直せます。ということ、を、知った上で、今自分が好きなもの嫌いなものを見直してみましたら、場合によっては今好きなものがもっと好きになるかもしれませんし、場合によっては、今好きなものが必ずしも好きでいて、自分にとってこれは良いことなのかどうかと、考え直すチャンスが与えられるかもしれません。

    あるいは嫌いなことについてもそうです。もっと嫌いになる場合、本当にそれが嫌いで良い場合もあるかもしれないんですが、必ずしもそれが嫌いであることが自分にとってメリットになっていない場合もあるんです。

    ともあれ、この脳内で作りだされている思い込み、を、少しだけでも、短時間ですけれどもね、短時間の間に突破してみることを試みてみましょう。では、これから一回目の坐禅セッションに入ってまいります。