僧の言箱
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2010年5月8日(土)の坐禅セッションにてお話したものです。


「意識する」=「ただ、感じる」ということ。

「意識する」=「ただ、感じる」ということ

2010年5月8日(土)zazen session @月読寺



*意識の仕方がわからない人へ

 最初にひとつ、ある御便りの中で質問を受けまして、『「呼吸を意識しなさい」という風に言われるけれど、それはどういう風に意識したらいいんですか? 意識するとはどういうことですか? それはたとえば、「呼吸に意識を向けて下さい」と言われる時に、それは呼吸のことを気にかけておく、といった感じでいいのだろうか?』という風に書かれてありました。

 この「意識する」という言葉は、なかなかのくせ者で、ときどき、「意識的に歩いてみようと思ったら、意識しすぎて歩けなくなりました」とか、「人の目を意識したら、人の目を意識しすぎて、どぎまぎしてしまいました」とか、そういう発言を世の中でよく聞くと思うのですけれども。

 そういう時に言われている、「意識する」というのは、「意識して下さい」と言われている対象について、いろいろと、「ああかな? こうかな?」「どうしたらいいんだろう?」と、あれこれと考えるといったような常識的な意味合いが含まれているような気もします。

 もう少し別の表現をとれば、意識して下さいと言われている対象に向けて、緊張して力んだ感じで向かう、といったようなニュアンスを帯びがちな言葉かも知れません。

 そういうこともあってか、なくてか、「呼吸を意識して下さい」ということをみなさまが受けとると、なんとなく知らず知らずのうちに、とても心を緊張させて、そして、呼吸の感覚に向けて、「んんん〜〜〜!!!」と全身を緊張させるような感じで、緊張感と共に、ひどく強く力んで、無理矢理意識をする、というイメージになっているかもしれません。なっていない人もいるでしょうし、そういう感じになりがちな人もいるかもしれません。

 けれど、意識しようという時は、「意識しなくっちゃ!」という感じや緊張感がないことが重要です。

 「意識しなくっちゃ!」と思いながら意識を向けようとすると、知らず知らずのうちに心が緊張して、とても力んだ感じになってしまうんですね。

 ですから、そういうやり方で意識しようとすると、「呼吸を意識しなくっちゃ!」ということで緊張します。

 あるいは、たとえば、自分の表情が人前でどうなっているかを意識しようという時に、そうすることで自分の表情を制御しようと思っていたところで、「自分は一体どんな表情をしているんだろう?」とすごく緊張して、ジロジロと意識化しようとしていると、実はそのことでがんじがらめになってしまって、余計な緊張感や恥ずかしさ、ドギマギした感じを喚起してしまうので、結果として、より物事がうまく行かなくなってしまったりすることでしょう。


*意識するとは、ただ単に、刺激を感じとること

 ですから、「意識する」という言葉は、呼吸に関して言えば、ただ単に、「呼吸を感じとって下さい」ということに過ぎないのです。そして、音のことで言えば、「音を意識して下さい」と言う時は、それについて何かをするのではなくて、「ただ聴いて下さい」ということなんです。

 「音を意識して下さい」という表現をしてしまうと、「えっ? その音について何をしたらいいんですか?」という風に、「どう意識したらいいですか?」という問題意識をつい喚起してしまいがちなのですが、ただ、聴いて下さい、ということです。

 そして、痛みとか、熱さとか、いま涼しいな、とか、そういう感覚があったら、その感覚についても、意識して下さいというのは、ただ、それを感じとって下さい、ということなのです。

 最初の瞑想の過程でいえば、例えば、「呼吸を意識して下さい」ということひとつとってみても、呼吸のニュートラルな、どうってことない感覚がありますね。いまもみなさまの鼻か口に空気が通っていて、そこに感覚がありますよね。その感覚に、スッと意識を乗せてあげると、そこに空気が出入りしている感覚がありありと現れ始めます。

 つまり、あんまり興味はないけれど、そのニュートラルで中立的な感覚を意識して、認識の上に乗せられているという状態です。

 ありありと現れさせると、その中立的な、ニュートラルな感覚に対して、現れさせる前と意識の状態が変容していますよね。

 素朴な話なのですけれど、ありありと現れる前は、意識の状態としては、それはとてもニュートラルで興味をもたない対象なので、認識しない、という意識状態だったわけです。心の反応パターンのことでいえば、中立的な刺激に対して、意識がさまよって、認識しなくなるというパターンが多くの感覚についてずっと恒常的に働いているのですけれども。

 

 それは、欲望や怒りといった激しい心の反応と比べて、一見激しくないので分かりにくいのですけれども、快楽と見えるものに対する欲望と、不快と見えるものに対する怒り、中立的でニュートラルな感覚と見えるものに対する無知(迷)、認識しなくなっていく、というこの反応パターンを意識にのぼせることによって、実は、たったこれだけのことでも、そのパターンを破る、ということをやっているんですね。ありありと意識することによって。

 この、ありありと意識することは、言葉で表現しだすと、また、「じゃあ、どのようにありありと意識すればいいのでしょう」という感じになってしまいかねないのですけれども、ただ、意識する。


*最初から緊張感なしに、刺激を感じとるのは難しい

 要は、「意識する」というのは、「感じる」ということなんですね。呼吸がいま生じているのを感じとってみる。ただその時に、やっぱり難しいのは、感じとってみるつもりでも、多くの場合、感じることに何かを付加してしまうんですね。

 「よぉし! 感じるぞ!」という感じを付加してしまったりすることによって、何となく緊張した感じになると、実は、もともと感じとろうとしていた、その直前まであった呼吸が、身体の一部分が緊張した感じになったりして、もう違う呼吸になってしまうんですね。自分でちょっとアレンジをかけた呼吸を改めて感じるような状態になってしまうんです。

 元々感じとろうと思っていたものがあったはずなのに、それを別物に作り替えてから、「あぁ、これだ! 僕が感じたかったのは」という感じになってしまう。

 けれども、実はそうじゃない、もともとあった感覚が、どんなものかを感じとってみたい訳です。自分の感情の付加がかかっていない、もともとのものを。

 それは実は、ひとことで言えばとても難しいとも申しましたが、ある意味、最初は不可能なことでもあるのは確かに事実で、最初からできることではないのです。

 私たちは何かをしようと思ったら、ただすればいいのですけれど、必ず、「こういう風にしなくっちゃ」とか、「うまくしなくっちゃ」とか、余計なことがいっぱい頭の中に無意識的に現れて、それに向けて心を緊張させるという、非常に強固なクセができあがってしまっています。


*身体感覚に現れた力みや緊張を、フッと放してあげる

 たいてい、「こういうしなくっちゃ」とか、「こうならなかったらどうしよう」というような、感情の力みを加えてしまっているものなのですけれども、取り組んでいく中で、「時々自分が変に力を加えてしまっているんじゃないかな?」ということや、「緊張しているんじゃないかな?」ということや、「恐れているのではないかな?」ということや、「こうしなくちゃ」ということにフッと気付く時があるはずです。

 とりわけ、身体感覚はそのためのヒントを与えてくれますけれども、瞑想を始めた最初の5分はよく分からないかも知れないですが、30分とか40分とか続けていくうちに、「なんとなく身体のどこかが、変にクセのついた感じで変に歪んでいるんじゃないかな」とか、「変に前傾しているんじゃないかな」とか、「変に緊張しているんじゃないかな」というように、自然な姿勢の歪みではなく、何か感情の力みと結びついたようなものがあるんじゃないかなということに、もし気付いたら、それを意識して、フッと放してあげる、ということ。

 呼吸を意識することで力んでしまっているとして、「あ、力んじゃってる! 力むのをやめなきゃ!!」と思い始めると、「どうしたらやめられるんだろう、あぁ、やめられない! あ〜、力むのがとまらない!! あ〜もう!!!」と、さらに力みだす、ということは、ときどきあることです。

 その場合、自分が力むことに応じて、身体に、必ず何か症候のような、不快な感じが現れます。その症候を見つけ出してあげて、そこへ意識を向けて、ただ、パッと放す感じです。

 力みを無理矢理やっつけようとか、解こうという感じよりは、意識を向けて、スッとほどく感じで、「あぁ、自分は、意識しようと思うことで、このような緊張を作っていたんだなぁ」ということを心に認識させてあげて、そして逐一、いろいろな物事について、自分の諸々の緊張をスッと手を放すような感じですね。

 

 最初から緊張しないようにしようとしても、それはなかなか難しいことなのですが、取り組んでいるうちに、そうした緊張に気付く時があります。気付いたら、スッとそれを手放していく。

 という風にして、だんだん力みなく穏やかに取り組んでいけるようにしていただけたらなぁ、という風に思います。


*力まず、欲せず、嫌がらずーー平静で穏やかな心で、刺激を感じとる

 そのような、感情の起伏を含まない、あるいは、「こうしなきゃ!」ということを含まないーーただ純粋に認識するだけ。素朴な言い方をすれば、ただ、感じとるだけ。感じとったものに対して、ああだ、こうだ、という感情を加えないで、ただ、感じとる。ただ、はっしと、その事柄をありありと、自分の感情のフィルターを加えずに、それそのものを感じとる、という感じの意識で取り組めば、おおむね緊張はないと思います。

 もし、いま、「音に意識を向けて下さい」と仮に言われたとしたら、その時に念頭に置いていて欲しいのは、自分の意識がその音を感じとるにあたって、ニュートラルであるということ。「んんん〜〜〜ッッ!! 聴き取らなきゃッッ!! 耳に意識を集中ダーーーッッ!!!」という感じでは、ないということです。

 そうなったらなったで、いいのです。そうなったら、その、「んんん〜〜〜ッッ!!」という感じが、自分を苦しめているのになるべく早く気付いて下さい。自分が苦しんでいることに早く気付けば、気付いた時点で、その時点から手を放すことができます。

 

 人が人生において失敗したり、何か大きな選択肢を間違ったりするのは、自分が苦しんでいるということについて鈍感になっていたり、それが自分を変に緊張させたり、締め上げたりしているということに気付かないまま歩んでいってしまう時に、「何だか知らないが、いつの間にかおかしな所へ来てしまった」という感じになってしまうのです。

 「意識する」ということは、心が平静であって、穏やかであるということと、殆ど同じ、ということを覚えておいて下さい。そうでないと、意識するのではなく、それを欲していたり、怒っていることになったりするからです。例えば、音が嫌だから排除しようと思って意識化するとか、音をもっと聴いていたいからより強く意識化するなど、「こうしたい」「こうしたくない」という雑念があると、心が乱れてしまうからです。そのようなことを念頭において、お稽古に取り組んで参りましょう。