僧の言箱
menu >> cafe / about / イエデ通貨 / shojin kitchen / rental gallery / iede cucan/ cotobaco / 月読寺 ・・・・・・・ / map / contact


講演「思考病ワクチン」を採録いたします。この日の講演内容をベースに発展させ、身体感覚をとぎすませる身体論的な著作制作が、ゆっくりと進行しております。 講演会が終わったあとは冬の夜、時雨れてしとしと雨が降っていたのを覚えております。傘を持ちませんでしたながら、参加者のおひとりの傘に入れていただき、嬉しく思ったのが思い起こされる次第。


思考病ワクチン


  • 講演会 in 東京大学仏教青年会
  • 日時:2008年12月17日(水)18:00〜20:00
  • 会場:東京大学仏教青年会

    みなさん、こんばんは。

    本日は「思考病ワクチン」という演題でお話をさせていただきます。しばらくの間、どうかお付き合い下さい。

    およその予定といたしましては、しっかりと決まっている訳ではないのですけれども、一時間程度話をさせていただいて、残りの一時間程度、質疑応答といったかたちで、ちょっとした「寺子屋」といったようなイメージを持っていただければと思うんですけれども、素朴な疑問でも構いません、何かぶつけていただいて、一つ一つお答えしていければなあと思っております。

    その後でも、全然、どなたからもキューが寄せられないようでしたら、しょうがないので、話を延長して、また別の話をさせていただくようにいたしましょう。願わくば、まあ一時間ありますので、その間に何か尋ねたいことを考えておかれるのもよろしいでしょう。

    あんまり・・・「思考病ワクチン」と申しておりますのは、人は、四六時中考え事をしておりますでしょう、朝起きてから夜寝るまで、それがいかにエネルギーを無駄遣いしているか、今日はそれにたいするワクチンをお届けしたいと思います。

    その病を治すワクチンをお届けしたいと思っておりますので、あまり、お話している最中、頭で、いろいろ考えるのは、趣旨に反するかもしれないですけどね。

    なにから話してまいりましょうか。考える、ということについて、今日は主題を設定してあります。考えることは、一般的には、人間の立派な点である、と思われがちです。「人間様は動物と違って考えるから偉いんだぞ」と思っている人は多いんじゃないかなと思います。しかし、ほんとうにそうでしょうか。

    (しばらくの間、沈黙)

    ところで、思考、考えるということは、人間のなかでどういう位置を占めているかということを、ちょっと考えてみましょう。

    私たちができることはすごく限られています。お釈迦様がおっしゃったことは六種類しかありません。眼で見る、ということができます。耳で聞く、ということができます。鼻で嗅ぐ、ということができます。そして舌で味わう、ということができます。そして、身体感覚ですね、ありとあらゆる場所にあります。髪の毛にはないですが、爪にもないですが、それ以外の指だとか、私たちの体内だとかに感覚がありますね。肝臓にも腎臓にも肺にも、あるいは、足の中の筋肉にも、いたる所に身体感覚があります。その身体感覚を触感として感じるということが、五つめのことです。そして六つ眼に、脳内で考え事をする、ということがあります。

    場所があるんですね、そういう。眼で見るのは、視神経が通っている眼で行います。音を聞きますのは耳で聞きます。匂いを鼻で嗅ぎます。そして味は、舌の味蕾というところで感じて、味覚を刺激します。そして身体感覚は全身のいたる所に走っています。そして思考は脳で行います。物質が行っているんです。眼という物質が、耳という物質が、あるいは脳という物質が行っているんです。

    この六つの働きが心ですよ、というのが仏教です。心に関する立場です。つまり、眼耳鼻口、身体感覚、そして脳という物質を使って、情報処理を常に行っています、外からいろんな情報を仕入れて。その仕入れる作業を行っているのが、心です。眼で何かが見えるのも、それも心の働きです。何かが聞こえるのも心の働きです。そして、それらのうちの一つ、六つのなかのたった一つの働きが、考える、という脳の刺激、なんです。

    ところで、この考える、という行いを私たちがしている時に、何が起きているか、少し考察してみましょう。朝起きて、まずすることは考えることなんです。動く前に、例えば眠りながら考えるかもしれません。「寒いなあ」と考えるかもしれません。あるいは、それくらいならまだしも、なんとも最悪なことに、昨夜あった嫌なことを思い出して、朝っぱらから嫌な気分になるかもしれません。

    朝っぱら、という言葉は、なかなかどうして、おもしろい言葉でしてね。朝の腹、ですね、朝の空腹な状態に、朝っぱらから、いきなりまずいものを考えて、朝のお腹に気持ち悪いものを詰め込んで、まあ心に胃は存在しませんけれども、心の胃のような部分を荒らしてしまう、ということが起こりえます。あるいは朝起きていきなり「チョコレートが食べたい」と思う人がいます。これは現実にいるんです、低血糖症などに陥っていたら。これは普通の生命のあり方としては、ありえないんですけれども。心や身体のバランスを損なっていたら、まず考えることはそういうことで。 ともかく、ともあれですね皆さん、動き出す前に、まず考えているんです。

    そして、その考えるという行為を行っている時に、私たちの身体や心に何が起こっているか、と申しますと、その瞬間、他のことはなにもしていないんですね。考えることにかまけてしまっていて、他のことはなにもできないんです。「起きようかな、どうしようかな」と考えている間は、起きれないんです、つまり。「これからどうしようかな」と考えているときに、身体の感覚に意識は全く行かなくなってしまっているんです。

    心は、一つの瞬間の間に、たくさんのことはできないんです。そんなにたくさんのことはできないんです。厳密に言えば、一瞬の間にできることは、ほんの一つのことしかできないんです。考える時は、考えることしかできません。見る時は見ることしかできません、聞く時は聞くことしかできません、ほんの一瞬の間に関して申しましたら。考えることに心を使う時間が増えるということは、他の感覚器官に心を使う、見たり聞いたりすることに心を使う時間が減る、ということであります。

    そして、もう少し「考える」ということについて最初に考えてみたいんですけれども、考えている時に、自分が心地よいか、ないし、あまり心地よくないか、どちらか、少し思いめぐらせていただきたいんですが。考えているときに人はすごく幸福かどうか、というと、幸福ではありません。心は、考えているときは、脳の中にあります。「考える」という機能の中に閉じこもっていて、他の機能のことを、とりあえず忘れてしまいます。

    たとえば、今、皆さんこの場で聞いて下さっていますけれども、各人各様に、人数分ほど、考えている、何か考えているんですね。しかし、より多く考えてしまっている人も、そんなに考える度合いが多くない人も、グラデーションが必ずあるはずで、同じくらい、同じことを考えている方は、絶対にこの中にはいらっしゃいません。

    ところで、そうやって考え事が中に渦巻いていらっしゃる方ほど、とりあえず、音波として私の声が入ってくる時間が、少ないはずなんです。あるいは、そこにどういう音が流れていて、どういう意味を持っているのか、確実に、入る度合いが少なくなるはずです。それは、考えるということに身体がエネルギーを割いているからです。

    その考えることの内容は、たとえば今、とても気になっていて、苛立っていることがあるのかもしれませんし、あるいはまた、この私の声に「こんな声は聞きたくない」と考え事が始まってしまっていたら、当然その、嫌だから聞こえない、というのではなくて、その音波そのものを受信する度合いが少なくなるんです。

    今、私という話している人と、皆さんという聞いている人と、ぱきっと立場が分かれてしまっているんですが、日常生活では、こういうふうにぱきっとは分かれていませんね。まあ、ドストエフスキーという人の小説でしたら、一人が延々としゃべり続けて、3ページくら一人の台詞が続くということが起こりえますけれども、日常生活ではそんなことはありえない訳です。常に会話のキャッチボールがなされているんですね。そして、現代人が、人の話を聞くということがすごく苦手になっている、ということは、おそらく皆さん一人の現代人として、現代人と接している中で日々体験しているはずなんですね。ご自身もおそらく、他の人の話を聞くのが苦手なはずなんですが。周りの人も聞くのが苦手である、つまり、皆さんが自分の話を懸命に聞いてもらいたい、思っているのに、周りの人は聞いていない、ということがあるでしょう。

    で、それは、相手が本当に聞く気がなくて、「もう嫌だ」と思って聞いていないのか、と考えてみましょう。おそらく、わざわざ会おうといって一緒に話をしている訳ですから、「お前の話なんて聞きたくねえよ」という感じであるはずはないんですね。一応、気持ちの初期設定としては、「聞こう」という気持ちを持っているはずなんです。あるいは場合によっては、人によっては、ですね、「君の悩み、聞いてあげるよ」みたいな人もいる訳ですね。けど、でも、いざその悩み相談が始まってみると、「聞いてあげるよ」とか言ってるくせにですね、その人はいっぱい考えているわけです、心の中で。聞いてあげることによって、相手の信頼を得たい、とかですね、うまく聞いてあげる、理解してあげるふりをすることで、「まあこの人素敵」って思わせたいとか。

    そうやって品のない目的だけを考えていられれば、まだ、いいですが、そうやっている間にも他のことを考えているんです。ほんとうにいろいろと。「喉が渇いたなあ」とかも一瞬、思ってしまいますし、「今温度がちょっと寒いなあ」とか「暑いなあ」とか、「空調がちょっと」とか。そうやって、ともすればいろいろなことを考えてしまっています。ですから、聞こうという意志はあるんですけれども、あるいは悩み相談、「聞いてあげるよ!」という、もう邪な心で聞く気満々、聞いてあげているふりをしたいんですけれども、そのふりすら、実はうまくいかないことが多いんです。いろいろ考えているからです。

    考えている間、心はずっと脳の中に行ってしまいますから、心って、こんなことを言うと「えっ」と思われるかもしれませんが、坐禅をずっとして見つめていると、心が動いているのが分かるんです、ものすごいスピードで。それを視覚化すると、光の玉みたいなものが、ものすごいスピードで動いて、ある瞬間、ほんの細切れの瞬間に、身体の特定の場所に行って、その身体の場所、たとえば視神経という場所に行って見るという行為をするんです。あるいは聴覚に行って聞くという行為を行っていたり。あるいは思考するということを行っている瞬間、ほんの一瞬間ですよ、その一瞬間ほかのことはなにもできなくなるんです。

    せっかくホワイト・ボードがあるので使わせていただきますと・・・

    ・・・(ノイズの図)・・・

    聞くという行為をずっとやっているつもりなんですが、その間に実はこのように大量の細かい「ノイズ」がいっぱい入っているんです。切れるんです、この瞬間だけ、「考える」という行為によって。実際は、もっといっぱい、「見る」ということ、相手の表情を見るとか、あるいは寒さを「感じる」とか、ものすごく大量のことをやって切れまくっているんですが。

    とりわけ、普段より余計にパワーが割かれる、「見る」こととか、触感を「感じる」こととか、普段のこととは違って、余計にパワーが割かれる、増減の激しいのが、「思考する」という行為なんです。

    人は落ち着いてる時には、あまりあれこれ考えません。混乱してくれば混乱してくるほど、いろいろ考える量や時間が増える。

    そして、考える量や時間が増えるほど、この「聞く」という行為に「ノイズ」が、ほんの一瞬間です、それがものすごく増えていくんです。

    すると何が起こるか、というと申しますと、「さあ聞くぞ」と思っていても全然聞こえない。

    そして、相手が話している最中なんですけど、「いやいや、そうは言うけど、こうしたほうがいいよ」みたいなことをつい言ってしまう、「話を聞くよ」って言っていたのにいつのまにかお説教に変わってしまっているんです、「自分のアドバイスを聞かせていい気持ちになりたい!」みたいな。それにたいして相手が、「せっかく聞いてくれると思ってたのに・・・押し付けられちゃったよ」みたいな表情をしたとしたら、こちら側は、「自分の脳内の考え事に巻き込まれて、相手の声が聞こえなかったな」と反省できますか・・・?できないですね。

    そうではなくて、「せっかく話を聞いてやった上に、ありがたいアドバイスまで差し上げたのに、何様のつもりでお前はそんな不愉快そうな態度をするのか!」という怒りのカルマが、にょきにょきと湧き上がってきてしまいます。全部、自業自得なんですよ。いっぱい「ノイズ」を入れてるせいなんですね。

    単純に、小結論を申しておきましょう。「考える」という行為を行うと、たとえば「聞くこと」のスペックが低下するんです。「聞くこと」の能力が低下するんです。それは実は「聞くこと」だけではありません。映画を観ながら、いろいろ気になっていることがあれば、映画を観る、という行為にたいして、ああやって「縦すじ」が・・・「縦すじ」は比喩的なものですけれどもね、入る度合いがすごく強くなってくるんです。

    『ダーリンは外国人』っていうマンガがあるんですけれども、その・・・一応、娯楽には接してはならないっていう戒律があるんですけれどもね、一応、最近は時々読むんですよ、ね(笑)。

    「ゾーエー」っていう喫茶店が近所にあって、そこに置かれているんです。多分マスターがお好きなんだと思うんですけれど、それをぱらぱらっと読みまして。

    『ダーリンは外国人』と申しますのは、作者の方が女性で、その配偶者、ご主人が外国人、そのお二人の生活をちょっとおもしろおかしくマンガにしているというような感じのものであります。 外国人、っていうのはここではちょっと関係ない文脈でして、そのご主人、非常に考える質なんだそうですよ。非常に、突き詰めて。別にそれを悪く言おうというつもりはないですけれども。しょっちゅう物思いに沈んで一つの物事をずっと集中して考えてしまうんだそうです。その方が食事中に、たしか二人で別々のピザを食べながら、食事中にものすごい考え事をしながら、もう食べてるのか食べていないのか、ただひたすら手を動かしながら食べているような状態。

    「ああ、一種類のピザしか食べられないんではかわいそうだな」ということで、自分のピザを入れてあげたんだそうなんですよ。その、全部食べ終わったあとに。「ピザどうだった?」みたいな話をしたときに、この二つの味の違いを・・・ちょっと、ちゃんと覚えていなくって(笑)おおまかに言うとこういうことです、「二つあったけどどっちの方がおいしかった?」みたいな話をした時に、「え、二種類もあったの?」みたいな話になりまして、あらあらという感じで。「あれ、もうピザがないよ!」という感じで終わったかな、たしか(笑)。

    実際に皆さんも何か経験があるはずなんです。何かに追われながら、「仕事しなきゃ」と思いながらがーって食べてたら、気づいたらなくなってた、ということが。あるいは、すごくいらいらしながら、おやつを、いわゆる「ドカ食い」というのでしょうかね、していましたら、あれ、なくなってる・・・あれ、なくなってるといっても、全然実感がないんです、実感がないから、お腹はいっぱいなはずなのに、物足りないなあってなって、もう一個買ってくるんですが、「ああ二袋も食べると太るなあ」なんて思いながら食べるから、二袋目も全然味がしない(笑)「切れ目」が、味にいっぱい入ってしまうんです。

    ですから、人の話をちゃんと聞くということは、この世の中を生きていく上で、非常に大事なことなんですが、この能力が恐ろしく低下しています、現代人は。そして、「味わう」、しっかりと丁寧に、考え事をせずに、一挙手一投足を丁寧に動作しながら、しっかりと味わってゆくということも、現代人は能力が低下しています。だから、太るんです。

    他にはなにがありますか、鼻がありますね。嗅覚が。人間はそもそも嗅覚があまり発達していません。非常に弱い感覚です。犬などの動物は嗅覚をかなり重要なものとして生きていますけれども、嗅覚で物事を判断していますけれども人間の嗅覚はあまり役に立ちません。時々、「冬の香りだな」とか思って、「ああ去年の冬はあれだったな」とか思い出すきっかけになったり・・・。タマネギの味噌汁を作るとすごくタマネギ臭がするんですけれども、その空間にずっといるとすぐに感じなくなりますね。一回外に出てもう一回戻ってきたりすると「ああやっぱりタマネギだ」とすぐに感じたりするものなんですが。すぐに麻痺してしまうような性質を持っていますね。なにはともあれ、嗅覚については具体的な例が引けなくて申し訳ないんですけれども、ただ言えますのは、そのただでさえ弱い嗅覚も、いろいろ考えていたら衰えるということです。

    それから身体感覚ですね。恋人と、あるいは長年連れ添ったご主人と、手はつながないですか。つながないですか・・・つながないですね。失礼しました。手をつないで歩いているといたしましょう。そこには必ず身体感覚が発生して、「つないでいるな」という感触があるはずなんです。あるいは口づけを交わす、ということをとってみてもよろしいですし、あるいは、ここで申しますには少々差し障りがありますような男女間の行為もありますでしょう。とりわけその例がいいでしょうね、おそらく。「行為」の最中に考え事をしたらどういうことになるか、ということは、誰しも一回くらいは体験したことがあるはずと思います。まったく実感がなくなるでしょう。気持ちが萎えてしまうはずです。あるいは、男性でしたら、別の娘のことを考えて・・・

    (マイクを取り替える)

    いまこれ(マイク)をここに置こうか持とうか考えまして、ああそうかと思ったんですが、私、食事の食べ方だとかを時々人に指導する機会がありまして、その時に、箸や食器を一度戻さない方が、まあ現代っ子を相手にしていますと、結構いらっしゃいまして、少なくともそれは一度戻しましょう、ということは申し上げるんですけれども。なぜというと、これを(手で)支えるとすると、ほんの一瞬そこに支えるための力、筋肉のエネルギーを使って、そうすると「すじ」の入る度合いが多くなる、瞑想的な見地から申しますと。

    そういたしますと、これを持っていると持っていないとでは、やはり若干の違いが出てくるなあということを、今思いまして。これに余計な情報処理、「落としたら大変だぞ」とか、すごいスピードで心は考えているんです。いわゆる表面的な意識で、「今これを話さなきゃ」と私が思っている裏側で、猛烈な勢いで心は違うことをしています。「これをしっかりと握っておかなければ大変だ、落としたらどうなるだろう、多分ガチャンという音がするだろうな」ですとか、「このガチャンという音によって皆がびっくりするだろうなあ」とか、あるいは「失演した間抜けな奴だと思われないかなあ」とか、ものすごい量のことを、深層意識で考えています。まあ、マイクを持っているくらいのことでしたら、大したことはないんですけれども。

    そして、考える時は、今考えるべきことに集中して、考えられればいいんですが・・・。いや、厳密に申しますと、トレーニングすればできるようになります。ただ自然の状態では、人間は、ふつうの状態では、できないんです。たとえば、今、いきなり「ちょっと出てきて下さい」と言われて、「私の代わりに講演して下さい」と言われたらたぶん、多くの人は困るでしょう。困らない人もいるかもしれませんけどね(笑)。あの、もしいるんでしたら、代わっていただいても(笑)。

    話している最中に、話すべきことは決まっています、なにかしらの道筋が、いっぱい脱線はしますけれども。それ以外のことを、ものすごいスピードで考えるんです。「言いよどんだらどうしよう」、そして実際言いよどんだ時に、「うわっどうしよう」、と考える。その考える時に、思考の流れが断ち切られて、次に何を話したらいいか全く分からなくなってしまう、ことがありえます。

    あるいは、仕事をしています時に、そのなすべき仕事についてだけ考えればいいんですが、なかなかそうはいかないんです。「今日あと何時間あるかな」と考えるかもしれません。あるいは、「今月あと何日あるかな」とか、「次に有給が取れる日まであと何日働かなければならないんだろう」と、考える瞬間、当然ながら、作業効率は落ちます。

    身体感覚の話を、さっき途中までしていて飛んでしまったんでしたね。一緒にいて、肌を触れ合っていますのに、その場に、同じ場所にいないかのごとくなんです。片方は、「仕事でうまくいかなかったな」とか考えているかもしれない。もう一方は、別の異性のことを考えているかもしれません。その瞬間、二人は同じ所にいるかっていうと、いないんですね。二人とも脳内に引きこもっているからです。

    実はこれは、ほぼ必然的な流れとして多くの人が陥るパターンなんです。知り合ったばかりの頃はですね、非常にフレッシュ、新鮮なんですね。具体的に申しますと、相手が視覚的に見える、視覚映像が非常に新鮮なんです、まだ慣れていませんから。新鮮で、「あ、新しいものだ」ということで、新しい刺激にたいして心がわくわくしているんですね。だから非常に、「見ること」に集中するんです。だから相手の髪型がちょっと変わったりしたらすぐに気づきますし、あるいは相手の表情がちょっと曇ったら「あ、今つまらないのかな」と話題を楽しく、がんばって転換しようとしたりするんです。はじめの頃だけです。(笑)あの、皆さん、ちょっと、思い起こしていただきたいんですけれども。

    相手の話をしっかりと聞いた上で、しっかりと受け止めて、コミュニケーションを行っていく、ということが、皆さん、というか現代人は、大変苦手になっている、と申しましたけれども、「自分の話をとにかくしたい」という考えが渦巻いている、だから話を聞くのが苦手なんですね。

    ただ、こんな現代人ですら時にはできてしまう。どういう時にかというと、それがフレッシュな時です。相手から発されてくる音波が、非常に刺激的に聴覚に触れる時です。・・・こういう乾いた言い方を今日は一貫していたします。所詮、私たちが「この自分」といってこだわっているものは、聴覚にすぎません。視覚にすぎません。視覚映像の刺激に、びびびっと反応しているだけです。あるいは嗅覚で、もっと嗅いでいたいと思っているだけかもしれません。

    あっ、さっき嗅覚についてうまく申せませんでしたけれども、今の身体感覚との恋人の文脈で申しますならば、相手の匂いが好きだったりとかいうことは、結構、申しますでしょう。あると思うんですね。人によっては、匂いは好きじゃないんだけれども、他の部分が好きだからいい、という場合もあると思うんですけれども。しばしば、非常に仲睦まじい男女が、相手の匂いが好ましい、ということが、起こりえます。ただこれもはじめのフレッシュな時だけです。

    これは、申しますならば「飽き」、日常語で言いますところの「飽き」なんですが、同じタイプの情報がインプットされ続けると、「これはもういいや」という感じになってくるんです。同じ、じゃないんですよ、ものすごいスピードで変化していて、相手の顔だってすごいスピードで細胞が酸化し続けていて、細かい所で見れば、顕微鏡的に見れば変化をし続けているんですが。

    ざるのような大雑把な意識で相手を見ていると、変わっていないように見えるんです。「ずっと同じだなあ」という感じ、「この刺激はもういいや」という感じになってくると、他の刺激を求めたくなるんです。他の刺激を求めたくなると、もうあからさまに、他の異性に走る、という場合もあるでしょうが、「いやいやそれはちょっと」という人の場合は、脳の中の恋人に走るんです。恋人といっても、異性ではなく、脳の中にある、自分の好きなことや、いらだっていることに逃げていくんです。一緒に相手にいるんですが、ずっと頭は回転していて、「あいつにあんなこと言われた。不愉快だなあ」とか思っていたり、「来年留学してなにか素敵なことしたいな」と思っていたりですね。とにかく、自分の脳の中に逃げ込んでしまって、相手のことに興味なくなっていくんですね。

    ところで、人によってこの「飽き」のスピードが、早い人がいるんです。遅い人もいるんです。私なりにこれを分析してみますならば、これは煩悩。どんな煩悩が働いているせいでそうなっていくのかな、ということを考察してみますと、これは迷いの煩悩、「無知」の煩悩が非常に深く関わっているんです。「無知」というのは、考えれば考えるほど人は「無知」になるのですが。

    と申しますのは、「知る」ということは、情報をちゃんとキャッチするということです。相手の表情の変化、少しの感情の変化するに従って、自信のなさそうな顔になったり、自慢話を相手が始めた時にちょっと・・・ 「わかってよ!」という感じの、「僕を認めてよ!」という感じの・・・ 威丈高でありつつもちょっとどこか惨めな感じの表情になっていたり。というものをしっかりと見ることなく、どう変化していてもまあ一つの顔だ、という感じになってしまう、これは「無知」に他なりません。

    人間は、「知恵、知識とは頭で考えることである」と、お釈迦様以外のほとんどの人が、そう考えてきました。昔は、それでも、仏教に限ったことではなく、ジャイナ教にしても、ヒンドゥー教にしても、あるいは中国の道(タオ)や気功道の人にしても、「考えるということ」によって人の能力は衰えていくということは見抜いていました。ですから一定層の人たちが、「考える」せいで人の能力が衰えたり、「無知」、情報がちゃんと認識できなくなったりするということについて、自覚的であったり、メッセージとして伝えている層が、昔ほど、仏教に限らず、そういう勢力が存在していたんです。

    現代は、あいにく、「考えるべきだ!」というプレッシャーすら存在しているんです。たとえば、脳について、脳を鍛えることがしばしば言われておりますけれども、「いろいろ考える方がいいんだ」という、けれども結果として、それで何が起きるかというと、実際は脳そのものが衰えていきます。脳を空回りさせて、考えるごとに、パンクさせるかのように、ですね。

    少し話が脱線いたしましたけれども、そうやって、自分の心の中の考え事に引きこもってしまいます。そして、相手も全く同じことをその時考えていれば、ある意味一緒にいるのかもしれません。しかし自分がたとえば「留学したいな」と考えている時に相手も「留学したいな」と全く同じ瞬間に考えているということは、実際にはありえないことです。非常に寂しいことですね。

    で、そこで働いているのが、「無知」の衝動です。「知らない」ということですね。相手の表情の変化を「知らない」、相手の声の質の変化を「知らない」。注意深く聞いていたら、「あ」、「あー」、「アー!」という感じにですね、喉が引き絞られるような感じで喋っていたり、落ち着いて、すごくリラックスして喋っていたり。一つの会話の中でも人の声質は結構変化しています。そういう変化に「無知」であるということ。現実にそこで起こっている変化をちゃんと情報としてキャッチしないのは、知識が回転しているから、心が脳に引きこもって、考え事の中に閉じこもっているから。

    この、考え事ばかりしてしまう衝動、習慣になっているもので、一回やってしまうと、それ以降、考え事に引きこもりやすい体質になってしまいます。電車が走り出したら急に停まろうとしても揺り返すのと同様です。一度考える癖を付けると、急に止めようと思ってもなかなか止まらなくなる。それにさらに考えを増やしてしまいますと、鈍行電車だったのが急行電車になってしまってますます止めにくくなってしまう。さらにずっと考える癖を付けてしまいますと、それがやがて特急になり、新幹線になり・・・。私が子供の頃は、新幹線より速いのがそのうちできる、みたいな話があって、リニア・モーターカーだ、未来の乗り物だ、みたいなことが言われていて、ものすごく速くなる、みたいなことが言われていたんですけれども、リニア・モーターカーというのは、実現してみると新幹線と同じかそれより遅いものみたいですね。・・・ともかく、癖を付けると止められなくなるんです。考えるべきでない時にでも考えるようになる、習慣が少しずつ身に付いていってしまうんです。

    時々、相談を受けます内容に、恋愛で理不尽な振られ方をしてしまって、恨んでしまったり、思い出してしまったりして、いつまでたっても抜け出せない・・・これは考え事が自動化してしまっているんです。これをやってしまうと、そしてさらに考え事が回転しやすい性質が身に付いてしまうと、ただその時苦しいだけでは終わらないんです。その後、たとえば一週間後、十日後、一ヶ月後に、自分の考えたことが、思考が、十年前の嫌なことがずっと回転しはじめて止めたくても止まらない、ということが生じえるんです。そしてそれをやってしまうとそれ以降、そういったことが繰り返される回数と強度が増してしまうんです。これの、燃料こそが、おどろおどろしい響きを持った、「カルマ」と呼ばれるものです、私たちの中にある。最近、戯画化して、この「カルマ」を目盛りのように表して、これだけ溜まりましたよ、というふうに描いたりするんですけれども・・・

    ・・・(カルマの図)・・・

    いったい、熊にどういう仕事があるのか私にはよく分かりませんが・・・子育てとかもするんですかね(笑)。もし子育てをしなければならない、その時に、「蜂蜜が欲しいな」と思ったとします。すると、その瞬間に、私が、迷いと申しておりますのは「無知のカルマ」のことですけれども、その瞬間、認識すべきことから、情報をキャッチすべきことから、逃げてしまう・迷ってしまう・彷徨ってしまう、それゆえに無知になってしまう。別の言い方をすれば、現実にはやらなければならないことから逃げてしまうということでもありますので、「逃げのカルマ」と言いましてもよいでしょうし、「迷いのカルマ」と言いましてもよいでしょうし、「無知」と申してもよいでしょう。

    これを伝統的な仏教語で、ちなみに、「愚痴」と申します。「おバカさん」という意味です。この「愚」は「おろか」、「痴」も「おろか」という字ですね。「知っている」に名前がある書き方、これは面白いですね。「知っている」に名前があるが、「知る」というのに病気になっているのが多いでしょう。これは、つまり、「おバカさんですよー」ということなんですよ。星がくるくる回っているよという状態になってしまって、認識ができない状態になってしまう。それをすると、一回したぶん目盛りが増えて、目盛りが増えますと、当然それ以降、また、これが生じやすくなる。そして、その次に、この蜂蜜より・・・また思いついてしまう。でも蜂蜜がいいかなとかさらに考え続けると、こうやって増えていくんですね。

    このようにして、私たちの心は、自分の制御下から離れていってしまう。勝手に自動解体する。朝起きた瞬間に「眠いな」と思ったとします、これは、「朝起きたときに、よし、これから眠くて起きたくないと考えることにするのである」と、意識的に考えて行ったことのある方は、いらっしゃいますか。絶対にいないですね。つまり、「我」、この私が決め手やっていることではありません。「無我」なんです。

    意志、今こうするぞ、こう思うということ、考え事をするということ、行為を行うということ、行為を行う際には衝動的なエネルギーがぐーとわき上がってくるのです。 こういった衝動的なエネルギーのことを仏教のことばで、「行」と申しまして、もともと、お釈迦さまが使っていたことばで申しますと、これを“samskaara”と言います。「諸行無常」と言われるときの「行」です。諸々のエネルギーは、「無常」、「常にものすごいスピードで移り変わっていく」というのが、「諸行無常」という意味なんです。この「行」には、いろんな種類の行がありますけれども、ある時、気づいたら、これがわき上がってくるんです。

    自動的に、ゴゴゴゴーッとわき上がってきましたら、別に、できれば朝ちゃんと目覚めて、さささっと準備して、気持ちよく仕事に行けたり、学校に行けたり、あるいは、仕事にも学校にも行ってない人であっても、まあ、朝食の準備は楽しくしたいと、多くの人は思っているはすなんですが、にもかかわらず、その自分がこうしたいということに反して、エネルギーがどわーっとわき上がってきたら、「ああ眠いどうしよう、あぁ、起きたくないや、あぁ」と、起きたくないなら寝ればいいんですけど、それで、じゃあ、「寝よう!」と決めればまだましなんですけれども、まだ延々と迷うんですよ。「わぁ眠いどうしよっかな、あぁー、でも、さすがに起きないとまずいな、やっぱ眠いな」と延々と延々と考え続けるので、より、自らを制御させなくなるエネルギー、衝動的エネルギー、「逃げたくて逃げたくてたまらんぞー」というこの“samskaara”を蓄えてしまう。それみな全て、考え事のなせるわざです。

    今、ちなみに、行っておりますのは、病状の判断です、私たちの思考病。ワクチンに・・・。あいやー、今、そろそろ一時間たちますねー。まぁ、いまだにワクチンの話に辿り着いていないということにきましてはあとで、対策を考えるとして、えー、そして、この迷い、無知のエネルギーが働いて、何の分析をしていたか思い出してみましょう。「飽き」ということです。

    「相手に対して飽きてしまうのは何故か」ということなんですが、このエネルギーが多い人ほど、早く飽きます。このエネルギーが無くて、もともと相手のことをしっかり見ることができる人は、相手の変化に、微妙な変化にある程度気づくことができる分だけ、「同じだなー」という感覚を抱きにくいからです。

    認識がずさんになって、でたらめになればなるほど、つまり、混乱して迷いのカルマ、業が多ければ多いほど、飽きやすくなる。考え事に耽る人、別に本ばっかりよく読む人を悪く言うのではないと申したいんですけれども、本ばっかり読んだりしていますと、その性質は、実は強くなっていきます。映画見てばっかとか、そういう生活をしていますとですね、「今、この現実を観る」という能力が失われていくからです。

    山の中に行って、せっかく山の自然を楽しめばいいのに、i-Podで、i-Podって分かりますか、walkmanの一種ですね、外に音楽を持って行って、外で音楽を聴くようなものですね。それを持って行って、せっかく静かなところで、わざわざ、大音量をかけたがる人がいる。そうやって刺激、娯楽を時として用いると楽しいんですけれども、そこまでなってしまうと、ちょっとおかしいですね。もう認識できないんですよ。そこにあるものをもともと認識する必要がないみたいになってしまうほど、心が彷徨っていると、「その場でこうすると適切なんじゃないかな」っていうことが、大抵の場においてあるんですが、それ以外のことをわざわざ持ち込んで台無しにしてしまったりもするんです。

    この「飽き」に導いてしまう迷いのカルマが多ければ多いほど、人は幸福になると思いますか、不幸になると思いますか。当然ながら不幸になります。何故かというと、せっかく、ものすごい好きになれる人が現れたかもしれません。しかし、すぐ飽きます。で、飽きたら、他の人に逃げていきたくなるかもしれません。で、また、もしその人が非常に、表面的にであれ、魅力的な人であれば、またすぐ次の人が見つかるかもしれませんが、結局、それを延々と繰り返さなきゃいけなくなるのです。表面的にみれば、もしかしたら「モテていいよね」みたいな話になるかもしれませんが、本人は心の波として、「好きになった→幻滅した→疲れた→逃げる→また別の人を好きになる」っていうのを延々と繰り返さなくてはいけなくなりますので、孤独になれないんです。

    せっかく、あるいは、もう少し、身にしみるようなと申しますか、みなさんの日常でも十分ありえそうな話を申し上げますと、好きになったからには、まぁ、この人と好きでいたいという気持ちは、初期衝動としては必ずあるはずなんです。あるいは、好きとまではいわなくても、いたわりあいたいというような気持ちが。で、いたわりあえる状態と、いがみあったり、相手のやってることや言ってくることにケチをつけて不快になったりするのと、どちらを人は望むであろうか考えますと、当然ながら相手をいたわっている時の方が、人の心はリラックスしているし、心地いいんです。

    そうなんですけれども、それができなくなるのが、早くなります。「飽き」の煩悩が強ければ強いほど。飽きると、人は要求が強くなります、相手に対する。飽きていない間は、相手に対して敬意を払うし、距離をとるんです。ひとりの人格と人格として接しあえます。

    しかしながら、慣れてくると、それが、例えば、生まれてくる自らの赤ちゃんに対してであれば、精一杯で接しようとするんですが、成長していくという間に変化は見られるんですが、でも「自分の子供」というラベルを貼ってしまって、同じ自分の子供だという意識が芽生えてくると、一人の他人として扱えなくなるんですね。すると、「お前はこうすべきだ」という気分が湧いてきたり、自分のいうことを聞かなかったら、イラっとしたりするんです。自分の恋人について、前はかわいいなとかしょっちゅう思っていたかもしれません。前は、かっこいいなとか、この人の目のキリリとした感じがいいなとか、時々思い出しては、そういうことを考えることがあったかもしれないんですが、「飽き」の煩悩が逃げ、あ、あの「迷い」「逃げ」「無知」というのは「飽きの煩悩」と言い換えてもいいでしょうね。それが強ければ強いほど、早くつまらなくなるんです。早くつまらなくなると、相手に対して、ぞんざいな態度をとるようになるんです。すると当たり前のことですが、相手もイラっとします。必ず不幸になるんです。100%。

    ただ、人によってあの目盛りの度合いが違いますから、これは「根本煩悩」なんですけどね、あらゆる煩悩の中で一番最悪であり、一番攻略するのが手強い煩悩です。今、この瞬間、今やっていること、今見えていること、今聞いていることから逃げて、考えてしまう、クルックルクルックル、これが「根本煩悩」です。考えるから、そこから欲望が生まれます。或いは、「あ、この人の声はイヤだ」とか、「なんだその言い方は、前はもっと丁寧な言い方だったのに、なんだそれは」と、イラっとしてしまったりするのは、まず考えるからです。

    相手の声を音波として受信して・・・この時までは、現実に根ざしているんです。で、その音波として入ってきたものを、脳の中で情報処理し始めるんです。すると、前は、「もしよかったらお皿洗っといてくれないかな」とか、かわいく言ってくれていた相手が、「洗っといて」とか、あるいは「何で皿拭かないでそこに置いてんの」とかみたいな、そういう言い方をするかもしれません。それを聞いた時、「お前、前はそんな言い方しなかっただろ」とか、一瞬にして反応しているかもしれません。

    しかし、その一瞬の間に、実は猛烈な出来事が、色々起きています。まず、受信する。脳で解釈する。そして、「ああこれは自分に対して敬意が払われていないことだ、もっとボクは敬意を払われるべきである」と考えて、イラっとする。このイラとする前に猛烈なスピードで、深層意識で、衝動エネルギーが湧きあがってきて、思考が回転して、それから初めてヒトは怒る、ということが生じて、しかも、その怒った後に、不快物質が身体に発生して、気の流れが滞って、そして、イライラっと緊張してきてはじめて、口が動き出します。

    ただ、みなさんメチャクチャ速いでしょう。言われた後、その反応をするまで、一秒後ぐらいのはずなんですが、実はその一秒の間に、瞑想的見地から心を眺めていたら、分かることです。ものすごいスピードで、こころが連鎖して変化をして、そして、考え事をして、結果として結論を出すんです。だから、もう怒ったぞ。すると、反応が生じて、言葉がでる。これも「飽き」の煩悩ゆえに出やすくなるんです。相手に対する要求水準だけが高まっていて、自分は相手に対して何もしたくなくなっていきます。

    昔は愛の言葉を色々積極的にかけたくなっていったはずなんですけども、そうですね、せっかく、年長者の方々もいらっしゃいますから、その方々もとりわけ身にしみていただけると思うんですが、長年連れ添ったお相手の方と、はじめての頃を思い出していただきたいんですけれども、今、その、はじめてのころの労りを相当努力しなければつくれないはずなんです。努力すれば、今からでも作れるんですよ、努力すれば。ただ、その努力をしようとする意識すら、人は失っていくんです。相手への興味がなくなっていく。

    ただ、そのもともとの興味はじゃあ非常にあるものであったかというと、それも必ずしもそうでもないんですけどね。相手の与えてくる視覚の信号が気持ちいい、もっと欲しいと思っているだけだったり、相手が、相手もやっぱり最初のうちは自分に敬意を払ってくれますから、こう、とても持ち上げてくれたり、配慮してくれたりするので、その、相手の、その時だけの、新鮮なうちだけの、相手の欲望に根ざしたような、こちらを大切にしてくれるその刺激を、私たちが味わって、わぁ気持ちいい、もっと欲しいと思ってただけだったりもするかもしれません。というか、実際は、そういう側面が必ず含まれてしまいます。

    ゆえに、必ずしももともと純粋という訳ではなかったんですが、でも、その中には相手を大切にしたいという純粋な「善」なる要素も、「偽善」の中には「善」は入っていたんです。ところが、この「飽き」が進めば進みますほどに、この「偽善」の中の偽物の要素、インチキな部分の割合が増えていくんです。もう、相手の事なんてどうでもよくなってきて、「偽善」ではなくて、段々、「悪」になっていくんです。「なんだよ、この味噌汁は不味いよ」って。最初、「まぁ、不味いような気もするけど、この子が一生懸命作ってくれたし、ちょっと我慢しようかな、気持ちが嬉しいな」とか思えるんですよ、素直に。その思えるのが幸せなんですよ。仮に不味くても、まぁ作ってくれて嬉しいなっということで、自分はハッピーになれますから。「善」であるだけではなくて、「ハッピー」なんです。

    ところが、やがて「飽き」の煩悩に蝕まれて、つまり考え事をやりすぎる人間になっていくほどに、不満が高まります。つまり、「アンハッピー」になるだけでなくて、「悪」になるんです。もともとは、「善」でハッピーだったのが、徐々に、徐々に、すり減っていって、「悪」かつ「アンハッピー」という情況に転がり堕ちていくんですね。すなわち、「考える」ということの弊害なんです。こういう病気が、人間には、生まれた時から、生まれる前から、インストールされています。感染しているんです、病気に、「考える」という。

    ただ、むろん、仏教におきましても、「八正道」といわれますうちの、「正思惟」、「正しい思考」、「正しく考える」というセクションがあります。八つの道を私たちは歩いて、心をトレーニングしていくのですけれども、座禅セッションで、座禅会において、私が皆さんに指導しておりますのも、「八正道」、八つのトレーニング法、というか、八つの能力を鍛えていただくということを、常に念頭においておりますけれども、そのうちの一つが「正思惟」、正しく考えるということです。

    つまり別に、「全く考えてはならないのであーる」ということでは、当然ながらないんです。その瞬間に考えるべきことは当然ながらあります。例えば、皿洗いをする時にあれば、どの順番で皿を洗えば、最も時間がかからず、水が無駄にならず、洗剤を使わなくてもいいかですとか、音をたてないように注意深く行うんですとか、そういう必要な思考というのは、必要最低限な、うーん、エコロジカルなとでも申しましょうか、無駄なエネルギーを使わない思考というのは、常にあるんです。あるいは、恋人とむつまじく過ごす時であれば、その時、当然ながら最も適切なお互いが心地よく過ごすために何ができるかということを考えるのが、その時に適したことです。

    しかしながら、アレ(カルマの図を指す)があるので、あの目盛りがありますので、迷いのカルマがパーンと心を占領してしまいますと、その瞬間に、皿洗いをしながら、「あー、この後・・・」、皿洗いをしながらどんなことを考えますか。うーん・・・例えば、ご家庭の主婦の方でしたら、子供さんがちゃんと食べてなくて、ちょっと残しているのがあったら、「あーこんな、ちょっと、もっと綺麗に食べてよ」みたいなことを思ってイライラっとするかもしれませんが、イライラっとするのは無意味なんですね。

    それも、あいやー、二段階に無意味で。一段階目には、その皿を綺麗に洗うとか、時間を掛けずに洗うとか、丁寧に洗うとかいうことが、その瞬間、おろそかになるだけでなくて、もうひとつは、もし、お子さんに綺麗に食べて欲しいんなら、イラっとするのは、まったくに無意味なんです。丁寧に、「私は綺麗に食べてもらえなかったら、作っている側として、ちょっと残念な気持ちがするし、洗うのもイヤだから、一緒に住んでいる身として、イヤな気持ちになりたくないし、私がイヤな気持ちになってるのを見たら、あなたもイヤでしょう。だから、まぁ、ちゃんと食べてね」、と怒らずに、心は極めて平常心を保って平静に言えば、それで済むことなんですが、言う代わりに、心の中でイラっとするんです。「あ、何、汚い、昨日も汚かった、三日前はもっと汚かった」とか思うと、全く無意味なことなんです。現実の行動を早く起こせばいいんですが、起こす代わりに考えるんです。

    そのような病気に感染しています。そして、「仏道とは何ですか」と聞かれたら、まぁ時によって色んな答え方をします、私は。もちろん、お坊さんはこういう質問をしょっちゅう浴びせられてしまうんですけど。「一言で答えて下さい」とか。まぁ、答えますよ。色んな答え方をしますけれども。その一つの答え方は、「思考病をなおす」「注意する」ということです。もし考えるとしたら、その時、最も適切な必要なことだけを考えて、それ以外の思考は全てカットする、ということ。

    そのためのトレーニングとして、私達は、座禅を、瞑想を極めておりますし、そして、そのメソッドを皆さんにお伝えして、指導をして、伝道をしているわけですけれども、いわばこの無駄な空回りする思考、無知の、無知になっていく思考、愚かさのカルマをどうすれば克服できるかというのが、仏道のスタートであり、ゴールなんです。

    「迷っているという状態は、何によってやっつけることができるでしょうかと」考えてみますと、今、相手の肌に触れている、けど、触れた瞬間、ちょっとそれを感じても、すぐ別のとこに飛んでいってしまった瞬間に、その触れているのを忘れていってしまう。と、したら、それを克服するには、あっと考え事に心がやってきてしまっているように、まず気づかないとどうしようもありません。気づかずに、ただ、ずっと考えてて、考えていることにすら気づいていないと、当然克服はできないんですが、普段から見張るようにしていればいいんです。今、自分の心が何をしているかなということです。

    見張っていられましたら、まず、それがファーストステップであります。気づくことができるでしょう。「今、自分の心が何をしているのかな、見ているのかな、聞いているのかな、匂っているのかな、味わっているのかな、あるいは身体感覚で何かに触れて感じているのかな。もしくは、それらを忘れて考えているのかな」と、日常的に、時々思い出したらチェックしてみることです。気づかないことには、そもそもどうしようもないですから。

    では、考えてしまっていると、するとやがて、気づける時がくるはずです。あ、自分、今一緒にいて楽しみたいはずなのに、勝手に衝動的なエネルギーにつかれて、考えさせられてしまっている。カルマに飲み込まれてしまっている。ま、カルマにとか思わなくてもいいですけど(笑)、単に、「あ、考えてしまっているな」と気づく。気づいたら、次に、次のステップとして、「その心を移動させる」、「はたらきを変える」ということが可能になるでしょう。具体的に申しますなら、「考えて」しまっているとしたら、「感じる」方に、心をぐーっと強めるんです。触れていたり、あるいは、接吻をしている最中かもしれませんが、忘れてるんです、その唇の感覚とかを。そちらに心を移動させることはできます。これは、ごくごく、皆さん特にトレーニングを積んでいなくても、ある程度はできるはずです。実感する度合いを強めるんですね、ぐーっと。「今、触れてるなぁ、触れてるなぁ」と、実感して下さい。

    実感する度合いが強まるにしたがって、あの(図を指す)、「ノイズ」が減ります。「ノイズが減る」とは、具体的はどういうことかと申しますと、その瞬間に考える度合いが減るんです。何故かと申しますと、考えることと実感することは、両立しないからです。それは単純な原理ですね。ものすごく微細な時間単位、一秒の一兆分の一ぐらいの時間単位、キュッという一瞬においては、見ていたら考えられないと言いました。考えていたら聞こえないと申しました。聞いていたら見えないと申しました。つまり、考えることと他の感覚器官を使うことは両立しません。つまり、実感するとは両立しませんので、裏を返せば、考える度合いより、実感する度合いを意図的にぐーっと増してあげますと、考え、雑念は、すーっと静まりかえっていくわけです。

    それゆえに、必ずしも、呼吸瞑想、呼吸を用いたりしなくても、あるいは、特殊な瞑想的な意識状態を作らなくても、ある程度はできるんです、心をコントロールするということが。考え事がはじまって、「あっ実感が失われている」と、まず防犯チェックみたいなものです、赤外線センサーを張り巡らせておくんです。それに引っかかります、「あ、考えているな」と。「今、これは、今やるべきことと違うことを考えている」と思った時点で、今やっていることへの実感を増して下さい。それを増すのは、「気づく」、次のセカンドステップです。

    これは何の力が必要でしょうか。一つめの力のことを「念力」と申します。まぁ、念力というと、みなさん、「むーん、はぁ!」というやつをイメージするかもしれませんけれども、「念」とは、気づいている力、意識のセンサーのことです。防犯チェックのような。それが非常に細かくなればなるほど、敏感に、微細な変化に気づくことが出来るようになります。人の目のほんの少し移動しただけで、「あ、感情が移ろったな」と気づくことができます。あるいは、自分のからだの中で、今、あ、アドレナリンがここをこう走って行くなというようなことを気づいたりできます。ま、ともあれ、そういう気づくパワーのことです。「念」の力というのは。

    二つめに、それに気づいた後に、「じゃあ、実感の方に、心をやってみよう」というパワーは、これは何でしょう。「集中力」です。集中して意識をコントロールして、ぐっとつかまえて、一つの場所に。「集中」という言葉は、集め中(アテ)る、集めるとか、中る(アタる)、中心、「中」という集中の「中」は、アテるとかアタる。「的中」と書きますように、中(アテ)るという意味があります。的にあたるとか。心はものすごいスピードで散乱をしてあちこちに行ってしまうのを集めて一カ所にぐーっと定めることです。それを修行をすると、ものすごくパワーをアップさせる、座禅でアップさせることが出来ますけれども、鼻先へ一点集中、呼吸に一点集中するようなことによってです。ただ、日常的意識でも、ある程度自覚化すればできることです。ふあーっと考え事に意識がいっている際に、キーボードをタイピングしていても、その指がキー当たっている感覚は、だいぶ抜け落ちているはずなんです。その時に、じゃあその時やるべきこととしてのキータイピング、指の感覚にぐーって意識をおいてください。すると、感覚が必ず強まるはずです。「あ、強まったな」「ヴィヴィッドになったな」「鮮明になったな」と感じるはずです。その時に、その感じた分だけ、あの「ノイズ」として、鬆(す)が入っているような状態が、薄れている。つまり、それは、雑念が薄まっている、消失していくということです。

    まず、気づくべく、出来るだけ普段から、「今、自分は五感を使っているのか」、「五感の、ならば、そのうちのどれなのか」ということに、少し自覚的になっていますかね。とりわけ、「脳がはたらいているのか、空回りしているのか、どうなのか」ということをチェックしていますかね。気づいたら、その時やるべきことの身体感覚に向けて、意識を統一集中して、引き戻して、ぐっと脳内に引きこもっている引きこもり少年をつかまえて追い出す、「バイトでもしなさい」というような感じで。「そんな働きもしないで、脳内の部屋にだけ閉じこもっているなんて、不健康ですよ。アルバイトでもして社会を知ってみなさい」といったような趣に、趣をもって実感させて下さい。すると、無駄な空回りが静まっていきます。

    七時半までお話し致しましょう。・・・七時半ちょっと前までお話しましょう。あまりにも尻切れトンボにしてしまって、よくありませんから。

    一応、うーん、「病状」の話ばかりして、えー、「ワクチン」の方がほんのちょっとになってしまいますが、ほんのちょっとなりにも、お話を最後まで致しましょう。

    ただ、その、集中しよう、実感しようと思っても、それすら空回りしてしまうぐらい心が混乱していたりする、ということは十分あり得ます。仏教、仏道におけるエッセンス、一番重要なポイントは、実は集中ではありません。この集中の統一のパワーによって、すごい心をコントロールできるのは事実なんです。ただ、これは仏教のオリジナルではありません。ヨーガなんです。現代のあのポーズをとったりする、あのヨガではありません。ではなくて、古代のインドで行われていたヨーガ、まぁ、現代のヨガでもそれに近いような流派もあるようですけれども、ものすごい精神統一をつくって、心のパワーを引き出す、すごい集中力をつくりだして、心をコントロールする技術を、というのは、これは、ヨーガでもともと行われていたものなんです。

    お釈迦さま、ブッダが、二十九歳で家出、出家をして、あの、妻子を放り投げて、逃げてしまったんですけれども、そして修行をはじめられた時に、最初に、アーラーラカーラーマという方と、ウッダカラーマプッタという二人の、当時インドで最高のヨーガ指導者だった二人について修行をされました。そして、無色界の第四禅定、まぁそんなこと言っても仕方ないですけどね(笑)、そのヨーガにおける最高境地までお釈迦様は達されたんです。ところが、こうやって、それは禅定と呼ばれる状態で、非常に強い集中力と、明晰な意識状態が作られるもの、それを達成すると、その瞬間は気持ちいいし、非常に煩悩から解き放たれて、非常に安らかな感じなんですね。

    ところが、その禅定を解いて、禅から出てきて、日常生活に戻ると、また煩悩が再び湧いてくる。ところが、ウッダカラーマプッタ先生とアーラーラカーラーマ先生は、「これが最高境地で、これ以上のものは無い」と、「これが解脱です」という風に、おっしゃっているけれども、「どうもこれじゃあ僕の悩みは解決しないらしいなぁ」と思われたんです、お釈迦さまは。そこが、まぁ、彼のその疑り深いところがオリジナリティだったんです。これがゴールとインドでは長年、古代からずーっと伝承されてきて、その最高境地を達成している人について、実際それをマスターしたんだけれども、ダメらしいと。そこで何をはじめたかと申しますと、自分の心を観察しはじめたんです、ある時。

    ただし、漫然と観察するんじゃないですよ。漫然と、あー今、苛立ってるなぁ、あれー、とか、そんな感じではなくて、今申した、“samaadhi”という非常に強い集中力で、です。ものすごく鋭敏な究極の集中力です。まったく他のところに意識が彷徨わない。見たり、聞いたり、考えたり、触れたり、すごいスピードで情報処理をしているのを完全に止めて、一点にだけ止めるんです。例えば、一番やりやすいのは、鼻先の一点ですとか、或いは、額の一点に集中することも可能です。あるいは、鳩尾のあたりも、やりやすいですけれども。とにかく、どこか微細な一点を定めて、まるで、素粒子の細かい一点にだけ意識をとどめて、他にまったくぶらさないというような状態を作りますと、普段、猛烈な情報処理をしているのが、その一点の処理だけに全エネルギーを割けるようになりますので、まるで、虫眼鏡で、大きなレンズで、太陽の光を全部集めて一点に集約したら火が出るように、すごいパワーがでるんです、実際に。これは驚くほどです。この状態をゴールにしてしまっていたんです、ヨーガは。

    お釈迦さまは、しかし、これをゴールに・・・集中力で、心が今考え事をしてしまっていたら捕まえて実感に移すとか、その時だけはうまくいくんですが、その後また、同じパターンがはじまってしまったりする、これは解決ではないらしい、と考えた結果、その、それはゴールではなく道具だ、ツールだ、と気づいたんです。その究極の集中力を道具に使って、ご自身の心を観察しはじめたんです。これは、座禅瞑想をしておりますと、とても面白いんですけれども、自分の心を、普段まったく意識できていないような、深層の深層の深層の深層で、自分が実は何を考えているのか、というところまで見渡せるんです。ものすごい遠い昔の記憶までよみがえってきます、封印していたような。

    前回におこなった坐禅セッションの指導で面白かったのは、えー、数日前の座禅会ですけれども、参加者の方が、まぁ、みなさん、毎回、奇妙なイメージだとかに出会ったり、奇妙なことばに自分の心の中で出会って、出会うということがしばしばあるんですが、とりわけ、面白かったのはですね。

    その方の目の前に昔、アルバイトをしていたレストランで使っていた机が置かれていて、その机の上に二つの箱が置いていて、自分はその箱を組み立てているようなイメージが、目の前に、座禅中に浮かんできたと。で、その箱は青色をしていて、その上に、何語か分からないアラビア語みたいな、わけの分からない文字が書きなぐってあって読めなかった。その机は、陽当たりのある屋外に置かれていて、自分はその箱を何とかしなきゃと思っている。という状態にしばらく飲みこまれてしまって、やがて、失念していた状態から念を取り戻して、念じれば消えるんですけれども。ということがあったという報告を頂いたんですね。

    こんなことを考えているんですよ、心の中では。例えば、こんなわけのわからないことを。自分は考えてないつもりなんですが。「よし、今日はあんパンを食べよう」とか思って、あんパンを買いにいっている最中に、ふと心がそれを忘れてしまったり、あるいは、「あ、でも、ちょっとやめておこうかな」とかなって、一貫性がしばしば失われます、人からは。こうしようと決めたのに、「あ、でも」、とかなんか。何故、そうやって一貫性がないかというと、私の見ますところ、この心の表面的に、「あんパンを買いに行こう」とか、「あの人にやさしくしよう、けどできない、でもやさしくしよう」とか思ったりすることの裏側に、例えば、その、「昔働いていたレストランの机の上に箱があって」とか、そういう考え事を実はしているんですよ。自分が意識できない、闇の中で。闇だから無知、でもあるんですが。これはもう害がないです。あんまり害がないです。レストランで働いていたという記憶と、箱とか、あと、何か頑張らなきゃいけないという気持ちとか、そういう色んな気持ちがごちゃごちゃになって、そこに圧縮されているような情報ですね。悪業を積めば積むほど、そういう訳の分からない心が、心の深層意識とでも申したらいいでしょうか、いっぱい染みついていって、不合理な結びつき方をしてしまうんです。

    うーん、私が最近、自分自身の心に見いだした面白いものがあったんですがね。うーん、やめておきましょう。

    えー、そう、その集中力を用いて、まぁ、その方は、二、三回座禅会にいらっしゃった程度のことです。ただ、それでも、十分、日常性はある程度超越した集中力、精神統一力が身についてしまいますので、すると、そんなに深くはなくても、ちょっと表面意識のちょっと浅いところで、普段サブリミナルに無意識的に動いてる、奇妙な自分の中に詰まっている心の汚れとか、悪みたいなものが見えたり、ちらっと見えたり、それに引き込まれたりしてしまうということが、起こりえるんですね。

    というのは、ほんの一例でして、実は、その心の奥の奥の奥の奥に、本当にいやなものが、わんさかと詰まっています。それは、強烈な集中力によって射貫くんです。観察するんです。観察すると、それが記憶として、いやーな記憶として、例えば、染みついているのが、バラバラになって、消えていきます。あるいは、さきほど申しました、机と箱と、とかいうことでしたら、これは、怒りや欲の業ではなくて、迷いの業です。不条理な、整理されていない情報が、ごちゃごちゃにまざってしまって、情報の連絡回路を攪乱してしまっているような、混乱状態に陥らせるような、そういう情報がストックされているわけです。それも、その彼女の場合、そうなっている状態を見つめました。見つめていれば、見つめた分だけ、「あ、自分の心の中には、こういう奇妙な混乱があったんだ」と気づくことがかないます。気づくと、心の自浄作用とでも、自ら清める作用と申しますか、「あ、こうなってたんだな、まずいから直そう」という自動的な浄化作用がはたらくんです。それによって、その机と箱とレストランと、やらなきゃというような情報が、ごちゃごちゃに詰まっている状態は、目詰まりが取り除かれるんです。これが観察するということの威力です、意識の威力です。ただ、純粋に観察してあげるということ。あせっているとき、脳内が考えるからあせるんです。「あぁどうしよう、どうしよう、みんなになんて思われるかな。どうしよう」。「あぁ、時間がないな、どうしよう」。あるいは、緊張するときも、色々考えるから緊張するんです。その時、集中力によって、今手がここにある、こう触れている、マイクを触っている、と集中すれば、意識を集約すれば、ある程度、ヨーガ的な発想で乗り切って、時には、緊張を解くことが可能でしょう。

    しかし、その時に、ポップアップしてきている、浮きでてきている業も非常に強いものである場合は、歯が立ちません。集中しようとしても。その時、仏道の最強の武器は、観察するということです。ただし、ただ観察するのではなくて、ある程度の集中力をもって、観察することです。あせっている時に、「あぁ、あせっちゃダメ、ダメダメ、あせっちゃダメ」って思ったら、どんどんどんどんあせっていってしまうんです。そうではなくて、私たちがなすべき、仏道的スタイルの、例えば、あせりを解消するためには、今の心の状態を観察してあげて下さい。心だけではなく、からだも観察して下さい。あせりによって、今、ここがバクバクしている、今、胃がちょっと気持ち悪いみたいな感じだ、こころがざわざわしている、そして、あせっちゃダメダメって否定すると、「あせり」は、「怒り」の業なんです。今どうしよう、やばいな、イヤだ、否定したい、今の状態は否定しなきゃというような。

    それに対して、ダメだという拒絶、あせっちゃダメというのが怒りです。エネルギーの種類として同じなんです。ですから、当然、増幅されて、ますますあせるに決まっています。怖がっている時に、「怖がっちゃダメ、怖がっちゃダメ」ってお化け屋敷で思っても無駄なんです。反対なんですね。俗世間的アプローチ、これは間違っているんです。

    そうではなくて、私たちがなすべきなのは、あせっていたら、「あせっている、あせっている、あせっている、あせっている、あせっている・・・」と一冊の本が書けるほど、何回も念じてみて下さい。あるいは、緊張していたら、「緊張している、緊張している、緊張している・・・」と、心の中でですね、口に出さないで、何度も念じてみて下さい。ただ、言葉を空回りさせるだけでは、何の意味もないですよ。そうではなくて、強い集中をもって、その心の状態をつかまえるようにして、観察してあげて下さい。すると、心が理解します。理解してくれます。あっ、自分で業をつくって、その業に巻き込まれて、自分で自分を苦しくしてる。心が自分であせってるんですよ。自分で、緊張してるんですよ。あるいは、相手にやさしくしたいのに、自分でイラっとしてるんです。あるいは、話を聞くべき時に、自分で、衝動エネルギーに突き動かされて、聞けなくなっているんです。その「コレコレになっている」、その状態を見つめてみてみて下さい。相手の話を聞く代わりに、「自分の自慢話を聞かせたいよー」、「認めて欲しいよー」ってなっていたら、「認めて欲しいと思っている、認めて欲しいと思っている、認めて欲しいと思っている・・・」と念じて下さい。

    そういたしますと、すーっと、おだやかになって、相手の話にしっかりと耳を傾けることが、できるようになるでしょう。意識のセンサーを張り巡らして下さい。そして、集中力を磨いて下さい。今、この瞬間の中に留まる勇気を持って下さい。集中して、今、手はここにある、触れている、相手と触れている、口づけをしている。あるいは、手をつないでいる、カップを持っている、はしを持っている。今、食品が口に入って、舌に触れた瞬間である。今、舌がここにあたって、こんな感覚である、ということ。そして、なおかつ、観察する力を養って下さい。これらが、最強のワクチンとして、私たちを不幸に陥れる、「思考病」という病気を克服させてくれるはずです。

    一応、あーっ少しオーバーしましたね、以上をもって講演といたしまして、もうあまり時間がなくなってしまったんですけれども、「寺子屋」の時間に参りましょう。