僧の言箱
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2009年11月29日、千葉県中山法華経寺にお呼ばれにあずかり、お話ししたものです。


怖れますよ、動物ですもの。

 

日時:2009/11/29

会場:千葉県/中山法華経寺

 

*「サボりたい」「逃げたい」の裏にある

  心の機能とは?

 

 今日お話しようかなと思っております事柄は、人の心が何かに恐怖感を覚えたり、逃げようとしたり、やめたいと思ったりする、ということについてです。

 何か自分がやっていることがあって、「うまくいっているなー」と思っているうちはやる気が維持されたりもするのですけれども、「もしかして、今後うまくいかなくなるのではないだろうか?」という気持ちがプッと湧いてくると、それによって急にやる気がなくなったり、元気が出なくなったり、元気が出なくなった結果として、そのことから逃避したくなったり、別のことをしたくなったりする、ということが生じます。

 そして、自分の中だけで勝手に作り上げられる幻のような不安もあれば、自分の中ではうまくいっているつもりでも、人から「それは意味のないことなんじゃないの?」「そんなことしててなにになるの?」とか、「間違っているんじゃないの?」という感じに直接批判されたり、うわさ話で誰かが自分のことをそういう風にヒソヒソ言っていることを知ってしまったり、自分で疑心暗鬼になって、「もしかしたらそういう風に言われているんじゃないか?」と考えてしまったりいたしますと、途端に自分のやっていることに意義が見いだせなくなったり、元気が出なくなってやる気がなくなったりします。

 すると、本来、やるべきはずだった、取り組んでいた事柄に対して、だんだんおよび腰になったり、へっぴり腰になったり、「もうやめたい」という気分になったり、「とりあえず今日はサボりたい」という気分になったりいたしますね。

 

 やる気を阻害する、苦しくて逃避したい感じや、やっていることから逃げたい感じになる心の機能を少し考えてみましょう。

 何かに対して苦しみを感じて、そこから逃げなさいという命令が心に下る機能は、なんのために私たち人間に備わっているかと考えると、野生動物たちと争いながら生活をしていたような頃でしたら、まだ分かるような気もします。

 ものすごく怖い動物がいて、それに殺されそうになったら、心はすごいショックを受けますね。むちゃくちゃ苦しい、殺されてしまうのではないか、と。

 そうやってショックを受けると、命からがら逃げることができても、しばらく心は覚えています。非常に強い、ビックリした、という強烈な刺激を心が受けますから、「あぁ死にそうになった、苦しかった! あぁ死にそうになった、苦しかった!」と何回も何回も思い出して、「そういう目には二度と遭いたくない」と強い恐怖感が染み付いてしまいます。

 すると、同じ動物に遭いそうな所にはもう絶対行きたくないとか、前と同じ行動はもう二度と繰り返したくないとか、あそこはもう絶対行きたくないと思いと思い、実際に行こうとすると、筋肉が緊張したり、その時と同じ気候条件になったら、心が勝手にその時のことを思い出して恐怖感を抱く……。

 そういう状態に陥る人ほど、危険な場所へ行かなくなったり、危険な動物に遭わないようにと、逃避行動へ出るようになりますから、危険が沢山たくさんあるような時代のことを考えてみれば、そうやって恐怖感を感じて逃げまくる人の方が生き残りやすくなることは、なんとなく分かりますね。

 

*生き延びるためのプログラムは、

 心身に強いダメージを与える

 

 多くの動物に備わっている、生き延びるための基本的なプログラムは、自分が恐怖を感じたら、すごくビックリして、とにかく嫌だから、その苦痛をなんとかしたいので、今やっていることを中断して、逃げる、ということを行うことで、生存しようとしているようにみえます。

 そのために、あらゆる動物の心に生じていることは、一回嫌な目に遭ったこと、あるいは、嫌な目に遭いそうになっただけで、その時に苦しいと感じるだけではなく、「苦しい、苦しい、苦しい、苦しい……」「もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ……」と、ずーっと心の中でエコーがかかったように何度も繰り返して残響し、それが記憶に非常に激しくこびりつくのです。

 そして、うっすらとしたエコーになって、忘れたつもりでいたことが、そのことを思い起こさせるような気候条件や、その時を連想させるような物を見たり、音を聴いたり、その時と同じような身体感覚がよみがえってきたりする都度に、そのことが無意識的に思い起こされて、なんとなく縮こまった恐怖感に駆られます。

 

 恐怖感に駆られることは、損か得かということで言えば、ある意味大損です。恐怖感に駆られて、身体が苦しい具合になります。動物であれ人間であれ、緊張して、不快物質が分泌されて、身体が破壊されます。

 身体が破壊される、すごく不快な感じによって、「これは嫌だから逃げなさい」という命令を下していて、それによって逃げることで、確かに生存できる可能性は高まるでしょうが、その際に命令を下している装置が、自分を不快にして苦しくして、ダメージを与える、ということによって、諸刃の剣のような生き延び方をしているのです。ということを見て取れるのではないでしょうか。

 野生動物でしたら、その程度の諸刃の剣で済む訳ですけれども、私たち人間、とりわけ文明が発達してきて、生き方が複雑化している人間ということをとってみますと、その同じプログラムが残存して、温存されているということは、果たして、よいことがどれくらいあるのかと考えてみますと、さほど興味のないことだったりします。

 

 もし、自分がうまくいっているはずのことを嫉妬されて、人がどこかで悪口を言ってるとすると、心はものすごく不必要にショックを受けてしまったりして、ショックを受けたことが非常に激しくこびりついて、そのことにまつわるいろんなことが、バーッと嫌な色に染まるので、すると本来頑張れていたはずのことが、急にやる気がなくなってしまったりして、「このことは恐怖である、自分に対してダメージを与えることである」と自分自身に対して刷り込まれてしまって、「ここからは逃げるべきである」という感じになってしまいます。

 

 そして、ただ逃げるだけだったらいいんですが、その際に、すごく不快になって、身体が苦しくなる神経伝達物質を分泌して、自分を責めるなど、心も少しずつ病んでいくような自己破壊的な感情を作り、苦しみを味わわされて、「これはよくない状態だから、やめて他のことをしなさい、逃げなさい、逃避しなさい」と命令されるのです。

 

*心は自分の意思とは関係なく、

 嫌なことを何度も思い出して心に刷り込む

 

 せっかく仲良くなれた相手とか、うまくいっている人間関係があっても、少し気に入らないことがあると、心が急に逃げ出したくなったり、急にその人間関係を破壊したくなるということがありえます。

 実は、破壊したくなる前に、準備段階があるのです。相手が一回、何かちょっと心ないことを言ったとしましょう。その人がつい、言ってしまったことにもかかわらず、言った内容が、自分がひどく気にしていることをたまたま突き刺してしまうような言葉だったとしましょう。

 すると、「あんなこと言われた、あぁ、嫌だ! あんなこと言われた、あぁ、嫌だ!」と何回も何回も気にして思い出すはずです。

 

 この、思い出す、という記憶の構造をみてみると、先ほど申したことがある程度証明できると思います。

 と申しますのは、例えば、人間関係でちょっと嬉しいことがあったとしましょう。「仲良くなれて、いい人間関係が築けた!あぁ、うれしいなぁ、うまくいっているなぁ」というのを、時々思い出すでしょう。

 しかし、そのことばっかり思い出して眠れなくなるとか、そのことばっかり思い出して一日中うわの空になるとか、そういうことは普通起こらないですね。

 

 ところが、ちょっと嫌なことを言われたことは、ことあるごとに思い出します。眠る前にも、何回も何回も心の中にフィードバックされて、思った回数が積み重なるにつれて、そのエネルギーは大きくなっていきますから、より強く心に刻み込まれて、何回も何回も反復されて、焼き増しされていくんですね。

 焼き増しされていく度合いがある一定値を越えると、「もうこの人のことは本当に怖い、同じ目に遭いたくないから、会わないようにしよう」とか、「会う約束をしてしまったけれど、ドタンバでキャンセルしたい」という気持ちが生じてきたりします。

 でも、それは自分で本当にその人と会わないようにしたいと思っていたかというと、もともとはよい人間関係を築きたいと思っていた可能性が高かったりするんです。

 

 けれども、心の自動的なプログラムは、「こういう目に遭ったら死んじゃうかもしれない、よくない」という筋書きを用意します。言ってしまえば、「死んじゃうかも知れない!」と、錯覚しているんですよ。

 動物に噛み殺されたらどうしようといったようなレベルで恐怖感を植え付けられていて、その恐怖感を自分の中で自動的に反復して、何度も何度も思い出しては、刷り込む。とりわけ、強い刺激で「嫌だ!」と感じたことほど、何回も何回も思い出しては、それを強く心に染み込ませて、そこから逃避する命令を出すようなプログラムがあり、装置が勝手に動いているのです。

 

 自分で嫌なことを思い出そうとして思い出しているわけではないことは、お分かりのはずでしょう。

 楽しいことだったら、その事実は見えにくくなります。自分で思い出そうと思って思い出している訳ではなくても、楽しいことだったら、「あぁ、楽しいなぁ、気持ちいいなぁ」と思っているので、それを自分で思い出しているつもりになりやすいのですけれども、嫌なことに関しては「嫌なことだから思い出したくない」と思っても、止まらない、でしょう。

 

*台本に踊らされプログラムに巻き込まれると、

 苦痛がどんどん増し、逃避衝動は強くなる

 

 止まらない時に、初めて分かるはずです。これは、『自分が』思い出しているのではなくて、一定のプログラムに従って、自動的に繰り返し繰り返し反復する装置が働いているだけなのだと。そして、その装置が繰り返し働いて、エネルギーが一定値まで溜まってしまうと、「もう嫌だ」という筋書き、台本が用意されます。

 台本を渡されたことに気付かないと、その通りにさせられてしまいます。自分の意思で、「その人のことはもう嫌だから、もう縁を切ろう」と思ったつもりでいるかも知れませんが、実際は、この生命のプログラムが勝手に心の裏で自動的にやっていることを、「あの人と縁を切るつもりになりなさい」と台本を渡されて、「はい、そうします」と、気付いたらその気になってしまいます。

 他にも、台本を渡されて、「この仕事はもううんざりだから、今日はサボりなさい」とか「もう逃げなさい」「今日はやる気が出ないまま、イライラと取り組みなさい」とか、気付いたらそういう命令が下されています。

 とにかく一回、何かのきっかけで「嫌だ!」と思ったものからは、腰が引けて、どんどんどんどん逃げて、逃げないようにしようと思っても、勝手に逃げていってしまいます。

 逃げるだけだったらまだしも、その際に用いられる装置が、「ほら、苦しいだろう、逃げなさい! ほら、苦しいだろう、逃げなさい!」という形をとっているので、そのプログラムに巻き込まれることによって、どんどんどんどん苦痛が増幅していく、というからくりがあると申さなければなりません。

 

 そして、現代社会の人間には、ものすごい自然の猛威や恐怖や危険が、周りにある訳ではありません。

 ですから、このプログラムは、はっきりいって、必要ない時の方が多いはずなのです。

 それどころか、仕事とかちょっとした人間関係に関していえば、「これは苦しいから逃げなきゃ!」というのは、必要ない時もあるというよりは、必要ない時

の方が遥かに多いですよね。そうやって嫌だという感覚に支配されずに、前向きに頑張っていれば、仕事に噛み殺されるとか、自分の努力していることに対して、雷に打たれて死ぬとか、そういうことはないからです。

 

 考えてもみれば、「苦痛が嫌だから、そこから逃げて生き延びたい」というプログラムのせいで、私たちはいろんな側面で損をしているのです。

 だいたいのことは、このプログラムに従って行われています。いま、逃避のことだけ申しましたが、必ずしもそれに限ったことではありません。

 お腹がすいてくると、お腹の辺りがちょっとチクチクした感じになって、「ほら、苦しいだろう! 食べなさい」というプログラムの命令が下って、潜在意識であらかじめ用意された台本が渡されて、「じゃあ食べよう」と気付いたらなっていたりします。

 また、これからみなさまに坐禅瞑想に取り組んでいただきますけれども、瞑想中に段々足が痛くなってくることでしょう。

 すると、特に初めて挑戦される方は、「あ、痛いな」と思い始めると、そこから心に痛みの刺激が送られて、それを感知した心が「痛い」と認識すると、自動的に情報処理を行って、「死ぬんじゃないか?」という思いも混ざりつつ、「この痛い状態を何とかしなさい!」という命令が下って、心は不快になります。

 不快になったことを媒介として、「この不快感をなんとかしたきゃ、動きなさい」ということで、動きます。

 

 あるいは、先ほど、仕事から逃避したくなるとか、人間関係から逃避したくなる、と申しましたけれども、そうやって「あー、もう嫌だ!」という気分になってくると、どんどん苦痛が増してきますね。

 すると、その精神的な苦痛も、新たな命令を下してきます。「ほら、苦しいだろう。この苦しさをなんとかしたければ、お酒を飲んでごまかしなさい」とか、「この苦しみをなんとかしたければ、とても感動する映画でも見て、その映画に夢中になることによって、とりあえず忘れなさい」とか……。

 苦しくなればなるほど、いろんな筋書きを心が勝手に用意してきて、とてもそわそわしてきて、いろんなことに手当り次第に取り組みたくなったりするんです。本来やるべきはずだったことをとりあえず放ったらかしにして、別のことに逃避したい衝動が激しくなったりします。 

 

*私たちを動かしている動力は、

 『気持ちよさ』ではなく『苦』

 

 この、私たちを基本的に動かしている動力は、『気持ちいい』ということよりも、『苦しい』ということである、ということが、お分かりになっていただけましたでしょうか?

 一日、ずーっと仕事をしていて、腰が疲れているような人が電車に乗ると、その苦痛が激しければ激しいほど、「ほら、苦しいだろう、早く座りなさい! 座りたいだろう! 座りたいだろう!」という命令が下りますので、そこで、もし満員電車に乗ると、さらに苦痛が激しくなるんです。

 「座りたいだろう!」という命令は出続けるのにも関わらず座れないので、ずーっと、「あ〜、もう! あ〜、もう!」という感じになって、その時間が非常に苦痛なものになります。

 その苦痛がさらに上乗せされるので、もっと不快な心と身体になって、ダメージが蓄積していきます。

 

 そのダメージが蓄積した分は、帳消しにできるかというと、できません。また、電車を降りた後に、その苦痛が残って心の中でわめいているせいで、「この苦痛をなんとかしたければ、○●をしなさい」という感じで、大抵自分にとって好ましい影響を与えないようなことを命令してきます。

 

 ところが、ストレスがない場合、事態は変わってくるんです。

 例えば、「坐禅瞑想に取り組んでいて、心が非常に清澄である。穏やかで落ち着いている、身体も疲れていない」という状況で、電車に乗ると、別に疲れていないので、「座りなさい」という命令は下されません。「座りなさい」という命令が下されないので、どこが空いていても、特に座る必要がありません。そして、もし、席が全部埋まっていて、満員電車でも、別に不快感を感じません。

 

 というように「座りたい」という気持ちは、『自分が』座りたいと思っているつもりかも知れませんが、実際は、背景で働いている苦痛のプログラムに、「ほら、座りたいと思いなさい」という台本を手渡されているだけで、意識が自分で座りたいと思っている訳ではありません。

 「座りたい」と思わされている訳ですが、もう一つ加えると、そう思っているおかげで、「座れるし嬉しい。もし、そう思わなくなったら、自分が座れなくなるから損するのではないか?」と考えてしまうかもしれませんが、それは間違いで、座りたいと思っていない場合に立っていても苦痛は全く生じていません。そのため、何の損もなく、むしろ、立っていて充実しているので、とても心地よいのです。

 

 もし仮に「座りたい」と思った時点で、席を得られても、その「座りたい」と思う時に、裏舞台で働いているプログラムが苦痛なので、「ほら、しんどいでしょ? 座りなさい」という命令を受けた瞬間に、「しんどいでしょ?」によって苦しみが増すので、心に苦しみが刻み込まれます。ちょっとした欲を作ることによって、自分が苦しむ。そしてそれが癖になっていく、というように仕組まれている。

 

 これが、渇いた形で解釈した業です。業が蓄積していって、抜け出せなくなっていく、ということのあり方だったりします。

 そう考えてみますと、生き物というのは、ちょっとかわいそうなんですね。生きるための基本装置が、神経を通じて苦痛をいろいろと感じさせられて、「ほら、苦しいだろう! ホッとしたければ、○●をしなさい」と命令をされる。

 ○●をしたと思ったら、「次はこれが苦しいだろう」と言われて、「次はあれをしなさい、これをしなさい……」と死ぬまで命令をされ続けながら、動かされているといます。

 ほかのあらゆる動物もそうですし、ですから、おびえていますし、ちょっとしたことで大騒ぎしますね。

 弱小な生命ほど、大騒ぎして、すごく右往左往するでしょう。より大きい動物が近づいてきたら、別に相手が自分を殺そうとする可能性がなくても、とにかく反射反応で、タタタタターッと逃げ始めたり、バタバタバタッと飛び回ったりするでしょう。

 

 その際、身体の中でものすごい苦痛が発生していて、ものすごい大混乱が生じているんです。

 そして彼らは、生き延びるためにそのプログラムが役に立っていますが、人間にいたっては役に立たない場合の方が遥かに多くて、自己破壊に繋がる、ということ。

 「苦しい」ということを何度も刷り込んで、繰り返し思い出して、そのことから心が離れないせいで、「あれ嫌だったな、あれ嫌だったな……」と一日を通して何回も自分で勝手に思い出さされてしまう。そのことによって、心と身体がひどくダメージを受けてしまう。

 

*情報をありのままに認識し、

 苦しみのプログラムから自由になる

 

 とすれば、その原始的な業のプログラムというのは、私たちを幸福にする物ではない、ということは申せるでしょう。

 苦痛に命令されて、例えば、身体のどこかがかゆかったら、「かゆいでしょう、かきなさい。苦しかったら、かきなさい」とすぐに命令が下りますね。そして、命令されて、気付いたら、その命令に従って、ぽりぽりかいていたりします。

 他にも、聞こえてくる音や見えるもの、味、温度、身体感覚などに対して、「嫌だから○●しなさい!」「まずいから○●しなさい!」「寒いから○●しなさい!」「痛いから○●しなさい!」といった心の反射反応が起こります。

 

 しかし、その命令に必ずしも従わされる必要はないということです。従うことによって、苦痛を浴びせられて、苦痛を増幅させて、癖になっていく。

 癖になることで、業が積まれていって、抜け出せなくなっていく、パターン化していく、という道のりを、別に歩まなくてもいい、ということです。

 従って、瞑想において行うことの一つは、その情報が入ってきた瞬間に、それを心が嫌だと思って反射しそうになる直前に、そこでストップする。止めてしまう。情報をただありのままに認識して、「あ、こういう情報である」と止めてしまう、ということが、心を操作すれば可能であるということです。

 

 心が外から入ってきた情報に対して、「これはこれこれこういう理由で、前にもこういうことがあったから、これは嫌なものであるッ! とても嫌なものであーるッッ!!」という風に、外から入ってきたものを、自分の中の過去の記憶のデータベースと照合して、その結果、これは好ましくないものである、という風に物語を作り上げます。

 それには、ものすごい速さですけど、ちょっと時間がかかっているんです。

 その物語を心が作り出して、自分から苦しみを生産してしまう、この物語を心が書き上げていく途中で止めてしまうためには、入ってきた情報をありのままに認知することです。

 非常に集中力を高めて、こんなことが見えている、こんなものが聞こえている、という風に、情報を入り口でよーく集中して、観察して、そこでストップしてしまう、ということが可能です。

 

 情報をありのままに入り口で感じとることによって、入ってきた情報について「これだから、ああで、こうで……」という情報処理のプロセスを心が勝手に進めてしまうことを遮断してしまう、ということをすれば、刺激がインプットされて苦痛を感じて、それに対して心が反射反応をして、「あ! 嫌だった!」と思い出し続けるのが、少しずつ壊れていきます。

 

 実は、自分が本来こうしようと思っていたのに、なんとなく嫌な気分になってくるというのは、しようとしていたことを、虎や天敵だと勘違いしているようなものなんですね。

 この仕事をやっていて、うまくいかなくなるとプライドを傷つけられて嫌な気分になるから嫌だな、というのは、仕事を虎だと思って、噛みついてくるんじゃないかと思って、勝手にできなくなっていってしまうんです。

 こういった流れを、心のプログラムを遮断することでやめていくことができます。

 そのことによって、やろうと思っていたことに対して、勝手に心が逃げていくとか、逸れていくとか、現実逃避していくという道をせき止めることができて、せき止めることができると、こうしようと思ったら、ある程度そのことをしっかりと継続していく、ということが、いろんなことに関してできるようになります。