僧の言箱
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2009年6月1日から6月3日まで、岡山県西福寺にて、禅宗の僧侶6名(プラス臨時参禅人1名)を相手に二泊三日の坐禅セッションを出講いたしました。 以下は、その二日目におこなった説法を、臨時参禅人様がテープ起こししてくださったものであります。僧侶向け説法なのでやや難しい部分もあるかも。


「無我」と「苦」の罠外し


  • 坐禅セッション in 岡山
  • 日時:2009年6月2日
  • 会場:岡山県西福寺

    では、しばしお話し申し上げましょう、修行の息抜きになるかどうか分かりませんけれども。 休憩の間にリクエストをいただきました「無我」や「十二因縁」の中における、苦、すなわち「受」=「刺激」のとらえかたについて、といったトピックでお話しいたします。

    修行をしている最中に、どんなにうまくいっていても、時として、その、「うまくいっているぞ―」 という感覚は、常に増減しており、やがて「うまくいってない」という感じになるでしょう。

    「わーい、うまくいってるー」と思っているほどに、少しでも衰えを感じますと、このときすごくガッカリします。

    ガッカリした時に、「そのガッカリしたのは自分だ」と、思っています。というより、ガッカリすると、我が激しくなります。なぜ、でしょうか。ガッカリすることによってすごく刺激が走るからです。生き物というのはある意味ガッカリしたがっていますから、すごく「わーい」という有頂天もしたがっているのですが、「わーい」もしたがっていますし、「ガッカリ」もしたがっています。どちらも刺激が走るからです、強烈に。

    刺激が走って、刺激が走ると、「タシカニ、ジブンハ、ココニ、イマ、タシカニイルゥゥーーーッ!」という刺激が走るからです。それは「修行がうまくいっていないよー」、という今この場の側面に限らず、日常生活において自分が目指していたもの、それが失敗するとものすごいガッカリします。そのものすごいガッカリするのは、怒っているわけですけれども、怒りの業がグワーっとわき上がってくると、それによって刺激が、強烈な「受」が、生じます。

    苦しみの受、が生じます。それがバリバリバリバリッと頭を刺激します。すると、「すごい強烈な刺激であーッる、この刺激を受けている自分は確かにここにいるーッ」と、意識を通じて、情報が伝達されて、「自分ッ」という感覚が生じます。

    世の中にはありとあらゆる種類の刺激、が、ありますけれども、自我に関する刺激が一番強力で、人を虜にします。一度自己卑下に陥る人達は、ずーーっと自己卑下に陥ります。なぜでしょうか。

    自分で苦しいのをある意味知っているつもり、な、はずなのに、なぜ陥るかというと、それによって、この自分を苦しめることによって、「ジブンハ、タシカニ、ココニイルーーッ」という、ものすごい強烈な実感が湧く。反対に、つい自慢話に、時として陥ってしまう、つい、「自分はうまくいっている、よくやっている、よくやっている」と。

    最近存在する世の中ではやっている成功哲学のようなものの一つに、「自分は頑張っている、自分は頑張っている、すごい出来ている」と、常に褒め続けることによって、もし出来ていなくてもとにかく褒め続けることによって自信をつけて、そうしたら成功しますよ、といったような、自己啓発系の話があった気もいたしますけれども、そうやって常に自分を褒める褒める、そして「自分は出来ているッ」という感覚を植え付ける、それも、自分はスゴイッと言うのは、これはもちろん分かりやすい話、ですけれども、自我を増強します。

    いずれにしても強い刺激が生じるようなことをすると、我というのはそれによって確かに存在しているという感じがします。ですから、一番強いのは意識でのブースターのかかった刺激ですけれども、ブースターのかからない刺激、目から入ってくる刺激、耳から入ってくる刺激、鼻、口、それから身体感覚から入ってくる刺激、刺激が少ないと、自分が存在しているという感覚が希薄になっていきます。

    だからこそ、今存在しているものの中で一番強い刺激に、制御されていない心は勝手に飛んでいきます。いま、この中で、あの辺で、花火がバーーンッと鳴ったら、だれもの意識がいきなり花火に全部行くと思います。

    それ以上強力な刺激が、今この場にないからです。見えていませんし、聞こえていませんし。ただ、頭の中にものすごい強烈な刺激があって、強力な妄想の中に閉じこもっている場合、花火がバーンと上がったくらいではそちらに行かないかもしれませんけれども。

    いずれにせよ、心がどのような仕組みで回っているかというと、単純に、今、手近にある情報の中から、基本的には、強い刺激、強い刺激、へ、勝手に飛んで行って、それにへばりつく、ということをおこなっています。

    だから、歩行禅をする。歩くというつまらない刺激、には、自然に心は、留まることは無く、そこから勝手に逃げていきます。しかし、生まれて初めて歩いた時にはそれがとても刺激的だったはずです。全然歩けない、歩くという歩き方が全然分からない、すごくドキドキしながら行う。その時はとても刺激的だったので、そこに意識が留まります。「ジブンハ、イルッ」という刺激がそれによって得られるからです。

    あるいは、いとしい人ができた時に、最初の頃、関係がとても新鮮な時、とてもドキドキします。そのドキドキ感は「うまくいかないんではないかなこの人と、うまくいかなかったらどうしよう、もし嫌われたらどうしよう」とかすごく思っているので、つまり怒っているんです、「こうなったらどうしようイヤだな」という、その、「イヤだな」という感じが実はドキドキさせています。

    そしてそのドキドキ感は実際はこの辺が苦しいですが、何故その苦しさが嬉しいかというと、そのような感情が揺れ動いていて、刺激がたくさん入って来ていて、「ジブンハ、タシカニ、ココニイル」という感覚がものすごく実感できるからです。

    しかし、翻ってみますに、この自我という刺激を修行の最中にすら絶えず作り出してしまうんです。とりわけ、他に考えることが少なくなってきますと、自我を刺激できることは、少ないです。「修行が出来てる」とか「出来てない」とかこだわるのが、すごく好きなんです、自分を高く評価したり低めたりする、というのが。

    そして、ある瞬間に出来てると思って大喜びしている、と。でも、無我、が実は見えやすいのは、出来てると思ったときより出来てないと思ったときです。なぜなら、出来てないと落ち込んでも何の得もないはずです。

    何の得もないです、それは。

    出来てない、と思って落ち込むせいで、さらにできなくなる、だけでしょう。自分が苦しむだけ、です。にもかかわらず、心は勝手に、それをするんでしょう。自分で、「ヨーシ落ち込もう」と思って落ち込む人はたぶん世界に1人もいません。「落ち込むのは楽しいな、ヘヘッ、アー今から落ち込もうエヘヘヘッ、、落ち込むと楽しいナァ」とか言って、落ち込む人は絶対にいないわけです。

    落ち込みたくない。のに、なぜ、勝手に落ち込むんでしょう。それは心の仕組み、ゆえ、なんです。落ち込むと、刺激が生じる。大量に生じる。じつは、わーい、よく出来てる、よりも、刺激が激しいでしょう、怒るほうが。「ウワッ、イヤダアァーーッ」っというのが、むちゃくちゃ刺激的、で、欲望を抑えるほどの威力があります。瞋恚には。

    だから、それを作った瞬間に、自分自身を焼く、と言われているんです。そしてその刺激が走った時に、生じているのは修行を完全に邪魔する事柄です。「我ガ、タシカニ、ココニ、アルッ」と、ほんとは無いものを「アルッ」と思いこみたい。

    ちなみになぜ「アルッ」と思いこみたいかというと、無い、からです。あるんだったら、思い込む必要はない、刺激で補強する、作り上げる必要もないんです。無いので、無いものを有ると思い込むために、その刺激が必要になります。

    しかし、そのプログラムのために私たちは犠牲にされています。苦しむんです。うまくいっていないとか、思わされてしまう。

    そうしてその時、あきらかに「念」を伴って、「今こういう心のプログラムが勝手に動いた」という風に、距離をとって見れていない限り、カチッ<手をパチンと合わせて>と同化してしまうんです、その落ち込みと。そしてその落ち込みと同化している時、「ここに確かに我がある、落ち込みは自分のものであーッる、自分が作り出している、自分が一から決意して作り出した」と、勘違いしてつかんでいるんです。

    でも、ちょっと考えたらわかることです。それよりも難しいのは、喜びに関してこれは自分のものではないと考えるのはもう少し洞察力がいることですが、やりたいことだと勘違いしているんですよ、それは。楽しいことだと思い込んでいますから。

    ただ、あからさまに苦しいことに関しては、無我が見えやすいはずです。なぜそんなことをやっているのか、やりたくないはずなのに、修行に集中しようと曲がりなりにもがんばろう、精進しようと思っているのにかかわらず。

    それを、真っ向から邪魔するようなものが、どかっといきなり現れてくる。自らの業ゆえに。そのときに分析することです、今一瞬、心が自分のどういうプロセスを経てそれが出てきたのか、一瞬、自分の進捗状況を気にする、今どれくらいかな、ということを、認識が、ビンニャーナvi???na、識がパッと認識する。

    認識するきっかけは何だったでしょうか。ヒマ、です。「暇だなー」と、一瞬気がゆるんで、無智の業が働いて、智慧が消滅したからです。

    集中して、明らかにその何かに今の現象を観ている、ということを止めて、これは退屈だ、ふっと消えた瞬間に、さっとどこかに飛んで行ってしまう、先が、業の必然性によって、その自分の進捗状況というものをパッと気にしている。

    パッと気にしたことによって、それが今、どの程度のものであって、どういう水準のものであるのか、という判断をするということを自らの記憶を照合して認識する、サンニャーsa???、想蘊が、働きます。

    そうして、一瞬のちにそれによって苦を感じ、刺激が生じます、ビリビリビリッっと、苦しいッ、自分はダメである。そして、その刺激に対して怒りが生じます。「こんなものはウンザリだーッ」、と。そして、これは刺激のブースター装置です。

    ウンザリだーッ、っと思ったものを、再び自己認識して、「ウ、ン、ザ、リ、だーーーッ」によって、それによって、次の「受」すなわち刺激が生じます。ものすごくさらに加速された激しい刺激、イヤダッという苦しい刺激、が、です。

    そして、それによって、自我が捏造されます。「こんなに苦しんでいる自分が確かにいるッ」、ということです。現代人、は、存在しないはずの自我を作るために、やっきになって、ものすごく刺激的な音楽、昔よりもどんどん刺激的になってきています、そういうものに身を浸し、どんどん刺激的になってきている映画に身を浸し、どんどん刺激的になってきているマンガに身を浸し。

    世の中を見渡しているとどんどん過激になってきていますし、とりわけ、自我の不幸とか、自我の内面の苦しみのぐちゃぐちゃのようなものをひたすらディープに描くといったようなものが、一定の人気を保って世の中に存在しています。とても自我を刺激します。

    しかし、その正体は見破れるんです、とりわけやりたくないはずのことが生じた時は、です。日常生活のレベルでいえば、お酒をやめたいのに、やめられない人がいる、たばこをやめようと思ってもやめられない、とか、あの人のことを、嫌いになりたいのにどうしても好きになってしまう。

    操縦できない時に、あからさまに、少し、実は、垣間見られます、無我、というのが。「あれ、なんで、これは明らかにおかしい、本当にこれは自分でやっているんだろうか、何かに仕組まれているのではないか、自分は操られているのではないか」と、洞察するチャンスが、ありえます。

    とりわけ、ただそれは、日常的な意識状態でそのようなことを思ってもなんとなく「意見」として、「見」の煩悩として思うだけです。「ああ、なるほどね、無我かもねー」とか、「そう考ることのできた自分はちょっと、気の利いた意見を考えた立派な人間であーッる」と思い込むだけで、大して意味はありません。

    それによって人格がぱーーンッと変わって、聖者に、いきなり預流果の悟りに至るとか、そういうことはありえません。ただ、瞑想状態の、明敏な意識状態でならある程度追いかけることができるはずです。今どういう仕組みでササササッと心が動いたのか。五蘊を見つめることです。ちなみにそれは、明日、五蘊の観察、は、やりますけれども。

    なにを認識したのか、そして、どのような記憶が疼いたのか、そして、それによって快か苦、どのような刺激が、心の中で編集されて偽造されたのか。そしてそれに基づいて、どのような衝動的な行、サンカーラsankh?ra、が、突出してきているのか、その流れを観るということ。

    すると、気付くことは、その、「今の修行がどれくらい進んでいるのか、今から考えよウゥッ」、と、意図して、確実に契約書にサインして、「ハイ、ワタクシハ、イマカラ、ワタクシノ、シンチョクジョウキョウニツイテ、カンガエルコトニイタシマス。タシカニ、ワタクシハ、意思シマス、ゼッタイデス」、と、まるでブッダン・サラナン・ガッチャーミ、ドゥティヤンピ(二度)、タティヤンピ(三度)、というように、しかもそれをドゥティヤンピ、二度誓って確かに私はそれをやります、タティヤンピ、三度誓いますッ、と、誓って、始めた訳では決してないはずで、一瞬にして、意識が勝手にそれを取っていたはずです。

    気付いたら、それについて考えています。そして、一瞬にして、自分の記憶が、ザーーッと疼いて、勝手にそれが苦であると決めつけています。そして、勝手に、気付いたらそれに対して怒っています。「ウワッなんて嫌なんだ」と。

    ですから、この、我を作り出す装置である刺激そのもの、で、あるんですが、それを逆手にとれば、ある意味、その構造を完全に解体してしまうことも叶うんです。我を捏造するための、その、ビリビリの刺激、「あ、しようがない…、あ、でもなんでそんなことを…、あ、そうか、このような流れが勝手に生じた、ということは、単に、五蘊の流れが勝手に働いているだけで、自分で操作できた面は、一点たりともないではないか、ガーーーーーンッ、うッそだろーーーッ、全然どこにも自分はいないじゃないか」と、いうショックが生じます。明晰に、洞察したら、ですけれどもね。

    そのショックが、固い我、我の銅像です、それを壊します。すこしヒビを入れてくれることができます。しかし固いとは言っても、実はそれは脆いんです。本当は存在しないものを、様々な刺激を仕入れることによって、強引に作り上げているものだからです。

    とはいえ、今申し上げたことには若干の嘘があって、と、申しますのは、すべてことが生じた後に、アー苦しいッ、と思っている時に、あとから、あとから考えてみて、「ああ、そうか、認識して、それで記憶を参照して、あ、苦しみを感じて、ああ、なるほどこういうことか」と、分析的に考えて、知識でなるほど、と思っても、多少は、我に、ショックは与えられますが、大して影響は与えないんです。

    実際に影響を与えるためには、現行犯逮捕をしなければならないんです。その、ビンニャーナvi???naが、ものすごい高速で動いているのに追い付くくらいの、定力が必要、です。だから、禅定が必要、色界の禅定が必要なのですけれども。すると、識がこれを取ったッという瞬間が見えます。そして、それに応じて、記憶がばーーーッと、それに類似した記憶が、ばーーーーッと洗いざらい、勝手に連鎖して現れてくるのが見えます。

    たとえば最近見たもので面白かったのは、なんだったかな、少し度忘れしてしまったんですが、ちょっと、それそのものではなくて、似たようなたとえ、という感じです。たとえば、面白い、何かについて一瞬面白い、と感じたら、その思考の周辺に、面白かったなぁ、とか、面白いはずやでェ、とか、面白かったっちゃ、とか、面白かったやんかー、とか、すごい別の、言い方で、それに似たようなことがずらずらずらずらずらーーーッと、勝手に並んで、わーーーーーッと展開して、それが音として響いている、といったようなことが、生じます。その一つの現象を見つめていたら、心がそれに似たようなものをずらーーーーッと参照します。

    あるいは、こんなこともあります。何かについて、それ強引だなぁ、という風にある日、思いました。そして、「強引だなぁと思っている」感情を瞑想により対象化しました。するとその感情の周辺に連想ゲームのように、強引なことをした人の映像ですとか、そんな強引なことをしてはいけないだろうと私が思っていることのリストのようなものがずらずらずらーーーッと、並ぶのです。

    そうやって並んだ物の一つで面白かったのが、福田和也という名の文芸評論家がいて、私はそんなにその人について詳しいわけではないんですが、その人が、何かの台があって、台の上にキャベツが置かれていて、そして、「強引というのはこういうことだろうッ」とか、その人が言いながら、キャベツに頭突きをして、キャベツが転がり落ちる、という映像が一瞬だけピッと出て、ピッと消える、という。

    たった「強引だろう」と思っているだけのことでも、たとえばそういったおかしな思考が潜在意識で連鎖して、自分の心の中で動いているんですけれども。膨大な量の記憶が、参照されて、その中から、「あ、これはこういうことだと決めておこう」というような心の働きが、実際は生じています。それらを、参照してしか、快か苦か、というのは、実は決まらない。

    それを現行犯で逮捕した時に、ものすごいショックを受けます、はっきり言って。「ウワァ勝手に心が今この瞬間にこれを取りに行って、しかも、勝手に、あれ、なんで、こんな関係ない、関係なさそうな、あ、でも確かに関係あるけど、どう考えても関係なさそうな情報が、勝手にいっぱい浮かび上がって来ていて、そして、それによって、勝手に快苦が決まっていて、うわ、そして感情が勝手に出てくるし、その感情からまた勝手に何かが連想ゲームが始まって、、うわ、置いてけぼりー、ですかッ」

    というよりか、置いてけぼりにされるという私というのはそもそも、いるんですか、という話なんですが、「置いてけぼりですかーッ」と感じた時に、「あ、勝手に、置いてけぼりですかーッて考え始めている」、つまり、置いてけぼりですか、と、これから考えます、と、契約したわけでもないのに、勝手にそういう反応が出て来て、あ、置いてけぼりですか、といって自我が無い、という認識をしているつもりなのに、置いてけぼりですか、というショックを受けることで、それもそこに我を見出そうとして、そこにつかもうとしている、「うわー、それも勝手にまた罠に引っ掛かろうとしている」。

    「でも、その、『うわー』、もまた勝手に」という感じで、それらが次々に現れてくるものが全部ほんとに勝手に自動的に動いている、というのを、まざまざと、一個一個突きつけられた時に、本当にショックを受けます。なぜ、ショックを受けるかというと、イヤ、なんですよね、正直言って。無我、という事実は。

    どれだけわかったつもりでなっていても、無我ということについていろいろ学んで、分かったつもりになっていても、「それを分かっている自分がいて、嬉しい、自分が確かにここにいる」という感じが、実際は抜けないんです、全然抜けない。

    色界禅定に入ったら一時的に抜けるでしょうけれども、あれは集中力によって、一つのことしか意識しない、もしくはすべてを消す、ということによって、一時的に煩悩を抑圧しているだけの話ですから、それが終わったら、確実にまた我があるという意識が生じてきます。ですから、無我、ということを認識するためには、実際は、五蘊の流れを見るか、五蘊そのものでないにしても、心の流れをそれらを勝手に動いている、自分の制御を完全に離れている、ということをまざまざと見せつけられてショックを受けざるを得ない。

    なぜショックを受けるのか、という話だったんですが、どこまでいっても、そういう、「これこれしている、ジ、ブ、ン、ガ、イ、ルーーッ」というところに、反転させる、無我についての洞察ですら、「それを理解している素晴らしい、ワ、タ、シ、ガ、イ、ルッ」という刺激に転換してしまうという、恐ろしく人間を縛りつけている絶対外せない、と言っていいくらいの、南京錠がものすごい、何重にもかかっているような、ロックを、丁寧に外していかない限りたどり着けない、ほど、執着していて、ものすごい好きなんです、我、というのが。

    どんなに慈悲とか口先で言ってみても全く無駄なぐらい、ものすごい我が好きなんです。

    だからこそ、ショックを受けます。ほんとうに無我、なんだということの片鱗を見せらせると。しかし、一瞬、五蘊の流れをザーーーッと、バーーーッとみて、実際、しかも現行犯で見て、すごいショックを受けますが、そのショックを受けただけでもまだ、我が残っている、全然消えません、なかなか消えません。

    たしかに、ウワーッと思うんですが、でも、今の一連の現象は無我だったけれども、他のすべてが無我だとは限らないという、印象が、どこまでも残るんです。こういうのが見えてくると確かに無我かもしれないという印象がだいぶ強くなってきて、すごい精進もパワーアップしてきて、全部見切るぞッ、という感じに、なって、食らいつくぞッという感じにはなってくるんですが、いろいろ観察しても、どこまでいっても百個見ても、二百個見ても、一億個見ても、一億一個目は違うんじゃないかもしれないじゃないか、という感じがどこまでも残るんです、いつまでも残ります。

    ただ、どんどんスピードアップしていくんです。ものすごいスピードで起きているので、ずーーッと見続けて間断無くそのことばかり見続けたら、ボディブローを受け続けます。うわ、ほんとに無い、ほんとに無い、あれ、うわーッ、ほんとに無い、と思って、本当に無いという認識が生じて、それに我がしがみ付いたが、それも勝手にしがみついた。という、具合に、うゎ、うゎ、うゎ、ッと、すごいスピードでそれを浴び続けると、本当にぱーーんッとはじけます、ある時。

    つまり、理論的には「そうじゃないのもあるかもしれない」というのは、留保されるはずなんですが、あまりにも猛スピードで認識しつづけて、それがショックを与えつづけるのが臨界点に達すると、はじけ飛びます。

    こういったお話は、経典とか、理論だとかに、かならずしも基づかない、修行内部、の、話ですけれども、これは確かに、実感を持ってお伝えすることができることです。ですから、無我ということについてどれだけ学んでも、ほとんど無駄です。ほとんど無駄というより、やらない方がいいくらいです。すごく分かったつもりになるからです。

    学ぶ、ということは常に「それを分かっている自分」という、慢心を生じさせて、名利を求める心と、自分を安心させます、それがわかった、ということで。精進させる気持ちを萎えさせます。

    日本の仏教は、無常、苦、無我、ということを、お題目にしてしまっている、きらいがあって、どのように修行の内容と結びついているのかというのが、とても分かりづらくなってしまっている気がいたします。

    その、裏面で、無常、苦、無我、ということに対しての理論的な体系についてはものすごく多くが語られていると思います。しかし修行の中でどう体現していくかということは、それと反比例するように薄くなってしまっているような、気がいたします。

    翻ってみるに、達磨大師のことは私がよく存じ上げているわけではありませんが、達磨大師こそは、経典や教理を完全にかなぐり捨てたお方だったはずです。禅宗というのは、もともと、禅とはジャーナjh?na、ゼンナ、から来ている言葉だと思いますけれども、単純に、瞑想宗、という、意味でしょう、それは。瞑想する宗派、という、旗印です。

    中国の仏教が経典をすごく重んじて、ありがたがっていた。達磨大師が経典ではなくて、瞑想をしなさい、瞑想の宗派である、と、宣言したのでしょう。修行しなければ、絶対に体得できることではありません。

    そして翻って、その刺激の話から、今度は、その、わたくしが、理論的なこと、と、申し上げたことに、若干入るきらいは有るかもしれませんけれども、十二因縁についての話を申しあげましょう。

    十二因縁の中で、非常にカギになるポイントは、受、というポイント、です。七つ目にあたりますでしょうか。五つ目に六処、六つ目に触、そして、七つ目に、受、があります。受、は、感受作用などというと、何のことやらよくわからない感じになってしまうかもしれませんけれども、私が、使い慣れている言葉で申しあげますと、単純に、刺激、という言葉です。

    六処、六つの門に現象が触れ、現象が触れると、触れることによって必ず刺激が発生するということ、そして刺激が発生すると自我が発生する、発生するというよりは、自我があるような錯覚が生じる。

    刺激が全くない時、自我というのは無いような感じになります。禅定に入った時刺激が消滅します、故にその時自我が無いような気がします。しかし、、、、さきほどの、たとえに戻りますと、ある時、急に刺激が欲しくなる。

    先に、「刺激がほしい」というのが先行しています。自分はうまく出来てないんじゃないろうか、と、落ち込む前に、刺激が欲しい、が、先行しています。その直前までは、ひょっとすると、ある程度集中していたかもしれません、集中が崩れかけます、崩れかける時に心はどうしているかというと、刺激を求めて暴れ始めている。

    集中の反対は混乱、悼挙、です。統一されておらず、びくびくとあちら行ったりこちら行ったりしはじめます。そのほうが刺激的です。いろんな情報に飛ぶことができるからです。そしてその刺激的な情報を求め始めると統一が壊れます。

    壊れたのに対してそれを認知して、「自分はうまく出来ていない」、という風に感じる。これは心の罠に完全に、引っ掛かっているんです。まず乱れ始めることで、一段階目の刺激が得られます。そしてそれに対してさらに評価を加えることによって、さらに強い刺激が、ブースターがかかるんです、よ。

    それによって、心を陶冶しようとしているのを心がものすごく邪魔をすることができた、大成功だ、という感じ、です。現在の自分の進捗状況という情報が、意識を通じて、これは頭の中、内部での問題ですけれども、触、触れる、意識、意根に、厳密に申し上げますと、意根に、法、が、法境が触れて、意識が成立する、わけですね。

    「自分、は、うまく出来ていないのではないか」という意識が、成立して、そうして、それによって、感受作用が生まれる。ドゥッカdukkha、苦しみである、苦の受、が生じる。ビリビリビリッ、クルシイっ、という受が生じる。すると渇愛が自動的に連鎖します。この場合の渇愛は無きものにしたい、という、破壊衝動です。この現状、イヤダァァァーーーという状況に対して、掴みかかっていくんです。単に手放せば消えるのに、手放さずに、思い切りつかみかかるんです、自分から。オマエ、何でこんなに嫌な感じなんだッーーーと、すごい執着しているんです、渇愛によって。

    そしてこれは、強い執着を形成します。取、ウパーダーナup?d?na 、を、形成します。ところで、この流れ、たいていこの、触から後の話は、一般的に分かりやすい話だと思うのですが、分かりにくい話をすると、この触の前ですね、名色、ナーマルーパn?ma-r?pa、あるいはナーマルーパ、の前の、識、ビンニャーナvi???naが働くとき、その前のサンカーラsa?kh?ra、衝動的な形成力が働くとき、そしてアビッジャーaviji?、無明が働くとき。無明ゆえ、ある瞬間に急に衝動が湧きあがってきます。

    私たちがこうしよう、と考える一瞬前に、ピリピリしたものが意識とともに、身体の中で機能し始めます。その、ピリピリしたエネルギーの流れ、の、ような、段階、これが名色、にあたるものだと、私は思っています。それ、が、決定します。自分が何を認識したいのか、と、いうことを。

    心の中を見つめていると、さっきのキャベツを、評論家が頭突きをして落とすみたいなやつが、いっぱいちらちら情報処理の中に実際は混ざっています。瞬間瞬間隙間に混ざっていて、一瞬だけ、実は何かをしようとする前に、そのイメージだとかが、先にずーっと、入っていたりします。これは最近の科学、認知神経科学、に、おける、サブリミナルの研究において、少しずつ明らかになってきているような感じはあるようですけれども。自分はある特定のことだけを考えているつもりでも、昨日からお話ししている言葉でいえば、エコーがかかっているみたいに、認識できない感じに、チラチラチラっていろんな情報が混じって、いろんな映像とか、いろんな音とか、そしてその、チラチラ混ざっているのが、比較的何度も時々スッスッと入ってきて、繰り返されたものに関しては、あ、そうしようかな、という気分がだんだん強まってきます。塵も積もれば、といったように。

    ナーマルーパ、と、いうような次元は、このぐらいの、ほとんど認識できないような、チラチラっとした、情報とそれに応じて生じている身体の刺激、の、ようなものです。仏教学的に、正しいって、言ってもらえるかよく分かりませんけれども。

    名色、「名」=精神作用と、「色」=物質作用、あわせて五蘊のことといってもいいと思うのですけれども、猛烈な速度で、起きている五蘊の流れ、を観ると、こんな風に生成しているわけです。

    その、心の流れが一瞬で生じて、それと同時に結びつくようにして身体にピリピリした微細な反応が生じていて、それ、ゆえに、何かを、その瞬間、ピリピリしたものゆえに「何か嫌なものを聞いて怒りたい」という気分になっていたら、音が聞こえます。その時特に音が気になります。どこかの音がすごいいっぱい気になって、うわ、イヤだなイヤだなイヤだな、とそれにばかり心がへばりつきます。

    あるいは、好ましいものが見たい、という衝動があったときには、今見える視界から、とても自分の興味を持てそうなものに、意識がパッと、飛んで行って、それを気付いたら見ています。他のことはある程度うっちゃっておいて、そこにフォーカスします。

    ですから、その識が、あ、自分の進捗状況はどうかな、と、考える一瞬前に、名色、が働いていて、そういう自分のことに関して考える刺激が欲しい、といったような情報が、考えの中に一瞬だけ混ざっていたりするんです。

    それゆえに、気付いたらそれを認識させられてしまっている。そしてそのナーマルーパの働き、言いかえれば名色、五蘊の働き、は、どのように生じているかというと、色受想行識、識、ビンニャーナ、意識の方の識、そして、想蘊、記憶の集積体、概念化する作用、といってもいいですが、そして感受作用、刺激、そしてそれによって衝動的な流れが、煩悩が生じるという流れ、それがものすごい速度で起きる、のは、業に基づいています。業に基づいて、こういうものに、これを認識しよう、ということが、ササササっと決まってしまいます。

    ゆえに、無明ゆえに、衝動的な力が、ある、というのが最初にある。この衝動的な力、というのは自分の中に蓄積されているものにほかなりません。貪瞋癡、です。そのようにして、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、と、一瞬にして、0.000001秒もかからずに、そこまで行ってしまいます。

    そして、ある程度日常的意識、でも、集中すれば止めれるのはこの、流れを、ずーーッと進めさせてしまうのを止めることができる、とても、決定的なポイントが、この、受、刺激、というところです。

    いろんな刺激が入ってきます、六門から。ああ、美人だ、とか、ウワ―あの人はブサイクだ、あの化粧は嫌な感じだ、とか、あの人の表情はいやだ、というようなものから始めて、この音は好ましい、あれは大嫌いな音だ、こんなのは聞きたくない、いい香りだ、臭い、おいしい、まずい、心地良いなー、ザラザラして嫌な感じだ、アツイッ、嫌な感じだ、寒い、嫌な感じだ、ということ、と、そして刺激のブースターとしての意識の中での思考の回転。

    それらによって、刺激が発生しているということに気づく、気付いて、「念」を打ち込む。「今こうなっている、なるほどコウナッテイルッ」と、情報を入り口で止める。止めるというのは集中して感じ取る、徹底的に感じ取る、ことによって、入り口で止まります。

    入ってきた入り口で、門のところで止まります。止まるとそれに、徹底的に感じている間は、それに、ついて、「ダ、カ、ラ、ナ、ン、ダ」という思考をすることができなくなります。情報処理をそれ以上進められなくなります。

    なぜなら、感じることと考えることは両立しないからです。身識が働いているその一瞬間、微妙な一須臾において、意識は働くことができません。耳識が徹底的に働いて、そこに、それが働いている瞬間、意識は働くことができません。反対に意識が働いている時に、他の識は働きません。というよりは、識はひとつ、しかありません。ある六識のうちの一つの形で機能している、その瞬間は、他の識は全部消えます。他の識は消えるというよりは、他の機能を遂行することはできないから、です。

    ですから、入り口で止めることです。その、感じているものを、徹底的に感じ、味わえば、それについて、「ダ、カ、ラ、欲しいー」とか、「ダカラ嫌だ」と考える余地が無くなります。痛みがある、痛いからいやだ、というのは完全な誤解です。あるいは、痛いイコールいやだ、と思っている俗世間的な思考は、完全な誤解です。

    痛い、という刺激が入ってくることと、「だからいやだ」と思うことの間には、時間差があるからです。刺激と、それに対する情報処理、プロセス、です。刺激そのもので止めて、徹底的に感じ取り、そのなかに没入すれば、情報処理が止まります。

    「ただの痛みである、刺激である、アア、刺激だなぁ」しかも徹底的に感じれば、その刺激が、プツプツしたものに細分化されていきます。本当は、プツプツした信号にすぎません。それをまとめて、大雑把に、固めたものを認識してしまっていますから水増しして痛く感じられます。しかし、細かくばらせば、ただの刺激です、プツプツした神経信号にすぎません。全然気になりません。徹底的に感じれば執着は消滅します。渇愛は消滅します。

    渇愛を一回一回消滅させていくと、なにが起きるでしょうか。毎回、ある情報の刺激が入ると、それに対してこういう反応をする、という人それぞれ業に応じて反応パターンのようなものが成立しています。執着とはこの反応パターンのことにほかなりません。

    すなわち、受、の次に渇愛が来て、その次に執着が来る理由は、渇愛が繰り返されることによって、似たようなものに対して、似たような怒りや、似たような欲望を繰り返すことによって、徐々に、あ、これ、心が覚えるんです。こういうパターンで、心を動かせば、刺激がたくさんブースターにかかって生じるんだな、と、覚えて、ウワッ刺激的だ、刺激的だ、とエコーがかかってどんどんパターン化していく、そしてパターン化した時点で、執着といわれるものになるわけです。

    そのようにしか反応できないと、いう、すごいしがみついている、と、その自分のただ貪欲をつくるだけ、ただ怒りを作るだけでなくて、貪欲を作る自分に執着する。こういうのが自分である、これが自分の性格である、怒る、こういうものに対しては批判する、ケチをつける、それは正しいことである、と、執着して、ただ一回ついやってしまうのではなくて、「これが自分でアルッ」と、すごく執着する、ことによって、抜け出られなくなるんです。

    ただし、それが出てきそうになる時、入口で止める、と何が生じるかというと、あ、このパターンでは刺激が生じないんだ、と心が覚えます。これではこの人を罠にかけて自我がある、と錯覚させることはできない、ま、擬人的に心のプログラムを表現するとですね、そう、なりますね。そのことによって、入り口で止めるということを繰り返していくに従って、徐々に反応パターンが抜け落ちていきます。決まった定式でそれに対して反応する、ということが。

    先ほど、おひと方からご質問があって、「坐禅中にどうしても足が痛くなってしまうんです」というご質問でした。「本当にずっと痛くなるんですか、念じていても消えませんか」と尋ねたら、「いえ、一瞬だけ消すことが時々できます、念を向けていたら、二秒くらい消えます」と、おっしゃいました。

    「では、その二秒くらい消えた後に、どういう条件で、痛さが戻ってくるかということに気づいておられますか」と、尋ねてみました。それも気づいておられました。「消えた後に、あーよかった、消えた、とほっとする、と、その後、その瞬間に戻ってきてしまいます」と、おっしゃっていました。

    それが、反応パターンなんです。すごくイヤだーッ、と怒っています。なんとかその怒りを鎮めた上で念じます、念じて、消すことができます。しかし、嫌なものが消えるとすごく嬉しくてしょうがないッという反応をついしてしまう。大喜びをしてしまう。たかだか、その程度のことで。そういう反応パターンが、人には染みついています。そういう時に、「じゃあ、喜ばないようにしようッ」と決意しても、まぁったく無駄なんです。

    反応パターンとしてものすごく強烈な執着が臓腑に染みついている、腑に落ちているんです。にもかかわらず、頭で、知識で、ああ、これはだめだからやめておこう、とか思っても、まったく腑に落ちないん、です。

    この反応パターンを抜け落ちさせるためには、何をすべきか、というと、現行犯で逮捕するしか、ないん、です。その、自分のありのままの、そのありさまを。もう一度繰り返すことです。その、痛みが出てくる、念じる、その中に徹底的にダイブしてみる、すると、サーーッと、消えていく。そして、ワーッと喜ぶ、「あ、よし、出てきた、この反応パターン、私の根深い反応パターン、こういうのに大喜びする、喜んでいる、欲がものすごく強烈にわき上がってきている」と。その有り様に対して「念」をさっとその瞬間に、差し向けます。

    現行犯じゃないとだめです。喜び終わった後に、「あーあ、ついつい喜んじゃったよー」と、いうのは、ただの後悔の煩悩です。そうじゃなくって、出てきている瞬間に突きます。貪欲、貪欲、貪欲、貪欲、貪欲、貪欲、貪欲がでてきている、ことよなー、そうやって自分を波立たせてしまっていることよなー、するとスーーッとその貪欲が、解消されていきます。

    一回解消しただけでは、実は、根深い反応パターンは消えません。しかし、弱まります。そしてまた出てきます。貪欲の似たようなパターンが。また、そのでてきた瞬間の刺激において、あ、刺激、その喜んでいるのは刺激的です、ワーーッて喜んでいる、刺激が生じています。あ、刺激を生じさせている、という観点から念じます。自我を捏造しています。

    すると、「あーバカバカしい」、消えていきます。それを、やがて繰り返しているうちに、この反応パターンが抜け落ちていきます。その、執着の、形成するために、何度もこれまで繰り返されて、増幅されてきた、幼少時からのパターン、ずーーッと溜まってきた渇愛、のパターン、それが一回一回消されていくからです。

    そしてある程度まで消された時点でそれはもう執着ではなくなります。ちなみに、執着の中で、非常に強固な執着、もっとも本人にとって執着、として、強固なもの、執着が、有、バワbhavaといわれるものに、なり、それは世の中で、アイデンティティなどといって、もてはやされているものともなりましょう。もっとも、抜け落としがたい、もっとも体をこわばらし、体の中のどこかに非常に気付かない所に強烈な苦痛を内蔵させているような、そういうエネルギーを生じさせかねません。

    しかしそれら全ては刺激のトリック、ニューロンを通じてチクチクする苦痛の刺激を、インプットし続ける、ことによって、確かに存在する、そして存在しているからよかった、と思わせて、おくことを土台に、この生命、生き物、私達という生き物に、いろいろ命令を与えて、次から次に「刺激が欲しいだろう、これはこうしなさい、この刺激が欲しいだろう、あの刺激が欲しいだろう、こうしなさい、ああしなさい」と、絶えず命令してむち打ち、刺激を与え、ビリビリビリッと脳に電極を刺すような刺激を与え、そして、走らせる、走らせる、走らせる。というしくみ、ゆえに、生じていること、に、ほかなりません。

    その刺激が、全部苦しみのチクチクする、これも現代科学でニューロンが伝達できる、神経物質が伝達ができる情報は、苦痛、痛みしかない、ということが、証明されましたでしょう、数年前に。それはまさに、仏教の一切行苦ということを裏書きしているわけですけれども、脳が変換する前のリアルな情報そのものは、苦の信号しかないわけです。

    それを組み合わせて、あ、これは快だ、これは苦だ、とか、仕分けしているだけなんです。本当は苦しか存在していないにもかかわらず、それを変換するプログラムを埋め込まれていて、そのプログラムに騙され続けながら、すごい刺激を求めて、自我、自我、自我、と、無いものを追い求め続けながら、動かされて、なんのためでしょうか、種の保存のためですか。グループの拡大のためですか。戦争をして、国を繁栄させるためですか。

    それはよく分かりませんが、ともあれ、その我が増長していくことによって、さまざまな争いと、不和と、不幸が生じるんです。しかしその不幸を通じて、ものすごい我が大きいグループほど、勝利します。繁栄します。しかし、グループが繁栄したり、種が繁栄したりしても、個体は何の得もしません。個体に起きているのは苦の信号が増え続けるだけだから、です。

    種の保存などというDNAのためだかなんだか分かりませんが、何の役にも立たないような事柄、個体にとっては、何の役にも、頭ではそれはいいことだ、と個体も思うかもしれませんが、それも単なる苦の刺激にすぎません。個体はつまりそうやって、苦を味わうだけでありますのに、そんな罠にはめられているんです。

    過去のもろもろの業に駆られながら、絶えず情報をインプットして、より強い刺激、より強い刺激、特に自我に関する刺激、そうしてそれを繰り返すことでパターン化していって、より強固にしていく。そして、苦しみを、増していく。

    そして、ただ、それがただ、そのまま生のままの苦しみとして感じられてしまうようなかたちで、生命が存在していたらどうなるでしょう。一瞬にして、そんなことは、やりたくなくなるに決まっているんです。

    だから餌として、その信号を快楽に作り替える、情報変換装置が組み込まれてしまっています。これこそが罠ですよ。組み込まれてしまっているといっても、別に、創造神、神が、我こそは神であるとかいって、私たちに組み込んだ訳ではありません。勝手にただ、そうなっているだけなんです。

    なぜだか分かりませんけれども、そうなってしまっている。とても滑稽なことです。自分をだますためのプログラムが、埋め込まれているんです。苦の信号を常にプログラムで変換し続けて、あ、これは快楽である、すごくうれしいッ、ドキドキして、ウワーーッて喜んでいる、でも、ウワーーッて喜んでいる時、何が起きているか、興奮して、血が逆流したり、神経毒、ノルアドレナリン、アドレナリン、も、毒ですよ。すごい疲れます。起こった時に出るノルアドレナリンが、毒なのは明らかですけれども、興奮物質のアドレナリンも、毒ですよ、神経毒です。その瞬間だけ元気になりますが、あくまでも疲労物質ですので、あとで、ぐったりします。神経毒を出して、そして、ドキドキさせて、呼吸を浅くさせて、自分を苦しめている。

    頭はそれを、やってきた刺激を、刺激がたくさん来た、これは快である、ということにしておこう、と、変換する装置が、あるんです。

    ちょっと物語的にいえば、ですけれども、この、人間という生き物に、真実が分かったら、この人たちは、自己保存のためにあくせく争ったりしてくれないだろう、あくせく欲や怒りによって、駆り立てられてくれないだろう、それが苦であることがばれてしまったら、それができなくなるだろう、だから、それがばれないように、何重にもロックをかけて、南京錠をかけて、我が存在しないということをばれないようにして、何重にもロックをかけておこう、本当は苦の刺激しかない、ということも、何重にもロックをかけて、おこう。

    無我ということがばれそうになっても、無我ということがわかった、ということで我の刺激が得られて、再び、我と苦のゲームの中に、呑み込まれていくようにしかけておこう、といった塩梅に、ものすごい何重にもロックが掛かっています。

    このロックを完全に解除するのは非常に難しいです。ある程度のところまで、決定的に解除して、これ以上ここからもう戻れない、というところまで解除することは、できます。しかし、そこまで解除しても、まだ先が、あります。まだまだ変換してしまうからです。そしてそれ以上進むのは非常に困難です。

    瞑想状態において変換装置を停止できても、日常生活の中で、時として変換してしまいます。うわっ、うわっ、しょっちゅう騙されます。それぐらい手ごわい、何重にも、ロックが掛かっている。

    この苦しみである、ということが、分からない、という無明。我は存在しない、ということが、何重にも隠されている、という無明。隠されているというより、単に、自分が分かっていない、というだけ、ですけれども、物語的にいうと、なんとなく身につまされる気がいたしませんか。

    無我だということが分かって、自由自在に、なってしまう、一切皆苦ということが分かって、とても自由自在になってしまう、それを、そうさせないようにしよう、というような、罠が、なんだか知らないけれども、かかっているんですよ。

    『マトリックス』というハリウッドの映画があったことが、それに合わせて思い起こされることですけれども、それ自体も刺激的な娯楽、ですよ。『マトリックス』という映画で、人間が全員、変な機械の装置の中につながれていて、パイプから、機会が支配する世界、だったかな、もうすごい昔に見たものなので、よく覚えていないんですけれども、チューブがつながっていて、その生きている人間から、栄養分みたいなものを吸い取って、その栄養分で機械が栄養にして生きている、機械の動力にして機械がその世界を支配していて、人間は一人たりとも、普通に外を歩いていなくて、みんなその、チューブにつながれている。ただ、人間がその現実を知ったら、自殺してしまうかも知れなくて困るので、夢を見させておく、とても幸せな、ハッピーな現実を生きているという物語の夢を見させておくといったような、世界観で、この世界設定自体はなかなかハリウッド映画にしては良く出来ているなー、という感じの印象があった気がいたします。

    物語の内容自体は、ま、主人公が、そのだまされているのから立ち上がって、そのチューブを外して、外すと、でも、すごい、荒涼とした世界が広がっているんです、機械が支配している何の楽しみもないようなひどい世界、むちゃくちゃな世界、が、広がっていて、言ってしまえば、世界大戦後の荒廃した世界のようなものが広がっていて、絶望的な、人が全然いない世界なんですけれども、それで、仲間のうちのいくつかは、一緒に戦っているうちに、機械に説得されて、いや、こんな世界で生きているよりは、夢をもう一回見させてもらって、「よし、おまえには一番幸せな夢を見させてやる」とかいわれて、「ああ、そのほうがいいです」とかいって、裏切っちゃう人とかでてくる中で、主人公は決然と機械と戦う、みたいな、まあ、結局その、ハリウッド的な戦う映画なんですけれども、ええ、それも思い起こされはいたしませんでしょうか。

    真実を知る、ということは、非常に、自分が思い描いている、素晴らしいようなことを、徹底的に裏切るような、ことです。しかしその、南京錠を開けるショックとともに、でないとなかなか、この自分を苦しめる貪欲、とか、貪欲に結びついたところであるところの、慢、こんな自分はだめなんじゃないかとか、自分をほめたい、自分は立派だ、認めさせたい、自分の話を聞いて欲しい、というような、そう思っている時明らかに苦しいじゃないですか、その、苦しくなってしまう、根元、を、少しでも薄めて、幸せになるためには、そういうショックを、経由しない限り、なかなか難しい。

    そして貪欲よりも、さらに現代人的には、重要なのは、みんな怒っているでしょう、いろんなことに対して。あれがいやだ、これがいやだ、政府も間違ってる、何とか政府も間違っている、あの政治家も間違っている、あの芸能人は良くない、とか。あれもいやだ、これもいやだ、一緒に住んでいる人がやさしくない、文句ばっかり言っていて、それで自分を焼いているんです。怒りで。

    その怒りを、刺激です、怒った刺激を、自分、自分、自分。それを薄めないと幸せにはなれません。生命の保存のためには役立つ、種の保存のためには役立つ、戦争のためには役立つ自分にはなれないかもしれませんが、幸せになるためには、自分が幸せに、なるためには、そのロックをいくつかは開けなければならないと、思います。

    そして自分が、欲とか、怒りから解放されると、はじめて、周りの人に、若干、慈悲に近いような心を持つ余裕ができてきます、智慧とともに。自分が駆り立てられていないから、です。そうして、ようやく、すこしやさしくなれたことによって、周りの方に、若干、良い影響を与えることのできる人間になることができます。

    だからこそ、この苦、という荒涼たる真実を観ることを、徹底的に仏陀が重要視、お釈迦さまが口を酸っぱくしていろんな経典で言っているわけです。

    ただこの苦、ということをクローズアップするのは、なんとなく、お坊様方が恐れているような、気もいたします。敢然と向かいあっているべきなんです、苦ということと。これが、仏教のαでありω、1であり100、でしょう、苦聖諦です。苦集滅道の最初に来るんです。十二因縁の七つ目に来るんです。そうして、三法印の中に含まれています。

    苦ということを取り除いてしまった仏道は仏道ではなくなってしまいます。これは、暗いとか、明るいとかいう問題ではなくて、事実、人間が騙されてはいるけれども、騙されたのを取り除いてみたら、こういう事実が露出する、という、事実の話ですから、宗教の物語とかそういうことではなくて、端的な事実です。

    事実ですから、暗いとか、明るいとか、そういう問題ではありません。暗いとか、明るいという、情報を処理した、意見、ですからね。真理、ダンマdhammaというのは意見ではありません。意見を完全に停止して、事実認識、を、した時に、そうなっている、ということです。

    あるいは物質レベルでいえば、私たちがこうやって隙間なく完全に手があると思い込んでいるのは、ものすごい強いサマーディsam?dhi、定力を作って、貫通させてみると、バラバラな、うっすらとした粒子のようなものが、ふわっふわっーと、流れているだけで、隙間だらけ、ということが、分かる。分かると、この自分の体、という感覚が、ばーーんと壊れる。

    科学的に考えてもわかることでしょう。素粒子とまでは言わなくても、分子と、分子との、の間には、隙間、が、ある。細胞を構成する分子と分子の間には、隙間がある、原子と原子の間には隙間がある、つまり、それが事実、なんですが、人間はそれを認識できないようにプログラムされています。

    全然隙間が無いように見えますし、すごい触れます。これは、情報処理をしている、プロセスの結果、こうなっている、こう認識されています。が、仏道においてやることは、そのプロセスを止める、認識したうえで、それを処理するのを、徹底的に止めていくということを、行います。

    徹底的に止めた時に何が起きるかというと、物質レベルでは還元されます、現象そのものに。これも、明るい、暗いもありません、価値判断の問題ではありませんし、そうばらばらになった時、もはや執着できません。他の人の顔がきれいとか美しいとか、汚いとか、全く思う余地がありません。ただの粒、が集積しているだけで、掴めない、んです、自分の体も全然掴めない、んです。

    最初にびっくりしたのは、見えるのは、うっすら、瞼を貫通するようにしてものが、ある日、見えていて、その時に、自分の鼻先に意識を集中していたら、鼻がバラバラになって、その、粒がふわーっと浮いて、その隙間だらけ、あぁ、バラバラである、そのバラバラであるということ、それが事実です、物質レベルにおいて。

    そして、心の働きの上において、事実を観ていくと、どうしても観えてこざるを得ないのが、五蘊が勝手に、ズーーーッと動き続けて、機械のように、プロセスしている、情報をプロセスしているだけである、無我である、ということ。そして、苦の刺激が、一瞬一瞬ただピリピリとやってきているだけである、六門を通じて、同様にやってきているだけである、という事実。

    すると、アァーーーーッとなります。ただ、それは意見ではありません。宗教は意見を作ります。しかし、仏道は意見を作りません。ただの事実です。苦であるという事実、無常であるという事実、無我であるという事実。

    そして、物質レベルの無我、ということでいえば、我だと思っている、実体があると思っているものはバラバラ、空、です。バラバラです、掴めません。その粒すら、集中していくと、波のようなものに分解します。掴めません。事実、です、端的な。それは、価値判断では、ない、ということ。

    残りあと一日半の修行、もう時間があまりありませんし、駆け足で行くことですから、とても、何が何やら分からない感じになってしまいかねないきらいもありますけれども、しかしながら、丁寧に、丁寧に、残りの時間を、そういったこと、今お話ししたようなことも念頭に入れて、精進していただければ、という風に思います。

    明日は、五蘊の一部の観察と合わせて、その入口と無我の観察をほんの少し、いたしましょう。およそ一時間くらい、話しましたね、少しオーバーしたかな。以上をもちまして、今日の講話を終わらさせていただきましょう。