無常でサヨナラコブタ
*「コブタ」という単語から始まった、休憩中の説法
(セッションの合間、休憩中)いま、私の心の中に、「コブタ」という単語が流れていきました。昔、こういう無意味な単語を連呼するクセがあって、「コブタだねー。うーん、コブタ、コブタ。コブタ、コブタ」といった具合に。そういうバカなことをしていたせいで、いまはもう出てきはしないにせよ、心に染み付いています。染み付いているから、無意味な単語が、トントントントンと、無常ながら、心の中を駆け抜けていったのです。実は、誰しも、そういうことが心の中で起きています。
*私たちの行動に、自由はない?
ところで、もう少しひねったことを申しますと、この、「コブタ」という言葉が通り抜けて行ったなぁ、と気づいているときには、「コブタ」と言いたくなりません。気づいていない時に、「コブタ」という言葉が、スッと一回通り抜けただけでも、やはり、言いたくはなりません。しかし、気づいていない間に、何回か通り過ぎると、やがて、それがムズムズしてきて、言いたくなります。
ですから、何を言うとか、何を食べるとか、どんな行動をする、というのは、あらかじめ決まっています。心の中をスッと、気づかないうちに通り抜けていったものが、何回か通り抜けて行くと、それが段々したくなってきて、段々言いたくなってきて、段々見たくなってきて、行動に移します。
すなわち、私たちは、マリオネットのごとく、裏から操られています。その、操り糸であるところの、業が、気づかないうちに、スッと通り抜けていきます。
全く気づきもしない、パッパッパッ!とすごいスピードで通り抜けていきます。無常のスピードに意識が対応できないが故に、意識化できない。意識化できないが故に、無意識的に刺激を与える。その刺激が一定値に達すると、私たちはムズムズしてくるのです。
*突然不安になるのも、ちゃんと理由があった!
あるとき、いきなり不安になったような気がするでしょう。しかし、それは、もうずっと前から準備をされていることなんです。不安になるような要素が、ピッピッピッピッ!と気づかないうちに心の中を通り抜けていきます。そして、一定値刺激がたまったときに初めて、「わーいッ! じゃあ不安になろう!」と、自分から進んで不安になるのです。
ただ、そのとき、原因が見えていませんから、余計に不安になります。「わぁ、何で一体、こんなことになったんだろう?」と。しかし、不安になることはとても刺激的で、「刺激的ッ!刺激的ッ!刺激的ッ!刺激的ッ!刺激的ッ!」と心が病みつきになります。病みつきになった分、「あぁ、不安になれば、刺激が得られるのか!」と心が覚えてしまいますから、さらにそれが業になります。
*業が増えると、既存の特徴が強化される
業になると、以前よりもさらに、不安に関する情報が、一瞬だけ、スッと通り抜けやすくなるのです。通り抜けやすくなった分、頻度が高くなります。頻度が高くなったことによって、前回よりも早く一定値に達するようになります。一定値に達すると、また不安になります。
そんな風にして、不安になりやすい人格が形成されたり、怒りっぽい人格が形成されたり、物欲しい人格が形成されたり、食べ過ぎるのが止められない性質が形成されていってしまうのです。
*一瞬、一瞬の変化に追いつき、見つめれば、自由になれる
ですから、無常を知るとは、やや強引なつなげ方をすれば、一瞬だけ通り抜けていく状態、そして、ものすごいスピードの変化、「変化、変化、変化、うつろっていく、うつろっていく、うつろっていく」という状況に、追いついていくことによって、勝手に通り抜けさせない、無意識裏に通り抜けさせない、ということを実現させます。
変化している状況を見ていれば、無意識裏に通り過ぎていったものに操られ、洗脳され、気づいたらそれをやってしまう、といったことから自由になれます。
「あ、いま、うつろった。そして、いま、確かに見た」と。見たことによって、それは中和させます。中和されたことによって、操り糸が断たれます。「あぁ、何だ、うつろっていくものにすぎないことに執着して」と、執着できなくなるからです。
無我の洞察こそが、操り糸そのものを認識して、「あぁ、完全に操られている」ということを洞察していくプロセス、でありました。しかし、無常も、同じ真理の別の側面である以上、この操り糸の問題に関わっています。操り糸を、ちょん切ってしまいましょう。
*力まず、集中して、移ろう現象を観察すること
ただ、あまり強迫観念的に、「手放すんだ!手放すんだ!手放すんだ!手放すんだ!手放すんだ!」などと、自分を洗脳していくハメになってしまうと、単なる力んだひとつの条件付けになってしまうことに気をつけてください。
「手放すんだ!手放すんだ!手放すんだ!手放すんだ!手放すんだ!」と、誰かに命令されているような感じになってくると、それは、手放す、ということの本質と、全く違うものになってしまう、ということです。
重要なのは、『見つめること』です。さっき、ちょん切ってしまいましょう、と言ったことにまつわって、付け加えることなのですが、例えば、「コブタ、コブタ、コブタ……」と出てきて、「あぁ!出てきた!! 手放さなきゃ!ちょん切らなきゃ!」というのは、ちょん切ることにつながるどころか、問題が、よりこんがらがります。その、「手放さなきゃ!ちょん切らなきゃ!」という心のモードが、怒り、に染まるからです。力んで、その力みが、怒っているからです。
手放す、とか、ちょん切る、というのは、あくまで結果のことであって、「さぁ、こうしよう!」と思って、求めるものではありません。その結果を得るための道筋は、集中して、観察すること。すると、問題が最適化されて、自然に手が離れる。手放しましょう、と申していますのは、無常を洞察することで自然と手放せる、観察すると自然と手放せる状態のこと。この、『自然と』というのが、大切なことなのです。