僧の言箱
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2009年のある日、旧月読寺 zazen sessionにてお話したものです。

浮気と株価下落


恋人とおつき合いをしていて、ただ、浮気をされているのではないかなぁということがとても気になってしまって、いつもひょっとしたら浮気をされているのではと考えてしまうので、不安になってしまうというご相談でありました。一緒にいる時はそのことを忘れて幸せにいられる時もあるのだけれど、何かの機会があるとすぐにそのことを考えてしまう。大まかにはそういう内容だったかなという相談です。具体的にもっと補足する必要があれば適宜補足して下さい。

 

このような相談をするからには、ではどうすればそうやって浮気をされているのではと不安にならずに済むかということを考えてみると良いのですけれども、そのためには何故浮気をされているのではと不安になるのだろうかということを徹底的に分析してみる必要があるんですね。自分の心のどういう構造ゆえにそういうことが起きているのかということを。

それからその中に恐らく入っていたであろう質問として、記憶にある限りではですけれども、では人を信頼するとは相手を信頼するとはどういうことだろうか、どうすれば信頼することができるだろうかということも確か記されていたような気が致します。

 

まずどうして浮気されているのではなかろうかと不安になってしまうか、あるいはもう少し言えば、浮気されているかされていないかということを凄く気にしてしまうのはなぜだろうか、ということを考えてみましょう。

世の中には大抵の人は男性であれ女性であれ相手が浮気をしているといい気持ちはしない人がとても多いと思うのですけれども。ただ全員が全員そのことでもの凄く不安になったりもの凄く辛くなったり気分が不安定になったり、あるいは相手を独占して捕まえたくなったりするというわけではないんです。

大体の人は嫌な気持ちにはなるものですけれども、その嫌な気持ちになる程度の程度差はあります。そして場合によっては相手が浮気をしていても、まあしてればいいやぐらいの感じで、いつかその内帰って来るだろうという感じで放っておいてあげることができる人もいるんですけど。それができる人とできない人の差は何だろうということを少し考えてみて下さい。

 

自分はそんな話関係ないや、と思っている人がいるかも知れませんが、ちょっと想像してみて下さい。

自分のおつき合いをしている方や自分の配偶者、あるいはもしそういう方がいないとしたら、想定できることは例えばこういうことです。小学校の時とても仲の良い友達がいたでしょう。疑似恋愛みたいな、異性への恋愛が始まる前に多くの人は小さい頃に同性の友達に対してもの凄くこの子が一番好きという感じの子がいて、そうしてその子が自分とだけ遊んでくれないで、遊ぼうって言って断られたと思ったらその日に別の友達と遊んでた、ということを知った時にとても気分が荒れたのではないでしょうか。

そういったことも思い出して頂ければ、他人事ではないはずですけれども。

 

何故その時もの凄く嫌な気持ちになって気になるのか。

同じ時間に相手が自分と過ごす代わりに別の人間を選んでいるということは、商品として自分が選ばれなかった。商品として他の商品の方が良いと消費者に思われた、という印象が生じるからです。

今あえてとても乾いた商品というような申し方をしましたけれども、自分には選ばれる価値がないのではないか、という印象が生じてとても惨めな気持ちになるからです。

取り分け、幼少時の先ほど例に挙げた同性の友達であれ、あるいは異性の大人になってからおつき合いしている方や配偶者であれ、その人は自分にとって大切な人間なんですね。大切な人間というのは、言ってしまえば、その相手から愛情を注がれたいという感情があるんです。

しかしそれは有り体に申せば、愛情を注がれることによって自分は商品として選ばれている素晴らしい商品なのであ〜る、という頭の中のイメージを作り上げることができるからです。

そしてこの選んで欲しい、常に自分が愛されていて価値のある存在であるという風に相手からメッセージを送っていてもらいたいということの本質と申せましょう。そのための刺激が常に与えていてもらえないと困るんです。

 

相手の言葉を通じて自分に愛しているという言葉を直接言ってみたり、優しい言葉をかけてくれたり、それは耳を通じての刺激ですね。目を通じての刺激はプレゼントをくれたり、何か行動に示してやってくれたりする。

するとそれを見て、あ〜愛されているな〜自分は価値がある、生きている意味がある、とても存在価値があって有意義な人間である、という印象が生じます。

あるいは、男女が愛情を確かめ合うために体を触れ合ったり愛撫するということがありますけれども、それがとても優しく、あるいは自分を求めてくれているように触ってくれているという風に感じると存在価値があると実感致します。反対に以前と比べて触り方がぞんざいになったとかいい加減になったとかいう風に感じると、なぜ辛い気分になるかというと、単純に相手と一緒にいることが嬉しいとか触れ合うということが心地いいというよりは、実は本質的なところでは自分の商品価値が下がったような気がするからです。

前は100万円分ぐらいの触り方をしてくれていたのに、今は3千円ぐらいの、30円ぐらいの触り方をしている気がする。自分の価値は30円なのではないかという気分になるから不愉快になるのです。

仮に浮気をされていなくても、こういう欲しい欲しい欲しいと思っていて、自分の存在価値を高めたい高めたい高めたい高めたい、商品価値を高めたい高めたい高めたい高めたいと、このマーケットの世界で思っている人は別に浮気をされていなくても苦しくなるはずです。なぜかというと色んなものが足りないからです。

触ってもらい方が足りない、言葉のかけてもらい方が足りない、自分の映像に見える相手の表情とか相手の行動が足りない、そしてとりわけそれらを通じて相手が自分の頭、思考回路を刺激してくれて、自分は存在価値のある人間であるというメッセージが足りない。苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。時々満たされます。満たされるともっと欲しくなります。そして足りない足りない足りない、苦しい苦しい苦しい。

 

ところでポジティブに自分の存在価値、商品価値を高めてくれる刺激に対して、商品価値をもっとも下落させるのは何か、というと、他の商品の方がとても立派であるという風に消費者が思っている、と思われてしまった場合です。

自分が一生懸命作り上げてきた、これまで十年、二十年、三十年、四十年かけてそれぞれ作り上げてきたこの自分という商品が全然売れてない。他のが凄い売れてる、悔しい。

この嫉妬という感情もそこには含まれるわけですけれども、それは他者(他社)の商品の方が売れているので、その他者の商品を潰したいという感情です。怒ってるんですね。

でも他者の商品をなぜ潰したくなるか、と申せば、あ〜自分の精魂込めて作り上げたこの商品が売れない。自分には生きている意味がないのではないだろうか。他の自分にとってどうでもいい人はともかく、自分が大事であると思っている人間からすら商品価値を認めてくれないなら、無論そうではない関係のない人からしたら全く相手にされないわけですから。一番有力な顧客なんです。

自分にとって大切な家族であるとか、それから自分にとって大切な恋人とか配偶者とか、もしくは一番小さい頃の友人とか、もっと遡れば親です。自分の親が自分にどれくらい愛情を注いでくれるか、ということ。

 

子供はむちゃくちゃあこぎですよ。純粋な天使のようなとか、嘘っぱちもいいところで、もの凄い計算ずくで煩悩によって相手を籠絡して愛情を注がせようともの凄く努力しています。

ところが満たされないんです。凄く頑張ってちょっと何か嫌なことがあったら泣き叫ぶ、あるいは、凄い笑顔を見せて相手に気に入られようとしたりするんですが。

子供はもの凄く多くのことを望んでいます。望み過ぎているくらい望んでいます。一瞬たりとも目を離すことなく自分のことだけ見ていて欲しい、と協力に思っています。なので満たされません。

 

親は大体どんな親でもそれなりに…。最近は最低限の愛情ですら注げない、ろくでもない親も増えてきているとは思うのですが。でもそれなりには愛情を注ごうという気になっている人が多いです。多いにも関わらず、でも足りないんです。

なぜかというと求めていることが多すぎるからです。人間にはできないことを要求しているんです。一瞬たりとも目を離してはならない、ちょっとどっかに行くともの凄い泣き叫ぶんです。むちゃくちゃ怒ってるんですね、あれは。

今私のことに愛情を注がなかっただろお前は、私は捨てるのであるかお前は、という怒りがもの凄く生じているんですね。これは本当ですよ。

私自身が自分の過去を瞑想によって遡っていきました時に、様々な記憶を思い起こしていくに連れ、自分がいかに多くを望んでいて、そしてその内の無論半分ぐらいは満たされるんですが、残り半分が満たされないことについてむちゃくちゃ怒っているんです。

これは程度の差はあれ誰しもが幼少期に体験せざるを得ないことなんです。それはどんなに親が一生懸命愛情を込めて育ててくれていても満たされないことなんです。

餓鬼畜生のように餓鬼のようにもの凄い望んでいるからです。ほんのちょっとでも自分の望んでいる時間に母乳が与えられなかったらむちゃくちゃイライラしてくるんです。自分は愛されていないのではないか、このまま死んでしまうのではないだろうか、とか思ってるんです。

 

そして実は浮気については幼少時から感じていることのはずなんです。

親が自分に例えば母乳をくれる代わりにもう片方の親と何か話していると自分を無視しているような気がする、とか。今は自分を撫でて抱っこしてくれるはずなのに、もう片方の親と何かしている、とか。あるいは来客が来ていて、来客を構っているせいで自分にご飯をくれないとか、そういうこと一つ一つがもの凄いイライラするんです。あまりにも飢えているから、ですけれども。

もの凄い煩悩の塊なんです。強力な刺激が入力されて、それでも程度の差はあれある程度満たされている人は、自分はここにいてもいい存在なんだ、ということがある程度実感できます。それがある程度実感できていれば、過剰に求める必要もなくなるのですけれども。

 

程度の差はあれ誰もが、あ〜自分は存在価値がないような人間なんだな〜ということを幼少の頃に刻印されます。そしてそれを私の思うところに依れば、小さな頃は学校の先生に愛されたいとか、あるいは学校のお友達、小学校、幼稚園のお友達、自分の大好きなお友達を独占したい。その人の愛情を独占して、そして、自分は愛されるに値する存在である、ということをやり直そうとする気が致します。

やり直そうとするんですけれども、大抵それはうまくいかないんです。それなりにうまくいったりしているんですけれども、実際は。

でもうまくいっている以上のことを望んでいるので必ず挫折するんです。完全に独占しようとするでしょ、多くの場合。自分の大好きな友達がその人の7割の時間を自分に使ってくれていたら、一般的にはそれで十分なんですけれども、残り3割の時間を他の子に使っていたりすると、何だかちょっと嫌な気分がしたりする。

 

実は考えてみれば、浮気っていう問題は幼少時に親が浮気しているんです。そして幼少時に自分の友達が浮気しているんです。でもそれは実際浮気って言えるほどのことではなかったりします。自分の頭が作り上げていることなんです。

これが浮気であると考える水準がもの凄いハードルが低いんです。ちょっとしたことが浮気としてぴょんぴょんぴょんぴょん飛び跳ねていって、あ、浮気、あ、浮気、あ、浮気、全部浮気だといったような具合でもの凄い他人を非難し続けて、人格が凝り固まっていくんです。

これをやる度合いが強い人ほど性格がねじ曲がっていきます。これをやる度合い人は比較的まともです。でも比較的まともなだけで実は誰でもこれを通り抜けています。

 

そして大人になってからまたやろうとするんです。自分の過去に散々満たされなかった。そして自分は存在価値がないんではないだろうか、生きている価値がないんではないだろうか、と心のどこかで思っているものを埋め合わせようとするんです。

また見つけた、この人はとても自分にとって好ましい人である。他の人は自分に存在価値を与えてくれないけれども、この人なら与えてくれるに違いない。独占しよう。

完全に全ての愛情を自分に注ぐべきである、という風に思い込むんです。

 

その相手が、しかしながら恋人でない可能性もあります。配偶者でない可能性もあります。

自分の存在価値のなさを仕事において何とかして取り返そうと思っている人、男性において比較的多いかも知れませんが、でも女性においても多いことでしょう。恋愛とかはもういいとか言ってひたすら仕事に打ち込む、ということもあり得ると思うんですけれども。

その場合に何が生じるか、どうしても自分の商品価値というのはただ仕事ができている、だから自分はいい、という形ではなかなか満たされないんです。どうしても過去に他人を通じてそういうことを行おうとしてきた結果、かも知れませんけれども。

自分の自我を刺激してくれるのは他人、自分が自分を見るのもありますが、他人に自分がどのように視線を向けられているか、ということがとても自我をびりびりと刺激してくれるんですね。

したがって自分が部下からこんな風に評価されている、上司からこんな風に評価されている、こういう言葉をかけてもらいたい、こう大切に扱ってもらいたい、褒めてもらいたいというような衝動がもの凄く強くなる結果、大抵そのように思い通りにはいかないんです。

思い通りにいかないと凄いストレスが溜まってきて、あるいは、他の人が他の人を褒めていたりすると、それが実質的に心に同じ刺激を与えます。ネガティブな。あ〜浮気されている、と思うんです。自分に愛情を注ぐべき同僚、上司、部下が自分に愛情を注ぐべきなのに他の人間を褒めている。浮気している。同じことです、これは。

 

恋愛問題に戻ってきましょう。少々、あえて話をずらし過ぎました。元のところに戻って参りますね。

そう、あなたには価値がありませんよと言われているような気がするんです。あっちの商品は3万円くらいの価値があるけど、君は5円くらいだね、と言われているような気分になって、あ〜やっぱり自分には存在価値がないのか、いらいらいらいらとするんです。

そして問題はそのようにいらいらしてしまうと自分がもの凄く辛くなる、自分が醜くなってしまう。相手を許せない、信頼できない、疑ってしまう、相手と一緒にいてもついカリカリしてしまう、つい余計な一言を言ってしまう。

相手がどっかに一人で行こうとするのを、何で一人でそこ行くのとか、何しに行くのとか余計なことを聞いてしまうかも知れません。すると、当然ながら圧迫感を与えます。

あ、この人は自分のことを信頼していないんだなという印象を持たれます。すると一緒にいると相手にとって居心地がいいかどうかというと、当然居心地が良くないに決まっているんです。これは極当たり前のことです。それはわかることでしょう。

さっきの上司が部下に愛情を求めている場合、もの凄い褒めてもらいたがっている上司、と一緒にいるのは部下にとってはしんどいんです。めんどくさいんです。自慢話につき合ったりするのは。

相手と一緒にいたかったり、相手の愛情が欲しかったりするので、それを求めているせいで自分の商品価値を高めたいせいで、嫉妬心が起きたり相手を縛ろうとしたり独占しようとしたりするんですが、結果としてそれが相手を圧迫しますので、皮肉なことに自分が求めているものがそれによって遠ざかったりするんです。

 

本当に浮気しているかも知れませんよ、もしかしたら。浮気しているんじゃないだろうか、と考えているだけじゃなくて本当に浮気しているかも知れませんし。でももしかしたら浮気していないかも知れません。

元々浮気していなかったとしてもそうやって色々疑われて圧迫感を与えられると、実際一緒にいるのが疲れてきて他の人と一緒にいたい、という気分に段々段々なってきたら、そうしたらまさに自分がそうやって圧迫感を与えているせいで自分の不安が実現するかも知れません。

あるいは元々浮気をもししてしまっていて、自分の妄想がもし正しかったとして、徐々に徐々に、あ、この圧迫感を感じる人と一緒にいるよりはその浮気相手と一緒にいた方が心地よいからそちらと一緒にいよう、という気分になってあまり戻ってこないかも知れません。

 

そもそも浮気をされた時に浮気をしたら絶対にならないという風に多くの人が思っているのですが、それはなぜかというと自分の商品価値が下がるからです。まるで浮気をするっていうのは法律に反して罰されるべきであるみたいな感じに思っているかも知れませんが、そういう根拠はないんです。

相手が単に心の赴くままに自分と一緒にいるのが好ましくなくなってきて、より好ましい人ができて自然の法則に従って相手のところに行くようになっているだけ、でそれに対して自分は商品価値が下がった、嫌だという苦痛を発生させて、それに対していらいらいらいらすると自然法則に基づいて勝手に反応しているだけなんです。

で、相手はその自然法則に従って機械的に浮気をしてしまっているんですが、こちらも自然法則に従っていらいらする必要はないんです。その機械的な流れに乗せられてしまっているんですが、そこから脱出する、心を点検してリペアすることによって流れを変えることというのはいつでもできるんです。

 

浮気ということを、う〜ん私の過去なんかも振り返ってみて考えてみる時に、感情がどんな風に働いているかと申しますと、本当に浮気相手が大好きかというと必ずしもそうではないんですね。

必ず人と人が長い間一緒にいると、段々段々、最初は相手に対して出さなかった欲望をむき出しにしたり、最初は相手に対して抑制していた怒りをむき出しにしたりするので、相手に対して要求が増えてくるので、自分の要求が増える分には人は気持ちいいや〜とか勘違いしているんですが、相手の要求が増えて来ると、圧迫感を感じて多かれ少なかれ疲れてくるんですよ、誰もが。そしてその浮気相手っていうのはそれがないんですね。相手がとても自分に気を使ってくれるんです、結構。

自分に気を使ってくれて相手はあんまり欲で何かを押し付けてきたりしないし、生活を共有していないので、あまり怒ってきたりしないので、一緒にいる時に安らぐんですね、一般的には。

でもそれはまやかしなんですよ。なぜかというと、あくまでもそれは浮気相手という特別な状況下に置かれていて、一時的な束の間のことであって、ず〜と色々共有しなければならないわけではないという前提の下で注ぐことのできる、旅人に対する愛情みたいなものだからです。

 

インドに旅して、インド人にすごく優しくされて、あ〜素晴らしい場所だとか思って、住もう!とか思うと大間違いなんです。住みだすと住人として扱われますから、周りの人が旅人として持て成してくれなくなります。

ニュージーランドにいったら、あ〜住人が凄く優しい、素晴らしい町だ〜、ここに住もう。無理ですよ。無駄ですよ。そんなパラダイスはこの世には存在しません。旅人である時だけです、その優しさは。

 

でこの浮気相手に対して普段感じている、大切な人と一緒にいる時の圧迫感から逃れて一時的なガス抜きみたいなことをして現実をごまかしたいだけなんですね。

でも勘違いするんです、脳が錯覚しているので、もの凄いこの人が好きなんではないか、ガス抜きではなくて、むちゃくちゃ安らぐこの人は素晴らしいとか勘違いしてしまうので。本当は自分をごまかしたいだけなんです。

その勘違いに従って…。結婚しているとしましょう、そして離婚して、よしいよいよこの人と一緒になれると思うと、もの凄い誤解していたことがあからさまになっちゃうんです。一気に覚めます、その時。

なぜかというと、安らぐということは、その前に安らいでいないという状態があって、その落差によって生じるからです。一緒にいて相手の欲とか怒りによって苦痛を感じるという、苦痛があって、それが比較的少ない人と会うことによって落差が生じます。

その苦しみがなくなることによって、あ〜安らかだ、と感じるのですが、その大元であった苦しみが離婚することによってなくなってみると、その苦しみから逃れる必要がなくなってしまうので、相手といることがつまんなくなってしまうんですよ。

というよりは、相手の要素としてどこを重視していたかというと、逃れられるという要素を重視して大抵浮気が生じているので、結果として元のものを解消してみると全然意味がなくなっちゃって、そうして結婚してみると元の結婚よりもさらに早くそれは破綻する、という流れなんです。

私はこの離婚して再婚するみたいなことはしていないのですが。でもこういう流れになるんです。

 

そう考えてみると結局のところ、浮気っていうのは何のためにしているかということを分析してみると、この元の結婚関係とか元の恋人関係を解消しないために浮気しているという側面があるんです。

堪え難い、このまま一緒にいるといらいらしてきて本当に破綻してしまいそう何だが、別の人のところにいったら一旦安らかな気分になってまた戻ってきて無茶を言ったりできるというような。

でもそういうことをされると、された側はどう感じるかというと、自分の商品価値がもの凄い下落させられたような気がする、という現象が生じて凄い疲れてしまうんですが。ただ、実際はこういう見取り図に大抵の場合はなっている、ということです。

そしてその自分の商品価値、商品価値ということにこだわり、それにしがみつく、ということを程度の差はあれこういう仕組みなっているんだ、ということを認識して手放せる度合いが強まるに従って、相手に対して圧迫感を与えることが少なくなってきます。

 

自分のかりかりかりかりしちゃうか、相手にこれをしろあれをしろこうしなさい、こういう愛情を注ぎなさい、こういう表情をしなさい、こういう言い方をしなさい、こういう声色で話しなさい、こういう振る舞いをしなさい、ともの凄い要求していて、それが実現しないために怒りの矢をプスプスプスプス刺すという、つまり自分の商品価値、お金をくれお金をくれ、払いなさい払いなさい払いなさい、あなたは消費者です、優良顧客です、カスタマーです、払いなさい払いなさい払いなさい、と親に対してやってきたんです。

小さな頃、友人に対してやってきたんです。ある時から恋人に対してやってきたんです。そしてある時から配偶者や親。それで満たされない人が子供を作ると最悪なんです。子供に対してそれをするからです。子供を洗脳しようとするからです。子供に対して金を払え、と言うからです。商品を買いなさい、と言うからです。

 

で、これをある程度なりとも手放すことができましたら、相手が同僚であれ相手が恋人であれ配偶者であれ親であれ子供であれ、いや〜な圧迫感で押し付けるということが少なくなります。

すると当然のことながら相手は自分と一緒にいることによって安らぐんですよ。あ、一緒にいると心地良いな〜、という風に少し変化するんです。これがマジックです。

欲しいから嫉妬するんです。欲しいから独占しようとするんです。しかしそれは手に入れたいものが遠ざかるんです。このメビウスの環のように反対にひっくり返るようにできてるんです。ということを少し腑に落とさせて頂ければという風に思います。

 

目耳鼻口体そして思考の6つの門を通じて自分は存在価値がある、商品価値がある、素晴らしいものである、と思い込みたい。汝らはその6つの門を通じてそういう刺激を与えるべきである、と思い込んでいる。

そしてそれに反する刺激が入って来る、つまり、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、と反応して暴れ回っている。この刺激を求めて反応する反応する反応する、と心が鞭打たれて、馬車馬のように走らされているがゆえに色んな失敗が生じる、ということ。

刺激に対して心が反応するというこの仕組みをこの座禅セッションにおいてはこれから丁寧に見つめて刺激とそれに対する心の反応との間の結びついている糸をハサミでプツっとちょん切ってしまいましょう。