僧の言箱
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2009年6月22日坐禅セッション、午後からの初等部にて、説法リクエストにお応えしたものであります。 その折の参禅人様より、テープ起こしの御布施をたまわりました。


十二因縁ドレイ解放道


  • 坐禅セッション in 月読寺
  • 日時:2009年6月22日

    本日は説法のリクエストを承っています。最近、ウェブサイトに掲載しましたお話で十二因縁という心の法則性について、無我とのからみで、十二因縁の話がちらっと出てくるようなお話を載せていたのですけれども、それについて詳しく聞きたい、と。 十二因縁、という心の流れについて、ここではお話し致しましょう。

    十二因縁とも言われますし、訳され方は様々ありまして、十二縁起という訳されかたをすることがあるのですが、縁起というのは、一般的に縁起がいいとか、悪いとか、いう風な言い方で人口に膾炙している言葉であります。それは完全に間違った使い方ではないと思うのですけれども、実際はそういった、意味ではありません。

    あと、他の使い方だと「ご縁がありまして」とか「ご縁がありましたら」とか「縁がありますねー」とか、そういう言い方で、しばしば、人の口にのぼる言葉でありますけれども、本来の意味は、『縁』というのは、『よりあっている』という意味なので、関係しあって、くっつきあって生じている、という意味です。実際は、原因と結果を表す因果法則を表す言葉なんですね。「Aが起こるとBが起こる、Bが起こるとCが起こる、Cが起こるとDが起こる」といったように、因果法則を表します。とりわけ重要なのは、心の法則性ですね。どういう刺激がインプットされると、どういうアウトプット、心の反応が生じるのか、ということです。

    たとえば、いま、食事の片付けをみなさんがされている時間帯に、私は一足先に片付けを終えて、外に出ていて、地面に座っていて道路の流れて行く人々を見たりして過ごしていたのですけれども、歩いている方が、キティちゃんのマークがついたカバンを持っていて、多分、社会人だと思うのですが、仕事カバン、にキティちゃんを使っていて、別にそれは「あはは」って思えばいいだけなのですけれども、私はそれを見た瞬間に、少しだけ、頭の中に流れて行った言葉が、ん……「大人になってもこういうものを好きで居続けるのは、一般的にどう受け取られるか、とか、そういうことについて自覚的なのかなぁ」というようなことを考え始めていたのですが、ただ、そういうことを考えても、考えたわけではなくて、キティちゃんというものについての、私の側に偏見があって(笑)、その偏見が記憶の中にこびりついている以上、それを見た瞬間に自動的に、反応として、そういう思考がサッと湧いてきてしまうんですね。その思考をしたくてしているわけではないんですよ、言ってしまえば。

    これが、『縁』ということなんですね。情報が触れると、自動的に反応が生じる、ということ。とても素朴な、原因と結果、ということなのです。ただ、その際に、原因としてあるのは、もともと入ってくる情報について、いろんなことを自分が思ってしまっていて、もうすでに知識として思い込んでいることが存在するということが原因としてあって。

    そしてそれは、ずーっと思っていること、もともと思っていることなんです、条件としてたまたま、自分が知っていることが目に触れた、ということによって、元々考えていたことが、ポッとわき上がってくる、という具合です。ですから、原因としてもともと思っていることがあって、条件として、たまたまその場で目に触れた現象があって、その目に触れた現象と、自分の中にもともと存在している、思い込み、それらがよりあって、結果として、ポーンッと勝手に心の反応が生じる、といったような仕組みです。

    重要なのは、こうやって、「あ……、これキティちゃん……、おとなになっても」とか考え始めていることに気づいて、サッと気づいて、「おとなに」ぐらいで、スッと止めることなんです。実際、「おとなに」で止まるわけです。それで、「おとなに……、あ、止まった」。で、また調べることなんです。「おとなに」で止めて、この、止める前と止めた後でどちらが自分の心が爽やかであるか、ということです。

    「おとなになってもこんなカバンを持ち歩いてて、平気なんだろうか」というような気分になっている時(笑)、必ずなにかの、自分が、優越感に浸っていたり、「相手があまり、ちょっとおバカさんなんじゃないかなぁ」みたいな気持ちで思考を回転させる時に、ある種の、それを自分はわかっているという優越感に浸っているのですが、その、優越感に浸るというのは、頭は心地よく刺激されているのですが、実際は結構変な感じに身体がドキドキして、しんどいことになっているんです、本当は。

    で、それを遮断する、途中で遮断、するという、途中で念じる、途中で念を向けるということですけれども、「あ、こんな思考が自動的に、情報が触れることによって始まっている」そう意識化する、と、スッと途中で止まるんです。前兆として、このまま放っておくと最後まで「こんなことをして恥ずかしい、かもしれないということについて自覚的ではないのかしら」という前兆が生じることを、サッと認識して、ここでフッと止める、ということです。

    ところでこの十二因縁というのは、こういった思考のプロセスを十二個に細分化して、連続、してこれが入力されて、こうなって、こうなって、こうなって、こうなって……というのを、十二個にまで細分化して、説明した、ものです。

    一般的にわかりやすいのは、五つ目の所からです。五つ目、に、六処、先ほどから申しております、眼・耳・鼻・舌・身体・思考の六門といわれるセクションが、六門が機能し始めて、六門が機能していないと、なにせ外からの情報が触れません。

    六門のどこかが壊れていると、その情報は認識しません。もしくは、壊れていなくても、心を操縦して、情報を取らない、という状況を意図的に作り上げると、何も認識しなくなります。例えば、呼吸にものすごい集中するのを強めていって、完全に集中して、呼吸と一体化、した状態で、禅定という、意識状態に入りますと、その状態ですと、その情報以外は何も取らなくなるので、何も聞こえなくなって、何も見えなく、なります。

    というように情報を取らなくするということは、意図的に心を操作すれば、することが可能なのです。ただ、その六感が働いている状況下、で、初めて情報が触れる。

    五つ目に来るのは、この、六感が働く、ということです。で、働いていれば、必ず生じるのは、現象が触れる、ということが生じます。

    六つ目に来るのは、この触れる、情報が触れる、という瞬間がある、ということ。

    そして、七つ目に来るのは、触れると、必ず次が、やはりその触れたということが原因となって、結果が生じるんです。結果は何かというと、刺激が走る、ということです。キティちゃんのカバンを見た、瞬間に、映像としての刺激がビリッ、と走るんですね。で、その時の刺激によって、心が刺激的なショックを与えられることによって、心が走り始めるんです。

    この場合、実は若干、微細に怒ってるんですよ、先ほどの例でしたら。それは本来、そこに社会人が持っているカバンのど真ん中に(笑)、ドバッとサンリオのキャラクターみたいなのがあるべきではないんじゃないかな、みたいな思考がどこかにあるので、別の精神状態で同じものを見たら、別に「あぁ、微笑ましいなぁ」と思うかも知れないのですが、ある、特殊な特定の条件下で見ると、そういう気分が生じるということもありうるんです。

    そう思ったからといって、心の底から、それがダメなことだと思っている、そういうわけでは必ずしもないんです。ただ、この場合、何が起きているかというと、刺激がビリッと走った際に、ほんの少しの違和感が生じているんです、苦しい、という刺激、です。微細な、ですけれども。

    そして、刺激の所をもう少し説明しましょう。そういった刺激が走るか、もしくは、大変好ましい、もっと見ていてたいという刺激が走る、ということがあります。私たち男性が、女性の顔を見ている時や、女性が自分の好きな男性の顔を見ている時、に、「これを見ていると大変心地よい」というような感覚が生じる時、「あ、みた瞬間に、あ、何か心地よい情報である」という風に、これは視覚の映像を通じて、快楽、としての刺激が生じているということです。

    この快か不快か、の刺激が、情報が入ってきて触れた、瞬間に、触れたことが原因となって、必ず、刺激が走る、という法則があるのです。ちなみに、触れなければ、刺激は発生しません。何かに集中することで他の情報を取らなくすれば、取らないので刺激は発生しません。んー、ものすごい仕事に集中している時、隣で滅茶苦茶うるさい音が鳴っていても、それを情報として取らないので、それについて、「うるさい、嫌、苦しい」とか、「気持ちいい」とか、そもそも刺激が発生しないんです。

    ただ、聞いたら聞いたことによって、確実に刺激が発生します。「あぁ、心地よい音である」という刺激か、「ウッ!」というイヤな感じの刺激か。快楽か、苦しみか、という刺激が発生します。

    もう少し刺激の種類を細分化致しますと、明らかに快であると思われる刺激と、明らかに不快であると思われる刺激と、その中間地点に位置するような、快でも不快でもない、よくわからない、といったような、刺激が、刺激は確かにそこにあるのですが、快とも不快とも思えなくて、あまり興味が持てない、刺激があります。

    先ほど食事をみなさんに、瞑想をしながらおこなっていただきましたが、食器を持つ感覚、とか、置く感覚とか、運ぶ感覚、そういった感覚は、刺激が確かにあるでしょう、確実に触れているわけですから。刺激が入ってきているわけですから。

    とても、ささやかな、ありきたりな、と申しますか、素朴な感覚なので、全然心が興味を持たないんです。心が興味を持たない、こういう淡ーい感覚、については、快でも不快でもない、というふうに心が認識します。そういう刺激として、仕分けします。

    とりわけ、慣れたものほど、この、快でも苦でもないと仕分けされがちです。最初は楽しいと思っていたことも、相手の顔、好きな人の顔とか、それから自転車に乗ったばかりのころは自転車に乗ることが結構刺激的で楽しい、けれども乗っているうちにすごく当たり前になってきて、全然快でも不快でもなくなっていく、ということが生じますが、いずれにしても、こういった種類の、何かしらの快か不快か中性か、というふうに仕分けをされるのですが、仕分けをされる前の、ものは刺激です。

    ピリピリピリピリッとした刺激がいろんな所から入ってきます。目や耳や鼻や舌や身体から。ニューロンをつたって、刺激の情報が入ってくるのですが、その刺激は、実は、同じニューロンの刺激という一種類です。全く変わらない、どの快も不快も中性の感覚も、同じ、情報です。

    ただその情報の組み合わせに従って、これは快であるとか、これは不快であるとか、これは中性である、という風に認識し直す、仕分けする、という作業が行われます。この、仕分け、刺激を仕分けするセクションが、刺激に触れた瞬間に生じます。「あ、快だ」「あ、不快だ」とか。なので、これは変わります。絶対に快なものとか、絶対に不快なものとかはありません。

    小さな頃、私は……、ネギが嫌いでしたけれども、すごくあのネチャネチャする感じが(笑)。「ネチャネチャすることイコールまずいこと、絶対にこれはマズい!」と決めつけていたんですけど、「これは真理であーる」というような心持ちで。

    誰しもそうなのですが、自分が嫌いなものについては、それが真理であると思い込んでいるんです、絶対に。少なくとも自分にとっては。それは絶対に変わらないものであるように思い込んで、執着しているんですけれども、自分の心の条件だとか、身体の条件が変化していくに従って、「あぁ、この、ヌメッとしたものが舌に触れて、それは大変心地よい」とか、前と全く違う、反対方向の情報処理を進めるようにもなったりするくらい、非常に流動的なんですね、実は。

    ともあれこの刺激が発生する、という瞬間があります。で、そこで、止まるかというと、止まらないィィィ????ッ。輪廻する、ずっと回って、回って、続く、連鎖する、連鎖する、連鎖するというのが心の法則なのです。

    刺激が走ると、その、刺激が頭に送られて、送られた瞬間、心がそれに対して反応する、ということが、刺激を原因として、結果として必ず生じる、わけです。その心の反応のセクションが、煩悩のセクションと申してもよろしいですけれども、非常に単純化して申しますと、快楽という風合いに入ってきた刺激を頭が認識すると、その快楽に対して「もっと求めたい、繰り返したい、繰り返したい、繰り返したい、追いかけたい……」と、中毒になるかのようにして、いま、これを味わって終わり、として、ポーンッと、去る者追わず、で置いておくのではなくて、ものすごく追いすがって、おいはぎのようにおいかけていったり、という衝動が、繰り返したいという衝動が生じがちです。

    そして、不快という風に仕分けした場合は、その相手の襟首をつかむように突っ掛かっていって、否定したい、という感じの感情、心の反応が、瞬時に、ほとんど自動的に生じます。

    そして中性の感覚、持つ感覚、運ぶ感覚、こういう、飽きて、きていて、あんまり興味を持っていない感覚については、無視する、という衝動、心の反応が生じます。ほとんど無視しているでしょう、みなさん。こういった、素朴な感覚を。

    あるいは、普段、歩いている時の足の感覚とか、ほとんど無視をしながら、そして無視をしながら何をしているかというと、頭の中でそれと関係ない何か別のことを、たいてい考えて、います。この、現実、の感覚がつまらない、中性である、刺激が中性的な時に、それを感じているのがめんどくさいので、別のことを考えだす、という心の反応、を生じさせます。

    快楽に対して欲望でつかみかかっていくか、不快に対してつかみかかって、なきものにしてやる、と破壊しようとするか、もしくはどちらの刺激を発生させないものに対して、興味がないので逃げて、しまうか、というこの三パターンの心の反応が生じます。この三パターンの反応が、触れる、ということの次に刺激が生じた、その次に、結果として、心を制御していない場合に自動的に生じます。

    先ほどの例に立ち返ってみますと、そのキティちゃんのカバンを見た瞬間に、刺激が、ちょっとした苦痛が、たいした苦痛ではないんですが、ちょっとした苦痛としてそれが感じられて、そして、違和感ですね、おかしい、という感じが刺激として生じて、それに対してつかみかかっていくんです、怒りというのはそれを無視するわけではなくて、つかみかかっていくんです、攻撃するようにして。

    そして、「それは何か間違っているんじゃないかなー」というような思考が始まる。そして、それによって、自分に若干の不快感が必ず走る、ので、いいことはないのですけれども。

    そして、この、心が反応する、ということは、単発では終わらない、ということが、今朝申しました、業、の法則です。一回、んー、「キティちゃんなんておかしいよ!」と、もし思ったとしたら、その「おかしいよ、おかしいよ、おかしいよ、おかしいよ、おかしいよ、おかしいよ、おかしいよー」という思考がしばらく回り続けます、自分の心の中で。

    もう回っていないつもりでも、他の、次の思考を始めたつもりでも、裏でエコーをかけて、しばらく回ります。弱まりつつも、回っている。回ることによって、その思考回路がさらに強化されます。その上、やがて、「キティちゃんなんておかしいよ」、と心の中で回転していたのが分離して、「キティちゃん、キティちゃん、キティちゃん、キティちゃん」と、「おかしいよ、おかしいよ、おかしいよ、おかしいよ」にわかれて、心の中でごちゃごちゃになってしまう、バラバラになってしまう。

    バラバラになってしまうと、その「おかしいよ、おかしいよ、おかしいよ、おかしいよ」は、キティちゃんに対してではなく、別のものにも結びつく、何かを否定する、ための怒りのエネルギーとして、心の中に残ります。

    そして、「キティちゃん、キティちゃん、キティちゃん、キティちゃん」というほうは、とても無意味な、もう、何とも結びついていないような無意味な情報として心の中に留まって、心の情報処理能力を衰えさせるような奇妙な情報として、蓄積されます。

    で、ここで重要なのは、次に何の反応が起こるかと申しますと、心の反応で、「おかしいよ!」というような反応を致しますと、それによって、この、自分の中にある、いろんなものについて「おかしいよ!」と思っているエネルギーがもともとありますが、一回「おかしいよ!」ビリビリビリッと刺激を感じながらそれを思ったことによって、その、「おかしいよ!」という感情が上塗りされます。

    自分の中でもともと持っている、そういう、エネルギーが増えます。そのことによって何が生じるか、というと、その種類の感情が、これからさき非常に発露しやすい形に、心が少し変化します。つまり、性格が少し変化する、ということなんですが。一回、何かを思考するたびに。ほんの少しずつ変化するんです。

    ですから、ある心の反応、特定の反応を繰り返していますと、徐々に徐々にその、反応のパイプが太くなっていって、反応パターンとして、非常に強固なものに、なっていきます。ある入力があったら、必ずこう反応する、こう言われたら、必ずこう反応する、これを見せられたら、必ずこう反応する、これを聞かされると、必ずこう反応する、というようなことが少しずつ少しずつ定着していきます。

    ですから、心の反応、煩悩の反応が生じると、その次に生じるのは、執着と名付けられる段階です。執着とは、厳密にいえば、ものすごい強烈につかみかかっているという意味なんですが、一回とった反応をするだけではなくて、もう、こう反応せざるを得ない、ぐらいに、強烈に、その自分の心のパターンにしがみついていく、ということが生じます。

    隣の部屋が、うるさかったり、隣の部屋で、何か大笑いしたり、音楽がかかっていたり、テレビが鳴っていたり、ということについて、私はかつてものすごく苦手だったのですね。

    それが聞こえてきた瞬間に、苦しみの刺激が、ビリビリビリッと走って、そしてものすごい不愉快な気分になってきて、「隣人がこのように静かに暮らしていることを多分知っているはずなのに、なぜ気を遣ってくれないんだろう」とか、心の中で一瞬にしてブツブツブツブツ考え始めて。

    「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、本も読めない、何もできない、イライラする、イライラする」と心の中でブツブツブツブツ、言うせいで(笑)、本当に何も、どんどんできなくなっていって、そのうちイライラが臨界点に達したら、その部屋に居られなくなるので、しょうがないから(笑)、どっかに出かけて、カフェだとかに行かなければ、ならなくなる、というような具合だったんですけれども、ただ、心の反応パターン、それをやることによって、心の反応パターンが強化される。

    一回反応する、「あ、嫌だ!イライラする!何で静かにしてくれないんだ。常識のない奴め!」みたいなことを、考えると、怒りのパターンが増幅されて、それが執着として、形成されます。執着というのは、この、手ぬぐいに執着しているとか、そういう意味で、日常語で使われがち、物に執着するとか人に執着するとか言われがちだと思うのですが、厳密な意味合いは、自分の心のパターン、パターンが出来上がってしまっている、と言う意味です。

    ものすごいつかみかかっている、抜け出せないぐらいに、心の反応パターンとして定着してしまっている、煩悩が定着してしまっている、という意味です。言い換えれば、条件付けられてしまっている、ということです。怒れば何が起こるか、怒ればどうなるかというと、実は、十二因縁まだ最後まで説明していないのですが、怒った瞬間に、また、因縁が始まります。

    怒ると、その怒りによって刺激があらたに発生します。ビリビリビリッと。なので、また、先ほどの、六門、でいえば、意識の情報処理を通じて、新たな情報が投げ込まれて、怒りという情報が投げ込まれて、それによってまた新たな苦しみが生じて、そしてその苦しみに対して、「あー、いやだ! ものすごくいやだ!」ということがもう一回生じて、というのが何回も何回も繰り返されるので、どんどん横滑りしながら、頭の中で妄想が膨らんでいく、といったような、次第なのですけれども。

    こうやって少しずつ怒りっぽい性格になっていくと、もう、どんな時も、です。隣から音が聞こえてくると不愉快になる、とパターン化してしまって。「不愉快になるか、ならないか、選ぶ」とか、そういう自由が全くなくなって、いくんです。

    あるいは、たまたま、無茶苦茶機嫌がいい時は、多少、音が鳴っていても我慢できる、ということもあるかも知れないんですが、やがてパターンが、執着がどんどん、どんどん増していくくらいに、それを繰り返しているうちに、たとえ機嫌がいい時ですら、んー、ものすごく仕事がうまくいっていて、新しい恋人ができて、宝くじが当たって(笑)、すごいルンルン♪という気分ですら、隣がちょっとうるさいだけで、ものすごい腹が立ってきて、身体中が不快物質で蝕まれる、みたいなことになるぐらいに、だんだん反応パターンが強くなっていくと、そういうことになるのです。

    私のことでいえば、案外、この建物は、隣が夜になるとわりといろいろと音がやってきますが、不思議なぐらいに、昔、のような反応が、もう、全く生じないんですね。全然、別に、「あぁ、音だなぁ」という感じで、何の反応も生じない。これ、が、その執着、というものです。

    そして執着、というもの、は、たくさんあります。ある特定のインプットがあったら、こう反応してしまう、というようなパターンを、人生を通じて、何回も煩悩をパターン化させることによって、作り上げてしまっていて、ようは条件付けられてしまっていて、自由がなくなってしまっているんですが、その、いろんな執着の中でも、特に自分にとってものすごい強いしがみつきかたをしている執着、があります。

    執着を繰り返していくと、何が生じるかというと、存在エネルギー、ちょっと訳し方が難しいのですが、『バヴァ』と仏教語で言われるもので、中国仏教だと、『有』と書いて『ウ』と訳すのですが、『ウ』というのは、存在、有るという意味ですから、存在という意味です。

    自分の存在と化してしまっている、もの、というようなことなのですが、これは……現代的な言葉で言えば、アイデンティティと言ってしまってもいいかもしれませんが、アイデンティティというのは、一般的には「これが私のアイデンティティ」とか言って、肯定的に語られることが多いような気がするのですが、アイデンティティなんていうのは、無茶苦茶自分がしがみついて、絶対に手放せない、という……自由を失ってしまって、完全にもう、その形でしか行動出来ない!というくらい、強烈に自分にいつの間にか刷り込まれてしまっているものにすぎません。

    実は心を操作していけば、その、自分が無茶苦茶しがみついているものを手放すことができますし、別な物に入れ替えることも、できます。

    ともあれ、執着というものを繰り返し形成していきますと、その自分のアイデンティティ、などというものが、いつの間にか形成されてしまっています。それが本当に自分にとって好ましいもので、あるのか、そうでないのか、という判断は全く無視して、とにかく無意味にしがみつきます。

    なので、場合によっては、自分は全然絵を描く才能がないかも知れないのに、無茶苦茶思い込んで、しまって、気づいたら、ですけれども。そして、才能は他にあるかも知れないのに、ずーっと絵描きになろうとして、でもなれない、苦しい、なろうとしてなれない、苦しい、周りから否定される、苦しい、死ぬまでそれを繰り返すかも知れない。……あんまり、いいことは、ないんです。

    というのが、十二因縁の五番目から十一番目まで、だったんですけれども、ちなみに、この存在、アイデンティティ、存在エネルギーというもの、をもとにして、次の連鎖、次の連鎖、は、生まれる、ということなのですけれども、この、生まれる、ということを説明するとなると、輪廻転生の話になってしまうので、ちょっとここでは置いておきましょう。

    そして、五番目の、所にくる、六門ですね。私たちの、情報がインプットされてくるゲート、入り口。五番目以降がわかりやすいので、五番目以降の話をしたのですが、では一番目から四番目まで、は、わかりにくい、というか瞑想を結構進めていないと、なかなか理解しづらい、ような、セクションについても、軽くお話致しましょう。

    一番最初に来るのは、『アヴィッチャー』(avidyaa)、無明、といわれるものです。無明とは、明らかでない、と書き、無知だということであります。

    ちなみに先に申しておくと、無明ゆえに何が生じるかというと、二番目に来るのは、『サンカーラ』(saMskaara)、衝動的なエネルギー、です。その、衝動的なエネルギーの原因になるのが、無明である、というのは、無明がない時は、衝動的エネルギーがいきなりわき上がってくることはない、ということです。

    では、無明とはどんなものか、というと、その、瞬間に自分の心の奥深くで何が、どんな感情がエコーがかかっていて、その奥には何があって、何があって、さらにその奥には何があって、という心の中身が、見えている状態と、見えていない時があります。見えていない時に、それを無明と呼びます。

    そして一般的には、誰もそれが見えていないので、無明なのです。そして、心、だけではなくて、身体、自分の身体の中で何が起きているか、いまどうなっているか、内部がどうなっているか、緊張していないかどうか、どこかに不快物質が生じていないかどうか、どんな神経物質がいま身体に生じているだろうか、といったような、そういったことについて、一般的には、生命は無自覚、なんです、とても無自覚です。

    この、自分のいまの心の状態と身体の状態に対して、意識が向いていない、念が向いていなくて、失念している状態、があるが故に、意識化して制御、におかれていないので、おかれていないと、その見えない所から急にエネルギーがわき上がってきます。

    と、いう形で、無明、故に、二つ目に生じるのが、因果の連鎖として生じるのが、この衝動的エネルギーがわきあがってくる、ということです。

    どんなエネルギーがわき上がってくるかは、その本人の業によって、決まっています。様々な、過去に作った思考が、ものすごいエコーをかけて、バラバラになったり、くっついたり、別の思考同士がくっついたり、別の情報同士が、圧縮されてくっついたり、離れたり。

    たまたま変な情報同士がくっついて、もしかするとものすごくそれが珍しいくっつき方だと、いいアイディアが思い浮かんだ、というようなことにもなりうるわけなのですけれども。いずれにしても、何かが無茶苦茶にくっついたり離れたりしながら、ある程度順番が決まっているんです、わき上がってくる。

    そしてある時、見えない所から、急に、過去に積み上げてきた、思考のエネルギーの組み合わせが、バーンッ!とわき上がってきて、わき上がってくると、でも、それで「わき上がってきました、はい、終わり!」ということは決してなくて、その次に生じるのが、『ビンニャーナ』(vijnana)。この『ビンニャーナ』というのは意識の働き、です。そのエネルギーに駆られる形で意識が作動します。これ、が、ちょっとわかりにくい所かもしれませんが、意識が先に働いて、それがエネルギーを使う、というわけではなくて、エネルギー、が先に働いて、それが意識を動かします。

    というのは、もう少し後のことを説明すると、少しわかるかも知れないのですけれども、意識がある瞬間、何かの所にピュッと飛んでいく、何かを見るとか、何かを聞くとか、何かを考えるとか、いう時に、気づいたら何かを考え始めていたり、気づいたら見たり、気づいたら、ふと気づいたら、もうその時には聞いているでしょう。

    とはいっても全部の情報を同時にとっていることはできなくて、どれかに意識を、必ずフォーカスしているでしょう。でも、それは根拠がないんですね、なぜそれにフォーカスしてしまうのか、ある時急に爆弾がバーンと鳴ったら、ほとんどの人が、それに、つい意識を向ける、と思うのですが、でも向けない人もいる。

    その、向けたり向けなかったりする、ということは、自分の心の中の業の組み合わせ、によって、そのフォーメーションによって、先に決められてしまっていて、エネルギーがあって、そのエネルギーが、意識をどちらに向かせるかということを決めてしまっている、ということです。

    とてもわかりやすく言えば、滅茶苦茶イライライライライライライライラして、いる、エネルギーが、たくさん表面化してきて、順番待ちをしている人にとっては、世の中、の、いま目の前で楽しいことがあっても、それは情報としてほとんど入ってこなくて、部屋のすみっこにあるゴミとかが意識化されてしまって、そちらに意識がピュンピュンピュンピュン飛んでしまって、「あぁ、汚い、汚い、汚い!」とか、どう考えてもそれが中心的情報じゃないだろう、という些末なこと、にまで意識が勝手に飛んでいって、否定したい、という気分になる、ということが生じるでしょう。

    これが、衝動的エネルギーが意識の向かう先を決めている、ということです。ですから、無明故に自動的に自分の心の中で溜め込んできたエネルギーが勝手にポッと浮かび上がってきて、そして、三番目にはその浮かび上がってきたエネルギーに従って、何を認識するかというのが決まります。

    この坐禅瞑想中に、その初歩段階とはいえ、若干、味わっていただいたはずなんです。ある時、ずーっと時計の音が鳴っているはずなのに、ある時は全然聞こえていない。

    集中出来ている、時には聞こえていないはずなんです。ただ、ある時、心が飽きてくるんです。「こんなつまらない呼吸の感覚なんて、集中していたくないなー、刺激が少ないなー、つまんないなー、刺激が欲しいなー」という風になってきた時、これは迷いの業です、集中しない、で、どっかに意識を漂わせて、逃げる、という迷いの業が活性化してきたために、呼吸に集中するのをやめて、何か他の刺激に飛びたい!という衝動が先に、急にわき上がってくる。

    これがサンカーラ、衝動エネルギーです。その衝動エネルギーがわき上がってくると、それに心が駆り立てられて、何かの刺激を取りに、移動します、意識が。その移動する先がたまたま時計であるという、必然性がやはり、あります。

    他にも音がいっぱいあるのに、たまたまその時、なぜ時計の音を取りにいくのか、ということです。どの程度の刺激を求めているのか、によります。ものすごい強い刺激を求めているような衝動が走っている場合は、時計の音じゃ足りないので、もっと激しいものを取りにいきます。

    しかし、音だと、たいした音がない場合は、もっと、「痛い!」とか、「痛くてイヤだ!」とか、そういう刺激を気にしにいきます。あるいは、そういうのは何も刺激が五感から入ってくることがなければ、記憶から呼び出そうとします。

    何か嫌なことを思い出して、刺激的なことを思い出したくなります。あるいは、未来のことを考えて、んー、「五年後に自分はすごく幸せな人生を歩んでいるに違いない」とか、物語を創り出して、「えへぇー」とかいう気分になって、刺激を発生させるかも知れません。

    ともあれ、どのような刺激をその衝動が求めているか、ということに応じて、どう情報をとりにいくか、ということが、実は決まっています。しかも、その刺激の量だけではなくて、種類が快い刺激を求めているか、不快な刺激を求めているか、に応じて、不快な刺激を求めて、怒りたい!という衝動エネルギー、怒りのカルマが働いている場合は、すすんでわざわざ自分から不快を取りにいきます。

    反対に、欲の業が出てきている場合は、心の中で将来の素敵なこととか、いまやっている仕事がうまくいったあとの報酬のこととかを、つい考えて、「えへぇー」という感じになって、意識が散漫になります。

    という形で、衝動エネルギーによって、意識が翻弄されています。で、意識が何か、意識とは、何か情報をキャッチする作用のことです。ちなみに、意識というのはもともと仏教語、です。仏教語が日常語、になったわけですが、一般的に使われる意識という言葉、ではなくて、仏教語でいう所の意識というのは、厳密な意味があるんです。

    意識、というのは、心の情報処理の一部、ワンセクションです。何かの情報をパッと認識する、その認識作用です。聞く、いま聞こえた、いま見えた、いま考えた、いま匂った、いま味わった、その瞬間、取る、フッと認識する、その瞬間だけをさします。

    なぜその瞬間だけをさすかというと、認識した後に刺激が走るとか、刺激に対して反応するとか、その後のセクション、は、また別の名前で名付けられていて、仕分けされているんです。最初の認識した瞬間だけを意識、と名付けます。

    そしてこの三番目に意識が成立すると、では何が次に起きるかというと、四番目に生じるのが、精神と物質のエネルギーの流れが生じます。というと、何やら難しく聞こえるかも知れないのですが、仏教語で五蘊と言われる所の、心と身体のプロセスが始まります。

    認識した瞬間に、その認識したものを記憶に照合して、これはこういうものだと一瞬にして決めつけます。(外から電車の走る音が聞こえてきて)「あ、電車だ!」と一瞬にして、自分で電車だと決めようと、「いまから電車だと決めつけることにしました」とか契約する、契約書に書くわけでもなく、意識、自覚化する暇がないくらい、一瞬にして心が勝手に決めつけてしまうという作用が生じます。

    証拠はないんですけどね。世田谷線の電車のような気は確かにしますけれども、もしかしたら誰かがここの人達を電車が通ったと思わせてやろうとか思って(笑)、テープレコーダーで電車の音を流しているかも知れないのですが、そういうこととはおかまいなしに、心は勝手に自分の記憶を照合して、勝手に決めつけちゃう。

    勝手に決めつけちゃうので、時々ミスも生じるんです。どういうミスが生じるかというと、例えば、うーん、男性で、女性に何回かひどい目にあった時に、「もう女なんて大嫌いだ!」という気分になっている時に、女性を見るたびに、「これも女だ」「これも女だ」というふうに、「女だから、絶対自分に害を与えるに違いない!」という風に決めつける。

    確かに、多くの女性がその人に、害を与えるかも知れませんが、全員から絶対に害を受ける、と決まっているわけではないんですが。しかし、心が一回思い込んで、執着として形成されると、もう、そう思わないようにしよう、頑張って打ち解けてみよう、と、その男の人がどんだけ努力しようとしても心の裏でつねに「ダメに違いない、絶対にひどい目にあう」とか、強く思い込んでいて、気が、引けて、緊張してしまい、自分から逃げ出してしまう。逃げたくないのに逃げてしまう、ということも生じるのです。

    ともあれ、この、決めつける、記憶が勝手に照合されて、勝手に決めつける、ということが生じて、そうして、それが生じると……、一瞬だけ刺激が走ります、先ほどの話と同じなのですが。そして刺激が走ったことに対して心が反応します。

    こういったこと、が、先ほどのようにわかりやすいレベルではなくて、実は六感に情報が触れる直前に、つねに行われて、いるということです。意識が先に働きだして、その、意識が何を認識しようということを決めた瞬間に、その認識したい、こう、自分が認識したいなーと思っている対象はこういうものであって、そしてそれは、快か不快かという刺激が走って、それに対して心が反応した、というようなことが先に電撃的に走った上で、じゃあ、六感を働かせ始めよう、ということが始まって、じゃあ聞こうって決まったり、じゃあ見よう、じゃあ嗅ごう、というようなことが決まって、初めて情報をキャッチします。

    そしてキャッチすると、ここから先が、日常的な意識レベルでも理解出来るような、「あ、触れた」「あ、刺激が走った」「心が反応した」、反応することによって執着が形成されていく、というようなプロセスが始まるのですが、この六感が働き始める直前が、恐ろしいスピードで起きているのですが、瞑想を通じて非常に集中力を高めていきますと、何かを認識する前に、「あ、これを認識しよう」とか心が決めている、というのが見えてしまうんです。

    「うわっ!こんな風に働いているなんて、茶番だなー」という感じがするんですけれども。ある種、デジャヴュみたいなものなのですが、聞く前に聞こうと決めていたり、見る前に見ようと決めていたり、するのです。

    というのが、無明、自分の意識、によって、心や身体の状態が把握されていない、ということが原因になって、その、見えない、真っ暗闇の領域から、ボーンッ!と衝動がわいてきて、衝動によって意識が飲み込まれて、意識が飲み込まれることによって身体と心の、いまの一瞬の連鎖が生じて、それ、がもとになって、六感が駆動、働き始めて、情報を認知する。認知したら、刺激が、生じる。刺激が生じると、その刺激に対する心の反応が生じる。反応が繰り返されると、執着が形成されて、執着が強烈化していくと、存在エネルギーとして、自分の中に楔が打ち込まれる、という、連鎖が生じている、というのが十二因縁です。

    この十二因縁の流れ、鎖をどこかで断ち切ろう、というのが仏道の、本懐と申しますか、本義であります。この流れには一切自由がないということが、おそらくわかっていただけることでしょう。

    「音が聞こえた、あぁ嫌だ!」としか思えないというのは全く自由がないんです。これは、ネズミが脳に電極を刺されて、実験、の道具にされてしまう時に、ビリビリッ、と刺激を与えられると必ず実験者に想定しているような反応を、してしまう、というような形で、ラジコンのようにネズミがされてしまう、わけですけれども、実質的にはそれと変わらない、状態に、人間、というのが置かれている、ということ。

    でもそれに、気づいて、いないんですね。気づけば「あぁ、そうか、こんな風に操られているのか」と、気づくと、そこから脱出しようというチャンスも生まれます。

    この、十二因縁の連鎖、瞑想を進めていくと、さっき申した、「名色」、心と物質の流れのようなものが見えてくるので、そこで止めるといったようなことも出来るようになってくるのですが、もう少し現実的に、止めやすい、所はどこかと申しましたら、情報が触れないようにする。

    それも大変困難ことなので無理です。では、情報が触れたら、刺激が走る、刺激が走らないようにする、それも無理です。触れた瞬間に刺激が走るので。

    では、刺激が走るのに対して心が反応する。ここは止められるか、止められないかといったら、止められ、ます。その刺激に集中して、味わいに集中すれば、それに対してどうだこうだと心が反応して、それで、執着として反応パターン化していく、ということが止められます。

    それが止められると、どうなるか、というと、毎回同じことを同じパターンにしてしまう、ということがなくなって、自分の心の反応を少しずつ選べるように、なっていきます。それによって、ようやく、刺激、が王様で、刺激にムチを打たれる自分は馬のようなものだった状態から、ようやく自分で自分を御することができるように、少しずつなってくるのです。

    そういうわけで、先ほど行いました六処、六門を観察する、瞑想、というのは、初歩、の段階で、この刺激が発生して、反応パターン、心の反応、煩悩の反応、リアクション、に飛び移ろうという、その瞬間、一瞬の時間差に、意識を差し挟んで、刺激そのものに集中することによって、その連鎖を止める、という、練習、お稽古、でもあったのです。

    食べていると、味わいが生じる、刺激です。その刺激そのものに集中すれば集中するほど、味わい深くなるはずです。

    味わい深く、なって、しっかり味わっていると、それについて、だからどうだ、と考える暇がなくなって、くるでしょう。

    反対に、味わったものに対して、「あー、おいしいからどうのこうの」とか、「まずいからどうのこうの」とか、心を反応させて、煩悩の中に逃げ込んで、いろいろ考え事が始まってしまうと、いつの間にか、味とかほとんど感じなくなって、全然忘れてしまう。

    刺激が生じているのに、ほとんど見えなくなってしまう。そして、十二因縁の最初に無明というものがありましたけれども、刺激に対しても、無明が働いている方が、より激しく、それに、支配されてしまいます。

    つまり、例えば味に対してものすごく無自覚で、全然感じないで、「おいしい、おいしい」とか言ってるくせに、おいしいという概念、知識で頭の中で「おいしい」という言葉を巡らせて、頭を刺激しているだけの、「どこどこ産のなになにの特別なものだから」と頭を刺激しているだけで、舌の感覚を全然ちゃんと入力していないので……、つまり、これが無明ですね、実際そこに生じている、身体としての反応、としての、ニューロンが送ってきている情報を認識していないので、認識していないと、勝手に、衝動に操られてしまう。

    でも認識をしっかりしていると、そこで、止まるんです、情報処理が。止まって、しかも、どちらのほうが味わい深いかというと、実は「おいしい、おいしい」とか無駄なことを頭の中で考えながら食べるより、ただ、ひたすら集中して味わった方が、本当はおいしい、という皮肉な、因果関係があるのですが。

    この、絶えず、刺激が入力されて、そしてそれに、反応して操られている、という、ある種の奴隷状態から脱出して参りましょう。そして、そのための道のり、を示す、フローチャートみたいなものが、この十二因縁、という、図式、なのでした、という感じですね。

    では、お話が少々長くなってしまいましたけれども、坐禅セッションに入って参りましょう。