僧の言箱
menu >> cafe / about / イエデ通貨 / shojin kitchen / rental gallery / iede cucan/ cotobaco / 月読寺 ・・・・・・・ / map / contact


(19)クチベタ世界の芥の山


みぃんなクチベタ、なのさ。
 誰かが発した言葉にひどく傷ついたり、ひどく圧迫感を受けたりしてしまうことというのは、誰しも、しばしばあることでありましょう。
 しかしながら実際のところはね、そんなのに傷つく必要は、ないのです、よ。だってほとんどの場合、その言葉を発している本人は、ココロの底からそんなことを言いたいのかというと、実際はドウデモイイと思っていたり、「そんなことが言いたいんじゃなかったんだー」と思っていたりもするもの、なのだから。
 「ホントに言いたいことはこんなじゃなかったのに、どうしてあんなことを言っちゃったんだろぅ・・・」というような、多くの人が日常的に味わっている、クチベタさ加減。
耳を貸すべからず。
 痩せなきゃだめだとか、ちゃんと働いてなきゃ駄目なんだとかいうメッセージ(あるいは、働かなくてもいいじゃん、という逆のメッセージ)をはじめとして、世の中には「常識」とでも呼べるような、色んな世論がはびこっているけれど、それも元々は、クチベタな個人たちが言った、本気で思ってもない言葉たちが積もりに積もったものなんじゃないか、とも考えられるわけです。・・・ということは、そんな世論を本気になって受け取らなくてもよくなる、かもしれませぬ。
 みんながみんな「クチベタ」な世界。そんなところに僕らは生活してるんだ、ということから出発して、「世論」というか「世間」というものを解体する方向性を改めて探ってみたいと思います。
 世論という名の超自我を解体することによって、自由な呼吸をするための隙間を確保するために。
日常的クチベタの諸位相。
 僕らがみぃんなクチベタだということにはいくつかの位相があると思われるが、そのうちで私が日常的に感じているクチベタを、4種類ほど紹介いたします。

 case-1 : ジブンまみれだと、単純に同意を示すことすら、できやしない。

 相手の発言とほぼ同じ意見であったとしても、ついつい気づいたら「キミとは違う、独自の自分の意見」をはっきりさせようと執着しちまいや、いたしませぬか? そのヨクボーに流されて相手の発言を部分的に否定したり補足したりすると、お互いの意見は似ているはずなのに、あたかも反対意見を持っているかのような印象をかもし出しちゃって、なーんとなーく嫌な気分が漂うなんてことは、そこらじゅうでしょっちゅう起こっているような気がいたします。
 「この生キュウリ、美味しいね」
 「や、んー、美味しいと言っても悪くはないんだけれど、厳密に申しますなら絶妙なる味、と言いたいところだね」
 「・・・さようですか」

 case-2 : 発言は人の組み合わせに左右される。

 「朱に交われば朱に染まる」というフレーズがありますけれども、人ってイキモノはどういう場に誰と一緒にいるかによって、コロっと発言内容を変える、無節操な生き物だと言えよう。
 最近(と申してもこれを書いたのは2005年のことですが)相談を受けたことから、具体例を引きます。
 日常的にあまりにありふれた光景として、人が集団で集まったときに、その場にいない人(それは上司だったり、同僚だったりする)の悪口を言うことで盛り上がりつつ結束力を高める、というグロテスクなものが存在いたします。
 ここでポイントになるのは第一に、当人が悪口を言われる理由は「具体的に悪人だから」というよりは、「単にそこにいない人だから」というのに過ぎないこと。
 それから第二のポイントは、悪口に参加する者が必ずしも悪口大好き人間というわけでもなく、その場の雰囲気に流されてなんとなく悪口を言っているだけかもしれない、ということ。(「流されてなんとなく」悪口を言うことに抵抗を感じる潔癖な人は、その場の空気を乱すということで仲間はずれにされたり疎外されてしまいかねない・・・)
 つまり、誰だってどこか知らないところで悪口を言われているかもしれないし、でも、その悪口を本気で言っている人なんて、ほとんどいないかもしれない、ってことになる、のではないかしら。

 case-3 : 表現するための回路不足。

 思いをうまく表現することができずして、こんがらがって、相手への期待や要求が、怒りや嘲りといった形の回路で出されてしまう、ということがあり得ます。
 よく言われるように、本当にどうでもいい相手に対しては怒ったりすらしないで無視するわけだから、怒りや嘲りの言葉には、潜在的に期待や要求が込められているものであります。
マスメディアの奇妙なクチベタ
 case-4 : メディアは口が達者すぎて(言葉巧みすぎて)真実を語れない。

 上に挙げた3種類のクチベタとは対照的に、あまりにも嘘が上手すぎて、いつも本心とは違うことばかり言ってしまうということがあり得るとぞ思ゆる。これは、TVをはじめとするマスメディアで流れる「意見」について当てはまるように思われるのです。
 芸能人が犯罪を犯してしまったときや、あるいは、犯罪とも呼べない失言をしただけのことで、それをTVは強烈に非難し断罪するのが通例になっており候へど、その大袈裟さといったら、「何もそこまで力んで責めたてなくってもいいのに」と思わせられるほどであります。
 力みが入り過ぎてるのって、どこかウサンクササが漂うものではありませぬ、か。
 そ、私に申させますならば、TVなんて犯罪を助長するような番組をわんさか流しておきながら、何をいまさら芸能人のつまらぬ犯罪なんかにムキになってるんだろか。と、辻褄の合わなさを感じるのさ。
 TVが他人の罪をことさらに責める正義の立場に立つことによって、あたかも自分には何の罪もないかのように装おうとしているというように、私には思えるのであります。つまり、TV局というシステム全体が「本当はTVに従事すること自体が視聴率の奴隷になってクダラナイことを垂れ流すことかもしれぬ」ということに対して無意識的な罪悪感を抱いていて、その罪悪感解消のために、他人の犯罪を責める必要が出てくるわけであります。
 芸能人は、そうやってTVメディアが自分の罪に目隠しする嘘をつくにあたっての、生け贄ということにでもなる、かもしれぬ。
 僕らの生活の中のいたるところに、こういう言葉の嘘機能がありふれていて、言葉はイイカゲンに使い捨てられているのです。そう、まるで芥のように軽薄に。
 たとえば私が生業とする僧侶の世界でも。説法の場で、どっかで暗記してきたような理屈しか言えないようなお坊さんにかぎって、「大切なのはリクツなんかじゃなくて、ココロなのです」というようなゴタクを述べたがるものだ。リクツを断罪してみせることで、あたかも自分が話している内容がリクツではないかのような印象を与えようとしている、という。
 「日本一美味しいご飯」などと書いてあるご飯は、美味しくないからこそ言葉の嘘機能でごまかそうとしているわけだったり、「私はとってもシアワセですよ!」と極端なまでに強調したがる人にかぎって、どこか精神的に問題があるものなのです。
 それと同様に、他人を大げさに断罪して自ら「正義ぶる」人ほど、自らの不道徳さをごまかそうとしているように思えてならないのであります。
 これら全てに共通するのは「日本一」とか「とっても!」とか「大げさに」といった、力み具合だと思われます。その力み具合を見てしまうと、そんなにも強調したり強烈に言うからには、何か別のウサンクサイ目的があるに違いない、という疑問を喚起せずにはおかないのであります。
 TV局はココロの底から芸能人の犯罪がイケナイことだと思って断罪しているわけではなくって、単純に視聴率を稼ぐためであるにせよ、自らの犯罪的なあり方を覆い隠すためにせよ、実際は芸能人の犯罪などドウデモイイのだと思われる。
 芸能人を非難するときの例にかぎらず、メディアが何らかの事柄を強烈に非難していたりしたとしても、それを本気で言っているという可能性は、極めて低いように思われるのであります。
 あまりにも口が達者であるがゆえに真実が言えぬ、奇妙なクチベタさ加減ということ。
 だから、メディアが発信している批判(や、あるいは賞賛)なんていうものは、真剣に取り合わないほうが良いと申し上げておきましょう。差っぴいて、話半分に聞いてればいい。もっと言えば、そもそもそんなものに耳を傾けないほうが良いかもしれない。
 そんなものが発信してくるものを真にうけ給ひて、圧力を感じ給うなんていうのは、やめにし給ふことを勧め申しあげ候ふ。
《クチベタ》ゴミの山としての、世論。
 以上みて参りましたように、僕らの言葉というものはたいていクチベタなのだから、誰かに非難されたり馬鹿にされたりしても、それを額面どおり真に受ける必要はないケースが多いようにぞ思ゆる。
 さて。さて。
 こんなにもクチベタな僕らは、思ってもいない言葉を積もりに積もらせている、よね。個人的にもドウデモイイ言葉のゴミをまき散らかし、TVやラジオやネットを通じても、ドウデモイイ言葉のゴミは大量にまき散らかされている。なんてこと。
 しかし、ゴミも積もれば山となる。
 そういう、ドウデモイイ、ゴミになった言葉が積もりに積もって山になったとき、個人のコントロールを超えた社会的な命令やルールのようなものとして、のしかかってくるのではないかしら。
 つまりは、世論などというものは、クチベタなる言葉のゴミが積もりに積もった、ゴミの山ということ。問題は、そのゴミの山を一斉に清掃するのは、なかなか大変だということであります。
ゴミの山を解体・清掃すべし
 ゴミの山に過ぎないものが、人を圧迫する威力を手に入れるのは、何によってだろうか。言い換えると、ゴミの山に過ぎないものが、マットウな社会的圧力として感じられるのは、何によって、でせうか。
 それは、ゴミの山を受け取る側の問題でもあり候ふ。
 つまり問題は、本当は誰もココロの底から思っているわけでもないことに関して、「でもみんながそう言ってるんだから、みんなは本気でそう思っているんだ」と無意識的に思い込むことで、はじめて、ゴミの山的な世論を受け入れてしまう=内面化してしまう、ということ。
 言い換えると、「世間」を成り立たせることによって自分を追い詰めているのは、本当はありもしないはずの命令やルールを、リアルに実感してしまう本人だということであります。
 ということは、まずはその実感を解体してしまえばよろしかろう、というもの。
 そのためには。
 眼の前にそびえたっている、世論という山は、元をただせばクチベタ芥の集積なんだということをはっきり認識して、それを自分にちゃんと言い聞かせること。「みんな、そんなこと本気で思ってるわけじゃないんだよね」と思ってしまうこと。
 僕たちのココロの部屋にしつらえるインテリアの中に、ゴミの山はいらない。燃えないゴミの日に、捨ててしまえばいいのさ。
 たとえ周囲の人間やメディアが悪意のある言葉を吐いていても、そんな悪意など誰一人として、ココロの底から本気では言っていないのだから、「あっ、そ」というように、涼しげに聞き流しちゃえば、いいんです。


>> (24)ファッション自分語り