僧の言箱
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(9)正論サイドエフェクト


正論デメリット
 ありふれた正論を、さも自分独自の考えであるかのように、得意げになって口にするのは、単に恥ずかしいことであるだけではなくて、《場》を白けさせて本人の評価を下げてしまいますゆえ、要注意。
 たとえば特に馬鹿馬鹿しいのを思いつくまま適当に挙げてみると、こんな感じのセリフたち。
 「臨機応変っていうのは、大切なんだよ、うんうん」
 「ものごとっていうのは白か黒に分けれるもんじゃないんだよ」
 「人の場合、1+1=2になるなんて限らないんだよ、わかる?」
 「大切なのは外見じゃなくて中身なんだよ」
 ・・・この手合いの正論を、もっともらしく言っちゃいますなら、たしかに反論の余地は無いんだけど、だから何なのじゃよー、という具合に場を興ざめさせてしまっても、しようがないのではありますまいか。正論は、つまらないし、なんだかみっともないものです。
 ついでに寄り道させていただきますなら私があまり好まぬ正論として、「大切なのはお金じゃなくって心なんだよ」といった、ものすごーく分かりやすい発言があります。それは確かに仏教的に見ても完全に正しいことなのだけど、それを口先だけで言ってしまうのは、どうかと思うのであります。頭では、お金よりも心が大切なことくらい、誰だって分かっているさ。けれど多くの人が、実際の行動としては心よりもお金のほうが大切であるかのように生きてしまうことこそが問題でせうよ。それなのに「大切なのはお金じゃない」と口先で言っちゃうことで、実際はお金に操られて生きざるをえない現実に見てみぬふりをする偽善者に、なってしまいやせぬだろか。
 現代ではその真反対に、「しょせん世の中お金がすべてなんだよ」ということを偽悪的に言う人々も見受けられ候ひて、これはこれで説得力がありますゆえに、分かりやすい正論の一つとなっているように思われます。しかしながら私に申させますなら、たしかに事実はそういうふうになっているけれど、それを言っても何にもなりやしますまい。
 大事なのは、こういうありふれた、分かりやすーい意見を対立させあうことじゃなくって。現実の社会が自分自身も含めてほぼ完全にお金によって操られているという「事実」は事実としてちゃんと認めたうえで、それに操られないで済むように心を律することでせう。
 えっと、何が申したかったかというと、正論を言ったからといって解決になるどころか、問題の核心を逃すことになりかねぬよ、ということに候ひけり。そのうえ、正論を偉そうに語っちゃいますなら、周りの人を興ざめさせてしまうこと請け合いであります。なぜなら正論というのは、大多数の人間が納得して少なくとも理屈のうえでは受け入れるものである。ということは、イコール、正論とはそれを言っている本人独自の考えではなかろ、と言い換えることができそうであります。ゆえに、それをまるで自分独自の意見であるかのように得意そうに語っちゃうと、かなーり間抜けな印象を与えることになります、よ。
 その手の間抜けさは、場を強烈に白けさせてしまうものであります。
 ゆえにどうしても正論を言わざるを得ないときは、「得意げ・自慢げに語らない」というのをポイントにしては如何だろうか。言い換えると、正論の中に入っている「ジブン」の濃度を、薄めてみることをお勧めいたします、よ。
 それが自分独自の意見ではないことをサリゲナク伝えるため、「まぁ、ありがちな発言なんだけど」とか「誰々が言っているように」とか、遠慮がちに引用元を示しとくのもありかもしれない、です。
正論アレルギーで濃くなる自分濃度
 上のように正論とはしばしば痛々しいものでありまして、コミュニケーションに壁を作って、ガタを来たす原因になりがちです。
 たとえば誰かとの対話の際に、正論をブッてしまうとすると、ありがちな反応として次のようなものがある。「そりゃ・・・確かに正論だけどさ・・・でも・・・」というやつ。この言葉を適当に翻訳してみると、だいたい次のような感じだろう。「確かに間違ってるわけじゃないんだけど、誰にでも当てはまる一般論に過ぎないんだから、他でもないまさに《このかけがえのない自分》に対しては当てはまらないよー」
 こういう感覚は、正論に対するアレルギー反応とでも申せようかしらん。しかし、こんなアレルギー反応をしちゃうと、対人関係においてそれなりのデメリットがありますよー。
 正論に対して《このかけがえのない自分》を守ろうとするアレルギー反応の中には、自意識過剰という毒素がひそんでいる。自意識濃度をガァンと上昇させる病原菌が、ひそかに繁殖してる、っていうこと。
 そして、ここですごく重要に思われるポイント。
 人(特に現代人)ってやつは、たいてい自分自身の《自意識濃度》が濃いくせして、自分のことは棚に上げて、他人の《自意識濃度》に対しては敏感に、攻撃的な反応をする傾向にある、ということ。
 言い換えると、正論=一般論に対して「このかけがえのない自分には当てはまらないよー」といった、尊大かつ生意気な反応をする人は、自意識過剰で鬱陶しい人間として、日常社会では敬遠されがちだよね、ということ。
 つまり、正論を聞かされるのがつまらないからといって、あんまり正論に対して赤ん坊のような「イヤイヤ」をするのは、やっぱり周囲から疎まれる結果に陥るだけじゃなくて、自分が意固地になってゆくような業を積むことになってしまうのであり候へば、慎むべし、慎むべし。
 正論は正論として、涼しく聞き流してあげることで、自分病を予防する訓練にもなることでせうよ。「(3)イイカゲンな相づちのススメ」や「(4)お嬢さまことばの真髄」に書いたように、「そうですねー」とか「さようですか」「へー、そっかー、ふーん、なるほどねー」などとと、イイカゲンに聞き流すのがコツであります。
正論という薬の副作用
 が、正論や一般論は《当たり障りがない》どころか、時として思いもよらない副作用を秘めていることもあるように思われます。そういったわけで、正論の、ちょびっとシニカルにひねくれた有効利用法を示してみましょう。
 正論ってやつには、上に見てきたように、本人独自の意見というのは、ほとんど入っていないものです。それを得意げに語るのはドアホだ、ということを確認しました。が、正論には本人の意見が入っていないというのを逆手に取ってしまえば、どうでしょうか?
 本人の意見が入ってない、ということはつまり、内容が無い、形式的な言葉であるということです。それは、一対一での対話のとき、お互いの距離を取って冷静になるために、とても役に立ちます。
 感情というものはすこぶる個人的なものでありますゆえに、個人の意見がほとんど入っていない正論は、個人的な感情を押し殺してクールダウンさせてくれるはず。正論とは単なる一般論に過ぎませぬから、そこに「ジブンの意見」は入っておりませぬ。じぶん、じぶん、と自分を前面に押し出すことこそが、感情的に振る舞い他者に迷惑をかける元凶であってみますれば、そっけない正論はお互いの中にある「ジブン、ジブン」という落ち着きのなさを消してくれるでせう。《自意識過剰》というものが甘えの一種だとしたら、ドライな正論・一般論はその甘い《自意識過剰》を焼き切る威力を持っているように思われます。そ。当たり障りがない正論の中に含まれる、当たり障りのある副作用。
 やや極端な例になるかもしれぬがたとえば、興奮して「死にたい」と言っている人を目の前にしたときなどは、相手の感情を揺さぶるような独自の意見などというものは必要ないかもしれない。そういうときこそ、「死んだらご両親もお友達も悲しんでしまうよ」だとか「死んでも問題の解決にはならないよ」といったような、ごくありふれた正論を伝えてあげることが案外、お互いが冷静になれるという意味で、良いかもしれぬとぞ思ひ侍る。妙にドラマティックなことを言って、相手の気分を刺激したり盛り上げたりするよりは、ね。
 こうやって正論によってきちッと答えることは、自分の感情を出さずにつらまない当たり前のことしか言っていない、というのは確かなのだけれど、しかし相手を無視しているわけではなくそれなりに相手のためを思って言っている、というのがそこはかとなく伝わるのだと思うのです。
 そういう使い方ができれば、冷たくてつまらぬ印象を持たれがちな「正論」も、むしろ相手へ礼節をはらう優しさ、という副作用へと転ずることも不可能ではなかろう、ね。

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