僧の言箱
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(7)不幸マゾヒズム


愚痴による二重の快楽
 「痩せてて困っちゃうんだよねー」「外車買ったんだけど燃費が悪くてさー」「わたしって、家で皆からしいたげられてて、かわいそうなのよー」「私は世間というものに適応できない、駄目人間ですからゴメンナサイ」
 といった感じで不幸を人前に見せるとき、人っていうやつは、どこか嬉しそうに語ってしまうものであります。誰にだって、一度は身に覚えがあることでは、なかろうかしら。(ちなみに三つ目の例は、かつての私がそうであったよゆな、似非文学青年にありがちな、自虐台詞の典型例を挙げてみましたよ。)
 嬉しそうに、不幸を語る、このシアワセなフシアワセを、happy unhappinessと名付けてみませう。そこには屈折した、濃度の濃い「自分」がうようよと溜まって、「見て見て、この私の不幸は素敵でしょう」と自己アピールをしているのだから、どんどん自分が腐敗するッ。
 それを聞かされる他人の側にしてみたら、嬉しそうに不幸自慢をしているさまは、「ナンダヨ、こいつ」という気分を抱かせてしまいかねませぬ、要注意。
 つまり、それを聞かされた側にしてみると、まあちょっと極端に言うと、こんな感じになってしまうというもの。「愚痴を言ってこちらから同情を引き出すうえに、さらに愚痴を言うこと自体に快楽を感じているなんて、二重の快楽を得やがって!」と、ね。
 さて愚痴という言葉はもともとは仏教用語にて、本来どういう意味だったかと申さば。「愚」と「痴」のどちらもアホタレという意味でありますから、どうしようもない阿呆だということであります。ぐちなんて言おうものなら、それで自分の気持ちが暗く澱みマイナスなエネルギーが心に積もるだけじゃなくって、それを聞かされる相手はイライラしかねぬゆえ、二重に自分が不幸になるだけなのに、目先の快楽におどらされて、ぐちをブツブツと言ってしまう。そんなの、阿呆と申すしかありますまい。
 しかしこうやって、恥ずかしげもなく何かに文句や愚痴を言いながら生きるのが、我ら人間の姿。かような美しからざる姿からは脱出するためにも、戒めて参ろうではありませぬか。
不幸自慢 v.s. ヒステリー
 しかしながら、何故に不幸自慢がこんなにも他人をイライラさせる傾向にあり候ふや。
 「他者が、自分から隠れてこっそりと快楽を得ている」というのが、ヒステリックな人にとっては、 最も耐え難い事柄なのであります。したがって、外見上は不幸のように見せかけて(損してるように見せかけて)、 実際は快楽/幸福を盗もうとしている(得をしている)ような不幸自慢は、 ヒステリックな現代人をイライラさせてしまう、といった寸法。
 これもまた、本当は自慢という自分語りなのに、あたかもそうではなくて謙虚に自虐をしているかのように見せてしまう、 メッセージの暗号化の一種だと申せましょう。残念ながら、そういった暗号は簡単に解読されて(バレて)しまいますゆえ、無駄、無駄。こんなことをしてると、余計に自分が不幸に転がり込んでゆくだけですから、即刻止めるべし。
不幸を餌にする心の仕組み
 仏門での、不幸に関するアプローチを紹介いたしましょう。
 ココロというシステムは、眼・耳・鼻・舌・身・意から刺激を受け取って栄養にしている。このココロの波動はいわば雑食性で、刺激であればなんでも食らおうとする、のです。極めて残念なことですが。
 ということは、刺激を全く得られなくなればココロの波動は死んでしまうので、刺激が得られなくなってくると、不幸でもいいから刺激を得て、自分を維持しようとしちゃうのだよ。
 だから、仮に不幸になっても刺激が得られる限り、ココロは幸せになってしまうんです。
 なんというか死に物狂いで、不幸だろうと何でも良いから、むさぼり食うようになってしまい、不幸を原材料にして奇妙な幸福モドキを製造してしまうこと。
 ここでの大問題は。本人はそこで奇妙なシアワセを感じられたとしても、その不幸話を他人に自慢しちゃうと、キモチワルイって逃げられたり、イライラさせたりしかねないっていうこと。
ココロからの解放=イエデ
 そういうわけだから、好きな人と仲良くしたかったら、あんまり不幸自慢なんかしないほうが良いっていうこと。
 自分が不幸のどん底にいると思って良い気分にひたってしまってしまいそうになったら、それはココロというシステムが生存欲求のために、自分を操っちゃてるんだと、気づくのが吉です。
 言い換えると、ココロの奴隷になってることを、明確に意識するってこと。これって、気づきさえすれば、けっこう恥ずかしいことですから、「あー、こんなの止めたい」という気力がわいてくる、原動力にもなるはずであろうさ。
 ココロの奴隷になるのを止めれば、happy unhappinessからも脱出できるうえに、好きな人に嫌われる可能性も、ちょびっと減るってものであります。
 ココロというものは、穏やかなシアワセという栄養分よりも、劇薬のような刺激が一気に得られる不幸や不愉快さという餌を、好んでしまうもの。そのココロに操られてしまっていては、己はどんどん歪んだ方向へと引きずられて行ってしまうのであります。
 だからこそ、ね、『涅槃経』に、「心の師とはなるべし。心を師とすることなかれ」とあるのです。ココロをつかまえて、不幸なんかを餌にしないように教育してあげる必要があるのであって、間違ってもココロの欲求に教育されたうえに操られて、不幸を気持ち良がるマゾヒズムにはまっちゃったらダメだよ、ということ。
 ココロなんていうやばっこいシロモノからは、足取り軽くイエデしちゃえば、いいのさ。飄々と楽しきメロディーで、口笛吹きながら、ね。

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