僧の言箱
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(6)意見の邪悪さ


フォローすら出来ぬ
 ある日の、夕暮れ前。友人と自転車をこいで散策をしていると、不思議な名前が刻まれた表札に目が止まって、友達を呼び止めたんです。ここでは明かせませぬが、すごく珍しい名前。僕らが自転車に乗ったまま表札をじろじろ見ているところに、ちょうどその家の奥様が買い物袋をさげて帰宅して、「どうなさったの」と話しかけてき給ひけり。
 「えと、とても素晴らしいお名前だな、と思って表札を拝見していました」と、やや慌てて返答する私。奥様はそれなりに嬉しそうな声で、「まぁ、立派な名前すぎて名前負けしていますのよ、ホホ」と仰るものだから、「いや、そんなことないですよ」と紋切り型のフォローをしようとした僕ら。
 しかしそれを待たずに、彼女は話を続けたのです。「これ、女性のような名前でしょう?だからよくわたしの名前だと勘違いされるんですけど、これは主人の名前ですのよ」それから引き続き、ご主人の出生と命名のエピソードまで聞かせていただいた。
 それから、彼女は最初のセリフに立ち返ったのです。
 「立派な名前すぎて、名前負けしてますのよ。主人なんてもう、ぜんぜん、立派じゃないのに」
 むむむ。私は最初、奥様が自分自身の名前のことを謙遜していると思ったものだから、「まあまあ、そんなことないですよ」と返答するのが通用するかな、と思っていたものの、こいつは駄目だ。というのも、私たちはご主人のことなど全く知らないし、せいぜい生まれたときの事を聞かされただけなのに、「そんなことないですよ、立派な人ですよ」なぁんてフォローしても、あまりにも嘘クサくて白々しきゆえに。
 時間があったらもう少しお話を聞いて、ご主人の良いところを見つけてから「名前負けしてませんよ」とフォローする、という作戦はあったのだけれど、あいにく私たちには行き先も予定もあったので、敗退したというわけでした。
 そういうわけで二の句が次げなくなった私は、「そうですかー、そうですかね・・・」みたいに訳の分からないことを言いながら奥様の買い物袋に目をやって、「あ、夕食のご準備にお忙しいところ、お引止めして申し訳ありませんでした。そろそろ失礼します」と、奥様に挨拶をして、そこを立ち去りにけり。
 夕暮れの町を自転車こぎながら、「名前負けしてます、なんて言われても返事できないよなー」などと話しながら、笑っていました。
 誰かが卑屈なことを言って自分を低めたら、相手はフォローしてプラマイゼロにしてあげなくちゃいけない、義務感のようなものを背負わされることになる。「自分なんか駄目ですから」と言う人に「本当にお前は駄目だな」と言ったらたいていは怒るように、「名前負けしてますね」と言う人は、相手から「そうですね」と言われることを想定していないわけだから。
 しかしながらこの場合、「そうですね」なんて言えるわけないのはともかく「そんなことないですよ」とすら言えない状況に立たされたのが何とも不思議で、アハハハハと笑ってしまったのさ。
意見は邪悪
 この時は肯定もせずに否定もせずにお茶を濁す、という選択肢を取って立ち去ったわけでありますが、そうやって沈黙するので全く問題ないと思うのです。「本当に思っていること」なんかを、相手に伝える必要はまったくないから。
 だってさ、所詮は人っこひとりが持ってる「本当に思ってること」なんてタカが知れていますし、たいていはクダラナイものに過ぎませぬ。それが伝わったからといって、誰が嬉しい気持ちになるわけでもない内容なら、そんな考えは葬ってしまえばいいだけの話であります。もしどうしても伝えたい意見が自分にあるように思ってるとしたら、そんなのは大抵の場合、気の迷いですよ。
 言い換えますならば、何でも「正直」に言い放ってしまえば良いかというと、そんなはずは無かろ。それは直感的にみても明らかなのもまた、事実です。さきほど紹介した奥様に対して、「あなたはご主人は名前負けしていると仰せになるけど、《本当にあなたのご主人は駄目な人なのでしょうね》と私に答えられたら、あなたは腹が立つんでしょう?」なんて、こちらが思っていることをストレートに伝えるのが良いなどとは、決してあり得ない話です。 そんなクダラナイことを伝えることは無意味なうえに、それによって人を不快にさせるなんて、下劣な行為と申さねばなりませぬ。
 人が口にする言葉には、どんなにいい加減な発言にも、その人の個人的かつ手前勝手な「意見」が入っています。 つまり、言葉の中には「自分の」意見が入っているのであります。言葉には「自分」が入っているからこそ、意見が否定されるとものすごく不愉快になっちまうのです。 どうでもいいクダラナイ意見のくせして、ね。
 しかも残念ながら、なにかに対して、まったく同じ意見を持っている人は決して存在いたしませぬから、しょっちゅう食い違うのさ。 さらに「本音」であればあるほど、その人特有の「意見」になるぶん、 他の人の「意見」と食い違う可能性が高くなることで、ありましょう。
 ということは、単に他人の本音を聞かされただけでも、聞かされた側はただそれだけで、 「このボクの大事な大事な意見を傷つけられたヨー」だなんて、幼稚なことを感じてしまう可能性を避けることはできない、ってこと。
 仏道では、「意見」=「邪見」という方程式を成り立たせるほどに、個人的な意見を邪悪なものと見ています。 邪見とは、邪悪な考え方、ということ。 何故に「意見」が邪悪なのかというと、 真実を個人的に捻じ曲げてしまっているからというのが、標準的な答え方ではありますが、別の申し方をしてみませう。
 意見には、「自分」がたっぷり注入されていますから、人は自分の意見に執着いたしますし、 自分の意見に縛られるほど自分濃度は高まり、融通の利かぬ人間になります。喧嘩も戦争も、全てはクダラナイ意見が元になって起こるのであります。 仏教では意見や見解のことを人間固有のヨクボーの一種として、撃退しようとするのであります。
意見は邪悪
 認めたくないかもしれませぬが、他人から意見をぶつけられることで、誰もが嫌な思いをしている、というのが現実であります。  他人に不愉快な本音や気分の悪くなるような意見をぶっつけられても、いきなり怒る人は滅多におりませぬけれども、 それはあくまでも社会上の礼儀や体裁などの色々な条件を気にしているから、に過ぎませぬ。
 言い換えると、たまたまそういった条件によって「怒り」が吹き出るのを抑えているとしても、 「怒り」のエネルギーは内に蓄積されることになってるのです、よ。 この心のエネルギーのことを業=カルマと申しますが、そして何かの拍子にゲージを振り切った時には、怒りの業に駆られた行動が発動することになるでしょう。
 そういった怒りが溜まったのを他者にぶつけて、さらにそれがこちらに跳ね返ってきたときには、こちらもまたさらに怒りに汚染されてしまうことになり、微量とはいえ今後の行動がすべて、怒りによって方向づけられることになってしまいます。その怒りのループこそが、自分だけじゃなくて周囲の人の目の前まで曇らせて、何もかもうまく行かなくしてしまうってわけなのさ。
 だからね、子供のとき学校のお勉強で「自分の意見を言いましょう」なんて教えられたことなんて、忘れちゃいなよ。そんな邪悪な意見なんて、他人に言って怒りループを作る必要はないのですから。

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