僧の言箱
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(4)お嬢さまことばの真髄


『お嬢さまことば速修講座』
 加藤ゑみこという御方の著書に『お嬢さまことば速修講座』というのがありまして、ある日偶然それを、 当時交際していた女性の家の本棚に見つけて手に取ったのでした。それをぺらぺらめくってみたら、けっこう面白かりしのみならずして、己を抑制する美学という点で、仏教と共通するものがちらりちらりと感じられ、嬉しき心持ちになったのであります。
 この本によると「お嬢さま」の取るべき態度として焦りは禁物。なんとなく返答に困った時や、明確なことをいうのがわずらわしいときは、曖昧かつ穏やかににごしてしまえば良い、と。
 「『ええ』『まあ』などとおっしゃったきり、ほほえんでいらっしゃれば、どうせたいしたことをお話しになっているわけではないのですから、自然に、別の話題に移っていかれるものと存じます。」
 そうしてしまえば、ものの見事に話の腰は折れてしまうでしょう。どうせ大したことなんて話してない、という達観ぶりも飄々としていて素敵です。
 そのほかにもあいまいな否定の返事として、「さあ、どうだったか、忘れてしまいましたわ」「なんのお話だったかしら」「そういうお考えもございますのね」などなど、これらも相手の話の腰を折るのに、最適かもしれませぬ。
 そういうわけで仏教と、「お嬢さまことば」には、不思議な親和性があると申しても間違いではなかろ。相手を傷つけずに話の腰を折って会話の流れにクッションを作るために、お嬢さまことばの持つ良さは、大いに役立つはず。
 かかるがゆえに、イエデ式の仏教は、お嬢さまことばを推奨いたします。この本、見開きに置かれたユーモラスな言葉から始まっているのも、好感が持てるんです。「ご注意!お嬢さま言葉をつかいたくない方とお会いになる前、1時間は、お読みになりませんよう。自然にお嬢さまことばになってしまいますので。」
「さようでございますか」
 さて、『お嬢さまことば速修講座』の中でお嬢さまが使う曖昧な否定表現の一つとして挙げられているものに、「違います」と言う代わりに、「さようでございますか」というのがあり候ふ。
 肯定するときは「さようでございます」、否定するときは微妙なアクセントの違いをつけて、「さようでございますか」と疑問形に。「さようでございますか」などと言ってしまえば、相手が傷付くこともなく、しかし何となく話の腰が折れて話題が切り替わるきっかけが訪れることかと期待されます。
 この「さようでございますか」をうまく使いこなせないで相手のトークに流されてドギマギしてしまい、「ええ、まあそうですね」なんてへつらってしまおうものなら、偽お嬢さまとして「お里が知れてしまうだけのことでございます」とのこと。実用として考えてみると、 「さようでございますか」とまで言ってしまうと流石に慇懃無礼や嫌味に聞こえてしまいかねませぬゆえ、実際は「さようですね」とか「さようですか」くらいが無難だとは思ひ候ふ。
 ともあれ、お嬢さまたるもの、他人の話の腰を折るにあたっても、気品をもって折っていただきたいものであります。
防壁:「サヨウデスカ」+α:沈黙の凛々しさ
 この気品というものこそ、別に「お嬢さま」に限ったことではなくて、あらゆる人が身にまとうことによって良い方向へ成長できるものだと、私は思うのです。必ずしもお嬢さまことば自体を真似する必要はありませぬけれども、 お嬢さまことばの中に含まれる、人に媚びず、されど人を傷つけぬ配慮の行き届いた精神こそは、誰もが見習ってしかるべきものではありませぬか。
 私たちは誰しも、聞きたくない話を聞かざるを得ない立場に立たされちまうことだって、あるものです。そして、相手の話を無闇に否定したり口答えしたりできない状況には、この世知辛い社会で生きてゆく以上、しょっちゅう出くわすハメになるのは仕様がないことであります。 たとえば上下関係のせいやあるいは相手を怒らせたくない時、あるいはこちらの気持ちを言って反論しても分かってもらえないだろうな、と明らかに思われる時。
 だからと言って反対に、相手の言葉にへつらって「そうですね、本当にそう思います」なんて言ってしまうのは情け無くみっともないことだし、何よりそれは嘘をつくことになるから避けたいものであります。余談ですが嘘は仏道では、「妄語」として、自身の心によくないエネルギーを積もらせる十悪の一つに数えられもし候ふゆえ。
 無理をして相手を否定したり言い負かしたりしたって、相手は不愉快になってしまうだけであり良い方向に変わってくれることなんてまず無いのだから。そんな時こそ、相手の言葉をサラっと「さようですか」で流して、そして静かに沈黙する勇気を持ってみてはいかがでしょうか。
 私がそれを勇気と申すには、理由なきにはあらず。仏道の心理分析からみると人の心はどういうシステムに出来上がってるかというと、ともかく人の言うことに悪いところを探して否定するという、「怒り」のエネルギーを好むようになっているのです。誰もが「怒り」のエネルギーに引きずられてネガティヴなことを言ったり、あるいは反対に「欲」に従って相手にへつらうようなことしか言えないでいる。それが、人間のごくごく自然な生き方。申さば、そうやって怒りの言葉か、欲の言葉をベラベラと喋り散らかしてるみっともない姿こそが、私たち人間の生き方なのです。
 その怒りと欲のお喋りがべらべらぺらぺらと現在進行中の真っ直中にあって、あえて静かに沈黙していようとするのには、いくばくかの勇敢さが必要だと思ひ候へば、その勇敢さを持つことによってはじめて、周りに合わせながら裏でイライラしてるようなミットモナイ地平から抜け出すこともできるであろ、と申したいのです。
 相手を否定する「怒り」に流されることもなく、損得勘定をして相手におべっかを使う「欲」に流されるでもなく、「さようですか」と、さらっとかわして後は勇敢なる沈黙を選んでしまえる姿は、きっと誰に対しても凛々しいものに映るに違いありませぬ、よ。
 だからね、たまには、お黙りなさい、なんて勢いで自分の心を抑えてしまうくらいに、参りませーう。自分の伝えたいことなんて、ほんの小さじ1杯もあれば充分すぎるほどなのですから。

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