僧の言箱
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(2)奴隷化からのイエデ


ケチつけ=奴隷化
 「この店、お茶は美味しいんだけど内装がイマイチだし、客がうるさいのが嫌だよねー」
 カフェやレストランで。映画を観終わった後。人ってやつは、いちいち何かに軽くケチをつけないと気が済まないようにできているのかも、しれませぬ。 なんというか、そう、コメンテーター気取りとでも、呼びたくなるような。
 しかしながらそれを聞かされる側としては当然、興ざめしてしまうことでせう。
 ケチをつけたくなる、という心理を仏教的に見てみると、「これにケチをつけれるジブンのセンスは、すぐれてるヨ」という裏メッセージを含んでおりまして、ケチをつける対象よりもジブンを優位に見せたい、という欲望と結びついているのであります。ゆえに、ケチをつける相手についてお喋りをしているように見えて、実はジブンのことを語っているのであります。  ここにも単に「ジブン」が無駄なばかりに大量に入って、自分濃度が濃く、濁っているのであります。それだけじゃなくってさらに悪いことには、直接自慢するんじゃなくて他のものにケチをつけて密かに、間接的に自慢しているわけでありますから、イヤラシイ。意識するとせざるとに関わらず、周りに嫌がられるのは自然な成り行きでせう。

 しかし、どうして「ケチつけ」ばかりをする人が、あまりに醜く見えるのかを、もう少し掘り下げて考えてみたくこそ思ひ候へ。「ケチつけ」をするときは、「怒」と「欲」という、仏教でいう三毒のうち二つもの毒が機能しているわけでありまして、それ相応の醜さがにじみ出てしまうのであります。
 そして文句ばかり言う人は、実は、ケチがつけられている対象にどっぷり依存している。欲も怒りも、対象がないと作れない感情でありますゆえに。
 わかりやすい例えとしては、お酒を飲みながら現在の政権や官僚の悪口ばかり言ってクダを巻いているオジサマは、その政権が崩壊したら、別の「敵」を探さなきゃいけなくなって、困ってしまうだろう。
 奴隷は本当はご主人様に依存しているんだけれど、ご主人様に隠れて、ご主人様を裏切ったり悪口を言ったり、ケチをつけたりする。そのことによって、奴隷という耐え難い状態の中でも、ご主人様よりも精神的に優位に立とうとしてしまう。…まさにこうやって、奴隷は満足して、都合よくいつまでも、ご主人様の奴隷として奉仕してゆくことが可能になる。適度に、ケチつけをして、矮小なプライドを後生大事に守りながら。
 その姿が他人様の目にどう映るか、それは申すまでもなく、みっともなく醜悪なる見え方をすることであろうさ。
矮小なプライドなぞ要りませぬ
 ここでのポイントは、矮小なプライドを守るために他人や社会にケチを付けている人というのは、自分のプライドを守るために言っているはずなのに、結果としてはむしろ自分をちんけな人間として印象づけてしまう上に、心ある人からは敬遠されることになってしまうということ。
 どう考えても、そんな矮小かつ無駄なプライドは捨てたほうが良いでせうよ。

 カフェの例に戻ることにいたします。
 「ここのカフェ、紅茶が美味しいよね」
 とだけ素直に言って終わりにできず、ついつい文句をつなげてコメンテーター気取りしてしまいたくなる理由を、考察してみたい。  ドライな言い方をすれば、内装が気に入らなかったり客がうるさいのが嫌だったら、出て行って場所を変えるか、店のスタッフに、静かにさせてもらえるように頼んでみるとか、色々、作戦はあるのに。
 …と考えてみると、文句を垂れ流しつつも、あくまで出て行かないということは、本人はこのカフェにいたい、ということであります。しかし、「うるさい」「内装が悪い」場所に満足していると他人から思われると、なんとなく嫌だったりしてさ。そこで、「あくまで自分は不満なんだけど、しょうがないからここにいてあげるよ」的なメッセージを発するわけであります。
 が、これはとても、鼻持ちならぬ態度であるのは一目瞭然でありましょう。
 こんな鼻持ちならぬメッセージを他人に聞かせてしまうのを防ぐべくして、ごく単純な心の筋肉トレーニングのようなものをしてみませう。むやみに「ケチをつける」のを、控えてみる、という筋肉トレーニング。
 試しに、一日だけでも、まったく何かにケチをつけずに過ごす努力をされてみることをお勧めします。それがいかに難しいかということがお分かりいただけるかと思います。
 しかしケチつけの回数を減らすだけで、その人の雰囲気には気品のようなものが漂うようになるものであります。「あ、自分はケチをつけたくなっているな」、と思ったら、上に挙げたデメリットを思い出してみてください。その一回一回の禁欲が、奴隷化への予防筋肉を鍛えることになるはず。
 その結果として、奴隷になるのを止められるだけじゃなくって、自分濃度を薄めて、自らの雰囲気が穏やかで気品あるものに変わって参りますゆえ、自然な副作用として、一緒に過ごす人と心楽しい会話ができることでせう。無論、仏道はモテるための教えではありませぬが、自分への執着を薄める副作用としてモテやすくなることは、大いにあり得るのです。

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