家出空間 仏道式イエデ4コマ
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仏道式イエデ4コマ 僧侶エッセイ

ラクガキのような4コマを通じて仏道を説いて参ります。上のほうが新しく、下のほうが古い、という順番で配列しておりますので続き物の場合は、下からご覧になられると良いでせう。

第七百十九回

 鎌倉の街中で見かけた注意看板に、こんなものがありました。「ここで、○○をしないで下さい。ここは、○○する場所ではないからです」と。

 ここでの、「○○」をしないこと自体は良い内容だと思うのです。けれども残念ながら、この看板を目にした人で、「○○」が好きな人はきっと、多かれ少なかれ気分を害することでしょう。

 なぜなら、「〜な場所ではないからです」と、まるで愚かな人々を見くだすように諭す理由を説きつつ、それを書く文章の背景にある心が怒っているからです。

 怒っているうえに見くだすような注意書に触れて、改心することは、ないでしょう。

 それを踏まえて、他人様に何かを改めてもらいたいときの伝えかたを、素朴で素直にしたいものですね。

 具体的には、(1) 怒りは自己観察して手放す、(2) 理由をくどくどと言わず、シンプルに言う、(3) 理由が必要なときは相手の非を突かず、自分が困っていることを素直に伝えるといったところですかねぇ。も一つ、つけ加えるなら、(4)「自分の要求も間違ってるかもしれないなあ」と、謙虚になっておきたいものです。



第七百十八回

 いやはや、カフェイン抜きのコーヒーが飲みたいということに実質的に、コーヒーへの欲望と恐れがミックスされた迷いの、混乱状態にあるとも申せそうです。

 そうですねぇ、その他に思い当たるものとして誰もが好むものとしては‥‥。「瞑想を一つください。ただし逆境は抜きで」とか「人生を一つください。ただし試練は抜きで」とかいったところでしょうか(にっこり)。

 そして他人に対して注文をつけたり批判したりしているときも、実質上は同じようなことをしているのです。

 つまり、たとえばこんなふうに。「〇〇さんを一人。ただし押しつけがましさはなしで」ですとか「〇〇さんを一人。ただし自己中心的なところは抜きで」と。

 うーむ、しかしながら、そのような「カフェイン抜き」のような欲求+嫌悪のミックス体は、少なくともすぐには絶対に実現不可能です。

 ですから、すっきりシンプルにするには、私たちの側の余裕と申しますか愛のある眼差しを、ドッカーン、と大きなものに拡大するしかありません。

 つまり、「それ」をあなたから抜きにはできないから、「それ」ごとあなたを大きな慈愛の眼差しで見ていましょう、と。

 そう、カフェインごと、コーヒーをちゃんと飲んであげるようなものです。いえ、私の場合はカフェインが苦手なので、そもそもコーヒーをまったく飲みませんけれども。



第七百十七回

 みなさま、やる気がしないとき、安易に「なぁんもやる気しないなあ」なんて、考えたり、口にしたりしていませんでしょうか。

 言葉というのは嘘ばっかりつくので騙されないように注意しましょう、とは日頃から繰り返していることでありますが、「なぁんもやる気しない」なんていうのも、「嘘ばっかり!」の典型例ではないかと、思い当たります。

 なにぶんにも、「何もやる気しない!」と心が叫ぶとき、否定的な叫び声を心の中で挙げる、強烈なエネルギーを生産しているではありませんか。そのエネルギーを生産することについては、やる気、満々なのですよ。

 つまり、「何もかもやりたくない!」という怒りのエネルギーの中にエゴを見出して、それにしがみつくのに、一所懸命なのですねぇ。

 シンプルな解決法はもちろん、「怒っているのだねぇ」と自覚のまなざしを、向けてあげることです。

 けれどもこうして嘘になってしまっている「やる気しない」を、ここではいっそ、徹底して、嘘でなくなるようにしてみたら、どうでしょう(にっこり)。

 つまり、「やる気しない」と、怒りのエネルギーに執着しようとしている、その執着のやる気すら、スルスルスルーっと手放してしまうのです。

 そしてそのついでに、その他の執着のやる気も、ことごとく手放してしまいましょう!

 するとまさに、4コマで描いたクマッコのごとく、余計なものはなーんもないところに立ち返って、やる気以前の生命力が、シャッキーン、といくらでも湧いてくることを体験することでしょう。



第七百十六回

 あの人が綺麗に見えたりその人が汚く見えたりするのは、視神経が作り上げた幻覚です。

 また、痛いとか痒いとか、気持ち良いとか気持ち悪いといった身体の皮膚感覚もまた、いかにも本物っぽく感じられるわりには、実はそれも身体感覚の神経系が作り上げた幻覚です。

 それゆえ、坐禅を続けているうちに、その幻覚を見破っているなら、痛みも痒みも、実体性というか「本物っぽさ」を失います。「トクン・トクン」という鼓動のようなものや、「ピリピリピリ」といった電気信号のような、ささいなものと感じられ、溶けて消えていきます。(その感じかたもまた、別レベルの新たな幻覚なのですが。)

 「じゃあ、この体も幻か」と考えたなら、その考えは正しいのですが、あいにく、ふむーう、その考えも言わば「意」の神経によって作り上げられた幻覚なのです。

 そしてもちろん!‥‥クマッコのように「幻覚なら、飛びおりてみよう」と考えるとしても、その考えそのものが幻覚です。

 そんな幻覚を「本当だ」と信じて(つまり信仰!)しまってその中に心がはまりこんでいる以上、脳の描く幻覚の檻の外に出ることは、叶いません。

 大切なのは、どんな判断が生じても、どれだけ強烈な感覚が浮かび上がってきても、「それは仮に作られた幻覚で、本物と信じる必要はないよね」と、心を中立に保ち続けることです。

 もちろん、「心を中立に保ち続けよう」という観念も幻覚なのですから、 そのことに注意深く気づきながら、幻覚にはまりこまずに、「幻覚よなあ」と観察する中立性が、ただただ、実質的に続くようにのみ、すること。

 そうした醒めた無執着さが、すべての感覚とすべての思考に対して継続されているなら、幻覚のギリギリの言わば外縁に超え出て、シィーン、と覚醒していることに、ふと気づくときがくるでしょう。



第七百十五回

 坐禅セッションの説法録音用のICレコーダーが壊れまして、買い換えにあたって、録音機能つきの音声再生器を選びました。(月読寺では、「あの機械」と呼ばれています。)

 この機械は、フリー・ワイファイなるものがあるところへ持っていくと、インターネットにもつながる、魔法の機械なのですよ。

 週に一度、坐禅セッションの後に、ワイファイのあるお店まで下りて行って、更新担当のeさんにデータ共有してもらえるよう、説法音声をアップロードしています。

 おや、ということは、この機械を使って、やりたければネットサーフィンもできるし、ライン(どんなんやろー?とちょっと憧れる)もツイッテルもフェイクブーフも、メールだってできるじゃありませんか!‥‥いえ、たぶんやりませんけれどね。

 いやはや、メールくらいは使って欲しいということは時々、言われるのです。が、どの道、この機械は週に一度、週末にしかワイファイとやらにつながらないのですから、それならSNSをしてもメールをしても反応が遅すぎて、かえって皆を苛々させるでしょう。

 FAXならその日のうちに見られますしハガキや手紙は二日〜三日で着きますから、早すぎず遅すぎず情緒があって、良いものですよ(にっこり)。



第七百十四回

 第709回「ぜったいの、ぜったいに?」では絶対について記しましたが、この4コマでは儚さと不確実さを扱ってみます。

 「この世には、絶対っていうことは、決してあれへんねんで〜」。

 小学二年生の頃、同級生の中でも早熟で知的なシュウちゃんが、そう言い放ったのをよく覚えています。小学校の校庭の、ツツジの植えこみの側で、それを聞かされて打ちのめされたのでした。

 私が、何について「絶対」と言ったのかの内容は覚えていないのですが、何らかのことがらについて子供らしく「絶対、何とかかんとかや!」と言い張ったのでしょう。

 そして、シュウちゃんに「絶対は、ない」と言われて、「本当にそうだなあ」と感じて自分の主張がどうでもよくなったのでした。

 ところで、同じ小一か小二の頃、ドラゴンクエストⅡというゲームに夢中になっていたのです。ある日、シュウちゃんが家に来ているとき、私はそのゲームに出てくる「ドラキー」という敵キャラクターについて、「ドラキーはかわいいなあ」と言いました。

 するとシュウちゃんが、「男のくせに『かわいい』って言うなんて、恥ずかし〜。『かっこいい』なら分かるけど、『かわいい』はあかんやろ!」と言ったのです。

 私は恥ずかしくて恥ずかしくて、それ以来相当長い間、「かわいい」という言葉を使わなくなったのでした。いやはや、かわいそうな、子供ですねえ。

 ところがまさに、そんなものに「絶対」とか「確実性」があるはずもなく、現代ではすっかり「かわいい」が、のさばり過ぎにも思えるほど市民権を得ていて男性が用いても何の違和感もなくなり、時の流れのなせるわざです。

 「かっこいい」も「かわいい」も、「男のくせに」も「女のくせに」も、脳が製造してみせる幻影にすぎず、まったく頼りになりません。ましてや「絶対」なはずがありません。

 成功しているとか失敗しているとか、何が好きとか嫌いとか、友達の数が多いとか少ないとか、そういうことはすべて、頼りにならず、「どっちでもよろしいわ〜」という程度のことに、過ぎないのです。

 つきつめると、条件と原因によって作られたすべての現象は---条件と原因は必ず移ろうのですから---必ずや壊れ崩壊してゆく。ですから頼りには、ならないのです。

 ですから、それらは全部、一時的に目の前に見えているだけの仮のものにすぎません。そんなら、ま、いっか、と気楽にまいりましょう。



第七百十三回

 月読寺の外で坐禅をしていますと、山の上だけに多量の蚊が寄ってくるのですが、坐禅中に何ヶ所も刺されているに違いないわりには、坐禅終えた時点でカユいのは一〜二ヶ所しか残っていなかったりします。

 そして、平時にちょっと研究の心持ちで、蚊が腕にとまったときなど、観察していますと、のんびり血を吸わせていてあげると、短くて2~3分、長いときは5〜6分くらいと思えるほど血を吸い続けるのが分かります。

 その間、どんどん蚊は大きくふくらんでいき、お腹が上のイラストで描いたように、吸った血によってお腹がふくれて赤く巨大化してゆくのが、なかなか愛くるしいのでした。

 そうして太った蚊がフラフラと飛び去っていった後の場所は、カユいと言えばカユいけれど、そのカユさは大したことがないうえに、すぐに治ってしまうような気がします。

 これはあくまでも推測なのですが、蚊に長時間の献血をすると、カユみの元になる毒素も血と一緒に吸い出されて、カユくなくなるのかもしれませんね。

 カユいのを「嫌だ」と反発しなければ、早く治るのも大きいとは思われます。

 それの是非はともかくとして、たっぷりのほほんと吸わせてあげれば、すぐ治るうえに、この子たちのほうもお腹がいっぱいになって大満足するため、もう吸いにこなくなる、というメリットもあるのは事実です。

 クマッコみたいに、途中で払いのけるせいで、蚊に恐怖の苦しみを与えてしまううえにまだ血が足りていませんからさらに別の場所まで刺されて、あちこちカユくなってしまうことでしょう。

 この子たちに刺されても大したことないやー、というのを何度も体験してみて、仲良くしてみてくださいな。そうすると、もはや「プーン」という羽音が聞こえても、全然イヤじゃなくなりますから、苦手なものが世界から減って、心配事が減りますよ。



第七百十二回

 そう、まるでこんな塩梅に、のほほんとして聞き流すことです。ただし、他人の話を聞き流すのは失礼でして、まさに自らの頭の中の考えごとや感情を聞き流すのです。

 けれどもふつう、誰もが自らの考えに執着し、同意し、「本当にそうだ」と思いこんでいます。

 たとえば、「あの人は性格が悪い」―「本当にそうだ!」。「今日は調子が良くて嬉しいな」―「本当にそうだ!」と。

 これはまるで、クマッコの話に夢中になっているようなものです。夢中になるせいで、思考に力を与えているのですねぇ。

 が、それをやめて下さいと言うと誰もが反対に、考えに対して敵意という執着を抱きがちなのが困ったもの。

 「あの人は性格が悪い」―「あッ、こんなこと考えちゃいけないのに」。「今日は調子が良くて嬉しいな」―「あ!慢心だ、いけない」といった具合に。

 これはまるで、クマッコの話をことごとく途中で遮って、否定するようなもので、否定の力によって思考をガシッとつかんでしまいます。否定の力によって皮肉にも、思考にリアリティと力を与えているのですねぇ。

 こうした話を聞いて理解されているつもりのかたも、無意識レベルで思考を嫌っていたり、思考を消し去りたがっていたりしがちなものです。

 ですから、思考を「その通りだ」と同意もせず「いけない」と否定もせず、聞き流すという軽やかさは、なかなか分かりにくいことでしょう。

 「そうなんだー」と、どんな思考も放っておき、同意や否定の力によって執着されなければ、どんな思考もどうでも良い単なる一つの現象として、生じて、そのまま流れ去ってしまう。ならばその思考は生じていても、何の影響も心に与えなくなります。

 何の影響もないので、百個の考えが生じても、千個の考えが生じても、まったく考えていないのと同じ静けさなのです。

 そうならば、「考えを止めよう!」とムキにならなくても、良くなるのが分かることでしょう。



第七百十一回

 離れ小島に作っている最中の、島の月読寺にて、愉快な冒険に満ちた十日間リトリートが終りました。

 開放的な海と太陽と風たちが織りなす自然が与えてくれる恵みの支援を存分に受けながら、生徒さんたちの精進も上々でありましたのを見て、今後はもっと高い頻度でこうした合宿開催をできるよう、力を注ごうと思ったことです。

 島の月読寺の魅力は、「なーんにも、無い!」ことに尽きます。が、今回のリトリートでは、「さすがに無さすぎですねぇ」というのも否めませんでしたよ。

 ガスキッチンを壊して釜戸に変えたり、坐禅堂の床を壊して土の地面にしたり、お風呂を薪で焚くように変えたり、という程度は予定していたのです。が、離島という制約上、工事がまったく予定通り進まず、合宿開始の一週間前に大工さんから、なかなか愉快な情報が届きました。

 トイレは壊して作り直すのは間に合わず、仮設トイレすら間に合いそうにない。ふむふむ、隣家のトイレを借りれば何とか、なるか。キッチンは、シンクが間に合わないので、外から拾ってきた壊れかけの流しを仮置きして、釜戸は煙突設置が間に合わないので、仮の煙突をムリヤリ付けて、窓を開けっ放しにして窓から突き出すしかない。ふむふむ、強風の日は料理ができず、断食になるかもね。

 そしてお風呂も間に合わない、と。うーん、隣家のお風呂を借りて、入浴は二日に一度にすれば、何とかなるかしらん?

 かくして、あれもないしこれも足りない、という状況のまま、合宿は決行されたのでありました。

 ええ。不測のことが起きることがあったとしても、結局は「それを気にする」という気持が幻覚にすぎず、心は幻覚の影響をちっとも受けず平安無事なのでありましたら、怖いものなど何も、ないのですからね。

 いやはや、なかなかの不便を生徒さんたちに課すことにはなってしまったものの、結果として、「心さえ安穏としていれば、大変なら大変でも、大丈夫よー!」という、突き抜けた安堵感を、実地に実習できたことでしょう(にっこり)。

 とは言え、トイレとお風呂は欲しいですねぇ。もう少しは便利にするべく、工事は着々と再び進んでおります。



第七百十回

 このごろは、瀬戸内海の前島という離れ小島に作っている最中の新道場と鎌倉との間を行ったり来たりしながら、道場の整備を進めております。

 この島へ行くには、周防大島という島から連絡船で20分ほど、どんぶらこ〜、です。

 この船、一日に三往復しか出ておらず、最終便が午後4時台に終わるため、それ以降は「もう、誰も島には来ない感」が舞い降ります。鳥の声と風と波のちゃぷちゃぷ音くらいしか聞こえず、なーんにもない中でいるのは、なかなか居心地のよいものです。

 人口が10人もいないだけに、お店などは一つたりともなく、日本国貨幣が無効化した領域には、倒壊した廃屋があちこちにあり、まるで文明の終わった後のようです。

 かくして、こうした隔絶感は、個人的な趣味としては愉快なものでわくわくするのですが、それはそれで面白すぎる不便さでもあります。

 とりわけ食糧が尽きたときは、周防大島まで船でわたってスーパーマーケットにゆかねばなりませんが、昼前の便で出かけたなら、カボチャや人参などをいそいそと買ったあと、帰りの船が出る夕方まで、待たねばなりません。

 港の近くにある、レトロスペクティブな喫茶店に入ってオムライスなどを注文し、ひたすら坐禅をして夕方を迎えるとか、港に風呂敷を広げて坐禅とか。ただし、もし海が荒れると欠航して帰れなくなるので、どこかの宿へ、ですねぇ。

 いやはや、こんな塩梅ですから、「よそに出かける」というのは自然にハードルが高く感じられもし、なるべく野菜を自給したくもなるというものですよ。

 昔の住民が出ていった後の廃墟の土地があちこちに余っているようなので、それらを借りることができ、あれやこれやと、種を蒔いたことでした。

 そんな、島の月読寺では今後、長期合宿の他におよそ毎月に一度、土曜日曜に一泊二日の坐禅セッション開催を予定しています。



第七百九回

 先日、このウェブサイトの更新や文字タイピングをして下さっているeさんたちと食事をしている際に、興味深いご指摘を受けました。

「いつの頃からか説法に『絶対に』とか『確実に』とかって、仰ることが多くなったような気がするんですけど」

「そう、かもしれませんね」

「ずっと以前の4コマではたしか、『絶対に』なんて言いたがる人は、自信がないからこそ、『絶対に』と虚勢を張りたくなる、といった主旨のことを書かれていたと記憶するものですから不思議に感じまして」

「あっはっは、お見事。してやられた、って感じですねぇ。なかなか面白い着眼点ではありませんか。4コマの題材にさせてもらっていいですか」

「ええ」

「そう、この現象世界の中に、絶対のものなど何一つありませんし、あらゆる考えも絶対ではなく、心をあっさり裏切るものです。それなのに現象にすぎない無常なものについて『絶対』なんて思ったり言ったりするなら、それは嘘ですし、自信のなさから虚勢を張っているのです。でも‥‥」

「でも?この場合は、違うのですよね」

「ええ。諸行、つまり脳によって合成されて作られたデータは、合成する力が消えると壊れて変化するから、無常です。作られ、生じるものは壊れますからね。でも、諸行という夢に執着するのをやめれば、諸行じゃない、夢ではないものに行き当たるのです。作り上げられていないもの、つまりニルヴァーナだけは唯一、無常ではなくて寂静なのですよ。ニルヴァーナは、生じませんから、絶対に壊れません。絶対にだいじょうぶ。99%だいじょうぶじゃなくて、100%だいじょうぶなのですよ」

「うーん、でも、まだまだ夢も見ていたいというか、夢があるからこそ生きがいもある気もするんですけど‥‥」と、同席されていたmさんがコメントをされたりしつつ、食事会を終えたのでした。



第七百八回

 今回は、ちょっと真面目な4コマです。

 喜怒哀楽の感情や考えに夢中になるなら、考えにふり回され、その奴隷となります。

 では、感情や考えを、どのように扱ったら良いか。最も重要だと思われるポイントは、「扱おう」とするのは止めて、考えというものの性質を観察し、見抜くことです。

 たとえば仕事で失敗しそうになり、「うまくゆかないな」という、モヤモヤした思いがわいてきたとしましょう。

 いつもならばそのモヤモヤに夢中になっていたことでしょうけれども、夢中になるかわりにそのモヤモヤがいつ、どのように出てきて、どう変化してゆくのか、観察してみるのです。

 すると、事態が思い通りに進まないという現実を察知したら瞬時に、嫌な気分が電気ショックのように走り、勝手にモヤモヤし始めていたことに気づくでしょう。

 つまり、目の前の現実に触れるやいなや、即座に不快な思考回路が自動的に駆動しているのです。自動的にということはつまり、「私が考えている」ということでもなく、「私の不快さである」ということでも有り得ません。だって、私が選ぶ暇などなく、0.1秒もかからず電光石火で自動駆動しているのですよ?

 ただ、誰のものでもない考えが、勝手に生じただけなのです。それを皆、「私が自分の意志で選んで考えている」と勘違いしているので、その考えや感情と同化して、余計な苦しみを背負いこんでいるのです。

 それが高速でかつ自動で生じ、しかも高速かつ自動でまた更に別の思考や気分に入れ替わってゆくだけ。

 言わば、その考えの差出人なる「私」はどこにもおらず、その考えの受け取り人なる「私」も、どこにも見出せないのです。

 そのような、「いつのまにか勝手に生じた」「勝手に消えてった 」という、無常を観察し続けているなら、それらの思考は「私のもの」でも 「私」でもなく、それゆえ大して興味の湧かないものとなって、意味を失っていきます。

 思考が、心にとって意味を失ってしまえば、もはや思考に支配されることはまったくなくなり、完璧な平安というふるさとに、立ちかえっているのですよ。



第七百七回

 インドでの豊穣な体験を経て、いっそう、たとえ何が起きてもまったく問題ないし大丈夫よー、という思いに磨きをかけて帰ってまいりました。

 予想をことごとく超える、インドの荒ぶる風土やインド人の振る舞いに触れるにつけ、何事も受け入れる以外はないよねぇ、と(にっこり)。

 さて、帰国してすぐ、大阪での仕事のために、大阪市街地で宿泊したのです。鍵を閉めずに眠っていたところ、草木も眠る丑三つ時に部屋の照明がパッとつくではありませんか。

 そして、酔っ払った男女が中国語で何かを陽気に喋っています。どうやら部屋を間違えて入ってきたのでしょう、と思い、"Would you please be quiet? I'm sleeping"と伝えると"Sorry"と仰って、出ていってくれました。

 そのときに思ったのは、たったこれだけの出来事にしても、私も彼らも、各々の業にもとづきこの日このホテルに来るべくして居合わせ、それゆえ私がここで夜中に目覚めることも、起こるべくして起きたのだ、ということです。

 廊下では、彼らの大騒ぎが続いているようでしたが、心持ちは安らかです。なぜなら、必然的事象に腹を立てるなどということは、自然法則に文句を言うのと同じで、愚かだからです。

 それは、雨が降るべくして降ることに対して腹を立てるのは、愚かだということと同じなのですよ。

 ある意味では、こうして起こされることも、七億年前から決まっていたことで、まったくOKで大丈夫よー。そう思っているうちに、再びスヤスヤと眠っていたのでした。

 このように、過去の業ゆえに起こる諸々の出来事を、当然のこととして心安らかに受容してゆくなら、過去の悪業がそれにより清算されるのですから、願ったり叶ったり、なのです。

 かくして業はどんどん清算され続け、「定め」は書き換わってゆき続けます、良き方へと。

 そして究極的には、「良き方」をも超越する方へと、なのですよ。



第七百六回

 いやはや、どういう巡り合わせか、初めてのインドに出かけてまいります。十二月の前半は、インドでブッダの足跡をたどりながら坐禅瞑想をして回っていますのでその間、坐禅セッションはお休みになり、音信も不通になりますよ。

 書籍の企画で、インド中の仏跡を巡礼して現地で坐禅しつつ、そこで説かれたブッダの言葉を読みとく、という、なかなか魅力的な瞑想紀行です。

 版元は、主に教科書を作っている、良い意味で堅い会社なので、久々に、本格的に深く切り込んだ内容に仕上げても許容してもらえるでしょう、と、私も楽しみにしております。

 ブッダが修行に励んだ地、解脱に到った地、最後に入滅した地、などなど。エネルギーを汲み取るとともに、インド的カオスを、お土産として持ち帰ってまいりましょう。

 いえ、結局はニッポンにいようとインドにいようと、「今、ここ」なだけで、なーんも変わらないには、違いありません。



第七百五回

 この4コマに描いてみたように、不動産屋さんが急かそうとする常套手段として、「他にも検討している人がいるので、急いだほうがいいですよ」というものがありますね。

 今回、研修用に土地建物を探すにあたっても、何度かこの、お馴染みのセリフに出会ったものでありました。

 けれども残念!まったく「早くしなきゃ」という気にならないのは、気に入っていないからではありません。

 とても気に入っていてももし検討のために時間を置いたとしても、それで売れてしまうものなら、はじめから縁のないものと、サクッと忘れる用意ができているからです。

 苦しみとは、何かが手に入らないことで生じるのではなく、自分には縁のない(手に入らない定めの)ものを、手に入れたがることによって生じます。

 つまり、手に入らないものを手に入れようとする、という欲望を去っていれば、単に手に入るべきものは自然に入り、入るべきでないものは自然に入らない。それだけの話で、己に相応しいものだけが、手元に残ります。

 ですから、なーんにも、焦る必要はないのです。

 人間関係でも、同じこと。とても気にっている人が、去ってゆくこともあるものです。引きとめようと無理をする必要は、何もありません。

 縁のないはずの人を無理してまで引きとめて、互いに重荷を負うだけのことです。

 ですから誰かが去って行っても嘆くことは、ないのですよ。「ああ、縁がなかったということが分かったんだから、これもまたOK!」と、ほほえむことにいたしませんか。



第七百四回

 今年の9月3日をもって、正現寺の住職を退任し、今後は鎌倉の月読寺を拠点に、もっと自由に全国を巡ることとなります。

 以前より私が正現寺を留守にしている期間が長すぎるため、ご高齢の檀家さんを中心に、住職不在で不安だという声が前々から寄せられており、対策を協議してまいりました。

 そこで、親戚の浄土真宗ご僧侶に住職を引き継いで頂くということで、内々の調整がほぼ完了していたのですが、大ドンデン返し。宗派の人からそのかたに対して、正現寺(という破門した寺)の住職になるなら破門対象になる、というお達しがあり、白紙撤回されることとなりました。

 ここで、おやまあ、事態の成りゆきを見かねた両親が、せっかく隠居生活を満喫していたところですのに、何と、再び住職・坊守に復帰しようと名乗り出てくれることとなり、私は退任することとなりました。お父さん、お母さん、親孝行できなくて、ごめんなさいねぇ。このご恩は、忘れません。

 また、お寺のある地元の地域社会では、坐禅セッションや瞑想の合宿が、周りの浄土真宗のお寺さんやその檀家さんたちから、「他宗教の怪しげなもの」として批判対象になっているらしく、正現寺の檀家さんたちは常日頃からそうした批判を聞かされて、周囲がほぼ全て浄土真宗の地域のため肩身の狭い、つらい思いをしておられるとのこと。

 檀家のかたがたが地元で孤立する原因に、私がなってしまっているようですから、迷惑とならぬよう住職退任に伴って私は正現寺から離れることにし、別のところに山口での坐禅会場を移すことにいたしました。

 幸いにも、ほどよく離れた山口市内にある禅の古刹、洞春寺のご住職が、本堂を坐禅セッションに貸して下さることを、快諾して下さいました。11月よりは隔月で山口を訪れ、奇数月の第一土曜日午後に、洞春寺にて開催できる見込みです。

 ところで、正現寺を会場として使うのを手控えるとしますと、今年秋以降の坐禅合宿(リトリート)会場を、探さねばなりませんねぇ。

 ともあれ、六年間にわたる伝統寺院へのお勤めにはついに終止符が打たれ、ああ、再び何も背負わない自由で、どこまでだってゆけるではありませんか!



第七百三回

 先日の正現寺での坐禅セッションのこと、昨年のお寺を支えてくださった執務員のオールスターが参加されていて、偶然にも一堂に会すことになりました。

 なつかしさにしばし立ち話をしておりましたら、「スタッフはみんな結婚しますよねー」と誰かが言い出し、そう言えばたしかにその通り。

 初代のiさんもご結婚して幸せそう、アルパカ系男子として正現寺に平穏をもたらしてくれたトミーも坐禅セッションの生徒さんとご結婚が決まり、そして最後の執務員になって下さったaさんもまた、ご結婚が決まり、退職して郷里に帰られることとなりました。

 そこに、sちゃんがポツリ。「どうして、私だけ結婚してないの?」‥‥いやはやあっはっは、それは私には分かりかねますが、何事も本人の業ですからねぇ。「最後の執務員」と申しましたが、別経路の事情も重なってお寺で熟議の結果、新規採用は取り止めることと、なりました。

 それについてと今後の変化について詳しくは、八月頃にお知らせできるかと思いますながら、かくして皆、巣立ってゆくのでありました。いやはや、皆のおかげで、これまで伝統寺院住職の重責に耐えてこられたのですよ。感謝です。



第七百二回

 年始より集中的修行期間(安居)を続けてきた尼僧さんの、得度式をおこないました。

 その日をさかいに、名前も「虚寧(きょねい)」さんと改めていただき、何もなきことの安寧さ、といった心持ちでつけた法名です。

 得度の名に恥じず、安居約百日間でひらりと壁を突破され目を見張る成長ぶりを示しており、このぶんですとそう遠くないうちに、坐禅指導や説法も担当するようになることでしょう。

 何でも、修行に入る前は「腐女子」とやらだったそうで、以前は提出してもらう修行レポートにアニメやマンガのセリフを引用されることがしばしばあったものの、私には分からず苦笑することでした。シャーマンキング?‥‥最近はすっかり、なくなりましたねぇ。

 きっと、そうした袋小路に入りこんでいた前歴があるがゆえの、人の苦しみの機微を知る独特の説法をしてくれることでしょう。

 余談ながら呼び名が変わると前はNさんと呼んでいたものですから、名が変わったばかりの頃はうっかり「N‥‥、あ、きょねいさん」と言い直すことが何度かあり、脳の神経回路がすぐ対応しきれない有り様が面白いことでした。

 また、もうお一人の修行僧が辞されるに当たり、「如章(にょしょう)」さんからDさんに戻られました。そちらも反対に、つい「にょ‥‥、あ、Dさん」とやりがちな、お寺の面々なのでありましたとさ。



第七百一回

 三月五日の坐禅セッション説法が、なかなか愉快なものとなりまして、この4コマはその説法からのスピンオフです。

 詳しくは説法をお聞き下さればと思いますが、内面への気づきをバランスよく機能させる秘訣は、中道にあります。

 己の感情へと気づきを向けて観察する際にも、「何でこんなことを考えているんだ」とか、「いけない」とか、「あ、こんなこと考えてた、しまった、気づきを向けなくちゃ」などと、否定的な思いが少しでも混ざると、それは自己否定という攻撃性であって中道を見失います。

 肯定と否定、という両極を超越した視点に立つ中道の平穏さの中にいるのでなければ、気づきの驚異的な力は発揮されないのです。

 感情を否定しない、というのは、感情を肯定して下さい、というのとも違うのです。ただただ、感情の外部の超越的視点に立って、一切の感情から離れて、感情を純粋に眺める。

 そのような超越的視点(=「空」の視点です)を保つためのコツを色々と提案しておりますけれども、その一つがこの、「そうかもねー」なのです。

 焦る気持ちがわいてきても、それを肯定も否定もせず聞き流してあげるような精神姿勢にて、「そうかもねー」。

 それに対してこの心が敏感に反応し、たとえば「あー、聞き流したなー!」と考え始めても、「そうかもねー」「そうさなぁ」と、やさしく聞き流す。

 するとひょっとして思考から超越したことでフワッと軽やかになったら、「なるほど、これが中道てことか」と考えても、それに対しても「そうかもねー」「そうさなぁ、クマッコの言う通りかもねー」と、やさしく、やさしく。

 「ああ、これが無常で無我で空か」と思いついても、それに対しても「そうさなぁ、そうかもねー」といった態度で、真に受けずに聞き流す。

 そう、心の中に棲むクマッコが、ひっきりなしに「思考」というおしゃべりをし続ける。その全てについてやさしく聞き流してあげて、真に受けなくなれば、感情は全て効力を失います。もはや、ノー・ダメージで無敵なのですよ。




第七百回

 鎌倉の月読寺は初めから、インターネット回線がないのは元より、電話やWi-Fiなどの各種の電波が極めて入りにくく、皆さまのお持ちの携帯機器はたいてい、「圏外」になりがちなようです。

 こうした言わば陸の孤島感は、そこに来ると、「常に誰かからの連絡待ち」であるかのような心地を解除しますから、来訪者にとってある種の解放感をもたらしてくれるはず、ということも期されていたりします。

 さて、新年になり山口の正現寺には二人目の修行僧が住み始め、静けさと精進の活気が満ちてきております。私が月読寺にいて留守にする半月強の間は瞑想指導ができないため、その間は過去のインストラクションを録音、編集したものを本堂に流しながら、修行僧が自習できるシステムを作ってもらっておりました。

 ただ、お寺にはパソコンも編集するための機器も何もないため、執務室のかたが自宅に持ち帰って作業して下さっていたのでした。(すまないねぇ‥‥。)

 iTunesというソフトウェアを使うと正現寺と月読寺の音源を共有できて良いらしいのですが、そのために「お寺にネットをつなげるようにしては?」「iPodを買いましょうか」「いや、タブレットが良さそうです」と、色々のアドバイスをいただきましたよ。

 いやはや、ネットがあればたしかに便利かもねー、と一瞬は思いましたものの、やっぱり陸の孤島感を守りたいなと思い返しまして、やっぱり手紙と固定電話とFAXでいいや。これからも孤島は続きますよー。

 とはいえネットにつながなくても単体で音源編集作業ができそう、ということで、ついにタブレットなるものの購入を決定いたしました。

 正現寺では毎日、それらの音源による修行が続けられています(よね?・・・・留守中もしっかり精進していて下さいますように)。

 毎朝、九時半から約一時間の坐禅瞑想の回のみ、一般のかたでもご参加頂ける内容となっていますので、自習されたいかたはいつでも、ウェルカムですよ。(※正現寺のみ。また、坐禅セッションにすでに参加したことのあるかたに限ります。)




第六百九十九回

 いやはや、クマッコに限ったことでもありません。誰もが基本的には、「自分に関係した話」しか聞きたくないし、話したくないのです。

 ところが。あまりにあからさまに自分の話ばかりし続けると、第一には他人に敬遠されてしまいますし、第二に「自分ってワガママすぎるんじゃ……」と罪悪感が、わいてきかねませんねぇ。

 そんな次第ですから、偽善者になって「まず先に、相手に質問してみよう」とばかりに、質問をする。

 自分の脳みその話をしたいのに、前フリとして「君の脳みその調子、どう?」と。相手は、内心、わーい、自分の話ができる、と喜んで答えはじめるのですが、それはぬか喜びに終わるのです。

 なぜならせっかく懸命に答えてみたところで、ほどなく「そうなんだー、大変だねぇ」などと、なおざりな相槌とともに予定どおり、主人公が反転するのですから。

 ‥‥「ところで私の脳みその調子ときたら最近、どうたらこうたら」といった具合に。

 そう、このように「自分に関係した話」を応酬してばかりいますと、コミュニケーションの質が劣化します。

 けだし、終わりなき「自分って、こんな人なんだよ」という自己確認の外部に出て相手の気持ちに向かわない限り、相手の心の琴線に、打ち震えるかのごとく触れ揺り動かすことはできないからです。

 ですから、ときには己の心は静かにしておいて主人公は相手に譲ってさしあげ、相手の存在をひっそりと受けとめるような微笑みの対話も、したいものです、ね。




第六百九十八回

 修行ポーには沈黙行はムズカシイさ。だって、小鳥はさえずるものですもの(にっこり)。

修行僧と、修行僧をサポートする執務室の分業体制のはじまった山口・正現寺では9月より一人目の修行者が住みこまれており、主に修行に没頭しつつも、ときに修行ポーのごとく沈黙行を破り、執務室員のかた相手に立派そうな演説をぶってケムたがられ、なおかつ私に注意されてしょげたりもしていますよ。

9日間の坐禅合宿後、そのまま同じ時間割とメニューで日々修行続行中にて、11月15日には正式に、剃髪して法名を差し上げ、新・正現寺初の得度式をおこなう予定です。

そしてもうすぐ、二人目の修行僧が誕生することになる予定でありまして、このお寺がついに、修行のできる僧団へとなりつつあります。…長い道のりで、あった。

なお、正現寺では毎朝早朝より坐禅・歩行禅の修行がおこなわれており、てきとうなタイミングで私による瞑想インストラクションもおこなわれています。近々、一般のかたも一緒に入って修行できる時間帯を設ける予定ですので、詳しくはまた改めて執務のかたよりの告知をチェックしてみて下さい。




第六百九十七回

 人の口癖を眺めていると面白いもので、自分で話しながら「うん、うん」とか「そう、そう、そうなの」などと、自分に相槌を打つのが癖になっているかたを、ときに見かけます。

たとえば、「あのことはあなたのためにやっておいてあげたからね、うん、うん」。あるいは、「これはとっても体に良いんだよー、そう、そう」。

いやはや、こうした口癖は傾向として、独善的で自己主張が強く、自信満々であるかのような印象を醸し出すものですねぇ。

が、果たして本当に自信満々なのか。いえ、自分の言っていることに絶対の確信が持てないのに無理に言い張ろうとするとき、自信がないほど「絶対に」だの「はっきり言って」だの「正直なところ」などと語気を強め、大きな声で主張してごまかすのにも似ているのです。

すなわち、心の底では、自分でも納得しきれていないからこそ、大袈裟な言葉で力説する必要が出てくる。それにも似て、自分で自分にうなずく癖のあるかたも、心の底では自分が間違っているかもという不安に脅かされているからこそ、「うん、うん」と言って、ごまかそうとしているのです。

真に確信に満ちているなら、ゆったりと、余分な言葉は付け足さずに語れるものですからね。

ですから、「うん、うん」と独りずもうをする人に会っても、独善的と嫌わずに「不安なのだなあ」と、受け止めて差し上げましょう。そして自分のほうはといえば、「すごく」とか「絶対に」とかの大袈裟語に頼らずに、大らかに語りたいものではありませんか。




第六百九十六回

 自分の身内や知り合いが褒められたときに、反射的にネガティブな突っこみを入れるというシーンは、非常によく目にするものですね。

 「あの人は優しい人ね」と言われて、「いやー、実は怒るときはかなり激しいんですけどねぇ」なんて答えるとき、表面上は謙遜して言っているつもりだったりもするものです。

 けれども内実はと申しますと・・・・。「ふだんは優しくても怒るときは激しい」という自分の理解と異なる理解を相手がしているのが我慢ならない「見」の煩悩。それにより相手の純朴なとらえかたを、強引に自分の理解に合わせて修正しようとしているのです。

 相手のとらえかたを修正しようとする傲慢さ。本人のいないところで負の要素をさらしてみせるという点で、陰口を叩くことにも似ているのではないか、と、あるとき思い当たったのでありました。

 陰口、すなわち、本人がいないところでの、ネガティブな噂話。今回の4コマで「ふむーう、身内にも優しければいいんだけど」とポッポが言うとき、主観的には、気楽な軽口を叩いているつもりでしょう。けれども、間接的にそれはつまり、兄をおとしめる「両舌」の悪業をつんでしまっているのです、ガーン。

 そういったわけで、あるときから私は両親や祖父母のことを何かの機会にベタ褒めされて違和感を覚えることがあっても、変に否定したり訂正したり謙遜したりするのは、やめることにしたのです。

 訂正する重苦しさのかわりに、「ああ、良いところを見て下さって有難うございます」と、にっこり御礼を申していれば爽やかで風通しの良いことです、よ。




第六百九十五回

  あるお店で夕食をいただいているとき、カウンターの隣席に座った人が、店主に褒め言葉をかけているのが聞こえました。

 「スーパーで買うのは全然おいしくないけど、これは本当にうまいね」。

 いえ、何ということもない、無邪気なセリフではあるのです。が、この場合、よく見てみると、「スーパーで買う安物」への否定と優越感が、混入しているのも確かなようです。

 さて、他人のことをトヤカク言うのは仏道の本義にあらずして、己のことを見てみましょう。私も何かしらのことについて「良い」と思ったとき、安易に「○○よりもずっと良い」なんて、他と比べて言うことがあると、思い当たります。

 たとえば「前のペンも使いやすかったけれど、このペンのほうが使いやすいね」とか、「どこそこのお店が一番良いと思っていたけど、このお店がやっぱり一番だね」など。

 こうして、より劣った比較対象をつくることで、対象の良さを分かったつもりになれますから、便利なのでしょう。

 けれども、本当は何も分かっちゃいない。なおかつ、「優劣を比べて判定する」という名の慢心がそこに混入しているがゆえに、その手のセリフは、ぱっと見は相手を褒めていても、その姿は美しくないように思われるのです。

 「何かと比べて良い」と考えたり言ったりするのはすこぶるお手軽ですが、ちょっと一手間かけて、比べずに対象そのものの良い点を感じてみる。そんな丁寧さを。

 優劣なんて超越して、対象そのものを、見てみる。なるべくそうしてみようと思いましたので、うっかり私が「○○はダメだけどそれと比べて‥‥」なんて偉そうな比較をしていましたら、「君、君」と肩を叩いて教えて下さいね(にっこり)。




第六百九十四回

  今回の4コマの狙いは、鏡について主題化することでした。鏡といっても、精神的な鏡について、です。

 私たちときたら、ハッピーなことや、あるいはとても嫌なことがあったら、誰かにそれを教えたくなりがちですよね。

 特に、「自分が今、ハッピーであること」や、「自分が最近、調子が良いこと」なんかを、初めにあの人に伝えたくなる という相手が、いませんでしょうか。

 そういうかたが存在してくれていることは、ある意味では恵まれていることでもありまして、有難いことではあります。

 けれども同時に、それはそのかたにとって少し迷惑なことでもあるのです、実は。なぜなら、その相手は私たちにとって 、「自分がこんなにも今、良い感じなのであーる」ということを映してうっとりするための、鏡にされてしまっているから です。

 今回、ポッポの元恋人ピッピは、自分がフシアワセだと感じるのが嫌なあまりに、さっさと結婚してしまいました・・・、ム ラサキウニと(な、なんだってーッ!)。

 さて、彼女はそれでハッピーかというと、違うのです。彼女にとって自分を映す鏡であるポッポに対して、「自分は今、 シアワセなのよッ」と知らせないかぎりは気分が晴れないのですから。

 つまり、ポッポの心という鏡に映る自分の姿が不幸せなままだと、苦しく落ちつかないのです。その鏡に映る自分の姿を 変更するためにこそ、わざわざ「今、幸せです」とアピールしたくなるのでしょうねぇ。

 いえ、これは人ごとにあらず。友人や家族や上司や部下や恋人なんかを鏡にして、自分の姿を素敵に映そうとすることに 、誰もが血道をあげているのですから。

 そうして他人を鏡にして自分の素敵さを映しかけているのに気づいたら、途中でやめて沈黙するように、努めております 。それは、鏡の世界に閉じこめられている心が、鏡を割って脱出する道であることでしょう。




第六百九十三回

 3月10日、朝起きてみると吹雪いていて、外一面の銀世界になっていました。

 そこで、残り少なくなった薪をちびりちびりと、燃やして暖炉で寒さをしのいでおりました。

 昼前になるころにはお陽さまも出て気温も上がり、薪を燃やしているとちょっと暑いかな、というくらいなぐらいです。

 さて、そこで原稿執筆にとりかかろうとペンを握ったところ、珍しい感覚を感じているのに気付きます。 「あー、暑いッ」という具合に、ちょっとイラッとしているような次第でありました。

 ふだんですと、寒いのがツラく感じることはあるにしても、暑さは心地よく受けとめるのが通常なのに、ただ暑いだけのことで不快に思うとは、と。

 そう、問題は暑さではなくて、暑さへの心の反応なのです。そこで執筆は後回しにして、少しだけ坐禅に取りくみます。

 すると速やかに、暑さに対して心がやわやわと適応して仲良くなり、ポカポカして心地よいなあ、といった感覚に変わったのでありました。

 そう、イラッとするのは、暑さのせいでも、ハシが転ぶせいでもなく、梅の絵が雑なせいでも、ないってことですねぇ(にっこり)




第六百九十二回

 それは例えばクマッコが、掃除について言及されるとき。「自分は責められるのでは」という緊張感を潜在的に持っているなら、ほめられている最中ですら、最後まで聞かずに、非難と捉えて言い訳を始めてしまうのです。

 すなわち、心の中にビクつきがあり、自分は誰かから非難されるのでは、という恐れがあるとき、非難されていなくても人の話を途中まで聞いて、その続きをネガティブな方向に、自動補完するということ。

 そう、まるで皆様の使っているPCや携帯電話で、「た」と入力しただけで「田中さんは」とか「谷崎潤一郎」などと、よく使う言葉が自動補完されるのにも、似ていますね。

 よく使う「心理的な解釈」によって、他者の言葉をかってに補完してしまう。ゆえに、相手の話を最後まで聞かなくなる。

 うーん、脳は自分のストーリーにあったように、話をねじ曲げるということですねぇ。

 この話題で書こうとしていた矢先に、ちょうどピッタリなエピソードに遭遇しましたので、軽く紹介してみましょう。

Aさん「最近、親から『お前も、オジサンという年齢になったな』と言われてね。私もそろそろ、オジサンであることを引き受けて生きていこうと…」

Bさん「Aさんはまだまだ若々しいからオジサンじゃありませんよ!」と、うっかりフォロー。

 いやはや、Aさんはおじさんということを、精神的成熟とポジティブに捉えて話しているのですが、Bさんは身体的衰えとして、ネガティブに捉えているのです。

 ゆえに、Aさんの話を途中まで聞いて、「オジサンになったのだというネガティブなことを自虐的に言っているのだろう」と、ストーリーを自動補完したということ、ですね。

 それで、善意から「オジサンじゃないよ」とフォローしているのですが、あいにくフォローされたいと思っていないポジティブなAさんとは、話が噛み合わなくなってしまいます。
あいやー。

 こんな細かな事例は、山ほどこの世に転がっているのです。私たちも、うっかり人の話を自動補完しちゃわないよう、最後まで耳を傾けたいものです、ね。




第六百九十一回

電車のアナウンスで「ただちにお知らせください」と耳にしても、それを額面どおりに受けとって「ただちに!」と焦る人はふつうおらず、ポッポくらいのものでしょう。

けれども、いざ自分にとって重要度の高いタスクに取り組む段になりますと、誰しも心の中の「車掌」がアナウンスするのではないでしょうか。

すなわち、「ただちに、じょうずに成し遂げなさい!」と。その命令に焦らされて取り組むので緊張してしまい、かえって能力を出しきれず、なおかつ疲れてしまうのです。

先日、坐禅瞑想と歩行瞑想の十日間合宿をしていたのですが、最初の日、多かれ少なかれ生徒さんたちは、「何かを成し遂げなきゃ!」と欲して、緊張しています。

そうして取り組む以上、深い集中にも入りませんし明晰な気づきも育まれず、疲れるのは当然です。

それゆえ初日と次の日には「一日にこんなに歩いたのは初めてで、もう歩けません」と音をあげる人すらおられました。けれどその同じ生徒さんも、日数半ばを過ぎると休み時間にも休憩せずに瞑想するようになっているのです。

なぜか?「何者かにこれからならなきゃ」「瞑想を上達させたい」というこれから先の目標に縛られ急かされていた力みから解放され、「今、ここ、この瞬間」のコマ切れの身体感覚をはっきり認識し始めるから。

「この瞬間」の感覚のリアリティへと没入している限り、この心には良いも悪いもなく、優れているも劣っているもなく、ただ充足して何も欠けていないのです。それゆえ、意識は覚醒しつつも無限にリラックスしている。

その中では、いくら歩きつづけても坐りつづけても、もはや疲れないのです。生徒さん各人のそうした研ぎ澄まされた神経状態のオーラ同士が互いに相乗効果を生む、素晴らしいリトリートとなりました。

これこそ我が使命と思い、来年からは今までよりずっと多く、リトリートを開催する心積もりです、よ。




第六百八十九回

ある秋の一日、大きなぶどうをたくさんいただきまして、それらをむいて口の中でかみしめ、タネのありかを舌で発見して取り出しつつ果汁を味わいます。美味なり。

さて、食していて、ふと昔のことを思い出し悦に入ったことでした。

子ども時代は、タネを口のなかでうまく「発見」するのが苦手はほど鈍感で、しばしばタネをうっかり噛み砕いて、ガリリっ。 苦い味がするのが嫌で、いっそ食べる前に皮を全部むいたうえで、指で実を真っ二つに裂き、あらかじめ手先でタネを取り除いてから食べていたものであったことよ、と。

すると手がベタベタになりますよね。「ぶどう」=「手がベタベタ、めんどくさい」という等式が成立していた有様だったのでした。

ところが、坐禅瞑想により身体感覚が敏感になるようになったことがおそらく原因で、ぶどうを食していても無意識的に、舌がタネの位置を感知してくれるようになった模様。

さて、こんなささやかな「変化」のことに思い当たっただけのことをとらえて、「ワタクシ、成長シターッ」とでもいうような自己満足に陥りたがる傾向が、この心にはあるように思われます。

もちろん「成長した」と悦に入ることは、綺麗げな自我イメージをこしらえる欲望を肥大させ、成長を妨げる。いやはや。

そういった視点で周囲を見渡してみますと、けっこう誰もが「前と比べて、自分はよい感じに変わったのであ〜る!」という裏メッセージをこめた、発言をしていることにも気づかれます。

それほどまでに、根深い癖なのでしょう、自己満足により停滞したがる欲望ってやつは。

その罠にふっと気づいたとき。「あー、自己満足であることよ」と自覚して罠をはずし、喜ぶのを中断しちゃえばいい。

修行も、そう。「前進した」とか「悟った」とか「自分はコレコレの段階まできた」とか、そんな自慰的思考は、おんもにポイ。




第六百八十八回

私たちは、他人に自分の発言内容を一言でまとめられると、しばしば「ちがーウッ」と感じてしまうものです。

 そうした場合、くどくどともう一度説明し直してみたり、相手の手前勝手な理解を嘆いてみたり、不機嫌になってみたり・・・。

 思うに、自分の話を他人に、不本意なまとめかたをされたときの反応によって、その人の寛容さをはかることが叶います。

 「他人の誤解」を必死に訂正しようとする度合いが高いほど、他人に解釈の自由を許さない、不寛容さの指標になるからです。

 上記のような理由で、そもそも人様の話を「なるほど、〜ってことですね」とうっかりまとめようものなら、面倒なことになりがちなので、やめておきたいものではあるのです。

 が、うっかり下手なまとめかたをしてしまっても機嫌を悪くしない人に会うと「寛容な人だなぁ」と安心でき、好感が持てる気がしますねぇ。

 ふと思い起こされるのは昔、大学時代のこと。バンカラな学生寮でルームメイトだったタカシマ君は、人に発言をまとめられるとよく、「似ている!」と答えて、不敵な笑みを浮かべていたものでした。

 ふむーぅ、相手の理解の「正しくない」部分を強調するかわりに、「ほんの少しでも伝わっている」部分を強調して、「似ている!」とユーモラスに、肯定しているのですねぇ。

 伝わらなくても「似ている!」と半分肯定、寛容さ(忍辱)の修行のおともに如何でしょうか。

 




第六百八十七回

私には浮世離れしていて万事いいかげんなところがあるのですが、そのわりには執筆の〆切は比較的守れるようにしています。
それは、顔見知りであるところの編集のかたに、精神的ダメージをなるべく与えたくないからです。
 ところが、現在取り組んでいる仏道の入門書の執筆が、〆切を過ぎても一向に仕上がりません。なのに、気力復活したこともあり、瞑想修行にいっそう時間を割きがちです。

 そうすると、ふっとよぎるのは・・・。毎日、四〜五時間も瞑想していて良いのだろうか。坐禅を切り詰めて執筆しなきゃいけないのでは、と罪悪感がやってくることもあります。

 けれども、おっと危ないッ、です。その罪悪感に流されて「無理」をするなら、己の自然体におけるリズムを破壊することになってしまう。そんなストレスを背負うなら引いては、その仕事を嫌いになってしまいかねません。
 ですから、ぞう編集長にストレスを与えないようにということと、自分にもストレスを与えないように、といことのバランスの中で、精進するのが、次善の策と申せましょうか。

 ビクビクしがちな私たちが、罪悪感に呑まれて、したくないはずのことを頑張りすぎちゃわないように、淡々と開き直っていましょうか。






第六百八十六回

いやはや、「うう、カミングアウトしづらいことよなぁ」ってこと、ありますよねぇ。

 人様から好意を向けてもらえることは誰しも嬉しいもので、それだけにそれが自分に合っていないものでも、喜ばしいことではあるものです。

 それに加えて、「せっかく相手が好意でしてくれているのに、喜んでみせないと傷つけてしまうかも」 と考えもするものですから、「和」を重んじる我ら日本人はついつい、実際の気持ち以上に喜んでみせる傾向があると思います。

 さて、私の場合、人様からお菓子を頂戴する機会がしばしばあるのですが、実は軽度の小麦アレルギー。ほんの少し食べるくらいは平気なのですが一定量を食べると身体がカユくなるのです。

 クッキーやマドレーヌなどを頂く際に、それを喜んでみせますと「またあげよう」と思わせてしまい、結局食べられずに人に差し上げてしまいますので、むしろ そちらの方が申し訳ない。

 そう思い、いつの頃からか、小麦粉のお菓子をもらうつどに、「ありがとうございます」とにっこり嬉しい気持ちは伝えつつ、 「小麦アレルギーで食べられないので、申し訳ないですが、周りにお裾分けさせて頂きますね」と、勇気をもって カミングアウトするようにした次第です。

 「相手をがっかりさせたくない」と気を遣いすぎて本音を隠してしまう方が楽なのですけれども、ね。 ときには、がっかりさせたほうが良いときもあるような気がしますよ、というお話でありましたとさ。




第六百八十五回

イラッとしたとき、「相手のせいで、チキショウ!」と考えるかわりに、「こういうことで腹の立つ今日の自分なのだなぁ」と内省すると、かえって自己探求の好機になってくれます。

とりわけ、いつもならさほど気にならないはずなのに、他人のちょっとした失礼が許せないなんてときは、自分の業のうち、イライラしやすいパワーが活性化して、 センシティブになっているのだな、と自己理解できます。

 そしてまた、人の好意を受けて、やけにジィーンと感動するときも……。 一方では、その好意を有難くかみしめておくと良いのです。他方では、こう気づいておくのも自己探求になるでしょう。

すなわち、「あー、そっか。今、自分は心が弱っていて飢えているから、センシティブに感じやすくなってて、 何でもかんでもジィーンとしやすくなっているらしいねぇ」と。

 かくほどさように、私たちは他人の悪意そのものや好意そのものを味わっているのではなくって、その時の自分の感じやすさによって、 変形しているのですよねぇ。

 去年の暮れに、何気ない、人の一言にホロリと温かい気持ちになったとき、「おやまぁ、弱ってるな」 と気づいて、これは4コマの題材になるなぁとメモしておいた次第でありましたとさ。にっこり。




第六百八十四回

イラッとしたとき、「相手のせいで、チキショウ!」と考えるかわりに、「こういうことで腹の立つ今日の自分なのだなぁ」と内省すると、かえって自己探求の好機になってくれます。

とりわけ、いつもならさほど気にならないはずなのに、他人のちょっとした失礼が許せないなんてときは、自分の業のうち、イライラしやすいパワーが活性化して、 センシティブになっているのだな、と自己理解できます。

 そしてまた、人の好意を受けて、やけにジィーンと感動するときも……。 一方では、その好意を有難くかみしめておくと良いのです。他方では、こう気づいておくのも自己探求になるでしょう。

すなわち、「あー、そっか。今、自分は心が弱っていて飢えているから、センシティブに感じやすくなってて、 何でもかんでもジィーンとしやすくなっているらしいねぇ」と。

 かくほどさように、私たちは他人の悪意そのものや好意そのものを味わっているのではなくって、その時の自分の感じやすさによって、 変形しているのですよねぇ。

 去年の暮れに、何気ない、人の一言にホロリと温かい気持ちになったとき、「おやまぁ、弱ってるな」 と気づいて、これは4コマの題材になるなぁとメモしておいた次第でありましたとさ。にっこり。




第六百八十三回

いやはや、ブラックディやグリーンディというのは冗談ですけれども、苦手な人や、どうでもいい人たちに優しくする記念日も、あったら良いかも、しれませんよねぇ。

ナズナや、オオイヌノフグリなんかが可憐に咲きわたる春の野山を歩いていると小川を魚たちが泳いでいるのが見えて、ふっとそんな、よしなしごとを思いつきまして、4コマにしてみた次第です、よ。

好きな人たちもそれなりに、そしてまた苦手な人たちにも(せめてときには)優しい気持ちを送ってみる。小川を泳ぐ魚や、そこに立っているシラサギなど、好きでも嫌いでもない者たちにも、ちょっと優しい気持ちになって、立ちどまってみる。

春の、萌えいづる生命力を感じて浮き浮きする今の季節には、天地自然のエネルギーをもらってそんな優しい気持ちになりやすいような気がするのでありました。




第六百八十二回

そう、「森のバター」という言い方は「バター > アボカド」という上下関係をはらみ、栗カボチャという言い方は「栗 > カボチャ」という序列をはらみ、「桃のようなトマト」という発送は「桃 > トマト」という価値観を、暗に前提にしていますよねぇ。

カボチャが栗の真似をしすぎたりトマトが桃に媚びて真似をしすぎるのは、カボチャの瓜っぽさやトマトの青臭さが失われ、良い特徴が消滅しかねないので困りものです。

ところでこのクマッコというキャラクターは、昔の設定では「実はクマ風のタヌキで、クマ権の獲得が夢なのだがクマになりきれない悲しみを背負っている」ということになっていたのですが、ほとんど誰も知らないでしょうね。

クマッコ(というタヌキ)が、クマに媚びて「クマ > タヌキ」という序列に苦しんでいるので性格がヒネているのかも。いつかは、クマッコがクマに媚びるのをやめ、タヌキに戻る4コマを描いてみましょうか、にっこり。

ちなみに、田舎の風景を見て「トトロの世界みたい〜」と喜ぶ婦女子をときに見かけますが、これは現実の田舎そのものを見ているのではなく、「トトロ(という素晴らしいもの)に似ている」という点で田舎を評価しているのであって、実は「森のバター」と同じ発送なのです。「トトロ > 田舎」ですね。

記憶の作用で、何でもかんでも「あれに似てるッ」と押し付けて、現実を見えなくさせられている。その呪術をやめたなら、クマはクマ、タヌキはタヌキ、トトロはトトロ、田舎は田舎。・・・ってこと?




第六百八十一回

先日、アルバイトのTさんに、「味つけのりとふつうののり、どちらを食べましょうか?」と聞いて、お返事は「味つけのり」。

しかし・・・ッ、選択肢を提示したくせして、「んー、この味のりはこないだ食べたら、いまいちだったんですよねぇ」なんて甘えたことを言い出し「じゃあ、ふつうののりでいいですよ」を引き出す始末で、うう、ご免なさい。そんなことなら最初っから選択肢なんて出さなきゃ良いのです。

後日、今度は幼馴じみのTちゃん(Tさんとは別人)と夕飯に出かけたとき、「A店とT店のどちらに行こうか?」と彼に質問しておきながら、「どっちでもいいけど、A店にしようか」と答えた彼に対して、「うん・・・、それでもいいけど・・・」なんて言葉を濁す始末。

最初っから、その日はどちらかというとT店に行きたかったので、うーん、6対4くらいでT店の方が良いから、Tちゃんが本当にどっちでもいいのならT店でいいかい?」とカミングアウトした次第でした。

と、些細なことながら、私には表面上は相手に委ねるフリをしつつ、片方の答えを期待するという癖があることに気づく、今日この頃でありまして、被害者の皆様には、申し訳ありません、どうかニッコリ許して下さいね。

さて、そのわりには、人様から例えば「○○をしてもらっていいかな」と尋ねられて、勇気を出して断った場合に相手が怒ったり非難してくると、気分が悪くなるものです。

その不快の理由はまさに、「表面上は質問の形でYes・Noを聞いているクセに、断ったら怒るということは、そのYes・Noは選択肢じゃなくて、強制的命令じゃないか」という思考にあり。

あいや、それを「どうだかなぁ」と思うのでしたら、それよりも先に、まずは自分が偽の選択肢を出すクセを、直そうではありませんか。




第六百八十回

ものごとをありのままに受けとめて、よけいな情報処理をしないこと。そんな「正見」を説法したりしているわりに、私のアマノジャクな頭は、商品の表示を見てヘンテコなケチをつけていることが、しばしばあります。

たとえば、大っきな苺大福を「うまうま」と食べていて、ふっと、「これ一個で何グラムくらいあるのかなぁ」と包装の「内容量」のところを見ると、「一個」と書かれているとき。

「いやいや、これに一個入ってるのは誰だって、見れば分かるでしょうともさ。知りたいのは何グラムなのか、なのにぃッ」なんて、ね。

まるで、揚げ足取りを喜ぶ子供のごとく、こういったあまのじゃくを、けっこうやっていることが気づかれます。クマッコのごとく、我がままな心なのですねぇ、いやはや。

う、うーん、アマノジャク、なかなかやめられないものの少な目にしたいもの、です。




第六百七十九回

この猛暑には「暑いねー」「ええ、本当に」といった挨拶が、全国津々浦々で交わされたことと思われます。

私も最近は無難な挨拶として「暑いですね」「涼しくなりましたね」などを使うようになったのですけれども、この手の挨拶を私たちが多用する理由のひとつには、そもそも人と人は理解しあえないということへの淋しさがあるような気が、ふっと、しました。

「暑いですね」と言われて、「そうですねぇ」とニコッと返すと、あたかも二人の間に同じ感覚が共有できたかのような気になれて、それにより自分の感覚が肯定されたと感じられて、ちょっと安心するのです。

もっと細かい、マニアックな意見や「独創的な」発言などしようものなら、たいてい反論や批判や疑問や質問にさらされて、おびやかされてしまうのが人の世の常ですから、ね。

八百屋のお兄さんと、「暑いね」「そうですねー」とやりとりしたとき、なんだかホッとした気分になっている自分をみて、「あー、私ときたら淋しい生き物なんだなぁ」と、うがった見方をしたことでありましたとさ。




第六百七十八回

無謀なるかなッ!私たちは無謀にも、自分のできる範囲をこえた、大それたことに挑戦したくなりがちなものです。

たとえば、あまいにも苦手すぎる相手とつきあうのも修行と思って乗り切ろうとするとか。・・・そしてやがて、限界に達して、アチャー。

あるいは、「うっかりさんを直さなきゃッ」と勢いごむものの、いきなりそんなの直るわけもなく、またしてもお菓子の砂糖と塩を入れ間違えてガッカリしておしまいになる、とか、ね。

あるいは、今までより優しさを5%増しにするのでなくて、急に50%増しにしようとして、無理がたたってイライラするとか。

いやはや、そうやって現在の自分のレベルにとって無理のありすぎることに挑戦するのは、言わば苦行でしかなく、収穫もあいにく得られないものです。

ですから、できることはできる。できないことはできない。できないことができる、といのはあり得ないのですから。

今の自分に、できないことを無理やりやらせようとするのは、あたかも傷ついている子供の心を理解できない親が、「もっとちゃんとしなさい」と言い続けるのにも、似ています。

ちゃんとしようとしても、ちゃんとできることはちゃんとできますけれども、「ちゃんとできないこと」は、少なくとも今は、頑張ってもちゃんとできないのです。

「できない」にも関わらず「やればできるよ」だなんて強要されると、それが他者からであれ自分からであれ、心はストレスで余計にダメになってしまいます。

ゆえにある意味、「できないものはできないものねぇ」と自分の不可能を許してやるのも大事なこと。

ただ、そこにアグラをかいて開き直り、楽に流されるのもまた、苦行と反対方向の両極端なのです。

今、それが自分に「できない」なら、そのできなさを許しつつただじっくり見つめ、観察すること。それが、私たちの心の質に応じてやがて変化をもたらすのです。




第六百七十七回

前々から自覚していたのですけれども、私は「とりあえず」とか「差し当たって」といった言葉を多用する傾向にあります。

「どうせ自分の考えなんて、明日の朝には変わってるかもしれないしなー」と、自らの心変わりのしやすさに基づいて、ちょっとした予防線を張っているつもりなのでありましょう。

「どこ行く?」「うーん、思いつかないがとりあえず出かけようか」「労働時間はどうしましょう」「とりあえず9時5時ということにしておいて、後でまた決めましょう」といったありさま。いやはや、心許ないですねぇ。

さて、ただでさえ平素からこのありさまなのですが、昨今は自身を取りまく状況が目まぐるしく変化しつつあり、今まで以上にこれから自分がどうなり、どこへ向かうのかが予想できない思いなのでありました。

ですから、「とりあえず」鎌倉で第4期月読寺を再開することになったばかりながらも、それももしかするとそのうちまた、閉じてしまうかもしれません。

執筆の仕事も「とりあえず」今日は続けますが、もうすぐやめるかもしれません。

偉そうに人様を指導したり本を書いたりしていることが、自分の心を徐々に、慢心に腐らせているようにも思われるものですから。

このごろ、思い切って俗のほうへシフトし落ちつこうとしたものの、結局は落ちつききれずに出離したくなる、自らのデタラメな「とりあえず性」を見出さざるを得ないのでした。

いずれにせよ、短い人生が終わるまで「とりあえず」生きるだけではあります。

これからどこへ向かうのか、複数の選択肢に悩まされるところでありながらも、決まるタイミングがくるまで、とりあえず今日一日を、懸命に生きてみることにいたしましょうとも。




第六百七十六回

しばらく休止しておりました月読寺、さんざんな紆余曲折を経て、三月(まにあわなければ4月)には、再始動の運びとなりました。

当初はすっかり消滅させる予定だったのが、やっぱり再会しようと変わり、その候補地は私の好みの自然豊かな地を色々と見て回って、転々と変わりました。

奥多摩地方の、大河川と森のすぐそばのボロ家はいたく気に入っていたのですが、いかんせん去年の冬に体を壊し、冷え症になっていた状況下で、奥多摩の冬が激越に冷えることを教えられて、退散してしまいました。

高尾の森の中、小川をこえて石段上っていった頂上の場所も、「良し」と思いきや、八丈島があったかいらしいと聞けば、「仕事を減らして隠居じゃよー」とばかりに八丈島にまで飛んでみたり、素敵すぎる愚行をおかしもしましたとも。ガイドブックまで買った。(←希望者にプレゼントします。正現寺、「東京の島本プレゼント」係まで)

さすがに八丈島は諸ハンの理由で諦めざるを得なかったので良かった、かもしれません。にっこり。

結局、いろんな候補地のなかで、冬も山と海の影響でほどほどに温暖で自然もそこそこに残っていて、そしてちょっぴり雅さもあるという鎌倉のはずれの、急斜面のうえ、というところに落ちついたのが、ようやく去年の後半でありました。

さて、ところが今年に入って急速に冷え症が治ってきましたから、さあ大変。いえ、もう後悔しても遅いんですけれど、こんなことなら奥多摩の清烈な空気が惜しまれたりするかもね、という微妙な失敗談でした。
1.変動し得る条件を決定打にして決めると変わったあとで、アイタタタ。急ぐなかれ、コボーズさん。
2.「愚か者は、春はここに住もう、冬はここに住もうとあてどなくさまよう」と、ブッダも言ってましたっけねぇ。




第六百七十五回

そういえば、もはや作者自身も忘れかけていましたけれども、このクマッコは初登場のころの設定として、スネたくなるのも自然な不幸を背負っていたのです。

彼はクマではなく、クマとタヌキの合いの子であるため、「クマ権」が与えられず、クマたちからつまはじきにされている。ひ、ひどい。

多くの人にとってどうでも良い情報でしたねぇ。・・・強がらなくちゃいけなくなるには、人それぞれ歴史があることの例として、などともっともらしいことを記しておきましょう。

さて、私たちは「生意気」「優しい」「愛らしい」「明るい」などなどの、自我イメージを持っていて、なるべくそれに整合的な行動や発言のパターンをくりかえそうと縛られるものです。

けれども、私たちの心は諸行無常にて変動しますから、自我イメージにあわないことも、必ず言いたくなるし、やりたくなります。

たとえば「生意気」な自我イメージを作っているはずなのに、ふっと素朴に、「寂しいな、かまってほしい」と思ってしまう、とか。

ただ、こうした自我イメージに反した思いは自我を脅かして苦痛を与えますから、恥に感じられたりして、たいていは抑えつけられて葬り去られるものです。

こうして自然な思いを抑えつけることによって、自我イメージの一貫性ってやつはムリヤリ作られるもの。ゆえに、それが強まると、「キャラを演じる」かのような、不自然な感じがつきまといます。

そう考えてみれば、「○○な自分」というイメージは、諸行無常に反していて、苦しみの原因になっていることが分かりますね。

ですから、自分がどんな人間であるかなんて、忘れちゃうのが安楽と申せましょう。「○○な自分」になんて、ならなくて良いのです。・・・と考えて手放すと、心に青空、広がります。




第六百七十四回

ある晴れた日、羽田空港から山口宇部空港ゆきの飛行機に乗るべく、荷物チェックの保安検査場を通過しようとしたときのことです。

私が風呂敷の中に入れていた、陶器製のナイフが検知されたようで、「刃物は持ちこめません」とのことでした。

うっかり甘えて「これは陶器だしいいじゃないですかー」なんて、申してしまったため、忙しい係の人を、ムッとさせてしまいました、いやはや、申し訳ない。

「刃物が持ちこめないのはご存知なかったのですか? これは何のために使うのですか」と。

「ええ、知っていたのですがこれなら大丈夫かなー、と思って。機内で栗をむいて食べたかったのです、えへへ」「刃物は持ちこめないのです」「そうですか」

こんなやり取りをしていてふと思ったこと。「小型の陶製ナイフがダメならいっそ、自分がポーチに入れている鋭利な金属のフォークだって没収したらいいのにねぇ」と。

この脳が、論理の一貫性を求めるあまり、「フォークは大丈夫なんて一貫してないッ」とごねているらしい。その間抜けな思考に気づいたとき、自分でちょっとクスッと笑えましたので、「後日4コママンガにしよう」と取っておいたのでした。

自分の利益に反してまでも、一貫性や整合性にこだわろうとする「見」の煩悩。それを笑い飛ばして、もっと柔らかくふにゃりんとまいりましょう。




第六百七十三回

いやはや、山口から東京に戻って参りまして、もはや初冬、11月末だというのに、我がアパートメントには蚊が何匹もいるのは、何たることか。

何匹かつかまえて外に逃がしたものの、まだいるらしい。夜お布団の中で眠っていると頭を何ヶ所も刺されて(あいや〜)、眼が覚めたのでした。

仕方ない。と、秋ごろにたたんで押入に冬眠させたはずの蚊帳を取り出し、深夜にせっせと設営していたのです。そして安眠、めでたしめでたし。

さて、思い出すのは、10月に蚊帳を張って寝た秋の夜のこと。「さぁ張り終えにけり。」と安心して眠ろうとしたところ、プーンと蚊が蚊帳の中で飛んでいるのを発見したのでした。

ううう、がっかり。そのがっかり感の内訳は、「同じことをもう一度やり直さなきゃいけないなんてッ」という、脱力感ですね。

つまり、「さっきと同じ」ということを、脳の記憶を司る海馬が認識するせいで、ウンザリしているのだと申せましょう。

そんなときは、その記憶=過去を忘れてただただ、あたかも生まれて初めて蚊帳を張るかのような、フレッシュな気持ちでやり直すと、楽しくなってくる。

過去も自己も忘却してリフレッシュするのは、坐禅の原点。「またこれか・・・」のマンネリズムを生む、脳の神経細胞間のつながりパターンを、リセットしてやること。

年の瀬迫る昨今、心につもった1年の垢を流して、色々と生まれて初めてのごとく新鮮に味わいたいものですねぇ。




第六百七十二回

山口のお寺で飼われているヨークシャーテリアのうち、ビビと名付けられているオスの子がいます。

この子は甘えるのが得意で、私が縁側で瞑想をしていても、組んでいる足のうえに、強引に乗り込んでくることが、しばしばあるのです。

うーん、それはちょっと邪魔なのですけれど、悪い気がしないのもたしか。

なぜなら、安心してくつろぎ眠れる居場所を提供してあげているようにみえて、「自分に安心してくれている」というのが、今度は自分にも安心感をもららすからです。(小さな慢心。)

そう考えますと、親が子に、あるいはパートナー同士でご飯をつくってあげるというのも、一方では「自分のためにつくってくれてる」と居場所感を提供するようにみえつつ。

他方では、「安心して食べてもらえてる」ということで自分にも居場所感が良循環して返ってくるのです。

ならば、次のような、日々の何気ない繰り返しを地道に大事にし直してゆくことが、安心と平穏の基礎づくりになりそうです。

「毎日毎日、無条件に頭に乗ってくれる(ポッポの場所)」「毎日、無条件に同じ部屋に帰ってきてくれ、ニッコリしてくれる」「毎日毎日、無条件にご飯をつくってくれる」

こんな、素朴なことが、大事。という、今回は生ぬるいお話でありました。




第六百七十一回

キンモクセイの香る季節となりました、ねぇ。

私はこの香りをかぐと、ふっと中学生時代にタイムスリップしそうになることが、あるのです。

当時、近所に引越しが決まりわくわくした少年は、引越し先の新居(といってもボロボロの古民家)に先にパソコンだけ置いて、パソコンゲームをしに通っていました。

ゲームしたさに登校前、朝5時やらに起きて新居に行き、朝食を食べに帰るまでの間、何もないガランとした部屋で『三国志正史』で戦争をしていたのです。

ちょうどその時期、その庭に植わった大きなキンモクセイが、大いに香っていたのでしょう。当時は何の香りか知りませんでしたのに、今になってキンモクセイが香ると、瞬時にガランとした空間、コンピュータの排気音などがよみがえることがある。

さて。私たちは、同じキンモクセイを香っても、実はお互いにこれほどまでに個人的な世界にスリップしているのです。

「いい香りだね」「そうだね」と言い合ったとしても、それで本当に互いの感じていることが、分かりあえるわけでもない。

全ての人と、実は、分かりあえない。それは当たり前のこと。その断絶感を前提にしてこそ、ていねいなコミュニケーションができよう、というものです。




第六百七十回

私は山口で寺を守っている期間、たまに遊びに出るときは決まって、幼馴染のたんちゃんと誘い合って、山や川へ出かけるものです。

「夏も終わる前に川に泳ぎにゆこう」「うむ、もうすぐ寒くて泳げなくなりますからねぇ」と計画を始めた先日。あいにくすぐには互いの予定が調整できず、数日後にやっと二人で川に行った時には、すでに秋模様の川の水は激寒で、なかなか凍える愉快な体験でしたとも。

さて、予定の調整がつかなかったとき、「独りで行きませう」という選択肢もあるはず。けれども一緒に行けるまで待ちたくなるのは、よくよく考えてみれば群衆心理の煩悩ゆえ、なのかもしれない。

思うに、一緒に行く醍醐味は、「私が愉しい」「君も愉しい」、という共有体験にあります。けれども実は、自分の感覚と同じような感覚を友人が持ってくれているおかげで、「自分の感覚は間違ってない、大丈夫なんだ。ホッ」という安心への欲求が本質のように思われます。

少し脱線しますと・・・。
恋人と別れたあとに、たとえば素敵な風景に出会ったら「あの人と一緒に見たかったな」なんて、センチメンタルになることってよくありますよね。

その秋めいた切ない感じも、省察してみますと単に、「ステキな風景だね」という自分の感情を、相手も同じことを思ってもらうことで、補強して安心したい欲求にすぎない、かもしれない。(ええー!?)

「自分は間違ってないもんね」という、見の煩悩。それゆえ、「赤信号 みんなで渡ればこわくない」。そして「川 ふたりでゆけば愉しさ倍増」。こうしたカラクリを知ったうえでちょっぴりクールめに、友達づきあいを享受したいものです。




第六百六十九回

今回は、(いえ、今回も?)ちょっとひねくれた見方をしてみましょう。しばしば使われる紋切り型の「お忙しいところ申し訳ありませんが宜しくお願いします」。

こればなぜに、こんなに使われるほど大ヒット文になったのか分析してみれば、元々は相手の自尊心をくすぐるのに便利だったからでしょう。

と申しますのは、これは実質的に「あなたは引っぱりダコの価値ある存在で、一分一秒ですら貴重なあなたの時間を私めなんかのために使っていただけるなんて感激です」という圧倒的へり下りにより、相手を持ち上げているのですから。こんな言葉が大ヒットしたからには、そうやってヨイショをされると少なからざる人が気分を良くして相手の頼みを聞きやすくなった、からなのでしょう。それで「わーい、しめしめ、これは便利だ」と。

そうしてみると、一見礼儀正しそうに見える言葉は、たいてい相手の慢心を刺激する策略めいた性質をも、持っていると申せてしまいそうですねぇ。ん、んー。こんなことで気分をよくしちゃう私たち人類って、心が弱いのでありますことよ。




第六百六十八回

難しい。「AはゼッタイBだ」と思っている人に、「Aは実はCなんだよ」と説明して、わかってもらうのは、極めて難しいことです。

たとえば、原子力はゼッタイ悪だとか、ゼッタイ必要だとか考える人同士が話し合いましても、通常はお互いがより意固地に「自分の考えが正しい」と思うようになるものです。

私たちが何かを考えるとき、「その考えをしている自分は正しい」という、正当性への煩悩が生じる。その”ただしさ”によって自我を支えるためにこそ実は考えているのですから、考えを「間違っている」と指摘されますと、自我が崩される危機として、意識的に抵抗したくなるものです。

ゆえに宗教を信じる人にその宗教の矛盾点を突くと、かえって自我を守るためによけいに狂信的になったり。喫煙者にタバコの害を説くと、よけいにタバコを喫おうとしたり。がびーん、逆効果なのさ。

ですからゼッタイAって言い張る人には、かえって「もしかするとAかもねぇ」と、言い分をあくまで部分的に受け入れてあげるほうが、効果的なこともあるものです。

「あれ・・・ッ?認められてしまったよ?」という空振り感とともに、自分が強く言い張りすぎていることへの恥ずかしさや自省がはたらくことも、ありますからね。