家出空間 仏道式イエデ4コマ
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仏道式イエデ4コマ 僧侶エッセイ

ラクガキのような4こまを通じて仏道を説いて参ります。上のほうが新しく、下のほうが古い、という順番で配列しておりますので続き物の場合は、下からご覧になられると良いでせう。

第七百十二回

 そう、まるでこんな塩梅に、のほほんとして聞き流すことです。ただし、他人の話を聞き流すのは失礼でして、まさに自らの頭の中の考えごとや感情を聞き流すのです。

 けれどもふつう、誰もが自らの考えに執着し、同意し、「本当にそうだ」と思いこんでいます。

 たとえば、「あの人は性格が悪い」―「本当にそうだ!」。「今日は調子が良くて嬉しいな」―「本当にそうだ!」と。

 これはまるで、クマッコの話に夢中になっているようなものです。夢中になるせいで、思考に力を与えているのですねぇ。

 が、それをやめて下さいと言うと誰もが反対に、考えに対して敵意という執着を抱きがちなのが困ったもの。

 「あの人は性格が悪い」―「あッ、こんなこと考えちゃいけないのに」。「今日は調子が良くて嬉しいな」―「あ!慢心だ、いけない」といった具合に。

 これはまるで、クマッコの話をことごとく途中で遮って、否定するようなもので、否定の力によって思考をガシッとつかんでしまいます。否定の力によって皮肉にも、思考にリアリティと力を与えているのですねぇ。

 こうした話を聞いて理解されているつもりのかたも、無意識レベルで思考を嫌っていたり、思考を消し去りたがっていたりしがちなものです。

 ですから、思考を「その通りだ」と同意もせず「いけない」と否定もせず、聞き流すという軽やかさは、なかなか分かりにくいことでしょう。

 「そうなんだー」と、どんな思考も放っておき、同意や否定の力によって執着されなければ、どんな思考もどうでも良い単なる一つの現象として、生じて、そのまま流れ去ってしまう。ならばその思考は生じていても、何の影響も心に与えなくなります。

 何の影響もないので、百個の考えが生じても、千個の考えが生じても、まったく考えていないのと同じ静けさなのです。

 そうならば、「考えを止めよう!」とムキにならなくても、良くなるのが分かることでしょう。



第七百十一回

 離れ小島に作っている最中の、島の月読寺にて、愉快な冒険に満ちた十日間リトリートが終りました。

 開放的な海と太陽と風たちが織りなす自然が与えてくれる恵みの支援を存分に受けながら、生徒さんたちの精進も上々でありましたのを見て、今後はもっと高い頻度でこうした合宿開催をできるよう、力を注ごうと思ったことです。

 島の月読寺の魅力は、「なーんにも、無い!」ことに尽きます。が、今回のリトリートでは、「さすがに無さすぎですねぇ」というのも否めませんでしたよ。

 ガスキッチンを壊して釜戸に変えたり、坐禅堂の床を壊して土の地面にしたり、お風呂を薪で焚くように変えたり、という程度は予定していたのです。が、離島という制約上、工事がまったく予定通り進まず、合宿開始の一週間前に大工さんから、なかなか愉快な情報が届きました。

 トイレは壊して作り直すのは間に合わず、仮設トイレすら間に合いそうにない。ふむふむ、隣家のトイレを借りれば何とか、なるか。キッチンは、シンクが間に合わないので、外から拾ってきた壊れかけの流しを仮置きして、釜戸は煙突設置が間に合わないので、仮の煙突をムリヤリ付けて、窓を開けっ放しにして窓から突き出すしかない。ふむふむ、強風の日は料理ができず、断食になるかもね。

 そしてお風呂も間に合わない、と。うーん、隣家のお風呂を借りて、入浴は二日に一度にすれば、何とかなるかしらん?

 かくして、あれもないしこれも足りない、という状況のまま、合宿は決行されたのでありました。

 ええ。不測のことが起きることがあったとしても、結局は「それを気にする」という気持が幻覚にすぎず、心は幻覚の影響をちっとも受けず平安無事なのでありましたら、怖いものなど何も、ないのですからね。

 いやはや、なかなかの不便を生徒さんたちに課すことにはなってしまったものの、結果として、「心さえ安穏としていれば、大変なら大変でも、大丈夫よー!」という、突き抜けた安堵感を、実地に実習できたことでしょう(にっこり)。

 とは言え、トイレとお風呂は欲しいですねぇ。もう少しは便利にするべく、工事は着々と再び進んでおります。



第七百十回

 このごろは、瀬戸内海の前島という離れ小島に作っている最中の新道場と鎌倉との間を行ったり来たりしながら、道場の整備を進めております。

 この島へ行くには、周防大島という島から連絡船で20分ほど、どんぶらこ〜、です。

 この船、一日に三往復しか出ておらず、最終便が午後4時台に終わるため、それ以降は「もう、誰も島には来ない感」が舞い降ります。鳥の声と風と波のちゃぷちゃぷ音くらいしか聞こえず、なーんにもない中でいるのは、なかなか居心地のよいものです。

 人口が10人もいないだけに、お店などは一つたりともなく、日本国貨幣が無効化した領域には、倒壊した廃屋があちこちにあり、まるで文明の終わった後のようです。

 かくして、こうした隔絶感は、個人的な趣味としては愉快なものでわくわくするのですが、それはそれで面白すぎる不便さでもあります。

 とりわけ食糧が尽きたときは、周防大島まで船でわたってスーパーマーケットにゆかねばなりませんが、昼前の便で出かけたなら、カボチャや人参などをいそいそと買ったあと、帰りの船が出る夕方まで、待たねばなりません。

 港の近くにある、レトロスペクティブな喫茶店に入ってオムライスなどを注文し、ひたすら坐禅をして夕方を迎えるとか、港に風呂敷を広げて坐禅とか。ただし、もし海が荒れると欠航して帰れなくなるので、どこかの宿へ、ですねぇ。

 いやはや、こんな塩梅ですから、「よそに出かける」というのは自然にハードルが高く感じられもし、なるべく野菜を自給したくもなるというものですよ。

 昔の住民が出ていった後の廃墟の土地があちこちに余っているようなので、それらを借りることができ、あれやこれやと、種を蒔いたことでした。

 そんな、島の月読寺では今後、長期合宿の他におよそ毎月に一度、土曜日曜に一泊二日の坐禅セッション開催を予定しています。



第七百九回

 先日、このウェブサイトの更新や文字タイピングをして下さっているeさんたちと食事をしている際に、興味深いご指摘を受けました。

「いつの頃からか説法に『絶対に』とか『確実に』とかって、仰ることが多くなったような気がするんですけど」

「そう、かもしれませんね」

「ずっと以前の4コマではたしか、『絶対に』なんて言いたがる人は、自信がないからこそ、『絶対に』と虚勢を張りたくなる、といった主旨のことを書かれていたと記憶するものですから不思議に感じまして」

「あっはっは、お見事。してやられた、って感じですねぇ。なかなか面白い着眼点ではありませんか。4コマの題材にさせてもらっていいですか」

「ええ」

「そう、この現象世界の中に、絶対のものなど何一つありませんし、あらゆる考えも絶対ではなく、心をあっさり裏切るものです。それなのに現象にすぎない無常なものについて『絶対』なんて思ったり言ったりするなら、それは嘘ですし、自信のなさから虚勢を張っているのです。でも‥‥」

「でも?この場合は、違うのですよね」

「ええ。諸行、つまり脳によって合成されて作られたデータは、合成する力が消えると壊れて変化するから、無常です。作られ、生じるものは壊れますからね。でも、諸行という夢に執着するのをやめれば、諸行じゃない、夢ではないものに行き当たるのです。作り上げられていないもの、つまりニルヴァーナだけは唯一、無常ではなくて寂静なのですよ。ニルヴァーナは、生じませんから、絶対に壊れません。絶対にだいじょうぶ。99%だいじょうぶじゃなくて、100%だいじょうぶなのですよ」

「うーん、でも、まだまだ夢も見ていたいというか、夢があるからこそ生きがいもある気もするんですけど‥‥」と、同席されていたmさんがコメントをされたりしつつ、食事会を終えたのでした。



第七百八回

 今回は、ちょっと真面目な4コマです。

 喜怒哀楽の感情や考えに夢中になるなら、考えにふり回され、その奴隷となります。

 では、感情や考えを、どのように扱ったら良いか。最も重要だと思われるポイントは、「扱おう」とするのは止めて、考えというものの性質を観察し、見抜くことです。

 たとえば仕事で失敗しそうになり、「うまくゆかないな」という、モヤモヤした思いがわいてきたとしましょう。

 いつもならばそのモヤモヤに夢中になっていたことでしょうけれども、夢中になるかわりにそのモヤモヤがいつ、どのように出てきて、どう変化してゆくのか、観察してみるのです。

 すると、事態が思い通りに進まないという現実を察知したら瞬時に、嫌な気分が電気ショックのように走り、勝手にモヤモヤし始めていたことに気づくでしょう。

 つまり、目の前の現実に触れるやいなや、即座に不快な思考回路が自動的に駆動しているのです。自動的にということはつまり、「私が考えている」ということでもなく、「私の不快さである」ということでも有り得ません。だって、私が選ぶ暇などなく、0.1秒もかからず電光石火で自動駆動しているのですよ?

 ただ、誰のものでもない考えが、勝手に生じただけなのです。それを皆、「私が自分の意志で選んで考えている」と勘違いしているので、その考えや感情と同化して、余計な苦しみを背負いこんでいるのです。

 それが高速でかつ自動で生じ、しかも高速かつ自動でまた更に別の思考や気分に入れ替わってゆくだけ。

 言わば、その考えの差出人なる「私」はどこにもおらず、その考えの受け取り人なる「私 」も、どこにも見出せないのです。

 そのような、「いつのまにか勝手に生じた」「勝手に消えてった 」という、無常を観察し続けているなら、それらの思考は「私のもの」でも 「私 」でもなく、それゆえ大して興味の湧かないものとなって、意味を失っていきます。

 思考が、心にとって意味を失ってしまえば、もはや思考に支配されることはまったくなくなり、完璧な平安というふるさとに、立ちかえっているのですよ。



第七百七回

 インドでの豊穣な体験を経て、いっそう、たとえ何が起きてもまったく問題ないし大丈夫よー、という思いに磨きをかけて帰ってまいりました。

 予想をことごとく超える、インドの荒ぶる風土やインド人の振る舞いに触れるにつけ、何事も受け入れる以外はないよねぇ、と(にっこり)。

 さて、帰国してすぐ、大阪での仕事のために、大阪市街地で宿泊したのです。鍵を閉めずに眠っていたところ、草木も眠る丑三つ時に部屋の照明がパッとつくではありませんか。

 そして、酔っ払った男女が中国語で何かを陽気に喋っています。どうやら部屋を間違えて入ってきたのでしょう、と思い、"Would you please be quiet? I'm sleeping"と伝えると"Sorry"と仰って、出ていってくれました。

 そのときに思ったのは、たったこれだけの出来事にしても、私も彼らも、各々の業にもとづきこの日このホテルに来るべくして居合わせ、それゆえ私がここで夜中に目覚めることも、起こるべくして起きたのだ、ということです。

 廊下では、彼らの大騒ぎが続いているようでしたが、心持ちは安らかです。なぜなら、必然的事象に腹を立てるなどということは、自然法則に文句を言うのと同じで、愚かだからです。

 それは、雨が降るべくして降ることに対して腹を立てるのは、愚かだということと同じなのですよ。

 ある意味では、こうして起こされることも、七億年前から決まっていたことで、まったくOKで大丈夫よー。そう思っているうちに、再びスヤスヤと眠っていたのでした。

 このように、過去の業ゆえに起こる諸々の出来事を、当然のこととして心安らかに受容してゆくなら、過去の悪業がそれにより清算されるのですから、願ったり叶ったり、なのです。

 かくして業はどんどん清算され続け、「定め」は書き換わってゆき続けます、良き方へと。

 そして究極的には、「良き方」をも超越する方へと、なのですよ。



第七百六回

 いやはや、どういう巡り合わせか、初めてのインドに出かけてまいります。十二月の前半は、インドでブッダの足跡をたどりながら坐禅瞑想をして回っていますのでその間、坐禅セッションはお休みになり、音信も不通になりますよ。

 書籍の企画で、インド中の仏跡を巡礼して現地で坐禅しつつ、そこで説かれたブッダの言葉を読みとく、という、なかなか魅力的な瞑想紀行です。

 版元は、主に教科書を作っている、良い意味で堅い会社なので、久々に、本格的に深く切り込んだ内容に仕上げても許容してもらえるでしょう、と、私も楽しみにしております。

 ブッダが修行に励んだ地、解脱に到った地、最後に入滅した地、などなど。エネルギーを汲み取るとともに、インド的カオスを、お土産として持ち帰ってまいりましょう。

 いえ、結局はニッポンにいようとインドにいようと、「今、ここ」なだけで、なーんも変わらないには、違いありません。



第七百五回

 この4コマに描いてみたように、不動産屋さんが急かそうとする常套手段として、「他にも検討している人がいるので、急いだほうがいいですよ」というものがありますね。

 今回、研修用に土地建物を探すにあたっても、何度かこの、お馴染みのセリフに出会ったものでありました。

 けれども残念!まったく「早くしなきゃ」という気にならないのは、気に入っていないからではありません。

 とても気に入っていてももし検討のために時間を置いたとしても、それで売れてしまうものなら、はじめから縁のないものと、サクッと忘れる用意ができているからです。

 苦しみとは、何かが手に入らないことで生じるのではなく、自分には縁のない(手に入らない定めの)ものを、手に入れたがることによって生じます。

 つまり、手に入らないものを手に入れようとする、という欲望を去っていれば、単に手に入るべきものは自然に入り、入るべきでないものは自然に入らない。それだけの話で、己に相応しいものだけが、手元に残ります。

 ですから、なーんにも、焦る必要はないのです。

 人間関係でも、同じこと。とても気にっている人が、去ってゆくこともあるものです。引きとめようと無理をする必要は、何もありません。

 縁のないはずの人を無理してまで引きとめて、互いに重荷を負うだけのことです。

 ですから誰かが去って行っても嘆くことは、ないのですよ。「ああ、縁がなかったということが分かったんだから、これもまたOK!」と、ほほえむことにいたしませんか。



第七百四回

 今年の9月3日をもって、正現寺の住職を退任し、今後は鎌倉の月読寺を拠点に、もっと自由に全国を巡ることとなります。

 以前より私が正現寺を留守にしている期間が長すぎるため、ご高齢の檀家さんを中心に、住職不在で不安だという声が前々から寄せられており、対策を協議してまいりました。

 そこで、親戚の浄土真宗ご僧侶に住職を引き継いで頂くということで、内々の調整がほぼ完了していたのですが、大ドンデン返し。宗派の人からそのかたに対して、正現寺(という破門した寺)の住職になるなら破門対象になる、というお達しがあり、白紙撤回されることとなりました。

 ここで、おやまあ、事態の成りゆきを見かねた両親が、せっかく隠居生活を満喫していたところですのに、何と、再び住職・坊守に復帰しようと名乗り出てくれることとなり、私は退任することとなりました。お父さん、お母さん、親孝行できなくて、ごめんなさいねぇ。このご恩は、忘れません。

 また、お寺のある地元の地域社会では、坐禅セッションや瞑想の合宿が、周りの浄土真宗のお寺さんやその檀家さんたちから、「他宗教の怪しげなもの」として批判対象になっているらしく、正現寺の檀家さんたちは常日頃からそうした批判を聞かされて、周囲がほぼ全て浄土真宗の地域のため肩身の狭い、つらい思いをしておられるとのこと。

 檀家のかたがたが地元で孤立する原因に、私がなってしまっているようですから、迷惑とならぬよう住職退任に伴って私は正現寺から離れることにし、別のところに山口での坐禅会場を移すことにいたしました。

 幸いにも、ほどよく離れた山口市内にある禅の古刹、洞春寺のご住職が、本堂を坐禅セッションに貸して下さることを、快諾して下さいました。11月よりは隔月で山口を訪れ、奇数月の第一土曜日午後に、洞春寺にて開催できる見込みです。

 ところで、正現寺を会場として使うのを手控えるとしますと、今年秋以降の坐禅合宿(リトリート)会場を、探さねばなりませんねぇ。

 ともあれ、六年間にわたる伝統寺院へのお勤めにはついに終止符が打たれ、ああ、再び何も背負わない自由で、どこまでだってゆけるではありませんか!



第七百三回

 先日の正現寺での坐禅セッションのこと、昨年のお寺を支えてくださった執務員のオールスターが参加されていて、偶然にも一堂に会すことになりました。

 なつかしさにしばし立ち話をしておりましたら、「スタッフはみんな結婚しますよねー」と誰かが言い出し、そう言えばたしかにその通り。

 初代のiさんもご結婚して幸せそう、アルパカ系男子として正現寺に平穏をもたらしてくれたトミーも坐禅セッションの生徒さんとご結婚が決まり、そして最後の執務員になって下さったaさんもまた、ご結婚が決まり、退職して郷里に帰られることとなりました。

 そこに、sちゃんがポツリ。「どうして、私だけ結婚してないの?」‥‥いやはやあっはっは、それは私には分かりかねますが、何事も本人の業ですからねぇ。「最後の執務員」と申しましたが、別経路の事情も重なってお寺で熟議の結果、新規採用は取り止めることと、なりました。

 それについてと今後の変化について詳しくは、八月頃にお知らせできるかと思いますながら、かくして皆、巣立ってゆくのでありました。いやはや、皆のおかげで、これまで伝統寺院住職の重責に耐えてこられたのですよ。感謝です。



第七百二回

 年始より集中的修行期間(安居)を続けてきた尼僧さんの、得度式をおこないました。

 その日をさかいに、名前も「虚寧(きょねい)」さんと改めていただき、何もなきことの安寧さ、といった心持ちでつけた法名です。

 得度の名に恥じず、安居約百日間でひらりと壁を突破され目を見張る成長ぶりを示しており、このぶんですとそう遠くないうちに、坐禅指導や説法も担当するようになることでしょう。

 何でも、修行に入る前は「腐女子」とやらだったそうで、以前は提出してもらう修行レポートにアニメやマンガのセリフを引用されることがしばしばあったものの、私には分からず苦笑することでした。シャーマンキング?‥‥最近はすっかり、なくなりましたねぇ。

 きっと、そうした袋小路に入りこんでいた前歴があるがゆえの、人の苦しみの機微を知る独特の説法をしてくれることでしょう。

 余談ながら呼び名が変わると前はNさんと呼んでいたものですから、名が変わったばかりの頃はうっかり「N‥‥、あ、きょねいさん」と言い直すことが何度かあり、脳の神経回路がすぐ対応しきれない有り様が面白いことでした。

 また、もうお一人の修行僧が辞されるに当たり、「如章(にょしょう)」さんからDさんに戻られました。そちらも反対に、つい「にょ‥‥、あ、Dさん」とやりがちな、お寺の面々なのでありましたとさ。



第七百一回

 三月五日の坐禅セッション説法が、なかなか愉快なものとなりまして、この4コマはその説法からのスピンオフです。

 詳しくは説法をお聞き下さればと思いますが、内面への気づきをバランスよく機能させる秘訣は、中道にあります。

 己の感情へと気づきを向けて観察する際にも、「何でこんなことを考えているんだ」とか、「いけない」とか、「あ、こんなこと考えてた、しまった、気づきを向けなくちゃ」などと、否定的な思いが少しでも混ざると、それは自己否定という攻撃性であって中道を見失います。

 肯定と否定、という両極を超越した視点に立つ中道の平穏さの中にいるのでなければ、気づきの驚異的な力は発揮されないのです。

 感情を否定しない、というのは、感情を肯定して下さい、というのとも違うのです。ただただ、感情の外部の超越的視点に立って、一切の感情から離れて、感情を純粋に眺める。

 そのような超越的視点(=「空」の視点です)を保つためのコツを色々と提案しておりますけれども、その一つがこの、「そうかもねー」なのです。

 焦る気持ちがわいてきても、それを肯定も否定もせず聞き流してあげるような精神姿勢にて、「そうかもねー」。

 それに対してこの心が敏感に反応し、たとえば「あー、聞き流したなー!」と考え始めても、「そうかもねー」「そうさなぁ」と、やさしく聞き流す。

 するとひょっとして思考から超越したことでフワッと軽やかになったら、「なるほど、これが中道てことか」と考えても、それに対しても「そうかもねー」「そうさなぁ、クマッコの言う通りかもねー」と、やさしく、やさしく。

 「ああ、これが無常で無我で空か」と思いついても、それに対しても「そうさなぁ、そうかもねー」といった態度で、真に受けずに聞き流す。

 そう、心の中に棲むクマッコが、ひっきりなしに「思考」というおしゃべりをし続ける。その全てについてやさしく聞き流してあげて、真に受けなくなれば、感情は全て効力を失います。もはや、ノー・ダメージで無敵なのですよ。




第七百回

 鎌倉の月読寺は初めから、インターネット回線がないのは元より、電話やWi-Fiなどの各種の電波が極めて入りにくく、皆さまのお持ちの携帯機器はたいてい、「圏外」になりがちなようです。

 こうした言わば陸の孤島感は、そこに来ると、「常に誰かからの連絡待ち」であるかのような心地を解除しますから、来訪者にとってある種の解放感をもたらしてくれるはず、ということも期されていたりします。

 さて、新年になり山口の正現寺には二人目の修行僧が住み始め、静けさと精進の活気が満ちてきております。私が月読寺にいて留守にする半月強の間は瞑想指導ができないため、その間は過去のインストラクションを録音、編集したものを本堂に流しながら、修行僧が自習できるシステムを作ってもらっておりました。

 ただ、お寺にはパソコンも編集するための機器も何もないため、執務室のかたが自宅に持ち帰って作業して下さっていたのでした。(すまないねぇ‥‥。)

 iTunesというソフトウェアを使うと正現寺と月読寺の音源を共有できて良いらしいのですが、そのために「お寺にネットをつなげるようにしては?」「iPodを買いましょうか」「いや、タブレットが良さそうです」と、色々のアドバイスをいただきましたよ。

 いやはや、ネットがあればたしかに便利かもねー、と一瞬は思いましたものの、やっぱり陸の孤島感を守りたいなと思い返しまして、やっぱり手紙と固定電話とFAXでいいや。これからも孤島は続きますよー。

 とはいえネットにつながなくても単体で音源編集作業ができそう、ということで、ついにタブレットなるものの購入を決定いたしました。

 正現寺では毎日、それらの音源による修行が続けられています(よね?・・・・留守中もしっかり精進していて下さいますように)。

 毎朝、九時半から約一時間の坐禅瞑想の回のみ、一般のかたでもご参加頂ける内容となっていますので、自習されたいかたはいつでも、ウェルカムですよ。(※正現寺のみ。また、坐禅セッションにすでに参加したことのあるかたに限ります。)




第六百九十九回

 いやはや、クマッコに限ったことでもありません。誰もが基本的には、「自分に関係した話」しか聞きたくないし、話したくないのです。

 ところが。あまりにあからさまに自分の話ばかりし続けると、第一には他人に敬遠されてしまいますし、第二に「自分ってワガママすぎるんじゃ……」と罪悪感が、わいてきかねませんねぇ。

 そんな次第ですから、偽善者になって「まず先に、相手に質問してみよう」とばかりに、質問をする。

 自分の脳みその話をしたいのに、前フリとして「君の脳みその調子、どう?」と。相手は、内心、わーい、自分の話ができる、と喜んで答えはじめるのですが、それはぬか喜びに終わるのです。

 なぜならせっかく懸命に答えてみたところで、ほどなく「そうなんだー、大変だねぇ」などと、なおざりな相槌とともに予定どおり、主人公が反転するのですから。

 ‥‥「ところで私の脳みその調子ときたら最近、どうたらこうたら」といった具合に。

 そう、このように「自分に関係した話」を応酬してばかりいますと、コミュニケーションの質が劣化します。

 けだし、終わりなき「自分って、こんな人なんだよ」という自己確認の外部に出て相手の気持ちに向かわない限り、相手の心の琴線に、打ち震えるかのごとく触れ揺り動かすことはできないからです。

 ですから、ときには己の心は静かにしておいて主人公は相手に譲ってさしあげ、相手の存在をひっそりと受けとめるような微笑みの対話も、したいものです、ね。




第六百九十八回

 修行ポーには沈黙行はムズカシイさ。だって、小鳥はさえずるものですもの(にっこり)。

修行僧と、修行僧をサポートする執務室の分業体制のはじまった山口・正現寺では9月より一人目の修行者が住みこまれており、主に修行に没頭しつつも、ときに修行ポーのごとく沈黙行を破り、執務室員のかた相手に立派そうな演説をぶってケムたがられ、なおかつ私に注意されてしょげたりもしていますよ。

9日間の坐禅合宿後、そのまま同じ時間割とメニューで日々修行続行中にて、11月15日には正式に、剃髪して法名を差し上げ、新・正現寺初の得度式をおこなう予定です。

そしてもうすぐ、二人目の修行僧が誕生することになる予定でありまして、このお寺がついに、修行のできる僧団へとなりつつあります。…長い道のりで、あった。

なお、正現寺では毎朝早朝より坐禅・歩行禅の修行がおこなわれており、てきとうなタイミングで私による瞑想インストラクションもおこなわれています。近々、一般のかたも一緒に入って修行できる時間帯を設ける予定ですので、詳しくはまた改めて執務のかたよりの告知をチェックしてみて下さい。




第六百九十七回

 人の口癖を眺めていると面白いもので、自分で話しながら「うん、うん」とか「そう、そう、そうなの」などと、自分に相槌を打つのが癖になっているかたを、ときに見かけます。

たとえば、「あのことはあなたのためにやっておいてあげたからね、うん、うん」。あるいは、「これはとっても体に良いんだよー、そう、そう」。

いやはや、こうした口癖は傾向として、独善的で自己主張が強く、自信満々であるかのような印象を醸し出すものですねぇ。

が、果たして本当に自信満々なのか。いえ、自分の言っていることに絶対の確信が持てないのに無理に言い張ろうとするとき、自信がないほど「絶対に」だの「はっきり言って」だの「正直なところ」などと語気を強め、大きな声で主張してごまかすのにも似ているのです。

すなわち、心の底では、自分でも納得しきれていないからこそ、大袈裟な言葉で力説する必要が出てくる。それにも似て、自分で自分にうなずく癖のあるかたも、心の底では自分が間違っているかもという不安に脅かされているからこそ、「うん、うん」と言って、ごまかそうとしているのです。

真に確信に満ちているなら、ゆったりと、余分な言葉は付け足さずに語れるものですからね。

ですから、「うん、うん」と独りずもうをする人に会っても、独善的と嫌わずに「不安なのだなあ」と、受け止めて差し上げましょう。そして自分のほうはといえば、「すごく」とか「絶対に」とかの大袈裟語に頼らずに、大らかに語りたいものではありませんか。




第六百九十六回

 自分の身内や知り合いが褒められたときに、反射的にネガティブな突っこみを入れるというシーンは、非常によく目にするものですね。

 「あの人は優しい人ね」と言われて、「いやー、実は怒るときはかなり激しいんですけどねぇ」なんて答えるとき、表面上は謙遜して言っているつもりだったりもするものです。

 けれども内実はと申しますと・・・・。「ふだんは優しくても怒るときは激しい」という自分の理解と異なる理解を相手がしているのが我慢ならない「見」の煩悩。それにより相手の純朴なとらえかたを、強引に自分の理解に合わせて修正しようとしているのです。

 相手のとらえかたを修正しようとする傲慢さ。本人のいないところで負の要素をさらしてみせるという点で、陰口を叩くことにも似ているのではないか、と、あるとき思い当たったのでありました。

 陰口、すなわち、本人がいないところでの、ネガティブな噂話。今回の4コマで「ふむーう、身内にも優しければいいんだけど」とポッポが言うとき、主観的には、気楽な軽口を叩いているつもりでしょう。けれども、間接的にそれはつまり、兄をおとしめる「両舌」の悪業をつんでしまっているのです、ガーン。

 そういったわけで、あるときから私は両親や祖父母のことを何かの機会にベタ褒めされて違和感を覚えることがあっても、変に否定したり訂正したり謙遜したりするのは、やめることにしたのです。

 訂正する重苦しさのかわりに、「ああ、良いところを見て下さって有難うございます」と、にっこり御礼を申していれば爽やかで風通しの良いことです、よ。




第六百九十五回

  あるお店で夕食をいただいているとき、カウンターの隣席に座った人が、店主に褒め言葉をかけているのが聞こえました。

 「スーパーで買うのは全然おいしくないけど、これは本当にうまいね」。

 いえ、何ということもない、無邪気なセリフではあるのです。が、この場合、よく見てみると、「スーパーで買う安物」への否定と優越感が、混入しているのも確かなようです。

 さて、他人のことをトヤカク言うのは仏道の本義にあらずして、己のことを見てみましょう。私も何かしらのことについて「良い」と思ったとき、安易に「○○よりもずっと良い」なんて、他と比べて言うことがあると、思い当たります。

 たとえば「前のペンも使いやすかったけれど、このペンのほうが使いやすいね」とか、「どこそこのお店が一番良いと思っていたけど、このお店がやっぱり一番だね」など。

 こうして、より劣った比較対象をつくることで、対象の良さを分かったつもりになれますから、便利なのでしょう。

 けれども、本当は何も分かっちゃいない。なおかつ、「優劣を比べて判定する」という名の慢心がそこに混入しているがゆえに、その手のセリフは、ぱっと見は相手を褒めていても、その姿は美しくないように思われるのです。

 「何かと比べて良い」と考えたり言ったりするのはすこぶるお手軽ですが、ちょっと一手間かけて、比べずに対象そのものの良い点を感じてみる。そんな丁寧さを。

 優劣なんて超越して、対象そのものを、見てみる。なるべくそうしてみようと思いましたので、うっかり私が「○○はダメだけどそれと比べて‥‥」なんて偉そうな比較をしていましたら、「君、君」と肩を叩いて教えて下さいね(にっこり)。




第六百九十四回

  今回の4コマの狙いは、鏡について主題化することでした。鏡といっても、精神的な鏡について、です。

 私たちときたら、ハッピーなことや、あるいはとても嫌なことがあったら、誰かにそれを教えたくなりがちですよね。

 特に、「自分が今、ハッピーであること」や、「自分が最近、調子が良いこと」なんかを、初めにあの人に伝えたくなる という相手が、いませんでしょうか。

 そういうかたが存在してくれていることは、ある意味では恵まれていることでもありまして、有難いことではあります。

 けれども同時に、それはそのかたにとって少し迷惑なことでもあるのです、実は。なぜなら、その相手は私たちにとって 、「自分がこんなにも今、良い感じなのであーる」ということを映してうっとりするための、鏡にされてしまっているから です。

 今回、ポッポの元恋人ピッピは、自分がフシアワセだと感じるのが嫌なあまりに、さっさと結婚してしまいました・・・、ム ラサキウニと(な、なんだってーッ!)。

 さて、彼女はそれでハッピーかというと、違うのです。彼女にとって自分を映す鏡であるポッポに対して、「自分は今、 シアワセなのよッ」と知らせないかぎりは気分が晴れないのですから。

 つまり、ポッポの心という鏡に映る自分の姿が不幸せなままだと、苦しく落ちつかないのです。その鏡に映る自分の姿を 変更するためにこそ、わざわざ「今、幸せです」とアピールしたくなるのでしょうねぇ。

 いえ、これは人ごとにあらず。友人や家族や上司や部下や恋人なんかを鏡にして、自分の姿を素敵に映そうとすることに 、誰もが血道をあげているのですから。

 そうして他人を鏡にして自分の素敵さを映しかけているのに気づいたら、途中でやめて沈黙するように、努めております 。それは、鏡の世界に閉じこめられている心が、鏡を割って脱出する道であることでしょう。




第六百九十三回

 3月10日、朝起きてみると吹雪いていて、外一面の銀世界になっていました。

 そこで、残り少なくなった薪をちびりちびりと、燃やして暖炉で寒さをしのいでおりました。

 昼前になるころにはお陽さまも出て気温も上がり、薪を燃やしているとちょっと暑いかな、というくらいなぐらいです。

 さて、そこで原稿執筆にとりかかろうとペンを握ったところ、珍しい感覚を感じているのに気付きます。 「あー、暑いッ」という具合に、ちょっとイラッとしているような次第でありました。

 ふだんですと、寒いのがツラく感じることはあるにしても、暑さは心地よく受けとめるのが通常なのに、ただ暑いだけのことで不快に思うとは、と。

 そう、問題は暑さではなくて、暑さへの心の反応なのです。そこで執筆は後回しにして、少しだけ坐禅に取りくみます。

 すると速やかに、暑さに対して心がやわやわと適応して仲良くなり、ポカポカして心地よいなあ、といった感覚に変わったのでありました。

 そう、イラッとするのは、暑さのせいでも、ハシが転ぶせいでもなく、梅の絵が雑なせいでも、ないってことですねぇ(にっこり)




第六百九十二回

 それは例えばクマッコが、掃除について言及されるとき。「自分は責められるのでは」という緊張感を潜在的に持っているなら、ほめられている最中ですら、最後まで聞かずに、非難と捉えて言い訳を始めてしまうのです。

 すなわち、心の中にビクつきがあり、自分は誰かから非難されるのでは、という恐れがあるとき、非難されていなくても人の話を途中まで聞いて、その続きをネガティブな方向に、自動補完するということ。

 そう、まるで皆様の使っているPCや携帯電話で、「た」と入力しただけで「田中さんは」とか「谷崎潤一郎」などと、よく使う言葉が自動補完されるのにも、似ていますね。

 よく使う「心理的な解釈」によって、他者の言葉をかってに補完してしまう。ゆえに、相手の話を最後まで聞かなくなる。

 うーん、脳は自分のストーリーにあったように、話をねじ曲げるということですねぇ。

 この話題で書こうとしていた矢先に、ちょうどピッタリなエピソードに遭遇しましたので、軽く紹介してみましょう。

Aさん「最近、親から『お前も、オジサンという年齢になったな』と言われてね。私もそろそろ、オジサンであることを引き受けて生きていこうと…」

Bさん「Aさんはまだまだ若々しいからオジサンじゃありませんよ!」と、うっかりフォロー。

 いやはや、Aさんはおじさんということを、精神的成熟とポジティブに捉えて話しているのですが、Bさんは身体的衰えとして、ネガティブに捉えているのです。

 ゆえに、Aさんの話を途中まで聞いて、「オジサンになったのだというネガティブなことを自虐的に言っているのだろう」と、ストーリーを自動補完したということ、ですね。

 それで、善意から「オジサンじゃないよ」とフォローしているのですが、あいにくフォローされたいと思っていないポジティブなAさんとは、話が噛み合わなくなってしまいます。
あいやー。

 こんな細かな事例は、山ほどこの世に転がっているのです。私たちも、うっかり人の話を自動補完しちゃわないよう、最後まで耳を傾けたいものです、ね。




第六百九十一回

電車のアナウンスで「ただちにお知らせください」と耳にしても、それを額面どおりに受けとって「ただちに!」と焦る人はふつうおらず、ポッポくらいのものでしょう。

けれども、いざ自分にとって重要度の高いタスクに取り組む段になりますと、誰しも心の中の「車掌」がアナウンスするのではないでしょうか。

すなわち、「ただちに、じょうずに成し遂げなさい!」と。その命令に焦らされて取り組むので緊張してしまい、かえって能力を出しきれず、なおかつ疲れてしまうのです。

先日、坐禅瞑想と歩行瞑想の十日間合宿をしていたのですが、最初の日、多かれ少なかれ生徒さんたちは、「何かを成し遂げなきゃ!」と欲して、緊張しています。

そうして取り組む以上、深い集中にも入りませんし明晰な気づきも育まれず、疲れるのは当然です。

それゆえ初日と次の日には「一日にこんなに歩いたのは初めてで、もう歩けません」と音をあげる人すらおられました。けれどその同じ生徒さんも、日数半ばを過ぎると休み時間にも休憩せずに瞑想するようになっているのです。

なぜか?「何者かにこれからならなきゃ」「瞑想を上達させたい」というこれから先の目標に縛られ急かされていた力みから解放され、「今、ここ、この瞬間」のコマ切れの身体感覚をはっきり認識し始めるから。

「この瞬間」の感覚のリアリティへと没入している限り、この心には良いも悪いもなく、優れているも劣っているもなく、ただ充足して何も欠けていないのです。それゆえ、意識は覚醒しつつも無限にリラックスしている。

その中では、いくら歩きつづけても坐りつづけても、もはや疲れないのです。生徒さん各人のそうした研ぎ澄まされた神経状態のオーラ同士が互いに相乗効果を生む、素晴らしいリトリートとなりました。

これこそ我が使命と思い、来年からは今までよりずっと多く、リトリートを開催する心積もりです、よ。




第六百八十九回

ある秋の一日、大きなぶどうをたくさんいただきまして、それらをむいて口の中でかみしめ、タネのありかを舌で発見して取り出しつつ果汁を味わいます。美味なり。

さて、食していて、ふと昔のことを思い出し悦に入ったことでした。

子ども時代は、タネを口のなかでうまく「発見」するのが苦手はほど鈍感で、しばしばタネをうっかり噛み砕いて、ガリリっ。 苦い味がするのが嫌で、いっそ食べる前に皮を全部むいたうえで、指で実を真っ二つに裂き、あらかじめ手先でタネを取り除いてから食べていたものであったことよ、と。

すると手がベタベタになりますよね。「ぶどう」=「手がベタベタ、めんどくさい」という等式が成立していた有様だったのでした。

ところが、坐禅瞑想により身体感覚が敏感になるようになったことがおそらく原因で、ぶどうを食していても無意識的に、舌がタネの位置を感知してくれるようになった模様。

さて、こんなささやかな「変化」のことに思い当たっただけのことをとらえて、「ワタクシ、成長シターッ」とでもいうような自己満足に陥りたがる傾向が、この心にはあるように思われます。

もちろん「成長した」と悦に入ることは、綺麗げな自我イメージをこしらえる欲望を肥大させ、成長を妨げる。いやはや。

そういった視点で周囲を見渡してみますと、けっこう誰もが「前と比べて、自分はよい感じに変わったのであ〜る!」という裏メッセージをこめた、発言をしていることにも気づかれます。

それほどまでに、根深い癖なのでしょう、自己満足により停滞したがる欲望ってやつは。

その罠にふっと気づいたとき。「あー、自己満足であることよ」と自覚して罠をはずし、喜ぶのを中断しちゃえばいい。

修行も、そう。「前進した」とか「悟った」とか「自分はコレコレの段階まできた」とか、そんな自慰的思考は、おんもにポイ。




第六百八十八回

私たちは、他人に自分の発言内容を一言でまとめられると、しばしば「ちがーウッ」と感じてしまうものです。

 そうした場合、くどくどともう一度説明し直してみたり、相手の手前勝手な理解を嘆いてみたり、不機嫌になってみたり・・・。

 思うに、自分の話を他人に、不本意なまとめかたをされたときの反応によって、その人の寛容さをはかることが叶います。

 「他人の誤解」を必死に訂正しようとする度合いが高いほど、他人に解釈の自由を許さない、不寛容さの指標になるからです。

 上記のような理由で、そもそも人様の話を「なるほど、〜ってことですね」とうっかりまとめようものなら、面倒なことになりがちなので、やめておきたいものではあるのです。

 が、うっかり下手なまとめかたをしてしまっても機嫌を悪くしない人に会うと「寛容な人だなぁ」と安心でき、好感が持てる気がしますねぇ。

 ふと思い起こされるのは昔、大学時代のこと。バンカラな学生寮でルームメイトだったタカシマ君は、人に発言をまとめられるとよく、「似ている!」と答えて、不敵な笑みを浮かべていたものでした。

 ふむーぅ、相手の理解の「正しくない」部分を強調するかわりに、「ほんの少しでも伝わっている」部分を強調して、「似ている!」とユーモラスに、肯定しているのですねぇ。

 伝わらなくても「似ている!」と半分肯定、寛容さ(忍辱)の修行のおともに如何でしょうか。

 




第六百八十七回

私には浮世離れしていて万事いいかげんなところがあるのですが、そのわりには執筆の〆切は比較的守れるようにしています。
それは、顔見知りであるところの編集のかたに、精神的ダメージをなるべく与えたくないからです。
 ところが、現在取り組んでいる仏道の入門書の執筆が、〆切を過ぎても一向に仕上がりません。なのに、気力復活したこともあり、瞑想修行にいっそう時間を割きがちです。

 そうすると、ふっとよぎるのは・・・。毎日、四〜五時間も瞑想していて良いのだろうか。坐禅を切り詰めて執筆しなきゃいけないのでは、と罪悪感がやってくることもあります。

 けれども、おっと危ないッ、です。その罪悪感に流されて「無理」をするなら、己の自然体におけるリズムを破壊することになってしまう。そんなストレスを背負うなら引いては、その仕事を嫌いになってしまいかねません。
 ですから、ぞう編集長にストレスを与えないようにということと、自分にもストレスを与えないように、といことのバランスの中で、精進するのが、次善の策と申せましょうか。

 ビクビクしがちな私たちが、罪悪感に呑まれて、したくないはずのことを頑張りすぎちゃわないように、淡々と開き直っていましょうか。






第六百八十六回

いやはや、「うう、カミングアウトしづらいことよなぁ」ってこと、ありますよねぇ。

 人様から好意を向けてもらえることは誰しも嬉しいもので、それだけにそれが自分に合っていないものでも、喜ばしいことではあるものです。

 それに加えて、「せっかく相手が好意でしてくれているのに、喜んでみせないと傷つけてしまうかも」 と考えもするものですから、「和」を重んじる我ら日本人はついつい、実際の気持ち以上に喜んでみせる傾向があると思います。

 さて、私の場合、人様からお菓子を頂戴する機会がしばしばあるのですが、実は軽度の小麦アレルギー。ほんの少し食べるくらいは平気なのですが一定量を食べると身体がカユくなるのです。

 クッキーやマドレーヌなどを頂く際に、それを喜んでみせますと「またあげよう」と思わせてしまい、結局食べられずに人に差し上げてしまいますので、むしろ そちらの方が申し訳ない。

 そう思い、いつの頃からか、小麦粉のお菓子をもらうつどに、「ありがとうございます」とにっこり嬉しい気持ちは伝えつつ、 「小麦アレルギーで食べられないので、申し訳ないですが、周りにお裾分けさせて頂きますね」と、勇気をもって カミングアウトするようにした次第です。

 「相手をがっかりさせたくない」と気を遣いすぎて本音を隠してしまう方が楽なのですけれども、ね。 ときには、がっかりさせたほうが良いときもあるような気がしますよ、というお話でありましたとさ。




第六百八十五回

イラッとしたとき、「相手のせいで、チキショウ!」と考えるかわりに、「こういうことで腹の立つ今日の自分なのだなぁ」と内省すると、かえって自己探求の好機になってくれます。

とりわけ、いつもならさほど気にならないはずなのに、他人のちょっとした失礼が許せないなんてときは、自分の業のうち、イライラしやすいパワーが活性化して、 センシティブになっているのだな、と自己理解できます。

 そしてまた、人の好意を受けて、やけにジィーンと感動するときも……。 一方では、その好意を有難くかみしめておくと良いのです。他方では、こう気づいておくのも自己探求になるでしょう。

すなわち、「あー、そっか。今、自分は心が弱っていて飢えているから、センシティブに感じやすくなってて、 何でもかんでもジィーンとしやすくなっているらしいねぇ」と。

 かくほどさように、私たちは他人の悪意そのものや好意そのものを味わっているのではなくって、その時の自分の感じやすさによって、 変形しているのですよねぇ。

 去年の暮れに、何気ない、人の一言にホロリと温かい気持ちになったとき、「おやまぁ、弱ってるな」 と気づいて、これは4コマの題材になるなぁとメモしておいた次第でありましたとさ。にっこり。




第六百八十四回

イラッとしたとき、「相手のせいで、チキショウ!」と考えるかわりに、「こういうことで腹の立つ今日の自分なのだなぁ」と内省すると、かえって自己探求の好機になってくれます。

とりわけ、いつもならさほど気にならないはずなのに、他人のちょっとした失礼が許せないなんてときは、自分の業のうち、イライラしやすいパワーが活性化して、 センシティブになっているのだな、と自己理解できます。

 そしてまた、人の好意を受けて、やけにジィーンと感動するときも……。 一方では、その好意を有難くかみしめておくと良いのです。他方では、こう気づいておくのも自己探求になるでしょう。

すなわち、「あー、そっか。今、自分は心が弱っていて飢えているから、センシティブに感じやすくなってて、 何でもかんでもジィーンとしやすくなっているらしいねぇ」と。

 かくほどさように、私たちは他人の悪意そのものや好意そのものを味わっているのではなくって、その時の自分の感じやすさによって、 変形しているのですよねぇ。

 去年の暮れに、何気ない、人の一言にホロリと温かい気持ちになったとき、「おやまぁ、弱ってるな」 と気づいて、これは4コマの題材になるなぁとメモしておいた次第でありましたとさ。にっこり。




第六百八十三回

いやはや、ブラックディやグリーンディというのは冗談ですけれども、苦手な人や、どうでもいい人たちに優しくする記念日も、あったら良いかも、しれませんよねぇ。

ナズナや、オオイヌノフグリなんかが可憐に咲きわたる春の野山を歩いていると小川を魚たちが泳いでいるのが見えて、ふっとそんな、よしなしごとを思いつきまして、4コマにしてみた次第です、よ。

好きな人たちもそれなりに、そしてまた苦手な人たちにも(せめてときには)優しい気持ちを送ってみる。小川を泳ぐ魚や、そこに立っているシラサギなど、好きでも嫌いでもない者たちにも、ちょっと優しい気持ちになって、立ちどまってみる。

春の、萌えいづる生命力を感じて浮き浮きする今の季節には、天地自然のエネルギーをもらってそんな優しい気持ちになりやすいような気がするのでありました。




第六百八十二回

そう、「森のバター」という言い方は「バター > アボカド」という上下関係をはらみ、栗カボチャという言い方は「栗 > カボチャ」という序列をはらみ、「桃のようなトマト」という発送は「桃 > トマト」という価値観を、暗に前提にしていますよねぇ。

カボチャが栗の真似をしすぎたりトマトが桃に媚びて真似をしすぎるのは、カボチャの瓜っぽさやトマトの青臭さが失われ、良い特徴が消滅しかねないので困りものです。

ところでこのクマッコというキャラクターは、昔の設定では「実はクマ風のタヌキで、クマ権の獲得が夢なのだがクマになりきれない悲しみを背負っている」ということになっていたのですが、ほとんど誰も知らないでしょうね。

クマッコ(というタヌキ)が、クマに媚びて「クマ > タヌキ」という序列に苦しんでいるので性格がヒネているのかも。いつかは、クマッコがクマに媚びるのをやめ、タヌキに戻る4コマを描いてみましょうか、にっこり。

ちなみに、田舎の風景を見て「トトロの世界みたい〜」と喜ぶ婦女子をときに見かけますが、これは現実の田舎そのものを見ているのではなく、「トトロ(という素晴らしいもの)に似ている」という点で田舎を評価しているのであって、実は「森のバター」と同じ発送なのです。「トトロ > 田舎」ですね。

記憶の作用で、何でもかんでも「あれに似てるッ」と押し付けて、現実を見えなくさせられている。その呪術をやめたなら、クマはクマ、タヌキはタヌキ、トトロはトトロ、田舎は田舎。・・・ってこと?




第六百八十一回

先日、アルバイトのTさんに、「味つけのりとふつうののり、どちらを食べましょうか?」と聞いて、お返事は「味つけのり」。

しかし・・・ッ、選択肢を提示したくせして、「んー、この味のりはこないだ食べたら、いまいちだったんですよねぇ」なんて甘えたことを言い出し「じゃあ、ふつうののりでいいですよ」を引き出す始末で、うう、ご免なさい。そんなことなら最初っから選択肢なんて出さなきゃ良いのです。

後日、今度は幼馴じみのTちゃん(Tさんとは別人)と夕飯に出かけたとき、「A店とT店のどちらに行こうか?」と彼に質問しておきながら、「どっちでもいいけど、A店にしようか」と答えた彼に対して、「うん・・・、それでもいいけど・・・」なんて言葉を濁す始末。

最初っから、その日はどちらかというとT店に行きたかったので、うーん、6対4くらいでT店の方が良いから、Tちゃんが本当にどっちでもいいのならT店でいいかい?」とカミングアウトした次第でした。

と、些細なことながら、私には表面上は相手に委ねるフリをしつつ、片方の答えを期待するという癖があることに気づく、今日この頃でありまして、被害者の皆様には、申し訳ありません、どうかニッコリ許して下さいね。

さて、そのわりには、人様から例えば「○○をしてもらっていいかな」と尋ねられて、勇気を出して断った場合に相手が怒ったり非難してくると、気分が悪くなるものです。

その不快の理由はまさに、「表面上は質問の形でYes・Noを聞いているクセに、断ったら怒るということは、そのYes・Noは選択肢じゃなくて、強制的命令じゃないか」という思考にあり。

あいや、それを「どうだかなぁ」と思うのでしたら、それよりも先に、まずは自分が偽の選択肢を出すクセを、直そうではありませんか。




第六百八十回

ものごとをありのままに受けとめて、よけいな情報処理をしないこと。そんな「正見」を説法したりしているわりに、私のアマノジャクな頭は、商品の表示を見てヘンテコなケチをつけていることが、しばしばあります。

たとえば、大っきな苺大福を「うまうま」と食べていて、ふっと、「これ一個で何グラムくらいあるのかなぁ」と包装の「内容量」のところを見ると、「一個」と書かれているとき。

「いやいや、これに一個入ってるのは誰だって、見れば分かるでしょうともさ。知りたいのは何グラムなのか、なのにぃッ」なんて、ね。

まるで、揚げ足取りを喜ぶ子供のごとく、こういったあまのじゃくを、けっこうやっていることが気づかれます。クマッコのごとく、我がままな心なのですねぇ、いやはや。

う、うーん、アマノジャク、なかなかやめられないものの少な目にしたいもの、です。




第六百七十九回

この猛暑には「暑いねー」「ええ、本当に」といった挨拶が、全国津々浦々で交わされたことと思われます。

私も最近は無難な挨拶として「暑いですね」「涼しくなりましたね」などを使うようになったのですけれども、この手の挨拶を私たちが多用する理由のひとつには、そもそも人と人は理解しあえないということへの淋しさがあるような気が、ふっと、しました。

「暑いですね」と言われて、「そうですねぇ」とニコッと返すと、あたかも二人の間に同じ感覚が共有できたかのような気になれて、それにより自分の感覚が肯定されたと感じられて、ちょっと安心するのです。

もっと細かい、マニアックな意見や「独創的な」発言などしようものなら、たいてい反論や批判や疑問や質問にさらされて、おびやかされてしまうのが人の世の常ですから、ね。

八百屋のお兄さんと、「暑いね」「そうですねー」とやりとりしたとき、なんだかホッとした気分になっている自分をみて、「あー、私ときたら淋しい生き物なんだなぁ」と、うがった見方をしたことでありましたとさ。




第六百七十八回

無謀なるかなッ!私たちは無謀にも、自分のできる範囲をこえた、大それたことに挑戦したくなりがちなものです。

たとえば、あまいにも苦手すぎる相手とつきあうのも修行と思って乗り切ろうとするとか。・・・そしてやがて、限界に達して、アチャー。

あるいは、「うっかりさんを直さなきゃッ」と勢いごむものの、いきなりそんなの直るわけもなく、またしてもお菓子の砂糖と塩を入れ間違えてガッカリしておしまいになる、とか、ね。

あるいは、今までより優しさを5%増しにするのでなくて、急に50%増しにしようとして、無理がたたってイライラするとか。

いやはや、そうやって現在の自分のレベルにとって無理のありすぎることに挑戦するのは、言わば苦行でしかなく、収穫もあいにく得られないものです。

ですから、できることはできる。できないことはできない。できないことができる、といのはあり得ないのですから。

今の自分に、できないことを無理やりやらせようとするのは、あたかも傷ついている子供の心を理解できない親が、「もっとちゃんとしなさい」と言い続けるのにも、似ています。

ちゃんとしようとしても、ちゃんとできることはちゃんとできますけれども、「ちゃんとできないこと」は、少なくとも今は、頑張ってもちゃんとできないのです。

「できない」にも関わらず「やればできるよ」だなんて強要されると、それが他者からであれ自分からであれ、心はストレスで余計にダメになってしまいます。

ゆえにある意味、「できないものはできないものねぇ」と自分の不可能を許してやるのも大事なこと。

ただ、そこにアグラをかいて開き直り、楽に流されるのもまた、苦行と反対方向の両極端なのです。

今、それが自分に「できない」なら、そのできなさを許しつつただじっくり見つめ、観察すること。それが、私たちの心の質に応じてやがて変化をもたらすのです。




第六百七十七回

前々から自覚していたのですけれども、私は「とりあえず」とか「差し当たって」といった言葉を多用する傾向にあります。

「どうせ自分の考えなんて、明日の朝には変わってるかもしれないしなー」と、自らの心変わりのしやすさに基づいて、ちょっとした予防線を張っているつもりなのでありましょう。

「どこ行く?」「うーん、思いつかないがとりあえず出かけようか」「労働時間はどうしましょう」「とりあえず9時5時ということにしておいて、後でまた決めましょう」といったありさま。いやはや、心許ないですねぇ。

さて、ただでさえ平素からこのありさまなのですが、昨今は自身を取りまく状況が目まぐるしく変化しつつあり、今まで以上にこれから自分がどうなり、どこへ向かうのかが予想できない思いなのでありました。

ですから、「とりあえず」鎌倉で第4期月読寺を再開することになったばかりながらも、それももしかするとそのうちまた、閉じてしまうかもしれません。

執筆の仕事も「とりあえず」今日は続けますが、もうすぐやめるかもしれません。

偉そうに人様を指導したり本を書いたりしていることが、自分の心を徐々に、慢心に腐らせているようにも思われるものですから。

このごろ、思い切って俗のほうへシフトし落ちつこうとしたものの、結局は落ちつききれずに出離したくなる、自らのデタラメな「とりあえず性」を見出さざるを得ないのでした。

いずれにせよ、短い人生が終わるまで「とりあえず」生きるだけではあります。

これからどこへ向かうのか、複数の選択肢に悩まされるところでありながらも、決まるタイミングがくるまで、とりあえず今日一日を、懸命に生きてみることにいたしましょうとも。




第六百七十六回

しばらく休止しておりました月読寺、さんざんな紆余曲折を経て、三月(まにあわなければ4月)には、再始動の運びとなりました。

当初はすっかり消滅させる予定だったのが、やっぱり再会しようと変わり、その候補地は私の好みの自然豊かな地を色々と見て回って、転々と変わりました。

奥多摩地方の、大河川と森のすぐそばのボロ家はいたく気に入っていたのですが、いかんせん去年の冬に体を壊し、冷え症になっていた状況下で、奥多摩の冬が激越に冷えることを教えられて、退散してしまいました。

高尾の森の中、小川をこえて石段上っていった頂上の場所も、「良し」と思いきや、八丈島があったかいらしいと聞けば、「仕事を減らして隠居じゃよー」とばかりに八丈島にまで飛んでみたり、素敵すぎる愚行をおかしもしましたとも。ガイドブックまで買った。(←希望者にプレゼントします。正現寺、「東京の島本プレゼント」係まで)

さすがに八丈島は諸ハンの理由で諦めざるを得なかったので良かった、かもしれません。にっこり。

結局、いろんな候補地のなかで、冬も山と海の影響でほどほどに温暖で自然もそこそこに残っていて、そしてちょっぴり雅さもあるという鎌倉のはずれの、急斜面のうえ、というところに落ちついたのが、ようやく去年の後半でありました。

さて、ところが今年に入って急速に冷え症が治ってきましたから、さあ大変。いえ、もう後悔しても遅いんですけれど、こんなことなら奥多摩の清烈な空気が惜しまれたりするかもね、という微妙な失敗談でした。
1.変動し得る条件を決定打にして決めると変わったあとで、アイタタタ。急ぐなかれ、コボーズさん。
2.「愚か者は、春はここに住もう、冬はここに住もうとあてどなくさまよう」と、ブッダも言ってましたっけねぇ。




第六百七十五回

そういえば、もはや作者自身も忘れかけていましたけれども、このクマッコは初登場のころの設定として、スネたくなるのも自然な不幸を背負っていたのです。

彼はクマではなく、クマとタヌキの合いの子であるため、「クマ権」が与えられず、クマたちからつまはじきにされている。ひ、ひどい。

多くの人にとってどうでも良い情報でしたねぇ。・・・強がらなくちゃいけなくなるには、人それぞれ歴史があることの例として、などともっともらしいことを記しておきましょう。

さて、私たちは「生意気」「優しい」「愛らしい」「明るい」などなどの、自我イメージを持っていて、なるべくそれに整合的な行動や発言のパターンをくりかえそうと縛られるものです。

けれども、私たちの心は諸行無常にて変動しますから、自我イメージにあわないことも、必ず言いたくなるし、やりたくなります。

たとえば「生意気」な自我イメージを作っているはずなのに、ふっと素朴に、「寂しいな、かまってほしい」と思ってしまう、とか。

ただ、こうした自我イメージに反した思いは自我を脅かして苦痛を与えますから、恥に感じられたりして、たいていは抑えつけられて葬り去られるものです。

こうして自然な思いを抑えつけることによって、自我イメージの一貫性ってやつはムリヤリ作られるもの。ゆえに、それが強まると、「キャラを演じる」かのような、不自然な感じがつきまといます。

そう考えてみれば、「○○な自分」というイメージは、諸行無常に反していて、苦しみの原因になっていることが分かりますね。

ですから、自分がどんな人間であるかなんて、忘れちゃうのが安楽と申せましょう。「○○な自分」になんて、ならなくて良いのです。・・・と考えて手放すと、心に青空、広がります。




第六百七十四回

ある晴れた日、羽田空港から山口宇部空港ゆきの飛行機に乗るべく、荷物チェックの保安検査場を通過しようとしたときのことです。

私が風呂敷の中に入れていた、陶器製のナイフが検知されたようで、「刃物は持ちこめません」とのことでした。

うっかり甘えて「これは陶器だしいいじゃないですかー」なんて、申してしまったため、忙しい係の人を、ムッとさせてしまいました、いやはや、申し訳ない。

「刃物が持ちこめないのはご存知なかったのですか? これは何のために使うのですか」と。

「ええ、知っていたのですがこれなら大丈夫かなー、と思って。機内で栗をむいて食べたかったのです、えへへ」「刃物は持ちこめないのです」「そうですか」

こんなやり取りをしていてふと思ったこと。「小型の陶製ナイフがダメならいっそ、自分がポーチに入れている鋭利な金属のフォークだって没収したらいいのにねぇ」と。

この脳が、論理の一貫性を求めるあまり、「フォークは大丈夫なんて一貫してないッ」とごねているらしい。その間抜けな思考に気づいたとき、自分でちょっとクスッと笑えましたので、「後日4コママンガにしよう」と取っておいたのでした。

自分の利益に反してまでも、一貫性や整合性にこだわろうとする「見」の煩悩。それを笑い飛ばして、もっと柔らかくふにゃりんとまいりましょう。




第六百七十三回

いやはや、山口から東京に戻って参りまして、もはや初冬、11月末だというのに、我がアパートメントには蚊が何匹もいるのは、何たることか。

何匹かつかまえて外に逃がしたものの、まだいるらしい。夜お布団の中で眠っていると頭を何ヶ所も刺されて(あいや〜)、眼が覚めたのでした。

仕方ない。と、秋ごろにたたんで押入に冬眠させたはずの蚊帳を取り出し、深夜にせっせと設営していたのです。そして安眠、めでたしめでたし。

さて、思い出すのは、10月に蚊帳を張って寝た秋の夜のこと。「さぁ張り終えにけり。」と安心して眠ろうとしたところ、プーンと蚊が蚊帳の中で飛んでいるのを発見したのでした。

ううう、がっかり。そのがっかり感の内訳は、「同じことをもう一度やり直さなきゃいけないなんてッ」という、脱力感ですね。

つまり、「さっきと同じ」ということを、脳の記憶を司る海馬が認識するせいで、ウンザリしているのだと申せましょう。

そんなときは、その記憶=過去を忘れてただただ、あたかも生まれて初めて蚊帳を張るかのような、フレッシュな気持ちでやり直すと、楽しくなってくる。

過去も自己も忘却してリフレッシュするのは、坐禅の原点。「またこれか・・・」のマンネリズムを生む、脳の神経細胞間のつながりパターンを、リセットしてやること。

年の瀬迫る昨今、心につもった1年の垢を流して、色々と生まれて初めてのごとく新鮮に味わいたいものですねぇ。




第六百七十二回

山口のお寺で飼われているヨークシャーテリアのうち、ビビと名付けられているオスの子がいます。

この子は甘えるのが得意で、私が縁側で瞑想をしていても、組んでいる足のうえに、強引に乗り込んでくることが、しばしばあるのです。

うーん、それはちょっと邪魔なのですけれど、悪い気がしないのもたしか。

なぜなら、安心してくつろぎ眠れる居場所を提供してあげているようにみえて、「自分に安心してくれている」というのが、今度は自分にも安心感をもららすからです。(小さな慢心。)

そう考えますと、親が子に、あるいはパートナー同士でご飯をつくってあげるというのも、一方では「自分のためにつくってくれてる」と居場所感を提供するようにみえつつ。

他方では、「安心して食べてもらえてる」ということで自分にも居場所感が良循環して返ってくるのです。

ならば、次のような、日々の何気ない繰り返しを地道に大事にし直してゆくことが、安心と平穏の基礎づくりになりそうです。

「毎日毎日、無条件に頭に乗ってくれる(ポッポの場所)」「毎日、無条件に同じ部屋に帰ってきてくれ、ニッコリしてくれる」「毎日毎日、無条件にご飯をつくってくれる」

こんな、素朴なことが、大事。という、今回は生ぬるいお話でありました。




第六百七十一回

キンモクセイの香る季節となりました、ねぇ。

私はこの香りをかぐと、ふっと中学生時代にタイムスリップしそうになることが、あるのです。

当時、近所に引越しが決まりわくわくした少年は、引越し先の新居(といってもボロボロの古民家)に先にパソコンだけ置いて、パソコンゲームをしに通っていました。

ゲームしたさに登校前、朝5時やらに起きて新居に行き、朝食を食べに帰るまでの間、何もないガランとした部屋で『三国志正史』で戦争をしていたのです。

ちょうどその時期、その庭に植わった大きなキンモクセイが、大いに香っていたのでしょう。当時は何の香りか知りませんでしたのに、今になってキンモクセイが香ると、瞬時にガランとした空間、コンピュータの排気音などがよみがえることがある。

さて。私たちは、同じキンモクセイを香っても、実はお互いにこれほどまでに個人的な世界にスリップしているのです。

「いい香りだね」「そうだね」と言い合ったとしても、それで本当に互いの感じていることが、分かりあえるわけでもない。

全ての人と、実は、分かりあえない。それは当たり前のこと。その断絶感を前提にしてこそ、ていねいなコミュニケーションができよう、というものです。




第六百七十回

私は山口で寺を守っている期間、たまに遊びに出るときは決まって、幼馴染のたんちゃんと誘い合って、山や川へ出かけるものです。

「夏も終わる前に川に泳ぎにゆこう」「うむ、もうすぐ寒くて泳げなくなりますからねぇ」と計画を始めた先日。あいにくすぐには互いの予定が調整できず、数日後にやっと二人で川に行った時には、すでに秋模様の川の水は激寒で、なかなか凍える愉快な体験でしたとも。

さて、予定の調整がつかなかったとき、「独りで行きませう」という選択肢もあるはず。けれども一緒に行けるまで待ちたくなるのは、よくよく考えてみれば群衆心理の煩悩ゆえ、なのかもしれない。

思うに、一緒に行く醍醐味は、「私が愉しい」「君も愉しい」、という共有体験にあります。けれども実は、自分の感覚と同じような感覚を友人が持ってくれているおかげで、「自分の感覚は間違ってない、大丈夫なんだ。ホッ」という安心への欲求が本質のように思われます。

少し脱線しますと・・・。
恋人と別れたあとに、たとえば素敵な風景に出会ったら「あの人と一緒に見たかったな」なんて、センチメンタルになることってよくありますよね。

その秋めいた切ない感じも、省察してみますと単に、「ステキな風景だね」という自分の感情を、相手も同じことを思ってもらうことで、補強して安心したい欲求にすぎない、かもしれない。(ええー!?)

「自分は間違ってないもんね」という、見の煩悩。それゆえ、「赤信号 みんなで渡ればこわくない」。そして「川 ふたりでゆけば愉しさ倍増」。こうしたカラクリを知ったうえでちょっぴりクールめに、友達づきあいを享受したいものです。




第六百六十九回

今回は、(いえ、今回も?)ちょっとひねくれた見方をしてみましょう。しばしば使われる紋切り型の「お忙しいところ申し訳ありませんが宜しくお願いします」。

こればなぜに、こんなに使われるほど大ヒット文になったのか分析してみれば、元々は相手の自尊心をくすぐるのに便利だったからでしょう。

と申しますのは、これは実質的に「あなたは引っぱりダコの価値ある存在で、一分一秒ですら貴重なあなたの時間を私めなんかのために使っていただけるなんて感激です」という圧倒的へり下りにより、相手を持ち上げているのですから。こんな言葉が大ヒットしたからには、そうやってヨイショをされると少なからざる人が気分を良くして相手の頼みを聞きやすくなった、からなのでしょう。それで「わーい、しめしめ、これは便利だ」と。

そうしてみると、一見礼儀正しそうに見える言葉は、たいてい相手の慢心を刺激する策略めいた性質をも、持っていると申せてしまいそうですねぇ。ん、んー。こんなことで気分をよくしちゃう私たち人類って、心が弱いのでありますことよ。




第六百六十八回

難しい。「AはゼッタイBだ」と思っている人に、「Aは実はCなんだよ」と説明して、わかってもらうのは、極めて難しいことです。

たとえば、原子力はゼッタイ悪だとか、ゼッタイ必要だとか考える人同士が話し合いましても、通常はお互いがより意固地に「自分の考えが正しい」と思うようになるものです。

私たちが何かを考えるとき、「その考えをしている自分は正しい」という、正当性への煩悩が生じる。その”ただしさ”によって自我を支えるためにこそ実は考えているのですから、考えを「間違っている」と指摘されますと、自我が崩される危機として、意識的に抵抗したくなるものです。

ゆえに宗教を信じる人にその宗教の矛盾点を突くと、かえって自我を守るためによけいに狂信的になったり。喫煙者にタバコの害を説くと、よけいにタバコを喫おうとしたり。がびーん、逆効果なのさ。

ですからゼッタイAって言い張る人には、かえって「もしかするとAかもねぇ」と、言い分をあくまで部分的に受け入れてあげるほうが、効果的なこともあるものです。

「あれ・・・ッ?認められてしまったよ?」という空振り感とともに、自分が強く言い張りすぎていることへの恥ずかしさや自省がはたらくことも、ありますからね。




第六百六十七回

こういうのでもっとも古典的なシーンは、次のようなコテコテのものでしょう。

「好きなもの頼んでいいよ」「あたし、パフェがいいッ」「じゃ、パフェを」「わーい、おいしそう!ありがとー、うれしい☆」

こうして目一杯に喜ぶ彼女を、愛おしそうに眺めて満足している彼氏、という微笑ましい図です。

相手にしてもらったことに、屈たくも照らいもなく大喜びしてあげますと、他ならぬ相手がとても嬉しくなる。このことは誰もが知っていることですね。

この仕組みを、中世オランダの哲学者バルーフ・スピノザは”名誉心”と、分析してみせました。「自分が相手にポジティブな影響を与えたことを知ると喜びの刺激が生じるもので、それは名誉と定義される」と。

この名誉についてもう一歩ほど突っこんで考えてみますと、結局は「相手に影響を与えられる自分の、力の増大感」に酔っているという側面も、否めません。そして俗に言う”甘えじょうずさん”とは、相手に力の増大感を与えてあげることで、「もっと優しくしてあげたい」という循環をつくれる人のことなのでしょう。

あくまで相手の自尊心を刺激する行為なのだと、裏面を知ったうえで、ほどよく使いたいものです、ね。


第六百六十六回

たかだか、街ゆく恋人たちをぱっと目にするだけでも、私たちの心には余計な計算がはたらきがちなもの。

「あ、男の人も女の人もキレイで、おにあいであることよ」「あれー? 女の人はこんなに美人なのに、男の人は変な顔だねぇ」などと。相手からすると、余計なお世話もいいところ、ですねぇ。

そして、つりあいが取れてないようなら、「お金目当てなのかな?」「話を聞いてあげるのが特別上手でつけこんでいるのかな?」などと、何かしら、つりあいの取れなさを補う要素を勝手に推測する。私は、時にそんな妄想にふける自分に気づくことがあります。いやはや。

このことから分かるのが、私たちの脳には「つりあいが取れてないと気が済まない!キチンとつりあいを取りなさいッ」とばかりに、ものごとを強制的につりあわせようとする、神経質なところがあるってこと。

これは、「○○は××じゃなきゃいけないのであーる」と、自分の意見に頑になる、”見”の煩悩だということが、わかります。

そういうわけで、脳の「つりあい取れてるべきであーる」という命令なんて、さらっと無視して、のんきに生きてゆきたいものです、ね。


第六百六十五回

この4コマを描いているのを後ろから覗きこんだMさんは、「クマッコって性格悪いんだね」とつぶやきました。いやはや、性格悪いのを隠さない素直さのぶん、けっこう性格良いと思うんですけれど、ね。

さて、「電話鳴ってるよ、取らないの?」や「メールきてるよ、見なくていいの?」というよくあるセリフ。これがときとしてなぜに微妙な圧迫感を持っているかと申せば、暗号としての裏メッセージを孕んでいるからです。

「あとでいいよ、と遠慮すべき」あるいは、「自分の前で電話を鳴らして他の人とのやりとりをしてるなんて失礼なんじゃないの?」といった裏メッセージ。

このようにして、「電話取りなよ」は「取らないで」という暗号に。

「忙しそうだから行くの、やめよっか」は、「それを押してでも行きたいと行ってほしい」という暗号に。

「払ってもらうと悪いから・・・」は、「一、二度断ったうえで、三回目に受け入れることで体裁を繕いたい」の暗号に。いやはや、わかりにくッ。

こういう、わかりにくく回りくどい言い方をすると相手が暗号を解読しそこない、文字通りに受けとめられてしまうことも、よくあるもの。

そしたら、「人の気持のわからない人だ、ぷんすかぴー」と怒りたくなることでしょう。裏返しますと、私たちは相手に「解読して分かってほしいよー」という欲望ゆえに、わざとわかりにくい暗号を投げつけている。

自分でわかりにくくしているくせに、わかってくれない相手に怒りがわいてくるなんて、面白い不条理さです、よねぇ。

裏メッセージのない、シンプルな言葉を心がけたいものです。


第六百六十四回

マイルドに、マイルドに。

自らの

刺々しい言葉と声が、

自分の心にブーメランとして

返ってきてつき刺さらないように。


第六百六十三回

私たちがおこなった行動や、自分が発したセリフは、相手に影響を与えるのはもちろんのことです。

けれどもそれ以前に、自らの行動や言葉は、あたかもブーメランのように、自分の心にフィードバックされて波紋を広げます。

たとえば、押しつけがましいアドバイスをしたり命令をしたりしますと、「自分が相手に対して抑圧的にふるまっている」という情報が、心に再入力されます。

結果として、「自分が優しくない言い方をしているということは、互いの関係は緊張関係にあるんだな」という計算処理が自動的に生じますから、言う前と比べて相手に対して身構えるような精神状態が形成されることでしょう。

すると無意識的に、ギコチなくなったり、クサクサした居心地の悪さを味わったりして苦しむことになるのは、自分、ということ。悪業を為すと、その波紋はすぐに心へ返ってきて、さらに楽しめない新たな波を起こしてしまう、あいやー。

そんなときは、「最近、体調どう?」と聞いてみるとか、親しい仲なら相手の口にいきなり食べ物を入れてみるとか手を握ってみるとか、してやるといい。

すると「親しげな行動をしている → ということは相手は味方だな」と脳が無意識的な計算処理をいたします。結果としてそのブーメランゆえに、リラックスして相手と打ちとけやすくなることでしょう。


第六百六十二回

(俗物くん、久しぶりの登場です。)

自分の存在価値を吊り上げるために、何かにつけて「自分は相手から求められている」ということへの欲望が生じがち。これは、前に記したことでしたね。

その姿勢がクセになってしまいますと、自分からは誘わず相手から誘わせようとする、受動的態度が習慣になってしまうこともあるものです。

誰しもそういったところはあるもので、自分から積極的に誘って断られると自分の価値が下がるのを恐れてか、「お忙しいから無理でしょうね」と反対のことを言ったりもして。実際は誘いたいのに、ね。いわば、傷つかぬための牽制球。

そして心のどこかで「忙しくないですよ」とのフォローを期待していたりもするものですけれども、相手は相手で、「無理でしょうね」なんて牽制されると、その「無理」の枠を破るほど力をこめないと誘い返せないのですから、「そうですね、またにしましょう」と返すほうが楽でしょう。

かくして、互いに微妙な空気を読みとりそこねながら牽制しあった結果、二人とも出かけたいのに、いつまでも約束を決めることができなくなったりもするのですから、皮肉なものです。だって、そのせいでまさにお互いの価値が下落するッ。

年が改まる前に、素直になっておきたいものですね。


第六百六十一回

「あの人に何か買ってもらう喜び」を分析してみますと、その喜びのエッセンスは「物欲」にはないことが分かるものです。

反面教師として、私がかつてヒモ願望があったころのことを思い起こしてみましょう。私は雑誌で見かけたヒステリックグラマーの青白グレンチェックのダッフルコートが欲しかったのです。それは高価な品ながら自分で買えなくもなかったのに、わざとらしく「お金がないから買えないなぁ・・・」などと溜め息をついたものでした。

そうして、見かねた彼女がアルバイトで溜めたなけなしのお金を使ってコートを買ってくれると、「高いものを買ってもらうに値する自分」に酔って、つかのまの快楽が得られたものです。

それは、その数万円が相手にとってなけなしのお金であるからこそ価値があるのでして、もしも相手が大金持ちでしたら、相手の財政がピンチになりそうなほど高価なものをねだりたくなっていたことでしょう。

「自らをピンチに陥れてまで自分に尽くしてくれるかどうか?」って。そのようなわけで、世の中のキャバクラ嬢やホストは、お客さんから度外れなみつぎ物をもらうことを求めて、必死になっているのでしょう。

彼らも実は、お金やみつぎ物自体が欲しいというよりは、「身を持ち崩すほどまでにお金をかけてもらえるほど自分が魅力的かどうか」を必死に確かめたいほど、寂しさという病気に取りつかれているのです。

ゆえに「プレゼントが欲しい」=「寂しさ病にかかっている」という等式が成り立つと申せましょう。プレゼントのやりとりがなされるクリスマスの時期、念頭においておきたいものです、ね。


第六百六十回

「悔しいけど、あなたのこと好きなの」。そんなセリフには、ちょっと「好き」の本質が見え隠れしています。

思うに、誰かのことをとっても好きになるということの成分には、甘美さとともに、屈辱的要素もうっすらと含まれるのではないでしょうか。

そのことが特に表面化しやすいのは、「私は君のことをこんなに好きなのに、君は私のことをその4分の1くらいしか好きじゃないみたい・・・」というアンバランスさが生じるとき。自分が発揮している好意のほうが、相手の発揮している好意よりずっと多いことで、自分が劣位に置かれて価値が下落したかのような気分にもなることでしょう。「好き」、は自分を下げて、相手を上げるから。

それゆえに、相手のことを好きすぎると屈辱感がひそかに溜まってゆくこともあるものだったりして、ね。結果として、自分の好意が「10」で相手からの好意が「3」しかかえってきていないと感じたとしますと、自分の好意を「2」くらいまで切り下げることで、我がプライドを保とうとしたりも、してしまうものです。

いやはや、結果としてそれは相手の価値を下落させて傷つけてしまいますから、たいてい仕返しされます。相手も「そっちが2なら、こっちはマイナス2にしてやる」とばかりに返してきて、互いに好意の切り下げ合戦になるともはや、末期症状。

ゆえに人を好きになるときは、「自分のほうが好意を多く差し上げてちょっぴり悔しいかもしれないけど仕方ないか」くらいの覚悟がいる、気もするのでありました。


第六百五十九回

ちょっとした思考実験の遊びを、してみましょう。

今、自分が夢中になっていることを思い浮かべてみて、もし自分が今日死ぬとしても、それに夢中になっていられるかどうかを考察してみます。

「今日、死ぬのならやらない」という思いが生じるのなら、それは何か、将来のために ” 現在 ” を犠牲にするような事業であるに違いありません。

今日、死ぬがゆえに ” 将来 ” がないのなら、それのために ” 現在 ” を犠牲にする理由がなくなりますから、ね。こんなことして、時間を潰してる場合じゃないってこと、ですね。

では、あと一ヶ月で死ぬとしたら? あと半年で、あるいはあと一年で死ぬとしたら? そう延長してゆきますと、たとえあと五十年も生きるつもりでいるとしても、しょせんそれは「あと二年、あと三年、・・・」の延長上にすぎないのです。

ゆえに言わく、「諸行は壊滅す、まさに不放逸にして精進すべし」。


第六百五十八回

最初のコマのポッピというのは別にして、ポッポと名付けた小鳥についての他の2つの間違えは、読者の方から実際に何度か寄せられたことのあるものです。(にっこり。)

そういったとき、私たちの脳の回路にある「間違っているのは許せないのであーる」という衝動に命じられると、心は「そうじゃなくてッ」とイライラしがちなものですね。

けれど、それは裏を返しますと、「自分はポッポという名であーる」「『でゆー』なんて言わない自分であーる」「自分は鳩の亜種であーる」という、強烈な執着にこり固まっている、ということに他なりません。

ついこの頃、肩の力を抜いてみて感じることは、自分について「それ、違うかも。」ということを言われていても、その人がそう思いたいなら、別に訂正しなくても、それでいいかな、ということです。

そうしてみますと、自分について「そうじゃなくて」と印象づけようとしなくてよくなるだけで、ずいぶん無駄な口数や文章が減って、言葉のやり取りが楽になるのを感じる、今日この頃なのでした。


第六百五十七回

真夏のころ、私は依頼を受けた原稿を書き上げて封筒に入れて送ったのですけれども、そのまましばらく音沙汰がなかった、ということがありました。

そこで、その後どうなったのかを尋ねる便りをしたためようとしたとき、こんな文面を書きかけているのに気付いたのです。

「急かすつもりではないのですけれど、その後は如何なっておりますでしょうか」と。いやはや、その文面を受け取れば誰だって急かされている気持になるに決まっていますのに、「つもりではない」なんて、良い人ぶるのは前回と同様の「不協和音」を生じますから困りもの。

そこで、「つもりではない云々」は削除してシンプルな文に書き改めてから送ったうえで、このことを後ほど4コマに描こうと思ってメモを取っておいたのでありました、とさ。

すなわち、イデオロギーとは、「つもりじゃない」と、主観的にイデオロギーから距離を取ったフリをすることである、と。


第六百五十六回

似た内容の4コマを以前にも描いたような気がいたしますけれども、今回はちょっと違う角度から光を当ててみます。

前回、心が情報の不協和音を嫌って、不協和音を強引に消去したがる、といったお話をしました。同じことが、私たちが相手を信じたり期待して待っているときにも、起きがちのように思われます。

あるときは心に期待が生じ、信じようと思う他方では、すぐに「やっぱりダメなんじゃないかな・・・」と幻滅した、かと思いきや、また「やっぱり・・・」と期待したりと、諸行無常。そしてこの「期待」と「幻滅」というのが矛盾して不協和音になるため、心は振り回されて、とてもモヤモヤした、苦しい感じになることでしょう。

ゆえに、グレーゾーンのままモヤモヤして心が掻き乱されるよりも、いっそ「ダメならダメ」と白黒はっきり分かったほうが、案外、私たちはスッキリするものだったりするのです、よね。

返事を待ち続けるのは、心に不協和音が生じますから、「いっそもう返事なんかいらない」と決めた方が楽になるとか。けれども、そうそう簡単にシロクロつけられないのがこの現実ってやつでして、私たちを翻弄してくれるのですよね、トホホー。


第六百五十五回

私たちは、自分が得をしようと思ってするごまかしや嘘をのぞけば、基本的にごまかしが嫌いな生き物なのだという気がします。

例えば「急かすわけじゃないんだけど、まだかなぁ?」と言われた場合、「うーん、でもそれって、急かしてるわけだよね」と感じたといたしましょう。

この時「実質的には急かしている」というデータと、「でも私は急かすなんてことはしない、良い人なんだよ」という、矛盾したデータが入力されてくるのだと、申せましょう。

そして私たちは、矛盾したデータが入ってくると心の情報処理が混乱してしまいますので、疲労いたします。データが矛盾したままだと疲れるため、どちらか一方を否定せねばならず、それが心理的にはイライラした、相手を疑いたくなるような感情として出てくるのだと思われます。

それゆえ、うっかりごまかしをおこなってしまうと、それを無意識的に察知した相手の情報処理に、混乱を与えてイライラさせちゃうんだよなぁ、と気をつけていたいものです、ね。


第六百五十四回

私たちは時として他人に対して極めてネガティブな印象を持つと、「これを誰かに伝えたい」という衝動が生じてくるものです。誰もがそのとき暗黙のうちに期待している反応は、「その通りだよね」「知らなかったけど、実は、そうだったんだ〜」「その気持、分かるよ」などなど、でしょう。

そうやって共感、受容してもらえることで、いくばくかの慰めを得たいというのは、私たち人間の弱き性、とでも申せましょう。伝えている内容が意外性のある情報だとしても、自分が言っているんだから、せめてパートナーや親友くらいは、信用して同意してくれるだろう、と期待しがちなもの。

裏返せば、親密な人たちからすらも「そうかなぁ?」と返されると、「自分の言うことが信用してもらえないなんてッ、ガビーン」「自分よりその人のことを信用するなんてッ」というショックまで加わり、この世に誰も味方がいないような気分にもなりかねない、かもしれません。

面白いことに、「あの人、良い人だよね」を否定されるより、「あの人、実はイヤな人だよね」を否定されるほうが私たちはずっとムキになりやすい。ネガティブな感情のほうが、思い入れが強烈になりやすいからでもありましょう。で、それを否定されると、いきおいムキになって「本当は◯×△なのにどうして分かってくれないの・・・」と、もっと言いたくなりもしがちなものです。が。

実は他者の同意なんて、手に入れたって仕方ないもの。それらの営為があまりに虚しい、と気づくとき、私たちは他者から一歩、自立する。


第六百五十三回

私たちの記憶は、ある部分が刺激されると、続けて似たような記憶ばかりが、業として刻まれた中から活性化されるようにできているように、思われます。

ゆえに、相手のイヤな点を指摘している最中に、別の「イヤな点」が思い出されて、「それとさぁ・・・」なんて付け加えたくなりがちなもの、ですよね。。

けれども私たちの心が、欠点を一回指摘されて受けるダメージが4だとすれば、二回連続で指摘されたときは、あたかも4の二乗、16のダメージを受けるかのような、指数関数的な被害が生じるものなのです。傷つきやすい人なら、一撃目で10、二撃目では10×10 =100のダメージ、と申すと単純化しすぎですけれども、およそそんな感じ。

そういうわけですから、せっかく相手が一つ目の指摘を聞き入れる気になっていても、二つ目のダメージに傷ついてしまうと全て忘れてしまい、結局何も聞いてもらえなくなります。

一つ目を言ったら、「それとね・・・」の後は、二週間後くらい経ってほとぼりが冷めてから言うことに、いたしましょう。


第六百五十二回

「自分がいなくなったら、相手が元気じゃなくなればいいのにな」というのは、ひそかに 私たちが、心の底に隠し持っている心情なのではないでしょうか。

いわば、"I want you to miss me."。

「元気ですか?」などと尋ねつつ、もし相手が「元気いっぱい楽しくやってます」て具合なら、何だか白けて、自分の居場所が失われたような。

自分がいなくては元気でいられないほど、相手が自分の影響下に入ると思いたい、ってことですね。 もし相手が本当に元気を失って、取り乱していたら、皮肉にもそれはそれで困ってしまうことでしょうけれども。

この影響力ゲームのバリエーションは、意外とたくさんあります。 職場で、自分が休んでも仕事がうまく回っているのを知って、「自分なんていなくてもいいんじゃ・・・」と思うなら、同じこと。 そのときひそかに、「自分がいなかったら皆、困って、仕事に不都合が生じて欲しい」と欲望してる、ってこと。あいやー。

大丈夫、僕らがいなくても「あの人」は生きてゆけるし、職場も回ります。 それ前提に、もっと肩の力を抜いてとりあえず、コンティニュー。


第六百五十一回

相手をどんなふうに呼ぶかということには、私たち各人特有の煩悩がからみつつ、自分の心にも相手の心に影響を与えるものです。

これまで相手のことを「まさと君」と呼んでいたのに、あるとき思い切って「まー君」などと呼ぶなら、欲望の引力によって呼ぶ側にも呼ばれる側にも変化が生じる。

親しみをこめた呼び方をするなら、それによって相手が喜ぶ以前に、自分の中に生じる変化も大きいことでしょう。 そのように呼ぶことで「自分はこのように親しみをもった呼びかけ方をしている」という実感が、自分自身に与えられます。

親しみを感じる→親しみをこめた呼び方をする→それを自覚して親しみが定着する→・・・といった循環がある。

あるいは反対に、これまで相手を「さっちゃん」と呼んでいたのに、あるとき急に「あなたは」なんてあらたまるなら、そこには怒りの反発力によって、呼ぶ側にも呼ばれる側にも波紋が走ることでしょう。

呼ぶほうの側は心がこわばったからこそ「あなたは」と言うのだけれど、それを言ったこと自体を自分が聞いて、「自分は相手に対して敵意を持って『あなた』と呼んでいる」と再認識する。 「ということは、相手に対しては敵意を継続しなければ」と、無意識的に反感を定着させて抜け出せなくすることでしょう。

私たちが言語記号に影響される生き物である以上、たかが呼び名、されど呼び名、ですね。


第六百五十回

ツッコミを入れる余地は、リラックスした関係の潤滑油。

さて、他人から改善のためのアドバイスを聞かされて、「ぎゃー、"自分"が否定された」と受け取ってしまうなら、そのデメリットの一つは、他人から率直なアドバイスを言ってもらえなくなること。

他人から否定的評価を受けるときに、無意識的に負のオーラを発して暗い表情になったり。 あるいはあまつさえ、「いや、そうじゃなくて実はこうこうだから大丈夫なのです」「クマっこの詩集はセンスがなく見えるかもしれないが、本当はわざとセンスなく見せる高等技術なんだよね」などと言い訳をしたくなる、頑なさがあるなら。

「ああ、この人はツッコミを入れる余地のない、カチコチした人なのだなあ」という印象を与えてしまいます。 そういったリラックスできない印象を与えてしまうと、相手は率直なことを言えなくなります。 当たりさわりのない、社交辞令を言って済ませて、敬して遠ざけられてしまうことでしょう。

ですからツッコミの隙のある、ゆるりんとした気分で、人様の言葉に対していたいものです、ね。


第六百四十九回

「キレイに使ってくださり有難うございます」と、使う前から御礼を言われたり書かれたりしていると、 ある意味では先に報酬を受け取ってしまったような具合になります。 するとうがった見方をしてみると、あたかも「報酬を先に受け取ったからにはちゃんとしないと違法になりますよッ」とばかりの微妙にいやらしい圧力がそこには、あるかもしれません。

そういうわけで、月読寺のお手洗いには、「キレイに使うために、男子もしゃがんで使ってね」と、記載してあるのでしたとさ。


第六百四十八回

イライラするからって、無理に相手に求めたって、無駄無駄無駄。 拒絶されたらさらにイライラするだけなうえに、もし言うこと聞かせたって実は「いやいやしてるんだろうなあ」と虚しくなるだけなのですから。


第六百四十七回

心配事とは、決断を永遠にできなくさせる妄想ループ。考えれば考えるほど、行動から遠ざかるのですよね。






第六百四十四回


焦らない、焦らない。

ものを買い占めたい気持ちがわいてくるとき、その原因としては、本当に物資が不足しているから欲望がかさあげされる、という場合もあることでしょう。

しかしながら、では、「物資が足りている」にも関わらず買い占めたくなって、まさにその行動のせいで物資不足を引き起こしてしまう奇妙な欲望は、どういう心理によって生じるのか考察してみましょう。

その欲望は素朴にみてみれば、「自分以外の人々が焦って買いだめに走るせいで、売り切れたらこまる」という予想をすることに基づくように思われます。

それを、やや穿った視点から翻訳してみますと、次のような思考回路となりましょう。 「自分は賢いから物資が足りているのは分かっているけれど、他のアホウな人々がそれを分からないせいで買い占めに走るかもしれない。そうなる前に買いだめしておかねばなりますまい」

すると、誰もが「利口で損得勘定がじょうずな現代人」であるはずなのに、「他人が『アホウ』な行動をするのではないかしらん」、と予想するせいで焦ってしまい、まさに利口なはずの本人が結果として「アホウ」な行動に出る羽目になるのです。

そう考えてみますと、買い占めるという行為は、(無意識的に)他人一般を「アホウ」と軽蔑することも同然。 あるいは、他人に対して不信感を持っているということの表明も同然、とも申せることでしょう。

そういうわけですから、他人をアホウ扱いするアホウになって物流を阻害するのはやめて、落ち着いていたいものですね。


第六百四十三回

私たち人間という生き物の心をちょっぴり傷つけるのは、いとも簡単なこと。そのためには、慢心をチクッと傷つければよいのです。

子供のころ、ともだちから電話がかかってきて「遊びに誘ってくれるのかな」と期待したところ「○△ちゃんの電話番号忘れちゃったんだけど、知ってる?」などと聞かれてガッカリしたことがありませんでしょうか。

人は一般に、「<自分>が他人から求められてる」ということを実感することで、快感を得るような性質を持っています。それが一個人からの友情や愛情という形で求められるのであれ、多人数から注目を浴びて求められる名誉欲のようなものであれ。

それにより、「自分は、他人の欲望をかきたてることのできる価値ある存在なのですもの」と錯覚したがっているのです。

ところが、「他人から求められているのが<自分>のようにみえて、実は電話番号のような<何か他のもの>だった」と分かってしまいますと、いったん期待という名の幻想をつくってしまったぶんだけ、落胆も「がっびーん」と、大きいものとなるでしょう。おやまあ。

そしてあいにく、他人が私たちに求めているのはたいてい<私たち自身>などという幻ではなく、愛想のよさだったり、優しさだったり、聞き分けのよさだったり、包容力だったり、理解力だったり、経済力だったり、愛情深さだったり、才能だったり、彼らにとって都合のよいものばかりにすぎなかったりもいたします。(私たちが他人に対する場合もまた同じ。)

相手がそのことがバレないように純粋ぶって取り繕ってくれているあいだはよくても、やがて化けの皮は剥がれちゃうんですよ、ね。

そうである以上、「<自分自身>が求められたい」という胸のうずきを持ってしまうなら、必ずやあとで裏切られて傷つく運命にあるとも申せましょう。あとになってから苦しまないためにも、「<自分自身>が求められたい」なんていう欲望が出てくるたびに、はらりと窓から捨てておくのが賢明なことと申せましょう。


第六百四十二回

あ、そっか、君の目も人の目なんだよね、という事実。これは、ある意味では当たり前ながら、ふだんはうっかり見落としがちなのではないでしょうか。

「好かれたい」ないし「ちゃんと好きでいてもらえているのだろうか」という、一見するとプライベートな気持ちは、よくよく見つめてみれば「人目を気にしてる」さらには「世間体を気にしてる」ことにそっくり。

自分が相手から「好きな存在、よくしてあげたい存在」として見てもらえているかどうかばかりを気にしているのですから、いつのまにか相手への愛情はどこかへポイ捨てしてしまう。それは、ついつい世間体を気にしながら「排斥されたらどうしよう」という不安を抱えていることに、似ています。単に相手が複数人数か、たった一人か、という違いがあるだけのこと。

思いますに、DNAに組み込まれた生存本能にとっては、大事な相手や世間一般から「好感の持てる人」「好きな人」として見られていたほうが生存にとって有利、という大雑把な経験則から「好かれたい」と思わされてしまうとしたら、それを願うのは動物として自然なことではあるのでしょう。

しかしながら私たちの誰もが実際は知っているとおり、このシステムに乗せられて「好かれたい」のほうに偏ってしまうといつまでも「足りない、もっと、もっと」という苦しみと不安が待ち構えていて、実際はフシアワセになってしまう。

「好かれているのかどうか」を気にし始めますと、「好かれているかどうか」をジャッジする「目」が心の中で自分を見張り始めて、それに監視されているようなふうになりますから、きゅうくつで不安になる。

そうしてみますと、「君に好かれてる私が好き」のきゅうくつさを抜け出して、「私が君に慈愛を抱いている」へと穏やかに着地したいものです、ね。

余談ながら、「お父さんとお母さん、どっちが好き?」などというナルシスティックな質問をされて困ってしまったお子さんは、こう答えると良いかもしれません。「子供の人目を気にしているんだね、お父様、お母様」と。


第六百四十一回

うっかりすると私たちは、ついつい、できもしないことを口約束して良い子ぶってしまう、そしてすぐに化けの皮ははがれてしまう・・・ッ。 そうして相手を、ちょっぴり傷つける。

「あと5分でつくから」から始まって「こんどキャットフード食べに連れていってあげるよ」や「こんど機会がありましたら是非、お宅に遊びに伺いたいものです」 や「おや、イベントを開催しておられるとな。こんど是非、それに参加していただきますね」にいたるまで。

相手に良く思われたい/悪く思われたくない、という無意識的な思考にのみこまれてしまって、まるでロボットのごとく反射的に「良さそうな口約束」をしてしまいがちだったりします。

口約束をするとき、ほんのちょっとは実行しようと思っていても、たいていその裏面では「メンドクサイ、そんなことしたくないもんねー」と思っていたりするもの。 したがって、てきとうに口約束したことなんてすぐに忘れてしまいがちで、おそらく実行できません。

約束した側は忘れてしまっても、約束された側はけっこう「まだかなあ・・・、あれは口先だけだったのかなあ、がっびーん」なんて尾を引いているかもしれません。 最初から良い約束などしなければ相手にダメージを与えなかったのに、なまじっか、一度ちらつかせたうえで与えないのですから傷つけてしまい、信頼を失ってしまう。

にも関わらず軽い口約束をしてしまうのは、単に相手からその瞬間だけでも良く思われたいだけでなく、「自分は良い人間であーッる」と自ら思いこみたいからだったりもします。

「相手を長く待たせない素敵な自分(実際は待たせるのだけれど)」「相手の慢心をくすぐって喜ばせてあげられる自分(実際はメンドクサイのだけれど)」といった風情。 相手に対しても、自分に対しても、偽善。

そういうわけで実は、本当はもっと時間がかかりそうなのに、うっかり「あと5分でつくから」と言ってしまうとしたら、それは私たちが偽善者たる証ということなのさ。ぎょぎょー。


第六百四十回

こんなに頑張ってるジブン。こんなに謙遜ができる謙虚なジブン。こんなにステキなお店を知ってるジブン。こんなに「君のために」してあげてるジブン。こんなに、自分の短所をリカイしてる(つもりの)ジブン。などなど。

いやはや、よくよく観察してみますと、私たちのやることなすこと、ことごとくと申してよいほどに「ジブンってこんな人間なんだよーう」と、他人に対してプロパガンダすることが裏目的になっていやしませんでしょうか。

そうやって特定のイメージを他人に印象づけたい理由は何でしょう。「自分ってこんな人」っていう幻を絶え間なく感じていることで、もろい「我」を確認したいがゆえ、と思われます。すなわち、自分がなくもろい人ほど「印象操作への欲望」=「自己主張の強さ」は大きくなる傾向にあります。

あいにくそのような自己宣伝は、高い確率で失敗に終わるのですけれど。がーん。典型的には、「君にこんなにしてあげてるのに」と印象づけようとした時点で相手は、「恩着せがましくって、単なる自己満足でせう」とムイシキ的に見抜きます。ゆえに、まったく感謝なんてしたくなくなることでしょう

しかしながら、このコムスメさんのように「洗脳的な、印象操作をしようとしてるね」と指摘してくれる他人様など、まず世の中にいるものではありません。自分こそがこのコムスメさんの役を担って、自らが印象操作しようとするたびに指摘してやめさせてあげられるように、自らの心を注意深く観察していたいものです、ね。




第六百三十九回

さきほど、この4コマを描く前に、仕事の打ち合わせを終えたのちの時間的余裕がありました。そこで必要なものがあり近くにあるお店に買物へゆこうとした、そのとき。古い心のパターンが生き残っているのを発見いたしました。

実はたまたま昨日、半月ぶりくらいに同じお店に買物に行ったのです。その際に、あるちょっとしたことで私は、お店の人に褒められたのです。それを想い出し、考えました。

「あの人、半月くらい来なかったくせに今度は二日連続で来るなんて、どうしたのでせうねえ。きっと、褒められたのが嬉しくて来ちゃったのに違いないですわ」

ああ、そのような品のない人だと思われたらかなわない。行くのはやめておこう。このように先読みして考え過ぎては引っ込み思案になる、というのがかつての私に典型的なパターンだったのでした。その引っ込み思案こそ、品がないのですけれども。

似た例も思い起こしておきましょう。たとえば、相手からプレゼントをもらってすぐの日に相手に愛情を示したり優しくしたりすると「プレゼントあげたからって現金な人ね」と思われたらどうしよう、ふむー、優しくするのはやめておこう。など、など。

こんな具合に、自分のイメージをつくることに夢中になればなるほど、私たちはがんじがらめになって行動が起こせなくなってゆくのですよ、ね。

そのような懐かしい思考パターンの生き残りを笑い飛ばしつつ、何て思われてもドウデモイイ。気にすることなく買物に行くことができましたのは、ささやかなハッピーさであると申しておきましょう。




第六百三十八回

私たちは自分が苦しければ苦しいほど、その苦しみのパワーによって他人様にぞんざいな態度を取ったり、いいかげんな言葉を投げつけたりしてしまいがちなものです。

そのとき、苦しいのは自分だけと錯覚している可能性が多いにあるのですけれども、 ほんとうに苦しいのは「苦しい自分によって傷つけられた相手」のほうかもしれません。

そう、自分が自我ゆえに傷つくまさに同じように、他人様も「貧弱ッ、貧弱ゥゥゥーッ」な、肥大化した自尊心を抱えているのですから、他人様にショックを与えぬよう、いたわれるようになりたいものですね。




第六百三十七回

他人様にものを教えなければならない時。たとえば、PC画像処理ソフトの使い方を、例えば算数で分数の通分のやり方を、例えば料理の方法を。

そういった教えるシーンでは、相手が身近な人であればあるほど、イラッコイラッコする人が続出・・・ッ。相手にあわせた分かりやすい教え方ができていないのは自分自身であるにも関わらず、しばしば私たちは心の中で相手を非難します。

「どうしてさっき教えたばかりなのにそれを分かっていないのか、愚か者めぇぇーッ」等と、偉そうに。この「偉そうに」というのがポイントで、「教える」ということになると私たちは、よほど気をつけていないかぎり無意識的に尊大な態度になってしまいがちなのではないでしょうか。

そのことをもう少し分析してみますと、「教える」ということには、相手の心の中にある情報に新たなデータを植え付ける、すなわち洗脳するという側面がしのびこみがちのように思われます。

相手の心の中にあるデータを、自分の思っているとおりに書き換えてしまいたいという支配欲の煩悩が無意識的に活発化してしまうがゆえにこそ、もしも相手が思い通りに納得してくれないと、たったそれだけのことでイライラしてきたり、教えることを投げ出したくなったりするのです。

しかも、実際には支配欲が思い通りに満たされずイラッコイラッコしているだけであるにも関わらず、「ちゃんと学ぶ気がないならもう教えるのやめよっかな」などとぶつけてしまいがちなもので、それゆえに相手をも怒らせてしまう、がびーん。

ゆえに教えるときには、「分からせたい」の支配欲を捨てられるように注意深く心を見張っていたいものです、ね。




第六百三十五回

友達と遊んでいて帰りたいのに、「つまらないから帰るんだね、ガーン」と思われたくない、ゆえに帰れない。そんなことが、子供のころによくありました。

あるいは電話をしていて、うまく切るタイミングがつかめず「そろそろ切りたいのにィィィーッ」と思いつつ、長電話。そんなことも、よくありました。

そういった時、無意識的に私たちを支配している思考は一見すると「相手を傷つけたら悪いからネ、うむ」という良い子ぶったものであるように思われます。しかしながら実際は、「自分のことを冷たい人間だと思いたくないよー」とか「自分のことをヤな人間だと思いたくないよー」という自己欲の煩悩ゆえに、言いたいことを言えずにストレスを溜めているだけだったりします。そんなの、思い込みにすぎないかもしれないのに。

「あ、そっか、良い人を演じたいだけだったのか」と気付いてあげて肩の力を抜けば、さっきまで言えなかったことも穏やかに伝えられるでしょう。「あのさ、君、唇に海苔がついてるよ」とか、ね。




第六百三十四回

そのこだわりが、私たちから爽やかさを奪ってうっとうしい人間にさせている・・・ッ、かもしれません。

選び方へのこだわり、エコロジーへのこだわり、宗教へのこだわり、つくりかたへのこだわり、話し方のこだわり、好きな映画へのこだわり。

こだわりが一致する人同士で馴れ合いの話をしているうちは、こだわりが実はうっとうしいものであることが見えづらくなります。 が、こだわりが一致しない相手に接するときに「相手は間違ってて愚かなり、分からせてあげなきゃ」と心が条件反射をしてしまい、誰も聞きたくもないような演説を始めてしまい相手に煙たがられてしまうものです。

自らがこだわり、執着している事柄の素晴らしさを相手にも分からせようとしてもがくのでお互いストレスが溜まるにも関わらず、頭が「ワガハイは正論を述べているので気持よいのであーる」と錯覚するので、こだわりに基づく押し付けがましさが病み付きになってしまいます。 おやまあ、そう考えてみるとこだわりとは、ほとんど宗教そっくりです。

では、ある事柄が、「宗教」のごとき執着になっているかどうかを見分ける指標を考察してみましょう。

それは例えば、自らのこだわりに反している人に接したとき「いらっ」とするかしないか。 もしいらっとするなら、こだわりは「怒」のストレス要因になっている。

あるいはこだわりに反している人に「この人は分かってないから分からせてあげよう」とうんちくを語りたくなるか、ならないか。 そうなるなら、こだわりが支配欲と共犯して、ストレス要因になっている。

そのようなこだわりは自らにストレスを発生させ、心を醜くさせるだけのものであることが見て取れることでしょう。 ですからこだわりは、お外にポイ。

(今回からこのコメント文を原稿用紙1枚で記すようにしました。)




第六百三十三回

綺麗ごと・・・ッ、私たちは、しばしば本当の汚れた動機を隠して、綺麗ごとを言ってしまいます。(「被覆」の煩悩モード)

自分はよい人間だと思い込んで自分を騙すためと、それから、自分をよい人間だと相手に思い込ませて騙すために。

問題は、そうやって「何かを隠して曖昧にしてる」という時点で、敏感な相手には何だかスッキリしない、もやっこもやっこした印象を与えてしまいがちだということ。

そして更に、そのように曖昧にごまかしているせいで、主観的には良かれと思ってやっていても、実際には自分も「ごまかしてる」ことの後ろ暗さゆえに、何だか落ち着かず、ストレスフルな感じになってしまうことでしょう。

典型的には別れ話のときに「君のことは好きだけどこのままじゃ、自分のせいで君が不幸になっちゃうから別れよう」という、良い子ぶったセリフが同様の効果を醸し出します。

自分だけ良い子でいたい慢の煩悩からこのような綺麗ごとを言ってしまうせいで、言われた側にしてみると「好きなのならまだ続けられるはずなのに、どうしてなのッ」という不条理な感じに巻き込まれてしまいます。

「自分のことを大事に思っているからこそ」別れるなどという、いかにももっともらしい大義名分はとても嘘っぽいので、何か別の、本当の理由を隠しているんじゃないか、という印象を与えがちなのではないでしょうか。

たとえば別に好きな人ができたとか、たとえば長く一緒にいて本性を知れば知るほど一緒にいるのが疲れるようになってきて将来を共にするのは無理そうだと感じ始めた、とか。

そして自分を騙して相手を騙して、もやっこもやっこした状況でいるよりは、すべての感情を包み隠さずに相手に見せてあげるのが良いこともあるでしょう。

相手を責めるような物言いをするのではなくって、「二人でいることによって自分にどういう苦しみがあるのか」を率直に述べてみるのも一手かもしれません。

ごく一例をてきとうに挙げてみると 「一緒にいることでどうしても世界観の違いから腹が立ってばかりで苦しくなることを止められないから、何度かはやり直そうと思ったけれどこれ以上は無理だと思うの」などと。

そうしてみると、被覆していたがゆえに生じていたお互いのもやもやが消えて、二人ともいくばくかスッキリするのではないでしょうか。 スッキリしてしてしまってみれば、案外それをもとにして問題点を一緒に改善していこうとばかりに、やり直しへと進む可能性だってあるかもしれません。


第六百三十二回

そんなに鼻息粗いと、酸化と老化が進むよ。

私たちの意識が放っておいても興味を持つ相手は、強い快楽や不快感を与えてくれるもの、それのみです。 それは快楽をもたらす音楽だったり、不快感をもたらす他人のイヤな言葉だったり、すなわち意識は快楽と不快感に引きずり回されています。

ですから(一見すると)快楽も不快感ももたららさない(かのように見える)普段の呼吸のことなんて、ほとんど興味がないのですよね。興味がなく普段は意識を向けないがゆえにこそ、私たちの知らないところで生じている呼吸から無意識的に影響を受けて翻弄されているのですけれども。

私たちが欲望に駆られてドキドキしているときや怒りに駆られてカーッとなっているときは、知らず知らずのうち、無意識的にたくさん空気を吸いたくなっているものです。ーーー浅く、荒く、せかせかした速度で、たくさん。

これが度を過ぎると過呼吸ということにもなるように思われるのですけれども、こうして感情が揺れると呼吸量が増える背景にある「空気がたくさん欲しいよーッ」という衝動を、かりに「空気欲」とでも名付けてみましょう。

欲望や怒りに心が支配されますと、身体の特定部位の臓器や筋肉があちらこちらで緊張してストレス状態と興奮状態が発生し、それに応じてたくさん酸素が必要になるため、「空気欲」が自動的に増すのではないか、と思われます。 これはストレス状態であるにも関わらず、頭は「興奮できて気持良いよぉぉぉー」と錯覚してしまうため自分がストレス状態に置かれていることに気づかなくなるのが痛いところです。

そういったときに、半ば瞑想状態に近い状態をつくり呼吸にじぃーっと意識を集中してみると、風邪のときにも似た熱悩感のともなった不快な息が腹部から出てくるのが観察できます。つまり欲望が生じたときの息には、明らかに有毒ガスが混じっているのが分かります。どなたか科学者に検証して欲しいと思うのですけれども。

おそらく呼吸を吐き出していくのに連動して有毒ガスを外に捨てる、ということもおこなわれているのです。(欲に駆られた人や不機嫌な人の目の前にいる人は、有毒ガスを浴びるはめになるので良い迷惑です、ねえ。)そしてよく知られているように、吐き出していく過程で副交感神経が優勢となって、筋肉は弛緩していきます。

ところが、快楽もしくは不快感によって感情的になっているときは、酸素を取り入れようとする衝動ばかりが先立ち、吐く息が異常に短いものになってしまい、吸う息が優勢になってしまいがちです。ただでさえ欲ないし怒りにより毒ガスが発生しているのに、ほとんど息を吐かなくなることにより毒素をたくさん抱え込むことになるように思われます。がっびーん。

「空気欲」が増える感情をつくることにより荒く浅い息を吸ってばかりで、まともに長い息を吐くこともすっかり忘れてしまっていたならば、そんな乱れた息にハッと気づく意識を向けてみましょう。そして「すー、はー」と息を見つめていましたら、自然に息が心地よく整ってゆくことでしょう


第六百三十一回

昔から「自分の欠点を棚に上げてさー」という決まり文句がありますが、しばしば世の中では他人のことを非難する人間は「自分だって実は○○なくせに」と思われてしまうものです。

ありとあらゆる批判は、「自分はそのような欠点を持っていませんよーだ」というイメージを醸し出して、それを皆に印象づけたいということを背景に持っています。

そして、それよりも深い次元では「自分はそんな欠点持ってないもんね」と、自分で自分に言い聞かせて自己暗示をかけようとする心のはたらきがあるのではないでしょうか。

分かりやすい素朴な例をあげれば「あの人は怒りっぽいから最低」という考えそのものが怒りっぽいのですけれども、そう考えている真っ最中は「自分が怒りっぽい」という事実がまったく認識できなくなることでしょう。

それはまさしく「自分は怒りっぽくないのじゃよー、エロイムエッサイム」と自己暗示をかけている、ということのように思われるのです。

そして「自分はあの人とは違ってその欠点は持ってないもんねー」という自己暗示をかけたくなる理由は、「その欠点を無意識的に持ってしまっているから」にほかなりません。 そのようにして、他人の欠点を批判すると、自分が潜在的に持っている欠点がより強まってしまうからこそ、他人を非難しないほうがよいという考え方もできるのではないでしょうか。

つまり他人に迷惑をかけないためではなくて、自分を守るために。

今回はいつもと趣向を変えて、経典に勝手に言葉を補足しつつお届けして閉じましょう。 正確な翻訳をのぞまれるかたは『ブッダの言葉』(中村元/岩波文庫)をご覧になってみられてくださいね。

他人の罪をあばけば気持ち良いので他人の罪は見えやすいけれど、自らの罪をあばけばプライドが傷つくので自らの罪は見えにくい。他人の罪を、大げさに暴き立てる人はそれによって、自らの罪を覆い隠す。卑劣なギャンブラーが、ギャンブルでサイコロの悪い目が出たのを隠してイカサマをするように。
(『経集』252番を超訳)

他人の罪を見つけてばかりでいつも「やっつけてやる」と思ってばかりの人には、潜在的ストレスが増えてゆき、潜在的ストレスを根絶やしにすることから遠ざかってゆく。
(『経集』253番を超訳)


第六百三十回

「自分が」「自分の」「自分に」「自分を」といった形で自我に刺激を与えることを中心に、世の中はまわっているように思われます。

いっけんすると、経済的利益を合理的に追求することを至上目的にしているようにみえる私企業のメンバーですら、「自分がこのように扱われた」 「自分の言葉が受け入れられた」「自分に恥をかかせた」「自分を大切にしてくれている」といったような、経済的利益とは関係のない子供っぽいことによって、機嫌をよくしたり機嫌をわるくしたり、要求を受け入れたり突っぱねたりしているのです。

そういうわけですから、策略としてたとえば「相手の好みをあらかじめて調べてから会いに行く」といったようなことが重要になりえます。 相手の好みの話題ジャンルを調査して、そのジャンルのことをあらかじめよく勉強してから会いに行く。

仕事上で相手を説得しようとする場合、しばしばこうやって相手に取り入ろうとするという方法が、意識的にせよ無意識的にせよ取られがちなことでしょう。

(接待されたがっている、と読み取れた場合は料亭だのキャバクラだのに連れて行ってちやほやする、とか。 条件的に優遇されたがっているようにみえるようなら、それを読み取って我がままを聞いてあげる、とか。)

そうすると「この人は、自分のことを分かってくれているぅぅうーッ」と自我を刺激することができますので、「嬉しさ」に条件づけられて、相手のことを手放せなくなるのです。 この人と一緒にいると、「自分を分かってくれている」という刺激が得られるから好ましい、もっと一緒にいたい、したがって相手の提案などにも耳を傾けたい、と。

しかしながら本当の本当は、相手は自分自身に対して興味があり「分かってくれている」のではなく、興味があるかのように演出することによって、自分を飼いならそうとしているのかもしれません。 ですから、しょせん私たちがもしも相手にとって「用済み」になれば、「分かってくれていた」ようにみえた態度は消滅し、急にぞんざいな態度に変化するということは、ごくごく当たり前のことでもあるのです。

ゆえに下手に取り入られて搾取されないためにも、以下の道理をわきまえて、「分かってもらえてる」「分かってもらいたい」という心のムズムズ感を、さっさとポイ捨てしてしまうことが大切です。

「自分が大切にされてる」=「分かってもらえてる」=「興味を持ってもらえてる」=「そういう自分には価値がある」 という自我の刺激に条件づけられてものごとを決めてしまうとき、私たちは客観的な利害関係を見失って、よくない選択をしてしまいがちだということ。

自我というノイジーな幻に振り回されて判断を曇らされてしまうことのないように、「自分が」「自分の」「自分に」「自分を」という幻覚をそっと手放していたいものです、ね。


第六百二十九回

自分が特別扱いされることで得られる、「自我」への刺激。 それを求めて私たちは、実験室に閉じ込められたマウスのごとくもがき、暴れまわるぅぅぅうーーーッ。

手伝いをお願いされたときに「私だけに頼んでくれて信頼してもらえてるなんて嬉しいな、るんるん」と思いきや。実は同じことを別の人々にもお願いしているのを後で知ってガッカリするとか。

2月14日に手作りチョコレートをもらって嬉しかった、と思いきや、その同じチョコレートが余ったので、他の人にも分けてあげたんだと、後で知ってちょっと寂しくなる、とか。

このガッカリとか寂しさというしろものの原材料は例によって、「自分だけが、このワタクシだけが特別な存在として承認されて、他の存在とは区別して扱われねば気がすまないのであーる」という「慢」にほかなりません。

他の人と同じに扱われる、ということは、「私たちが他の人と交換可能なちっぽけな存在にすぎない」という厳然たる事実を思い知らせてくれるので、ついつい受け入れたくなくなることでしょう。

しかしながら「自分は交換可能なちっぽけな存在じゃないもんッ、特別だもん」という幻想にしがみつこうとするせいで肩に力が入り、頼りにしてもらえていることを素直に喜べなくなったり、チョコレートをもらったことを素直に喜べなくなったりするなら、かえって自分が惨めになるだけのこと。

「そうだよね、だって<自分>なんていう現象はしょせん特別じゃないもんね」と事実を受け入れて、ほっと一息つきたいものです、ね。


第六百二十八回

「昨日、胃が痛かったのは大変だったね」「いや、そうじゃなくて。喉が痛かったって言ったでせう(イラッコイラッコ)」

自分が伝えたことが間違って理解されているのは許せない、間違いは絶対に訂正したい、ちゃんとわかってもらっていなければ気が済まない、という衝動ゆえに、 どうでも良い間違いをイライラしながら訂正するセリフが、世間には満ちあふれているように思われます。

すなわち「自分のことを、ちゃんとわかってほしいヨーッ」、その欲望がしばしば私たちを突き動かし、私たちに余計なことをしゃべらせたり、ウェブに書かせたり。 そのうえ「わかってもらえない」「同意してもらえない」と感じると、嫌な気分になってしまうことでしょう。

自分はツライんだということをわかってほしい。だから、しゃべったり、書く。

自分は腹が立っているということをわかってもらって、同意し共感してほしい。

自分はこんなすごいことが理解できる人間なんだとわかってほしい。

こう見えても自分は、実は、本当はね、ちがうんだよォォォーーッ。・・・と、わかってほしい。だから、アピールいたします。

あるいは極めつけは、「わかってほしくなんてないもん」という態度を取りたくなるとき。それすらも「自分はお前らにわかってもらう必要はない硬派な人間なんだもんね」と、皆にわかってほしいからに、ほかなりません。

他人に「分かって」もらえると、なんだか安心できたような、嬉しいような錯覚がすることでしょう。でもそれは、「分かってもらえないなら不安で不安でしようがない」という病を、裏に隠しているのです。

ではなぜ、「分かってもらえないと不安」なのかを考えてみましょう。

心の中で「自分とはこういう人間であーッる」とつくりあげている自己イメージ(「慢」)は、自我にとって都合のよい部分だけを切り取ってつくられた幻でしかなく、不安定。

その、もろい自我という幻のイメージが壊れてしまわないように、他人の同意や共感を奪い取ることによって、「皆が同意してくれるなら、自分は間違っていないよね」と、なんとか自分を納得させたくて仕様がないのです。 「うん、確かに自分はそんな人間だよね。うん、大丈夫、そうだよね」と。

そのイメージが壊れてしまうことは、あたかも自分が死んでしまうことであるかのように錯覚されますから、必死になってイメージを守りたい。 ですから、自分が思っている通りのことと違うように受け取られると、それがささいな違いであってすら「分かってくれてない」という不満の原因になり、分からせたくなるのです。

このような慢の苦しみから離れ、「わかってもらえなくても大丈夫」と(口に出して言うのではなく)心の底から思えるとき。 余計な一言を言う必要もなく、わかってもらえなくても穏やかに相手を受け入れていてあげられるとき。それがハッピーな時間というもの。


第六百二十七回

子供のころに大阪に住んでいた時代、私は「今日、遊べる?」という言葉で友達を誘っていたものでした。 「遊んでもらえないのでは・・・」という不安があったせいか、「遊ぼう」ではなく「遊べる?」とたずねていました。

そして目当ての子を誘ってはみたものの断られると、なんだかひどく寂しい、がっかりした気持になっていたのをよく覚えております。

きまって最初に、一番好きな「たけちゃん」という子(「ふなごっこ」という遊びを開発した人気者)を誘ってみるのだけれど「勉強せなあかんから」とか「今日はむっちゃんと遊ぶから無理やわ」などと断られるたびに、 がっびーッん、と打ちのめされていたのです。

「お前のことはいらない、買いたくない」と言われたような錯覚におちいっていたのでしょう、自分の価格がドーンと下落したような寂しさがありましたとさ。

その寂しさにどっぷりはまってしばらくボーッとした時間を過ごしてから、「うぐぐ、たけちゃんじゃなくてもいいから誰かと遊びたいよう」という気分がわいてきたものです。

当時の意識としては「とにかく自分は誰かと遊びたいわんぱく坊やなんだ」と思っていましたから、気を取り直して二番目に好きな友達に電話をかけてみます。 しかしその裏側では、「たけちゃんに断られて下落した自分の価値」を、別の友達に自分を買わせることによって回復させようとするあがきだったような、そんな気がしなくもありません。

つまり友達を、自分の価格上昇のツールにしようとしていた・・・ッ。 しかしながら、あいにく寂しさにズーンと沈んでいる1時間や2時間のあいだに、多くの友達が「誰と何をして遊ぶか」を決定してしまっていたりします。 するともはや、「うっつん」や「すえさん」や「しんちゃん」や「さかちゃん」といった友達に連絡してみても、「もう予定決まってるから、むり。」と言われがちなもの。

そこでも何とか食い下がろうとして「それでもいいから遊ばれへんかなあ? 僕も入れてぇな」などと言ってみるときには、自分を値下げしたうえにおまけを付けてでも買ってもらおうとしていたものなのですけれども。 が、それでもなおかつ「今日は無理やから」などと断られたときには、自分の価格がついには最安値を記録したかのような気分になり打ちのめされるのでした。

グループの中で私と「しんちゃん」の二人が、ときとして遊び相手のいない「余り」になっていたような気がします。 たぶんお互いがそんなに好きなわけでもないのに、お互いを最安値で買い合って傷をなめあうために誘いあって、なんとなく楽しくない時間を過ごす、あいやー。

そんなことしなくても独りを静かに楽しむ余裕が生まれるまでには、その後10年以上も時間が必要だったのでしたとさ。


第六百二十六回

私たちは日ごろ、待ち合わせに遅刻したり遅刻されたり、約束を破ったり約束を破られたりしながら生活しています。

それが時と場合によっては、相手に大きなダメージを与えることにもなるわけですけれども、その内訳を少しばかり見てみましょう。

実は、私たちは「約束を破られた」という事実そのものに対してダメージを受けているわけではないように思われます。

約束を守れなかった理由が、体調不良だったりやむを得ない仕事ゆえのことなら、さほど嫌な思いはしないことでしょうから。

しかしながらその理由がもし、「急に、ほかにもっと会いたい人ができたから土壇場で予定変更」といった具合でしたら、腹が立ったり悲しくなったり、すねたりしがちなものです。 つまり、約束破りや予定変更の背景にはたらいているのが「もっと得したい」という欲望だったとき、相手はダメージを受けます。

ですから私たちは「約束を破られた」という事実ではなく、その背景にどのような煩悩がはたらいているのかということを詮索しては、イライラと気にしているのだということが見てとれるでしょう。

「約束破りは道義上、よくないのであーッる」と考えて怒っているつもりでも、実際には違う感情に操られていたりします。 「自分よりも、他の選択肢のほうが大事なんでせう。うわーん、屈辱的だよーう」というものだったりするのです。

しかしながら、「自分を大事にしてくれてなくてプライドが傷ついている」という慢の煩悩はみっともないですから自覚したくありません。 自分の裏の感情には気づかないままに「相手が約束を破った、約束を守らないのは社会ルールに反する」という大義名分のたつ「正論」にすり替えてしまうのではないでしょうか。

自分が「破られるほう」にまわったとき、この「すり替え」に少しでも早く気づいて、みっともない自分を認めてスっと肩の力を抜きたいものです。

そしてついつい自分の欲望に引っぱられて「破るほう」にまわってしまいそうになるとき。相手の「慢」を刺激して屈辱を与えてしまいかねないことを想い出すことといたしましょう。 そうすれば、目先の「得」を求めて予定変更するメリットよりも、相手に屈辱を与えたダメージが将来的に自分に跳ね返ってくることのデメリットのほうが大きいことを心得て、「やっぱり約束は守ってあげないと」と思いとどまることもできましょうから。


第六百二十五回

「前にも言ったでしょ」、その恐怖の呪文は世界中で大人気。そして言った側の心をガタピシさせながら、言われた側は否定された気分でいっぱいになってしまうのです。

「報せたいことが突然できたので電話したんだけど『この電話番号は使われておりません』ってなって、つながらなかったよ」先日、そのようなメイルを受け取りました。

返信するにあたって「前にも伝えたように携帯電話は解約したんですよね」と打ち込みそうになって気づくのは、「おや、どうやら自分ときたら今日は心がなんだか揺れているみたい」ということです。

心が揺れていなければ、「前にも伝えたように」などと書きたい気持にはならないものですから。

相手が分かってくれていないという気がしたとき、私たちはしばしば「前にも伝えたように」「前にも言ったけど」と言いたくなります。 そのような表現が、いかに尊大な響きを持つかについて、ついつい無自覚なままに。

その「尊大さ」の裏舞台には、次のような弱さが隠れていることでしょう。 「前に携帯電話は解約したって伝えたはずなのに、なぜ電話をするのだろう? うーん、伝えたことをまともに聞いてくれていないに違いない、ワタクシの発言などどうでもいいから適当に聞き流しているに違いないぃぃぃぃーーーッ」

さらに申せば、「自分の言ったことを忘れられているなんて寂しいよーう、ちゃんと覚えておこうと思ってもらえる価値がないと思われているのでは」という、脆弱な慢煩悩が裏舞台で操り糸を引いているのです。

メイルを受け取って、0.1秒もかからないうちにこういった思考が瞬時に心を乗っ取ったあげく、気づいたときにはすでに「前にも言ったように」と書きたくなっている、という超高速の情報処理過程。

さて、「前にも言ったように」と言われてしまった側は「前にも言ったことなのに分かってないなんて貴様は愚か者であーッる」と言われているような気分になりますから、決して良い印象は受けません。 ましてや「前にも言われたのに忘れていたなんてよくない、次からはよく覚えているようにしよう」などと考えてくれることは、ほとんどあり得ません。

相手にとってそれが「前にも言われたことだったかどうか」ということは、必要のない情報なのです。 「前にも言ったろう、このスカタンがぁぁぁーーーッ」と誰かを怒りたくなってしまったときも、 自分は単に慢の煩悩に刺激されているだけなんだなー、と見つめて手放してしまいましょう。

私が実際に打ち込んで送ったのは「携帯電話は去年に解約して以来、持たないようにしたのです。連絡のあるときはこのPCアドレスにくださいね」と、「慢」部分が抜け落ちた言葉。 面倒でも、「前にも言ったように」というくどくどしいセリフをカットして、同じことを繰り返して相手に伝えてあげたいものですね。


第六百二十四回

皆様は、どのような初夢をご覧になられましたでしょうか。そしてその中には、初「欲望」も、初「怒り」も、初「迷=無知」も含まれていたことでしょう。

私の見た初夢は、次のようなものでした。 夢の中で私は「月読寺へ大人数を招いてパーティーを開く」などという浮わついた計画を立てたことになっています。 そしてどうやらその計画を強く非難している人がいるらしい、ということを近しい人が教えてくれて「だからパーティーなんか開かなければよかったのに」と心配してくれます。

それに対して私は「自分は大々的なパーティーなどという浮ついたものを開きたくなどないし、そのような計画を立てた覚えがないのにおかしいな、何て嫌なことだろう」と考えている、というような夢です。

細かい分析を示すのはここでは省きますが、ここでは「心がデータをぐちゃぐちゃに改ざんするプロセスが夢の中においてかいまみえる」という仮説を述べてみましょう。

「パーティなど開く計画を立てたはずもないのにパーティを開くことになっている」などといった、論理的におかしなことが夢の中ではしばしば発生します。 こういったホツレ目にこそ着目してあげると、夢解きをしやすくなるように思われます。

つまり、心が「論理をグチャグチャにしてでも、そういうことにしておきたい」という形で、無理矢理データを改ざんしているポイントだということです。 (その煩悩モードはもちろん、現実をゆがめる「無知=迷」。)

では、この夢で心が無理にでも主張したがっているのは何かといえば、「その計画を決めたのは自分ではない、自分は悪くない」というポイントです。 そうやって自分を騙せさえして安いプライドが保たれさえすれば、他の事実との整合性がつかなくなってもお構いなし、というアコギな心の性質が、よく分かります、ねえ。

心は、そんなアコギなデータ改ざんをしながら無意識的に現実をねじまげることを続ける恐ろしい情報演算装置なのです。

その結果としてたとえば「立てていないはずの計画がある、おかしい」という矛盾したデータがゴミのようなノイズとして心の奥底に残ってしまい、無知の業が増大する(がっびーッん)のです。

その証拠に、こうやってデータ改ざんされた「理屈にあわないヘンテコな内容」は、夢からさめたあとに急速に忘れ去られて(つまり無知になって)ゆくでしょう。 忘れることによってデータが消えるわけではありませんから、意識によってアクセスできないノイズが増えて、心がおかしくなってゆくのです。

これを「夢の中だから起きていることに過ぎない、普段はそんな変なことは考えてないもんね」と理解するなら、自分が無意識的におこなっているデータ改ざんに対してあまりに無自覚すぎるのだと申せましょう。 実際は普段も無意識的にこういったデータ改ざんが膨大な量と速度で生じ続けていて、夢の中でチラっと見えるのは、その氷山の一角に過ぎないのですから。

心のデータ改ざんを止めさせるべく、本年も瞬間瞬間の現実を明晰に見つめてまいりましょう。


第六百二十三回

焼き栗屋さんでは、新栗の季節です。 以前、吉祥寺の街によく行く機会のあったころ、駅近くにある「なかじま」という焼き栗屋さんにしばしば立ち寄ったものでした。 しばしば店の脇にある椅子に座り、クリをほおばりつつ、お店の人と談笑したものです。

ある日、お店の人と話していましたら、昔と比べて焼きぐりがずいぶん売れなくなったという話を聞かせてくれました。 彼はその理由を自分なりに考えて、次のようにいくつか挙げてくれました。

レトルトのむいてあるクリの安さに比べて焼き栗屋は高いと敬遠されてしまう、中国のクリの木が老化していてから輸入できるクリの実の質が落ちている、そして、 むいてあるクリのほうがラクでむくときに手も汚れないので皆に好まれるのだと。

ん・んー、残念ッ。むかずに済む手軽なクリで、むくのにかかる「ほんの小さな苦」を省くと、その苦を乗り越えたときの「ものすごくささやかな快楽」も消えてしまいます。

ホウキを使わず掃除機でラクラクに済ますがゆえに、ちょっとした苦が省かれたぶんだけ実感が消失し、掃除がなんだかつまらなくなる。

直接会わなくてもメイルや電話で、手軽に自我を刺激しようとしますから、リアリティが省かれたぶんだけ不感症になる。

「苦をなくして快楽だけ得たいよーッ」という近道を目指して、私たち人類は古来からものごとを便利に便利にし続けてきました。 しかしながら苦をなくして快楽だけ得ようとしても、実は苦と一緒に快楽も消えてしまうのでガビーッン、なのです。快楽とは、苦とつき合うことと抱き合わせで売られている商品なのですから。

お手軽になるということは、大変な苦労をするというリアリティを消滅させてゆくことにつながり、何もかもが「物足りない」ものへと色あせてゆくことでしょう。

そうしてささやかな「苦=刺激」を省くかわりに、「物足りなさ」に取り付かれてしまうがゆえに、わざわざそれを埋め合わせるべくしてドギツイ「苦=刺激」を心に浴びせなくてはいられならなくなるぅぅぅーーーッ。

本当は、そんなドギツイ「苦=刺激」によって心をスサませなくても、小さくって素朴な「苦=刺激」を省かずにちゃんとつき合ってあげれば、そのつど苦が解決するたびに繊細なハッピー感を味わい続けられる、ということ。


第六百二十二回

潜在的ビクつき・・・ッ。心の中で潜在的にビクビクしていると、それはクセになって繰り返し反復してチクチクうずく、傷口となることでしょう。

この「うずき」が業として無意識的に蓄積すれば蓄積するほど、私たちは自分の意志(と思い込んでいるもの)に反して、無意識的な傷口のうずきに支配されてしまいやすくなります。 たとえばつい相手が言った「本当は関係のない一言」や相手のみせる「本当は関係のない素振り」が、その傷口のかさぶたに触れられたような錯覚に陥りやすくなるのです。

私たちは自信がないときほど、ささいなことで自分が否定されたと思い込んでしまいがちなもの。 料理の失敗について傷がうずいているならば、相手が「りょ」という音を口に出しただけで「ぎょぎょぎょー、料理について何か否定されるのかしらん」と心が自動的・反射的に苦痛を蓄積させてしまう。

いやはや、相手の「りょ」が実際は「旅情のある温泉地にいってみたいね」の「りょ」かもしれないのに、無自覚的に心を放っておいてしまうと一瞬にして心は「自分が気にしている過去の傷口データ」にすりかえてしまうのです。

現実に新しく入ってくる、相手の声や表情といった新しいデータに対して、心の中で反復している傷口の旧データを足して、 合成データを反射的につくりあげてしまいます。それゆえに、目の前の現実をしっかり認知できなくなり、現実感覚の欠落した妄想に陥りやすくなるぅぅぅーーーッ。

多かれ少なかれ私たち自身だけでなく、他人もこんなぐあいに「気になっている傷口」にあわせてデータ合成をおこなっているという厳然たる事実を、覚えておきたいものです。 つまり、そのようにあらゆる人々が「潜在的には」おびえているのですから、その傷口にワサビやカラシをすりこみかねない態度を取らないように、いたわってあげる慈悲を保ちたいものです、ね。


第六百二十一回

相手を説教したり批判をしたりして、奇跡的に相手が「うん、そのとおりだなあ」と表面的に思ってくれたとしても、無駄無駄無駄ッ、ナンセンスです。

納得させられたとはいえ心の底では抵抗を感じていて、「納得はしたものの、その方向に向かっていこうという気にはなぜかならないなあ」という無意識的情報処理がおこなわれてしまうのですから。

そのように考えてみますと、誰かを変化させたいという気持があるのなら、相手を心の裏から操っている煩悩、相手が求めているもの(・・・ハチミツ?)を見極めたうえで、 それを上手に満たしてあげることのほうが遥かに有用だということが分かることでしょう。

相手を否定して納得させるようなことよりも、そちらのほうが遥かに有効という道理。

そういうわけですから、他人様の煩悩にやみくもに反発して心の中でブツブツ「お説教」を垂れるくらいなら、もっと冷静に他人様の煩悩システムを分析したうえで、 その煩悩を手玉に取ってやるッ、というくらいの心づもりでいることをお勧めいたしましょう。


第六百二十回

心はすぐに「嫌だよーッ」と怒ることの電気ショックを浴びたがるぅぅぅーーーッ。

たとえば他人の笑顔も自分を小馬鹿にしているように感じられ、怒りが生じてくるかもしれません。

そうして心が「怒」によって疾走を始めると、思考は次々に、新しいネガティブな思考を連鎖反応のように生じ続けることでしょう。

「こんなの笑顔に腹を立てたせいでイライラして疲れたうえに集中できなくなった、ちぇッ、イライラするなあ」

こうして、新たな「怒2」が連鎖いたします。

この思考の流れをもう少し細かく切り刻み、分析してみましょう。 まず、「笑顔への怒1」→「自分が怒ったことに気づく」→「『怒って疲れてしまい、損をした自分』というイメージで自我を刺激される慢の煩悩」→「損をしたことへの怒2」ということ。

その思考の流れが生じることで、明らかにイライラは増幅し、心身ともに落ち着かなくなっていることでしょう。 その有り様を見つめる習慣がついてきますと、「自分にとって損なことを、何かのプログラムに命令されてやらされてるような気がする。がッびーん」 という気づきが得られます。

この「がびーッん」というショック付きで「気づく」というのが決定的なポイントです。「はッ」と気づくこと。 DNAとでも表現できるかもしれないものに命令されて、「とにかく暴れなさい」と操られている自分を見つめると、操られるのが馬鹿馬鹿しくなり、自分の感情から距離を置くことができるようになります。捨ッ。

しかし問題は、「DNAに命令されてるだけらしい」と頭で考えた時点ですでに、その「考え」もDNAの命令の範囲内だということ。 そのような見解を得ることができた自分は真理が分かった、という偉そうな「見」の煩悩に安心させられつつ、再び命令に支配される中へとまどろんでゆくというメカニズム。

命令されていることに気づいて脱出しかかったまさにそのときに、「分かったことによって脱出できそうな自分」という喜ばしい幻を見せてくれますから、それによって再び飲み込まれるのです。

  したがって、先ほどのフローチャートで「怒2」の続きは、次のようになりましょう。

「命令されて無駄に怒らされていると、ハッと気づく」→「そのことを分かったつもりになる『見』の煩悩」→「『操られている自分』がいる、という『慢』の煩悩2」→「操られているのは嫌だ、という怒3」→「分かったつもりになりつつ再び命令に屈服してしまったことへの気づき」→「『そっか、分かったつもりになりなさい、と命令されて屈服してしまったんだ』と、改めて分かったつもりになる『見』の煩悩2」→「屈服した自分のイメージが低下する『慢』の煩悩3」→「自己イメージ低下に対する怒4」

仏道瞑想において重要なのは、このように「命令されているだけらしい」という思考がわいてきたとしても即座に、「分かったつもりになる思考をしなさい、と命令されてしまったらしい」と気づいて、その思考をも切り離すことです。 瞬間瞬間、「はッ、怒らされてる」「うひッ、考えさせられてる」「はッ、慢心が生じている」「はッ、まただーーッ」と気づくことにより、命令に反旗を翻し自由を目指す道のり。


第六百十九回

いくら言葉を並べ立てても足りない・・・ッ。

微妙に相手を(そして自分を)だまして取り繕わねばならないとき、もっともらしい理由を口にしてみても、「何だかこれだけでは説得力に欠けるみたい」と感じられることでしょう。

したがって、その理由に加えて、さらに理由を付け加えるはめにもなることでしょう。 そのようにして「なんとかかんとかは素敵だと思うし、・・・、とても素晴らしいと思うし・・・、」などと、たくさんの理由を並べ立てるはめになるのです。

すると「・・・だし、・・・だし、・・・だし、・・・」と、「し」をつなげながら美点を並べ立てるとき、 その人は自分を相手をだまして良い人ぶった仮面を被ろうとしていることが洞察されます。 その煩悩モードは、素敵な自分にうっとりしたくてたまらない、「慢」。

そのような上滑りに理由を陳列いたしますと、相手はそれとなく察知するもの。 「あー、心にもないことを言ってるから言葉がスリップして、いっぱい並べ立ててるのではないかしらん」と。

しかも、取り繕って並べ立てている側の心の水面下では、ゆがんだ逆恨みまでもが発生しがちです。 「汝のせいで、無理して取り繕うはめになってストレスが溜まりにけり、もう汝なんかと一緒にいたくないよーッ」と、心が勝手に「怒」の煩悩モードに突入することでしょう。

このような道行きに迷いこまないように、ついつい言い繕って良い子ぶりたくなる心を取り押さえて、へんてこな言い訳はしないことです。




第六百十八回

お誘いや仕事依頼などを断りたいとき、ついつい私たちは良い子ぶって「相手を思い遣っているかのごとき」断り方をしてしまいます。

「自分のせいで断る」という責任を引き受けたくないばかりに、「あなたもお忙しいでしょうから」だとか「あなたも花のハチミツを取るのが大変でしょうから」だとか「あなたの、ダイヤモンドのように貴重な時間をいただくのは悪いですから」などと、親切ぶった言い方が大流行。

しかしながら・・・ッ、そのように相手を思い遣る見せかけの背後にある裏メッセージは、次のようなものとなりましょう。 「私が原因ではなくあなたを原因として、やめておきましょう」。

このようなとき、「自分は相手の御願いを断るようなひどい人間ではないのであーッる」という自己イメージの幻をつくりつつ、嘘をついています。

嘘をついていますから、第一には自分自身の心がゆがんで何だか苦しい感じ、すなわちストレスが増幅することでしょう。

第二に、相手には「本当の理由を言わずにこちらのせいにして何だか不快なのじゃよー」という気分を与えます。

そしてあまつさえ第三に、「いや、忙しくないから大丈夫ですよ」などと返されてしまった場合、とても困ることになるでしょう。

そうなってから初めて、「いや、やっぱりその日は用事がありまして」だとか「やっぱり私も別の仕事が忙しいものですから」だとか取り繕うはめになる・・・ッ。 こういったときのひどく気まずい雰囲気は、えも言われぬものがあります、よね。相手は「じゃあ、こちらのせいになんかせずに最初っから断りたまへよッッッ」と悲しくなってしまいます。

ですから互いのために、最初っから嘘をついたり下手に言い訳をしたりしたくなる業をふりほどいておくこと。 そしてシンプルに「いえ、今回は、それはお断りさせてください」ときっぱり答えるとお互いが爽やかになるのです。


第六百十七回

微妙なチガイ・・・ッ、些細なチガイを主張するために、私たちはしばしばお互いを傷つけあっています。

相手に自分のことを言われると、ついつい微妙なチガイを主張したくなることがありますでしょう。 とりわけ、自分のこだわりの強いジャンルなどである場合は、特に。

実質的にはほとんど同じ内容を言っているにもかかわらず、なんとなーく相手の言っていることと自分の考えはチガウッ、と思い込みたくなる摩訶不思議なるメカニズムがはたらいています。

その結果としてもちろん、相手は微妙に否定されたような気分になりますからお互いが楽しくなくなる。このような風景は、世界中のどこにでも転がっているのです。
では、なぜに些細で微妙なチガイをわざわざ主張したくなるかと申しますなら、差をつけたい、という原始的な衝動が私たちを背後から操っているのではないでしょうか。

差をつけて「そう簡単にお前らに理解されてたまるか」という態度によってはじめて、「自分はそう簡単には理解されない、特別で有意義な存在であーッる」と錯覚することも叶いましょうから。

「そうやって脳内では『自分は特別な存在』と思わせておいてあげるから、そのかわりに苦痛を増やして不幸になりつつ、暴れ回りなさい。」 この命令こそが、人間を背後から操る業のプログラムが、人間に与えて飼いならそうとする餌の本質と申せましょう。

そんなのに操られながら生きて死んでいくことのむなさしさから脱出するべくして、くだらない「微妙な差ごっこ」から足を洗ってしまいましょう、よ。


第六百十六回

「部下を褒めて育てましょう」「子供を褒めて育てましょう」というメッセージが猛威を振るっている昨今。

褒めて相手を自分の思い通り洗脳すべく、褒めたくもないのにムリヤリ褒めるところを探し・・・ッ、褒め合いつつ心を矛盾させている、というグロテスクな風景がちらほら見られるのではないでしょうか。

それはともかく、ところで褒めるとはどういうことか。 ホメ言葉を翻訳すると次のようになりましょう。「汝は素晴らしい、もっと同じことを繰り返して私を喜ばせなさい。そのかぎりにおいて、汝を承認してあげよう。 ただし、もし失敗したときはどうなるかわかってるのだろうな、コラッ」。

すなわち、褒められた側が無意識的に感じてしまうのは、褒めてもらえたことについて成功し続けない限り、承認してもらえないのだろうな、という「慢」のプレッシャーであります。

ただしその苦痛は、あまり表面化しません。なぜなら、誰しも元々なにかしらの「自信のなさ」に苦を感じていて、ホメ言葉によってその苦が一瞬消えることに快楽を錯覚するがゆえに、その背景でプレッシャーを感じて苦しんでいることには気づけないことでしょう。

そしてこれは、ただのプレッシャーというものには留まらないないようにも思われます。 根本的には「汝を承認してやろう、ただし汝がこちらの思い通りに動いてくれる限りにおいて」という欲望の洗脳メッセージである以上、 それは承認のメッセージのようにみえて実際は「汝がワタクシの思い通りに動いてくれない部分は、拒絶するよ」、というひそかな脅迫の暗号でもあるのですから。 承認とみせかけて、部分否定の暗号。

そのうえ、もうひとひねり付け加えましょう。このような暗号を投げかけられたとき、人はとても抵抗しづらいということ。 表面的に承認され肯定してもらえているように見え・・・ッ、表面的には善意に見えるがゆえに・・・ッ、抵抗できずに喜んで、もっと褒められるように相手にあわせようとしてしまう。

それですべて丸くおさまるかと申せば、ぶっぶー、ハズレ。無意識的領域では「思い通りに動かないなら拒絶するよって言われたよー、うわーん」と嘆きつつ、「本当は相手になんて合わせたくないのに、本当はこんなことしたくないはずなのに」と知らず知らずのうちに逆恨みする怒りの業が蓄積いたします。

単に怒られて拒絶されるだけなら、それに対して抵抗することもしやすいのでまだマシなのですけれども、偽善的欲望のオブラートにくるまれていることによって、お互いが屈折してしまう。 そういう次第ですから、ホメて甘やかすよりは、ポイントを定めて穏やかに叱るほうが遥かに「マシ」な教育方法だということが知られましょう。


第六百十五回

私たちは、相手についていちど「こういう人じゃよねー」とイメージを作りますと、そのイメージを変更したくないもんね、という煩悩を持っているように思われます。 「自分のつくったイメージは正しいもんね、訂正したくないもんねッ」とばかりにしがみつきますから、すぐに「やっぱりあの人は」と考えてしまう。

それに反して私たちは自分がちょっと成長しただけのことで、前から自分のことを知っている人々に「良い方向に変わったね」と評価してもらいたくなる・・・ッ。

「イメージを訂正したくないもんね、このイメージを持ってる自分は正しいもんね」という欲望と、「変わったねえ」と評価してもらいたい欲望、あいにくながら、その二つの利害関係は残念ながら一致いたしません。

それゆえ久しぶりに会った相手に、自分のネガティブな部分に関して「変わらないねえ」と言われると、嫌な気分がすることでしょう。 「自分は変わったのにッ、先入観で勝手に判断する愚か者めが」と苛立ち、自分が成長したことをアピールしたくなるかもしれません、が、まさしくそれが失敗のもと。

賢明にアピールしようとすればするほど、「アピールして自分の欠陥を覆い隠したいんだなあこの人は」という印象が生じ・・・ッ、ますます相手の先入観が強まることでしょう。

そもそも前と同じく「人に認めて評価してもらいたいよーッ」という煩悩を持ちつづけているかぎり、根本的には成長していない、とも申せましょうか。


第六百十四回

人は、じらされるのが好き。触れられたような触れられていないようなソフトタッチが好き。見えるような、見えないようなものが好き。

すなわち誰もが、無意識的に望んでいる・・・ッ、自分の望み=欲望が、中途半端に満たされて中途半端に不満足なままでいたいと。

満たされたような満たされないようなじらされた状態でこそ、心が「快楽であーッる」という幻をつくりだし、その中に引きこもるという性質を持つとぞ見つけたり。

そのことを立証するためにも以下に、大雑把に欲望のパターンを考えてみましょう。

(0)欲望が実現しないあいだは、「手に入らないよう、苦しいよう、うぐぐぐ」という刺激が得られ、業のエネルギーが増える。

(1)欲望が実現すると、「うぐぐぐ」が消えるため、「『うぐぐぐ』が消えて楽になりにけり」という喜びが一瞬発生するものの、その後は刺激に変化が生じず、つまらなくなる。

(2)欲望が実現しないと、「うぐぐぐ」が持続されて苦しい。ただし「うぐぐぐ」による苦しみの量が中途半端なうちは、心が「刺激的でドキドキして気持ち良いぃぃーーッ」と情報を変換プログラムにかけ、快楽を錯覚する。

(3)「うぐぐぐぐぐーーッ」苦しみが少しずつ増えていって上限以上を振り切ったとき、苦しみを快楽へと書き直す変換プログラムが破れてしまい「刺激的で気持ち良い」と錯覚することはできなくなり・・・ッ、嫌になる。

こう考えてみますと、欲望ゆえに心が感じる状態は、「欲が実現してつまらなくなる」「欲ゆえに苦しいのだけれど心が快楽と錯覚する」「欲ゆえに苦しくてつらい」というパターンしかなく・・・ッ、 どちらにしても幸福にはなれないということがお分かりいただけましょう。これはもう、心の構造上、であります。

欲望が中途半端に実現しそうで実現しなさそうな、じらされた状態において生じる「中途半端な苦しみの刺激」でなければ、心は快楽へと変換することができず・・・ッ、ゆえに誰もが中途半端に苦しむ人間関係や、中途半端にじらされるやり取りや、中途半端に見えるようで見えない何か、という幻の虜になり・・・ッ、 中途半端な苦痛を喜び続けるのだぁぁぁぁーーーーーッ、がっびーッん。


第六百十三回

欲望は、「ウググ」・・・ッ。欲望は、実現するまでの間「まだ実現していない、ウググ」という苦しみを生じさせます。

この「ウググッ」をなんとかして消したいからこそ、人は走る、走る、走る。 ゆえに欲望が実現したとしても、それまでの間に「ウググ」を感じたぶんだけ誰しもストレスを受けるはめになっている、ということ。

あまりにもすぐに欲望が実現する場合には、「ウググ」がすぐに消えるがゆえに、自分が実は「ウググ」のストレスを感じているという事実に無自覚になりがちでありましょう。 こういっことは先日、「目隠しサクセス」でも述べました。

メイルを送ったらすぐに返事がかえってくるときなどには、自分が強い欲望を持っていたとしても、その欲望ゆえのストレスがすぐにもらえる返事によって解消するから、分かりにくい。

ところが、すぐに返事がこないとき、元々あった「まだ手に入っていない、うぐぐ、苦しいよーう」がハイライトされます。

欲望ゆえの苦しみがハイライトされるとき、その仕組みに無自覚的でありましたら、以下のようなもろもろの悪あがきに打って出てしまうことでしょう。

いっそのこと携帯電話の電源をOFFにして、待ち望む苦しみから逃れようとする、とか。

待ち疲れて自分からわざわざ「やっぱりお返事はいらないですから」などと再度の連絡をしてしまう、とか。

あるいはそもそも最初から「返事は別になくても良いですから」などと仕切りたくなってしまう理由にも、待ち望む欲望の苦しみから逃れようとしてという側面もあるように思われます。

これらは、無自覚的なりとも欲望の苦しさに対して対策を打とうとしているのです、けれどもいやはや、「こんなに苦しいならいっそイラナイもんッ」と、怒ってしまっている煩悩モードは、「慢」+「怒」。

欲望を、ムリヤリに「慢」+「怒」の煩悩によって抑圧しようとしているだけでありますから、欲望が抑圧されることにより屈折して性格を暗く変化させていきます。

「いらいないもんッ」と強がってクールに見せかけるのが流行っている昨今ですけれども、そのような「欲望のないフリ」ではなく、欲望そのものを見つめて流し去る「念」の爽快感をこそ、お勧め申し上げましょう。


第六百十二回

誰もがくだらないテストに夢中・・・ッ、自分には誰かに影響をおよぼすくらいの存在価値があるかどうかを確かめるテストに、脇目もふらずにネコまっしぐら。

なぜ、わざと「汝ってば、とても駄目な人間でまったく気が利かないよね」と攻撃して、ヘコませたくなるのでしょうか。なぜわざとメイルの返事を遅らせて、困らせたくなるのでしょうか。それによって相手が困ってくれるのをみると「自分にはこの人に苦しんでもらえるだけの重要性があるのであーッる」という幻覚が発生するからであります。そういう覚せい剤を服用して、自我のファンタジーワールドへ逃亡するためと申せましょう。

(いやはや残念ながら、困らせるつもりが相手が別に困ってくれなかったりもして。その場合は「キィィィーッ」、悔しさゆえに心がさらに混乱する、などという筋書きもあり得るでしょうけれども、ね。)

何はともあれ。イジメたり、ちょっと意地悪をしてみる。すると相手が困った顔をしたり、苦しそうな反応を示すでしょーう。この「相手が自分の影響ゆえに困ってくれている」ということ。それを認識いたしますと、慢=自己イメージの煩悩が刺激され・・・ッ、自分の存在感をしっかり確認することができるのであります。

これが、大切なはずの相手に「ついつい余計な意地悪を言いたくなる、したくなる」ということの本質ではないかと思われます。

視点を反転してみます。リストカットをはじめとした自傷行為は、仏道的に考えてみますと、一つは強烈な負の刺激によって「この刺激を感じている自分は確かにここに存在するぅぅぅううーーーーッ」という存在感を求めてのことだと申せます。そしてもう一つは、「誰かこの可哀想な私を認めて、助けて」という必死のメッセージを通じて、周囲の人々が困ったり、何とかしなきゃ、と焦ったりしてくれます、すなわち、周りに影響を与えることができる、ということが本質的なこと。

そう考えてみますと、「意地悪を言いたくなったりイジメたくなったりする」エネルギーと「自傷行為をしたくなる」エネルギーは、まったく同じものだということが分かることでしょう。外に向いているか、内に向いているかというだけで、どちらも必死に、自分の「影響力テスト」をしているのだと申せましょう。

何故、影響力テストをしたくなるのでしょうか。「自分は無価値でつまらない、生きている意味のない人間なのではないかしらん」という思考に、ひそかに急き立てられていますがゆえに。 自分でもその心のシステムを知らぬままに苦しみながら、影響力テストという覚せい剤を打って、幻覚の世界に飲み込まれてゆく・・・ッ、あいやー。

ですから、意地悪をする人もイジメる人も、とても惨めで可哀想な、覚せい剤中毒の病人のような存在。自分に意地悪をしてくる人は、そういう意味で「慢」という精神の病に苦しんでいるのですから、病人を看護して差し上げようというくらいの心持ちにて、柔らかく受け流してあげたいものです、ね。


第六百十一回

文章を消してしまいました。あいやー。


第六百十回

ふむーう。本当は高価なものが欲しいのに「お金を節約したい」という理由で、安いものを買う。 今の世の中には、そのような慳貪(ケチ)モードにもとづく風潮がはびこっている・・・ッ。

それは、「お金が減ること」に対して恐れる=怒るという、煩悩モード。ケチは、心が「怒」に染まっちゃうのです、よ。 お金をケチケチしながらも「本当はもっと良いものが買いたいのにぃぃぃーーーッ」と心の底では考えていますから、ひそかなストレスが発生します。

せっかく節約しても、このようにケチケチした悪業を積みますから心が歪み、けっきょく長い目でみれば大損をする仕組みなので皮肉なことと申せましょう。

のみならず・・・ッ、ケチケチと我慢をしたことについて、本当は「怒」モードで不満であるにもかかわらず、その苦しい現実を認めたくなきゆえ、自分に嘘までつきたくなりましょう。

「こんなに節約できて幸せ、幸せ」「この安いやつのほうがよく見ると可愛いから大好き」 これらもろもろもの、自分をだましてやせ我慢をする「ポジティブ・シンキング」は、貧乏くさいうえに、さらに悪業を積むはめになります。

すなわち、もちろん本当は苦しいのに「幸せだもんッ」と自分をだましますゆえ、心の情報処理回路が混乱して「無知」=「迷」の業を増やすのじゃよー。

ゆえにケチケチ節約なんかするより、仏道式の生活スタイルのほうを、自信をもってお勧め申し上げませーう。

坐禅のお稽古をつづけていますとやがて、自分にとって本当に必要なものと、単に頭の欲望を刺激するだけで不必要なものとが、直感的に判断できるようになってまいります。

むやみに世間の情報におどらされることが少なくなりますから、「欲しいもの」が減って、「必要なもの」を買うだけで済む感じになってきます。

「買いたいもの」の数が圧倒的に減りますゆえ、それを買うときは高価なものを購入しても、別にお金に困りません。 「欲しいもの」がとても少ないからこそ、「欲しいもの」はすべてストレートに手に入れることができてしまふ。

そして必要なものは、品質的にもデザイン的にも本当に気に入った、とても良質なものを金額なんて(あまり)気にせずに買えば良いのです。 こうして質の良いものが揃うので常に満足していられる、という幸福感。

・・・ところで先日クマのマークにつられて購入せる「マイヤーベアー」の全粒粉ライ麦100%パン。 今朝ほど食しましたところ、もっちりしていて甘みと酸味あり。小動物っぽい皆様に、お勧めです。


第六百九回

心は、光速にて次から次へと連鎖するうぅぅぅーーーーッ。

うえのパズルピースをご覧いただきましょう(図1)。わー、なんだか教科書みたいです、ね。

最初に「迷+欲」が生まれてから、欲が満たされぬことにより「怒」が連鎖し・・・ッ、その「怒」への「慢」=自分イメージが発生し、 それによりチクチク傷つき「怒」が発生しております。

この自動的連鎖反応が発生するのは、たったの1秒も経たぬ、心の超スピード情報処理の結果なのであります。

諸行無常とは、こういうこと、すなわち、現象はハイスピードで変化している。 もっのすごく、速いのです。それにたいして、観察するスピードが、あまりにもすっとろいのじゃよぉぉぉーーーーッ。

ゆえに、その心の流れをハッシとつかまえるには、強力な集中力と観察力をお稽古する必要があるのであります。

さて、イエデ式坐禅セッションの特徴あるいは醍醐味は、心の動きをすこぶる具体的かつ細密にとらえて削り落とすことと申せましょう。

適切に心を観察いたしますなら、1コマ目では、意識が混乱しさまよい始め、「今、目の前にはない怒りを観察したいのですわ。怒り、出て来ないかしらん」 と求める欲望が出て来ています。

したがって、この段階で即座に「迷・欲、迷・欲、迷、欲」などと念を撃ち込んで見つめましたら、連鎖反応がストップ。そこで一気にシャッキーッン、です。

しかしながら、多くの人はボンヤリしすぎ・・・ッ、自分がさまよい求めているのに気づかず・・・ッ、ボンヤリしている間に、「怒りを見つめたいのに出て来ませんことよッ」と、怒り始めます。 この場合ですと皮肉なことに、まさにこうして待ち望んでいた「怒」が出て来てくれているのですけれども、気づかない。あいやー。

でもまだ手遅れならず・・・ッ、ここで、「怒、怒、怒」と念を撃ち込んで見つめましたら、心の連鎖反応がストップいたします。

ん・んー。残念ながら、多くの人がイラッコイラッコした「怒」に夢中になるあまり、念じることをいたしません、よね。 するともちろん、心はさらに光速で連鎖します。

「あー、しまった、怒ってしまいけるかな」とか「あー、せっかく怒が出て来たのに、タイミングよく見つめることができざりけりッ」といった風合いに、 「しまった、思い通りにできない自分なんて」と、自己イメージ、慢の煩悩が刺激されますでせーう。

その瞬間に「慢、慢、慢」と念を撃ち込めますなら、ここでストップ。 しかしながら、あーあ。一瞬にしてほとんど誰もが「思い通りにできない自分なんて、あー、イヤイヤッ」と怒りはじめます、よね。

いや・・・ッ、まだ間に合ふよ、君、諦めたまふことなかれ・・・ッ。「慢による怒、慢による怒、慢による怒」などと念を撃ち込み、手放すのじゃよー。

ん・んー。こういった流れをつかまずに、ぼんやりと「怒、怒、怒」と言葉を空回りさせてみたところで、実状にフィットしていなければ、あまり効果はありません。 ゆえに心をコントロールするためには、のろのろ寝ぼけた精神力をお稽古して、諸行無常に追いつけるほど高速化する必要があると申せましょう。念ッ、定ッ、捨ッ。


第六百八回

半年くらい前のこと、執筆作業をお手伝いにいらしてくださったかたに、パスタを振る舞いました際のこと。 私はとんだ恥さらしをしにけり。

なぜか私は「フジッリ」という名のパスタのことを「スピネッリ」などと呼んでいて、先方は「?」という表情をしておられました。

フジッリというパスタは、くねくねと螺旋形になっていますから、英語ではスパイラルズと呼ぶらしい。

しかしながら・・・ッ、私の記憶の中では勝手にデータが改ざんされてしまったのであります。 恐らくは「パスタなのだからイタリヤ語に違いないのであーッる」という思い込みにもとづいて、"spirals"という英語を、 勝手にイタリヤ語っぽく変換するという。その名も、世界のどこにも存在せぬ"spinelli"、スピネッリ。

"spirals"の最初の部分をローマ字読みに勝手に変換して「スピ」。後半の「ネッリ」の部分で「フジッリ」の要素も少し取り入れることに成功・・・ッ。 このようにして、勝手にデータ同士を合成していた模様であります。

ポイントは、このデータ合成は、自分で意図的にしていたわけではない、ということ。 心の情報処理が混乱しやすくなっているのに従って、自動的にデータ合成をおこなってしまうのであります。

すなわち、データ同士が自動的に混合したり混乱したりしやすい、「迷=無知」の業が激しいほど、こういった現象はしょっちゅう起きてしまふぅぅぅぅぅうーーーッ、がーん。

多かれ少なかれ、ありとあらゆる記憶データに関して、誰もがこういったデータ改ざんや自動合成を、無意識的にしてしまっているのであります。 ゆえに哀しいかな、誰もが自分勝手な意見や思い込みをつくりあげてしまい、その思い込みの中に閉じこもってしまいますから、孤独、あーあ。

「自動的データ改ざん」ならびに、それを制御してストップする重要性につきましては、昨日七夕満月の坐禅セッションにおいて説法いたしました。 その説法、やがてテープ起こししていただけるかもしれぬのを、待ちませーう。


第六百七回

クマッコに、ファンレターが届きにけり。

「キュートな御容姿とアーチを描いたお口、お困りになった時等に発する「クマー」という鳴き声、常に片あしにお持ちの葉っぱ。そして対照的に汝、吾輩と高貴なお話し方をされるギャップが素敵です」

あっは、愉快なる褒め言葉に彼もきっと大喜び。しかしながら、だめ・・・ッ、クマッコをはじめとして、生きとし生けるものたちはあんまり褒められると、舞い上がって大混乱してしまふ・・・ッ。

さて。ワタクシは褒められてるッ、と感じた瞬間に通常であれば、強烈な刺激が入力されがちなものであります。 そしてその刺激にのみこまれてしまいますと、心も身体もすうかり混乱してしまいますゆえ、さまざまな失敗のもととなりましょう。

しかしながら、自分を褒める手紙やメイルが届いて舞い上がってしまいそうなとき、その「慢」にもとづいた舞い上がりが、どのような経路で生じたのかを洞察すれば、簡単にしずまります。

それが単に手紙やメイルの文字情報が「目」から入力されて、その刺激を情報処理した結果だよね、とは、ほとんど誰も洞察しないのですけれども。

仏道式に表現すると、眼という機能に物質がふれて「文字が見える」という現象が発生し、その現象にもとづいて発生する刺激を心が「楽受」(快楽)として情報処理し、さらにその刺激にむち打たれて心が「慢」+「混乱」の煩悩モードによる反応を示している、といった具合になりましょう。

それを略式に申しますなら、「なるほどー、文字が眼にふれることによる刺激に心が反応してるだけなんだなー」といった風合いとなりましょうか。 このように乾いた観察をいたしますと、心がしぜんに波立ちをスーッと手放しますゆえ、刺激のインプットに振り回されることから自由になれます。

裏を返しませう。このように、眼・耳・鼻・舌・身体・思考の六門を通じてインプットされた情報データにより心がチクチク刺激されてるだけだよね、という、「むき出しの事実」を見ていないときのみ、人は刺激に翻弄され混乱することができるのであります。

そして一言、皮肉を。ですから大混乱や大興奮をしたいのでしたら、刺激されてるに過ぎないという事実には見てみぬフリをして、真実を知らぬままに生きてゆくのが無難とも、申せましょう。 「クマッコの人気を、刺激とか言わない、言わない」


第六百六回

ね、どうして世界はこんなに腐ってるの?

おまえったら、なぜ勉強しないんだい?

どうして早くでかけないの?

生きてる意味って何だよーふ?

無意味かつ不毛なる疑問文・・・ッ、人は不愉快になったとき、むやみに疑問文を叫んでしまうように思われます。 もちろんその煩悩モードは、「怒」。

その「怒」の波動は質問された側にもズバっと届いて、聞かれた御方の中にある「怒」に引火いたしますでしょう。おやまあ、火事は延焼す・・・ッ。

(・・・「延焼」と記すために「えんしょう」と入力して一番目の変換候補がなぜか、「袁紹」という三国志の不人気キャラクター。「この入力変換装置、どうしていつも、こんなにヘンテコなのかしらん?」とか、疑問文ッ、疑問文ッ。 余談ながら、たとえば「にんげん」と入力すると一番目に「人減」って出るんですよ、ずぎゃぎゃー。)

以下は、この4コマを描くきっかけとなった御便りであります。
私は人からの質問にカリカリする事が多いのです。

ちょうど今朝外出中に携帯が鳴り、「もしもし」と出ると先方はまず「今どこにいる?」と聞き、「何時に戻るの?」とか「何やっているの?」など次々に私に質問を繰り返しイラッとした私は「何の用?」と更に質問で遮るというおかしな会話になりました。

先方も急ぎで調べて欲しい事があったのに、「何してんの!」的な感じで、私はさっさと用件を言ってよという感じ・・・・。

疑問という他人の「怒」にふれて、さらにこちらも「怒」で返すという様な・・・。一つリクエストなのですが、ぜひこの「疑問悪」について4コマを作って頂けませんか?
さて、イライラしている時、自分がイライラしているのを認めたくないでせーう?  ゆえに、「私はイライラしていますから可哀想でしょう、私を大事にして、私のためにちゃんとしてくださいなッ」 なんて素直には、決して言えはしないのです。

そのかわりに、せかせかした口調で相手を追いつめるような質問を発したくなってしまふ・・・ッ、 そして当然ながら相手に「怒」を伝染させちまいますゆえ、大事にしてもらえるどころかないがしろにされる、あいやー。

それにしても、相手の質問が必ずしも「怒」モードでないにもかかわらず、質問されただけで嫌にになることもあるでせーう。

質問がなんとなく嫌な理由の一例としては、答えることで自分のことを型にはめられる気がするから、かもしれません。

あるいは、自分の予定や居場所を確定されてしまうと、何となーく自分のプライベートを犯されるような気がするから、かもしれません。

いずれにせよ、「自分ッ」の特別感の中に隠れていたいのに引きずり出される感じに対して「ぶ、無礼なッ」という反応が生じるのですよ、ね。

質問から隠れたくって仕様がない煩悩モードは、特別感の「慢」が邪魔されたことにいらだち、他人様を排除しようとする「怒」。

「慢」や「怒」になんてバイバイをして、隠れずともよくなるほどの風通しのよさを身につけてまいりませーう。


第六百五回

私はかつて、とにかく何もかもがむしゃくしゃして、そのむしゃくしゃをごまかすために笑いたくて笑いたくて、ふざけたくってふざけたくって、我慢できなかっ た・・・ッ、うぐぐぐぐ。

現実のことを受け入れられなかったり、目の前のストレスから目をそらしたかったりで「怒」の煩悩モードが強くなってきた場合、現実逃避のために笑いやフザケることは、まさに最適のツールと申せましょう。

ひるがえって現代社会を見渡してみますに、「お笑い芸人」の地位が急激に高まり・・・ッ、誰もが笑いころげたがっている・・・ッ、それはすなわち、誰もが現実ギライになり、逃げたがっていることの証左でありましょう。

月読寺子屋でさきほど答えた相談では、真面目すぎる性格の原因には「怒」の業があると申しましたけれども、「怒」が別方向に向かった場合は、むやみに笑いを求めたりふざけたりルールを破ったりする悪漢タイプになるのであーッる。

さて、サンプルエピソードを提供いたしませーう。私は小学生のときから、とにかく四六時中ヘンテコなことを言ってふざけたり、他人様に迷惑をかけるようなちょっかいを出してばかりの子供でありました。いつもいつも先生に怒られており「またコイケかーあ」という、S先生のセリフが、クラスメートに口真似されるくらいの有り様なりけり。

子供時代定番だったおフザケで一つ想い出されますのは、見知らぬ他人に向かって「ぎゃー、お化けーッ」と言って振り向かせ、「きゃー、お化けが振り向いたー」と言って逃げる。とか。

小学六年生のとき、こんなことを作文に書きました。「僕の今年の目標は、授業中にクラスでフザケてしまい、授業の邪魔をしないことです。でもたぶん、いつものように結局フザケて皆に迷惑をかけるような気がします。それでも、できるだけ頑張ってみんなの邪魔をしないようにしたいと思います」

がびーん。私は、自分自身が「ついついフザケてしまう」のを止めようとしても止められないことに、ある種の絶望をしていました。

大学に入ったころには、このフザケ癖はもはやビョーキ、といった勢いになりにける哉。買ったくだものを持って、渋谷の道行く人に「御願いしますッ、この果物を、この果物を食べてくださいッ、これを食べてくれないとお母さんが死んでしまうんです」と言ってまわったり。実際面白がって食べてくれる人もいましたけれども、多くの人はおびえていたことであります。

あるいは人々をからかうために「この町に、動物園を内部に収納したスターバックスがあると聞いたのですが、どこにあるか知りませんか?」と聞いてまわったり。真面目な人は可哀想に「うーん、普通のスターバックスならそこにあるんだけど・・・、動物園が中にあるっていうのは分からないなあ」などと真剣に考えてくれたりして。悪いことをしつることなり。当時はこんな無茶苦茶をしながら、「常識をくつがえす高尚な遊び」をしているつもりだったのですから、手に負えぬッ。

フザケるのは、刺激的であるからこそ、ひどく苦しいものでもありました。私は、このフザケ癖は持って生まれたものでありおそらく一生治らないに違いないッ、と決めつけていました。

けれども、仏道修行をはじめて「怒」の業を取り除いていく途上で、あるときフト、「おやおや? 全然フザけたくならないやー」という自らを見いだしていたのでした。わーお、人って業が変われば、変われるものなんです、ね、と目から鱗が落ちにけり。

今でも、いくらかフザける習性が残留してはいますけれども、昔とくらべると遥かに穏やか低刺激なフザケかたになりました、とさ。

性格は、業により作られるものと見つけたり。


第六百四回

ありとあらゆる刺激のなかで、もっとも強烈な刺激となるのは、「自我」にまつわる刺激と申せましょう。

そしてウェブ上に公開された日記の中には「自我」がたっぷり詰まっていますから、それにまつわり、たくさんの刺激が発生することでせーう。

公開した日記に対して「コメント」や「トラックバック」をもらえるということは、おそろしく自我を刺激して、ビリビリビリーッ、確かに自分はここに存在するッ、自分には存在意義があるのじゃよー、という印象操作が生じるのであります。

こういった自我への刺激をインプットしたくなる欲望がパターン化しはじめると、泥沼化することは誰もが知っているとおりです。 「コメントをくれない友人に対して怒りがわいてくる」ですとか「友人が自分の日記をちゃんと読んでくれているかどうかチェックしたくなる」といった心理現象については、つとに報告されていますし、ね。

つまり、「自分ッ」をビリビリさせる刺激を無自覚的に浴び続けますと実際は、少しずつ人格を歪ませてゆくということが知られましょう。 もちろん、その煩悩モードは、「慢」。

その煩悩モードの度合いが強まるにしたがって、自らを醜くする思考におちいってしまうことでしょう。 「汝は自分に興味を持っている義務があるのであーッる、したがって『クマッコ日記』をちゃんとチェックし、クマッコの予定を把握しているべきであーッる」と。

青二才ッ、青二才ッ、青二才ぃぃぃぃいいいーーーッ、そんなナンセンスなる義務が、相手にあるわけがありますまい。

ところで前々回の坐禅セッションでは、何かを選ぶさいにそれが「心配事を増やすのか/減らすのか」ということを観察する重要性を説法いたしました。

その観点から申しますと、クマッコにとって「クマッコ日記」を書くことは、明らかに心配材料を激しく増加させることになっていることが分かりましょう。

「この日記、ちゃんと見てもらえてるのでせうか、もし見てもらえてなかったら苦しいよー、うぐぐぐ」という潜在的なストレスが常にある、ということ。

すなわち、情報を発信しようとするたびに「慢」ゆえに苦しみの刺激が走り続けるのであります。 その「慢」ゆえに「あ、この子は見てくれてないッ」と分かった瞬間に始まる煩悩モードは、「怒」。

あいにく日記やウェブログを発信する人の多くが、このような「怒」のストレスに押しつぶされてしまいますゆえに、途中で投げ出す道をたどります、よね。

世の中には「情報発信をすべきであーッる」という風潮が高まっていますけれども、これは世の人々に心配事を増やして狂わせてゆく風潮のようにも思われるのでありました、とさ。

発信するなら「慢」の煩悩を離れ、コメントだのトラックバックだの足跡だのは無視して、突き進まなければなりません。 その勇気がないなら、最初から発信などしないのが無難と申せましょう。


第六百三回

過剰なる「好きッ、好きッ」のドキドキ感。その正体は不安の「怒」と見つけたり。

すなわち、「あの人のこと好きだけれど、あの人は私のことをあんまり好きじゃないかもしれないし、私から離れていっちゃうかも」 という不安感があるとき、私たちは不安ないし寂しさを感じます。その不安が不快物質を生じさせ、胸を緊張させドキドキさせるのであります。

そこには明らかに不快感の刺激が発生しておりますのに、その刺激を入力された頭が「し・・・ッ、刺激がたくさん入ってきて気持良いのじゃよぉぉぉぉおーーーッ」とばかりに、「苦」の刺激を情報処理し「快楽」という幻想へと編集し直してしまうのが、恐ろしきことなり。

脳により快楽へと編集される前の、ドキドキ感の正体は、「嫌われたら嫌だよーう、うえーん」という「怒」の業にほかなりません。

つまるところ、夜も眠れなくなり仕事も手につかなくなるような恋のドキドキは、単に怒っているだけなのであーッる、な・・・、なにぃぃぃぃーーーッ。

さて、私たちは業に駆られてしまうとき「私が君を好きになる」よりも「君が私を好きになり愛してほしい」という欲望に呪縛されてしまいがちであります。 すなわち、相手に自分を「追わせたい」と。

そのためには、相手を不安にさせるのが一番手っ取り早い方法であるということを、誰もが直感的に知っているのではないでしょうか。 つまり、相手を寂しくさせれば追いかけてきてくれるのではないか、と。

自分からは誘わない、自分からはメイルも電話もしない、プレゼントをしない、優しい言葉をかけない、えとせとらえとせとら。 こういったことを続けますと、相手の目・耳・鼻・舌・身体・意識の六つの回路に「愛されている」という実感を得ることのできる情報が入らなくなりましょうゆえ、 寂しくなり、不安にもなるものであります。

そして恐らくは、結果として「追わせる」ということに成功することも叶います。 しかしながら、そのようにして相手を罠にかけることにより、まずは自分自身の心がズタズタに醜悪なものになり、ハッピーでなくなります。すさむのです、ガタピシッ、ガタピシッ、と。

しかも・・・ッ、そうやって相手をドキドキさせて「追いたいよーう、うえーん」と駆り立てております正体は、あくまでも不安という名の「怒」。

ゆえに相手は、本人も知らぬうちに「怒」の業をふやしたあげく、やがて後ほど、手痛い仕返しをしたくなる定め・・・ッ。 そのため、追いかけるのに疲れた(つまり追いかけることでプライドがズタズタになった)時点で、急に「やっぱりこんなの止ーめた」という気分になったりもいたします。

そして形勢逆転、さらに関係はもつれゆくぅぅぅぅううーーーッ。いやはやこんなのさあ、虚しいだけ、だよね。


第六百二回

4コマ目、コムスメさんの台詞は、以下のように差し替えてくださっても構いません。 「『このていどのカフェをとても素敵と仰せになるなんて、あんまりセンスない御方ですこと』と思われたくありませんのね」

言えなくなる・・・ッ、あんまり慢=プライドの煩悩が溜まりすぎますと、素直に「ここが好きなカフェなんだよねー」とすら言えなくなるのであります。

好きなお店に連れて行って、もしも相手に気に入ってもらえなかったとき「なーんだ、この人がすごく素敵だと思うお店って、この程度のものなんだー」と思われるのでは・・・ッ、そのように、無意識的に勘ぐってしまうことでしょう。

「そんなに素敵じゃないかもしれないけど」などと言っておいたほうが、無難なのではないかしらん、なんて先読みをしてしまうのであります。

単に店について紹介するだけすら「この店を素敵だと言っている自分ッ」を意識しちまい、素直にほめられなくなっているとしたら心はすでにガンジガラメでは、ありませんか。 その素直じゃなさが蓄積すると、少しずつ心がむしばまれ自らの魅力を台無しにするぅぅぅぅううーーーッ。

・・・となりまち、経堂の商店街を自転車で散策しておりましたら「cura2」という名前の白いカフェを見つけました。 中に入ってみますと、縦長の空間のあちらこちらに、机と椅子が壁際に向かっておかれています。

奥には四人がけの机とソファの席もありますけれども、壁に向かってすわる席がほとんどです。 二人ですわる場合も、壁に向かって隣合わせにすわることとなるような、そういう席。

私は「落ち着いて、壁に向かってちょこんとすわる席」にちょっとした憧れがあり、自分がカフェを営んでおりました頃に実現したかったものの、叶いませんでした。

そしてたまたま、私が入ったその日は、「壁に向かってちょこんとすわる席」にすわっている人たちが、みんな書き物をしているか、本を読んでいました。 誰かに手紙を書いている人、ノートに何かを書いている人、隣同士それぞれ何か書いているカップル。私もまた原稿用紙を持ちこんで、原稿を書いていました。

静けさがあって、みんな似たようなことをしながら緩やかに場所を共有していて、何だか愉快な具合でありました。

むろん、別の日にいってみたら、全然ちがう雰囲気ということもあるのでしょう。ともあれ良いお店です。 その隣には、「ハルカゼ舎」という可愛げなる文房具屋さんがあり、そこで買った文具を持ち込んで、誰かに手紙を書くのにも最適かもしれません。


第六百一回

(第585回目「温度差ポイ捨てッ子」と類似テーマ)

何かを一緒にやろうとするとき誰もが好むのは、「自分がやりたい」と言うかわりに、「君がそんなにやりたいんだったら、付き合ってあげるよ」という偉そうな態度・・・ッ。

ゆえに、相手があまり乗り気でなかった場合に、自分でも理解できぬような「怒」がわきあがってきてしまうことでしょう。 「率先するのは自分、相手はつきあってくれてる」。 この姿勢でありますと、自分がやりたいことに、相手につきあってくれとすがっているみたいで、慢=プライド煩悩がうずくのであります。

すると「ちぇっちぇっ、いっそのこと、止めにしない?」と言いたくもなりましょう。 しかもそのとき、ひそかに期待しているのは相手が「どうして? せっかくここまで来たんだしやろうよ」と引き止めてくれること、ではないでしょうか。

すると「やれやれ、もう別に自分はやりたいって思ってないんだけれど、君がそこまで言うんならやってもいいかもね」なんて態度でふんぞり返ることができる、ではありませんか。

どのような種類のことであれ、人が「やっぱやめよっか」と口にするとき、このような煩悩回路に操られているように思われるのであります。

恋愛においてしょっちゅう「別れよっか」ばかり口にしつつ引き止めてもらうのを期待しちまうのも、この「慢」の回路ゆえと申せましょう。

ふむー、では、鼻持ちならぬ「慢」の煩悩回路はどのようにして、私たちを操っているのでせーう?

「自分が求めて付き合ってもらっている印象」では、相手に求めてもらえてる感じもしないし、愛情をかけられている実感が得られぬでしょう。 ゆえに、「自分が求めてるんじゃなくって、相手が求めてきている」という形にすることによって、「求められてるッ、必要とされてるッ、愛されてるッ」と実感することができるのであります。

すなわち、愛情に飢えてる人ほど、「求められてるッ」の実感に飢えてしまうこととなる。それゆえ無意識的に「やっぱやめよっか」的な暴言を吐いてしまったり、「追うより追われる側」に回ろうと策略をあれこれ考えたりすることでしょう。

現代人は男子も女子もあまりにも脆弱にして愛に飢えていますがゆえに、「愛され求められること」を求めて「慢」の業を積むばかりにて、他人に優しくする能力をどんどん欠如させているように思われます。

しかしながら、あいやー残念、プライドごっこの「慢」煩悩は、相手を混乱させ苛立たせますから、たいていは「求めて愛して必要としてもらえる」どころか、関係をギクシャクさせちまいます、要注意。


第六百回

寂しさ・・・ッ、それは巧妙に祭り上げられ、美化される・・・ッ。このたびは、その化けの皮を、はいでみませーう。

「いつも口を開いたら文句ばかり言ういやな人だったけれども、亡くなってみるとしんみりするねえ」

「お隣さんが喧嘩する声がうるさくてうるさくて仕事の邪魔だったのに、引っ越していなくなってみると、なんだか寂しいみたい」

「すごく性格もあわなくって、暴力ふるわれてウンザリだったはずなのに、あの人からやっと離れて優しい人と一緒になったら物足りないみたい」

こういった、もろもろの「寂しさ」はしばしば、国語の教科書などで取り上げられる文章の中に入っていたりするものです。 たとえばその「嫌な人」を「ぽっくり爺と呼ばれて煙たがられていた、哀愁漂う中年男性」などとしてみると、いかにも国語の教科書っぽくなりはいたしますまいか。

「僕は、ぽっくり爺が本当は好きだったのだということに気づいて、もう時間の歯車を巻き戻せないことに首をうなだれるのでした」なんて、ね。

その「しんみり」した感じが文学的でしょッ、一緒にホロリとしてください、と言わんばかり。 お・・・ッ、愚か者ォォォォーーーッ、そのようなコドモ騙しには、引っかかりませんよーだ。

背景を解析いたしましょう。 その人から情報がインプットされるたびに、「いやだな、いやだな」という「怒」の煩悩刺激が、繰り返し心に刻み込まれて来たことでしょう。 そのつど心は、刺激のエネルギー増幅のチャンスとばかりに執着し、その刺激的な情報を深く刻み込んでしまうのであります。

定期的に、同じ情報発信源からのインプットに対して、同じような「怒」の反応を繰り返しておりますと、癖になり条件づけられてしまいます。 そうやって条件づけられた後になってから、嫌な情報を与えてくれる張本人がいなくなってしまいますと、刺激を与えてもらえなくなり心が焦るのであります。 「ああ・・・、このままだと刺激がなくなってしまうのではないかしらん」と。

しかしながら、刺激はカンタンにはなくなりません。 「刺激がなくなってしまうのでは」を背景にしつつ「あの人がいなくなって寂しいな」と悲しがるとき、その寂しさ=「怒」が再び心を刺激して、たっぷりカルマのエネルギーを生産いたしますゆえに。

このような寂しさのトリックにはまらぬよう、心を調律していることといたしませーう。 そして、だからこそ、「寂しいナ」なんて無責任に言っていても、実際にその相手たる張本人が再び目の前にあらわれたら、「やっぱり嫌ぁぁぁああーッ」となるのがオチなのであります。



第五百九十九回

ううう、この4コマにエッセイをつけるのも、メンドクサイかもしれぬのじゃよー。

本当は、どんなことを行うにしても厳密に観察いたしますと「苦」はそこにあります。そして「苦」ゆえに「メンドクサイ」のです、本当は。

本当は、仕事をするのもメンドクサイ、歯を磨くのもメンドクサイ、歩くのもメンドクサイ、髪をとくのもメンドクサイ、接吻するのもメンドクサイ、メイルをするのもメンドクサイ、寝るのもメンドクサイ。な・・・ッ、何ィィィーーッ。

寝ている状態から起き上がるのが何故、できないのでせうか。 「寝ている」ことよりも、「起きて仕事に取りかかる」ほうがメンドクサイ、からであります。(寝苦<起苦)

しかしながら、寝ているのをずっと続けていますと、寝ていることによる刺激が蓄積していき、やがてその苦痛は耐えがたいものになってゆくことでしょう。 身体も痛くなってくるうえに、寝ているだけなんてツマラナイと思考の中でイライラすることによっても、強烈な刺激が発生するのですから。

そしてやがて、「寝ている」ことのメンドクササのほうが「仕事に取りかかる」ことのメンドクササよりも更にストレスフルなものになったとき、私たちは寝ていられなくなり起き上がるのです。(寝苦>起苦)

どのような現象であっても、眼・耳・鼻・舌・触感・思考の六つの回路を通じて入ってくる刺激は、神経レベルでは痛みの信号でしかありません。 ゆえに全ての情報インプットは苦痛であり、潜在的にはメンドクサイのであります、誰もがぼんやりしていて気づいていないだけで。

そのようにインプットされる痛みの信号を組み合わせて、「愚痴を発散するのは気持ち良い」「怒るのは爽快であーッる」「褒められるのは快感であることよ」「サボっているのは楽ですわ」などと脳内で変換してしまっているだけ、のこと。

しかしながら、ずーっと同じ刺激を入れ続けて蓄積いたしますと、ついには変換がきかなくなり、ごまかしきれなくなってしまい、本来の「苦」=「メンドクササ」が露呈するのであります。 つまり、そのとき本当は「苦」なものを「楽」だと変換できなくなり、自分を騙せなくなるのであります。

坐禅セッション(中級編)において私が重視している「苦の観察」とはすなわち、情報が六つの回路を通じてインプットされてくる瞬間に発生している「苦」の信号を、厳密に意識化する能力をつちかうことを目的にしています。

それにより、本当は「苦」なものを「気持良いィィィィーッ」という幻覚に変換するプログラムが停止してゆく。 すると、「苦」を快楽だと勘違いして蓄積してしまう前に、初期段階で「やーめた」と手放すことも叶いましょう。

苦の信号がインプットされてくる仕組みを理解してはじめて、これ以上「苦」を増やさずに減らしてゆきませーう、という方向へ歩んでゆくことも叶うのであります。 すなわち、「苦」=「メンドクサイ」を減らしてゆく道ゆきこそ、仏道とぞ見つけたる。


第五百九十八回

コミュニケーションとは常に、お互いに眼・耳・鼻・舌・身・意の「六門」に刺激を与えあうことではないでしょうか。

そして刺激には「苦」「快」「苦でも快でもない中性」の三種類しか存在いたしません。

さて、ときとして私たちは愚かにも、目の前にいる相手を不機嫌そうにさせてしまうでせーう。 しかしながらなぜ、その御方は「不機嫌」=「怒」の反応をしているのでしょうか。

答えは、いたってシンプル。私たちが、相手に「苦」の刺激を与えてしまったからに決まっています。 そして相手を「苦はイヤだよーぅッ」と反発させてしまっているのであります。

私たちの表情が、仕草が、相手の視神経を刺激して「苦」を与える。 その声のトーンが、相手の聴覚を刺激して「苦」を。 身体から発散される香りが。味は・・・、んー、接吻をしたときの味や、料理を作ってあげたとき。 触れるときは、さまざまなる触覚の刺激。

そしてとりわけ、私たちが心の中で「欲」や「怒」といった負の感情をつくった瞬間にそれは相手に伝わり、相手の思考をチクチクと刺激し続けているのであります。

ですから、「あー、今、自分はこの人に刺激を与えているんだなー」という自覚を持ちつつ、できれば「苦」の刺激を与えぬようにいたわってあげる優しさを持ちたいもの、ではありませぬか。


第五百九十七回

ちょっと深刻な話題が続きましたので、続きに進む前に一服いたしませう。

高校時代の想い出について短い文章を寄稿したのがきっかけで、かつての自分自身のコミュニケーション方法について回想いたしました。

想い出されますのは、高校在学当時の私は、自分を低めて謙遜するフリをしながら、延々と自分の話を他人に聞かせようとするパターンに陥っておりました。

相手の話題に相槌を打つさいには、相手を褒めつつ「自分なんて」という話をしてしまう・・・ッ。 「葉っぱを使いこなせるなんてすごいですね、私なんて、からっきし苦手で、ぺちゃくちゃ」といった風味に。

相手の話を受けているのは最初の「すごいですね」のところだけで、後はすべて自分自身の話になってしまうのであります。 「劣等感」=「慢」の煩悩という刺激を心に与えて、「ビリビリビリッ、気持良いィィィーーッ」と、酔っぱらってしまう不粋さ。

もちろん相手は、「がッびーん、せっかく話しているのに汝の話にすりかえられてしまい最後まで話せざりけり」というガッカリ感を味わうことでしょう。

表面的な意識では謙遜しているつもり・・・ッ、しかし「謙遜」という綺麗ごとにより隠されているのは「自分は劣っているッ」という負の快楽なのであります。 「謙遜してあげてるんだから汝は興味深く聞くべきであーッる」などと、狂気の沙汰なる思考に、はまっちまわぬよう、気をつけませーう。

他人の話題を自分の劣等感に結びつけて話題をすりかえますのは、「盗み」のようなもの、泥棒ッ、泥棒ッ、ええ、そういう不粋なことは極力やめたいものです、よね。


第五百九十六回

前回の続きです。

さて、私たちは精神が不安定な度合いに応じて、誰かから大切にして欲しい、と思っています。 ゆえに仕事の同僚から、ちょっとぞんざいな批判のされかたをする程度のことで、傷つくのです。 「がっびーん、もっと丁寧に注意してくれても良いはずなのに、このワタクシが、大切にされてないよーッ」と。

しかしながら「誰かから」=「皆から」大切にしてもらいたい、という願望は、叶うわけがありません。それは、あるていど、大人になる途上で誰もが(中途半端に、ではありますけれども)諦めるのであります。

ところが、私たちは恋人という特別な「一人」にだけは、期待してしまう・・・ッ。 この人だけは、私を決定的に大切に、かけがえのない存在として特別扱いしてくれるのではないか、と。 そして私の無力感を消し去ってくれるのではないか、と。

それは、恋愛は「相手を特別な存在として体感する(そして自分を特別な存在として体感してもらう)」という、他にはない精神モードであることと関わっているように思われます。 それについては、恋愛本の中で詳しく考察しましたから、ここでは省略いたします。

ここで発生する大問題は、「大事に特別扱いされてルッ」と実感して自らの無力感を消し去るためには、何が必要なのか、ということ。 そのためにヒントになりますのは、私たちが恋人に何かを要求=期待するとき、欲しているものは「相手がしてくれていないこと」ということであります、当たり前のようですけれども。

相手が「できればやりたくないな」と思っているからこそ、それをやってくれないのです。 そして私たちは、相手が「できればやりたくないな」と思っていることを不満に思うからこそ、「それを、私にしてほしいッ」と考えるでせーう。

なぜに、かような無理を言いたくなるのでしょうか。 だって、無理を聞き入れてくれればくれるほど、大事に特別扱いされている感が増すッ。しかもその無理が激しいものであり相手に負担が大きいほどに。 当たり前のことや簡単にできてしまうことをやってくれていても、本当に自分のことを思ってくれているかどうか、実感しにくいでせーう。

「負担があるにもかかわらずやってくれてる」→「すなわち、私のことをかけがえなく思ってくれてルッ」という思考回路。 この呪縛に負けてしまうと、私たちはどんどん我が侭になり、すさんでゆく・・・ッ、そして相手が聖人君子でもない限り、それに応えるのは不可能・・・ッ。

それがエスカレートしてゆきますと、私たちは、相手が持っている「一番大切なもの」を捨てさせたくなりは、いたしませんでしょうか。 「一番大切なもの」を捨ててでも、私のことを「一番大切に」特別扱いすべきであーッる、と。

「時の流れと空の色に/何も望みはしないように/素顔で泣いて笑う/君のそのままを愛してるゆえに/私は君のメロディや/その哲学や言葉すべてを/守り通します/君がそこに生きてるという真実だけで/幸福なんです」 このように、若かった頃の椎名林檎が名曲『幸福論』で歌っております。

恋しき人から「君が生きてるという真実だけで幸福なんです」なーんていう言葉をかけてもらいたいでせーう、ブラボー、ブラボー。が、皮肉なことに、「愛情をかけてほしいよーッ」と思っている時点で、愛情が足りないという「不幸」の中にズブズブと沈んでゆくのであります。

最重要ポイントは、椎名林檎の歌詞は、「私は」「君がそこにいるという真実だけで幸福」なのであって、「君が、私がここにいるというだけで幸福だと感じて私を大切にすべきであーッる」ではない、という点に注目しなければなりません。 幸福とは、「私が」の牢獄を脱出して「君が」に反転したときにしか、得られぬもの。


第五百九十五回

「自分は特別な存在だもん」という幻覚を味わいたい・・・ッ、慢の煩悩、それに私たちは中毒になっているのであーッる。

子供のころを想い出してみますと、「あの先生はひいきするから、嫌い」という定番のセリフがありました。 先生が誰かのことをひいきしようものなら、まるで鬼の首でも取ったかのように「ひいきッ、ひいきッ」と批判してみせたり。

私も例に漏れず、「ひいきなんて、許せないッ」という心情になっていたものです。 しかしながら改めて考えてみますと、ひいきされるのが自分だった場合は嬉しくなってしまい、「ひいきするから、嫌い」とはならないのでした。

実際は、誰もが自分だけ特別扱いされたがっている・・・ッ、すなわち、「ひいき」されたがっているのではないでしょうか。 それを裏返したのが、「(自分ではなく)他人がひいきされている」ことに対する苛立ちと申せましょう。

子供のころの閉じた集団の中では、残念ながら「ひいきしてもらえる人」はごく少数に限られており、したがって私たちはたいてい、「ひいきしてもらえない大多数」の側にまわる羽目に陥ります。

「本当はひいきしてもらいたいのに、ひいきしてもらえない」と考えるのは悔しいですから、「そもそもひいきは良くない」と歪んだ思考をするようになるのではないでしょうか。

本当は、いかに誰もが「ひいき」して「特別扱い」をしてもらいたがっていることか・・・ッ。

子供のころからまともに「ひいき」も「特別扱い」もしてもらった実感がないという惨めな記憶がうずくからこそ、「特別感」を求めるのでありましょう。 それゆえにこそ、このつまらない世界においていろいろな商品が陳腐化してゆくなかで、「特別扱い」が最後の高級商品として残るのであります。

「あの人は周りの人にはツンツンしているのに、私の前でだけは優しくしてくれる」という特別感。

「他の人には言えない悩みを、自分にだけは話してくれる」という特別感。

「自分のためにだけ、特別に仕事を早く切り上げてかえってきてくれた」という特別感。

「本当は映画なんて嫌いなはずなのに、自分のために映画につきあってくれてる」という特別感。

「本当は電話が嫌いなはずなのに、自分のために電話で話してくれる」という特別感。

するとだんだん、私たちは我が侭になってゆく・・・ッ。これを「特別欲」とでも名付けるといたしますなら、その正体を次回はめくってみることといたしませーう。


第五百九十四回

「褒めるのが人間関係の基本ッ」とか「人は褒められて育つんだヨッ」などという、インチキくさーい言説が、世の中にはたくさん出回っています。

しかしながらそれらが言っているのを裏読みいたしますなら、以下のようなニュアンスにならないでしょうか。「本当は褒めたいと思っていなくても、良いところを探して多少の嘘はあっても良いから褒めておきたまへ。そうすれば、相手を支配できるのじゃよー」

そういった欲求に操られてしまいますとき私たちは、本気で褒めるつもりもありませんのに、むやみに褒めるということをしてしまいがち、なのであります。しかしながら、そうやって「ついつい」褒めてしまいますとき、私たちの心の中には、自分勝手な欲求しか存在いたしません。

「褒めることで、相手に気に入られたい(恋愛等)」「褒めることで、相手を自分が思う方向へと支配/操作したい(子育て・職場教育等)」といったようなことです。

これらの欲求の中には、「褒められた相手が嬉しくなって、褒められたことについて細かな説明をしたくなっちゃうのを、興味深く聞いてみとうございます」という気持ちは、含まれていないことが、ほとんどのように思われます。

つまり、ただ単に褒めて操作したいだけ・・・ッ。私たちが褒められて慢の煩悩につられて長々とした自慢話をはじめてしまいますなら、相手は途端にしらけてしまい、もはや、まともに聞いちゃいなィィイーーーッ。

いえ、「褒めたい」という気持ちが何%かなりとも本気である度合いに応じて、途中まではちゃんと自慢話も興味深く聞いてくれるかもしれません。しかしながら、せめて相手を苦しませないていどに、短く、要点を得た自慢話にとどめたいものではありませぬか。


第五百九十三回

過日のこと、カフェでお茶をしておりましたら、隣にすわっていた恋人同士が驚愕の会話を繰り広げておりました。 大まかに再現いたしますと、こんな感じであります。 (もう少し言葉遣いが汚かったと思うのですけれども、ほどほどに修正してあります。)

「このスパークリングなんとか、すごく美味しいね。『これ頼もうよ』って言ったの、俺だからね」

「はー? でも、この店に入ろうって言ったのは、あたしだし」

「何言ってんの。この店に入ってても、俺の思いつきでこれ頼んでなかったら、これは飲めなかったわけさ。 それくらい感謝できないのかよッ」

「でもこの店に入りたくなさそうだったじゃん。この店に入ってなかったら頼めなかったでしょ」

な、なにぃぃぃーッ。 なんと、「スパークリングなんとか」が美味しいことについて、それがどちらの手柄であるかを口論しているッ。

男性のほうは、自分がその飲み物を頼んだ手柄を認めてもらいたがり、相手に感謝させようとする。女性のほうはそれを拒否しつつ、そもそも店を選んだ手柄は自分にあるッ、という主張を繰り返していたのであります。 そしてそれは、やがて喧嘩へとつながっていったのでありました。

これは笑い話にできそうにも見えて、実際は他人事ではありません。 私たちはしばしば、ものごとがうまくいったときは「ワタクシのおかげであーッる、ねえ、認めてよッ、褒めてよッ」 という醜い心になりがちだからです。

そしてまた反対に、何かがうまくいかなかったときは「ワタクシのせいではなく、汝のせいであーッる」ということに。

一緒に観た映画がつまらなかったり、一緒に旅行に出かけてつまらなかったりいたしましたら途端に、犯人を探し始めるでせーう?  「このつまらない映画に行こうって言い出したのは誰ですか・・・、私ではなく汝なのじゃよー」と。 それをアピールするかのごとく「だからワタクシは行きたくなかったんだよね」などと言い出す始末ッ。

「手柄は自分のものであって欲しいッ」「失敗は相手のものであって欲しいッ」。 これが、私たちにインストールされた慢の煩悩ゆえの思考回路であり、その思考回路ゆえに二人の関係は引き裂かれてゆく。


第五百九十ニ回

私たちには「このワタクシに対して、何度も同じことを話すなんて許さぬッ」という攻撃的プログラムが埋め込まれているように思われます。

それゆえに単に気分が悪くなるのみならず、余計な一言まで付け加えることにもなりましょう。 「それはさっきも聞いたけど」「ああ、確かに。前にも聞いた気がするけどね」などと、心の狭い一言を、です。

その背景にあるのは、次のような思考回路と申せましょう。 「この人は、相手は誰でもいいから聞かせたいだけに違いないことですわッ。 だって、このワタクシに対して話したということを覚えていないから、繰り返せるのですもの。 このワタクシが・・・、この高貴なるワタクシが・・・ッ、ないがしろにされているぅぅぅーッ」

こういった脳内自慰が一瞬にしてはじまるがゆえに、私たちは自我の牢獄に閉じ込められて相手の話を素直に聞けなくなるのであります。

自我の牢獄内で自慰行為にふけるよりも、何故に相手が同じことを繰り返してしまうかを冷静に洞察するほうが賢明と申せましょう。

強い煩悩の力によってその御方の心に染み付いた情報は、その人の意志には関わりなく、繰り返し心の中で反復されるのであります。

たとえば「ブランド物に頼るなんて愚か者であーる」ということを批判的な怒りの煩悩とともに口にすると、それが心に染み付いて、あとは自動的に回転しつづけます。

心の奥底で「愚か者であーる、愚か者であーる、・・・者であーる、・・・であーる」と回転しつづけている状況ですから、「ブランド」に関係する単語や物を見たり聞いたりしただけで、自動的にスイッチが入って、それが口をついて出てしまうといった寸法。

無知=迷いの業をたくさん溜めていますほどに、心の奥底でこういった「・・・であーる、・・・であーる、・・・であーる」が回転する分量が増え・・・ッ、 ついつい同じ人の前で同じことを繰り返し続けることになります。

しかしながら、そこに悪気はこれっぽっちも、なし。同じことを繰り返す人ほど、無知の業に振り回され自動的プログラムに飲み込まれている悲惨な生命体なのですから、怒るよりもいたわって差し上げませーう。


第五百九十一回

「あなたのこと、諦めにけり」などをはじめとして、わざわざ肩肘をはって相手に「宣言」してみせますとき、そこにはいつだって嘘が含まれるように思われます。

なぜ、わざわざ言葉にする必要があるのでせーう。それは、その言葉を相手が真に受けて、「諦められたくないよーッ」と焦ってくれることを願っているがゆえのことであります。

つまり、まったく諦めてなどいない・・・ッ。本当は諦めていませんのに、言っている本人ですら「もう諦めたもんねッ」というつもりでいるのが、通常でありましょう。 本人も知らぬうちに、自分と相手に嘘をついて騙してしまっているのであります。ゆえにこそ、「無知の業」と名付けられるのでありましょう。

知らず知らずのうちに嘘をつくことにより、心には「諦めたつもりになること」という情報が書き加わります。 その嘘情報は、「本当は諦めていなくて相手を思い通りにしたい」という欲望の情報との間に矛盾をきたしちまうのであります。

そして、このような矛盾した情報同士は心の中でデタラメにぶつかりあいますゆえ、心の情報処理系統を徐々に狂わせてゆきます。 それが記憶力の低下や意志の弱体化や精神の分裂、あるいは話が飛びやすくなったりする性質につながってゆくぅぅぅーッ。

これこそが、混乱=無知=迷いの業の持つ恐ろしさであります。 混乱=無知=迷いの業エネルギーを抑制して明晰な心で生きるためには、「嘘」から自由になる必要があるのです。

ゆえにこそ、仏道で最低限守るべき五つのルール「五戒」のうち、その一つに「嘘をつかぬこと」が入っているのであります。 厳密に申せば、事実に反することを口にせぬこと。そのためには、まずは自分で自分を騙さぬこと。それが重要と申せましょう。

いわゆる「嘘つき」というような分かりやすい嘘にかぎらず、自分を騙すようなマイナーレベルの嘘をも見抜くセンサーをつちかって、意識の明晰性を保てるようにいたしませーう。


第五百九十回

不可能であーッる。他人の話を、最初から最後まで、一瞬たりとも逃さずに聞くなんて。 ましてや、極めて興味深く楽しみながら聞き続けるなんて、不可能なのであります。

目の前の会話を無視して、意識が逃げ出してしまう衝動エネルギー、すなわち「無知=迷い」の業ゆえに。

「ふーん」「そっか」等とうなずいているくせをして、私たちの頭は話に関係のないチョコ・クッキーやアップル・パイや鉛筆削りや熊のヌイグルミのこと等を考えて、「心、ココニ在ラズ」。 そしてそれは、二人の会話にとってハッピーならざることと申せましょう。

もしも「実は聞いてなかった回数」が相手にバレようものなら、ひどく落胆させてしまうに違いない・・・ッ。 しかしながら、相手の前で「そっかー、へー」などとウワノソラになってしまう回数を、減らすことは可能なのであります。

まずは、ウワノソラの回数を半分くらいまで減量いたしませーう。それだけでも、あの人の話が二倍ほどクリアに、二倍ほど興味深く、二倍ほど素敵に聞こえてくる、かもよ。




第五百八十八回

けだし、人の根本的な煩悩モードは、「メンドクサイ」ではありますまいか。

前は、あの人の前では好ましい格好をしていたかった・・・、けど、実はそれは、メンドクサイ。前は、会う前には必ず歯を磨いてシャワーを浴びていたのに・・・ッ。

大切な相手には配慮ある言葉をかけてあげたい・・・昔はできていたのに、今はメンドクサイ。前は「これを言ったら傷つくかな」なんて言葉を浴びせる前にチェックしていたのに・・・ッ。

この「メンドクサイ」に流されますと、必ずやぞんざいな言葉やぞんざいな行動が発生いたします。 このぞんざいさこそは、意識がどんよりと混濁した状態とむすびついており、これこそが無知=迷いの煩悩なのであります。

「メンドクサイ」は、互いの関係が新鮮だったり互いの間に距離があるうちは、めったに出て来ません。 しかしながら、友であれ恋仲であれ、馴れ合いになりマンネリ化が進むにつれ、言葉も行動も(外見的な姿すらも)ぞんざいになってゆきがちでありましょう。

ここでの重要なポイントは、服装を手抜きにしたり言葉に気配りを忘れたりいたしますと、そこに含まれる無知=迷いの煩悩のオーラが、必ずや相手にも伝染してしまうということ。 あいやー、「メンドクサイ」のオーラを受け取った相手も影響を受けて「じゃあ、自分もぞんざいでいいや」とばかりに、さらなるマンネリ化につながるゥゥゥゥー・・・ッ。

「メンドクサイ」=無知=迷いの業は、まず自らの意識をダラダラとぞんざいなものへと混濁させますから、楽しく過ごせなくなります。 そのうえ相手にもそのダラダラした「楽しくなさ」を伝染させるわけでありますゆえ、何とも罪深きことッ。

裏を返しますと、「メンドクサイ」に負けそうになっても、言葉遣いや服装に気を遣ったり(そして歯を磨いたりコンタクトをつけたり?)することで、意識がシャッキーッン、明晰に回復いたします。 その明晰さは相手にも波紋いたしますから、相手にもまた良い影響を与えることになりましょう。「自分一人だけダラダラぞんざいにはしておれぬことよ」と。

相手がマンネリズムを克服してくれるのを待つのではなく、まずはこちらが明晰な意識を持ってみれば、その瞬間に「ダラダラ」が抜けて気持ちが再び新鮮に戻りもいたしましょう。 幸福感って、そういう努力の中にこそ見いだせるもの、なのさ。そしてそれが、マンネリズムの打破につながるのであります。


第五百八十七回

相手の言っていることの筋が通っておらず「根本的に間違っていルッ」と思われますとき、ついつい怒りのカルマに駆られて反論したくなるかもしれぬが、それは無駄無駄無駄無駄ァァァァーーッ!

反論なんていう不粋なまねにより相手を余計に意固地にさせちまいますよりも、短いひとことで冷水を浴びせてしまいませーう。

いえ、冷水を浴びせるとは申しましても、決して相手の感情を否定して台無しにしてしまえッ、というわけではありません。こちらが相手の言葉に納得していないことは伝えつつも、相手自身が自らを見つめなおすきっかけを差し上げようという次第であります。

「・・・んー、本当に、そう思っているの?」あるいは「・・・んー、どうして?」。

たとえばこのように短く問われただけのことで、相手の心の中で回転していた筋の通らぬ思考の流れは、一瞬なりともストップいたします。

なぜなら、それまでは「自分は当たり前に正しいもんねーッ」と思い込んで話していましたのを、自己点検したうえでこちらを説得しなおさなければならなくなりますゆえに。「むむー、この人は納得していないらしい。どうすればこの正しさを分かってもらえようか。ふむー、そもそも、本当に正しいんだろうかしらん」とばかりに。

その自己点検をせざるをえなくなります際に、自らの心を見つめる自己客観化作用がはたらきます。すなわち、多かれ少なかれ、「自分」から心を引きはがして冷静になる作用、仏道で申しますところの「念」の力がはたらくことでしょう。「自分ッ」と凝り固まっていた心が、いくぶんズームアウトしてほどけてゆくことでしょう。

誰しも自分の中で完全に正当化できていない強引なことや、しっかり身に付いていない上滑りな理屈をしゃべっているとき、心のどこかでは知っています。自分自身が筋の通らぬことを口にしており、それゆえ心が緊張してもいるということを。その証拠として、強引なことを話しているとき、必ずや胸や喉が緊張して苦しいはずなのであります。

冷水を浴びせられて「自分」を点検せざるを得なくなることによって、それに改めて気づきなおすチャンスが得られようというものでありましょう。

ただし、相手がそれでも言い張りたい場合に、やはり「もちろん本気ですよ、なにせ・・・」と理屈をこね続けるかもしれません。 しかしながら、そうやって「理屈」の上塗りをしながらも相手は 「さっきも納得してくれなかったんだから、これでも納得してくれてないんだろうな、あーあ」という伝わらなさや、自らの強引さに対する居心地の悪さを感じることでしょう。

その居心地の悪さこそが後になってから「あー失敗なりけりッ」、と自己客観化するためのシグナルとなって、その御方自身で自らの過ちに気づくことも可能にいたします。このように、自ら気づく「念」のきっかけを相手にも与えて差し上げますこと、それが肝要なことと申せましょう。


第五百八十六回

(前回「温度差ポッポ」の続きです。)

恋がゆがみ始めると、それは勝ち負けゲームになってしまう・・・ッ。

「メイルを送るのはいつも自分からだし、昔みたいにすぐ返事をくれざることこそ、寂しく思ゆれ」 「逢い引きに誘うのは、いつも自分から。愛してもらえてないのなら別れませうかしらん」

このような思考の背景には、うずいている・・・ッ。ゆがんだ、プライドの衝動・・・ッ。 「私が愛しているだけの愛情を返してもらえていなんて、私が負けているということ。そんな屈辱を味わうくらいなら別れたほうが楽でせーう」と。

これは、恋にあらず・・・ッ。「自分のことを愛してくれる相手」を好きなだけで、「自分にさほど愛情をくれない相手」のことは、まったく好きではないのですから。 つまりこれでは、結局のところ「自分」のことを好きなだけの自慰、と申せましょう。

そして皮肉なことに、自らの安いプライド=慢の煩悩に閉じこもりますと、その「私にどうして愛情をかけないのだ、愚か者めッ」という煩悩エネルギーは、とっても感じが悪い。感じが悪いですから、相手の愛情はなおさら冷めてゆくという悪循環が生じるのであります。

しかしながら恋の本義は、相手のことを好きな気持ちをバネにしさえすれば、「自分一人なら本当はやらないし、できないだろうな」というようなことも、できてしまうことにあるように思われます。 すなわち、相手のために「自分」の殻を突破するチャンスとしてこそ、恋を見直すこともできましょう。


第五百八十五回

人という生き物は温度差を受け入れられぬ煩悩に呪われている・・・ッ! ついつい、相手にも同じレベルのやる気を要求してしまう・・・ッ。

一緒に出かける約束をしていたましたのに、相手が自分ほどは乗り気でないようにみえるとき、すなわち温度差が感じられますとき。 「もういいよッ、いっそ出かけるのやめよう」などと、ポイ捨てッ子の台無しにしてしまう・・・ッ!

やる気の温度差を許容できぬ、狭っ苦しい心の背景にありますのは、プライド=慢の煩悩にほかなりません。 「自分だけやる気まんまんで相手は『やれやれ、付き合ってやるか』な態度だと、なんだか負けてるようでプライドが傷つくよーッ」といった風合いであります。

自分よりも相手のほうが積極的でいてくれるくらいのほうが、自らの安いプライドにとっては好都合なのでありましょう。

しかしながら・・・ッ! このような煩悩に洗脳されて「汝が乗り気でないなら、わがはいはいっそのこと、やめちゃうもんねッ」と投げ捨ててしまいますなら、すべてが台無しッ、台無しッ、台無しィィィィィーーーッ!

せっかくやりたかったはずのことが台無しになり、心の裏では「やっぱり本当はやりたかったのに君のせいでできなくなりにけり・・・」と悔いを残しつつ恨み節にはまっちまうのであります。 か・・・ッ、喝ぁぁぁーーッつ! その幼稚なプライドゆえに、自らを醜悪にしつるなり・・・ッ。

大切なワクチン。自らが率先してやりたいことを提案しても、多少の温度差が生じることくらい当たり前と涼しく心得ておきますこと。 そのうえで、まずは自らが率先してものごとを成し遂げてまいりませーう。その結果として「何だか面白そう」とばかりに、温度差は後から埋まってゆくことでしょうから。


第五百八十四回

イラッコイラッコすると不満足になり・・・ッ、不満足になると惨めになり・・・ッ、惨めになると他人から認めてほしくて自慢話がしたくなり・・・ッ、 自慢話をするとさらに惨めになる・・・ッ。


第五百八十三回

この末法の世にては、さまざまなる怪しき迷信ぞ広がりける・・・ッ!

「自分は何でもできる、自分は何でもできる」などと呪文を唱えると実際に成功できるといったイカガワシイことが宣伝されるのを、ときどき、耳にいたします。

しかしながら「何でもできる」というのは事実に反しています。すなわちそれは、「嘘」によって自分自身を洗脳するような真似・・・ッ、喝・・・ッ、そんなのを続けると頭が悪くなるぅぅぅうーッ!

すなわち実際の事実に反した情報を刷り込むことにより、心の情報処理系統が混乱し、迷いの業が増えてしまいます。

眠いときに「眠っちゃだめだ、眠っちゃだめだ」と考えたり唱えても、結局は眠気に負けてしまうことでしょう。「眠い」という事実から目を背けようとした結果、背後から眠さに飲み込まれてしまうのであります。

もしも何かを唱えるなら、事実そのものを念じてみるとよろしいでしょう。すなわち眠気に負けそうならば「眠気、眠気、眠気、眠気」などと。眠さそのものを見つめれば解消することが叶うのです。

「いま、ここ、この瞬間ッ」に自らが置かれている状況を唱えてみましたら、心が現状をはっきり理解しなおしてくれます。そういたしますと、心が落ち着いてくれ雑念が消えてゆくことでしょう。

たとえばコンピュータを用いてキー・タイピングをしながらでしたら「タイピングしてる、タイピングしてる、タイピングしてる・・・」と(心の中で)唱えますこと。そういたしましたら、「いま私はキー・タイピングに集中していて他のことに意識を逃げさせるべきじゃないぃぃぃーッ」ということを心が納得いたします。

その結果、汚れた雑念をわかせることなく「いま、ここ、この瞬間ッ」にやっていることに集中することも叶いましょう。すなわち、心が一つのことに統一して明晰になりますから、頭がシャッキーッン、と冴えるという道理であります。

他人の話を聞こうとしてもウワノソラになってしまいそうなときは「聞いてる、聞いてる、聞いてる・・・」シャッキーッン。この文章を読んでおられますのにウワノソラになりそうなときも「読んでる、読んでる、読んでる・・・」シャッキーッン。


第五百八十ニ回

ゆ・・・ッ、許してください・・・ッ。締め切りギリギリで4コマを描いて遊んでいる私を、許して・・・ッ!

いや、むしろ家出空間の更新こそが仕事だ・・・ッ。いやはや、ともあれ、話の内容に入ってまいりましょう。

私たちが仕事のことにあまりとらわれ過ぎますと、仕事をしていないときにすら「仕事しなきゃッ」という思考が、記憶として心をチクチク刺激いたします。 そうなってしまいますと、おやつを食べるときにせよ漫画を描くときにせよ、記憶が勝手に作動して「本当は仕事してなきゃいけないのになー・・・」と後悔を始めたりもするのです。

あるいは「いまウェブサイトを更新しているのを知られたら、『時間あるなら仕事しろーッツ』って思われやしないかしらん」などと、ね。

そんなことでは、記憶に洗脳されて何一つとして楽しめぬ・・・ッ、おやつを食べていても落ち着かず幸福感が得られませんでしょうし、遊ぶにしても罪悪感でいっぱいになってしまうことでしょう。

このような恐れの背景には緊張を強いる「怒り」の煩悩があり、私たちを惨めにしているのです。愚か者ッ、愚か者ッ、愚か者ぉぉぉおーッ! ビクビクしながらサボタージュして心を締め付けるくらいなら、最初からサボタージュなどせぬほうがよっぽどまし・・・ッ。

ですからメリハリをつけるべくして、仕事をしないときはしないときで、記憶に引きずられずに「今」やっていることに集中する能力を磨きませーう。

たとえばおやつとお茶をいただきますときは、いったん机のうえを片付けて、仕事のことは忘れて、お茶とお菓子に集中いたしますこと。 私たちのささやかな幸福感ってやつは、いろいろなものをごちゃ混ぜにしてしまうことなくメリハリをつけたときに得られるものなのですから。

そういうわけですから、記憶に汚染されることには、グッバイを。


第五百八十一回

奴隷・・・ッ、私たち生き物は、さながら記憶の奴隷のごとし・・・ッ!

スズメやカラスがかかしを見て逃げてゆきますのは、「あ、人間だッ、こわいッ」と認識するからです。 「人間とはこのようなものであーッる」という記憶が心に刷り込まれておりますから、それに似たものを見た瞬間に「危険だ、逃げろッ」という自動的な反射反応が発生いたします。

「人間に出会った際に逃げたほうがよい」という強烈な刷り込みは、生きてゆくうえにおいて役立つこともあるでしょう。 しかしながら、そのような反射的プログラムはとても大雑把なものなので、実際は人間じゃないものを見たときにも、「人間だッ」という記憶が刺激されて、同じく逃げる反射的反応が生じてしまうのです。

そのように考えますと、このような心の反射的条件づけは、役に立っているようでいて、実はさまざまな失敗の原因になっていることがわかることでしょう。

このように記憶が刺激されることにより心が条件づけされる仕組みを、仏道で「想」と申します。「想ひ出」の、想、であります。

ネガティヴな思ひ出は、染み付いて私たちを不自由にする・・・ッ。  たとえばいちど他人から裏切られたと感じてしまいますと、その思ひ出がグーッと心に染み付いてしまいます。

そういたしますと、その相手のことを意識するたびに、自動的に「次も裏切られるのではないか・・・」と記憶がうずきますゆえに、精神的に腰がひけてしまうものです。

その相手を前にしたときに限らず(人間を前にしたときに限らず)、それに似た雰囲気の人に出会うたびに(かかしに出会うたびに)「裏切られるのではないか・・・」と及び腰になってしまい、ものごとがうまくゆかなくなるかもしれません。

その点、ポッポのように記憶にしばられず生きていましたら、かかしと愉快に戯れることもできましょう。そのような「思ひ出」リセットの作法を、次回は考察してまいりませーう。


第五百八十回

あいや、ついつい、つまらぬ嘘をついてしまう・・・ッ、そのとき、「嘘をつきますよッ」と意気込んでなくても、反射的に嘘をついてしまっている、ことでしょう。

たとえば「ぜんぜん買い物しないらしいね」とたずねられたとき、「自分はお金をあまり使わないで生活していることを誇りにしているのだーッ」という自己イメージが刺激されて、嬉しくなってしまうといたしましょう。

そうしますと、「買い物をしない自分ッ」というイメージが心の中で拡大されて感情を塗りつぶしますから、それに反した情報が心の表面から見えなくなってしまうように思われます。 その瞬間、実際はつい昨日に買い物をしたばかりであるにも関わらずその記憶は、「買い物をしない素敵な自分だもんねッ」という自己イメージに塗りつぶされて消滅してしまう、という案配でありましょう。

自己イメージ煩悩にまどわされる瞬間、私たちの記憶は改造されゆがめられる・・・ッ、そして、少しずつ少しずつ記憶がへんてこりんになってゆくぅぅうぅーッ。

そのような心のゆがんだ情報処理は一瞬にして、発生いたします。そして、その情報処理をストップすることができませんと「そうだね、ここ一週間は何も買わず過ごしにけりッ」などと誇らしげに答えてしまうのです。 しかしながら・・・ッ、このような些細なことであれ、事実に反することを口にした時点で、心が混乱する・・・ッ。

その場の取りつくろいで仮に口にしただけのつもりでありましても、心に記憶されると潜在意識では「本当」と思い込むからです。 「あれれー・・・? 昨日、買い物にいったはずなのに。いかなかったんだっけ・・・? ふにゃー」といった風合いです。

これらの矛盾した情報が心の中に増えれば増えるほど、私たちの情報処理能力は混乱の度合いを増していくぅぅうぅぅーッ!  すなわち、混乱、迷いのカルマが増大いたします。その結果、心の中で情報が混乱したままに・・・ッ。 これが、反射的に「ついつい」嘘をついてしまいやすくなる性格になってゆくメカニズムと分析できましょう。


第五百七十九回

満ちあふれている・・・ッ、世の中には付け焼き刃の、小手先のテクニックが満ちあふれている・・・ッ!

あいにくマニュアル本やルール本、あるいは雑誌などに書かれている内容は、ほぼ例外なく、小手先の駆け引きをすすめるようなものばかり、です。

「質問すると相手からの返事率アップッ」といった単純なものから「わざと返事を遅らせて、ちょっとドキドキさせてから送るとよいのだーッ」ですとか「困っていることを相談して『信頼されている』と思わせようッ」ですとか。

そんなのは、すさませる・・・ッ、煩悩によって心をすさませる・・・ッ! せっかく綺麗だったはずの心を、汚染しちまうなんて、哀しきこと。

そのような付け焼き刃は、心に余計な負荷をかけますから、ものごとをこんがらがらせて、結局うまくゆかなくなる道理ッ。

あるいは仮にそのような小手先の駆け引きが、そのときだけうまく行ったといたしましても、無駄無駄無駄ぁぁぁーッ! 何故なら・・・ッ、小手先の駆け引きは、じつは面倒くさいからです。 「わざわざ」やらなければならない付け焼き刃は、面倒くさいものですから、実はちょっとしたストレスになります。

相手との関係が新鮮なうちだけは、ストレスになろうと何だろうと頑張って付け焼き刃もいたしますでしょうけれども、 やがて相手との関係に慣れてくると、確実に付け焼き刃を使うのは面倒くさくなって・・・メッキが剥がれ落ちるぅぅぅーッ。

相手と長期にわたって良好な関係を築いてゆこうという覚悟があるのなら、目先の利益に目をくらまされ小手先の付け焼き刃などに手を出さぬことが肝要と申せましょう。


第五百七十八回

言ってしまう・・・ッ、ついつい心にもない定型文を・・・ッ!

心で思ってもいないことを口にすればするほどに、心と言葉がバラバラになっていってしまい、心が混乱する度合いが増します。 すなわち、迷いのカルマの目盛りがぐーんと上昇するぅぅぅーッ!

とは申しましても、つい思ってもないのに適当に「良いお年を」とか「元気でね」とか「気をつけてね」と言ってしまいそうになるのが、私たちの姿でもあります。 そうではあるのですけれども、いい加減に言ってしまいそうになったりメイルの文面に書きそうになりましたときにちょっと心を操縦してやれば、心の分裂を防ぐことができるのです。

「良いお年を」と言いそうになりましたら、実際に「このひとが良い年を迎えるとよいのじゃよーッ」と心の中で念じるようにしながら慈しみの気持ちを作ってから言いますこと、あるいは書きますこと。

「本当に元気に過ごしてくれると良いのにな」と、しっかり集中して意識しながら、口に出したり書いたりいたしますなら、心と言葉が一致して、言っている私たち自身が、大変心地よい思いを得ることがかなうのです。

そして、そういう心持ちで発された言葉はたとえ定型文にすぎぬものだといたしましても、活きのよい響きをまとうはずです。結果として、相手にも届きやすいものとなる道理と申せましょう。

イエデ人の皆様、良き、新鮮なる年をお迎えくださいませ。


第五百七十七回

招かれざる客は、きみの心の奥底から土足で上がり込んでくる・・・ッ! 「怒り」の煩悩カテゴリーに入る感情をつくると、それは忘れたつもりでも後日、不安や寂しさのエネルギーになって帰ってくる・・・ッ!

たとえば嫉妬の感情とは、目や耳に入ってくる、他人の好ましい情報を受け入れたくなく拒絶したい、という嫌悪感のエネルギーですから、その背景にあるのは「怒り」の煩悩です。

怒りの猛毒で、自家中毒・・・ッ! 嫉妬をしましたら、怒りの煩悩エネルギーが活性化し、心にしみつきますから、その場かぎりで終わらず、必ず報いを受けるはめになる・・・ッ! そのときにしみついた怒りのエネルギーはいったん潜在化して見えなくなりますものの、数日後に急にふたたび浮かび上がってくるのダーッ。

ふたたび浮かび上がってきた怒りのエネルギーが具体的な対象に向かった場合は、攻撃性や恨みといったものになるかもしれません。そして、ただ怒りのエネルギーだけが活性化していて、特に対象がない場合は、不安や寂しさといったような、漠然としたネガティヴな状態になってしまうものなのです。

ですから、わけも分からず不安になってしまったり、すべきことが手につかずそわそわしてしまうといたしますならそれは、過去につくった怒りの悪業ゆえと申せましょう。 心が長期的にどういった法則で動いているのか知れば、煩悩なんて作りたくなくなるものなのさ。


第五百七十六回

私たちの心が「無我ッ」であるということのヒントは、よく観察いたしますなら、あちらこちらに転がっております。たとえば、さまざまなところで流されている音楽。

インターネットカフェで家出空間を更新しておりますとしばしば、当世流行の音楽が流れているのが耳に入ってまいります。私は、ヒップホップがあまり得意でなく、とりわけ日本人が虚勢を張ってつくる日本製ヒップホップを聴いているとなんだか恥ずかしい気持ちになるものです。

しかし・・・ッ、ついつい聴いてしまう・・・ッ。「嫌な音楽なのじゃよー」などと心の中でケチをつけつつ、聴きこんでしまう・・・ッ! 単に聴かなければすみそうなものですのに、心は「嫌な音楽ッ」と思う刺激が欲しくて、ある意味では興味津々なのですから。

「嫌な音楽ッ」という怒りの煩悩によりネガティブな興味を持ってしまいますがゆえに、その音はしっかりと心に記憶されます。記憶されると、呪われる・・・ッ。自動的に、心の中でエコーがかかったかのように反復し続けるのです。まるで洗脳でもされたかのごとく、趣味に合わぬ歌詞も含めてリフレインし続けるぅぅぅぅうーッッ!

自分自身ではリフレインしていないつもりでも、瞑想をして心の底をのぞいてみましたら、実は心の底に記憶されリフレインし続けていることを発見することが、かないます。すなわち、いちどインプットされた刺激を染み付かせてしまいますと、それは私たちの意志とはまったく無関係に、回転し続けるのです。

それらがノイズのような余計な情報として心の中で回り続けています間は、私たちの思考や情報処理には邪魔が入りますから、知らず知らずのうちに一貫した思考ができなくなったり決断力が衰えたりもすることが、推し量られましょう。

このようなリフレイン作用が自動的に起こっておりますのは、私たちの心が私たちの思惑とはまったく別に、自動的に動いていることの証拠です。音楽リフレインに限らず、私たちが考えたり話したり行動したりいたしますのは、どれも過去に染み付いた刺激が自動的にリフレインしているのに踊らされているだけ・・・ッ、無我・・・ッ。


第五百七十五回

世の中の多くの人は「相手に興味を持ってあげてるフリ」をしようとして、しばしば相手に質問を投げかけます。 しかし、残酷・・・ッ! 答えが返ってくるときには、すでに聞いてない・・・ッ、いや、聞こえていないィィィー・・・ッ!

質問を投げかけた0、1秒後にはもはや質問すら忘れて相手の答えなどまったく聞かずに、何か自分のことを考えるのにふけってしまうものなのです。 「相手の声を聴覚で受信する」ということができずに、脳内の考え事に逃げ込んでしまう、迷いのカルマゆえ・・・ッ!

最初に質問した時点では、「聞こう」という気持ちを一応、持っているはず。なのですけれども、相手が答え始めると、とたんに興味を失ってしまうものなのです。

それは、もともと「純粋に聞きたい」のではなくって、たとえば相手を良い気持ちにさせることでモテたいとか別の下心があってのことにて、本当のところは聞きたいなんて思っていないのです。 あるいは、もっと些細な下心ですと「なんだか他に話すことを思いつかず落ち着かないから、間を持たすために褒めて質問でもしておこう」とか、ね。

質問された側は、浮かれて自分の話をズラーッと並べ立ててしまうかもしれませんけれども、間抜け・・・ッ、それでは答える側だけ必死で、聞く側はうわのそらという図・・・ッ、間抜けになってしまう・・・ッ!

間抜けなのは浮かれているジブンですのに「質問しておきながら聞いてないなんてふざけやがってーッ、ぷんぷんッ」となってしまいますと、間抜けの上塗りで、大変みっともないことです。

さて、それゆえに、答える前に「多分この人は質問しているけど、そんなに本気で聞きたいわけでもないのだろうから、あんまり長々と自慢げに答えてしまったら可哀想だよね」 くらいの余裕をもって舞い上がることもなく、簡潔に答えて差し上げてますことを、おすすめ申し上げませーう。

第五百七十四回

せちがらい・・・ッ! 負のカルマは積めば積むほど、加速度的に負の大富豪になってゆく・・・ッ、そう・・・ッ、この、不平等な世の中で、貧しき者が、さらに貧しくなってゆくかのごとく・・・ッ!

いやはや、ものごとを否定したがる怒りの業をつめばつむほど怒りっぽくひがみっぽい性格がしみついてゆき、加速度的に不幸せになってゆく。

それに反して、一度カルマをコントロール下においてネガティヴな心を作らぬよう、自分自身を律していられますなら、 次から次へと、ネガティヴになるためのポテンシャルが減ってゆきます。それにより、加速度的にハッピーになってゆく。

かくして、カルマの格差は、どんどん激しく広がってゆくぅぅぅぅうーッ! 負を溜め込みすぎましたら、そこで「これ以上はやばいのではないかしらッ」とショックを受けませんかぎり、自らのエネルギーを変質させるチャンスは訪れないのです。 そう、どこかで、負の大富豪ゲームから抜け出しますことが、賢明と申せましょう。

第五百七十三回

ちうい、ちうい! 「見られたくない」と思うことを、書いてしまいますと、心は二つに分裂いたします、人前に出すものと、人前に出せないものとの間に。

話すときであれ、文章を書くときであれ、それが「これを誰に聞かれても、誰に見られても大丈夫」というパブリックなもののみを発するよう心がけますなら、心はとても風通しがよくなるのです。

人前では、そんなふうに下品な食べ方、しないでせーう? 友達が一緒にいるときは、恋人に対してそんなふうに攻撃的で醜い言い方、しないでせーう? 人前では、そんないい加減な服装、しないでせーう? 

プライベート・・・ッ、それは秘密っこ、醜さが噴出するゥゥウーッ・・・。人目から隠れてホッと一息つけるような気がいたしますでしょうか。錯覚・・・ッ、それは脳内のまやかし・・・ッ! 「見られたくないよーッ」と隠れてこそこそした気分になるとき、実は心はストレスに悩まされているのですから。

人前にいるときは緊張しながら、にこやかにする。緊張しながら、美しい言葉遣いをする。緊張しながら、良い人を演じる。緊張しながら、楽しいフリをする。緊張しながら、相手のつまらぬ話を聞いてあげるフリをする。えとせとら、えとせとら。

こういったパブリックな自分を演じるときに生じる緊張は、「こうやって演じて良く印象づけたいよーッ」という欲望の煩悩が活性化しているがゆえの、緊張です。欲望の煩悩に駆られて、「本当は、できればしたくないこと」をやってしまいますから、ひどく緊張するうえに、実は周囲に対してもネガティヴな影響を与えます。

こうやって緊張してしまうからこそ、演じたあとに一人になると、急激に反動がやってきてドーっとストレスにつぶされてしまうのです。逃避・・・ッ、そういったとき人は、プライベートな、すなわち、秘密の場所へと逃避したくなる・・・ッ。

人前でストレスまみれになった後、一人になろうものなら、急に頭の中でネガティヴなことを考えはじめることでしょう。人前では決してしないような乱暴な手つきで食事をしたくなるかもしれません。部屋の中で、醜い姿でゴロゴロ寝転がっているかもしれません。人前では口にしないような言葉を、プライベートな日記や、匿名のウェブサイトに書き散らすかもしれません。それによって、さらに業を積み心が分裂してゆきますのに。

そのように、プライベートとはしばしば、ネガティヴなエネルギーを爆発させ自らを醜くさせる温床にもなるのです。風通しの良い生き方をいたしますには、いついかなる時であろうとも、他人に見られても恥ずかしくない行動や、誰に読まれても恥ずかしくない言葉を、話しまた書くのを心がけているのが肝要と申せましょう。

一人でいて、誰にも見られていないときこそ、自らの心の真価が問われるときなのです。

第五百七十二回

私は日々、午前中のおやつにクッキーを焼く習慣があるのですけれども、その作り方を見ていた御方に 「洋菓子づくりに計量しないなんて信じられない・・・ッ」という反応をされることがあります。

せちがらい・・・ッ! 数字に支配されたお菓子作りなど、せちがらい・・・ッ! レシピ本なんか見ながら分量を決めて毎回デジタルにはかって作ってるようじゃ、永久にお菓子作りなど上達せぬッ!

適当に粉を入れて、油やシロップを入れながらほんの少しずつ粉がどのように変化していくのかを厳密に観察しながら、量を調整するようにいたしますなら、 決して失敗などしないのですから、心配無用です。

クマッコみたいにボーッとしてたら大失敗いたしますから、意識のセンサーを研ぎ澄まして、集中いたしませーう。

そのことのメリットは三つ。1、毎回、少しずつ違う仕上がりになるのが楽しい。2、料理勘が研ぎ澄まされる。 3、毎日、新しいものを少量つくって楽しめる。レシピ本のとおりの分量をつくったら余るか食べ過ぎになるかの運命でありましょうから、ね。

第五百七十一回

前回、人は楽しみを求めすぎるせいで相手をないがしろにしてしまう、ということを申しました。

それに留まらず、私たちの心は快楽への欲望や苦悩への嫌悪感=怒りといったドギツイ刺激ばかりを好みますから、あまり刺激のない普通の感覚を、無視してしまいがちです。

しかしながら、どのような楽しいことであれ、どのように一緒にいて幸せを感じられる相手とであれ、 ずっと繰り返しているうちにやがて慣れて参りますから、最初に得られていた刺激は弱まってゆくものなのです。 ええ、最初は新鮮に見えていた相手の美しい顔も、やがて「フツウ」の刺激しか与えてくれなくなります。

勝負所・・・ッ! そうやって、慣れてきちまったときこそが、その後もハッピーでいられるか、あるいはそこから馴れ合いになってお互いにぞんざいになっていくかの、分かれ目・・・ッ!

そのとき「フツウ」の、かげの薄い感覚しか感じられないといたしましても、その「フツウ」の感覚にちゃんと心を留めて、相手のことをしっかり目で見て、耳で聞いていられるか。 それができる意識の統御力さえあれば、ちゃんと「フツウ」の感覚を感じ取って、ハッピーでいられるのです。

つまり、意識の統御力がありませんと、どんな刺激であれ慣れてきた時点で心をさまよわせてしまい、ハッピーになれません。 「フツウ」の感覚を嫌がって意識を考え事へとさまよわせてしまう「迷い」の煩悩が溜め込まれていればいるほど、確実に不幸になる道理と申せましょう。

迷いの煩悩、パラフレーズいたしますなら、飽きの煩悩・・・ッ! そいつのエネルギーを減らしますことが、穏やかな感覚でハッピーになれる秘訣。

第五百七十回

かッ・・・喝ぁーーーッつ! せちがらい・・・ッ! 誰もが無意識的に「楽しい話」を相手に要求・・・ッ! 相手が、楽しい話をしてくれているときだけ、しっかり聞く。しかしながら、相手の話に興味が持てなくなったらウワノソラになり、心がさまよい考え事を始めてしまったりするのです。

ですから、自然状態での心は、相手との会話から自分にとって都合の良い刺激を与えてくれるものしか、求めていないとも申せましょう。しかしながら、愚か者ッ、愚か者ッ、愚か者ぉォォーッ! 四六時中、面白くて刺激的なことばかり話し続けられるような才能を持ち合わせた人間なんて、この世の中には存在しないのです。

だから、みんな、飽きてしまう。それは、不幸・・・ッ、みじめ・・・ッ。

そういうわけですから、相手の話が面白くなくて心がさまよいそうになってしまっても、とにかく相手と一緒にいられることの感覚や相手の声の響きの心地よさといったような要素に向けて、心を注意深く集中していられる禅的な能力こそが、肝要なのではないでしょうか。

このような文脈で思い起こされますことは、現代はお笑い芸人の地位向上とともに、異性に求める特徴として「話が面白いこと」が上位に入るようになっていることです。なぜ多くの人がこんなにも「笑いたがっている」のかと申しますなら、日常があまりにストレスフルだからなのでしょう。

しかしながら、「面白さ」を求めることは、すなわち、「汝はこのかけがえのない私を楽しませるべきであーッる」という、優しさのかけらもない感情だということを知り、自制するのが自らの魅力向上のためと申せましょう。

別に「面白く」なくっても、穏やかな心持ちで静かに黙って寄り添っていたら、そういった優しい幸福感が一番ハッピーというものなのです。

第五百六十八回

無駄遣い・・・ッ! 煩悩でいろいろ余計なことを考えてしまっているとき、心のエネルギーは「考え事」という無意味なことがらに無駄遣いされている・・・ッ!

負のエネルギーに心が占領されています瞬間には、心はほかのことができなくなってしまうのです。 裏を返しますと、「考え事」に浪費している心のエネルギーをそのまま、目の前のことがらに向けかえるようにいたしますと、 シャッキーンッとした心地で立ち向かうことも可能となるのです。

このように負のエネルギーをポジティヴなものへと変換することこそが、精進の本義と申せましょう。

さて実はこの4コマは、来月出版される、仕事とのつきあいかたを述べた本の挿絵用に描いたものです。 挿絵用にいくつか4コマを描いているまさにその最中、ふっと考え事が湧いて来ました。

「なんだか面白いのが描けないし、なんで私はこんなに4コマばっかり描いているんだろう、ふにゃーん、ぐにゃーん」 そのように考えながら、描く線がグニャッと曲がって「うううー」などと、一瞬メゲそうになったその瞬間ッ・・・。

その「うううー」の、現状を拒否しようとする怒りの煩悩エネルギーを、はっしと捕まえるのです。 そして念によって捕捉したそのエネルギーをググーッと方向転換して再び描きはじめましたら、いやはや不思議。 「ふにゃーん」も「うううー」も完全に消滅していて、すこぶるリフレッシュ、視野も鮮明になって、すらすら仕事が進むのでした。

そのようにして最終工程にある仕事の本、題名について編集者様とかけひきを続けつつ、12月15日に発売予定。示し合わせたわけではないのですけれども、私が30歳になる誕生日が発売日となる模様です。


第五百六十七回

カモ・・・ッ! 不安やデメリットにより心を撹乱されると、カモにされる・・・ッ!  すなわち不安という名のストレスにより不幸せ状態になってしまうと、その不幸せ状態がもとになって欲望の煩悩エネルギーが生まれてくるのです。

不幸せこそが欲望の原動力であるからこそ、資本主義マーケットの欲望扇情メディアは、一瞬だけ相手を不幸せな不安状態におとしいれてから、 「その不安から抜け出るにはこの商品が最適なのじゃよー」というかたちで煩悩ストレスの泥沼へと引きずりこんでゆくのです。がびーん。

しかも・・・ッ! そうやって煽られて「自分はこうならなきゃッ」と力んでしまいますと、その欲望エネルギーの緊張感で自分をがんじがらめにしてしまいますから、 とても感じの悪いギコチナイ人間になってしまいますよ、というおまけまでついてくるのだーッ。がーん。


第五百六十六回

イエデ会話手習帖、始まりだよッ。

嫌な話を聞かされるときに、どのようにすれば良いでしょうかといったニュアンスの御相談に、この場を借りてお答え申し上げましょう。

はっきり申し上げて、世の中には「できれば聞きたくないような自慢話」「クドクドと続く独りよがりな意見開陳」などが満ちあふれております。 しかしながら、それらに対し「うんざりッ」とばかりに拒絶反応を示してしまいますなら、聞いているこちら側が自分で自分を疲れさせダメージを与えるだけのことなのです。

拒絶反応を示して心の中の思考がネガティヴな状態で回転しはじめますから、相手に対しても負のフィードバックを与えることにもなるのです。 そういった拒絶反応の原因を考えてみますと、相手の発信している情報を「話している言葉の内容」のみを通じて受信しているせいであることに、思い当たっていただけるのではないでしょうか。

相手の話しているのを、言葉の意味だけをとらえてそれをこちらの脳内で情報処理してしまうせいで「あーなんて嫌な内容なのでせう、私は不幸ですよ」といったリアクションが醸し出されてしまうのです。

裏を返しますと、言葉の意味以外の情報をジィーっと見つめるかのようにして仕入れてあげますと、案外面白くなってくるものです。

相手が興奮したり落ち着いたりするのに従って、相手の表情が変化したり、声のトーンが上下したり、息が荒くなったり穏やかになったり、あるいは手を動かす仕草が伴ったり、視線を合わせてきたり目をそらしたり、 そういった変化が刻一刻と起きているのを注意深く観察いたしますこと。

すると「あ、この御方の感情は今の瞬間にコレコレの風合いに変化したみたいですよ」と気づくことができます。 それによって、相手の発信している情報を「会話内容」に限ることなく、全体的に受信できるようになるのみならず、相手の変化に応じてこちらも敏感に対応を打つことがかないます。

そのような細やかな変化へとしっかり集中いたしますとき、もはや「会話内容の意味」じたいはツマラナイものだったりウンザリするものだったといたしましても、 きわめて興味深いものに感じられてくるはずです。

「言葉の意味」のみを頭の中だけでグルグル考える煩悩思考から離れて、相手のリアルな変化へ向かって心を向かわせますこと。 そのためには、心をさまよわせて自分の頭の中だけであれこれ考えずに、相手に向かってしっかりと向ける集中力や注意力が必要になります。雑念なき「空」の注意力が。

いやはや、冷静に考えてみますと、最初から最後まで面白くて興味深い話ができる人なんてこの世にはほとんど存在しないわけですから、 相手に対して「興味深くて素敵な話をしなけりゃ許さないヨッ」と要求いたしますより、相手の会話内容以外のところに面白みを発見する工夫をするほうが賢明と申せましょう。


第五百六十五回

飽きる・・・ッ! 私たちは一つのことに楽しみを見いだしても、すぐに飽きる・・・ッ!  ゆえに充実せぬ・・・ッ、・・・何をやってもすぐに飽きてしまうから・・・ッ・・・飽きたあげくに脳内妄想へと逃げ出してばかり・・・ッ・・・惨め・・・ッ!

「飽きる」原因はと申しましたら、迷妄の煩悩エネルギーがカルマとして大量にたまってしまっているがゆえ、と申せましょう。迷妄の煩悩とは、飽きの煩悩と言い換えることもできるかもしれません。 そしてたとえ自らに相応しい人や居場所に出会えたとしても、「飽きる」エネルギーに流されてしまいますなら、必ずや不幸になります。

相手と一緒にいるのが最初は新鮮だったとしても、相手の顔や声や身体を繰り返し見たり聞いたり触れたりしているうちに慣れてまいりますと、 しだいに「飽き」の煩悩がはたらきだす・・・ッ! 心は相手を感じ取ることから逃げ出して、脳内妄想に引きこもりがちになりますから、一緒にいても楽しくなくなるのです。

脳内引きこもりのせいで、会話もうわのそら、相手の表情を見るのもうわのそら、手をつないでいてもうわのそら、性行為すら、うわのそら。

「飽き」によって逃げ出す煩悩エネルギーに負けずに相手と一緒にハッピーでいられるためには、心をコントロールして相手に集中する能力が必要なのです。


第五百六十四回

仕事はつまらなくって、遊びは面白いもの? ノンノン、そんなの嘘さッ。

きっと本当に必要な区別は、「仕事/遊び」ではありません。 そうではなくて「没頭できている/没頭できない」の違いこそが、私たちの心に与える影響にとって、決定的なのです。

没頭できていなければ心の裏側で雑念の煩悩エネルギーが暴れ回りはじめますから、「仕事」だろうと「遊び」だろうと、必ずストレスを作りだします。

注意深く心をコントロールして没頭できていさえすれば、仕事だろうと遊びだろうとストレス無しに楽しめてしまうのです。 このごろ私は、ほとんど毎日、休みなく仕事をしておりますから「忙しくて大変でしょう、身体を壊さないようにね」とよく心配していただくのですけれども、 常に注意深く没頭状態を継続していますから、まったくと申してよいほど疲れもストレスも存在いたしません。

そのように心をコントロールし続けて仕事を楽しんでしまう作法を語り下ろした本、文章もイラストレーションもほぼ完成いたしました。 仕事のストレスを別の気晴らしでごまかすのではなく、むしろ仕事によってストレスを解消してゆく道行きを示します。

タイトルは『仕事v.s.煩悩』『仏道式シゴト論』『「こつこつ」入門』『「せっせ」入門』などを考えているのですけれども、どんなのが良いでしょう、ね。


第五百六十一回

幻滅した・・・ッ! なんでもかんでも短期間の結果ばかりを求める短期評価ッ子に幻滅した・・・ッ!

欲や怒りでおこなう行為は、短期的には心を刺激して駆り立てますことにより、成果をあげることができます。 しかしながら長い目でみると、心に強いストレスを残して、そのうち頑張れなくなってゆくという「報い」を招きよせます。 短期的な結果しか見ませんなら「欲や怒りは大切なエネルギー源だし、何の問題もないもんねッ」という、真理に反した常識が成立してしまうのです。

心の変化は、時間が経ってからカルマとして結果がもたらされるというポイントをあわせて長期的視点からも見ません限り、いつまで経っても心を成長させることにはならないことでしょう。 すなわち、いつまでも精神的に我が侭で心の醜いオコサマのままでいるはめになるのです。
煩悩による心・言葉・行動をつくっても、そのカルマは、フレッシュなミルクのように、すぐに固まりはせずゆっくり固まって結果を出す。 そのカルマは、灰に覆われた火のように、燃えてストレスになりながら、無知なる私たちにつきまとう。
(『法句経』71番)
貧弱ッ、貧弱ッ、貧弱ーーッ!!

早く相手と仲良くなりたいとガッツキすぎていると、その日のうちに結果が出ないとがっかりしてしまって諦めたくなります。

四半期ごとに目に見える成果を出せているかどうかひたすらチェックされてダメだったら減給されるビジネスマンの心は、汲々とすさんでゆくことでしょう。

大学の文系学問にすら短期間の間で成果を出させることを要求することで、今まで過保護に守られてきた大学人たちの神経は擦り切れてきてしまっているようにも思えます。


第五百六十回

嘘ばっかり・・・ッ、ちいとも、思考なんて止まっていない・・・ッ!  世の中で「思考停止」と呼ばれている状態は、思考がストップして静まっているどころか、 無意味な雑念がごちゃごちゃと頭の中につまっていて考えっぱなしの状態と申さねばなりません。

あまりにも雑念、すなわち煩悩が多すぎますために頭の中が散らかってしまいスペックが低下いたします結果、合理的で的確な思考ができなくなっているのです。 心が煩悩で、汚れきっている状態とでも申せましょうか。

さて坐禅で思考をストップことに対しまして「えー、思考停止なんてしたら、自分で判断のできないお馬鹿さんになるんじゃないですか」 という紋切り型の反応が存在いたします。しかしながらそれは、本当の「思考ストップ」を体験したこともない御方が、 世間で「思考停止」とネガティヴに言われている言葉のイメージに引きずられて思い込んでしまっているだけなのです。

いったん本当に思考を停止いたしますなら、頭を深く休息させて、ビュンビュンと智慧をはたらかせて思考できるようになるのですから。 坐禅で呼吸や身体へと心を集中させることに限らず、本当に高度な判断力がはたらきますとき、私たちは余計なことを考えていないものです。 「ただひたすら仕事に打ち込み」「ただひたすら呼吸をし」「ただひたすら話し」「ただひたすらスポーツに集中する」 そのような瞬間が、雑念のないクリアな意識状態を保証してくれるのです。

このような麗しい「思考停止」すなわち「空」こそは、私たちを智慧のエネルギーでビビビッと充電してくれるのみならず、私たちの立ち居振る舞いを美しくしてくれるのです。


第五百五十九回

掲載していた文章、消滅しちまいにけり。


第五百五十八回

少し前に、「周囲からナメられている気がしてひどくストレスに感じる」という相談を受けたことがあります。

でも・・・仕様がないですよね、こちらの心が相手にナメられるような状態だからこそ、ナメられるのです。ナメられて、当然。な・・・ッ、ナヌーッ!

「ナメられたら嫌ッ、この私を、敬意をもって扱ってくれなきゃ嫌だもんッ」という気持ち、すなわち周りから認められたい慢の煩悩が強ければ強いほど、ネガティヴな煩悩エネルギーが周囲にビリビリ放出されます。 そういう暗い気持ちでいればいますほど、情けない雰囲気を醸し出しますから、実際に周囲からナメられてしまいもするのです。

ナメてこちらをぞんざいに扱う側も「ようしぞんざいに扱ってナメてやろう」などと意識しているほどでもなく、何となくこちらの暗い煩悩エネルギーに引き寄せられて、 ふと気づいたらナメた態度や扱いをしてしまっているというのが実情でしょう。

こちらの精神状態のせいで、相手に影響を与えてナメた態度を取らせてしまってもいるわけで、相手はこちらのせいで「ふと気づいたらナメさせられて」いて、ある意味、可哀想なのです。な・・・ッ、ナヌーッ!

ともあれ、ナメられるのは自分自身の業のせいでありまして、現在の自分自身はナメられるに値する存在だからこそ、ナメられていると認識しなければなりません。 「ナメてくるなんて許せない」と考えて怒ってしまいますとき、私たちは「現在の私はじゅうぶん立派で敬意をもって扱われるべき存在なのだからナメられるべきではないのだーッ」と言っているようなものなのですけれども、それは大間違いなのです。

と申しますのは、そのように考えている以上、自分自身を改善することができなくなります。 問題は、現在の自分を「このままで良いんだ、私は今のままで魅力的なんだ」と思いたい、歪んだ傾向と申せましょう。

たとえば新聞に取り上げられたときに「取材で話した中の大事な部分を書いてくれていない」とグチを言うという情景はしばしば目にいたしますけれども、その「大事なこと」を相手に書きたくさせてしまうほどの魅力が自分になかった、という点を見つめない限り、永久に進歩はしないのです。


第五百五十七回

幸福感・・・ッ! それは、心と言葉と身体行為がぴったりと一致していること・・・ッ!

それらがチグハグになってガタピシしていようものなら、心はすさんでゆき悲鳴・・・ッ! 悲鳴をあげるゥゥーッ!

ですから人に言えないようなこと、隠れてやらなけばならぬようなこと、そういったことをやってしまうと、心は強いストレスを感じて将来に禍根を残すことになるのです。

小さな悪行為の中にもこのようなダメージがひそんでいるのを見破って、遠ざかりますことが、心の統一とハッピー感を維持することの秘訣と申せましょう。

ふだんから自分を律しておりますにもかかわらず、昔からのくせで「スピリッツ」をはじめとする青年漫画雑誌を立ち読みするのを続けておりました私は、さいきんになってそれをやめることにいたしました。

そして、それにともなって、「立ち読みをやめるんなら、そういえばあれもやめよう、これもやめよう」といった風合いに、芋づる式にやめたほうが良いものが見つかった次第です。

それらの、「ちょっと隠れてやるような、人に言いふらされたくない行為」をやめて、心と言葉と身体を一致させる強度を強めますほどに、心は統一されて明晰さを増すようです。

すこぶる、心が「シャンッ」とするのです。その効果は如実にて、ここ数日は今まで以上に気が全身に満ちあふれて、静かな無敵状態といった加減なのでしたとさ。
たとえ身体によって、言葉によって、あるいは心の中で、悪をおかすことになったとしても、彼がそれを隠しておくことは起こりえない。「智慧に達した人には隠すことは起こりえない」と言われる。これは僧が宝であるゆえんである。この真理によって、安穏たらんことを。 (『経集』232番)
ズッギャーンムッ!


第五百五十六回

三毒すなわち三つの根本的な煩悩のうち、最大最悪のものは、脳内引きこもり・・・ッ! 今やるべきことに心を専念させているかと思いきや、すぐにそこから離れて脳内の思考に逃げてしまうのは、「迷い=無知」のカルマによるエネルギーです。

追い出すんだ・・・ッ! 心が脳内に引きこもりにきたら、ふたたび目の前のやるべきことへと、引きこもりッ子の心を追い出して集中させることにより、迷いのカルマを減らして参りましょーう。

「チュンチュンチュン」と鳴く仕事をしている最中に、それと関係ない脳内の思考に心をさ迷わせますなら、うわのそらになりますから、確実に「チュンチュン」の能率も素晴らしさも損なわれます。そして心を脳内ストーリーへとさ迷わせてしまいますことで、一回分ほど、心に迷う習慣をしみつかせることになり、「迷いカルマ」のエネルギーがさらに増幅いたします。

迷いのカルマが増えると、どんどん頭の中でばかり思考が空回りする人格が形作られて参りますから、徐々に集中力・決断力・判断力・明晰さ・継続力といったような能力が衰えてしまいます。

そのうえ、心が脳内に引きこもって考え事をしてしまいますために、目の前のことに没頭できませんから、目の前の仕事がつまらないものに感じられてしまうはめにもなり「やる気」が衰えてゆくのです。どんなことであれ、ものごとを楽しむための必須条件は、余計なことを考えずに、没頭することなのですから。没頭できず「つまらない」などと頭で考えてしまいますせいで、ストレスも発生する道理です。

私たち修行者が、どうしてストレスなく日々生活し、それゆえストレス解消する必要もないのかと申しますなら、朝から晩まで、会話をするにしても食事をするにしても仕事をするにしてもウェブサイトを更新するにしても、何をするにしても、脳内に引きこもらず、可能なかぎり念をこめて没頭しているからです。すると、何をやっていても、充実。

ですから、迷いのカルマを少しづつ浄化して、減らすことが賢明なのです。そのためには、「チュンチュン」と鳴くことに集中しています時に「あーおやつ食べたい」と、心が脳内に引きこもりにきましたら、すかさず強い決意をもって一秒でも早く心を脳内から追い出して「チュンチュン」と鳴くことに集中する力を強めてみますこと。そうしてもおそらく、再び心は迷いのエネルギーに操られて何か別の脳内ストーリーへと引きこもるでしょうけれども、そうしましたら再びグイッと引き戻してあげるのです。

このようにコツコツと「引きこもっては追い出す」という反復運動を繰り返しますことによって、徐々に一ヶ所に心が留まってぶれず、確実に集中する、という能力がはぐくまれもいたしますし、その一回一回の努力を通じて迷いのカルマが少しづつ減ることにより明晰な意識が手に入る道理です。

「ようこそ、目の前の現実に、おかえりなさい」


第五百五十五回

楽をしたいからこそ後回しをする・・・ッ、しかし・・・ッ! それは必ず余計なストレスを増加させるばかり・・・ッ、喝ぁーーーッつ!

最初に、「あー、やらなきゃな」と思いました時点で、小さなストレスが生じております。 そして災いなるかな、そのストレスから逃げて後回しにいたしましたら、再び想い出したときに、ストレスを感じるはめになります。 がーん、一粒で二度も不味いィィィーッ! 後回しにいたしますほどストレスを感じる機会が増えて、繰り返しネガティヴなカルマが蓄積する道理です。

ですから、ストレスから逃げて「ストレス解消」などという現実逃避をいたしますのは、絶対に避けなければなりません。 それはストレスを解消することになるように見えるだけで、実際は「やらなきゃな・・・」という思いは残り続けて負の影響を与え続けるのですから。 そういった負のエネルギーを溜めれば溜めるほど、はっきりとした意志をもって何かをやり遂げる能力が損なわれて参ります。

しかしながら「なすべきこと」についてのストレスを感じた瞬間に、面倒でもその場ですぐ解決してしまいますなら、そのストレスは完全に消えて、爽快感を得ることができる次第です。 このときに得られるフレッシュな爽快感は心にポジティヴな動機づけとしてしみつき、すなわち善いカルマとして定着いたします。

ですから、ストレスをゼロにして愉快に物事をこなしてゆく最良の手段は、その都度その都度「やらなきゃ」と出て来ましたものを順番にしっかり仕上げ、申しますならシューティングして参りますこと。 そういたしますと一回一回、集中して善いカルマのエネルギーを心に溜めることができるのみならず、「あれをやらなきゃいけないのにやってないなー」といった風味の後ろ暗い感覚がゼロになりますから、常に「やる気」を充電し続けて疾走できるのです。

かつては恐ろしく優柔不断でダラダラしていた私が、今や一日中アクセル全開で活動していられますことを取ってみましても、説得力があるのではないでしょうか。未来に逃避せず、つねに目の前のやるべきこと、現在に、留まりますこと。
どのように未来を願いゆかないのか。「未来にこんな感覚になるとよいなあ」といった風合いに、未来に心を漂わせて浮つかないこと。
(『賢善一喜経』)
ズギャーッス!


第五百五十四回

誤爆・・・ッ。怒りのカルマが孕むエネルギーは、誤爆する・・・ッ!

かつて私には、周囲や世界を批判ばかりして威丈高になっていた時代がありました。 批判して攻撃する怒りのカルマを大量に蓄積することによって、常に頭痛と胃痛に悩まされていたのが懐かしく思い起こされます。

その当時の私はあまりに強力な怒りの波動を発散しておりましたため、今になって思いますに、他人の怒りの波動を引き出すのが大得意でした。 初対面の人から、いきなり強烈な敵意を向けられるという摩訶不思議なできごとが、年に何回もあったものです。

中でも思い起こされますのは、ある日、引っ越しを済ませましたとき、そのマンションの管理人さんに挨拶にと菓子を持って伺いましたところ、 「うちの家内は糖尿病なのに菓子なんて、殺すつもりか」というようなことを言われピシャンと扉を閉じられ、びっくりしました。

その帰り道「あなたって時々、男の人に、無条件に嫌われるよねー」と言われた私は「ちぇっちぇっ、男なんてみんな死ねばいいのにッ」などと、犯罪者並みに物騒なことを申していたものです。

話を戻しましょう。心の中に怒りや不満の暗いエネルギーが活性化しておりましたら、そのエネルギーを相手に向けているつもりでありませんでも、 必ずや周りの人間や動物に一瞬にして伝わってしまい、影響を与えてしまうのです。

つまり、誤爆するゥゥウー・・・ッ! 私たち生き物はみんな、心の潜在的で野性的なレベルで、周囲の生き物がどんな波動を発散しているかを、 すこぶる敏感にキャッチしているのですけれども問題は、外からやってくる暗いエネルギーが自分に向けられているかそうでないか、という区別抜きに「あ、とにかく暗い波動だッ」と拒絶反応をしてしまうもののように、経験上、思われますことです。

だからこそ、暗いカルマのエネルギーを心の奥にたっぷり溜め込んでしまっていますと、自分では優しくしている「つもり」だったり、自分では怒っていない「つもり」だったりいたしましても、 その裏側にある暗いエネルギーは、相手にビビビーッとばかりに届いてしまい、拒否反応を呼び起こすのです。

そのような誤爆の結果、他人が離れていったり、攻撃や批判をしてきたり果てはいじめられたり、動物が逃げて行ったり、というような結果を呼び寄せてしまうものなのです。

ですから肝要なのは、怒りのカルマを作りませんこと。そして溜まっている暗いエネルギーを、解消してゆきますこと。


第五百五十三回

いただいた御相談に、この場を借りてお答えいたしましょう。
実はブログ上の友人というか、同じ○○県民とゆうこともあり仲良くしていた方が壊れはじめました。とてもすてきな文章を書いたり、エスプレッソなコメントをくれたりと大変愉快な仲間(同性)だったのですが、最近理解不能になってしまったのです。

人が壊れていくのを見守るしかないのでしょうかね。いまいち心の持ちようがわかりません。。。ヒントをくだされば幸いです。
人ひとりが相手にしてあげられることは、ほんのささやかなことしかありません。 しかし人間は、その事実を忘れがちッ、忘れがちッ、忘れがちィィィィーッ!

私たちは時として偉そうなアドバイスをしたくなってしまうものですが、切羽詰まった相手にとっては、そのような言葉は響かないものです。

あるいは、こちらが下手に感情をヒートアップさせて大げさに心配したような態度で相手に接しましたら、ただでさえこんがらがった相手の感情の火に油を注ぐことにしかなりません。

「壊れかけている」人に対しては、誰もが大げさな言葉をかけたり心配をしたり、大げさなリアクションをしがちなもの。 そういった大げさなリアクションを受けるのは疲れるので、本人はおそらく、日々、余計にストレスを増幅させる羽目になっているのではないでしょうか。

切羽詰まった人と接するときに大事なキーワードは、御便りの中にありましたように、「見守る」ということに尽きるでしょう。 大切なのは「見守る」といいますのは、ただ何となく傍観するのとはまったく違うということです。

ドキドキハラハラして大げさな心配をいたしますことは、相手の感情に更に汚れたネガティヴなエネルギーを加えることにしかならないのと同様に、 無関心で傍観いたしますことは、相手を寂しくさせてしまいます。

相手が身構えなくても良いようなごくごく自然なやり取りをして差し上げることこそ、思い遣りというものかもしれません。 あるいは相手の乱れた感情に流されず肩すかしをくらわせてあげて、フッと落ち着いた気持ちにさせてあげる、ですとか。 相手の状況にかかわらず、こだわらずいつも通りに接して差し上げてあげますことが、相手を「受け入れている」ということにもなりましょう。

もちろんその背景には、相手の緊張や混乱を少しなりともほどいてあげよう、という気遣いがあることが望ましいのです。 そのような気遣いを心の裏側にしのばせながら、つかずはなれず接しますことが、見守ることのエッセンスと申せましょう。


第五百五十二回

すべての失敗の元凶は、外から仕入れてきた情報を脳内で勝手に改ざん・編集しておかしなストーリーを作り出してしまう、私たちの思考です。

目で見たものも、耳から聞いた声も、その瞬間にグッと集中して、「ただ見るだけ」「ただ聞くだけ」にしちゃえば、改ざんはそこでストップして、余計な煩悩は発生いたしません。 その時の爽快感や充実感は、他では得られぬ「空」の瞬間。時間は・・・止まるゥゥゥーッ!

マールキャプッタよ、見られ、聞かれ、嗅がれ、味わわれ、触れられ、知られる、この6種類の事物に対して、君は見るときは見たままにしておくこと。聞いたなら聞いたままにしておくこと。嗅ぐときは嗅いだままにしておくこと。味わうときは味わうままにしておくこと。触れれば触れたままにしておくこと。考えるときは考えたままで止めてしまうこと。

声を聞いて欲望や怒りの衝動エネルギーを生産する人は、自覚的コントロール力が失われ、心がストーリーに囚われ、それに執着してしまう。

彼には声によって生じる様々なストレスのストーリーが増大し、また彼の心は、欲望や怒りによってダメージを受ける。このようにしてダメージを積み重ねる人は、心の平安から遠ざかると言われる。……

念のセンサーによって自覚的に声を聞くならば、人は声に対して、欲望したり、反発したりしない。心は囚われず、その声に執着することがない。このようにして、声を聞き、あるいは受け取るならば、彼にはダメージがなくなり、ダメージが増えることがない。
(『摩梨来佛経』)



第五百五一回

くまっこ君、ダメだ・・・ッ! それではダメ・・・ッ! 「ストレス解消」などというのは罠に過ぎず潜在意識に更なるストレスを積む羽目になるだけ・・・ッ、残念!

欲望も怒りも迷いも、ありとあらゆる煩悩は心に負荷をかけますから実は「苦=ストレス」になっています。 だからこそ「煩」わせ「悩」ませる煩悩、と記すのでしょう。

煩悩ゆえにストレスを蓄積し、ストレス解消の名目で、愚痴を言ったり、アルコールを飲んで酔っぱらったり、大食いをしたり。 しかしながらそれは新たな煩悩ですから、表面上ではストレスが消えたようにみえても、実は次のストレスを見えぬところ---潜在意識---で準備いたします。

申しますなら、いわゆる「ストレス解消」とは、「苦=ストレス」のうえに新しい刺激を強引にかぶせることによって、ストレスを抑圧しているだけのことです。 抑圧は、「解消」にはなりません。すなわち、ストレスを見えない闇の中へと沈めこんでいるだけで、意識の表面から消え去っても心の奥底でくすぶり続けるのですから。

そして、そうして沈められた不快なエネルギーは、後になって必ず浮かび上がって来て、結果を出して強烈な「苦=ストレス」を引き起こしますからこそ、カルマと呼ばれるのです。

ですから道理をわきまえて、「ストレス解消」などというその場限りのごまかしに身を委ねないよう、自己ルールを課すことが大切と申せましょう。

日常において怒らず不快にならず非難せず、怒りの業=カルマを溜め込まないように心がけ、不必要に欲望のカルマを積みストレスを増やさないようにも心がけましたら、 ストレスがなくなります。そうしましたら自然に食欲から解放され、ダイエットなんて努力しなくてもサラサラッとあっさり成功するものです。

日常でストレス要因になる欲や怒りの煩悩を作り続けておきながら、それにより食欲を増幅させつつ無理に我慢しようとしても、不可能なのです。 ダイエット自体がストレッサーになり、余計に食欲が増加いたしますし、ね。

そう考えますなら、煩悩を薄めつつ業=カルマをコントロールする仏道こそが、ダイエットに最適なのです。な・・・ッ、なんだってーッ!


第五百五十回

月読寺の電気代、今月は千円を切るかな、と思っておりましたが1667円の請求となりました。 原因を考えてみましたら、クッキーを焼きますのにオーヴンを何度も使ったからだと判明しにけり。

月読寺の家賃は4万5千円ですから、7万円あれば充分、優雅に生きていくことが叶います。 8万円あれば、ときどき喫茶店で贅沢をしたり、資本主義の世の嗜好品を求めることも叶います。 つまり欲しいものが少なければ、欲しいものは全て手に入ります。

私がこのごろ幸福を感じますことには、月読寺を営み生きて参りますうえで、坐禅会に参加された皆様が投げ入れてくださるお賽銭、その御布施だけで充分に生きてゆけるということです。 そのおかげさまにて、著作執筆の収入には一切手をつけず、将来のイエデ・プロジェクトのためにプールしておくことができるのです。

またしみじみ有り難く思いますのは、昔のように生きてゆくために法事や葬式を引き受ける「お経屋さん」をしなくてよくなったことです。 「法事・葬式屋さん」を遂行するのは仏道を裏切っているような罪悪感があり、それから抜け出せましたのは私にとって幸福なことです。

別にわざわざ意図的に生活を切り詰めているわけではありません。 ごく自然に、欲しいものはすべて購入しながら、食べたいものはすべて食べながら生活していましたら、このような風合いにすとんと落ち着くのです。

そのためには、心を質素にデザインして欲望自体がシェイプアップされている必要があります。 欲望に満ちていて本当は贅沢をしたいのに、お金がないからといって無理をして切り詰めるのは、心がケチケチしてストレス要因となりましょうから。 安売りの品物を喜んで買ってしまいますことは、心がケチケチして狭くなりますから、好ましいこととは申せません。

思うに経済的に余裕があってもなくても、どちらにしても暮らしぶりが変わらないこと、それは重要なことです。 貧乏になったからといってケチ臭くなったり、豊かになったからといって贅沢になったりすることは、品のないことと申せましょう。

豊かであろうと貧乏であろうと、どちらにしてもお金をできるだけ使わずに生きていられること。資本主義に巻き込まれず、お金から自由であること。 それはどこにいても生きてゆける自信を与えてくれますのみならず、自らをタフでしなやかにしてくれます。

そのようにお金にとらわれず生きていてこそ、自然に資金も貯まろうというものでもあり、その貯まったお金を用いて社会的に有用な事業を展開できようというものでもありませんか。


第五百四十九回

似たような内容ですけれども、前回の続きです。

空振り・・・ッ。 相手は別に困っていず何となく感慨を述べただけのことに対して、押し付けがましいフォローをすると、空振りッ。

存在していないヴァーチャルな悩み事に対して助言する茶番・・・ッ!  のみならず、相手は何だか今の自分を否定されているような気分になる副作用つき。 そう、まるでお説教をされているかのような。

妙なフォローがしたくて仕様がなくなっているのをみたら、自らの傲慢さを省みてその汚れをリペアするのが賢明です。 と申しますのは、ときとして相手のふとした台詞をスルーして、流し去ってあげるほうが優しさになるのですから。

善い行いのフリをして、傲慢かつ尊大で家を汚す人、詐欺師で自らの心をコントロールしていない軽々しい人、とりつくろっている人は、道を汚染する。(『経集』89番)
ズッドォーーンッ!


第五百四十八回

ごく一部の人々の間における根強い人気により、邪悪なアドヴァイザーが再登場ですよ。

感動させたがっている・・・ッ! 相手の相談に乗ってあげるフリをして実際のところは、相手の弱っているのにつけこんで感動させ、感謝させたがっている・・・ッ!

「ほうら、感動したでしょう、早く感動しなさい」という調子で相手をのぞきこんでいても、残念、相手は決して心動かされることはありません。 そのような邪悪な心は伝わる・・・ッ、その煩悩のエネルギーは相手に伝わる道理なのだ・・・ッ。

そういう次第ですから、欲望の雑念に心を乱されながら相手の相談に乗って差し上げましたところで、その助言は必ずや空振りすることでしょう。

なにやら立派そうな気配のする定型文を呪文のようにとなえて、「あなたは心動かされるべきだ」とばかりの期待の表情で待っていても、それは相手に圧迫感を与えることにしかならぬのです。

ですから相談に乗るとき、大切なのは自らの欲望や怒りの雑念を掃除して空っぽ、少しなりとも気品あふるる空=くう、に近づけておくことが肝要と申せましょう。


第五百四十七回

ボーっとしているようにみえて私たちは、心の裏でこそこそ色々と、考え続けてばかり・・・ッ!  しかも気になっていることを、いくつも一緒に考えるがゆえに、耳ざわりの悪い協奏曲・・・ッ、聞いてはおれぬ・・・ッ。

気になっていることを忘れたフリしていましても、それはフタをして見ないフリをしているだけのこと。 心の見えないところでは、知らないところで色々なことを考え続けています。

ですから、その場その場で、やるべきことを順番に片付けてゆきますことが肝要とも、なりましょう。 まずは、「今やるべきこと」を解決してから、「次のやるべきこと」へと、しっかり意識を順番に移して参りますなら、そこにストレスはありません。

それを「メンドクサイ」と、やらずに済ませてしまいますと、心の見えないところでは「やらなきゃいけないのに」と考え続けて、潜在意識の中でストレスがむくむくと増加いたしますから。

すなわち、やりたいこと、ではなく、やるべきことをやらなくてはなりません。やりたいことに流されてしまいますと、「本当はあれをやらなきゃいけないのに」と潜在意識で考え続けては、ストレッサーになるのですから、 そのような状態では、仕事にきっちり腰をすえて取り組む集中力もなくなってしまいます。集中力なくそわそわ、そわそわ。か・・・ッ、喝ぁーーーッツ!

「自分のやりたいことをやりなさい」と教えてくれた学校の教育は申しますなら、私たちにストレスを溜めて「そわそわ、そわそわ」する方法をレッスンしてくれたようなものなのです。

「今やるべきことをやらない」のは大きなストレスですが、それよりも最悪なのが「やってはならないことをする」ことと申せましょう。

とりわけ、欲や怒りのカルマに取り付かれた悪い行いは、それをすることによって心にフィードバックして染み付きますから、えんえんと潜在意識の中で考え続けます。 すなわち、えんえんと、自らの知らぬところで強烈なストレッサーを抱え、その負の波動により良からぬことがらをも引き寄せる道理なのです。

悪をなしたら、ストレスが生じる。ずーっと昔にした悪でも、遠いところでした悪でも、ストレスが生じる。秘密でこっそりした悪でも、ストレスが生じる。 悪の結果が出るのだから、ストレスが生じる。
(『自説経』28章34番)
ズッギャーンッッッ!


第五百四十六回

人間っていう生き物は、他人の煩悩が大っ嫌い。

私たち人間が怒ったり不愉快になったり悲しくなったり、負のカルマを増幅させますきっかけは、たいていの場合、他人の欲望や悪意に対してのリアクションではありませんでしょうか。

待ち合わせに遅刻した相手が電車事故などで遅れたのなら同情することができると申しますのに、もし相手が好きなショッピングをしていて遅刻したのでしたら「欲望」を優先させたことに対して、気分が悪くもなるでしょう。

あるいは同じ言葉をかけられるにしても、相手がイライラしていて、言葉をとがらしていたら、嫌な気分になるでしょう。たとえばコンビニエンスストアの店員が「ありがとうございました」とセカセカイライラした口調で言ってぞんざいな態度だった、などと言って怒ることが考えられます。

人間という生命体は、他人の欲望や怒りといった負の感情に対して、腹を立てたりガッカリするのが、好きで好きでたまらないィィーッ! ・・・つまり、他人の煩悩に対して、ネガティヴな不快感の煩悩を燃やし増幅させるのが大好きなのです。

しかし、残念。腹を立てます際に、それによって相手をやっつけたいような気持ちで腹を立てているつもりかもしれませんけれども、相手には何のダメージもありはしません。腹を立てることで心が緊張して悪しきカルマを積んで損をするのは、他ならぬ私たち自身なのですから。

ちっとも心をコントロールしていない人は、仇敵が望んでくる通りのことを、自らにやっちゃって自滅する。つる草に覆われて枯死する沙羅木のように、ね。 (『法句経』162番)
ドーーーンッ!


第五百四十五回

連鎖する・・・ッ、記憶が刺激されて疼きはじめたら、無意味に連鎖し続ける・・・ッ!!

(1)現在の不快感→(2)過去その1を添加物に加えることにより季節限定、不快感50%増量→(3)過去その2を添加物に加えることにより不快感120%増量 →(4)不快感アンコントローラブル

一つでも嫌なインプットがありますと、それをきっかけに、それにまつわる不快なことが次から次に想い出されて活性化し、さらに不快感が強まるという仕組みを、誰しもが日々、経験しておられることでしょう。

最初の嫌なインプット単発ならさほど腹も立たず平和にやり取りができるはずなのに、過去のカルマがフィードバックされてくるせいで「そういえばアレも!」「あの時も!」と自動的に記憶が疼きますせいで、 ちょっとしたことに対してひどく腹が立ってしまいもする道理がみられます。

相手からすると、「何故こんなことでそんなに怒るのさー」とびっくりしてしまうのも当然のことでしょう。

しょせん、僕らの不快感なんて、想ひ出を刺激されての記憶ごっこに過ぎないのさ。 すなわち、過去につくった心の結び目は、私たちの意志とは無関係に作動するのです。ドーーーンッ!

ですから、過剰な貪りや怒りのカルマを、せめてこれから新しくは作らぬように自らの心を見張って調教してあげるのが賢明、と申せましょう。

ところで、えーと、あのう・・・、ポッポの尾についている赤いクルクルしたものは、結び目を表現しています。画力不足を、説明で補わせていだきました。


第五百四十三回

罪悪感がない、だと−う? そんなの・・・、表面意識で感じてないだけッ・・・! 潜在意識下では、責められないか心配とか止めとけば良かったとか、知らないところでグルグル考えてるのだァァァーッ!

と申しますのは、「平気、平気」と考えておりますとき、実際はそれ以外の「平気じゃない」考えもたくさんサブリミナルで行われているのですけれども、 心の中を占領している一番中心的な考え以外のものは、はっきりと意識にはのぼらないものなのです。

数年前のこと、私はある日、あるカフェに入り、好物の甘栗を持ち込んでいました。ある日と申しますか、カフェに入り飲み物を注文して、買って来た甘栗を持ち込み食するというような横暴な真似の常習犯だったのです。 栗に執着していた破戒僧を、心ゆくまで、け・・・ッ、軽蔑してくれェェェーッ!

その時、表面的には、平気な、つもり。 しかしながら、今になって当時のことを思い返してみますなら、そうやって甘栗を食しますごとに、いつもいつも心がどこか苦しみを覚えていた気がいたします。 心の裏面では、溜めこんでいた・・・ッ、負のカルマ・・・ッ!

「うまうまーッ!」と甘栗を食して喜んでいる心の背景では、一応、カフェのスタッフに見つからないよう、隠してこそこそ食していたりしまして、臆病者ッ! その歪んだ気持ちゆえに確実に、心がこそこそと隠れて縮まってゆきますようなエネルギーがうごめいていたことは、否めません。

実際のところは「隠すこと」を気にするほうへと意識は逸れますから、味などいまいち分からなかったとも申せます。「隠したくなること」は、全て著しいストレスを心に生ずと、知りたまふべし。

ルールに反する不善行為や心にやましいことをいたしますなら、必ずや心は裏面でキシキシと不快なことを考えて、そのエネルギーがストレスとなって後々まで悪影響を与えるのです。 知らないところで、潜在意識下で、自分の知らないところで嫌なことをいっぱい考えて。

今となっては、こういった心の動きが手に取るように見渡せるようになってしまいましたので、どこかのカフェに飲食物を持ち込むなんて、したくないです。

まだ「甘栗カフェ持ち込み事件」を繰り返していた頃のある日、三軒茶屋のカフェで甘栗を貪っておりましたら、たまたまそこで年下の友人と出会い、恥ずかしい気持ちになりながら甘栗を差し上げにっこり笑い合いましたのは、懐かしい追憶。


第五百四十二回

上の図542より分かるのは、「欲望」と「やる気」はまったく別物ということであーる。

億万長者になりたいなどという浮わついた欲望があるのなら、それを実現するために我武者らにやる気を出して働けば良いのですけれども、欲望だけはあってもそのように努力できる人は滅多にいないのです。

メディアにより欲望だけは際限なく煽られつつも、それに向けて「精進!」するやる気の出ない人々の、何と多い世の中・・・ッ! 不毛ッ・・・ッ! その欲望は何の役にも立たないのだー、無駄無駄無駄無駄ァァーーーッ!!

その理由は、むしろ「欲望」という不善な心は「欲しい、けど手に入ってないからつらいですよ」というストレス要因でありますから、欲望を強く持てば持ちますほどに、心からやる気が損なわれてゆく道理なのです。

心のストックとして過去に、欲や怒りのない善業を積んでいた人の場合は、その穏やかに安定した心の貯金を使って、「やる気」を作り出すことができます。 しかしながら、「欲望」によって心に負荷をかけストレスを増やしますほどに、せっかく過去に溜めて来たストックを無駄遣いしてすり減らすことにもつながる道理と申せましょう。

欲望や怒りだらけなのにやる気を継続させて成功しているように見える人は、過去にかなりたくさんの善きカルマをストックしているからこそ上手くいっているのです。

そこを勘違いして「欲望のおかげでうまくいってる」などと考えてさらに欲望を拡大してしまいますと、長い目でみると欲望の暗いエネルギーによってストレスが蓄積し、 せっかくたくさん溜まっていた善業のストックを使い果たして、破滅的な事態を引き寄せるはめにもなりましょう。

「ハチミツが欲しいヨー」と、頭の中の欲望で考える必要など、ありません。クマッコにとってハチミツが必要なときは、ただ単にその必要性に応じてハチミツを取りに森へ行って、実際に取ってくれば済むことなのですから。


第五百四十一回

前々回「仮想敵トーク」を、別の角度から描き直してみますなら、このようになりましょう。

「つまらない嫌な話は受け流しましょう」というセリフに対してまして「なにぃ、他人の話をすべて受け流すなんてトンデモナイッ!ばッ、馬鹿ものーッ!」 と攻撃いたしますとき、「つまらない話は」という限定つきで言われていることがらが、本人の脳内で「他人の話はすべて」という内容にすり替わってしまっています。

「他人の話をすべて受け流すなんてとんでもない」という点については、おそらく誰もが同意いたしますから、「受け流す」ということを攻撃してやっつけてしまうことができます。 しかしながら問題は、実際にここでコテンパンにやっつけられているのは元々のセリフそのものではなくって、攻撃する側が脳内で作り出した「替え玉」と申せましょう。

攻撃したい敵を、実際は存在しないやっつけやすい替え玉にすり替えたうえで叩いておりますから、絶対に勝てることが決まっている勝負なのです。

正々堂々と潔く勝負に取り組むことのできぬチキン・・・ッ、すなわち臆病者ゆえ絶対に勝てる勝負をでっちあげるのだ・・・ッ。臆病者、臆病者、臆病者ーーーッ!!

実際にやっつけられたのは、相手ではなくてヴァーチャルな替え玉なのですけれども、しかしながら攻撃された側からしてみますと、 あくまでも自分自身が攻撃されたかのように感じてしまいがちなものですから、不愉快な気分になることも多いでしょう。

そのようにして、本当は存在していない敵同士でヴァーチャルな替え玉を相手に争うなどという、すこぶる不毛な現象が起こってしまうのです。ぎょぎょぎょー、恐ろしきことなり。